空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

信濃毎日の社説

2013-12-30 23:24:35 | 社会・経済

 先日、『信濃毎日新聞』のウェブサイトで、秘密保護法について論じた社説を読んだ。 

 驚いたことに、サイトで確認できる範囲では(あまり前の記事は削除されているので)、11月中旬から、ほとんど連日、特定秘密保護法についての社説を掲載している。

 全国紙やテレビなど、他のマスメディアが、はじめは様子見的な論調から、世論が盛り上がりを見せて以後に、ようやく危機感を持った論調に変わっているのに対し、『信濃毎日』は、秘密保護法がいかに国民の知る権利と表現の自由を侵し、民主主義を危機に陥れるものであるかという内容で、首尾一貫している。

 見出しだけを並べてみよう。

 11月22日「秘密保護法 野党の対応 将来に責任持てるのか」

 11月23日「今できること 声を上げ行動に移そう」

 11月24日「秘密保護法 共謀罪 心の中も取り締まる」

 11月25日「秘密保護法 衆院審議 疑問は山積みのままだ」

 11月26日「秘密保護法 外交文書 さらに国民から遠のく」

 11月27日「秘密保護法 採決強行 議会政治の自滅行為だ」

 11月28日「秘密保護法 参院審議入り 民意に沿って廃案へ」

 12月1日「市民も処罰 国際基準を逸脱する」

 12月2日「秘密保護法 会期末へ 拙速審議は許されない」

 12月3日「秘密保護法 石破氏の発言 法案の危険性さらした」

 12月4日「秘密保護法 保護措置 議会政治を窒息させる」

 12月5日「広がる慎重論 国民の声に耳を傾けよ」

       「秘密保護法 党首討論 懸念ばかりが膨らむ」

 12月6日「公安警察肥大 息の詰まる社会にするな」

       「秘密保護法 採決強行 内外の懸念無視の暴挙」

 12月7日「秘密保護法 力づくの成立 民主社会を守るために」

 12月8日「秘密保護法 安倍政治 軍事優先には『ノー』を」

 12月10日「秘密保護法 報道の自由 壁に穴をうがつ決意」

 12月11日「臨時国会 もう力づくはごめんだ」

 12月12日「共謀罪 内心の自由を侵さないか」

 12月14日「公布のあと 廃止の努力を重ねよう」

 内容も、秘密保護法を一般論として、他人事のように取り上げるのではなく、報道機関である『信濃毎日新聞』自身に降りかかる問題だとする当事者意識が、他のメディアより前面に出ているように感じる。

 たとえば、12月10日「秘密保護法 報道の自由 壁に穴をうがつ決意」では、

 「報道活動の前に立ちふさがる秘密の壁は一段と高く、厚くなる。穴をうがち広く国民に知らせようとする取材は、これまでとは比べものにならないくらい厳しいものになる。

 私たちはいまそんな覚悟を固めている。メディアで働く者に共通する思いだろう。

 特定秘密保護法は閣僚らが秘密を指定し、公務員からの漏えいを厳罰によって防ぐ法律である。それは同時に、強力なメディア規制法の側面ももっている。」

 と書き、次に、取材現場で記者が直面するであろう、報道を取り巻く厳しい環境について具体的に述べた後、

 「けれどもひるんではいられない。

 メディアに『報道の自由』が認められているのは、国民の『知る権利』に奉仕するためである。

 (中略)国民の『知る権利」あってこその『報道の自由』である。国民が知るべき情報に迫り、明らかにできないようでは、メディアの存在意義はなくなる。

 そのことをあらためて確認し、これまで以上に力を注ぐことを約束しておきたい。

 私たちはこれからも権力には厳しい目を注いでいく。秘密保護法の運用を点検し、問題が起きたら広く国民に訴えて、政府の是正を求めていくつもりである。取り組みを読者の方々が見守り、支えてくださることを願っている。」

 12月14日「公布のあと 廃止の努力を重ねよう」には 

 「石破茂自民党幹事長の発言が波紋を呼んでいる。法案反対のデモをテロになぞらえ、特定秘密の報道の処罰に言及した。すぐに撤回したものの、政府与党の強権姿勢がにじむ発言だった。

