空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

ドラマ「大地の子」を見る

2016-02-12 16:40:22 | 日記・エッセイ・コラム

 前回に続いて、『望空游草』第9号からの転載記事です。

 

 ~☆~☆~☆~☆~☆~ 

 NHKBSで昨年10月からドラマ「大地の子」が再放送されていたのを録画して、暮れに全部まとめて見た。 

 山崎豊子原作の「大地の子」は、日中共同制作でテレビドラマ化され、終戦50年の1995年、総合テレビで放送された。 

 その年は阪神大震災が起こった年で、私も西宮で被災、幸い、けがもなく、家財道具が壊れただけで済んだ。 

 しかし、当時住んでいた古い公団住宅は建て直すことになり、職場は閉鎖が決まって、次の仕事を考えなければならず、おまけに、震災の瓦礫や廃材を運ぶトラックが、シートもせずに粉塵をまき散らしながら走り回る国道43号沿いに住んでいたので、持病の喘息が悪化、テレビを見るどころではなかった。 

 いま思えば大殺界のような年であった。  

 その後、「大地の子」は再放送され、私は衛星放送で再放送されたとき、やっと見ることになるのだが、その時も後半部分を見ただけだった。 

 それでも、主人公の陸一心(本名・松本勝男)になりきった上川隆也と、育ての親・陸徳志を演じた朱旭の熱演に感動し、やっと探し当てた妹・張玉花(本名・松本あつ子)が悲惨な死に方をする場面や、仲代達矢演じる実の父・松本耕次と育ての親の心情、一心が苦悩の末、「私はこの大地の子です」と中国に残る決心をする場面に、目が腫れ上がるほど泣かされた。 

 泣いたのはほかでもない。私も、一心や、あつ子のように、「中国残留孤児」になってもおかしくない境遇で生まれたからである。 

 この「中国残留孤児」という言い方には抵抗を感じる。日本の法律などでは「中国在留邦人」と言われているらしいが、自らの意思で留まったのではなく、取り残された、あるいは日本国に捨てられた子どもたちだからである。 

 私の両親は、いずれも種子島出身で、当時、多くの貧しい日本人がそうであったように、故郷では食っていけないので、満洲や朝鮮へ渡った。 

 国民を養えない国の政策に乗せられて、どれだけの貧乏人が、「希望の地」大陸へ渡ったことだろう。 

 父は旧制中学を卒業後、朝鮮鉄道局に採用されて朝鮮の平壌に渡った。 

 平壌と、鴨緑江をはさんだ新義州の対岸・安東(現在の丹東)の間を運行する列車に車掌として勤務していた。 

 当時、一緒に仕事をしていた朝鮮人職員が、給料や待遇の面で、いかに差別されていたかという話を父は私たちによく語っていた。 

 その後、軽い肺結核にかかり帰郷したが、病気が回復すると、帰郷中の親友とともに満洲の大連に渡る。 

 転がり込んだ先が親友の親戚の家で、偶然にも私の母の叔父にあたる人の家だった。 

 1カ月余り就職先を探して、求人広告を見て試験を受けに行ったのが、帝国生命(現在の朝日生命)だった。 

 父の話では、面接をした人が鹿児島県出身で、特別に父を採用してくれたのだそうである。帝国生命大連支部書記(事務員?)として、月俸50円で、終戦まで足かけ5年、働いた。 

 母は10歳の時父親を亡くし、高等小学校1年の夏休みに、叔父を頼って朝鮮(母の記憶では北朝鮮の船橋里)に渡り、高等科に転入、卒業する。

 母の話では、女学校に行かせてやるという叔父の言葉を信じ、朝鮮にまで行ったそうだが、その約束は果たされなかった。

 11、2歳の子どもに、見知らぬ土地での生活は、寂しく、つらかっただろう。 

 母はそのころの話を子どもの私によく語って聞かせたものである。 

 毎日泣いていると、隣のオモニが「アイゴー、アイゴー」と言って背中をさすってくれたという話が何度も繰り返され、私は、何のために自分がこんな話に耳傾けなければならないのか、と母をうとましく思ったこともあった。 

 大人になって、在日朝鮮人の友から、一世の母親が、朝鮮から日本に渡ってきた苦労話「身世打鈴」(シンセタリョン=身の上話)を長々とするので嫌だった、という話を聞いたとき、アッと気づかされた。 

 立場は逆だけれども、母の話も「身世打鈴」だったのだ。 

 朝鮮で女中奉公したり、内地の紡績工場で働いたりした後、大連の高級呉服の仕立屋で修行奉公、独立して母親と妹を呼び寄せ、従妹と四人で着物を縫いながら暮らしを立てていた。

