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空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

ロールケーキ作りの講習会

2022-05-25 03:33:37 | グルメ

 3月で48年続いた有機農業の生産者と消費者の提携運動団体「求める会」の活動が終了し、希望者が集まって「その後の会」(仮名)でいろいろな活動をすることになった。

先日、Mさんが講師になって、ロールケーキの講習会が開かれた。

Mさんは、求める会の収穫感謝祭のときには、即売会や喫茶店用のケーキを焼いてくれて、その腕前には定評がある。

生地には小麦粉はあまり使わず、主な材料は卵。白身5個分、黄身4個分も使う。

白身はハンドミキサーで思い切り泡立てる。途中、2回に分けてグラニュー糖を投入し、塩少々も加えて、さらに泡立てる。

黄身も泡だて器でしっかり泡立て、砂糖、沸騰させたバターを加えて、再度泡立てる。結構力が必要で、手が疲れる。

十分泡立てた白身にふるいにかけたメリケン粉を加え、さらに黄身を加え、十分に混ざったら、パッドにクッキングペーパーを敷き、生地を入れて平均にならす。

オーブンで焼いて、ホイップした生クリームを伸ばし、お好みの果物(この日はイチゴ、バナナ、キウィ)を適当な大きさにきって載せ、ロールする。

私はケーキ屋さんのロールケーキは買ったことがないが、この日のロールケーキは抜群にうまかった。

小さいのはルバーブのジャムのロールケーキ。

 

 


「ドライブ・マイ・カー」を観るー〝ギフト〟考 番外編

2021-12-29 13:08:18 | 映画

 例によって、友人たちと発行している同人紙からの転載です。

 

 「ドライブ・マイ・カー」を観る―〝ギフト〟考 番外編ー

 

  「〝ギフト〟考」番外編として、この夏に観た映画「ドライブ・マイ・カー」について書く。

 原作は村上春樹の短編集『女のいない男たち』所収の「ドライブ・マイ・カー」である。同短編集の他の作品のエピソードも織り込まれているけれども、原作を見事に換骨脱胎した、濱口竜介監督独自の映画作品だと言えるだろう。

 濱口監督は大江祟允と共同で脚本も手掛けていて、この作品はカンヌ国際映画祭で脚本賞を含め四賞を受賞している。3時間もの長尺だが、その長さを少しも感じさせないほど、観客を映画の世界に引き込んでいく。

 あらすじ 主人公は西島秀俊扮する家福悠介。舞台演出家で、妻の音(霧島れいか)は脚本家。音はセックスの後、もうろう状態の中で、「女子高生が男子同級生の部屋に繰り返し忍び込む物語」を語る。悠介はその物語を記憶して音に聞かせ、音はそれをもとに脚本を書こうとしていた。

 ある日、悠介はほかの男とベッドにいる妻を目撃するが、胸にしまい込んだまま何事もなかったかのように過ごすうち、音はクモ膜下出血で急死する。

 2年後、広島で開かれる演劇祭で、チェホフの「ワーニャ伯父さん」を演出することになった悠介。韓国人スタッフのコン・ユンスから、専属ドライバーの渡みさき(三浦透子)を紹介される。愛車を他人に運転されたくなかったが、みさきの運転は文句のつけようがないほど見事だった。

 移動の車の中で、悠介は「ワーニャ伯父さん」のセリフが録音されたカセットテープを聞く。それは音が生前、録音しておいてくれたもので、ワーニャの部分だけ、悠介がセリフを挟む。その間、みさきは、黙々と運転を続けるだけだ。

 オーディションで日本、韓国、台湾、フィリピン、など九つの言語を母国語とする出演者が決まる。

 ワーニャ役を振り当てられた高槻耕史(岡田将生)は、妻が生前、悠介の舞台の楽屋に連れてきた若い俳優で、音の葬式にも来ていた。悠介と高槻の間に流れる微妙な空気に、音とベッドにいたのはこの男ではないかと観客は気づく。

 ワーニャの姪、ソーニャは韓国人のイ・ユナが演じることになる。ユナは耳は聞こえるが、口がきけない。ユンスが韓国手話の通訳をする。

 出演者全員が向かい合って座り、脚本を声に出して読むという稽古が始まる。自分の役のセリフを、感情を交えずに自分の母国語で、ユナは手話で読む。自分のセリフが終わると机を軽くたたき、それを合図に次の役者がセリフを読む。