 表現の自由、報道の自由に理解の薄い政治家が幅をきかせている現状では、秘密法を始動させるわけにはいかない。危険すぎる。

 法律が公布されても、施行前に廃止することはできる。前例もある、私たちはこれからも秘密保護法反対を読者と国民に訴えていく。」

 

 長野県では、市町村が次々と、秘密保護法反対、もしくは施行に慎重であるべき、もしくは廃案にすべきだとする決議や意見書が議会で採択されているそうだ。

 私たちも、一人一人が、民主主義と、知る権利、報道の自由を守るために、自分の住む市町村議会で、秘密保護法廃止への決議が採択されるよう、働きかけよう。

 


同窓会

2013-12-27 13:25:48 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、17年間勤めて退職した会社の先輩のお誘いで、同じ会社で働いていた有志が集まる茶話会に同席した。近くに住んでいて、以前は飲み会だったが、身体を悪くしたり、高齢になったりで、最近は茶話会になったのだそうだ。

 2人は、職場が違うが仕事上お世話になり、退職後もよくお会いしていたHAさんとHSさん。1人は、私が身体を悪くして仕事を投げ出すようにして退職した後、その後始末をしてくださったSSさん。もう1人はなぜ親しくなったか忘れたが、折に触れて社内で話をするようになり、退職後、今回初めて会ったKさん。後のSNさん、Yさん、STさんの3人は知らない方がただった。

総勢7人、女は私1人である。男がほとんどの職場だったので、そういう状況には慣れているが、会場の喫茶店は、客のほとんどがお昼のお茶を楽しむおしゃれな女性たちで、私たちのテーブルはちょっと浮いた存在。それも、私が最年少(だいたい、同世代か、私が最高齢という場が多い)なので、はじめはおとなしくしていたが、先輩たちのお話を聞くうちに、いろいろ思い出すこともあり、あれこれ話題に入れてもらって、楽しい時間を過ごした。

 働き過ぎとひどい上司のせいで、身体を壊して退職した会社なので、あまり近づきたくないところだったが、私も年を重ね、時間もたったので、そういう気持ちはいつの間にか薄れていた。

 同席した先輩方も、お話を聞いていると、昔勤めていた会社が懐かしくて集まっているというより、たまたま近くに住んでおり、話も合う人間が気軽に意見や情報を交換するという集まりのようだ。

会社はマスメディア関係だったので、話題は、近ごろの政情やマスメディアの無責任さに集中し、右寄りになった日本の状況を憂うる意見が飛び交った。

 それに次いで多かったのは、みんな高齢者なので、身体や病気に関する話題だ。

 私の隣にいたSNさんは食道がん、仕事の後始末でお世話をかけたSSさんは胃がんに次いで食道がんになり、いずれも内視鏡手術を受けたという。

 山登りが趣味だったKさんは、阪神大震災の時、つぶれた家の下敷きになって足を痛めて以来、街中は歩けるが、山歩きは無理だ、第一、気力がなくなってね、と言われた。

それでも、みなさん、世の中を憂うる気持ちは人一倍で、秘密保護法が通った時の永田町の記者たちの質問ぶりをふがいないと言う。

 私が、天皇誕生日の記者会見で、天皇が平和憲法に触れたことに対して、ほかの新聞も載せているのに、東京新聞だけがインターネット上の右翼的なサイトで攻撃されているのはどうしてなのかと聞くと、「東京新聞がいちばん良心的な報道をしているからじゃないのかな。それが右翼の攻撃材料にされたんだろう」という意見。

「秘密保護法が通ったとき、信濃毎日の社説はすごかった。国民よ奮起せよ、いう社説だった。長野県の自治体は次々と、秘密保護法反対の意見書を決議しているらしい」という話も聞いた。

 帰宅してから、『信濃毎日』のウェブサイトを見て、驚いた。サイトで確認できる範囲では、11月中旬以降、ほぼ連日、秘密保護法がいかに民主主義に反し、国民の知る権利、報道の自由を阻むものであるのかを社説で論じているのである。

