空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

悪玉コレステロール

2010-12-17 21:25:44 | 健康・病気

 毎年受けている健康ドックの結果が送られてきて、悪玉コレステロール値が高く治療を要するとのこと。

 これまでも警告を受けていたのだが、血圧も、血糖値も正常なので、食事で改善するつもりで、医者に行かなかった。

 健康ドックで問診した医者に「この値はかなり高い。もし今年も変わらないのなら、治療を受けないと、心筋梗塞や脳梗塞が起きても不思議ではない」と脅されたので、今日、実家のすぐ近くの医院へ行った。

 両親が長年かかっている医院もそんなに遠くはないのだが、医者も高齢で、いつも長く待たされる。今日行った医院は、実家の窓から見えるところに、数年前にできた。

 喘息で悩まされていたころ、あちこちの医院へ行ったが、医者が新しい医療を勉強していないのではないかと疑いたくなるようなところが結構あった。

 今日行った医院は、合理的な医院経営や診察システムを考えているなあということがすぐわかった。待ち時間も少なく、診察室に入ると、すぐ頸動脈のエコーを取った。

 頸動脈は脳にいちばん近いから、脳の血管の状態を見るのにいいのだそうだ。

 5ミリの頸動脈が、3センチぐらいに拡大されて映るパネルを見ながら、「このでこぼこしたところの血管の厚さを測ってみましょう。正常な厚さは1ミリ以下なのに、1.6ミリもあるでしょう。放っておくと、どんどん厚くなって、これが剥がれて脳の血管に入ると、脳梗塞が起きるんです」などと、解説してくれる。

 このごろは、医療技術もさることながら、医大でも医者のコミュニケーション能力が重視されるようになったと聞く。大病院で父の検査に付き添ったことがあるが、CTスキャンだ、MRIだ、何とかマーカーの検査だと、医者自身がハイテク機器やデータに振り回されている感じがした。

 今日、診察したA医師は、私より少し若い年代で、ハイテク機器やコンピューターをうまく使いこなして、患者を納得させる技術を身に付けているなと感心した。

 いつの間にかコンピューターに入力された私のデータ(これが電子カルテというのかな)を見ながら、今後の治療方針を説明してくれる。

 私が「よくわかりました。頑張って治療を続けようと思います」と言うと、A医師は「そのように分かってもらえることが、医者として一番うれしいんです」と言う。

 診療開始時間の少し前に実家を出て、エコー検査、説明、血液採取、薬をもらって支払いを済ませるまで、1時間もかからなかった。

 診察券や、医院のパンフレットは手作りだということが分かる。血圧や高脂血症に関するプリントを、「私が作ったんです」と手渡されたのも、気に入った。

 近いということだけで選んだが、いい医者に当たってほっとした。

 とりあえず半年は、コレステロール値を減らす薬を飲むことになった。

 

 


武士の家計簿

2010-12-10 11:37:41 | 映画

 映画「武士の家計簿」を見た。

 以前、原作となった磯田道史さんの「武士の家計簿」(新潮新書)を読んで、それまでの江戸時代観が変わった覚えがある。

 磯田さんは、神田の古本屋で反故同然の古文書を発見し、それを読み解いて、幕末期の金沢藩の武士の生活を生き生きと描いていた。著者が、古文書を読み解きながら、わくわくしている気持ちが、そのまま伝わってくるような本だった。研究というのは、こういうことなんだと、感動した。

 小説ではなく、歴史の研究書を原作にして、森田芳光監督がどんな映画をつくったのかという興味、主役の堺雅人以下、面白そうな配役陣への興味から、封切前から見に行こうと決めていた。

 期待を裏切らない映画だった。

 自分が精神的にしんどい時は、あまり深刻な映画は見たくない。能天気なものも、かえって気分が滅入る。 この映画は、しんどい人も、しんどくない人も、誰が見ても、それぞれの立場で受け止めて見ることができる映画である。

 平日の昼間だったので、観客は中高年が多く、共感することしきり、笑いも涙もあり、上質の娯楽作品だと思う。

 主人公を演じる堺雅人は、この人以外にこの役は出来ないのではないだろうかと思わせるほどぴったりだったし、その妻役の仲間由起恵も、老夫婦役の松坂慶子、中村雅俊、おばば様の草笛光子、義父の西村雅彦も、みんな役どころを見事に押さえて演じている。