 父が月給50円のころ、母は100円も稼いでいたと聞いた。女所帯のところへ、同郷ということで父が出入りするようになり、母と結婚したらしい。 

 父は結婚前に教育召集され、陸軍病院で衛生兵の教育を受けたが、幸いにも前線には行かずに済んだ。 

 それでも、軍隊でのつらかった話、特に理由もなく殴られたこと、ひもじかった話をよくしていた。 

 形ばかりの結婚式を挙げたとき、母の胎内には兄がいた。 

 8カ月の未熟児で生まれ、先天性の心臓弁膜症で5カ月しか生きられなかった。 

 寝かせると苦しがるので、母は一晩中座ったまま兄を抱いていたという。 

 そのときのことが原体験としてあったのだろう。

 私たち兄弟は子どもの頃よく病気をしたが、母はしょっちゅう子どもを抱いて医者に走った。 

 「〇〇さんがまた子どもを抱いて医者に走りよる」と近所で評判になるほど、母は子どもの病気には神経質だった。 

 敗戦の色が濃くなるにつれ、着物の仕事もなくなり、会社の支社長が召集され、内地の本社との連絡も絶たれた。 

 そして、1945年8月15日、ラジオで終戦を知ったときには体中の力が抜けたが、「これで命が助かった」と思ったそうである。 

 終戦から1年6カ月の間、両親たちは大連で日本へ帰れる日を待ち続けた。 

 その間、中国人が大挙して日本人の店や建物を打ち壊す事件があったり、ソ連軍の進駐があった。 

 最初にやってきたのは囚人兵の部隊で、腕時計や万年筆を手当たり次第に奪ったり、中国人、日本人の別なく、女性を強姦した。 

 女たちは髪を短く刈り、男の服装をして、顔には炭を塗り、目立たないようにしていた。 

 あるとき、ソ連軍が男性の名簿を作るというので書類を書かされたとき、年齢を書く欄に、父は知恵を働かせて、高齢者を装った。 

 正直に年齢を書いた働き盛りの男性は、呼び出されて帰ってこなかったそうである。 

 ソ連軍は、ノルマで決められた人数を揃えるために、警察官、軍人だけでなく、一般の男性まで捕えてシベリアへ送ったのだ。 

 中国政府の命令で、日本人は住宅を立ち退かされ、そのあとに中国人を住まわせた。 

 父たちは元花柳街の一部屋に押し込まれた。私はその部屋で、1946年5月に生まれた。 

 食べるものがなく、老人と幼い子どもたちから死んでいった。 

 父たちは、中国人に衣服をはぎ取られるので、遺体を裸にしてこもでくるみ、リヤカーに乗せて予め掘ってあった穴に捨てるようにして、逃げ帰ってきたそうである。 

 そのような中で、生まれたばかりの私がよく生き残れたと思う。 

 私たち家族が帰国できたのは、1947年2月のことである。 

 翌朝に入港する船を待つ埠頭で、米の握り飯とニシンの塩漬けが配られ、「そのうまかったこと」と父は繰り返し話した。 

 夜が明けてニシンを見ると、ゴミまみれだったが、ずっと空腹だった身にはありがたい食事だった。 

 5000トン級の引揚げ船「英彦丸」が満員の引き揚げ者を乗せて博多港に着いたのは、その日の夕方だった。 

 後に、「中国残留孤児」の帰国事業が始まり、テレビや新聞で、帰国者たちの経歴が紹介されたり、肉親が見つかって喜びの対面が放送されたりするたびに、私はテレビ画面にくぎ付けになった。 

 勝男とあつ子のように、ソ連国境に近い開拓村から逃げる途中で、親に死なれたり、はぐれたり、中国人に預けられたりした人が多かったが、私と同じ年に大連で生まれ、親にはぐれたり、さらわれたりして、日本に帰れなかった人も少なくない。 

 両親に守られて私は死なずに済み、帰国できた。 

 父が戦地やシベリアへ送られたり、母が病気になったり、死んだりしていたら、私も彼らと同じ運命をたどったに違いないのだ。 

 彼らは私だった。 

 今回、「大地の子」を全部見て思ったことがある。 

 日本軍が去ったあとも、中国民衆は、自分の意思とは関係なく、国民党軍と共産党軍の戦闘に翻弄され、家族や衣食住を奪われた。 

 戦争が終わっても、文化大革命のような政治闘争に巻き込まれて、人生を狂わされた。 

 今また、日本政府は、「国を守る」と称して、歴史の歯車を巻き戻そうとしているけれども、彼らが守ろうとしているのは、領土と国益であって、国民ではない。 

 国益の中身は、権力を握る少数の人々の利益である。 

 日本は近代国家成立以来、どれだけの民衆を犠牲にして「国益」を守ってきたことだろう。 

 靖国に祀られている兵士たちの命は、その「国益」のために、捨てさせられた命である。 

 兵士でない者、「日本人でない者」は、そのまま、うち捨てられた。 

 「中国残留孤児」や、「シベリア抑留者」の帰国事業が、国家ではなく、民間の手によって始められたことは、国の棄民政策をよく示している。 

 そして、今なお、「国を守る」「正義を守る」ために、おびただしい難民が世界中で生みだされている。 

 この歴史の繰り返しを、人類は止めることができるのだろうか。

 

