空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

十日祭

2011-09-25 20:40:21 | 日記・エッセイ・コラム

 神式では、葬儀のあと、十日ごとに神事を行い、五十日祭を終えた後、祖先神となった故人は神棚に祭られる。

 我が家では、略して、十日祭と、五十日祭だけすることにした。

 土曜日に、来られる家族が集まって、十日祭を行った。

 飛鳥坐神社の宮司さんに教わったとおりに、魚、果物、野菜の供物を用意し、水、塩、米、酒とともに、母の祭壇に供えた。

 神主さんは、まず、祭壇、玉串、参列者を清める修跋、献饌のあと、母がこの世での生を終え、黄泉の国に無事にたどり着くように祈る祝詞を奏上する。柿本人麻呂が亡き妻の姿を求めて、山道をさまよう挽歌によく似ている。黄泉路をたどる母の姿を想像して、やはり涙が出てくる。

 それから、神主さんのあとについて、参列者一同も祝詞を奏上し、玉串奉奠で、十日祭は終了した。以後は、十日ごとに祝詞を唱えてお祭りするように言われた。

 神主さんへのお礼は、あらかじめインターネットで調べておいたとおりに、奉書封筒に「御祭祀料」と書いて、お渡しした。

 納骨についてどうするか宮司さんに相談すると、五十日祭が終わったあと、石材店の人に来てもらい、墓地へ行って、納骨祭を済ませることにした。

 五十日祭、納骨祭に用意するものも宮司さんにこまごまと教えていただいた。

 妹が、外国にいる娘のために、神事の様子を写真に撮って送りたいが、写真を撮らせていただいていいですかと聞いた。

 宮司さんいわく。「それは構いませんが、神事は、その場に身をおいて、感じることが大切なんです。写真で見て、理屈で理解するものではないんです。現代人は、心に鎧戸を下ろして、目に見えないものは無いものとして、初めから見ようとしないでしょう。でも、心を開いて、その場に立てば、目に見えないものも感じ取ることができる。私らの神社にも、このごろは、スピリチュアルなものを求めて、鳥居をくぐったとたんに、ああ、ここは何かが違う感じがすると言う若い人が増えているんですよ」

 妹は、「わかりました。いつか、娘を飛鳥坐神社に連れて行きます」と納得した様子だった。折口信夫が好きな妹なので、折口にゆかりのある飛鳥坐神社と、宮司さんがすっかり気に入ったようである。そういう妹は、キリスト教徒である。

 私も仏教徒であるが、神道について、ユーモアを交えて何でもきさくに教えてくださる宮司さんが気に入っている。神道と日本仏教は、古代からお互いに影響を受けながら現代の姿になったので、今後は神道の勉強もしないといけないなと思ったことである。

 墓地は、新興住宅地が出来たとき、地元の村の共同墓地に余裕があったので、新住民にも分けてもらって、我が家も自宅から十分ほどのところに墓をつくることができた。現在は、1歳に満たずに亡くなった兄と、母方の祖母が入っている。五十日祭のあと、ここに母も入る。

 

 


神式の葬儀(その3)

2011-09-23 21:47:28 | 日記・エッセイ・コラム

 葬場祭(一般の告別式)は、斎主さんが葬場、参列者、供物などを清める修祓(しゅうばつ)、水、酒の入った器の蓋を取って供物を捧げる献饌のあと、祝詞奏上が行われる。故人の略歴や人柄を盛り込み、これからは故人が守護神として遺族を守ってくれるようにと祈る。

 母のことは、通夜祭では、「〇〇(母の名)刀自」というふうに読み上げられていたが、母の霊が霊璽に遷されてからは、「〇〇(母の名)刀自のみこと」と読み上げられた。

 「ああ、母は、これからは祖先神となって私たちを見守ってくれるんだ」と思ったら、それまで出なかった涙が出てきて、バッグの中のハンカチをまさぐった。

 日本では、仏教も伝統的な祖霊信仰の影響を受けて、仏壇の中は、仏像より位牌のほうが目立つ。祖霊信仰というものを、母の葬儀で、初めて実感した。亡くなった家族が、祖先神として遺族を守るという信仰は、自然に受け入れられるように思った。

