黒猫のつぶやき

法科大学院問題やその他の法律問題,資格,時事問題などについて日々つぶやいています。かなりの辛口ブログです。

法と精神医学の狭間で

2006-11-28 05:19:00 | 司法一般
 今回は、法律と精神医学の両方が絡む問題について、黒猫が最近思っていることを書いてみようと思います。

1 「心神喪失」と「心神耗弱」
 刑法39条は、1項で心神喪失状態にある者の行為を不可罰とし、2項で心神耗弱状態にある者の行為について刑の必要的減軽を定めています。この、心神喪失状態にある者は罰しないという考え方は、ローマ法時代からの伝統であり、ハドリアヌス帝の時代には、皇帝を刃物で切りつけようとしたある奴隷が、狂気に侵されているという理由で罪には問われなかったという逸話が残っています。
 ところで、大審院昭和6年12月3日判決(刑集10-682)の定義によれば、心神喪失とは「精神の障害により事物の理非善悪を弁識する能力またはその弁別に従って行動する能力のない状態」をいい、心身耗弱とは「精神の状態がまだこのような能力(事理弁識能力)を欠如する程度には達しないが、その能力の著しく減退した状態」をいうものとされていますが、心神喪失と心神耗弱はともに法的概念であり、このような状態にあるかどうかを判定する権限は裁判官にあります。実際には、心神喪失などが争点になると精神科医による鑑定などが行われたりしますが、そのような場合の精神科医の意見は参考にされるだけで、裁判官の判断を拘束するものではありません。類似の問題として、刑事裁判などにおける訴訟能力の問題、不法行為における民事責任能力の問題などがありますが、これも判断の枠組みに基本的な違いはありません。
 しかし、実際にいかなる状態であれば心神喪失ないし心神耗弱状態にあると認められるか、あるいは訴訟能力や民事責任能力が欠如している状態にあると認められるかという問題については、特に精神科医による診断結果との摺り合わせという局面に関し、あまり理論的な検討がなされているとはいえません。刑法学説も、「原因において自由な行為」などに関する理論はありますが、心神喪失ないし心神耗弱状態にあるか否かの認定と、精神科医の診断との関係などについては、特に学説の対立などといった現象は見られません。
 前田雅英教授の『刑法総論講義』を読んでみても、昔は精神科医が行為時に分裂病であったなどと診断するとほぼ無条件で心神喪失とされてきたが、最近は分裂病などとの診断結果が出ていても必ずしも心神喪失とは認定しない裁判例が目立つといった趣旨のことが書いてあるだけで、具体的にどのような場合に心神喪失であるなどと判断すべきかといった問題について、刑法学者があまり突っ込んだ議論をしているようには見られません(ただし、責任能力を生物学的要件を中心に構成すべきだなどとする学説はあるようです)。
 もっとも、実務で数多く責任能力の問題について判断を迫られる裁判官や、検察庁・裁判官による鑑定依頼を頻繁に受ける公的な研究機関などでは、こういった問題についての深い議論が行われている可能性はあり、むしろそうした議論が行われているからこそ最近の上記「法的判断と医学的判断の乖離」とも呼ぶべき現象が起こったのかも知れませんが、問題はそうした議論が公的機関の内輪の中で行われており、要するにオープンな議論になっていないために、弁護士の立場ではそうした議論の現状について知るのが困難だということです。
 もともと、心身喪失や心神耗弱が問題になる刑事事件について、通常弁護人が採る立場は、うつ病などで少しでも可能性があると判断すればとりあえず心神喪失や心神耗弱の主張をして裁判所に鑑定請求をし、依頼者にお金があれば医師の鑑定書を証拠として提出する、仮に心神喪失や心神耗弱とは認められなくても情状酌量で考慮されれば儲けもの、という極めていい加減なものであり、かつそれが通常最も被告人にとって有利な弁護活動なのであまり変えようも無いというのが悲しい現実なのですが、この点についてあまり考えなしに弁護活動をやるの問題があるのではないか、と思うこともあります。
 通常、弁護士が鑑定書の作成を依頼するのは民間の精神科医ですが、通常の診断書を書く仕事と刑事裁判のための鑑定書を書く仕事とでは、2つの点において大きな違いがあります。
 1つは、上記のとおり心神喪失などは法的概念であり、医師の判断は裁判官による判断の参考に供されるだけで、医師が心神喪失などという診断結果を書いてもその判断に拘束力は無いので、鑑定書は端的に結論を書くのではなく、裁判官による判断の参考に供するため、患者の病状などを具体的かつ詳細に記載する必要があるということ。
 もう1つは、刑事裁判の場では被告人が処罰を免れるためわざと精神障害を装うことが少なくないことから、鑑定にあたってはそうした「詐病」の可能性についても留意しなければならないこと。通常の精神科における患者の診断では、患者の言うことを疑ったりはしないので、通常業務とは異なる特別な知識やノウハウが必要になることは言うまでもありません。
 ところが、実際に弁護士が提出してくる医師の鑑定書は、必ずしもこうした点に留意しているとは限りません。黒猫が刑事裁判修習で見たある弁護側提出の鑑定書は、ある刑事事件について検察側の心神耗弱という主張に対し心神喪失を主張するものでしたが、内容はただ感情的に「このような人を心神喪失として扱うことは法律家として当然のことだ」といった趣旨のことが延々と書いてあるだけで、当時修習生であった黒猫の目から見ても明らかに説得力ゼロ。自分が弁護人ならこんな鑑定書書き直させるぞ、と内心思ったものです。
 最近の刑事事件に関する報道を見ていると、例えば麻原彰晃の被告事件では、弁護側依頼の複数の鑑定医が「訴訟能力無し」などと判断したものの、裁判所依頼の鑑定医の判断や裁判官自身による面接の結果などにより、結果的には訴訟能力ありと判断されて死刑判決が出されましたが、もし弁護側の精神科医が刑事裁判における鑑定の上記のような特質を十分に理解していなければ、高いお金を出して何人の精神科医に鑑定を依頼しても「弾の無駄撃ち」に過ぎず、尊重されなくても仕方ありません。もっとも、黒猫は上記事件に関する弁護側の鑑定書を読んだことはないので、弁護側の鑑定のやり方が適切なものであったかどうかを判断することは当然ながらできませんが。
 黒猫は、麻原彰晃を死刑にした判決自体を不当だとは特に思いませんが、被告人の精神疾患が問題になるような刑事事件における弁護活動のレベルが向上しなければ、心身喪失やら訴訟能力やらに関する判断は裁判官と検察官の思うがままであり、本当に判断能力が問題とされるべき被告人の保護が十分図れないのではないかという気がしています。

