空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

アート、映画のこと

2014-01-04 21:49:53 | アート・文化

 父の死後、重しが取れたように、あるいは手から放れた風船のように、身軽になったので、昨年11月以降、いろいろな活動を再開した。

 まず、介護生活に入る前は月に2回、通っていたアート教室へ再び通い始めた。大昔、一緒に朝鮮語を習っていた在日の友人が開いている教室だ。

 久しぶりに行くと、小学生、中学生の二人と若い主婦二人の生徒も新しく加わり、内容も、遠近法、スケッチ、水彩、油絵の技法を本格的に学ぶ教室になっていた。

 私はコラージュが好きで、以前からやっていたこともあり、油絵や水彩はいずれ学ぶことにして、今はコラージュを中心とした曼荼羅シリーズを製作している。先生は、展覧会をやるから、そのつもりで、と生徒にはっぱをかけている。

 私のような中高年と違って、小学生や若い人は、先生から教えられたことをすぐに自分のものにして、進歩が著しい。それが刺激になって、以前より集中して製作している。

 

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 国立国際美術館の「貴婦人と一角獣」展、京都市立美術館の「竹内栖鳳展」にも行った。どちらも友人が招待券を手に入れてくれたので、年金生活者にはありがたかった。

 貴婦人と一角獣を描いたタペストリーを製作した当時の技術、いまだに美しい色を残していることに驚かされた。 

 このタペストリーが飾られていた貴族の館に、私の好きなジョルジュ・サンドが滞在し、傷んだままになっていたタペストリーの保存に助力したという話が、教育テレビの「新日曜美術館」で紹介されていた。

 竹内栖鳳展では、有名な「班猫」を実際に見ることができて、長年の望みがかなった。栖鳳が最後まで、画法を追求し続けたことがよく伝わってくる展覧会だった。

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 映画も観に行った。

 印象に残っているのは「アンナ・カレーニナ」。

 これは父がまだ元気だった7月に観た映画だが、「プライドと偏見」のジョー・ライト監督が、トルストイの長編小説をどのように映画化したのか興味があり、ちょうど近くの映画館で上映されていたので出かけたのである。

 「プライドと偏見」にも出ていたキーラ・ナイトレイがアンナ役をやっている。 

 まず、その手法に驚かされた。映画の観客は、舞台で演じられるアンナとヴロンスキーの恋物語に加えて、役者がせわしく動き回ったり、衣装替えしたりする舞台裏や、舞台装置まで見せられる。

 一方で、トルストイに近い人格と言われるリョーヴィンとキティの恋は、ロシアの雄大な田園風景の中で描かれている。

 アンナとブロンスキーの恋や二人を取り巻く貴族社会が芝居じみて見える一方、リョーヴィンとキティーは地に足が付いた現実の生活を感じさせる。 

 長編小説を映画化する場合、原作に忠実に描こうとすれば、ストーリーを追うだけで精いっぱいという結果になりがちだが、ジョー・ライトは、舞台劇という演出方法を使って、トルストイが描こうとしたのはこういうことではなかったかと、一歩引いた視点から観客に問いかけているのである。

 若いころに読んだ原作では、アンナに感情移入するあまり、夫のカレーニンが俗人っぽく感じられたが、映画では、妻の不倫と貴族社会の中で苦悩する良識ある男として描かれている。私は、アンナより、カレーニンの方に感情移入したほどである。カレーニン役のジュード・ロウの演技がすばらしかったせいかもしれない。

 アンナとヴロンスキーが出会う舞踏会の場面は、モダンダンスの振付師、シディ・ラルビ・シェルカウイという人の振付けだそうである。

 音楽と巧みなボディ・ランゲージによって、アンナとヴロンスキーの、いったん燃え上がったら最後、理性でコントロールできない恋を象徴的に描いていて、リアリズムで描くより、恋というものの本質を見事に表現している。

 次に感動したのは、高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」。

 高畑監督の作品は、宮崎駿監督の作品より、私の体質に合うような気がする。

 原作の「竹取物語」は、j平安時代の物語文学の中では好きな物語だ。高校の古典の教科書で初めて原作に接し、暗唱するほど何度も読んだ。かぐや姫が天に帰るときの、あたりが真昼のようになり、慌てふためく地上の人間の描写は見事だと思う。明るい満月の夜、私は決まって「竹取物語」のこの場面を連想する。

 アニメ「かぐや姫の物語」は、幼なじみの男との恋を除いては、原作に忠実に描かれている。

 高畑勲という名を認識したのは、彼のアニメ作品が最初ではない。

 カナダのアニメ作家、フレデリック・バックの「木を植えた男」を観て大いに感動し、書店で見つけた『木を植えた男』の著者が、高畑勲だった。

 「木を植えた男」は、パステル画か砂絵が動いていくような、流れるような線で描かれた作品で、アニメ映画を見ているというより、目の前に何かの啓示が出現したような、不思議な感動を覚えた。

 そのフレデリック・バックは昨年のクリスマス・イブに、89歳で亡くなった。

 高畑監督自身が、フレデリック・バックに大きな影響を受けたということを、ことあるごとに言っているように、「かぐや姫の物語」も、風景や草木が緻密に描かれているのとは対照的に、人物は、素描画がそのまま、水の流れが動いていくかのように描かれる。それが、かえって、生き生きした動きを生み出している。

 私は何度も泣いてしまった。どうして泣いてしまったのか。目が腫れるほど泣いて、恥ずかしいので、遠近両用メガネをかけ、マスクをして映画館を出た。その夜は、泣いたことで鼻の粘膜が炎症を起こし、ティッシュボックスを一箱、空にした。

 「かぐや姫の物語」を見て、すっかり忘れていた話を思い出した。幼いころのことなので、自分では覚えていないが、父がよく話してくれたことがある。

 私が初めて買ってもらった絵本が「かぐや姫」だそうだ。敗戦から何年もたっていないころの話だから、今のような立派な絵本ではなく、粗末な紙に粗末な色で描かれたものだったと思う。

 その絵本を繰り返し、繰り返し、読んでほしいと父にせがんだそうだ。父が読んでやると、かぐや姫が天に帰る場面で、決まって、大きな目を見開いてぽろっと涙を流したのだそうだ。そのくせ、また、読んでほしいとねだり、天に帰る場面でまた涙を流すのである。 

 ふと、私が「竹取物語」が好きで、暗唱するほど読んだのは、幼い日、「かぐや姫」の絵本を読んでもらったせいではないか、と思った。 

 そして、「かぐや姫の物語」を見て、目が腫れるほど泣いてしまったのは、父に読んでもらった「かぐや姫」の絵本の記憶のせいではなかったか。 

 「かぐや姫の物語」では、竹の中から拾い上げたかぐや姫を、竹取の翁と媼が、いつくしみ、かわいがって育てる様子を、詳細に、美しく描いている。 

 その場面を見ながら、まず、泣けてきた。「このように、私も、両親にいつくしみを受け、大切に育てられたんだ、なぜ、今まで、そういう自明のことに気付かないできたのだろう」と思うと、涙が止まらなかった。