 そのようにして、淡々と脚本を読み続ける作業が続く。役者たちは、本読みの意図を悠介に問うが、悠介はただ続けるよう言うだけだ。しかし、感情を入れずに、多言語で脚本を読み、聞くという作業が、言葉のもつ本来の意味、登場人物の人間像や関係性、芝居全体の意味を共有し、内面化していく作業だということを、役者たちは少しずつ体得していく。

 稽古が終わってから、高槻は悠介をバーに誘う。高槻の話は次第に妻の音のことになり、内面に踏み込ませまいとして平静を保つ悠介。

 ある日、ユンスが悠介とみさきを自宅での食事に誘う。ユナが愛犬を連れて出迎えた。ユナはユンスの妻だった。異国日本で、口がきけないユナを支えることができるのは自分だけだと、ユンスは韓国手話を身に着けたのだった。

 食事で緊張がほどけてゆき、悠介は、みさきの運転のすばらしさを率直に語る。その時ふいに、画面から、みさきの姿が消える。次の場面、椅子から離れたみさきが、食卓のわきに伏せている夫婦の愛犬の相手をしている。この展開で、ただ黙々と運転を続けていたみさきが、心を開いたのが分かる。

 悠介が、どこかに連れて行ってくれと、みさきに頼み、連れて行かれたのはゴミ処理施設だった。

 みさきは、北海道で貧しい母子家庭に育ち、水商売の母の送り迎えのために、虐待されながら運転技術を仕込まれた。家が土砂崩れに遭って母が亡くなり、故郷を飛び出す。ガソリンが尽きたところがゴミ処理施設で、ゴミ収集車の運転をしていたという。

 高槻が再び悠介に声をかけてきて、2人で飲んだ後、先に店を出た高槻は、自分を隠し撮りしていた男を、通りの奥の公園に連れていく。争う声がしたが、何事もなかったかのように悠介と一緒に、みさきが運転する車に乗り込む。

 悠介は車の中で、一人娘を失った後、音が新しい物語を語るごとに、何人かの男と関係を持つようになったことを話す。

 高槻は音から聞いたという物語を口にする。それは、悠介が聞いた物語の続きだった。音は高槻とのセックスの後に、その物語を語って聞かせたのだ。

 「ワーニャ伯父さん」の舞台稽古の場面。高槻が警察に連行される。公園で殴った男が死んだのだ。

 ワーニャ役を悠介が引き継ぐか、公演を中止するか、2日で決断するよう、スタッフに迫られる。悠介は、自分の内面が引き出されるこの役を演じることはできないと思っている。

 悠介は突然、みさきの故郷に行こうと言い、車を北海道へと走らせる。

 道中、みさきは、「壊れた家の中に母がいることが分かっていたのに、助けを呼ばずに母を見殺しにした」と話す。悠介も、「妻が話があると言っていたのに遅く帰った。妻を死なせたのは自分だ」と告白する。

 雪の中に埋もれた家の跡に花を手向けながら、みさきは、母との思い出を語った。悠介も、「ぼくが見ないふりを続けたせいで、音を失ってしまった。音にもう一度話しかけたい」と、うちに閉じ込めていた思いを初めて吐露し、2人はお互いを抱きしめた。

 次の場面は「ワーニャ伯父さん」の舞台。客席にはみさきがいる。終幕で、人生に絶望したワーニャ役の悠介に、ユナ演じるソーニャが手話で語りかける。

 「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を生き抜きましょう。試練にじっと耐えるの。そして、あの世で神様に申し上げるの。私たちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって」。

 感情抜きの多言語での本読み同様、手話だからこそ、チェホフがセリフに込めたメッセージが観客に直に伝わってくる。

 濱口監督の手法と様々な仕掛け この映画は、濱口監督独特の手法と様々な仕掛けによって、クライマックス「ワーニャ伯父さん」の終幕の場面へと収斂していく。きわめて複雑な展開を見せながら、少しも破綻がない、その手法は見事というほかない。

 悠介と音の夫婦、音と高槻、悠介と高槻、悠介とみさき、悠介とユンス・ユナ夫婦、そして芝居の練習の中で絡み合う出演者たち。これらの人間関係が、映画の進行につれて複雑に絡み合い、影響を与え合い、変化していく。

 もう一つの仕掛けは劇中劇だ。音が語る意味不明の物語。悠介が演じる、ベケットの「ゴドーを待ちながら」が映画の冒頭部分に出てくる。これは不条理劇の代名詞的な作品である。

