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空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」とゴッホ展

2020-03-16 16:20:05 | アート・文化

 2月29日、兵庫県立美術館のゴッホ展に行ってきた。

 2009年、新型インフルエンザが流行したときも、学校が休みになり、美術館や図書館が臨時休館になった。

 その時も、この美術館で見たい展覧会があって出かけ、美術館の前で初めて休館を知ったという経験がある。

 今回、安倍首相の一斉臨時休校の要請が突然発表された。各自治体はもちろん、文科大臣でさえ寝耳に水の発表だったようだ。

 兵庫県はその時点ではまだ感染者が出ていなかったので、兵庫県の臨時休校は先だろうと思っていたが、やはり、右へならいで、学校は休校になった。

 ということで、美術館がいつ閉鎖されないとも限らないので、開催中だということを確かめたうえで、冷たい雨が降る中、出かける決心をした。

 土曜日は夜8時までの開館なので、人出も少なくなるであろう午後遅くに出かけた。駅から美術館へ歩く途中、雨がひどくなり、寒さも増した。

 やっと美術館に着いたが、この美術館は展覧会会場へのアプローチが遠く、年長の友人たちは、「高齢者や障碍者のことなんか考えていない」といつも怒っている。

 後期高齢者の仲間入りを目前にした私も同感だ。

 やっと会場に入る。

 ゴッホ展と銘打った展覧会に行くのは初めてだ。誰でも知っている画家の絵を見に猫も杓子も出かける中で、絵なんかゆっくり見ていられないだろうというのがその理由。

 しかし、今回の展覧会は、ゴッホの作品だけではなく、ゴッホに影響を与えた画家たちの作品も展示され、NHKの日曜美術館で紹介された内容にも興味をもった。

 少し前に見た映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」で、今までとは違うゴッホ像が描かれていたので、それに刺激されたこともあり、出かける気になったのだ。(映画については後で書く)

 ゴッホは、オランダのハーグ派、パリに出てからは印象派に強い影響を受け、画家として成長していく様子が、よくわかる展示になっている。

 ゴッホは最初からゴッホだったわけではないという当たり前のことに、今まで思い至らなかったのが不思議だ。

 ただ、影響を受けたというだけではなく、自らの表現を求めて、必要とする技法や芸術思想を一生懸命学んでいる。

 初期のデッサンについて、画家仲間から批判されたことに対して、自分が求めているのはそんなことではないと反論している。

 アルルに移ってからの、明るい自然の光の中や、精神の病で入院した療養所で描いた晩年の作品を見ると、それまでの経緯がわかるだけに、他のだれでもない、ゴッホ自身の作品に到達したことに、感動を覚える。

 もともとゴッホ自身の中にあった種が、ハーグ派、印象派の画家たち、弟テオの支援、ゴーギャン、医師との出会いなどが、種を育てる水、太陽、土や肥料となって、ゴッホという花を咲かせたのだ。

 いや、ゴッホ自身が、自らの種に必要な水、太陽、土、肥料を求めて、一生けんめい種を育て、花を咲かせるに至ったというべきか。

 大乗仏教に「悉有仏性」という考え方がある。この世の生きとし生けるもの、すべてに仏となる仏性があり、自らの修行や縁起によって仏となることができるという思想だ。

 この展覧会でゴッホの絵を見ていると、この「悉有仏性」という言葉が浮かんできた。

 ゴッホはアルルの自然の中に、その「悉有仏性」を感じ、それを描こうとしたのではないかと思う。

 

 映画「永遠の門ーゴッホの見た未来」

 このような見方をしたのは、展覧会の前に、近くの映画館で上映されていた映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」を見ていたせいかもしれない。

 ゴッホを演じているのが、「プラトーン」を見て以来、大好きになった俳優、ウィレム・デフォーなので、期待して見に出かけたのだが、期待以上に素晴らしい映画だった。

 映画を見終わってから、監督が「潜水服は蝶の夢を見る」のジュリアン・シュナーベルだということを知り、合点がいった。

 シュナーベルは、映画監督になる前は画家だったそうだ。

 この映画は、画家としてのゴッホについての映画であると同時に、「描く」とはどういうことか、芸術とは何かという、シュナーベルの芸術論にもなっている。

 パンフレットによると、映画の中で描かれた絵画は、シュナーベルはじめ画家チームによって、実際に描かれたという。

 ウィレム・デフォー自身も、シュナーベルに絵の描き方を学び、筆の持ち方から物の見方まで、作業をする中で、知覚が変化することを学んだと、デフォーは語っている。

 ゴッホが神父と語る場面で、「神が私を画家にした」とゴッホは言う。

 絵を描くことは、ゴッホの中では神と対話することなのだ。

 ゴッホは多くの伝記では自殺説が圧倒的だが、この映画では、悪童たちに殺されたことになっている。

 真実は謎だが、自殺なのか他殺なのかはもはや問題ではなく、ゴッホがこの世に生き、数々の素晴らしい絵画を描いたこと、その作品群が弟テオによってこの世に残されたことが、一番重要なのだと思う。

 テオはゴッホが問題を起こすたびに、仕事を放り出して兄の元に駆け付け、住む家や病院への入院、生活費の工面など身の回りの世話をし、映画を見終わったときには、テオは兄に振り回され、かわいそうと思ってしまった。

 しかし、展覧会で実際の作品に接し、テオに送られたゴッホの手紙などを読むと、テオもまた、身近にゴッホの作品に接して、それを世に送り出したことを幸福だと感じていたのではないかと、ふと思った。

 テオはゴッホが37歳で死んだ半年後、33歳の若さで亡くなっている。

 ゴッホが神によって画家になったのなら、テオもまた、神によって、兄の作品を世に送り出す伝道師となったのかもしれない。

 兵庫県美の会場では、二つの作品が追加展示されていた。そのうちの一つ、「ポピー畑」は、死の1ヵ月前に描かれた作品である。遺作と言ってもいいだろう。

 「ポピー畑」を前にして、映画を見て思ったたことや、この展覧会に接して感じたことが一度にあふれ出てきて、涙が出た。

 ゴッホはやはり、奇跡の画家であったと思う。

 この展覧会は、3月に入って、コロナ騒動で休止になったが、17日から再開されることになった。

 素晴らしい展覧会であるだけに、喜ばしいことである。

 できれば、もう一度、出かけたいと思っている。

 

 

 

 

 


「与格小説」考―井上靖『敦煌』『風濤』を読む(2)

2019-11-09 02:18:14 | アート・文化

 

◇『風濤』を読む

 『敦煌』を読んだ話を友人にしたら、本棚に眠っていたという、文字がぎっしり詰まった新潮文庫の『風濤』を譲ってくれた。

 『敦煌』は1959年に書かれ、4年後の1963年、『風濤』が発表された。

 高麗国が元の支配下に置かれた時代、皇帝、フビライハンは日本攻略のために、高麗の国力をはるかにしのぐ数の軍船の建造、兵士、船頭、食糧の調達など、次々と命令を下す。

 元の兵站基地と化した高麗の混乱、疲弊していく様が描かれている。

 井上靖は『風濤』の中で、歴史文献(主に「高麗史」)を頻繁に引用している。

 その漢文の書き下し文に挟まれるようにして、高麗王の元宗、その息子の忠烈王、李蔵用、金方慶ら重臣たちの、国を存立させるために苦心する様、丸裸にされていく国の惨状が語られている。

 今は亡き篠田一士氏が書いている巻末の解説が素晴らしい。

 井上靖は、『天平の甍』に始まり、『楼蘭』『敦煌』「蒼き狼』『風濤』の一連の作品を自ら「西域小説」と命名していた。

 篠田氏は、それが題材的な事柄ではなく、小説そのものの本質的な要素を指す言葉ととらえている。 

 「人事がほとんど無力に近い西域の砂漠のなかでは時間は広々漠々たる空間のなかへ吸収されてしまい、その用をなさないかのようにみえる。

 (中略)井上氏が『西域小説』の名の下に目指したのは、人事はもちろん、人事を背後から支えて、その多彩な変転を色あざやかにみせる時間に背を向け、ただ荒漠たる空間の拡がりのみを読者に現前させようということである。

 その空間を、自然と言いかえてもいい。時間の軛(くびき)から離脱して、永遠の域にほとんど達したような自然。だが、これを小説において志すのは、およそ近代小説の本意にそむくことである。」

 そして、「人事世態を細かく描き、その間に経過する時間の流れを読者に強く感銘づける」近代小説の手法に対して、「西域小説」を反近代小説と位置付け、『風濤』が「『西域小説』を志した井上氏の詩的正義をはるかによく実現した」作品だと評価している。

 「『風濤』の眼目は、外ならぬフビライそのひとである。この小説を一貫して、たえず、大小さまざまな風が吹きすさび、また、高低さまざまな濤(なみ)がうねり、たかまってくるが、それらはすべて、このひとりの人物から発する。フビライを、人物とよぶにはあまりにも怪物じみている。」

 篠田氏がこのように展開している小説論は、中島岳志氏の「与格小説」と言いかえてもいいと思う。

 登場人物たちは、『敦煌』では、シルクロードで繰り広げられた歴史に翻弄され、『風濤』では、怪物のようなフビライから発せられた、さまざまな風、波に翻弄されながら生き、死んでいく。

 

◇「与格」的生き方

 「与えられたものの行き先」という説明は、「与えられたものを入れる器」と言い換えてもいいのではないか。

 というのは、私は文法用語としての与格に引き付けられただけではなく、中島氏の説明を聞きながら、「私の生き方は与格的だなあ」と思ったのである。

 周囲には意志の強い、気の強い人間だと思われがちであるが、自分では、意志薄弱で、自ら道を選ぶというよりは、流され流され生きてきて、ふと気が付いたら今の自分があると思っている。

