前回に続いて、『望空游草』第9号からの転載記事です。
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NHKBSで昨年10月からドラマ「大地の子」が再放送されていたのを録画して、暮れに全部まとめて見た。
山崎豊子原作の「大地の子」は、日中共同制作でテレビドラマ化され、終戦50年の1995年、総合テレビで放送された。
その年は阪神大震災が起こった年で、私も西宮で被災、幸い、けがもなく、家財道具が壊れただけで済んだ。
しかし、当時住んでいた古い公団住宅は建て直すことになり、職場は閉鎖が決まって、次の仕事を考えなければならず、おまけに、震災の瓦礫や廃材を運ぶトラックが、シートもせずに粉塵をまき散らしながら走り回る国道43号沿いに住んでいたので、持病の喘息が悪化、テレビを見るどころではなかった。
いま思えば大殺界のような年であった。
その後、「大地の子」は再放送され、私は衛星放送で再放送されたとき、やっと見ることになるのだが、その時も後半部分を見ただけだった。
それでも、主人公の陸一心(本名・松本勝男)になりきった上川隆也と、育ての親・陸徳志を演じた朱旭の熱演に感動し、やっと探し当てた妹・張玉花(本名・松本あつ子)が悲惨な死に方をする場面や、仲代達矢演じる実の父・松本耕次と育ての親の心情、一心が苦悩の末、「私はこの大地の子です」と中国に残る決心をする場面に、目が腫れ上がるほど泣かされた。
泣いたのはほかでもない。私も、一心や、あつ子のように、「中国残留孤児」になってもおかしくない境遇で生まれたからである。
この「中国残留孤児」という言い方には抵抗を感じる。日本の法律などでは「中国在留邦人」と言われているらしいが、自らの意思で留まったのではなく、取り残された、あるいは日本国に捨てられた子どもたちだからである。
私の両親は、いずれも種子島出身で、当時、多くの貧しい日本人がそうであったように、故郷では食っていけないので、満洲や朝鮮へ渡った。
国民を養えない国の政策に乗せられて、どれだけの貧乏人が、「希望の地」大陸へ渡ったことだろう。
父は旧制中学を卒業後、朝鮮鉄道局に採用されて朝鮮の平壌に渡った。
平壌と、鴨緑江をはさんだ新義州の対岸・安東(現在の丹東)の間を運行する列車に車掌として勤務していた。
当時、一緒に仕事をしていた朝鮮人職員が、給料や待遇の面で、いかに差別されていたかという話を父は私たちによく語っていた。
その後、軽い肺結核にかかり帰郷したが、病気が回復すると、帰郷中の親友とともに満洲の大連に渡る。
転がり込んだ先が親友の親戚の家で、偶然にも私の母の叔父にあたる人の家だった。
1カ月余り就職先を探して、求人広告を見て試験を受けに行ったのが、帝国生命(現在の朝日生命)だった。
父の話では、面接をした人が鹿児島県出身で、特別に父を採用してくれたのだそうである。帝国生命大連支部書記(事務員?)として、月俸50円で、終戦まで足かけ5年、働いた。
母は10歳の時父親を亡くし、高等小学校1年の夏休みに、叔父を頼って朝鮮(母の記憶では北朝鮮の船橋里)に渡り、高等科に転入、卒業する。
母の話では、女学校に行かせてやるという叔父の言葉を信じ、朝鮮にまで行ったそうだが、その約束は果たされなかった。
11、2歳の子どもに、見知らぬ土地での生活は、寂しく、つらかっただろう。
母はそのころの話を子どもの私によく語って聞かせたものである。
毎日泣いていると、隣のオモニが「アイゴー、アイゴー」と言って背中をさすってくれたという話が何度も繰り返され、私は、何のために自分がこんな話に耳傾けなければならないのか、と母をうとましく思ったこともあった。
大人になって、在日朝鮮人の友から、一世の母親が、朝鮮から日本に渡ってきた苦労話「身世打鈴」(シンセタリョン=身の上話)を長々とするので嫌だった、という話を聞いたとき、アッと気づかされた。
立場は逆だけれども、母の話も「身世打鈴」だったのだ。
朝鮮で女中奉公したり、内地の紡績工場で働いたりした後、大連の高級呉服の仕立屋で修行奉公、独立して母親と妹を呼び寄せ、従妹と四人で着物を縫いながら暮らしを立てていた。
父が月給50円のころ、母は100円も稼いでいたと聞いた。女所帯のところへ、同郷ということで父が出入りするようになり、母と結婚したらしい。
父は結婚前に教育召集され、陸軍病院で衛生兵の教育を受けたが、幸いにも前線には行かずに済んだ。