2 いわゆる「モラルハラスメント」の問題
 今時弁護士の仕事をしていると、いわゆる「モラルハラスメント」の被害に遭っているなどといった相談を受けることが結構あります。黒猫は、パワーハラスメントに関する記事の執筆依頼を受けたこともあります。
 「モラルハラスメント」とは、フリー百科事典「Wikipedia」の説明によると、フランスの精神科医であるマリー・フランス・イルゴイエンヌが提唱した、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力を意味する造語であり、身体の接触等を伴わない言葉によるセクシャルハラスメント、職場の上司と部下などお互いの上下関係を盾にしたいじめ等を意味するパワーハラスメント、大学において行われるいじめや精神的強迫等を意味するアカデミックハラスメント、配偶者や恋人などの近親者により行われるドメスティック・バイオレンス(いわゆるDV)のうち暴言や無視などによる精神的ないじめや嫌がらせなども広く包含する概念だということなのですが、問題はこれが精神医学上の概念であり、法的概念ではないということです。
 相談者がモラルハラスメントの被害に遭っているなどと言ってきても、モラルハラスメントだというだけで何らかの法的効果が生じるわけでもなく、当然法的措置を執れるわけでもありません。法的措置の可否を検討するには、その行為態様などを詳しく聞いて、民法上の不法行為に該当するかなどを判断しなければならず、軽度のものだと法的には何もできないという結論になることもあります。
 モラルハラスメントであるという趣旨の医師の診断書を持ってこられても、医師は被害者である患者の話だけを聴いてそれを基に診断書を書いているだけで、具体的な行為態様まで認定しているわけではありませんから、仮に法的手段を執るとしてもそれだけでは決め手にならず、診断書はせいぜい不法行為の要件のうち損害の立証にいくらか使える程度の意味しかありません。
 でも、こういう回答をすると明らかに不満顔をされますね。いかにも法律は遅れている(あるいは黒猫自身が遅れている)という感じの。
 なお、モラルハラスメントのうち、言葉等によるドメスティック・バイオレンスについては明文の法概念がありますが、これも精神医学上の概念と法的概念に大きなずれがあるように思います。
 すなわち、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」(いわゆるDV防止法)1条1項では、保護命令などの対象となる「配偶者からの暴力」の定義について、「配偶者からの身体に対する暴力(身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすものをいう。以下同じ。)又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動(以下省略)」などと定義されています。このうち後段のほうは法改正で入ったものらしく、精神科医などが書いたDVに関する文献では、「この法改正により言葉による暴力などが広く含まれるようになった」などと解説しているようです。
 でも、この条文をよく読むと、たしかに言葉による暴力などが後段に含まれる余地もないではありませんが、実際に「配偶者からの暴力」に該当するためには「身体に対する暴力に準ずる」「心身に有害な影響を及ぼす」言動でなければならず、かなり悪質重大なものでなければこの定義に該当するとは言いがたいでしょう。
 こうした精神科医などが書いた文献を鵜呑みにして自分もDVだと即断してしまう人の相談などを受けていると、こうした言葉が一人歩きを始めると始末におえないな、と思ってしまいます。