 幕末の下級武士の家庭を描きながら、現代世相への風刺も絶妙にちりばめられており、さすが森田芳光監督! と感心した。

 見終わった後、昔も、今も、人にも自分にも誠実に、つつましく生きることが、美しく、人間も幸せでいられるのではないだろうかという思いを強くした。

 


縁起・空・中道

2010-12-06 00:34:30 | 日記・エッセイ・コラム

 勝本華蓮さんが主宰する「みんなの仏教塾」に行ってきた。

 最終回のテーマは、「人生は中道で」。

 世俗世界では絶対にあると思っている自己も、ものごとも、縁起によって仮に存在しているだけである(世俗締=仮)。お釈迦さまは、その世俗締を解脱して、存在の本質は空であると知ることで、涅槃静寂の悟りを得た。その悟りの世界の真理を勝義締という。

 けれども、勝義締の基準をそのまま世俗世界に当てはめると、いろいろ不都合が生じる。

 オウム真理教は、勝義締の基準を世俗締に当てはめ、人間存在は空であるから、人を殺しても殺したことにはならないという理屈で、平気で人を殺した。

 オウムに限らず、イデオロギーをそのまま、現実世界に持ってきて、間尺に合わないものを平気で切り捨てることは、よく見られることである。

 旅人を寝台に横たえて、寝台からはみ出た足を切ったり、足りない分は無理やり引き伸ばしたりした、ギリシャ神話の盗賊、プロクルーステースみたいな人々だ。

 お釈迦さまが説いているのは、中道。

 一面的な見方を捨てて、空、仮(け)、中を同時に見ることが大切だと説かれた(一心三観)。

 中道に身をおくことは、とても難しいと思う。一つの物差しで、快刀乱麻、バッサリと判断を下すほうが楽だからだ。

 勝本さんの話が一段落して、質疑に入ったところで、私は、前回の「空、縁起」についての講義のあと、電車の中で、不思議な気持ちにとらわれたという話をした。

 電車の車窓から、暮れなずむ街を見ているうちに、「この風景はすべて空だ。縁起によって刹那、刹那、仮に成り立っている世界だ。この街の明かりの下にいる人々も、すべて、空だ。ひとり、ひとり、みんな人生のドラマを持っている。それも、すべて、空、縁起の世界だ」というふうに風景を見ている自分がいた。

 そのように車窓の風景を見ていると、なんとも言えない寂しさ、虚無感に襲われた。

 暗黒の宇宙に、私一人がただよっているような寂しさ。

 勝本さんは、「だから、空を知って、もう一度、世俗に戻ってくることが大事なんです。修行完成者=仏陀も、空にとどまらずに、Uターンされた。それが大事なんです」と言われた。

 私は、空と縁起を体得するとはどういうことなのか、空を体得して世俗を見た場合、どのように見えるのか、もし、体験があるのなら、そこのところを聞いてみたかった。

 けれども、話しているうちに、そのときの寂しさがよみがえり、涙が出てきて、詳しくは聞けなかった。

 そのうちに、どうして、仏教なのかという話になった。

 仏教に関心をもつきっかけは、人それぞれだ。

 勝本さんは、仏教を広めようとは思わないと言われたが、仏教塾を開いて、縁ある人々に話をしていることは、仏教を広める行為に違いない。

 私は特定の師匠を持たず、縁があればあちこち出かけて行って、仏教の話を聞く。それだけでも、ずいぶん勉強になるし、そのとき聞いた話が、偶然にも、自分が置かれている状況にぴったりだということも多い。

 勉強すればするほど、仏教は、現代に生きる人間にとって、大事なことを教えてくれる。

 仏教は宗教ではなく、哲学だという人もいる。しかし、私は、仏教は、やはり、宗教だと思う。

 哲学は、私という自己が厳として存在する、世俗締の世界である。

 世俗の真理では解決できないものがあるから、人間は苦しむのだ。

 苦を滅するには、自我を捨てるしかない。

 自我を捨てるには、お釈迦さまが説く道を歩むしかない。

 歩むための手立て、明かりが、信仰ではないのかなと思ったりする。