 そして、チェホフの「ワーニャ伯父さん」。登場人物たちは不条理な現実の中で苦しみもがいている。これらの劇中劇(物語)は、現実を生きる人間たちに影響を与え、また反対に、現実の人間たちの行動と意識が、劇中劇(物語)の持つ意味を変えていく。

 世界は不条理そのものであり、人間は、不条理を受け入れ、じっと耐えて生きていくしかない。これが、この映画のテーマの一つと言えるだろう。それをあからさまに示すのではなく、劇中劇(物語)や登場人物の行動、言葉によって、つまり、濱口監督が仕掛けた仕掛けによって、観客は自然に納得していくのである。

 もう一つのテーマは救い。悠介とみさきが周囲の人間とのかかわりによって心を開き、認めがたい現実を受け入れる。苦しみは変わらないが、受け入れることが救いでもある。「ワーニャ伯父さん」のソーニャのセリフは、そのことを端的に示している。

 この文章を書きながら、気づいたことがある。音、高槻、ユナの役割についてである。

 音は物語を語る途中で急死し、続きを話せる者は高槻だけである。その高槻も途中で警察に連行される。ユナは手話通訳なしにはセリフを伝えられない。

 つまり、何らかの障壁を抱えながら、物語・セリフ(=真実)の伝え手としての役割が3人に与えられているということだ。3人の伝える言葉によって、映画は新たな展開を見せる。

 言葉とは、魂をのせる贈り物=ギフトにほかならない。映画に限らず、芸術はすべてギフトだと私は考えるが、3人の役割に思い至った時、この映画はまさにギフトだと思った。

 映画は、みさきが韓国のスーパーマーケットで買い物をする場面で終わる。買い物を済ませ、みさきが乗り込んだのは悠介の愛車である。運転席の隣には、ユンスとユナ夫婦の愛犬がいる。

 なぜ、みさきは韓国にいるのか。悠介はどこにいるのか。ユンスとユナ夫婦はどうなったのか。推し量る手掛かりを濱口監督は何も示さず、みさきの運転する車は、韓国の都市の中を軽やかに走っていく。

 


なぜ「贈与論」か -〝ギフト〟考 その2-

2021-06-24 23:42:58 | 日記・エッセイ・コラム

 友人と発行している同人紙からの転載です。発行が再開されたにもかかわらず、コロナ禍その他の理由で立夏号の発行が遅れているため、先にブログに転載しました。

 

 なぜ「贈与論」か  -“ギフト〟考  その2-

 前回で、「ギフト考」と題しながら、本筋とは少し離れた内容を書いた。

今回は、なぜ「ギフト」について考えようと思ったのか書いてみようと思う。

ちなみに、学術書などでは「贈与」論、「贈与」説と記述していることが多いのだが、「贈与」を「ギフト」と言いかえた方が、学術論から離れて、自由にイメージを広げることができるような気がしている。

 前回、文化人類学者、岩田慶治さんの著書、『道元の見た宇宙』で、マルセル・モースの「贈与論」を知ったこと、それを拡張解釈した「言霊(ことだま)論」を紹介した。

この考え方に出会って、世界の見方が変わったといっても過言ではない。

私は直感的に物事をとらえるほうだ。

映画を見ても、音楽を聴いても、美術作品を見ても、ある一点に強く惹かれて、その作品が記憶に残り、強く惹かれた一点の持つ意味を考えてしまう。

しかし、なぜ、惹かれたのか、なぜいつまでも記憶に残り、考えてしまうのか、自分でも理解できないことが多々あった。

 両親に介護が必要になったのは、10年以上も前になるだろうか。

そのころは付きっきりの介護はまだ必要がなくて、基本的には実家で生活し、週に1、2度、片道2時間かけて実家から自宅に戻るという生活を続けていた。

途中、電車の乗り換え駅で古書店を見つけ、時々立ち寄るようになった。

少し前から仏教書に親しむようになっていて、その頃は、道元が生涯をかけて書き継いだ『正法眼蔵』に取り組んでいたのだが、あまりの難解さに、途中で投げ出していた。

 ある時、その古書店で岩田慶治さんの『道元の見た宇宙』を見つけた。

私は、書店で本を手に取ると、まず、あとがきを読む。本の内容や筆者の意図が大体つかめるからだ。

『道元の見た宇宙』のあとがきのページを開けたとたん、いきなり心をつかまれ、夢中で読み進めた。

 岩田さんは、あとがきで、『正法眼蔵』を読むということについて次のように書いている。(紙面の関係でメモ書きでしか紹介できないのが残念)