 玉串奉奠の後、斎主が退場し、葬場祭は終わる。

 そのあとは、棺の中の母の周囲を花で埋めた。これが母を見ることができる最後の機会なので、みんな泣いた。父は何度も、「お母さん、お母さん」と呼んで棺の傍を離れなかった。50年以上連れ添った妻の顔を二度と見られなくなるのだから、一番つらいのは父だろう。認知症でも、今現在の状況はちゃんと分かるので、父の気持ちを思うと胸が痛い。

 通夜祭、葬場祭とも、自治会の方々が大勢きてくださった。両親と同じ世代の方が多い。田中角栄首相の日本列島改造論のころ、周囲に店も何もない郊外の新興住宅地に、苦労して持家を建てた世代である。自治会も父たちが苦労して基礎をつくった。だから、両親をよく知っていてくださる方ばかりだ。どなたが知らせてくださったのか、父と仲のよかった方の娘さん二人が、わざわざ遠方から駆けつけ、参列してくださった。

 火葬場には家族だけで向かった。山間にある市立斎場への道は、稲穂が色づき始めた田んぼの畦道や山裾を彼岸花がいろどり、母を黄泉路へと導く明かりのように見えた。文字通りの彼岸花である。

 できて間がない斎場は設備が整っていて、きれいだった。ホテルのロビーのような待合室で火葬の準備が整うまで待たされる。

 斎場の係りの方が、もう一度故人と対面するかどうか、念を押したが、私たちは断った。炉の中へ棺が送り込まれ、炉の扉が閉じられて、着火のスイッチを家族に代わって私が押しますがどうしますかと問われた時も、お願いしますと答えた。

 これで、この世に生まれ、93年近く生きた母の肉体は灰になる。

 葬儀場に一度戻って、葬儀社さんが用意してくれたお弁当を食べた後、骨上げのため、斎場に戻った。

 炉から戻された母の骨を、係りの方が、これは足、これは大たい骨、これは腕、これは肩甲骨、これは喉仏、ここがあごの骨、というふうに、詳しく説明してくれる。

 驚いたのは、2年前に左の大たい骨を骨折したとき、手術で入れた鉄のかすがいがとても大きく、重かったことだ。母はリハビリで頑張って、歩けるようになったが、こんなに重いものを体に入れていながら、よくバランスを取って歩いたなと、また涙が出てくる。

 喉仏の骨(実は第二頸椎)だけ小さい別の器に入れ、後は、みんなで箸で拾って、大きい骨壺に入れていく。いっぱいになると、係りの方が蓋を閉めて押して、つぶれて減ったあとに、また骨を入れていく。まだ、入りますよと係りの方が言ったが、形のあるものはほとんど入れたので、もういいですと言うと、蓋を閉めて上からぐっと押して、箱に入れ、白布で包んで渡してくれた。

 熊谷守一が愛娘の火葬の帰り道を描いた「焼き場の帰り」という作品を思い出した。守一と息子と二人して、白布に包まれた箱を持ち、山道を歩いている。

 そのように、私も、母の骨を抱いて、歩いて帰りたかったが、家までは遠すぎる。

 家では、斎主さんが「帰家祭」の準備をされていた。門前には塩がまかれていた。遺族は、斎主さんに門の前で清めてもらうまで、家に入ってはいけない。

 全員が家に入って、母の遺影と遺骨が飾られた祭壇で、最後の儀式が行われた。

 後は、仏教の初七日に当たる十日祭、四十九日にあたる五十日祭を行う。


神式の葬儀(その2)

