例によって、友人たちと出しているミニコミ紙からの転載です。
山道を行けば 生けりともなし… 柿本人麻呂の挽歌考
今年のお盆に墓参りしたとき、気づいたことがある。田んぼの風景を見ても以前のように心がざわつかなかったのだ。
8月の田んぼは、濃い緑の稲が強い日差しを撥ね返し、空に向かってぐんぐん伸びている。それを見て、美しいと思った。そして、「アッ、田んぼを見て、美しいと思えるようになったんだ」と、自分が変わっていることに気づいた。
私は長い間、田んぼの風景を見ると、介護に追われた日々や、相次いで両親を見送ったころが思い出されて、胸が締め付けられたり、不安な気持ちになった。
救急車に乗り込んで親を病院へ運ぶ途中、遠く離れた病院へ入院した親を訪ねる途中、いつも田んぼの風景が広がっていた。
高齢の救急患者を受け入れてくれる病院は、決まって町中から遠く離れたところにあって、田植えが終わったばかりの田んぼ、夏の田んぼ、黄金に実った田んぼ、季節は違っても、いつも田んぼが傍らに見えた。
それが繰り返されるうち、父母を見送って五年、六年が経つというのに、田んぼの風景に出くわすと、不安な気分に襲われていた。
田んぼを見て美しいと感じられる自分に気づいたことはうれしかったが、考えまいとしていた母のことが、次々と思い出された。
母が病院で死の床にあったとき、家に一人いる父の介護も同時にしなければならず、母は付添婦さん任せにして、十分に母を看取ってやれなかったという後悔もあって、母のことはあまり思い出したくなかったが、この頃は人にも母のことを話せるようになった。
中でも思い出すのは、大たい骨を骨折して手術を受けた後、奈良・三輪山のふもとにあるリハビリ専門の病院に転院した母を、半年ほど毎日のように訪ねたころのことだ。
病院へは、無人の最寄り駅から三輪山麓の田んぼ道をかなり歩かなければならない。列車の本数も少ない。
家からタクシーで行くのが楽なのだが、毎日のタクシー代も馬鹿にならない。父を伴うときはタクシーを使ったが、一人の時は最寄り駅から歩いた。歩くことで、気持ちを切り替えていた面もある。
その日も、最寄り駅を出て炎天下を歩き出した。駅から数十メートルは町並みがあるが、それから先は、右手に三輪山、左手に田んぼや畑が続く山すその道で、風景に変化がない。
病院へは、溜め池が道しるべとなる。溜め池の脇を下って行くと、病院の駐車場に出る。
ところが、その日は、いつも見る溜め池とは別の池に出てしまった。変だと思いながら進んでいっても、病院は現れない。引き返して、くだんの溜め池を探すが、歩いても歩いても目指す池は現れない。
熱中症による死者のニュースが毎日のように報じられていた時期である。
炎天下をひたすら歩いているうちに、病院への道を探しているというより、私はただ歩くために歩いているのではないかという気分になった。病院へ行くという目的はどこかに行ってしまって、ただ歩き続けている自分だけがいる。
そんな時、心に浮かんだのが、柿本人麻呂の亡き妻を悼む挽歌である。
208 秋山の 黄葉(もみぢ)を茂み 惑いぬる 妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも
(秋山の黄葉の茂みの中で迷ってしまった。亡き妻を探そうにも、道さえ分からない)
その時は上の句が思い出せず、「妹を求めむ 山道知らずも」の下の句だけが思い浮かんだ。
それから「山道を行けば 生けりともなし」という句も浮かんできた。これは次の歌の下の句である。
212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし
(衾道の引手の山に妻を置いて山道を行けば、自分が生きているとは思えない)
なぜ、真夏の炎天下を歩きながら、しかも、母はまだ生きているというのに、人麻呂の挽歌を思い浮かべたのか分からない。
後で理屈づけると、人麻呂が迷い込んだ山道は三輪山のことだと私が勝手に解釈していて、三輪山の山すそで道に迷った自分の心情が、「妹を求めむ 山道知らずも」や、「山道を行けば 生けりともなし」という句を連想させたのだ、という解釈もできる。
しかし、その時の私は、道に迷ったというより、別の世界に入り込んでしまったという感じがしていた。目の前に別の世が突然現れて、知らぬうちにその別の世に足を踏み入れた、という感じなのだ。
しばらくさまよったあと、ふと我に返ると、宮大工の看板を掲げた作業場のようなところに出た。数人の若者が材木にカンナをかけていた。