 ◆本を読む〈とき〉は、本との出会いの〈とき〉である。〈出会いのとき〉は〈無心のとき〉でなければならない。

 ◆読むことは対話することである。対話することによって自分の存在を確かめ、自分のアイデンティティーを手に入れることができる。

 ◆(対話している)二人のコミュニケーションを成立させていたのは、実は、対坐している二人を包む場所である。文字や、言葉や、音の流れではなくて、対坐する二人でさえもなくて、二人を受けとめていた場所が対話の本当の主人公。

 ◆『正法眼蔵』を読むことは、『正法眼蔵』と自分が置かれている場所を読むことである。辞書不要、文法不要。もっぱら、そのとき、その場所に突入しなければならないのである。

 ◆〈時空〉を捨てる。文化の中に仕組まれた〈時空〉の尺度、座標軸を捨ててしまうと、そこに驚くべきことが起こる。新しい風景が見えてくる。

 ◆<時空>を捨てると、それまで見えなかったものが見えてくる。見えない世界から見える世界が誕生する、そういう万物創造の現場に立ちあうことになるのである。

 ◆岩田さんは文化人類学を4つの領域に分類し、第4の型、自他を究明しようとする学問の型を「自分づくり型」と名付けている。自他をあるがままに映す、全体を、宇宙を映す、そのための鏡をつくる学問で、これが道元の途にぞくすると言っている。  

 自分を取り囲んでいる、「文化の中に仕組まれた<時空>の尺度」を捨て、自他をあるがままに映すことは容易ではないが、辞書片手に言葉と格闘し、理解しようとしないで、ただ心の赴くままに本を読むように、読書の姿勢が変わっていった。

 『正法眼蔵』はもちろんのこと、『道元の見た宇宙』も、依然として難解であることに変わりはない。

しかし、途中で投げ出すということをせず、少し時間を置いては再び本を手に取り、繰り返し読む。繰り返し読んでいるうちに、前方にぼんやりと光が見える気がしたり、手探りしながらも面白いと感じたり、ばらばらに浮遊していた言葉たちが、突然、ひとつの世界を語り始めるということが起こってくる。

 そのように、読み進めていくうちに、岩田さん独自の「贈与論」、「言霊論」に出会ったのである。

岩田さんの解説による「贈与説」と、それを拡張解釈した「言霊論」をもう一度記してみよう。

【贈与説】AがBに贈り物をする。贈り物をもらったBは機会をとらえて、Aに贈り物のお返しをする。Aの贈り物には、Aの霊魂が付着している。BはAの霊魂をもとの主人に送り返すためにも、機会をみて贈り物をAに送り届けなければならない。そのように、贈り物、「もの」であると同時に情報でもあるものは、いわば霊魂のレールにのって去来するのである。モースはそのように考えた。

【言霊論】霊魂というのは目に見えない場所であり、身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間なのである。贈り物とともに霊魂が去来すると考えるのは、私とあなたはたがいに同じ命の場を共有している、同じ目に見えない土壌の上に生きている、ということを「もの」 の去来を通して確認するためなのである。霊=場所の上を運ばれてゆくから、言(こと)=記号が相手に届き、相手からの返信がかえってくるのである。

 岩田さんの「贈与説」「言霊論」に出会ってのち、音楽や、映画、美術作品に心惹かれたときは、「ギフト」という視点を持つようになり、「もの」とともに、霊(たま)が去来する、その場をイメージするようになった。

すると、その作品たちが、単に表現されたものの枠をはみ出して、もっと拡がりを持った世界、深い意味を示し始めることがたびたび起こった。啓示といってもよい。

 映画「蜜蜂と遠雷」では、著名なピアニストで、今は故人となったホフマンから、コンクール出場者、風間塵を推薦する手紙が審査員たちに送られてくる。

その手紙には、「この少年をギフトと取るか厄災と取るかは、諸君の裁量しだいだ」と書かれていて、審査員たちを困惑させる。

私がこの「ギフト」という言葉に直感的に反応したのは、以上のような理由による。 

 風間塵は、この世界のあらゆる現象のなかに、音楽を感じることができる少年として描かれている。

蜜蜂の羽音も遠雷も音楽だ。音楽は、この世界、宇宙からの「ギフト」であり、音楽を演奏するということは、この世界、宇宙へ、ギフトのお返しをするということなのである。

岩田さん流に言えば、世俗的な、音楽という〈時空〉の尺度を捨て、万物創造の現場に立ちあっている。

 『道元の見た宇宙』を読み進めているころに続けて観た、心に残る2本の映画がある。「テンペスト」と、「大鹿村騒動記」だ。

 「テンペスト」はシェイクスピア最後の戯曲だ。

女性であるジュリー・テイモア監督は主人公のプロスペローを女性に変えて、時には世界を滅ぼしもするが、一方では豊かなものを生みだす大地であるという女性原理を象徴的に使うなど、様々な新しい演出を試みている。