 自己実現だの、フェミニズムだの、自分をしっかりもって生きるべきだという社会的風潮の中で育ったので、若いころは、そんな自分が嫌で、ずいぶん肩肘張って生きてきた。

 ところが年を取るにつれて、流されて生きてきた自分は正解だったのではないかと思うようになった。

 その方が楽で、自分に合っているのだ。

 いろいろ関心を持ったこと、学んだこと、経験したこと、出会った人々が、私という器の中で、最初はばらばらに存在していたが、次第にまとまり、私の背丈に合うように収まりよくなってきた。

 「ああ、これはこういうことだったのか」と少しずつではあるが、納得できるようになった。

 中島氏の「与格」の説明を聞いたとき、自分の生き方が「与格的」という言葉で説明できるということを発見したようで、うれしかった。

 大学時代の友人がたまたま電話をくれたとき、その話をした。

 彼女は「私は昔からそう思っていたわよ。あなたは昔から与格的だったわよ」と即座に答えた。

 本人より彼女の方が、私という人間をよく見ていたのである。

 人間を「与えられたものを入れる器」と解釈すると、仏陀が説いた「縁起の法」とも重なってくる部分があるように思える。

 「縁起の法」とは、すべての現象は、そのもの自身として独立して存在することはなく、あらゆる原因や条件が互いに影響し合い、作用しあった結果として生起するという真理をいう。

 人間も、縁起の結果としての、今この一瞬の「私」としてしか存在しない。

 このような存在の在り方を「空」という。「色即是空」の「空」である。

 インターネットで与格のことをいろいろ調べているうち、今年1月、真宗教団連合で中島氏が講演した内容が出てきた。

 その講演で中島氏は、

 「(与格では)言葉が私にきて留まっている。私が言葉の器なのである。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。親鸞は『言葉の器』になりきることによって何かを表現できると考えた宗教家である」

 と語っている。

 中島氏は、『敦煌』の読書会よりずっと以前から、「与格」について考えていたようである。

 与格的生き方と縁起の法、器としての私については、まだ思い付きの段階なので、考えがまとまったときに、改めて書こうと思う。


「与格小説」考―井上靖『敦煌』『風濤』を読む(1)

2019-11-06 16:40:07 | アート・文化

 

 友人と発行している同人誌に書いた文を転載します。

 

 「与格小説」考井上靖『敦煌』『風濤』を読む

 

 今年4月ごろだったか、NHK・ BSプレミアムの「深読み読書会」という番組で、 井上靖の『敦煌』を取り上げていた。

『敦煌』は映画化もされたが、映画も見ず、原作も読んでいないので、どんな小説なのかまったく知らなかった。

 莫高窟の仏教壁画や、大量の仏典が発見された、仏教遺跡としての敦煌に関心があったので、番組を見た。

 「深読み読書会」の出演者は、高橋源一郎、小林恭二、中島岳志、サヘル・ローズという面々。

 出演者が『敦煌』を読んで独自の解釈を展開するなかで、中島岳志氏が「この作品は与格小説である」と評したのが記憶に残った。

 原始仏典を読むために勉強しているパーリ語に、日本語にはない「与格」という文法格があったので、「与格」という言葉に反応したのである。

 

 ◇与格とは

 中島氏は、ヒンディー語を例にとって「与格」の説明をしていた。

 ヒンディーは現在もインドの公用語として最も多く使われている言葉である。

 パーリ語は古代インドのプラークリット(俗語)の一つだが、今は原始仏典の中に残っているだけである。

 文字を持たず、上座部仏教(初期仏教)が伝わった国の文字(スリランカのシンハラ文字、カンボジアのクメール文字、タイ文字、アルファベットなど)で記述され、実際の生活の中では使われていない。

 一方、サンスクリット(文語、雅語)は文学、哲学、学術、宗教の分野で使われた。

 大乗経典はサンスクリットで書かれている。

 文字((梵字)を持ち、現在も使われている言語である。

 サンスクリットもヒンディーも、パーリ語も、同じインド・アーリア語なので、文法は似ている。

 与格とは、名詞・代名詞の格の一つ。

 パーリ語の格は8つあって、主語にあたる格は主格 nominative、目的語にあたるのは対格accusative という。

 与格 dative は、パーリ語文法のテキストでは、「受益者for,to ~のために~に」と説明されている。

 「彼は私に(私のために)本をくれた」という文章を例にとると、「彼は」が主格、「私に(私のために)」が与格、「本を」が対格になる。

 この一文を書くために、与格について詳しく調べてみたら、とても分かりやすい解説を見つけた。

 与格 dative は、ラテン語の do(与える)の過去受動分詞 datus( 与えられたもの)に -iveがついて形容詞になったもので、与格とは「与えられたものの行き先」を説明したものだそうだ。

 なるほど、だから「与格」というのか。

 また、大阪大学外国語学部ヒンディー語のサイトを見ると、

 「意味上の主語、あるいは動作・状態の結果が及ぶ対象に後置詞 को を添えて、人格の意志や力の及ばない、感情、生理的な現象、嗜好、状況、事態、また行為の結果や影響などを表現する特徴的な構文を与格構文と呼ぶ」

 という説明があった。

 この説明によるならば、『敦煌』を「与格小説」と呼んだ中島岳志氏の意図がよくわかる。

 中島氏の説明によると、

 「私は風邪をひいてしまった」という文章が、与格表現では「風邪が私の中に入ってきてとどまっている」となり、

 「私はあなたを愛している」は、「あなたへの愛が私の中に入ってきてとどまっている」という表現になる。

 

◇『敦煌』を読む

 では、与格小説としての『敦煌』はどんな作品なのか。

 11世紀、宋の第4代皇帝・仁宗の時代、主人公の趙行徳は、科挙の試験を受けるために宋の都・開封に上るが、最後の試験の順番を待つ間、眠りに落ち、失敗してしまう。

 街をさ迷っているうちに、肉として売られている西夏の女を助ける。

 女が礼にと差し出した布片には、見慣れない西夏文字が記されていた。

 行徳は西夏文字を何とか読みたいと思い、西夏の都、興慶を目指す。

 タングート族の西夏は、シルクロード交易の要衝である一帯の支配権を得ようと、吐蕃(とばん)、回鶻(ういぐる)など、他の民族と戦闘を繰り返していた。

 途中、行徳は捕らえられ、西夏の漢人部隊の兵士にされてしまう。

 読み書きができたため、部隊の隊長で、漢人の朱王礼に認められる。

 回鶻の拠点、甘州を攻めたさい、回鶻王族の若い女を見つけ、かくまって世話をするうち、愛するようになる。

 しかし、興慶に行く機会を得た行徳は、1年後には戻ると約束し、女を隊長の朱王礼に託して旅立つ。

 興慶で西夏文字を学び、漢字との対照表を作成しているうちに、行徳は約束を忘れ、ようやく甘州に戻った時には、女は西夏の太子、李元昊の妾にされていた。

 女は城壁から身を投げて死ぬ。

 戦闘に明け暮れる日々が過ぎ、西夏に降った瓜州の太守から、経典を西夏語に翻訳する仕事を頼まれ、翻訳にいそしんでいたが、西夏王となった李元昊の軍が瓜州へ入城する直前、朱王礼が反乱を起こす。

 朱王礼も回鶻の女を愛しており、李元昊を恨んでいた。

 しかし、朱王礼は敗れ、一行は沙州(敦煌)へ逃れる。 

 西夏軍の攻撃を前にして、沙州の人々が財宝や家財をまとめて逃げる準備に追われるなか、行徳は寺にある膨大な仏典を救おうと思い立つ。

 隊商の商人、尉遅光から、財宝を隠せる洞窟があるという話を聞き、行徳は財宝を運ぶと偽って、尉遅光の手下の手を借り、僧たちとともに仏典をラクダに積み、洞窟へ運び込んで、入り口を封印した。

 その後の敦煌の歴史、1900年代初めに敦煌が発見され、多くの経典がスタインはじめ外国の探検隊に持ち出された顛末を記して、小説は終わる。

 この小説の一応の主人公は趙行徳であるが、彼の行動は、自分の意志とは関係ない、その時々の状況に影響され、「ふとしたことで」「いつのまにか」次の場所に身を置くことになるのである。

 「深読み読書会」でも誰かが言っていたように思うが、本当の主人公は「敦煌」という舞台であり、その時代、シルクロード一帯で繰り広げられた歴史そのものである。

 行徳はじめ、登場人物たちは、自分の意志や力の及ばない、砂漠の歴史の激流のなかで生き、死んでいく。

 まさに「与えられたものの行き先」として、存在している。

 その意味で、中島氏は「与格小説」と呼んだのだろう。

 行徳が西夏軍を迎え撃つ前に宿舎で休んでいるとき、この場所に来るまでの時間をさかのぼって辿る場面がある。

 

 「水が高処より低処へ流れるように、極く自然に自分は今日まで来たと思った。

 開封を発って辺土にはいり、それから西夏軍の一兵として辺境の各地を転戦し、その挙句の果 てに叛乱部隊の一員となり、いま沙州の漢人と一緒になって、西夏軍との間に死闘を展開しようとしている。

 もう一度新しく人生をやり直したとしても、同じ条件が自分を取り巻く限り、やはり自分は同じ道を歩くことだろう。

 (中略)後悔すべき何ものもなかった。

 開封から沙州までの幾千里の道を、その緩い傾斜面を、自分は長い歳月を費して流動して来て、いまここに横たわっているのである。」

 

 状況に翻弄されながらも後悔せず、自然と受け止める行徳の感慨を記した場面が何カ所か出てくる。

 高橋源一郎氏は、「『敦煌』は井上靖の自伝である」と発言している。

 井上は5歳から13歳まで、両親から離れ、戸籍上の祖母、実は祖父の妾であった人に育てられている。

 日中戦争で出征した経験もある。

 行徳のような与格的な生き方は、井上自身も身につけていたものかもしれない。

      (つづく)