 

 


ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ~4つの四季を聴く~

2016-02-12 16:07:44 | 音楽

 友人と発行しているミニコミ紙『望空游草』第8号からの転載記事です。

~☆~☆~☆~☆~

 先月、兵庫県立文化芸術センターで、「ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ」の演奏を聴いた。「4つの四季」と題されたコンサートだ。

 四季と言えば、ヴィバルディのバイオリン協奏曲《四季》を思い浮かべるが、その《四季》へのオマージュとして後世に作曲された、四曲の「四季」で構成されている。

 20年ほど前に見た映画「無伴奏『シャコンヌ』」の中で、主人公が弾くバイオリンを演奏していたのがギドン・クレーメルだった。心を揺さぶられ、すぐにCDを買った。

 バッハの「無伴奏バイオリン・ソナタとパルティータ」だ。パルティータ第2番第5楽章が「シャコンヌ」。卓越した技巧が必要とされることで有名な曲だが、クレーメルの演奏は自由で軽やかだ。映画では、主人公の弾く「シャコンヌ」が貧しい人々を癒していく場面が圧巻だった。

 以来、ギドン・クレーメルは私にとって特別な音楽家となった。 

 ギドン・クレーメルは1947年、旧ソ連領だったバルト三国のラトヴィア生まれ。両親はドイツ系ユダヤ人で、父親はホロコーストから逃れて生き延びた人だという。

 彼が1996年、バルト三国の若く才能のある演奏家を集めて創設した室内オーケストラが「クレメラータ・バルティカ」だ。

 ヴィバルディの《四季》と、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」を収めた「エイト・シーズンズ」が彼らの最初のアルバムだ。

 まったく異なった二つの四季が楽章ごとに交互に演奏されていて、違和感がない。これも発売されるとすぐに購入し、中毒になるほど繰り返し聴いた。

 今回のプログラムは、一番目は、チャイコフスキーのピアノ曲集《四季》を編曲したもののダイジェスト、いわばロシアの四季。

 二番目は、フリップ・グラスの「バイオリン協奏曲第2番《アメリカの四季》」。

 三番目は、梅林茂の「バイオリンと弦楽オーケストラのための《日本の四季》」。

 最後がピアソラの「ブエノスアイレスの四季」。CDで聴き慣れたヴィバルディの《四季》が入っていないのが残念だと思ったが、初めて聴く《アメリカの四季》と《日本の四季》には感動した。

 《アメリカの四季》から、クレーメルが独奏者として登場した。

 クレーメルとクレメラータ・バルティカの演奏は、フルオーケストラのように迫力があった。

 フィリップ・グラスは、ロバート・マクダフィーというバイオリニストから、ヴィバルディの《四季》とともに演奏できる協奏曲をと依頼されて、2009年にこの曲を発表したそうだ。初めて聴く曲だったが、始まってしばらくするうちに、不思議な感情に襲われた。

 敬愛してやまないクレーメルの登場のせいか、フィリップ・グラスの音楽のせいか、地下水が土の表面に滲み出るように、心の奥底に沈殿していたものが上昇し始めた。

 最初は、「ああ、こんなにすごい空間に身を置くことができる私は、なんと幸せだろう」というような、喜び、感謝の感情だった。

 ふいに、私にこの幸せを感じることができるようにしてくれたのは、母だったと思い至った。

 母が亡くなったのは4年前だ。2年前の父の死の時には、十分な時間と心の余裕があったので、父のことは穏やかに思い出すことができる。

 母の死は、肺炎が急激に悪化して急だったのと、父の介護とが重なって、現実に心が追い付いて行かなかった。今でも、思い出すとつらい。

 そんな感情に蓋をしていたのだろう。クレーメルの演奏で、その蓋が外れてしまったようなのだ。

 涙があふれてきて、どうしようもなかった。音楽に夢中になったころの私を後押ししてくれたのが母だった、ということに思いが至ると、堰を切ったように、音楽にまつわる母との思い出がよみがえってきた。

 クラシック音楽に目覚めたのは小学校六年か中学生のころだ。

 私は扱いにくい子どもで、母は手を焼いていたと思う。思春期になると感情を爆発させることもたびたびだった。

 クラスメートによるいじめもあって、そういう娘とどう向き合えばいいか、母はずいぶん悩んだことだろう。

 私がクラシック音楽に夢中になったのを見て、まず、母がしてくれたのは、オルガンを買ってくれたこと。次に、中学生になったとき、1カ月1000円で指導してくれるピアノの先生を探してきた。