 ミラノ大公であったプロスペローは、大公の地位を奪った弟、アントーニオの一行が乗った船を難破させ、登場人物たちは魔法を駆使したプロスペローの復讐劇に振り回される。

しかし、最後にプロスペローは復讐を思いとどまり、魔法の本と杖を海に投げ入れる。

魔法の本が海に沈んでいく映像とともに、和解と再生を願うプロスペローの、歌のようなセリフが流れるシーンはとても美しい。

 テイモア監督は、ミュージカル「ライオンキング」で、独自の動物の衣装というか装置を考えたことで有名な演出家だ。

「テンペスト」を撮る10年前に、やはりシェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」を原作とした「タイタス」という映画を世に出している。

これは、アンソニー・ホプキンス扮するローマの武将タイタスの、徹底した復讐劇で、あらゆるものの命を奪い、何も生みださない、人間の悲劇を描いている。

いわば不寛容な男性原理のもたらす悲劇である。

 「タイタス」の悲劇を埋めるかのように、10年後、「テンペスト」という和解と再生の物語を世に出したのは、テイモア監督の、この世界へのギフトのように思える。

シェイクスピア自身が、最後の戯曲として「テンペスト」を書いたのも、この世界へのギフトだったのではないだろうか。

 「大鹿村騒動記」は、300年間、長野県下伊那郡大鹿村の村人たちによって演じられてきた「大鹿歌舞伎」をテーマにした映画だ。

国選択無形民俗文化財に指定されている大鹿歌舞伎に芸能の原点を見出した原田芳雄の発案で、阪本順治が脚本を書き、監督した。

原田芳雄は末期がんをおして撮影を続け、映画公開の3日後に亡くなっている。

 映画「大鹿村騒動記」は、いろいろなトラブルや事情を抱えた村人たちの現実と、大鹿歌舞伎が並行して進行する。

演目は「六千両後日之文章重忠館之段」。この演目は、大鹿歌舞伎にしか残っていないそうである。

 平家の落人、景清が、仇である源頼朝とその重臣、畠山重忠にたった1人で戦いを挑み、源氏の世を見たくないために、自ら両眼をくりぬく。

頼朝は自分を襲った景清を赦し、景清は最後に、目から血を流しながら「仇も恨みもこれまで、これまで」と見得を切り、日向に落ちのびてゆく、という平家滅亡の後日談だ。

 歌舞伎が「和解」で終わるように、村人たちの様々な事情も、それなりの解決点を見出していく。

 映画を撮っているときには、原田芳雄は自分が映画の公開直後に死ぬとは思っていなかったかもしれないが、身体の中に重いがんを抱えていたし、71歳という年齢は、原田芳雄から一切の無駄なものを取り除き、純粋に芸能の原点に立ち返って、伝えるべきものを伝えようとしていたのではないだろうか。

その原田芳雄とともに演じている他の俳優たちも、監督やスタッフたちも、実に生き生きと映画作りを楽しんでいる、そういう空気が観客席にまで伝わってくるような映画だった。

 シェイクスピア劇、歌舞伎というまったく違った演劇のなかに、「和解と再生」という共通のテーマを見出したことは、新鮮な発見だった。

「ギフト」「霊魂が去来する場」というイメージがなかったなら、こんな発見はできなかっただろう。

 多くの悲喜劇を世に出し、最後に和解と再生の物語「テンペスト」を書いたシェイクスピアも、奇想天外な展開の中で観客の共感とカタルシスを導き出す歌舞伎、そして、歌舞伎以上に奇想天外な物語で観客を引き付ける人形浄瑠璃も、演劇という空間、魂の去来する場を共有する点で同じである。

観客は多分、喜劇であれ、悲劇であれ、知らず知らずのうちに、その空間の先に、和解と再生の物語を読み取っているのではないだろうか。

 原田芳雄が大鹿歌舞伎に見出した芸能の原点とは、演者と観客が、演劇という空間で、霊魂の交換をするということではなかったかと思う。

そして、映画「大鹿村騒動記」は、原田芳雄の遺言であると同時に、最後の「ギフト」だったのだと思う。 


岩佐寿哉・川口汐子往復書簡集『あの夏、少年はいた』を読むー〝ギフト〟考 その1

2021-03-09 18:09:24 | 日記・エッセイ・コラム

 コロナでブログも自粛していたわけではなかったが、1年ぶりの更新である。

 友人たちと年4回発行していたミニコミ紙も発行を休止していたが、1年ぶりに再開した。そのミニコミ紙に書いたエッセイを再録する。

 