  

 


深読み「令和」考ー『萬葉集』巻五を読むー (2)

2019-08-08 12:05:00 | アート・文化

 友人と発行している同人紙からの転載です。

 

 前号で、大伴旅人の作品の特徴を「虚構の文学」だと評した白川静さんの説を紹介した。「梅花の歌三十二首」」についてもそのことは言える。

 ◇もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を攄べむ

「梅花の歌」の漢文の序が東晋の書家・王義之の「蘭亭序」を模したものであること、「令和」の出典とされる「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぐ」の部分が、後漢の張衡の「帰田賦」から採ったものであり、「帰田賦」は、張衡が時の政治に失望して故郷に帰る詩であることは前号で書いた。

そのあとに、宴席の周りの風景が中国の古典を引用しながら流麗な文章で綴られている。

そして、「梅花の歌」の宴の様子を次のように書く。紙数の関係で、一部を除いて『萬葉集釋注』(伊藤博著)の訳文を引用する。

「一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ(ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう)」

 この序文の後に、宴に列席した面々が詠んだ三十二首の歌(815~846)が並び、さらに「追和歌」六首が加えられている。この六首は旅人の作である。

 憶良たち筑紫歌壇を形成した官人が参集した梅花の宴は、旅人邸での実際の出来事だろう。しかし、前号で紹介した「梧桐日本琴」や「松浦川に遊ぶ」にも見られるように、「蘭亭序」になぞらえた序文と六首の追和歌を加えて、旅人は虚構の物語を創作しているのである。

 長屋王が死に追い込まれたのは神亀6年2月(8月に天平元年と改元)。「梧桐日本琴」の書状が藤原房前に贈られたのは天平元年10月、梅花の宴が開かれたのが天平2年1月、「松浦川に遊ぶ」は同じく天平2年である。

これらの作品が作られた時期、藤原氏の権力は遮るものの無い絶大なものとなっていった。

 古代からの名門氏族である大伴氏。その長たる旅人は、「讃酒歌」(巻三)を詠むことで悲憤、慷慨し、「虚構の文学」の世界に遊ぶことで、ままならぬこの世に身を置くことができたのであろう。

 「もし翰苑にあらずは……」という一文は、梅花の宴についての記述にとどまらず、文学の世界でしか自分の本当の気持ちは表現できないという、旅人の文学論にも思えてくる。

 天平2年(730)12月、旅人は帰京する。帰京から半年後の天平3年7月、旅人病没。67歳であった。

 巻五に収められた旅人の作品は、「松浦川に遊ぶ」が最後である。

 ◇貧窮問答歌と沈痾自哀文

 山上憶良は、旅人が都へ旅立つ天平2年12月に開かれた餞別の宴で、はなむけの倭歌四首と、「敢へて私の懐(おもひ)を布(の)ぶる歌」三首を贈っている(876~882)。

これ以降、巻五は憶良の作品ばかりとなる。主な作品を挙げる。

 「熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首并せて(886~891)は、大伴君熊凝(くまごり)という人が行路で死んだときのことを詠んだ麻田陽春の「大伴君熊凝が歌二首」に和したもの。漢文の序と、熊凝に成り代わって詠んだ長歌と短歌である。

 次に有名な「貧窮問答の歌一首并せて短歌(892~893)がある。

 892の長歌は、貧者が、さらに貧しい極貧者に、「どのようにしてこの世をしのいでいるのか」と問いかけ、極貧者が、「かまどに火がなく、飯を炊くのも忘れているのに、笞をかざす里長の声は寝屋にまできてまくしたてる、生きることはこんなにも辛いものなのか」と嘆く内容である。

 893 世の中を 厭(う)しと恥(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

(この世が厭なところ、身も細るようなつらいところであっても、人間は鳥ではないので、世を捨てて飛び立つこともできない)

 この短歌の後に「山上憶良 頓首謹上」とあり、筑前守という官名がないので、天平3年暮れ、任を解かれ帰京した後の歌であるらしい。

 巻五の最後には、憶良の絶筆と言われる三部作が並ぶ。

 「沈痾(ちんあ)自哀文」は、「重い病に自ら哀しむ文」。岩波文庫の『新訓万葉集』(佐佐木信綱編)で四ページを超えるほどの長編の漢文である。

 何の報いか、重病に襲われたわが身の苦しみをつぶさに記し、「人は誰しも限りなき命を願うが、死という宿命からは逃れられない。長生きできないのなら、ならば、せめて病の苦しみから逃れたいものだ」と生への執着を切々と語る。

 三部作の残る二作、「俗道の化合即離(けごうそくり)、去りやすく留(とど)みかたきことを悲嘆(かな)しぶる詩一首并せて序も、「老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌七首」も、世の無常を嘆き、老いと病、我が子という煩悩に苛まれて、悟るに悟れず、死ぬに死ねない自らの姿を描いている。

 これら三部作は、天平5年(733)6月3日に作られている。同じ年、旅人の死から2年後に憶良は没する。74歳であった。

 ◇後期万葉の両輪、旅人と憶良

 大宝元年(701)、憶良は40歳を過ぎて遣唐使に随行する遣唐少録に抜擢されるが、それまでの経歴は知られていない。憶良が渡来人であるということは、様々な研究によってほぼ間違いないと思われる。

 白川静さんの『後期万葉集』によると、憶良が筑前守として赴任する以前の作品はわずか六首。それが、旅人の大宰帥着任以後、たちまち多作となった。

旅人も大宰府に赴く前は寡作の人だったが、憶良の作歌の時期と重なる数年間に六十九首の短歌を作っている。

 空想の世界に遊ぶ旅人と、現実を直視し生きる苦しみを歌った憶良とは、文学的に対立する関係にあったと見る研究者は少なくない。

 しかし、白川静さんは「二人が相対立していたのではなく、二人が、人麻呂的な古に対する、天平的な新として、飛鳥的古を否定したのであった。そのとき彼らの理念を支えたものは、憶良においては百済的な仏教の信仰であり、旅人においては中国の古典の世界であった」と論じている。

 旅人の文学の特徴を「虚構の文学」とする一方、憶良の作品については「常に自分を超えて他に代位するというところがあって、自己表現に徹しきれない部分が残されているように思う。『貧窮問答歌』にしても、彼の実生活そのままではありえないが、彼の歌には自己を一般化し歌う、また他者に自己を投影して歌うというような姿勢がある。それはいわば代作者的な姿勢である」と評する。

 そして、「かれ(憶良)の歌業が、旅人という有力な歌友をえて、世に伝えられることは、疑う余地のないことであった。(中略)旅人と憶良とが、後期万葉の歴史を動かす両輪であったことは、万人の認めるところである」と述べている。(『後期万葉論』第四章 仮合即離の境涯)

 ◇『詩経』と『萬葉集』

 白川静さんは『初期万葉論』のなかで、中国の『詩経』と、日本の『萬葉集』を取り上げて、比較文学的研究を試みたと述べている。

 『詩経』は中国最古の詞華集。紀元前九世紀をその中心年代とし、『萬葉集』は八世紀後半を中心としている。

 千数百年を隔てているが、各地域の、異なる立場における生活者の歌謡を含んでいる点、古代詞華集の成立する歴史的条件において共通するものがあるという。

 「(それまでの)共同体の秩序が不安定なものとなり、生への不安が高まるにつれて、人びとは自らの歌を欲するようになる」というのである。

 このような視点をもって『萬葉集』巻五をつぶさに読めば、安倍首相が「『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定した。(万葉集は)我が国の豊かな国民文化を象徴する国書」だと、嬉々として解説しているものとは異なる風景が見えてくる。

 旅人、憶良の晩年に当たる時代は、天平文化の花開いた時代だと歴史教育では習うけれども、災害や疫病が多発し、長屋王の変、藤原四兄弟の死、藤原広嗣の乱が相次ぐなど、権力闘争と政情不安の時代であった。

 聖武天皇はその災いから脱却しようと、仏教にすがって国分寺建立、大仏造営を行い、遷都を繰り返した。その混乱が収まりを見せないまま、時代は平安へと移っていく。

 『萬葉集』巻五が、旅人の「凶問に報ふる歌」という悲嘆の歌に始まり、憶良の「貧窮問答歌」や「沈痾自哀文」などの作品群で終わっていることは象徴的である。

 巻五全体に通奏低音のように流れているのは、ままならぬ人生の悲哀と悲憤、この世で生きることの苦しみ、嘆きだ。

 考案者とされる万葉学者、中西進氏がどんな理由で「令和」を推薦したのかは知らないが、巻五が『萬葉集』の中でどのような位置づけになっているか、理解しているはずである。

 以下は私の推量と独断による解釈。

 「令和」という熟語が成り立つのであれば、『字通』にあるような、そもそもの漢字の意味を尊重して、「令和」とは「令に和す。すなわち、謙虚に天のお告げを聞き、その声に従う」と解釈したい。

「理不尽さと貧しさの中で苦しむ民が顧みられない世の現実を見よ、そして天の声に耳傾けよ」という為政者への思いが託されているのではないか。

 これは、まさに「貧窮問答歌」に託された憶良の思いと一致するではないか。   (おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 


深読み「令和」考―『萬葉集』巻五を読む(1)

2019-05-26 21:30:24 | アート・文化

例によって、友人と発行しているミニコミ紙に掲載した文章を転載します。

 