それでも、軍隊でのつらかった話、特に理由もなく殴られたこと、ひもじかった話をよくしていた。
形ばかりの結婚式を挙げたとき、母の胎内には兄がいた。
8カ月の未熟児で生まれ、先天性の心臓弁膜症で5カ月しか生きられなかった。
寝かせると苦しがるので、母は一晩中座ったまま兄を抱いていたという。
そのときのことが原体験としてあったのだろう。
私たち兄弟は子どもの頃よく病気をしたが、母はしょっちゅう子どもを抱いて医者に走った。
「〇〇さんがまた子どもを抱いて医者に走りよる」と近所で評判になるほど、母は子どもの病気には神経質だった。
敗戦の色が濃くなるにつれ、着物の仕事もなくなり、会社の支社長が召集され、内地の本社との連絡も絶たれた。
そして、1945年8月15日、ラジオで終戦を知ったときには体中の力が抜けたが、「これで命が助かった」と思ったそうである。
終戦から1年6カ月の間、両親たちは大連で日本へ帰れる日を待ち続けた。
その間、中国人が大挙して日本人の店や建物を打ち壊す事件があったり、ソ連軍の進駐があった。
最初にやってきたのは囚人兵の部隊で、腕時計や万年筆を手当たり次第に奪ったり、中国人、日本人の別なく、女性を強姦した。
女たちは髪を短く刈り、男の服装をして、顔には炭を塗り、目立たないようにしていた。
あるとき、ソ連軍が男性の名簿を作るというので書類を書かされたとき、年齢を書く欄に、父は知恵を働かせて、高齢者を装った。
正直に年齢を書いた働き盛りの男性は、呼び出されて帰ってこなかったそうである。
ソ連軍は、ノルマで決められた人数を揃えるために、警察官、軍人だけでなく、一般の男性まで捕えてシベリアへ送ったのだ。
中国政府の命令で、日本人は住宅を立ち退かされ、そのあとに中国人を住まわせた。
父たちは元花柳街の一部屋に押し込まれた。私はその部屋で、1946年5月に生まれた。
食べるものがなく、老人と幼い子どもたちから死んでいった。
父たちは、中国人に衣服をはぎ取られるので、遺体を裸にしてこもでくるみ、リヤカーに乗せて予め掘ってあった穴に捨てるようにして、逃げ帰ってきたそうである。
そのような中で、生まれたばかりの私がよく生き残れたと思う。
私たち家族が帰国できたのは、1947年2月のことである。
翌朝に入港する船を待つ埠頭で、米の握り飯とニシンの塩漬けが配られ、「そのうまかったこと」と父は繰り返し話した。
夜が明けてニシンを見ると、ゴミまみれだったが、ずっと空腹だった身にはありがたい食事だった。
5000トン級の引揚げ船「英彦丸」が満員の引き揚げ者を乗せて博多港に着いたのは、その日の夕方だった。
後に、「中国残留孤児」の帰国事業が始まり、テレビや新聞で、帰国者たちの経歴が紹介されたり、肉親が見つかって喜びの対面が放送されたりするたびに、私はテレビ画面にくぎ付けになった。
勝男とあつ子のように、ソ連国境に近い開拓村から逃げる途中で、親に死なれたり、はぐれたり、中国人に預けられたりした人が多かったが、私と同じ年に大連で生まれ、親にはぐれたり、さらわれたりして、日本に帰れなかった人も少なくない。
両親に守られて私は死なずに済み、帰国できた。
父が戦地やシベリアへ送られたり、母が病気になったり、死んだりしていたら、私も彼らと同じ運命をたどったに違いないのだ。
彼らは私だった。
今回、「大地の子」を全部見て思ったことがある。
日本軍が去ったあとも、中国民衆は、自分の意思とは関係なく、国民党軍と共産党軍の戦闘に翻弄され、家族や衣食住を奪われた。
戦争が終わっても、文化大革命のような政治闘争に巻き込まれて、人生を狂わされた。
今また、日本政府は、「国を守る」と称して、歴史の歯車を巻き戻そうとしているけれども、彼らが守ろうとしているのは、領土と国益であって、国民ではない。
国益の中身は、権力を握る少数の人々の利益である。
日本は近代国家成立以来、どれだけの民衆を犠牲にして「国益」を守ってきたことだろう。
靖国に祀られている兵士たちの命は、その「国益」のために、捨てさせられた命である。
兵士でない者、「日本人でない者」は、そのまま、うち捨てられた。
「中国残留孤児」や、「シベリア抑留者」の帰国事業が、国家ではなく、民間の手によって始められたことは、国の棄民政策をよく示している。
そして、今なお、「国を守る」「正義を守る」ために、おびただしい難民が世界中で生みだされている。
この歴史の繰り返しを、人類は止めることができるのだろうか。