京都シネマで再上映されているドキュメンタリー映画「ダライ・ラマ14世」をもう一度観に行った。
確かめておきたい箇所があったので、京都まで出かけた。
1回目観たときには、ただ、法王のお話に感動してばかりいたのだが、今回は、少し客観的に、暗闇の中でメモを取りながら観た。(後でメモを見たら、読めない箇所のほうが多かったが)
確かめたかったのは、カルマについて法王がお話になった場面だ。
がんが見つかり、再発した女性が「試練を与えられる人と、試練が与えられない人がいる。どうしてですか」と問う。
法王は答える。
「仏教には因果の法というものがあります。原因があり、帰結がある。過去のカルマによって多くの不幸が起こるのです」
難病の子どもを連れた母親に対しても、
「この状況を解決できる方法があるのならば、そうしなさい。方法がないのならば、因果の法だから、受け入れてください。そして、それ以上、悲しむ必要はありません」と答える。
最初にこの場面を観たときには、仏教の真理に基づいて、誠実にその人に向けて答えられている、その姿に、感銘を受けた。
しかし、なぜ、仏教者なら誰でも答えるであろうようなことを、法王はおっしゃったのか。それが気になっていた。
再び同じ場面を見て、法王の答えには、より積極的な意味が込められていることに気付いた。
もう1か所、法王がカルマについて話される場面がある。
「チベットの問題は、我々にとってのカルマです。チベットの外に出て、初めてそのことに気付いたのです」
カルマは、日本語では「業」と訳される。
業とは、人間の意識、言葉、行為など。それが積み重なり、因となって、ある結果を生む。
日本では、「過去の業によって、いまがあるのだから、仕方がない」とか、「親の因果が子に祟り」とか、宿命だから仕方がない、諦めるしかない、というふうに、ネガティブな文脈で使われることが多い。
しかし、仏教の教えは、そんなに単純なものではない。
ある一つの原因が、一つの結果を生むのではなく、そこには「縁」=さまざまな条件が複雑に絡み合って、ある帰結に達する。
法王は話された。「因果の法だから、受け入れなさい。それ以上、悲しむ必要はありません」と。
「起きてしまったことは、どうすることもできない。私たちは過去には戻れない。だから、それ以上、悲しむことをせずに、良い因が良い果をもたらすように、これからを生きなさい」とおっしゃっているのだ。
起きてしまったことを怒り、恨み、悲しみ続けるならば、それが業となって、さらに悪い結果をもたらす。
「チベットの問題は我々にとってのカルマによる。そのことに、チベットを離れて、初めて気付いた」ということを、法王がどういう機会に話されたのかは知らない。
しかし、それを聞いて、なぜ、法王が、チベットの独立を断念し、「5項目の和平案」を提示されたのかが、よくわかった。
チベットで起きた問題が、たとえ中国の一方的な侵略によって引き起こされたことであっても、起きてしまったことはどうすることもできない。
起きてしまった結果を受け入れ、その結果から出発して、どうようになすべきかを考え、行動するしかないのだ。
現実を見据えて中国と交渉することを考えた結果、独立を断念して中国にとどまること、そのための「5項目の和平案」が提示されたのだと思う。
中国の侵略は許されるべきことでない。
しかし、それを、怒り、悲しみ、中国を非難するばかりでは、解決の道は見いだせない。
ダライ・ラマ法王は、因果の法を説くことで、怒りや怨み、悲しむことから一歩踏み出して、もっと積極的に生きなさいとおっしゃっているのだということに、今日、気付かされた。
そのように考えれば、悩みを訴える若者に対して、いつも「もっと広い視野で考えなさい」と話される意味も分かって来る。
目の前にあることに囚われてばかりでは、因果の悪循環から脱することができないのだ。
映画の中で、「希望が見えない」「閉塞感がある」と訴える日本の若者に対して、法王は次のように答えている。
「日本人は心の充足が少ないように見える。日本は物質的に恵まれ、テクノロジーも発達している。英語を学び、もっと広い世界に出て、世界に貢献しなさい。それは自信につながります」
「平和は内なるものから生まれるものです。武力による平和は、一時的なものでしかない。心の中から変えていかなければ。誰かがスタートしなければなりません」
今日、再び、映画「ダライ・ラマ14世」を観て、この映画は、ダライ・ラマ法王を追いながら、実は日本の有り様を、世界の有り様を映し出している映画だということにも気付かされた。
パリで起きたテロ事件は、新たな暴力の連鎖を生み出そうとしている。
ダライ・ラマ法王のメッセージを、いまこそ、すべての人間が受け止めなくては!