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空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

ケリとツバメ

2011-04-18 20:43:32 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、高脂血症の治療に通っている実家近くの医院へ行ったとき、すぐそばの畑で、ケリが鳴いていた。目を凝らして姿を探すと、つがいだろうか、ケリが2羽、土の色にうまく溶け込んで、歩きまわっていた。

 ケリという鳥を初めて見たのは、7、8年前。自宅近くに銀行の野球部のグラウンドがあった。阪神大震災の影響もあってその銀行は他の銀行と合併し、グラウンドは他の会社に売られ、長い間放置されているうちに草原になった。

 ある日、グラウンドの脇を歩いていると、数人がグラウンドの金網に顔を近づけて何かを見ている。草むらからは、ケンケンという甲高い声がする。何やら、鳥らしいものが動いている。

 「キジですか」と隣でのぞいている婦人に聞いた。その婦人が言うには「いいえ、ケリです。雛がいるので、カラスが近づくと、親鳥がしきりに鳴いて、警戒しているんです」とのこと。なるほど、上空をカラスが飛んでいた。

 図鑑で調べると、ケリという鳥は、田んぼや畑に巣を作り雛を育てる、身近な鳥なのだ。

 それから、グラウンド近くの住人や、学校帰りの子どもたちが、ケンケンと親鳥が鳴くたびに、雛の無事を確かめるべく、金網越しに草むらの中を観察するようになった。知らない人同士が「雛は大丈夫でしょうか」などと会話を交わしながら。

 カラスが現れるたびに、親鳥は、ある時は両親そろって、必死に鳴き続ける。その親鳥の健気な姿に、住人たちは感動さえして、カラスがどこかへ飛び去るまで、見守らずにはいられないのだった。

 そのグラウンドは、次の年には宅地になって、ケリの鳴く声を聞くことはなくなった。

 実家の周囲には、まだ田んぼや畑が残っていて、春から秋まで、どこかでケリの声がする。以前は気が付かなかったが、グラウンドに住み着いたケリを見てからは、私には親しい鳥になった。

 ケリに続いて、今年初めて、巣を作っているツバメの姿も見た。自宅近くには川があり、里山もあるので、ツバメの数は多い。夕方になると、山の谷あいに、周辺のツバメが無数に集まって、気流に乗り、まるで楽しんでいるかのように空高く飛翔している。

 被災地にもツバメは毎年数多く渡って来ていただろう。今年もやってくるだろう。そのとき、去年まで巣を作っていた町や村がなくなっているのを見たら、ツバメはどうするのだろう。

 ふと、そんなことを考えた。


被災地の花

2011-04-01 22:24:21 | 日記・エッセイ・コラム

 津波にすべてを破壊され、瓦礫が折り重なった風景の中に、梅の花が咲いている映像が、テレビに映し出された。

 おばあさんが、その梅の花に顔を近づけて、「潮水に浸かったのに、こんなに花をつけて。植物は強いね」と笑顔で話していた。

 阪神大震災のときにも、自らは火に包まれながら、延焼を食い止めた木が、人々を感動させた。

 私は、安否不明の大切な友人を探して、瓦礫と化した街を歩き回ったことがある。友人の家は、被害が大きいと報道された地域にあり、電話も通じず、新聞の死亡した人の名簿を見ても、名前がなかった。

 電車が西宮市の中心部まで走るようになってから、西宮まで行き、そこから幹線道路へ出た。知り合いや家族を探す人、救援物資を背負った人々の長い列が、途切れることなく続いていた。

 友人の住んでいた街に入り、倒れた家や電柱が道をふさいでいるのをよけながら、歩いた。

 ふと見ると、電車の線路の土手に、白い水仙の花が1輪咲いていた。付近の住民が土手の斜面を利用して、植えたものだろう。

 その時、私が思ったのは、「地震があったのに、なぜ花が咲いているんだろう」ということだった。地震があろうがなかろうが、花が咲くことに不思議はないのに、私の気持ちは、地震に打ちひしがれた人間から離れられなくて、梅の花を笑顔で見ていたおばあさんのようには、笑顔で水仙の花を見ることが出来なかった。

 原爆で焼き尽くされた広島の地にも、生き残った榎の木があった。

 そして、草も生えないと言われた広島の街に、緑が戻り、人々の生活が築かれていった。

 友人の住んでいたアパートは、ぺしゃんこになっていたが、避難所の住所が書かれたメモが貼り付けられていた。助かったのだ。避難所に友人を訪ねると、地震のショックと避難生活の心労で、人相が変わるほどやせ細っていた。でも、生きていた。

 植物は、自然の摂理に従って花をつける。

 人間だって、生きてさえいれば、いつか笑顔を取り戻せる。


元長崎大学長・土山秀夫さんの言葉

2011-04-01 12:40:11 | 日記・エッセイ・コラム

 いったん快方へ向かった風邪がこじれてしまって、咳が止まらず、微熱がなかなか取れなかった。身体がだるいと、何でも悪い方へ考えてしまうのは私の弱点だ。

 夜中に咳き込んで、眠れない時、ラジオ深夜便を聞いていた。

 3月25日の深夜、偶然、元長崎大学長の土山秀夫さんのインタビューを聞いた。

 土山さんは、長崎大の医学生の時、疎開させていたお母さんが危篤になり、長崎を離れたおかげで、被爆をまぬかれた。

 お母さんは持ち直し、土山さんは長崎に戻って、あの地獄のような原子野を歩き回り、同居していた兄一家4人を探した。

 お兄さんは首だけ出して亡くなっており、兄嫁、上の子どもの遺体も掘り返すことができたが、いちばん小さい子の遺体は、吹き飛ばされたのか、焼き尽くされてしまったのか、見つけることができなかった。

 医学生として、救護所で被爆者の救護に当たったが、医薬品は無く、できることは、死にゆく人に水を飲ませてあげることだけだった。水を飲むと、ほっとした表情を浮かべて、亡くなっていったという。

 反核への思いはずっと胸の中にあったが、長崎大学長を退任して、市民中心の反核運動を始めた。

 長崎は、反核運動の盛んな広島に比べて、祈りの長崎などと言われ、声高に反核を唱える運動はあまり盛り上がらなかったそうだ。

 現在、「核廃絶ナガサキ市民会議」共同代表として、「核廃絶地球市民集会ナガサキ」を開催し、核廃絶への提言を行っている。

 「核廃絶地球市民集会ナガサキ」は、NGO主導で、長崎市、長崎県が財政的・人的バックアップを行い、核廃絶への提言を政府・外務省に持っていく。外務省にもシンポジウムに参加してもらう。

 はじめは、けんもほろろだった外務省も、これは現実性があると、ちゃんと向き合ってくれるようになったそうだ。

 土山さんの説明する核廃絶へのプロセスを聞いていて、こんなふうに進めれば、誰でも、希望をもって参加できるのではないかと思った。

 また、医学者として、被爆者をずっと見続けてきた土山さんが言われた言葉が耳に残った。

 「核兵器はもっとも非人道的な兵器です。二度の原爆を体験したわれわれは、このことを世界の人々に伝え続けなければならないんです」

 核兵器に限らず、子々孫々の時代まで放射能を撒き散らし続ける核エネルギーそのものが、非人道的なのではないだろうか。

 私たちは、代替エネルギーを考えるだけではなく、エネルギーを際限なく使う社会・経済の在り方、暮らしの在り方を根本から考えなければならないのではないか。