 しかし、彼女は主婦の仕事の片手間に教えるというような先生で、生徒は私と小学生の男の子だけ。いやになってバイエルを終了するまでは続かなかった。

 次に母は、国に帰るドイツ人が中古のピアノを売るという情報をどこからか仕入れてきて、そのピアノを買ってくれた。安く手に入ったとはいえ、ずいぶんの決断だったと思う。

 鍵盤の象牙は黄色く変色して、しょっちゅう音が鳴らなくなったが、マホガニー色のピアノは私も母も気に入っていた。後に父が、調律師にも見放されたピアノを処分してしまったことを、「あのピアノはいいピアノだったのに」と晩年にいたるまで残念がっていた。

 高校の時、小遣いをためて、大好きなベートーベンの交響曲全集のレコードを揃えるのを楽しみにしていた私に、「今度の試験の成績がよかったら、買ってあげる」と母は言った。

 成績は思ったほど上がらなくて、あきらめていたのに、母はお金を出してくれた。信じられなかった。後に母は言ったものだ。「音楽で少しでもあんたの心が優しくなればと思ってね」と。

 貧しくて高等小学校までしか行けなかった母だったが、よく本を読んだ。クラシック音楽の趣味はなかったが、音楽も好きだった。経済的に恵まれて、思い切り勉強ができていたら、母にはもっと自分の才能を生かした別の人生が開けていたかもしれない。

 訳の分からない感情に振り回され、自分をコントロールするすべを知らずに苦しんでいる思春期の娘を見て、自分ができなかったことを、娘にさせてあげたいと思ったのだろう。

 思春期をなんとかやり過ごすことができたのは、本と、音楽のおかげだと思っている。その手助けをしてくれたのが母だったのに、感謝の気持ちをちゃんと伝えることができないうちに、母は旅立ってしまった。

 なぜ、クレーメルの演奏が、閉じていた心の蓋を開けたのか。

 映画の中で、病み疲れた人々を立ち上がらせた、その時と同じ音楽の力が働きかけたとしか言いようがない。

 ギドン・クレーメルは、音楽の持つ力を知っている人だと思う。

 彼は、子どものころから「お前は何者だ」と自分に問いかけてきたそうである。

 もって生まれた才能のほかに、彼がユダヤ人であること、旧ソ連領のラトヴィアで生まれ育ったこと、すなわち、音楽よりほかに拠り所とするものがないという環境が、ギドン・クレーメルという音楽家を生んだのではないだろうか。

 信仰が貧しいものにとってより必要とされるように、音楽もまた、魂が危機にさらされたときにこそ、その力を発揮する。そのことを、クレーメルは、自らの経験によって知っていたのだと思う。

 クレメラータ・バルティカを、バルト三国の若者で構成したことも、音楽の力を知る演奏家に育ってほしいという思いがあるのではないだろうか。

 フィリップ・グラスの曲は《アメリカの四季》と題されてはいるが、《ラトヴィアの四季》《エストニアの四季》《リトアニアの四季》 といってもいいほど、彼らの身体や魂から直接流れ出してくるような演奏だった。

 梅林茂の《日本の四季》を聴いていると、高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」に描かれた日本の四季の風景が思い浮かんだ。

 高畑勲のあの筆致で描かれた日本の四季に、この音楽を重ねたら、とても美しい映像作品が出来上がるのではないかと想像した。

 梅林茂氏のことを調べたら、数多くの優れた映画音楽を作曲している人だったので、高畑勲の映像を思い浮かべたことも納得できた。

 「New Seasons」という新CDに収められている梅林茂作品は、《日本の四季》ではなくて、《夢二のテーマ》という曲だ。これは、ウォン・カーウァイ監督の映画「花様年華」に使われていて、大人の微妙な恋を描いた映画によく合っていた。

 それが梅林作品だったとは。ギドン・クレーメルはこの曲が気に入って、今回、《日本の四季》を梅林に委嘱したのだそうだ。

 「ブエノスアイレスの四季」について書くスペースがなくなりそうだ。

 CDでは、ヴィバルディの《四季》と交互に演奏されていたので、一気に聴くのは初めてだ。実にのびのびと自由に演奏していて、この曲も彼らのために作曲されたのではないかと思えるほど。

 ジプシー音楽か、ジャムセッションのように音が自由に飛び交い、思わず体が動いてしまう。

 映画の中で「シャコンヌ」が鳴り響いたのは、貧しい人々がたむろする地下空間だった。今回は兵庫県立芸術文化センターの立派なホールだ。けれども、音楽が奇跡を起こす空間という点では同じだ。

 コンサートが終わって席を立つ聴衆の表情は、至福の時を過ごしたという喜びにあふれ、晴れやかだった。

 音楽という魂の贈り物をくれたギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカに、心からの拍手と感謝を送りたい。