 その内容については、次回に書く。

 

 

 

 


満点の着地③

2013-12-17 18:30:48 | 日記・エッセイ・コラム

 通夜と、翌日の本葬は、家族葬用の部屋が空いていなかったので、ホールで行われた。祭壇はなるべく質素なものをお願いしたが、なかなか立派に見えた。 

 驚いたことに、上の弟の単身赴任先・山口から、社員の方が4人駆けつけてこられて参列された。右側の席に家族が座り、左側に弟の会社の方々が座った。

 通夜、本葬の神事は、母のときと比べて短いように思った。葬儀場の都合で簡略して行ったのだと思う。

 神事の時はあまり泣かなかったが、出棺のとき、父の遺体の周りに花を入れるさいに、次から次へと思いがあふれてきて、私は号泣してしまった。父の額に手を当て、「おとうさん、がんばったね。お母さんのそばに行けるよ。ありがとうね」と言葉をかけた。

父の遺体は市の火葬場で荼毘にふされた。係りの人の説明では、しっかりした骨だということだった。骨も丈夫だったので、長生きすることができたのだろう。

 母の時は、ほとんどすべての骨を上からつぶすようにして骨壺におさめたが、父の場合は、おもな骨を骨壺に納めたあと、残った骨は火葬場の共同墓地に葬るということだった。

 遺骨は長男の家に一旦預かってもらって、10月14日に実家で、帰家祭と十日祭を行った。斎主は、母と同じ、実家に近い飛鳥坐神社の宮司さんにお願いした。

 父はとうとう、生きている間に住み慣れた家に帰ることはできなかった。それを思うと胸が痛むが、仕方がない。

  帰家祭は火葬後、家に帰るとき、十日祭は、仏教式でいう初七日、亡くなって10日目に行う。それを葬儀場の都合、家族の都合で、亡くなって4日目に行うのは父にすまない気がしたが、これも仕方のないことである。

 宮司さんは延喜式に載っている古い神社の宮司さん。神事については伝統を重んずる方のようで、お願いの電話をしたときも、「それはちょっと……」とあまり感心できないようなことを言われたが、重ねてお願いして、引き受けていただいた。「無理を言って申し訳ありません」と謝ると、「それはお父さんに対して申し訳ないんですよ」と叱られた。 

 11月23日に、五十日祭(仏教でいう四十九日)、納骨祭を行った。この時、私は大失敗をしてしまった。

 五十日祭が終わるまでは、父の霊は神棚に入らず、扉を閉めた神棚の前に、別の祭壇を作って祭られる。五十日祭は、父の霊を神棚に入れる祭祀なので、別に作ってあった祭壇に供える供物と、神棚を開けて、そこに供える供物は別に用意しなければならない。

 母の時もそうしたのだが、私はすっかり忘れてしまって、供物を一式しか用意していなかった。いざ、神棚に祭る供物のことを聞かれて初めて気が付いたが、もうどうすることもできない。宮司さん「しゃあないなあ」と言いながら、供物なしで神棚に父の霊を遷し、十日祭を終えた。今思い出しても冷や汗が出る思い。

 納骨は、母の時と同じ石材店の人が、予め父の名と亡くなった日付、享年91歳と墓碑に刻印してくれていた。墓石を動かして見ると、母の骨は少し量が低くなっていたが、まだ崩れずにあった。その上に父の遺骨を入れた。

 私は、いつか、両親の故郷・種子島の海に、二人を帰してやりたいと思ったので、両親の骨をほんの少し取り分けてもらった。

 こうして、父の遺骨は無事、母の眠る墓に納められた。母に頼りっぱなしだった父、認知症がまだ進んでいないころは、しきりに家に帰りたがった父は、母の傍でやっと安らぐことができただろう。 

 父は与えられた命を生き切った。家族にも、介護スタッフにも、医療スタッフにも、涙より、感謝と微笑みをプレゼントして、旅立った。見事な最期、満点の人生の着地を私たちに見せてくれたと思う。(この記事終わり)