岩佐寿弥・川口汐子往復書簡集『あの夏、少年はいた』を読む

                  ―〝ギフト〟考 その1―

 

 1年も前のこと、映画「蜜蜂と遠雷」を見た。

 それより少し前、NHKBSで「蜜蜂と遠雷~若きピアニストたちの18日」というドキュメンタリーが放送されていた。

 「第10回浜松国際ピアノコンクール」に挑戦する若きピアニストたちの姿を追った、その番組の中で、このコンクールが恩田陸の小説『蜜蜂と遠雷』のモデルになっているという説明があった。

 放送と相前後して映画が上映されたので、見に行ったのである。

 記憶に残っている場面がある。今は亡き著名なピアニスト、ホフマンが、コンクール参加者の一人、風間塵を推薦する手紙を審査員たちに送っていた。

「この少年を災厄と取るか、ギフトと取るかは諸君の裁量次第だ」という手紙に審査員たちは困惑する。

 私は、「ここにも〝ギフト〟が出てきた」と驚いた。

 作者が〝ギフト〟をどんな意味で使ったのかはともかく、私はフランスの社会学者、マルセル・モースが未開社会における贈り物の交換について論じた「贈与論」を思い出したのである。 

 文化人類学者であり、道元の深い理解者である岩田慶治さんの著書、『道元の見た宇宙』を読んで、初めてモースの学説のことを知った。((岩田さんは「贈与説」と表記)

 岩田さんは、「第2章 道元の言葉」の中で、言霊(ことだま)についての理解を助けるために、「贈与説」を紹介している。 

 要約すると「AがBに贈り物をする。贈り物をもらったBは機会をとらえて、Aに贈り物のお返しをする。Aの贈り物には、Aの霊魂が付着している。この霊魂はもともとAのものだから、いつかAのもとに戻りたいと思っている。そこで、BはAの霊魂をもとの主人に送り返すためにも、機会をみて贈り物をAに送り届けなければならない。そのように、贈り物、ものであると同時に情報でもあるものは、いわば霊魂のレールにのって去来するのである。モースはそのように考えた」。

 岩田さんは、ものに付着して去来する霊魂を、ある種の空間だと考える。

 「霊魂というのは目に見えない場所であり、……身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間なのである。

 ……贈り物とともに霊魂が去来すると考えるのは、……私とあなたはたがいに同じ命の場を共有している、同じ目に見えない土壌の上に生きている、ということを『もの』の去来を通して確認するためなのである。

 ……ここまで解説すれば、あらためて述べるまでもなく、言霊といわれるものがモースのいう、そして私が拡張解釈した、霊(たま) =場所にあたるということが納得されるであろう。

 霊=場所の上を運ばれてゆくから、言(こと)=記号が相手に届き、相手からの返信がかえってくるのである。」

 

 前置きが長くなった。さて、今回のテーマ、岩佐寿弥さんと川口汐子さんの往復書簡集に移る。

 今年1月、BSプレミアムで「あの夏~60年目の恋文~」と題したドキュメンタリ―が再放送されていた。

 2006年の初回放送時に見た記憶があった。テレビをつけたまま、家事をしながら耳だけを傾けていたが、「モウモ チェンガ」「いわさひさや」という聞き覚えのある名が耳に飛び込んできて、慌ててテレビの前に座った。

 「あの夏~60年目の恋文~」は、昭和19年、奈良女高師(現奈良女子大学)附属国民学校4年生の少年が、教育実習生として教壇に立った雪山先生にひそかな恋心を抱き、60年後、その先生の消息を偶然知って、長い手紙を書く。

 何回かの手紙のやりとりと、再会後の交流を、先生の孫娘の目を通した再現ドラマ仕立てで描いている。

 奇跡とも思える再会と、年齢を超えた2人の交流に、とても感動した覚えがあるが、初回放送当時は、映画作家である岩佐寿弥さんのことを私はまだ知らなかったから、少年の名も記憶に残らなかった。