2011-09-22 19:50:34 | 日記・エッセイ・コラム

 母が亡くなった翌日は、通夜祭および遷霊祭。

 午後4時ごろに葬儀社の方が来られて、納棺の儀を行う。棺に入れるものをあらかじめ用意していなかったので、直前になって、着物はどれ、靴はどれ、ほかに何を入れる、と大騒ぎ。

 母が棺に納められると、父は、また、声をあげて泣いた。 

 母の遺体を葬儀の行われるセレモニーホールに運ぶ。家から車で15分ほどのところである。

 自治会の方々は、集会所前で待ち合わせて、マイクロバスで来ていただく。

 葬儀社のスタッフが祭壇を準備している間、広い座敷の待合室で待つ。遺族は、父、私、長男と次男夫婦、その子どもたち、妹母娘、総勢14名。妹の元夫の二人の姉も来てくれたので、近親者として参列してもらった。通夜の終わりごろに、東京にいる甥(長男の長男)夫婦とひ孫も来てくれた。外国にいる妹の次女夫婦を除いて、全員がそろった。この顔ぶれは、今年のお正月と同じである。母も喜んでくれたと思う。

 斎主さんが祭詞をあげたあと、遷霊祭といって、母の霊魂を、仏教の位牌にあたる霊璽に遷す儀式を行う。明かりを消して、霊を霊璽に遷し、仮霊社に納める。暗い中で行われるこの儀式は神秘的である。明かりがつくと、斎主が遷霊の詞を奏上し、遺族、参列者が玉串を捧げる。玉串の捧げ方は、スタッフの女性が教えてくれた。この時も、二礼、忍手(しのびて)で二拍手、一礼をする。

 斎主を務めてくださった飛鳥坐神社の宮司さんは、声がはっきりしていて、滑舌もよく、祭詞の文句がよく聞き取れた。古事記や万葉集の柿本人麻呂の長い長い挽歌の朗読を聞いているようで、とても文学的である。

 神道の儀式とは、要するに、天つ神、国つ神、黄泉の神をはじめとする八百万の神々に、すべての罪、穢れを清めてもらう儀式だということがよくわかった。

 食事の時は、久しぶりに家族ががそろったので、あれこれ、話に花が咲いてにぎやかだった。父も、子どもたち、孫たち、ひ孫に囲まれ、ご機嫌だった。

 その夜、会場には、私と長男が残り、みんなには帰ってもらった。

 弟が、「俺が起きているから、先に寝たらいい。途中で代わってもらうから」と言う。布団一式、寝間着、洗面用具がセットになって、貸布団の大きな袋に入って用意されていた。

 シャワーを浴びて、横になり、しばらくテレビを見ていたが、いつの間にか眠ってしまった。母を自宅で看病している間も、入院させてからもろくに眠っていなかったので、熟睡状態。弟と途中で代わることなく、朝まで眠ってしまった。

 

 


神式の葬儀(その1)

2011-09-21 11:33:30 | 日記・エッセイ・コラム

 我が家は神道なので、葬儀も神式で行う。

 氏子となっている神社がないので、葬儀社が神主さんを手配してくれた。

 母の遺体が帰宅すると、葬儀社がきてくれて、枕直しの儀を行ってくれた。遺体を整え、胸元に守り刀を置いた。遺体の安置されたベッドの北側には小さな祭壇(枕飾り)が設けられ、水、塩、洗い米、榊、電燈のろうそくが飾られた。

 それから、葬儀社の方ともろもろの相談。自治会の習わしもあるので、分からないことがあるたびに、お隣に聞きに行く。

 葬儀委員長は自治会長が務めてくださることになり、受け付けは自治会の同じ組(我が家は11組)の方々がしてくださるという。

 仏教の枕経にあたる祝詞をあげに来てくださったのは、飛鳥坐神社の宮司さんだった。明日香村にあって、奇祭と言われる御田祭りがとりおこなわれる由緒ある神社だ。現宮司さんは87代にあたられるそうである。