新元号「令和」をめぐる騒動があまりに軽薄、解釈も恣意的なので、出典とされる「梅花歌三十二首」が含まれる『萬葉集』巻五を読み返してみる。

漢字には意味がある。

白川静さんの『字通』によれば、「令」は「礼冠をつけて跪いて神意を聞く人の形」から、「おつげ、みことのり、いましめ、よい、させる」などの意味が生まれた。

「和」は、「軍門の前で盟約し、講和を行う」意。そこから「やわらぐ、なごむ、かなう、したがう、声があう」の意味となる。

二文字を合わせた「令和」という熟語はどういう意味になるのか。そもそも熟語として成り立つのだろうか。 

安倍首相は記者会見で「『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」と説明。

さらに記者の質問に、「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定した。(万葉集は)我が国の豊かな国民文化を象徴する国書。我が国の悠久の歴史、薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄はしっかりと次の時代にも引き継いでいくべきであると考える」と答えている。

「即位後朝見の儀」で、「天皇陛下のお言葉」を受けた「国民代表の辞」でも繰り返している。

天皇の言葉が、簡明ながらその思いが伝わってくるのに対し、首相の言葉は美辞麗句を並べた内容のないものだ。

官僚が首相の意を忖度して書いた作文なのだろうが、安倍政権がこれまでやってきたことと重ね合わせると、「よくもまあ!」と、その厚顔ぶりに呆れる。

「令」と「和」という文字が使われているのは、『萬葉集』巻五の815から846までの梅の花を詠んだ三十二首の歌の前に添えられている長文の漢文の序である。

 

梅花の歌三十二首併せて序

天平二年の正月の十三日に、帥老(大宰帥大伴旅人のこと)が宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぐ。(以下略)

 

大伴旅人による序が、中国東晋(317~420年)の書家、王義之の『蘭亭序』を模したものであることは、古今の万葉集研究者が指摘している。

『蘭亭序』は、名勝・蘭亭での曲水の宴で作られた詩二十七編の序文として王義之が書いたもの。

岩波の新日本古典文学大系『萬葉集一』の補注では、「令月」以下の語句は、後漢の張衡「帰田賦」にある「仲春令月、時和し気清らかなり」から取ったものであると述べている。

「帰田賦」は、張衡が時の政治に失望し、官職を辞して郷里の田園に帰る詩である。

旅人の他の作品にも中国の詩文を引用した表現が多くみられる。旅人は中国の詩文に通じていた教養人であった。

であるから、安倍首相が「初めて国書を典拠とした」と、さも我が国固有の表現であるかのごとく言っているのには違和感を覚える。

国書にこだわること自体が、文化のあり様というものを理解していないし、そもそも万葉集を読んだことがあるのだろうか。

万葉集に戻る。万葉集の軸となる部分は旅人の子、大伴家持の編集によるという見方が有力である。個々の作品を読むだけでは歌に込められた意味は理解できない。

歴史的背景も含め全体を見渡して、編者の意図を読み取らなければならない。

巻五には、いわゆる筑紫歌壇の歌が集められている。

神亀から天平年間に大宰府、筑紫に滞在した歌人(大伴旅人、山上憶良らが中心)がサロンを形成、筑紫歌壇と呼ばれる。

 

◇巻五は旅人の悲嘆の歌で始まる

巻五は「不幸が重なり、悪い知らせが続いて、独り断腸の涙を流している」という漢文の序に続いて

793 世の中は空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり 

   (世の中は空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてくる)

という旅人の悲嘆の歌で始まる。

旅人は、神亀四年(727)、大宰帥(だざいのそち=大宰府長官)に任ぜられ、六十三歳という老齢の身で筑紫に赴く。

当時、政治の中枢にいた長屋王(天武天皇の孫であり、高市皇子の子)と旅人は近しい関係にあったようだ。

聖武天皇の母宮子と、妃の光明子は藤原不比等の娘である。

二人を押し立てて権力を握ろうとしていた藤原氏にとって、光明子の立后に反対していた長屋王は邪魔な存在であった。

旅人の大宰府赴任は藤原氏の策略だという見方がある。

大宰府着任の半年後、異母妹・大伴坂上郎女の夫、大伴宿奈麻呂の死の知らせが届く。

そのひと月前、旅人は最愛の妻、大伴郎女を失っていた。

793の歌は、身内の死を悲しむだけではなく、老齢になって都から遠ざけられた旅人の悲嘆がその背景にあるように思われる。

その次に、山上憶良の歌が続く。

憶良は旅人が大宰帥に着任した前年の神亀三年、六十七歳で筑前守に任ぜられた。

仏教思想がちりばめられた漢文の哀悼詩と、「日本挽歌」と題した794の長歌、五首の反歌(795~799)を、旅人になり切って詠んでいる。

「私に付き従ってきたばかりに、都から遠い異郷の地で死んでしまった妻、私はなすすべがない」という内容で、ここでも妻の死を悲しむばかりでなく、都を離れた鄙(ひな)の地にいる嘆きがうたわれている。

以下に続く旅人と憶良の主な作品について見ていこう。

800~805は、憶良が管内巡察の折、詠んだ作品。筑前守として、民の暮らしに向き合おうとした憶良の生真面目さがうかがえる内容だ。有名な「子等を思ふ歌」の反歌

803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に及(し)かめやも  

もこの中で詠まれた歌だ。

 

◇長屋王の変

これらの作品が作られたのは神亀五年である。

翌神亀六年(729)二月、長屋王の変が起き、長屋王と妃の吉備内親王、二人の間の四人の子(皇位継承権があるとみなされていた)は自殺した。

事件が藤原氏の策謀であったことは、ほぼ定説になっている。

同じ年の八月、元号が改まって天平元年となり、光明子は皇后となった。

長屋王を自殺に追い込んだ藤原不比等の四人の息子は、八年後の天平九年(737)、天然痘で相次いで亡くなる。

長屋王の祟りだと噂された。

 

◇旅人、藤原房前に琴を送る

810~812は、旅人が対馬産の梧桐で作った日本琴(やまとのこと)を藤原四兄弟の一人、房前(ふささき)に贈るに際して添えた書状の中の二首と、それに対する房前の返書および返歌である。

旅人の書状は、琴が乙女となって夢に現れ、「匠に切られて、琴となった私ですが、徳の高い方の側に置かれることを願っています」と語り、旅人と歌を贈答するという物語仕立てになっている。

旅人の趣向をこらした書状に対して、房前の返書は短く、実に素気ない。

旅人の書状の日付は「天平元年十月七日」。

長屋王一族の悲劇、光明子が皇后となって、藤原氏の権力を握ったことは、もちろん知っていただろう。

『字通』の著者・白川静さんには『初期万葉論』『後期万葉論』という名著がある。

『後期万葉論』の第五章「旅人讃酒」で興味深い旅人論を展開している。

琴をめぐる旅人と房前のやり取りについて、「房前は旅人より十六歳下ながら、中衛府の長官(中略)、九月には中務卿を兼ねている。便々と誼を請うわけにはゆかぬが、文学の戯れとしてならば、古族大伴氏の衿持を傷つけることもあるまい。(中略)文学に託した和親状のようなものであった」

「その房前の返事が、いかにも慇懃無礼な文章とも思われるのは、私だけであろうか。誇り高い名門で、政界の最長老の地位にある旅人として、それはまさに『狂を発する』ほどの屈辱ではあるまいか」と書いている。

 

◇虚構の文学

白川静さんは、巻五に収められた代表的な旅人の作品「梧桐日本琴」や「梅花の歌」に続く「松浦川に遊ぶ歌并せて序」を例に挙げ、旅人の作品の特徴を「虚構の文学」と呼んでいる。

「松浦川に遊ぶ歌」(853~863)は現在の佐賀県松浦郡の景勝地、玉島の潭(ふち)に遊んだ折に詠まれた歌と漢文の序である。

美しい仙女たちが現われて、蓬客(ほうかく=さすらいの旅人)と対話し、歌の贈答をするという内容で、一幕物の劇のように仕立てられている。

「梧桐日本琴」も、「松浦川に遊ぶ」も、現実の出来事を、中国・唐の伝奇小説『遊仙窟』(主人公が神仙の家に泊まり、仙女たちと交歓するというあらすじ)を模した、虚構の世界に置き換えて、一つの文学作品を構成している。

虚構の文学の世界に遊ぶことで、生き難いこの世の中と向き合おうとしたのではあるまいか。

旅人には、もう一つの代表作、次の338に始まる十三首の「酒を讃(ほ)むる歌」(巻三338350)がある。

338 験(しるし)なき ものを思はずは 一(ひとつき) 濁れる酒を 飲むべくあるらし

   (甲斐のない物思いにふけるよりは、一杯の濁り酒でも飲む方がましであるらしい)

白川静さんは「讃酒歌」について「旅人にとっては悲憤の歌であり、慷慨の詩である」「いつも説話のような歌物語の裏に隠されていたかれの本当の姿が、ここにある。その意味で、これほど自己表現的な文学はかつてなかった」と評している。

                                    (つづく)

 

  


柿本人麻呂の挽歌考

2017-11-30 01:33:12 | アート・文化

 例によって、友人たちと出しているミニコミ紙からの転載です。 

 山道を行けば 生けりともなし… 柿本人麻呂の挽歌考 

 今年のお盆に墓参りしたとき、気づいたことがある。田んぼの風景を見ても以前のように心がざわつかなかったのだ。

 8月の田んぼは、濃い緑の稲が強い日差しを撥ね返し、空に向かってぐんぐん伸びている。それを見て、美しいと思った。そして、「アッ、田んぼを見て、美しいと思えるようになったんだ」と、自分が変わっていることに気づいた。

 私は長い間、田んぼの風景を見ると、介護に追われた日々や、相次いで両親を見送ったころが思い出されて、胸が締め付けられたり、不安な気持ちになった。

 救急車に乗り込んで親を病院へ運ぶ途中、遠く離れた病院へ入院した親を訪ねる途中、いつも田んぼの風景が広がっていた。

 高齢の救急患者を受け入れてくれる病院は、決まって町中から遠く離れたところにあって、田植えが終わったばかりの田んぼ、夏の田んぼ、黄金に実った田んぼ、季節は違っても、いつも田んぼが傍らに見えた。