3 精神疾患をかかえる配偶者との離婚問題
 配偶者が精神病になってしまい離婚するという話自体は昔からあることであり、戦後間もなくの制定に係る民法770条1項4号でも、法律上の離婚原因の1つとして「配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき」を挙げています。 しかし、最近うつ病やパニック障害などの精神疾患がかなり一般化したせいか、離婚したい配偶者がうつ病などの精神疾患を訴えているというケースがかなり増加しています。
 一般に、うつ病程度では上記の離婚原因である「強度の精神病」には該当しませんが、仮に「強度の精神病」と認められる事案でも、病者の今後における療養や生活等について出来る限りの具体的な方途を講じ、ある程度において前途にその方途の見込みが付いた上でなければ離婚の請求は認めないというのが判例の立場であり、要するに病人を置き去りにするような離婚請求は認めないということですから、配偶者がうつ病などの精神疾患を抱えているという事情は、一般的な法律上の離婚原因(婚姻を継続しがたい重大な事由、民法770条1項5号)が認められるか否かの判断にあたっては、むしろマイナスの方向(裁判離婚を認めない方向)に作用してしまいます。
 しかも、最近はそうした事情も一般的に知られるようになったのか、もっぱら裁判離婚を免れる目的で精神疾患を訴えている(つまり詐病を装っている)のではないかと疑われるケースも増えるようになっています。
 こうした詐病の疑いがあっても、心神喪失などの項で述べたことからも推測できるように、一般の精神科医では詐病か否かなどを判断することはできないため、配偶者の訴える精神疾患が詐病であることを立証することは、事実上不可能に近いです。それどころか、離婚訴訟において被告の配偶者が詐病であると主張し立証に失敗しようものなら、原告側に対する裁判官の心証が著しく悪くなるのは必至で、むしろ逆効果になりかねません。
 それで、配偶者が精神疾患を抱えているという場合の弁護士の回答は、必然的に離婚は難しいよとか、あるいは離婚は無理だというものになってしまいます。
 ある掲示板での相談で、妻がうつ病で通院しているが離婚したいという話があり、最初は難しいよと回答していたものの、相談者の訴えてくる妻の行状があまりにもひどいので「そこまでひどいなら、あるいは裁判官も離婚を認める可能性はなくもないだろうから、ダメでもともとというつもりで離婚訴訟をやってみてはどうか」とアドバイスしたことがあります。そうしたら、その相談者から事後報告があり、別の弁護士と面談したところ、離婚は端から無理という感じで、「一生妻を養っていけばいいんじゃない」などと言われたそうです。いくら何でも、直接の面談でそこまで言うかよという気がしますが。
 心神喪失などの問題と離婚の問題を同一視することはもちろんできませんが、少なくとも詐病か否かの判断に関していえば、精神科医との連携を含めた刑事責任能力に関する弁護活動の技術がもっと発達していれば、離婚事件にも応用できたのにと考えると残念でなりません。
 そして、さらに絶望的なことに、弁護士の間でもこのような問題を改善しようとする動きは今のところ見当たりません。改善に取り組むには、少なくとも法律学と精神医学両方の知見が必要になる上に、心神喪失などが問題になる刑事事件も、うつ病の配偶者と離婚しようとする側の離婚事件も、多大な研究や努力の結果が報われるほどお金になる類型の事件ではありませんから。
 結局、弁護士の数だけをいくら増やしても、いわゆる民間の活力に委ねるだけでは一向に改善に向かわない(それどころかむしろ悪化する)問題というのも司法の場にはあるんですよ。