 神道についてはまったく無知な私たちに、宮司さんが丁寧に、神事について説明してくださる。

 五十日祭が済むまでは母は神棚に入れないので、神棚は閉じて、母の祭壇を作るよう言われた。それから、葬儀の祝詞で必要なので、母の略歴を聞かれる。

 塩とお米を盛る白い小皿、魚や野菜などを盛る大きめの白皿がないので、座敷と台所を行ったり来たりしながら、「このお皿でいいですか」と聞く。

 そのあと、一同かしこまって神主さんの後ろに座り、祝詞をあげてもらったあと、各々、玉串を奉納する。五十日祭が済むまでは、拍手は音を立てない「忍手(しのびて)」だということも初めて知ったが、父だけは理解できないで、大きな音を立てて拍手をしていた。

 翌日は通夜、その翌日は葬儀である。

 

 


母逝く

2011-09-15 15:22:59 | 日記・エッセイ・コラム

 母が死んだ。

 父に朝食を食べさせて、病院へ行く用意をしていたら、看護師さんから「お母さんが容体が悪いので、どなたか来てくださいと」電話。

 父には、ヘルパーさんが来るまで待っていてね、と言い聞かせ、タクシーを呼んだが、なかなか来ない。

 玄関前で待っている間、急にあたりが静寂に包まれ、時間が止まったような感じがした。

 その時、私は、ああ、母が逝ったのかもしれないと思った。

 病院へ着くと、M先生が来られて、「今さっき、心臓が止まりました」と言われた。死んだということなのだが、母の顔を見ると、まだ酸素マスクはつけたままだし、点滴の管は付けたままだし、死んでいるようには見えない。

 母の顔を撫でて、お母さんと呼んだ。まだ息をしているようにも見えたからだ。しかし、何の反応もない。

 M先生が、8時15分でした、と言われた。付添婦さんがまだいてくれて、亡くなられたときは、安らかでしたよ、苦しまないで逝かれましたよ、と言ってくれる。

 泣くまいと思っていたのに、涙が勝手に出てくる。

 兄弟に電話をかけ、弟に、父を連れてきてくれるように頼んだ。ケアマネージャーさんにも連絡した。

 それから、母の身体を拭いたり、口、鼻腔、肛門などに綿を詰める作業を見守った。母の身体はそれほど衰えていなかった。生前は化粧なんかしなかったのに、きれいに化粧してくださった。

 父に母が亡くなったことを告げると、同室の方に申し訳ないような大声を上げて、「お母さん、お母さん、目を開けてくれ、俺を一人置いて行かないでくれ」と泣き喚いた。

 もともと芝居がかったことを言う人なのだ。

 ひとしきり嘆き悲しむと、静かになり、「お父さんがいつまでも悲しむとお母さんが極楽に行けないよ。お母さんは頑張って生きたのだから、立派な人生だったと、褒めてあげなくちゃ」と言い聞かせると、「そうやなあ、一緒に行きたいけれど、こればかりはそんなわけにはいかないなあ」と聞き分けがいい。

 寝台車で家に連れて帰ってもらう。

 自治会の役員の方々が、葬儀社へ連絡してくれて、葬儀社との相談も、仕出し屋の相談も無事済んだ。あれこれ、やることがあって、泣く暇もない。

 私たち子どもが喪主なら、簡易に済ませるのだが、喪主は父なので、父の面子も立てるようにしなければいけない。結構なお金がかかるが、仕方がない。

 そのうち、妹や、姪も来てくれて、父のお守りや、こまごましたことをしてくれるので、私は気が楽になった。

 今までの心労がたたって、何かあると困ると思ったのか、妹が鎮静剤をくれたので、飲んで横になった。

 長男一家が夕方に駆けつけてくれる。こうして、みんなが来てくれるのだから、母は幸せな人だ。

 若いときには、小説より奇なる苦労をした人で、私は繰り返し、その苦労話を聞かされたものだ。晩年、その苦労話を話題にすると、「もう、忘れた。その時は一生懸命で、苦労とは思わなかったよ。今が、一番幸せだと思うよ」とことあるごとに言っていたので、本当に幸せな一生だったと思う。