 映画「オロ」を見たのは2013年だったか。インド・ダラムサラで、チベット亡命政府が運営する「チベットこども村」に学ぶ少年、オロを描いた作品だ。

 監督が岩佐寿弥さんだった。その映画を見て、岩佐寿弥という名が初めて私の記憶と心に刻まれたのである。

 オロは母親に勧められて家族と別れ、ヒマラヤを越えてインドに亡命してきた。

 このような子供たちが多くいることは、ドキュメンタリー映画「ヒマラヤを越える子供たち」にくわしく描かれている。

 オロが「監督は年寄りなのに、なんでこんな映画を撮るのか」と尋ね、岩佐監督がまじめに答え、オロが納得するシーン、10年前に撮った映画「モウモ チェンガ」の主人公で、ネパールに住むチベット難民のおばあさんに会い、おばあさんの家族と親しくなったオロが自らのことを語りだすシーン、映画の最後でオロは「それでもぼくは歩いていく」と決意するシーン、どれも心に残る。

 「ぼくのなかでオロは〈チベットの少年〉という枠をこえて地球上のすべての少年を象徴するまでに変容していった」と岩佐監督は語っている。

 監督についてもっと知りたいと思い、公式ホームページを見た。岩佐監督の訃報が載っていた。

 2013年5月3日、宮城県での「オロ」上映会のあと、宿泊先で階段から転落し、翌4日、亡くなったという。享年78歳。

 映画「オロ」は、各地のミニシアターや自主上映会で共感の輪が広がり、ⅮⅤⅮも出ていることを知ったので、早速取り寄せた。

 上映会の開催に奔走し、道の途中で亡くなった岩佐監督へのせめてもの追悼の気持ちからでもある。

 テレビのドキュメンタリー「あの夏~60年目の恋文~」の再放送を見る中で、この番組が、岩佐寿弥さんと、教生の雪山先生(結婚後、川口汐子さんとなる)との往復書簡集『あの夏、少年はいた』をもとに構成されたものだと知った。

2005年刊の本は絶版になっていたが、地元の図書館で見つけ、1週間前にようやく手にすることができた。

 2003年8月のある夜、岩佐さんは、ⅮⅤⅮに録画していたテレビ番組を見て、そこに出演していた川口汐子さんが、雪山先生ではないかと気づく。

 NHKのアーカイブ番組「戦争を伝える」シリーズで、1979年に放映された「昭和萬葉集」という番組だった。

 その中で結婚したばかりの夫のことを詠んだ川口さんの短歌が朗読され、川口さんの短いインタビューのシーンがあった。

 川口さんの夫は海軍士官で、特攻隊として出撃する運命にあった。少しでも夫の近くにいたいと、川口さんは夫を追って任地を転々とする。出撃予定日の一週間前に戦争は終わった。

 岩佐さんは、テレビにくぎ付けになる。

 国民学校時代のアルバムを持ち出して、集合写真にある雪山先生とテレビ画面の川口汐子さんの顔を見比べ、朗読された短歌

 「君が機影 ひたとわが上にさしたれば 息もつまりて たちつくしたり」

の詠み人の名に汐子とあるのを見て、川口さんが雪山先生であると確信する。

 インターネットで、川口さんが姫路に健在であり、歌人、随筆家、童話作家として活躍していることを知り、川口さんの歌集を取り寄せ、長い手紙を書く。

 そして、時間を60年前に一気に引き戻すような、2人の交流が始まるのである。

 ドキュメンタリーの再放送を見て、あの少年は岩佐さんだったのかと分かったのは、川口さんの娘と孫が、岩佐さんに会うべく、「モウモ チェンガ」の上映会に現れるシーンであった。

 私の中で、戦争中、雪山先生に恋した少年と、映画「オロ」を撮った岩佐監督の人間像が、矛盾することなく重なった。

 2人の感動的な往復書簡の内容を記したいが、紙面がないので、岩佐さんが巻末に記したエピローグを紹介する。

 岩佐さんは川口さんへの最初の手紙で国民学校4年生の夏休み、京都の叔母の家近くにあった雪山先生の家を探し当て、表札を見ただけで引き返したことを告白している。

 再会後、幾度か姫路に川口さんを訪ねたある日、「京都のあの家は今もあるのですか」と尋ねた岩佐さんに、川口さんは「今から一緒に行きましょう」と、夕暮れ時の住宅街で家を探し出す。

 60年前そのままの門前に、八十嫗と七十翁は立ち並んだ。岩佐さんが「表札はもっと高く見えたなあ」と思ったとき、川口さんは杖を取り落とし、うつ伏して泣いていた。

 このとき、2人のいた場所は、岩田慶治さんが「言霊」と呼び、「身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間」「たがいに同じ命の場を共有している」と表現した、霊(たま)=場所であるような空間だと思うのだ。