 それが繰り返されるうち、父母を見送って五年、六年が経つというのに、田んぼの風景に出くわすと、不安な気分に襲われていた。

 田んぼを見て美しいと感じられる自分に気づいたことはうれしかったが、考えまいとしていた母のことが、次々と思い出された。

 母が病院で死の床にあったとき、家に一人いる父の介護も同時にしなければならず、母は付添婦さん任せにして、十分に母を看取ってやれなかったという後悔もあって、母のことはあまり思い出したくなかったが、この頃は人にも母のことを話せるようになった。

 中でも思い出すのは、大たい骨を骨折して手術を受けた後、奈良・三輪山のふもとにあるリハビリ専門の病院に転院した母を、半年ほど毎日のように訪ねたころのことだ。

 病院へは、無人の最寄り駅から三輪山麓の田んぼ道をかなり歩かなければならない。列車の本数も少ない。

 家からタクシーで行くのが楽なのだが、毎日のタクシー代も馬鹿にならない。父を伴うときはタクシーを使ったが、一人の時は最寄り駅から歩いた。歩くことで、気持ちを切り替えていた面もある。

 その日も、最寄り駅を出て炎天下を歩き出した。駅から数十メートルは町並みがあるが、それから先は、右手に三輪山、左手に田んぼや畑が続く山すその道で、風景に変化がない。

 病院へは、溜め池が道しるべとなる。溜め池の脇を下って行くと、病院の駐車場に出る。

 ところが、その日は、いつも見る溜め池とは別の池に出てしまった。変だと思いながら進んでいっても、病院は現れない。引き返して、くだんの溜め池を探すが、歩いても歩いても目指す池は現れない。

 熱中症による死者のニュースが毎日のように報じられていた時期である。

 炎天下をひたすら歩いているうちに、病院への道を探しているというより、私はただ歩くために歩いているのではないかという気分になった。病院へ行くという目的はどこかに行ってしまって、ただ歩き続けている自分だけがいる。

そんな時、心に浮かんだのが、柿本人麻呂の亡き妻を悼む挽歌である。 

208 秋山の 黄葉(もみぢ)を茂み 惑いぬる 妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも

   (秋山の黄葉の茂みの中で迷ってしまった。亡き妻を探そうにも、道さえ分からない) 

 その時は上の句が思い出せず、「妹を求めむ 山道知らずも」の下の句だけが思い浮かんだ。

 それから「山道を行けば 生けりともなし」という句も浮かんできた。これは次の歌の下の句である。 

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし

   (衾道の引手の山に妻を置いて山道を行けば、自分が生きているとは思えない) 

 なぜ、真夏の炎天下を歩きながら、しかも、母はまだ生きているというのに、人麻呂の挽歌を思い浮かべたのか分からない。

 後で理屈づけると、人麻呂が迷い込んだ山道は三輪山のことだと私が勝手に解釈していて、三輪山の山すそで道に迷った自分の心情が、「妹を求めむ 山道知らずも」や、「山道を行けば 生けりともなし」という句を連想させたのだ、という解釈もできる。

 しかし、その時の私は、道に迷ったというより、別の世界に入り込んでしまったという感じがしていた。目の前に別の世が突然現れて、知らぬうちにその別の世に足を踏み入れた、という感じなのだ。

 しばらくさまよったあと、ふと我に返ると、宮大工の看板を掲げた作業場のようなところに出た。数人の若者が材木にカンナをかけていた。

 病院への道を尋ねると、なんと、病院へ通ずる道しるべにしていた溜め池を、何百メートルも行き過ぎていた。

 なぜ、あの大きな溜め池を見過ごしたのか、なぜ、母が生きているのに、柿本人麻呂の挽歌を思い出したのか、その後もずっと気になっていた。

 母が亡くなった後、2年間は父の介護が続いて、十分に悲しむ余裕もなかった。

 父亡き後、自分を落ち着かせるためもあって、しばしば実家に帰り、遺品整理を続けていた。

 ある日、電話台の引き出しから何冊もの手帳が出てきた。父からもらった会社の手帳に、母は、折々の出来事や気持ちなどをメモしていた。

 その中に、2006年、私が初めてダライ・ラマ法王の法話を聞きに宮島に行ったことが書かれていた。まだ、つきっきりの介護が必要ではない時期だったので、思い切って参加したのだ。

 帰ってきて、どんな話をしたのか覚えていない。しかし、ダライ・ラマ法王との出会いが、私に仏教徒となる発心を起こさせてくれたのだから、きっと、感動した話をこと細かに報告したのだろう。

 そんな私のことを母は、「幸せな子だ」と書き記していた。

 気性が激しく、いつも何かを求めて落ち着かない娘を、母はずっと心配していたのだ。

 その娘がやっと道しるべとなるものを見つけたことを、母はちゃんと理解してくれていたのだ。誰もいない家の中で私は大声をあげて泣いた。母の死後、初めて思いきり泣いたような気がする。

 しかし、田んぼの風景を目にして心穏やかならぬ日々はその後も続いた。 

 さて、人麻呂の挽歌に戻ろう。三輪山で道に迷った時に心に浮かんだ挽歌は、『万葉集』巻第二に収められている。

 「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きゅうけつあいどう)して作る歌二首并せて短歌」という詞書(ことばがき)のあとに、207の長歌が始まる。

 有名な歌だが、あまりに長くて引用できないので、その内容だけ紹介する。

 妻の里であった軽の市(かるのいち)の雑踏の中に、もしやと妻の姿を探し求めたが、なすすべもなく、妻の名を呼んでただ袖をふり続けた、という哀切きわまる長歌だ。

 そのあとに、反歌として、前述の208、そして209の短歌がある。 

209 黄葉(もみぢば)の 散り行くなへに 玉梓(たまづさ)の 使いを見れば 逢ひし日思ほゆ

  (黄葉が散りゆく折に、文使いが通うのを見ると、妻に逢った日のことが思いだされる) 

 次の210の長歌は、妻の死を認めることができない207の長歌と違って、亡き妻がいるかもしれないと人が言う羽がいの山に来てみたが、この世の人だとばかり思っていた妻は、もうこの世にはいないのだ、と妻の死を確認する内容になっている。

 反歌として、211の短歌と、先に挙げた212の短歌が添えられている。 

211 去年見てし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年離(としさか)

  (去年見た秋の月は今も照っているが、その月をともに見た妻は、年月とともにいよいよ遠ざかっていく) 

 人麻呂は宮廷歌人として皇子や皇女の死を悼む挽歌も作っているが、この「泣血哀慟歌」ほど心に響くものではない。

 この文を書く前に、テキストの『萬葉集釋注』の伊藤博さんの解説を改めて読んでみた。

 伊藤さんは、この挽歌群は、妻の死の直後ではなく、しばらく後に宮廷人の前で披露されたものであろうこと、人麻呂は、妻の死さえも語り歌として披露するよう要請された〝歌俳優〟であったらしいと、書いている。

 「人麻呂は、第三者に披露する語り歌という形式をとることの中に、一人の男が亡き妻をひたすら追い求める切実な姿を封じ込めている。その姿は聴衆を感銘のるつぼに落とし入れ、熱い涙を誘ったはずだ。そして、そのことが人麻呂の心の慰撫につながり、同時に妻への大きな供養になるのであった」

 この伊藤さんの一文を読んで、人麻呂の語り歌の持つ力が、当時の宮廷人どころか、時空を超えて現代の私という人間にまで影響を及ぼしているということに改めて驚かされた。

 人麻呂の歌が持つ物語性が聞く者の魂を揺り動かすのである。

 同時に気づかされた。

 三輪山で道に迷った時、人麻呂の挽歌を思い浮かべたのは、あの時から母の死は始まっており、私は無意識のうちにそれを感じ取っていたからではないのか。

 そして、母の入院、母の死を受け入れられず、ずっと道に迷い続けていたのだ。

 田んぼを見て美しいと感じたとき、その迷い道からやっと抜け出ることができたのかもしれない。


入江泰吉作品展

2017-08-14 01:05:41 | アート・文化

 12日、友人に誘われて、入江泰吉記念奈良市写真美術館に行った。開館25周年を記念した「入江泰吉菊池寛賞受賞作品展」が開かれていた。

 大分前に入江泰吉の作品が奈良市に寄贈されて、写真美術館ができていたことは知っていたが、訪れるのは初めてだ。

 菊池寛賞を受賞した写真集『古色大和路』『萬葉大和路』『花大和』の中から、代表作約70点が展示されていた。

 誘ってくれた友人は、NHKの日曜美術館で写真展が紹介されていたのを見て、作品に心惹かれ、奈良に詳しい私に、一緒に行かないかと声をかけてくれた。

 阪神電車と相互乗り入れしている近鉄の快速急行は冷房が効いて、猛暑の外界が嘘のように快適だったが、奈良駅でおりると、奈良燈花会が飛火野で開催中、加えてお盆の土曜日とあって、観光客、それも外国人観光客で大変な人出だった。

 駅前からのバスも観光客で超満員だったが、東大寺・春日大社前でほとんどが下車、あとは私と友人の貸し切り状態。美術館最寄りの破石町バス停で降りるとバスは空っぽになった。

 バス停から美術館までがけっこう距離があった。観光地図を見ながら歩いても、途中は緩やかな曲がり道で見通しがきかない普通の住宅街、正しい道を行っているのか不安になるほど、なかなかたどりつけない。

 この高畑界隈は、かつて志賀直哉が住んでいたり、新薬師寺、白毫寺などもあり、お定まりの東大寺、興福寺、春日大社などを離れて静かに散策したい人には人気がある観光地だ。