3 コメント

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Unknown (a)
2006-11-30 20:42:27
精神医学とは少し違いますが、
医学部の教授先生方には
「法医学」について、
学生や一般市民が議論をすることを
ものすごい嫌う傾向があるそうです~☆ミ
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Unknown (ああ)
2006-12-02 02:20:52
弁護士さんの実態ってどうなのでしょ。。
先生の投稿している文章と脈絡なくてごめんなさい。

弁護士実務では
PCソフトで膨大なケースを一括して検索できるほか
書類作成までやってくれるものがあると伺います。
アメリカでは実際に優秀なソフトが出回っており、法律も「弁護士を守る」よりも、ソフトに任せられる分野は任す方向に向かっていると聞きます。
先生も書類作成や調べ物には、オンライン上のサイトや弁護士用のソフトを利用しているのでしょうか?
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論点は社会と個人の区別と関係でせうか? (東西南北)
2006-12-03 07:39:53
 人間が犯罪を実現する場合の原因として何を認識するか、です。100%個人責任に帰結させる追及をする仕事が警察・検察の刑事裁判での役割だとすれば、100%社会環境の責任に帰結させる弁護を展開することが刑事裁判での弁護士の役割となります。しかし、共に一方的であり正しい警察・検察・弁護のあり方とはいえません。すなわち、被害者にたいする犯罪者の個人的な責任については警察、検察、弁護士も認めねばなりません。しかし、犯罪者が受けた反社会的な環境からの圧力についても警察・検察・弁護士は認識せねばなりません。

ここが論点なのでしょう。被害者の立場から警察・検察は犯罪者の責任を追及するこであり、加害者の立場から弁護するのが弁護士です。そうすると勢い弁護士は被害者に対する責任からも逃れようとして「精神医学」を悪用しようとし、警察・検察は加害者の責任を厳罰・復讐で実現しようとして、加害者もまた「被害者」であるという側面を抜きにして追及していくことになります。

 結局は、被害者も加害者も人間であり、警察・検察・弁護士も同じ人間なのです。生まれたときから、あらゆる社会環境の影響を受けて生育してくたわけであり、社会環境は個人の努力だけでは変えることはできないわけです。諸個人の合力が社会環境なわけです。それゆえに、社会環境が人間を絶えず押しつぶしている面が今の社会にはあるわけですので、一概には犯罪の責任は犯罪者個人だけに帰結できないのです。もちろん、被害者に対する加害者の個人的な責任はありますが、同じ人間として同じ社会でも犯罪を実現しないような強い人間も存在しているわけですから、厳罰化といってもそれは教育・治療を実態とする刑罰でなければなりません。それが法の下の平等ではないでしょうか。みんな同じ人間なのです。人間が人間に対して、「精神治療の不可能性」を認定することは認定した人間もまた「精神治療が不可能」となるが、認定する人間は犯罪を思い留まっているわけです。何故でしょうか。これを教えることが教育刑であり、精神治療となるのではないでしょうか。つまり、治療し、教える方の人間も絶えず動揺しており精神面だけでみれば、犯罪者の精神と何ら変化しないということですが、程度問題ではないでしょうか。人間としての精神の強弱ということです。しかし、どこまでいっても人間であるので人間の精神は消滅することはないわけですが、反社会的な環境を反映して極度に人間性を押しつぶされており、人間精神が薄弱・衰弱・耗弱・喪失していることがあるのです。しかし、どこまでも人間ですから人間としての精神的本質は消滅しないのです。
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