予断を許さない病状

2011-09-14 19:59:51 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は、母の入院後、初めて、父を病院へ連れて行った。

 おとといの検査結果を聞きに看護師ステーションへ行くと、ちょうど主治医のM先生がおられて、レントゲンとMRIの映像を見ながら説明してくれた。

 片方の肺はほとんど全部、もう片方の肺も3分の1ほど、真っ白になっていた。

 これほどひどいとは思わなかった。

 姪がM先生の言葉として伝えたのは、重症にかかわらず元気な人のベスト5ではなくて、これまで診た肺炎患者の重症度ベスト5という意味だった。

 なんと愚かな私だろう。2日前は、見た目には、母はおだやかな呼吸をしていたし、医者が言うほど重篤だとは思えなかったが、今日、映像を見て、母がどれだけ苦しい状態でいるか分かった。

 呼吸が十分でなく、酸素が不足気味なのに、自分で酸素マスクをはずすので、両手をベッドの枠に、包帯で固定されていた。かわいそうだが仕方がない。

 父にはどの程度分かったのか、病院では、苦しそうな母を見て、かわいそうだと涙ぐんでいたが、家に戻ると、相撲を見て、母のことは忘れた様子だった。

 なんとなく不安そうだが、母の状態をちゃんとわかっていないのは、却って幸せかもしれない。

 再び、覚悟をあらたにした。母にはできるだけ付き添って、父にも優しくしてあげたい。

 姪は、昨夜、実家を出たあと、もう一度病院へ寄って、付添婦さんと話をしたそうだ。付添婦さんは、「肺が真っ白になっても元気になった人を何度も見ているから、大丈夫よ」と慰めてくれたそうだ。

 かかりつけ医のD先生に報告すると、先生も「お母さんはすごく体力ある人だから、回復すると思いますよ」と言ってくれた。

 そうなることを祈りたい。


母の入院顛末記

2011-09-12 16:22:52 | 日記・エッセイ・コラム

 土曜日の朝、母をやっと入院させることができた。

 かかりつけ医のD先生が往診してくれて、前日には注射を、入院当日には点滴をしてくれたが、熱も下がらず、呼吸も楽にならない。

 前の日に、おしめを取り替えようとベルトを外したとたん、ウンコが漏れ出して、パジャマ、シーツ、綿毛布まで、全部取り替えた。

 おかゆはおろか、水もまともに飲めない。一口、二口飲むと、むせる。

 夜中に大声を上げるので降りていくと、ベッドから落ちていた。その前日にもベッドから落ちて、持ち上げるときに私は腰を痛めてしまった。

 今度は持ち上げられないので、背後から抱き上げて、古武術の甲野先生が言っていたように、後ろにひっくり返る力で母をベッドへ戻したが、こんどは私が母の下敷き状態から抜け出せない。母は骨格がしっかりしていて、太っている。さんざんあがいて母の下敷きから脱出したときには、腰は完全にやられてしまった。

 母を寝かしつけて、うとうとしていたら、また、階下で大声。ベッドからずり落ちた母の傍らで、父が右往左往している。

 今回はどうしようもない。もうすぐ夜が明ける時間なので、ケアセンターの責任者のMさんに来てもらった。

 こんどは、床に布団を敷いて(初めからベッドに戻さず、床に寝かせればよかった)、母を寝かせた。おむつも、パジャマも替えてもらって、入院の約束の時間より早めに、救急車を呼んで、H病院へ運んでもらった。

 以前にもお世話になったM先生は、私を廊下に連れ出して、「できるだけのことはするが、この前入院した時とは違ってかなり悪い。高齢なので、病状が急変することもある。そんなときは、人工呼吸器などは付けません。いいですね」と言う。

 両親とも、日ごろから、延命治療は必要ないと言っていたので、うなずく。続けて、会わせてやりたい人には連絡してください、とまで言う。そんなに悪いようには見えないけれども、その程度の覚悟はしておけということなのだと解釈する。

