その男は、はるか遠くにかすむ階段を見上げて、汗を拭きながらぼやいた。
「いったいどこまであるんだよ…。」
どのくらい上ってきただろうか。途中足にかからないぐらい小さな階段もあれば、精一杯手を伸ばしてやっと届くような階段もあり、上り易い階段が長く続いたことは一度も無かった。
ついに男はその足を止め、手ごろな階段に腰を下ろして一息ついた。
「まったく…なんだってこんな階段を上っているんだ…いつ上り切るかもわからないし…。」
あたりを見渡せば、やはり天空は漆黒の闇に包まれており、しかしながら階段だけは明るい。巨大な円錐のようなつくりの山で、男の階段の両側には、ずらずらと誰かの階段が無数に並んでおり、数え切れないほどの人々の上っている姿が男の視界にも確認された。
「うわぁ、あいつはスゴイ勢いで上っているな。」
「あの階段はでかいなぁ、上れるのか?」
「あの階段のほうがいいな、楽そうだし。」
それぞれの人々に目をやると、いろいろな想いが浮かんでくる。
かつて男の階段の傍らには、妻と子供の階段が続いていた。3人で共に歩く階段は、様々な色を放ちながら緩やかに果てしなく続き、そのときは皆が一緒に頂上までたどり着けるのだ、と信じて疑わなかった。
しかしあるとき、男はなんでもない階段につまずいてしまった。その階段に倒れこんだ瞬間、それまで色を放っていた階段は急に暗く険しくなり、傍らにあった妻と子供の階段は、なんともいえないようなスピードで、男の階段から遠ざかっていった。
男はひとつ首を振り、また一歩ずつ階段を上り始めた。
しかし先ほどよりその足取りは重く、再び湧き出る想いが頭を掠める。
「いったい何のために…。」
「どこまで続くんだ?」
「あいつら、元気かな…。」
「さっきのヤツ、笑いながら上っていたな…。」
「オレにも笑いながら上れるときがくるのだろうか…。」
「あの楽な階段だったら上り易いのに…。」
「…もうやめてしまおうか…。」
男は再び歩みを止め、今度はがっくりと頭を落とし座り込んだ。
「あぁ…せめてこの階段の意味がわかれば…頂上に何があるのかさえわかれば…。」
そうため息をついたとき、男は、はっ!となった。
かつて妻と子供と3人で歩いていたとき、子供にこう聞かれたことがあった。
「お父さん、この階段は何のためにあるの?」
男はそれがわからなかったから、その場でてきとうにごまかした。
「この階段とはそういう余計なことは考えずに一生懸命上るものなんだ。おじいちゃんも、そのまたお父さんもそうやって一生懸命上ってきたんだよ。」
子供は不思議そうな顔をしながら、また聞いてきた。
「じゃあ、どこまで続いているの?」
男はそれもわからなかった。
「子供には言ってもまだわからないから、大きくなったら話そうな。」
子供はつまらなそうな顔をしていたが、再び3人は階段を上り始めた。
「誰か…誰か本当のことを教えてくれ…オレは今まで何もわからなかった…」
そう念じて目を開けると、目の前に白い衣に身を包んだ、女性とも男性とも区別の付かない人間が立っていた。
これまでその男が歩いてきた階段に、誰一人として足を踏み入れた者はいなかったのだ!
「おわっ!誰だ?!」
その人は静かに語り始めた。
「やっと気付いたのですね。何もわからない、ということがわかったんですね。それを待っていたのですよ。」
その表情はやや微笑んでいるようにも見えた。
たじろぐ男をよそに、再びやさしい口調で話し始めた。
「ではこの階段についてお話しましょう。この階段はそれぞれの人々に用意された階段です。その形や段数は人それぞれ違いますが、頂上では一つに繋がっています。そこにたどり着けば、これまでのすべてのことが理解できるでしょう。」
男は身を震わせながら、その次の言葉を待った。
「ただし、先ほどのように、あなたの想いが、あなたの先の階段や後ろの階段、そして周りの人々やその階段に移ってしまった場合には、あなたのその歩みは遅くなります。それはあなた自身が経験しているように。人々にはそれぞれの歩みがあり、その速さの違いや迷いによるつまづきは、誰にでも起こりうることなのです。そういったことに心を奪われず、あなたの階段を、あなたの出来得る速度で一歩ずつ歩みを進めなさい。」
そういって去ろうとするその人に、男はあわてて問いかけた。
「では私の階段の頂上まで、あと何段なんでしょうか?」
その人は振り返ってこう答えた。
「あなたの階段の残りは、56億7000万段です。」
「56億?!」
あっけにとられる男に、その人は再び語り始めた。
「これは方便です。あなたのその想いや歩み次第でその段数は変化するでしょう。ただここでしっかりと心に留めてほしいことは、頂上までの段数は必ず有限であることです。始まったものは必ず終わる。すべてのものは無常であり、常住不変のものはひとつも存在しない。あなたの思い煩いもそのひとつ。そういったものに振り回されずに、あなたの道を歩みなさい。いつか終わりが来ることでしょうが、それはまた始まりでもあるのです。そのことを心に留めておきさえすれば、またその次の始まりを、喜びをもって迎え入れることができるでしょう。」
そう言った瞬間、その人はすーっと目の前から姿を消した。
「…始まったものは、必ず終わる…か…。」
不思議と落ちついた心で見上げた階段は、規則正しい形で、わずかながら色味を帯びているように見えた。
男は静かにその次の一段を踏みしめながら、また一歩ずつ、その男だけの階段を上っていった。