 住宅や木立の影をひろいながら、やっとたどりつくと、なかなか立派な建物だった。後で思い出したのだが、この建物を設計したのは、若尾文子の旦那さんだった黒川紀章である。入り口を入ると、イントランスホールの奥にカフェがある。階下が展示会場になっている。入場料は500円と安い。

 入江泰吉の作品は、観光ポスターや本や雑誌などで見て知ってはいたが、ちゃんと見たことはなかった。大きなパネル仕立ての作品は、やはり見ごたえがある。

 途中から、作品展を担当した学芸員が、主な作品の前で、写真家入江泰吉のことや、撮影秘話などを解説してくれた。最初は私と友人と、あと二人ぐらいしか集まらなかったが、次第に人が増えて、10人ぐらいが学芸員の解説に聞き入った。

 解説によると、入江は、菊池寛賞の受賞を喜んでいたそうだ。プロ向けの写真賞より、広く大衆に写真を知ってもらうきっかけになるからだ。受賞した写真集は、住宅ブームに乗って、百科事典と並びリビングを彩る豪華本として、高価な写真集にしては驚異的な売り上げ部数を記録した。出版元の保育社のビルが建ったそうである。

 展示の作品は、カラー写真を撮るようになって以降、50代から60代にかけて、入江の写真に対する姿勢がほぼ定まった時代のものが多い。単に大和の風景を美しく撮るのではなく、歴史や万葉集の歌が詠まれた背景、作者の生きざまなどをイメージし、作品に投影している。

 イメージしても、その通りの風景が現れてくれるわけではないので、撮影にふさわしい場所を探して歩き回り、場所が設定されても、気象や時間、その時の光、風の状態によって、まったく違ってしまう。イメージどおりの風景が現れる時まで何度も通い続け、待ち続けたので、「待ちの入江」と言われたそうだ。

 一番気に入ったのは、[二上山暮色」だ。夕焼け空の中に不穏な黒雲がひろがって、地上に黒々と横たわる二上山をいまにも呑み込もうとしているかのようだ。入江が撮りたかったのは、もちろん、二上山に葬られている大津皇子の怨念である。

 私は、折口信夫の『死者の書』を思った。中将姫のもとに、怨念のため成仏できない大津皇子がおどろおどろしく現れる場面を連想した。

 もう一つは、山田寺の写真。蘇我倉山田石川麻呂が建てた寺で、大化の改新で蘇我入鹿暗殺に加担したが、後に中大兄皇子らの陰謀により謀反を企てたとされ、兵に囲まれて、妻子とともに山田寺で自害した、その現場である。

 近代になってから再建された寺の屋根が樹木の中に埋もれている。屋根と背景は暗い影に覆われていて、手前のススキの原だけに光があたっている。不思議なというより、不気味な感じの風景だ。ここでも、入江が撮りたかったのは、歴史の中に埋もれた悲劇と、人々の怨念だろう。

 さらにもう一つ、気に入った作品がある。解説を聞いたおかげで目に留まった作品だ。桜井市の吉隠(よなばり)の里に雪が降っている風景。これは、穂積皇子が、亡くなった恋人、但馬皇女の墓を望んで詠んだ挽歌「降る雪はあはにな降りそ 吉隠の猪養の岡の寒からまくに」とうたった現場である。

 桜井市の観光協会のホームページには、雪が積もって晴れた吉隠の棚田の写真が載っているが、入江の写真は、積雪に至る前、雪が降りだして、だんだんとその降り方が激しくなろうとする、その時をとらえている。

 但馬皇女を偲んで挽歌を詠んだ穂積皇子の思いが、その降る雪に込められているのである。

 ほとんどの写真は、1970年年代、高度経済成長の波の中で、古き良き日本の風景が破壊されていった時代に撮影されている。入江が撮った風景は、今は多くが失われてしまった。このような入江の作品は、芸術作品であると同時に、失われてしまった歴史の記録写真でもあるそうだ。

 入江が好んで写した地道、雨の降ったあと、ところどころに水たまりが光り、人々の歩いた跡や自転車の跡が残っている、そんな道を入江は撮り続けた。

 解説を聞きながら作品を鑑賞して、さらにもう一度見て歩いたので、かなり時間がかかった。

 けれども、興味深い解説も聞くことができて、写真家・入江泰吉を知ることができたので、とても良い時間を過ごせた。

 資料室も併設されていて、写真集の図書館となっている。自由に入って閲覧できるので、また来て、ゆっくり写真集を見たい。

 友人と、ほんとうにいい展覧会だったねと話し合った。友人曰く「500円でこんなにいい時間を過ごすことができるなんて」。

 この展覧会は8月27日まで開かれている。

 


萬葉集を読む②

2017-05-24 21:50:00 | アート・文化

  同人紙からの転載のつづきです。

1人の女性をめぐり展開された権力争い~万葉集を読む~(Ⅱ)

 前号で、①額田王をめぐる、天智、天武天皇の恋の歌、②石川郎女をめぐる、大津皇子、草壁皇子の相聞歌、③高市皇子の妻であった但馬皇女が穂積皇子を思う歌、④人妻であった紀皇女を恋う弓削皇子の歌。これらの歌の背景に、当時の皇位継承をめぐる権力争いがある、ということを書いた。

 ①の背景には壬申の乱があり、乱後、皇統は天智系から天武系に移った。②③④の背景には、持統帝の皇子・草壁と、その皇子・軽皇子を皇位に付けようとする持統、藤原氏と、他の皇位継承候補(およびその担ぎ手)との対立がある。

 軽皇子が文武天皇として即位して以降、中継ぎの天皇として、天智の娘で草壁皇太子妃であった元明天皇、草壁の娘である元正天皇がいるけれども、皇統は持統系から藤原氏出身の女を母とする皇子たちに移っていく。

 歌の歴史的背景が事実はどうであったかは別として、編者である大伴家持が、そのように読み取れるような編纂をして、歌を配置したのではないかということである。

 このような考えに至ったのは、梅原猛氏の『水底の歌』に展開された万葉論に負うところが大きい。梅原氏は、万葉集を怨恨の書と見る。公けの歴史書は勝者の歴史を記録している。歴史書に記録できない敗者の歴史を、伝承された歌や、編集の仕方によって暗示し、後世に伝えようとした、というのである。

 そう思って万葉集をひも解いてみると、意味がとりにくかった歌の数々が、霧が晴れたように、はっきりした姿を見せ始めるから不思議である。もっとも、梅原氏の説には、牽強付会ではないかと感じる箇所も多々あるけれども。

   *       *    *

 歌や物語をこのような形で記述、編纂するという方法は、万葉集に限ったことではない。古くは『古事記』や『日本書紀』にも見られる。例えば――

 『古事記』仁徳天皇の代では、天皇に召されながら、天皇の弟、速総別王(はやぶさわけのおおきみ)と結婚した女鳥王(めどりのおおきみ)の物語が記されている。女鳥王は、皇后・石之日売(いわのひめ)の留守中に仁徳帝が妻に迎え、石之日売の怒りを買った八田皇女(やたのひめみこ)の妹で、仁徳帝の異母妹である。

 仁徳帝は、速総別王を仲人にして、女鳥王を妻に迎えようとしたが、女鳥王は「皇后の嫉妬で姉は妃となることができなかった。私もお仕えすることはできません」と返事して、速総別王と結婚した。そのことを知った天皇は2人を殺そうとして軍を差し向ける。2人は共に逃げるが軍に追い詰められ、殺される。

 同じく『古事記』允恭天皇の代に、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)と、同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の物語が記されている。軽大郎女は、美しさが衣を通して輝いたので、衣通王(そとおりのおおきみ)とも呼ばれた。同母兄妹の密通事件によって、百官および天下の人々の心は木梨軽太子から離れ、同母弟の穴穂御子(あなほのみこ)の側に付いた。

 軽太子は大臣の家に逃げ込んで戦の準備をするが、穴穂御子率いる軍隊に捕らえられ、伊予の湯(道後温泉)に流される。軽大郎女は太子の後を追い、伊予の地で共に自殺する。彼らを追いやった穴穂御子は後の安康天皇である。

 この物語は、『日本書紀』では、軽大郎女と衣通王とは別人として描かれている。衣通王は皇后の妹で、天皇に召されるが姉の気持ちを思い、たびたびの要請にも応じない。これから類推すると、軽太子の罪は近親相姦ではなくて、天皇に召された女性と通じたことにありそうだ。

 二つの物語の主人公たちは、タブーである恋ゆえに殺されるのであるが、対抗する勢力を抹殺するために、一方の側が他方の罪をでっちあげたのではないかとも思われる。

   *       *    *

 時代はずっと下って、平安時代、『伊勢物語』と『源氏物語』にも似たような記述がみられる。

 『伊勢物語』第3段から9段にかけて、男(在原業平とされる)が二条の妃に懸想して、事件後、男が東国に下る話がある。二条の妃とは清和天皇の皇后、藤原高子で、陽成天皇を生んでいる女性である。男が「身をやうなきものに思」って東国に下る話は有名だが、皇后と通じて何の追及もされないのはおかしい。東下りとは、実は東国への流罪ではないか。

 『源氏物語』の「須磨」の巻は、光源氏が、異母兄にあたる朱雀帝の女御として入内するはずだった朧月夜との密会が発覚し、都に居づらくなって須磨に退く話である。

 朧月夜の父は、光源氏および左大臣勢力と対立している右大臣。姉は朱雀帝の母で、かつて源氏の母、桐壺更衣が帝の寵愛を一身に受けるのに嫉妬し、光源氏に息子の地位をとって代わられるのではないかと恐れた、弘徽殿の女御である。