病院への道を尋ねると、なんと、病院へ通ずる道しるべにしていた溜め池を、何百メートルも行き過ぎていた。
なぜ、あの大きな溜め池を見過ごしたのか、なぜ、母が生きているのに、柿本人麻呂の挽歌を思い出したのか、その後もずっと気になっていた。
母が亡くなった後、2年間は父の介護が続いて、十分に悲しむ余裕もなかった。
父亡き後、自分を落ち着かせるためもあって、しばしば実家に帰り、遺品整理を続けていた。
ある日、電話台の引き出しから何冊もの手帳が出てきた。父からもらった会社の手帳に、母は、折々の出来事や気持ちなどをメモしていた。
その中に、2006年、私が初めてダライ・ラマ法王の法話を聞きに宮島に行ったことが書かれていた。まだ、つきっきりの介護が必要ではない時期だったので、思い切って参加したのだ。
帰ってきて、どんな話をしたのか覚えていない。しかし、ダライ・ラマ法王との出会いが、私に仏教徒となる発心を起こさせてくれたのだから、きっと、感動した話をこと細かに報告したのだろう。
そんな私のことを母は、「幸せな子だ」と書き記していた。
気性が激しく、いつも何かを求めて落ち着かない娘を、母はずっと心配していたのだ。
その娘がやっと道しるべとなるものを見つけたことを、母はちゃんと理解してくれていたのだ。誰もいない家の中で私は大声をあげて泣いた。母の死後、初めて思いきり泣いたような気がする。
しかし、田んぼの風景を目にして心穏やかならぬ日々はその後も続いた。
さて、人麻呂の挽歌に戻ろう。三輪山で道に迷った時に心に浮かんだ挽歌は、『万葉集』巻第二に収められている。
「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きゅうけつあいどう)して作る歌二首并せて短歌」という詞書(ことばがき)のあとに、207の長歌が始まる。
有名な歌だが、あまりに長くて引用できないので、その内容だけ紹介する。
妻の里であった軽の市(かるのいち)の雑踏の中に、もしやと妻の姿を探し求めたが、なすすべもなく、妻の名を呼んでただ袖をふり続けた、という哀切きわまる長歌だ。
そのあとに、反歌として、前述の208、そして209の短歌がある。
209 黄葉(もみぢば)の 散り行くなへに 玉梓(たまづさ)の 使いを見れば 逢ひし日思ほゆ
(黄葉が散りゆく折に、文使いが通うのを見ると、妻に逢った日のことが思いだされる)
次の210の長歌は、妻の死を認めることができない207の長歌と違って、亡き妻がいるかもしれないと人が言う羽がいの山に来てみたが、この世の人だとばかり思っていた妻は、もうこの世にはいないのだ、と妻の死を確認する内容になっている。
反歌として、211の短歌と、先に挙げた212の短歌が添えられている。
211 去年見てし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年離(としさか)る
(去年見た秋の月は今も照っているが、その月をともに見た妻は、年月とともにいよいよ遠ざかっていく)
人麻呂は宮廷歌人として皇子や皇女の死を悼む挽歌も作っているが、この「泣血哀慟歌」ほど心に響くものではない。
この文を書く前に、テキストの『萬葉集釋注』の伊藤博さんの解説を改めて読んでみた。
伊藤さんは、この挽歌群は、妻の死の直後ではなく、しばらく後に宮廷人の前で披露されたものであろうこと、人麻呂は、妻の死さえも語り歌として披露するよう要請された〝歌俳優〟であったらしいと、書いている。
「人麻呂は、第三者に披露する語り歌という形式をとることの中に、一人の男が亡き妻をひたすら追い求める切実な姿を封じ込めている。その姿は聴衆を感銘のるつぼに落とし入れ、熱い涙を誘ったはずだ。そして、そのことが人麻呂の心の慰撫につながり、同時に妻への大きな供養になるのであった」
この伊藤さんの一文を読んで、人麻呂の語り歌の持つ力が、当時の宮廷人どころか、時空を超えて現代の私という人間にまで影響を及ぼしているということに改めて驚かされた。
人麻呂の歌が持つ物語性が聞く者の魂を揺り動かすのである。
同時に気づかされた。
三輪山で道に迷った時、人麻呂の挽歌を思い浮かべたのは、あの時から母の死は始まっており、私は無意識のうちにそれを感じ取っていたからではないのか。
そして、母の入院、母の死を受け入れられず、ずっと道に迷い続けていたのだ。
田んぼを見て美しいと感じたとき、その迷い道からやっと抜け出ることができたのかもしれない。