(完)
「いったいどこまであるんだよ…。」
どのくらい上ってきただろうか。途中足にかからないぐらい小さな階段もあれば、精一杯手を伸ばしてやっと届くような階段もあり、上り易い階段が長く続いたことは一度も無かった。
ついに男はその足を止め、手ごろな階段に腰を下ろして一息ついた。
「まったく…なんだってこんな階段を上っているんだ…いつ上り切るかもわからないし…。」
あたりを見渡せば、やはり天空は漆黒の闇に包まれており、しかしながら階段だけは明るい。巨大な円錐のようなつくりの山で、男の階段の両側には、ずらずらと誰かの階段が無数に並んでおり、数え切れないほどの人々の上っている姿が男の視界にも確認された。
「うわぁ、あいつはスゴイ勢いで上っているな。」
「あの階段はでかいなぁ、上れるのか?」
「あの階段のほうがいいな、楽そうだし。」
それぞれの人々に目をやると、いろいろな想いが浮かんでくる。
かつて男の階段の傍らには、妻と子供の階段が続いていた。3人で共に歩く階段は、様々な色を放ちながら緩やかに果てしなく続き、そのときは皆が一緒に頂上までたどり着けるのだ、と信じて疑わなかった。
しかしあるとき、男はなんでもない階段につまずいてしまった。その階段に倒れこんだ瞬間、それまで色を放っていた階段は急に暗く険しくなり、傍らにあった妻と子供の階段は、なんともいえないようなスピードで、男の階段から遠ざかっていった。
男はひとつ首を振り、また一歩ずつ階段を上り始めた。
しかし先ほどよりその足取りは重く、再び湧き出る想いが頭を掠める。
「いったい何のために…。」
「どこまで続くんだ?」
「あいつら、元気かな…。」
「さっきのヤツ、笑いながら上っていたな…。」
「オレにも笑いながら上れるときがくるのだろうか…。」
「あの楽な階段だったら上り易いのに…。」
「…もうやめてしまおうか…。」
男は再び歩みを止め、今度はがっくりと頭を落とし座り込んだ。
「あぁ…せめてこの階段の意味がわかれば…頂上に何があるのかさえわかれば…。」
そうため息をついたとき、男は、はっ!となった。
かつて妻と子供と3人で歩いていたとき、子供にこう聞かれたことがあった。
「お父さん、この階段は何のためにあるの?」
男はそれがわからなかったから、その場でてきとうにごまかした。
「この階段とはそういう余計なことは考えずに一生懸命上るものなんだ。おじいちゃんも、そのまたお父さんもそうやって一生懸命上ってきたんだよ。」
子供は不思議そうな顔をしながら、また聞いてきた。
「じゃあ、どこまで続いているの?」
男はそれもわからなかった。
「子供には言ってもまだわからないから、大きくなったら話そうな。」
子供はつまらなそうな顔をしていたが、再び3人は階段を上り始めた。
「誰か…誰か本当のことを教えてくれ…オレは今まで何もわからなかった…」
そう念じて目を開けると、目の前に白い衣に身を包んだ、女性とも男性とも区別の付かない人間が立っていた。
これまでその男が歩いてきた階段に、誰一人として足を踏み入れた者はいなかったのだ!
「おわっ!誰だ?!」
その人は静かに語り始めた。
「やっと気付いたのですね。何もわからない、ということがわかったんですね。それを待っていたのですよ。」
その表情はやや微笑んでいるようにも見えた。
たじろぐ男をよそに、再びやさしい口調で話し始めた。
「ではこの階段についてお話しましょう。この階段はそれぞれの人々に用意された階段です。その形や段数は人それぞれ違いますが、頂上では一つに繋がっています。そこにたどり着けば、これまでのすべてのことが理解できるでしょう。」
男は身を震わせながら、その次の言葉を待った。
「ただし、先ほどのように、あなたの想いが、あなたの先の階段や後ろの階段、そして周りの人々やその階段に移ってしまった場合には、あなたのその歩みは遅くなります。それはあなた自身が経験しているように。人々にはそれぞれの歩みがあり、その速さの違いや迷いによるつまづきは、誰にでも起こりうることなのです。そういったことに心を奪われず、あなたの階段を、あなたの出来得る速度で一歩ずつ歩みを進めなさい。」
そういって去ろうとするその人に、男はあわてて問いかけた。
「では私の階段の頂上まで、あと何段なんでしょうか?」
その人は振り返ってこう答えた。
「あなたの階段の残りは、56億7000万段です。」
「56億?!」
あっけにとられる男に、その人は再び語り始めた。
「これは方便です。あなたのその想いや歩み次第でその段数は変化するでしょう。ただここでしっかりと心に留めてほしいことは、頂上までの段数は必ず有限であることです。始まったものは必ず終わる。すべてのものは無常であり、常住不変のものはひとつも存在しない。あなたの思い煩いもそのひとつ。そういったものに振り回されずに、あなたの道を歩みなさい。いつか終わりが来ることでしょうが、それはまた始まりでもあるのです。そのことを心に留めておきさえすれば、またその次の始まりを、喜びをもって迎え入れることができるでしょう。」
そう言った瞬間、その人はすーっと目の前から姿を消した。
「…始まったものは、必ず終わる…か…。」
不思議と落ちついた心で見上げた階段は、規則正しい形で、わずかながら色味を帯びているように見えた。
男は静かにその次の一段を踏みしめながら、また一歩ずつ、その男だけの階段を上っていった。
(完)