 これらを考えると、光源氏が右大臣一派によって政治的に失脚させられたことは明らかだ。

   *       *    *

 以上、古代から中古にかけて、同様なパターンの記述方法を拾い上げてきたが、こうして見ると、一つの伝統とでもいうべきものが考えられる。それは、政治的な権力争いをあからさまに述べずに、あるまじき(=悲劇的)恋愛事件として記述するという伝統である。

 一つの恋愛事件を読み、あるいは聞きながら、その背後の政治的抗争を読み取る、あるいは聞き取ることは、ある時代までごく常識的なことだったのではないだろうか。

 これが、私のたどり着いた、もう一つの結論である。

*       *    *

【付記】ここまでが、40年以上も前に同人誌に書いたエッセイである。

 これを現在、友人たちと発行している同人紙に転載した後、空海の生涯と思想について書かれた『空海の座標 存在とコトバの深秘学』(高木訷元・高野山大学名誉教授著、慶應義塾大学出版会刊)を読んでいると、興味深い事実に突き当たった。

 藤原種継暗殺事件に、佐伯氏が連座して罰せられたとある。空海は讃岐の佐伯氏の出身で、佐伯氏は大伴氏から出ている。高木氏は、空海が、母方の叔父の勧めで入った大学を辞めたのは、この事件が影を落としていると考えておられる。

 空海12歳の延暦4年(785)、桓武天皇の側近として長岡京の造営に当たっていた藤原種継が暗殺される。直前の8月28日に死去していたにもかかわらず、大伴家持が事件の首謀者とされ、従三位中納言の官位を剥奪された。大伴継人、佐伯高成ら八人が死罪、息子の大伴永主らは流罪になった。

 家持は亡くなった延暦4年、陸奥按察使鎮守府将軍と同時に早良皇太子に仕える春宮大夫となっている。事件で死罪・流罪となった中に、春宮の官僚たちも多い。

 早良皇太子は桓武帝の実弟で、家持にそそのかされたとして廃太子となり、淡路へ配流される途中、亡くなった。事件の真相は謎だが、背景に藤原氏の四家(南家、北家、式家、京家)の勢力争いがあったと見る説もある。

 その後、桓武帝の周辺で死者が相次ぎ、天然痘が流行した。早良の廃太子により、皇太子となった安殿皇子(後の平城天皇)は桓武の長子で病弱だったが、いずれも早良親王の祟りとされた。

 祟りを恐れた桓武天皇は、早良親王に祟道天皇を追号、家持の官位を回復し、流罪になった者たちの官位も回復された。長岡京は棄てられ、平安京となる。

 桓武の母・高野新笠が、百済系渡来人の子孫であったことは有名である。父・光仁天皇の皇后は聖武天皇の皇女、井上内親王であったが、天皇を呪詛したとして、息子の他戸皇太子とともに幽閉され殺される。母子は後に祟り神となり、奈良の御霊神社に祀られることになる。

 桓武は、二人の死により皇位につくことができたとも言える。この事件の首謀者は、藤原式家の藤原百川だとする説が有力だ。百川の甥が種継であり、その娘薬子は、平城上皇と実弟の嵯峨天皇の権力争いに乗じて薬子の変を起こす。

 家持が生きた時代は、天皇家、藤原家をめぐる権力争いが熾烈で、大伴氏のような古代豪族は中央から遠ざけられ、没落の一途をたどる時代であった。このような時代背景を考えれば、万葉集巻19の有名な歌を詠んだ家持の気持ちが痛いほど理解できる。

4292 うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも獨(ひとり)しおもへば

*       *    *

 詩人の大岡信氏は著書『あなたに語る日本文学史』(新書館)の中で、「政治の敗者はアンソロジーに生きる」と題して万葉集を論じている。『万葉集』の大伴家持(および大伴一族)、『古今和歌集』の紀貫之(紀氏)、いずれも古い家系を誇りながら、政治的には没落した氏族だ。

 そして、歌合せ、連歌、連句という日本独自の「座の文芸」は、家持の父・大伴旅人が大宰府で詩を詠み合った宴にルーツがあるとの説を展開している。

 実際に詩歌を作る詩人ならではの発想だと思う。梅原猛氏の「萬葉集=怨恨の書」説よりも、大岡信氏の説の方がおおいに腑に落ちた。

 


萬葉集を読む①

2017-05-24 21:27:54 | アート・文化

いろいろ忙しくてブログの更新がお留守に。

例によって、友人と出している同人紙からの転載です。

 

1人の女性をめぐり展開された権力争い~万葉集を読む~(Ⅰ)

 先日、押し入れの段ボール箱を整理していたら、40年以上も前に職場の先輩が出していた同人誌が出てきた。先輩に頼まれて寄稿した若き日の私の原稿が掲載されている。読み返してみると、結構おもしろかった。今回は、その原稿をところどころ直し、場合によっては加筆して、転載することにした。

   *       *    *

 折に触れて万葉集を開く。読み方はまったくの自己流、その時々の想像の赴くままに読む。万葉の歌はどれもそれぞれにおもしろいが、何度となく読み返して興味深いのは、1人の女性をめぐる2人の男の争い、いわゆる三角関係のドラマが背後に窺われる歌群だ。

 「1人の女性を争う話」として誰もが思い浮かべるのは、額田王と、天智、天武天皇の兄弟の物語だろう。巻第1に、

20  あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王)

21  紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも(大海人皇子、後の天武天皇)

 これらの歌は、天智天皇が蒲生野に狩りをした時、酒宴の座興に詠まれた歌というのが定説である。事実はそうかもしれないが、この歌の前後にある歌を見てみると……。(数字は歌番号)

 天智朝の前、斉明天皇時代の最後に、妻を争ったという大和三山伝説の歌(1314)がある。作者は、当時、皇太子であり、実権を握っていた中大兄皇子だ。

  彼が帝位につき天智朝となってから最初にある歌は、額田王の春秋を競わしめた歌(16)。次にくるのが、天智に召されて大津に下るとき、額田王が三輪山への惜別の思いを詠んだ歌(1718)である。 そして、先にあげた額田王、大海人皇子の歌(2021)がある。これを最後に天智朝は終わり、天武朝が始まる。(注 1519の歌は別の作者の歌とされている)

 天智朝と天武朝の間には、言うまでもなく、壬申の乱がある。それについて万葉集は一言も語らないが、斉明朝の終わりから、天智、天武朝に至る時代に、天智、額田王、天武のたった3人の歌しか登場させていないのは、1人の女性をめぐる兄弟の恋争いの物語を綴ることによって、壬申の乱へと盛り上がってゆく天智、天武の権力争いのドラマを、編者(大伴家持だとする説が最有力)は読み取らせようとしたのではないだろうか。

   *       *    *

 次に挙げるのは、持統天皇の代の歌。巻第2に、

107 あしひきの 山のしづくに妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに(大津皇子)

108 我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを(石川郎女)

 大津皇子と石川郎女は人目をはばかりひそかに会っていたが、津守連通の占いによって密会が発覚、大津皇子は

109 大船の 津守が占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

 「占いで2人の恋が発覚することは承知の上で2人で寝たのだ」と大胆にも詠んでいる。2人がなぜ人目をはばからねばならなかったかは、持統天皇の皇太子、草壁皇子が石川郎女に送った次の歌によって推察できる。(現代語訳は筆者)

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に刈る草(かや)の 束の間も 我れ忘れめや(大名児よ、彼方の野辺で刈るかやの1束の、そのつかの間も私は君が忘れられない)

 石川郎女は草壁皇子の思い人、つまり妻の一人であったようだ。大津皇子は天武の皇子、母は持統天皇の姉、大田皇女である。母が早く亡くなり、後ろ盾を失っていたが、容貌いかめしく、文武に秀で、人気も高かった。

 凡庸な草壁の歌にくらべて、大津の歌は調べ高く、強い意志が感じられる。病弱な草壁を支える持統天皇、藤原氏によって、大津は謀反を企てたとして死へと追いやられる。

 この謀反事件についても万葉集は直接触れないが、持統朝の最初に配置され、大津皇子と石川郎女の相聞歌の直前に配されている歌がある。大津が、伊勢神宮に仕える姉、大伯皇女を訪ねたときの歌で、大和に弟を見送る姉の不安な心情があふれている。

105 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし

106 ふたり行けど 行き過ぎがたき秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

 大津が姉を訪ねたのは、自分が決起し、その結果殺されるかもしれないことを打ち明け、別れを告げにいったのかもしれない。

 巻第2の挽歌で、持統朝になって最初に掲げられているのは、大津皇子を悼む大伯皇女の有名な挽歌4首(163166)である。特に次の2首は、愛する弟の非業の死を現実のものとして受け止めようとする、姉の悲しみの深さが胸を打つ。

165 うつそみの 人にある我(あ)れや明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我れ見む(あなたは死んでしまったのに、現世にまだ生きている私は、明日からはあなたが葬られた二上山を弟だと思って生きていきましょう)

166 磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに(岩の上に生えた馬酔木を手折ろうとするけれども、その花を見せてあげたいあなたがこの世に生きているとは誰も言ってくれない)

 そのあとに続く167170が、草壁皇子を悼む柿本人麻呂の挽歌であるのは、偶然ではなく、編者の意図が働いていると見たい。

 ここでも、石川郎女をめぐる2人の皇子の恋の争いを描くことで、大津皇子対草壁皇子という皇位継承争いを暗示して見せている。

   *       *    *

 大津皇子、石川郎女、草壁皇子の相聞歌の数首あとに、但馬皇女の、穂積皇子を思う3首(114116)が挙げられている。中でも116の歌は、人を恋う若い女のひたむきで危うい情熱がほとばしり出ている。

116 人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(人の噂がひどくてうるさいので、この世に生まれて渡ったことのない冷たい朝の川を渡って、あなたを追っていきます) 