 苦しいのかしきりに動いて暴れ、酸素吸入のマスクをはずす。テープでしっかり留めてある点滴の管は外れそうになる。痰を吸い出そうとしても、管にかみついて、なかなかうまくいかない。

 そういう状態を見ると、やはり、もうだめなのかなあと思ったりする。

 妹、二人の弟にはそのまま報告したが、父には「お母さんは病院へおまかせしてあるから、もう大丈夫よ。随分落ち着いていたよ」と話しておく。

 翌日、妹と交代して、私は自宅に帰り、ずっと寝ていなかったので数時間でも眠ろうとしたが、眠れなかった。疲れがとれないまま夜、実家に戻り、自分の部屋で寝ていると、妹の娘が来た。今まで、病院にお見舞いに行っていたという。会いたい人には会わせてやれと言う言葉を真に受けて、日曜日の仕事を終えて来てくれたのだ。

 この姪は私のお気に入りなのだが、正月以来会っていなかった。だから、姪が「明日は仕事が休みなので、今夜は泊る。明日、また病院へ必要なものを持っていくから」と言ってくれたときには、本当にうれしかった。

 実家には父しかおらず、誰とも相談できない日が続いたので、同じ屋根に下に、話のできる誰かがいるだけで、安心する。

 しばらく会わないうちに、ずいぶん大人になって、頼もしく見えた。若い人が家の中にいるのはいいことだ。父も起きてきて、同じ話を何度繰り返しても、「そうなんだ。へえ、なるほど」と優しく相槌を打ってくれる孫娘に、上機嫌だった。

 今日は、姪が先に病院へ行き、私は父を見てくれるヘルパーさんと入れ違いに家を出た。母の病状は昨日より随分落ち着いたように見えた。姪の話では、M先生曰く。「ぼくはたくさんの肺炎患者を診てきたが、これだけの重症で、これだけ元気なのはすごい。ベスト5ぐらいに入る」。

 喜ぶべきか、悲しむべきか。

 


入院へ

2011-09-08 16:15:09 | 日記・エッセイ・コラム

 母の病状が思わしくないので、休診日にもかかわらず、かかりつけ医のD先生が往診してくださった。

 もう熱も下がって、呼吸のぜーぜーも無くなっていいはずなんだが、やはり肺炎を起こしているかなあと言う。

 何も食べないし、いくら基礎体力のある母でも今年93歳になるんだから、免疫力は低下しているだろう。

 以前、救急車で運ばれたH病院で主治医だったM先生は、偶然にもD先生の医局時代の後輩だったそうなので、D先生から入院の依頼を入れてもらった。

 最初は、重症患者で満員で空きベッドがないということだったが、しばらくすると、土曜日に入院OKという返事をいただいた。いろいろ考えてくださったみたいだ。

 私の体力も限界なので、入院させることに決めた。

 今、思えば、はじめから救急車を呼んで入院させた方がよかったということになる。

 しかし、前回の入院で、夜間の付添いが必要だったり、入院すると環境が変わって、母の認知症が進むので、できるだけ入院は避けたいという気持ちがあった。

 D先生の話では、今は、老人専門の病院以外に、高齢者の入院で、なかなか完全看護をしてくれるところはないそうだ。

 D先生のおかげで、よく知っている近くの病院へ入院できることになったものの、こういうことがなかったら、救急車を呼んで、受け入れてくれる病院に否応なく入院しなければいけない。

 よく知らない、通うのが不便な病院だと、家族の負担は大変だ。

 厚生省の官僚の机上の空論では、かかりつけ医と地域の拠点病院が連絡を密にして、重症の病人を病院へ転送する体制ができているはずなのだ。

 大都市ならともかく、地方都市の医療体制の貧しさを痛感する。

 高齢者こそ、緊急入院や完全看護してくれる病院が必要なのに、若い、体力のある病人でないと、入院するのも大変なのだ。

 ここまで書いていると、庭で草取りをしているはずの父が、私を呼んでいる。小さな腰掛にすわって、その周りの草を取っていたのだが、立ち上がりざま尻餅をついて、立ち上がれないでいた。

