友人に誘われて、久しぶりに大フィルのコンサートに行った。
会場はフェスティバル・ホール。昔のホールが建て直されてからは、初めて行く。
私が若いころは、著名な外国の演奏家のコンサートにふさわしいホールは、フェスティバル・ホールしかなかった。
大阪ではほかに毎日ホールがあったが、こちらは演劇が中心だった。
レニングラード・バレエの公演では、群舞のときには、踊り手が舞台から落ちるのではないかと思われるほど舞台が狭かった。
大阪の文化状況の貧しさは、フェスティバル・ホールが昔より広く立派になったとはいえ、当時も今も貧しい。代表的な大阪文化である文楽さえも、市の助成金が削られた。
年末の御堂筋を電飾で飾り立てて、経済効果があったと悦にいっている市長さんの文化程度にはあきれるばかりだ。
大フィルも大阪市の助成金が削られて、財政的に苦しそうだ。
中心的なプログラムは、ブラームスの交響曲第1番。ブラームスの交響曲を聞くのは久しぶり。
私はレコードしか持ってなくて、蓄音機が壊れてからは、新しい製品を買っていないので、ずいぶん長い間、ブラームスの交響曲を聞いていない。
レコードは、カール・ベーム指揮、ベルリンフィルの演奏で、繰り返し聞いて、その演奏に馴染んでいるせいか、今回の大フィルの演奏は、少し軽い感じがした。
指揮者はあまり知らない人だったが、経歴を見ると、とても優秀な人らしいし、実際にその指揮ぶりを見ていると、優れた指揮者のように思われた。
演奏が軽く感じられたのは、指揮者のせいというより、オーケストラ・メンバーが、とても若い人が多く、弦楽器は、ほとんどが若い女性で、大フィルを支えてきたベテランらしい演奏者は少ないように思われた。
彼女たちが演奏している様子を見ていると、もう一つ、粘りのある演奏ができていない。
私の頭の中で流れている、カール・ベーム=ベルリンフィルの演奏は、数ある名演奏の中の名演奏なので、それと比べるのは妥当ではないかもしれない。
それでも、メンバーが若い女性が多いことと、名指揮者の朝比奈隆さん亡き後、助成金も減らされて、財政的に苦しくなったことと、関連はないのかしらと思ってしまう。
少し前、NHKのBSで、市の助成金が受けられなくなり、存続の危機に立たされるフランスの交響楽団のドキュメンタリーが放送されていた。
これが最後の演奏会になるかもしれないという、その演奏会を指揮するのが佐渡裕さんだった。 佐渡さんはその交響楽団と昔から深いかかわりがあって、存続のために助力する。
結局、いろいろな人々の努力のおかげで、市の助成金が受けられる、しかも額が増やされることになって、楽団員たちは、最後の演奏になるはずだったベートーベンの第9交響曲を、曲名どおり、喜びにあふれて演奏することができた。
その時の、佐渡さんの指揮ぶりは、練習も含めて、本当に、団員と一緒になって、本番では聴衆も一緒になって音楽を作り上げるというふうなのだ。
大フィルの演奏が軽く感じられたのは、演奏技術もあるかもしれないが、演奏者と指揮者の一体感が希薄だったせいでなないかと思う。
それは、指揮者のせいと言うより、楽団員が指揮者や聴衆と一緒になって音楽空間を作り上げるという環境が、財政的理由や、その他なにやかやの理由で壊されたせいではないのかしら。
久しぶりにブラームスを聞いて、ベーム=ベルリンフィルのブラームスを聞きたくなった。