 このような情熱的な歌に対して、穂積皇子の返歌はない。皇女の死後、雪降る中で皇女の墓をはるかに望み、悲しみの涙を流しながら詠んだ挽歌があるのみである。

203 降る雪は あはにな振りそ 吉隠(よなばり)の 猪養の岡の 寒くあらまくに(雪よ、ひどく降らないでくれ。皇女が眠る吉隠の猪養の岡が寒かろうから)

 草壁皇太子の死によって、皇位継承争いは激しさを増していく。天武、あるいは天智の血を引く諸皇子が次々と失脚していき、沈黙させられる。

 但馬皇女は天武の長子、高市皇子の宮にいたとあるから、高市の妻の一人だったのだろう。その皇女と天武の第五皇子、穂積皇子が通じてしまった。そのことが原因なのか、穂積は一時、滋賀の山寺に追いやられる。都に戻されても、不注意な言動が命を落とすきっかけになりかねない。但馬皇女の死後、その墓を見やりながら挽歌を詠むことが、精いっぱいのことだったのかもしれない。

   *       *    *

 もう一つの例をあげよう。天武の第六皇子、弓削皇子が、異母妹の皇女、紀皇女を思って詠んだ歌が、巻第2の119122だ。その4首目、

122 大船の 泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子ゆゑに(停泊する港に大船が揺れてたゆたっているように、私も物思いに心が揺れて痩せてしまった。人妻の君に恋したせいで)

 「人の子ゆゑに」とあることから、紀皇女は他の皇子の妻だったようだ。皇女の返歌はないが、巻3の比喩歌390には、一人寝の寂しさを詠んだ紀皇女の歌が載っていて、弓削皇子との恋を暗示しているようにも読める。

 興味深いことに、穂積皇子が但馬皇女を偲んだ挽歌203のすぐ次に、弓削皇子が亡くなったときに置始東人が詠んだ挽歌204206が配されている。

 弓削皇子は、沈黙を続けた穂積皇子とちがって、物申す性格だったらしい。最古の日本漢詩集『懐風藻』には、持統天皇が草壁皇太子亡き後、その息子の軽皇子(後の文武天皇)を皇太子にしようと諮ったときに、弓削皇子が意見を言おうとして、壬申の乱で敗れた大友皇子の王子、葛野王(持統天皇の意を汲んで、軽皇子の立太子を支持)に厳しく制止されたという話が載っている。

 弓削皇子も若くして亡くなっている。梅原猛氏は、その著『黄泉の王』で、高松塚古墳の主は弓削皇子ではないかという仮説を立てている。他の皇子の妃であった紀皇女と通じ、軽皇子の立太子に異論を唱えようとした弓削皇子は、持統天皇・藤原氏から危険分子と見なされ殺される。その墓が高松塚であるという仮説である。

 この仮説を是とするなら、前に挙げた三つの例と全く同じパターンが展開されていることになる。      

 


アート、映画のこと

2014-01-04 21:49:53 | アート・文化

 父の死後、重しが取れたように、あるいは手から放れた風船のように、身軽になったので、昨年11月以降、いろいろな活動を再開した。

 まず、介護生活に入る前は月に2回、通っていたアート教室へ再び通い始めた。大昔、一緒に朝鮮語を習っていた在日の友人が開いている教室だ。

 久しぶりに行くと、小学生、中学生の二人と若い主婦二人の生徒も新しく加わり、内容も、遠近法、スケッチ、水彩、油絵の技法を本格的に学ぶ教室になっていた。

 私はコラージュが好きで、以前からやっていたこともあり、油絵や水彩はいずれ学ぶことにして、今はコラージュを中心とした曼荼羅シリーズを製作している。先生は、展覧会をやるから、そのつもりで、と生徒にはっぱをかけている。

 私のような中高年と違って、小学生や若い人は、先生から教えられたことをすぐに自分のものにして、進歩が著しい。それが刺激になって、以前より集中して製作している。

 

~◇~◇~◇~◇~◇~

 国立国際美術館の「貴婦人と一角獣」展、京都市立美術館の「竹内栖鳳展」にも行った。どちらも友人が招待券を手に入れてくれたので、年金生活者にはありがたかった。

 貴婦人と一角獣を描いたタペストリーを製作した当時の技術、いまだに美しい色を残していることに驚かされた。 

 このタペストリーが飾られていた貴族の館に、私の好きなジョルジュ・サンドが滞在し、傷んだままになっていたタペストリーの保存に助力したという話が、教育テレビの「新日曜美術館」で紹介されていた。

 竹内栖鳳展では、有名な「班猫」を実際に見ることができて、長年の望みがかなった。栖鳳が最後まで、画法を追求し続けたことがよく伝わってくる展覧会だった。

~◇~◇~◇~◇~◇~

 映画も観に行った。

 印象に残っているのは「アンナ・カレーニナ」。

 これは父がまだ元気だった7月に観た映画だが、「プライドと偏見」のジョー・ライト監督が、トルストイの長編小説をどのように映画化したのか興味があり、ちょうど近くの映画館で上映されていたので出かけたのである。

 「プライドと偏見」にも出ていたキーラ・ナイトレイがアンナ役をやっている。 

 まず、その手法に驚かされた。映画の観客は、舞台で演じられるアンナとヴロンスキーの恋物語に加えて、役者がせわしく動き回ったり、衣装替えしたりする舞台裏や、舞台装置まで見せられる。

 一方で、トルストイに近い人格と言われるリョーヴィンとキティの恋は、ロシアの雄大な田園風景の中で描かれている。

 アンナとブロンスキーの恋や二人を取り巻く貴族社会が芝居じみて見える一方、リョーヴィンとキティーは地に足が付いた現実の生活を感じさせる。 

 長編小説を映画化する場合、原作に忠実に描こうとすれば、ストーリーを追うだけで精いっぱいという結果になりがちだが、ジョー・ライトは、舞台劇という演出方法を使って、トルストイが描こうとしたのはこういうことではなかったかと、一歩引いた視点から観客に問いかけているのである。

 若いころに読んだ原作では、アンナに感情移入するあまり、夫のカレーニンが俗人っぽく感じられたが、映画では、妻の不倫と貴族社会の中で苦悩する良識ある男として描かれている。私は、アンナより、カレーニンの方に感情移入したほどである。カレーニン役のジュード・ロウの演技がすばらしかったせいかもしれない。

 アンナとヴロンスキーが出会う舞踏会の場面は、モダンダンスの振付師、シディ・ラルビ・シェルカウイという人の振付けだそうである。

 音楽と巧みなボディ・ランゲージによって、アンナとヴロンスキーの、いったん燃え上がったら最後、理性でコントロールできない恋を象徴的に描いていて、リアリズムで描くより、恋というものの本質を見事に表現している。

 次に感動したのは、高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」。

 高畑監督の作品は、宮崎駿監督の作品より、私の体質に合うような気がする。

 原作の「竹取物語」は、j平安時代の物語文学の中では好きな物語だ。高校の古典の教科書で初めて原作に接し、暗唱するほど何度も読んだ。かぐや姫が天に帰るときの、あたりが真昼のようになり、慌てふためく地上の人間の描写は見事だと思う。明るい満月の夜、私は決まって「竹取物語」のこの場面を連想する。

 アニメ「かぐや姫の物語」は、幼なじみの男との恋を除いては、原作に忠実に描かれている。

 高畑勲という名を認識したのは、彼のアニメ作品が最初ではない。

 カナダのアニメ作家、フレデリック・バックの「木を植えた男」を観て大いに感動し、書店で見つけた『木を植えた男』の著者が、高畑勲だった。

 「木を植えた男」は、パステル画か砂絵が動いていくような、流れるような線で描かれた作品で、アニメ映画を見ているというより、目の前に何かの啓示が出現したような、不思議な感動を覚えた。

 そのフレデリック・バックは昨年のクリスマス・イブに、89歳で亡くなった。

 高畑監督自身が、フレデリック・バックに大きな影響を受けたということを、ことあるごとに言っているように、「かぐや姫の物語」も、風景や草木が緻密に描かれているのとは対照的に、人物は、素描画がそのまま、水の流れが動いていくかのように描かれる。それが、かえって、生き生きした動きを生み出している。

 私は何度も泣いてしまった。どうして泣いてしまったのか。目が腫れるほど泣いて、恥ずかしいので、遠近両用メガネをかけ、マスクをして映画館を出た。その夜は、泣いたことで鼻の粘膜が炎症を起こし、ティッシュボックスを一箱、空にした。

 「かぐや姫の物語」を見て、すっかり忘れていた話を思い出した。幼いころのことなので、自分では覚えていないが、父がよく話してくれたことがある。

 私が初めて買ってもらった絵本が「かぐや姫」だそうだ。敗戦から何年もたっていないころの話だから、今のような立派な絵本ではなく、粗末な紙に粗末な色で描かれたものだったと思う。

 その絵本を繰り返し、繰り返し、読んでほしいと父にせがんだそうだ。父が読んでやると、かぐや姫が天に帰る場面で、決まって、大きな目を見開いてぽろっと涙を流したのだそうだ。そのくせ、また、読んでほしいとねだり、天に帰る場面でまた涙を流すのである。 

 ふと、私が「竹取物語」が好きで、暗唱するほど読んだのは、幼い日、「かぐや姫」の絵本を読んでもらったせいではないか、と思った。 

 そして、「かぐや姫の物語」を見て、目が腫れるほど泣いてしまったのは、父に読んでもらった「かぐや姫」の絵本の記憶のせいではなかったか。 

 「かぐや姫の物語」では、竹の中から拾い上げたかぐや姫を、竹取の翁と媼が、いつくしみ、かわいがって育てる様子を、詳細に、美しく描いている。 

 その場面を見ながら、まず、泣けてきた。「このように、私も、両親にいつくしみを受け、大切に育てられたんだ、なぜ、今まで、そういう自明のことに気付かないできたのだろう」と思うと、涙が止まらなかった。