 両手を引っ張って立ち上がらせる。幸い、どこも打ったところはないようだ。一人ならともかく、ふた親を看るのは大変だ。モグラたたきのように、こちらを見ている間に、あちらでトラブルが発生している。

 経済力があれば、有料老人ホームに入れたいのだが、父の年金、貯金では、二人入れるのはとうてい無理だ。

 介護保険で入れる介護老人保健施設は、どこも数年待たなければだめだそうだし、両親ともまだ、要支援2なので、入る権利もない。

 もっと困っている人はたくさんいるのだと自分を慰めても、一向に気は晴れない。


看病の日々は続く……

2011-09-07 23:02:19 | 日記・エッセイ・コラム

 母の病状は行きつ戻りつして、一向に回復の方向へ向かってくれない。

 昨日、熱が下がらず、呼吸も苦しそうなので、再び、かかりつけ医のD先生に往診してもらった。

 肺炎には進んでいない、お母さんはもともと体力のある人だから、大丈夫だと思うという言葉に、一応安心したが、今日の午後になって、また熱が上がったので、夕方、先生に電話で相談して、残っていた坐薬を処方した。

 朝、ポータブルトイレでがんばって便を出したので、ほっとしたのもつかの間、それ以降、おしっこももしない、水だけ飲んで、何も食べてくれない。ひたすら苦しそうな呼吸をしながら眠っている。

 坐薬も、1、2回目はすぐに効いて熱が下がったが、今回は一向に効かないようだった。

 夜、何とかおしっこだけはさせてやろうと、抱えてポータブルトイレに移動させるのも大変。間に合わず、ちょっと下着が濡れてしまった。

 半日以上、用をたしていなかったので、溜まっていた尿を出し切るまで時間がかかった。それから、パンツを替えたり、尿パッドをあてたり、パジャマのズボンをはかせるのに、大騒ぎ。耳が遠いし、状況が分かっていないらしいので、ああして、こうしてと言っても、思うように動いてくれない。

 寝たきりの人を介護している人は、もっと大変なんだ。

 そのうちに、父が起きてきて、横で、ああだ、こうだと思いつくことをしゃべって騒ぐので、「お父さん、私はお母さんの世話だけで大変だから、お願いだから寝てちょうだい」と怒鳴ってしまった。

 ようやく寝かせて、おかゆでも、果物でも、ヨーグルトでも食べさせようとするが、いらないの一点張り。ようやく、CCレモンを一口飲んだ。

 夕食後用の薬を飲ませて、熱を測ったら、何とか37・1℃まで熱が下がった。坐薬より、おしっこを出して熱が下がったような気がする。

 今夜は眠れそうにない。これを書いている間も、ちょっと階下で物音がすると降りて行き、母の寝息を窺い、額に手をあてる。さっきより熱が上がったような気がするが、体温計を見て一喜一憂するのに疲れたので、水だけ飲ませて、自分の部屋に戻った。

 昨日から、父の方も咳をするようになり、心配なので、桔梗石膏を飲ませている。

 これしきのことで四面楚歌という気持ちになって、どうするんだ。色即是空、空即是色。現象に振り回されて平常心を失ってはいけない、と自分を叱責するが、哀しいかな、修行が全然足りないわが身、いくら般若心経を唱えて、心を落ち着かせようとしても、波立ちは収まらない。

 ダライ・ラマ法王がよく言われる言葉を思い浮かべる。「私でも、悲しみや怒りに襲われることはあります。しかし、表面は波立っていても、海のように、底の方は静かです」

 そんなふうになりたい。

 


一難去って……

2011-09-05 18:53:06 | 日記・エッセイ・コラム

 先の母の入院を何とか乗り切って、猛暑の夏は、30度を超す部屋に平気でいる両親の熱中症が一番心配だったが、熱中症にも何とかならずに済んで、後は残暑を乗り切ろうと思っていた矢先、母が気管支炎になってしまった。

 先週、デイサービスに出かける朝、咳がひどく、熱を測ったら37℃だったので、父だけ出かけて、母は休ませた。

 汗をかいて気持ち悪そうなので、ぬるま湯で足を洗って、熱いタオルで体を拭いてやると、気持ちよさそうにしていたのだが、咳はひどくなるばかり、熱を測ると38.7℃になっていた。

 母を寝かせて、かかりつけのお医者さんに無理を言ってきてもらった。

 そのお医者さんもご老体で、今は午前中しか診療していない。

 でも、母の容体を説明すると、台風12号の雨の中を、自転車で来てくださった。本当に、地獄に仏である。

 そのお医者さんは、経験豊富で、検査データがなくては診断できない近ごろの医者とは違う。

 聴診器を当てて、「完全に気管支炎を起こしています。ほっといたら肺炎になりますよ。老人は、いとも簡単に病状が進んでしまうんですよ。早めに対処するようにしないと」と言われた。様子を見て、明日医者に連れて行こうと思っていては遅いのである。

 炎症を止める抗生物質と、熱を下げる注射を打ってもらって、診療所に薬ももらいに行った。夜に熱は下がったが、呼吸が苦しそうだ。

 医者と私の会話。

 「この間の健診で、両親とも心臓は元気だと言われましたから、長生きするでしょうね」と私。

 「もう、十分に長生きしてはりまっせ」と医者。

 私、笑って、「そりゃ、そうですね。でも、百歳まで長生きされたら、こちらがどうなるか分かりません」

 「百歳になると大変ですわ。私の患者さんには百歳はいないけれども、99歳のおじいさんがいて、自分で歩いて診療に来はります」 

 「それぐらい元気な百歳だったらいいんですけどね」。

 あくる日、また38.7℃に上がったので、処方してもらった坐薬を使ったら、大汗をかいて熱は下がり、ほっとした。

 妹に報告の電話をしているうちに、またまた忍耐の緒が切れて、しばらく、泣きわめいた後、例によって妹に諭され、明日、交代してもらうことになった。

 両親と同じ屋根の下にいると、私の神経は、些細なことに反応して、参ってしまう。妹は、見ないようにしたらいいのに、と言うが、ちょっといつもと違う物音がすると、寝ていても目が覚めてしまう。

 そんな状態だから、週末、妹と交代して、実家を出たとたん、気持ちが軽くなる。

 妹がいてくれると思うと、安心して家を空けられる。自宅に帰って、いろいろ用事を済ませて、その夜遅くに実家に帰った。

 母の熱はなかなか下がらない。咳も、ひどい状態からは脱したが、ぜーぜーと苦しそうな息が聞こえてくると、喘息で窒息の苦しみを味わった前科のある私としては、何とかしてやりたいと思うが、本人は「しんどくない」と言う。

 夕食の準備ををしていたら、父が母のベッド脇で、耳の遠い母相手に、大声で「しんどいか」と聞いている。母は「しんどくない。それより、〇〇子(私の名前)が大変や」と言っているのが聞こえてきて、涙が止まらなくなって、洗面所に駆け込んで顔を洗った。

 母の認知症も進む一方だが、娘の大変さを思いやる気持ちはまだまだ持っているのだ。 

 と、ここまで書いて、何とか母に夕食を食べてもらいたいので、寝ている母を起こして聞くと、そうめんなら食べられそうだと言う。急いでそうめんをゆでたが、やはり食べない。とりあえず、夕食後の薬だけ飲ませてから熱を測ったら、37.9℃もある。再び坐薬を処方した。

 明日、医者に連れて行くか、また、往診を頼むつもりでいる。今夜は何とか乗り切って、熱が下がってほしい。