 その空間は、戦争中、少年だった岩佐さんが雪山先生に出会った場所であり、若き日の川口さんが戦争の時代に自分を見失わなかった場所であり、60年後に2人が再会し手紙を交換した場所であり、岩佐さんが「オロ」と出会った場所でもある。

 2人は亡き人となったけれども、その場所は、目に見えぬところに永遠に存在していると思う。

 岩佐さんのあとがきの次のページ、書簡集の最後のページに記された歌。

「少年も少女も齢(よはひ)重ねたりふつふつと粥煮ゆるときのま    川口汐子」

 


映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」とゴッホ展

2020-03-16 16:20:05 | アート・文化

 2月29日、兵庫県立美術館のゴッホ展に行ってきた。

 2009年、新型インフルエンザが流行したときも、学校が休みになり、美術館や図書館が臨時休館になった。

 その時も、この美術館で見たい展覧会があって出かけ、美術館の前で初めて休館を知ったという経験がある。

 今回、安倍首相の一斉臨時休校の要請が突然発表された。各自治体はもちろん、文科大臣でさえ寝耳に水の発表だったようだ。

 兵庫県はその時点ではまだ感染者が出ていなかったので、兵庫県の臨時休校は先だろうと思っていたが、やはり、右へならいで、学校は休校になった。

 ということで、美術館がいつ閉鎖されないとも限らないので、開催中だということを確かめたうえで、冷たい雨が降る中、出かける決心をした。

 土曜日は夜8時までの開館なので、人出も少なくなるであろう午後遅くに出かけた。駅から美術館へ歩く途中、雨がひどくなり、寒さも増した。

 やっと美術館に着いたが、この美術館は展覧会会場へのアプローチが遠く、年長の友人たちは、「高齢者や障碍者のことなんか考えていない」といつも怒っている。

 後期高齢者の仲間入りを目前にした私も同感だ。

 やっと会場に入る。

 ゴッホ展と銘打った展覧会に行くのは初めてだ。誰でも知っている画家の絵を見に猫も杓子も出かける中で、絵なんかゆっくり見ていられないだろうというのがその理由。

 しかし、今回の展覧会は、ゴッホの作品だけではなく、ゴッホに影響を与えた画家たちの作品も展示され、NHKの日曜美術館で紹介された内容にも興味をもった。

 少し前に見た映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」で、今までとは違うゴッホ像が描かれていたので、それに刺激されたこともあり、出かける気になったのだ。(映画については後で書く)

 ゴッホは、オランダのハーグ派、パリに出てからは印象派に強い影響を受け、画家として成長していく様子が、よくわかる展示になっている。

 ゴッホは最初からゴッホだったわけではないという当たり前のことに、今まで思い至らなかったのが不思議だ。

 ただ、影響を受けたというだけではなく、自らの表現を求めて、必要とする技法や芸術思想を一生懸命学んでいる。

 初期のデッサンについて、画家仲間から批判されたことに対して、自分が求めているのはそんなことではないと反論している。

 アルルに移ってからの、明るい自然の光の中や、精神の病で入院した療養所で描いた晩年の作品を見ると、それまでの経緯がわかるだけに、他のだれでもない、ゴッホ自身の作品に到達したことに、感動を覚える。

 もともとゴッホ自身の中にあった種が、ハーグ派、印象派の画家たち、弟テオの支援、ゴーギャン、医師との出会いなどが、種を育てる水、太陽、土や肥料となって、ゴッホという花を咲かせたのだ。

 いや、ゴッホ自身が、自らの種に必要な水、太陽、土、肥料を求めて、一生けんめい種を育て、花を咲かせるに至ったというべきか。

 大乗仏教に「悉有仏性」という考え方がある。この世の生きとし生けるもの、すべてに仏となる仏性があり、自らの修行や縁起によって仏となることができるという思想だ。

 この展覧会でゴッホの絵を見ていると、この「悉有仏性」という言葉が浮かんできた。

 ゴッホはアルルの自然の中に、その「悉有仏性」を感じ、それを描こうとしたのではないかと思う。

 

 映画「永遠の門ーゴッホの見た未来」

 このような見方をしたのは、展覧会の前に、近くの映画館で上映されていた映画「永遠の門―ゴッホの見た未来」を見ていたせいかもしれない。

 ゴッホを演じているのが、「プラトーン」を見て以来、大好きになった俳優、ウィレム・デフォーなので、期待して見に出かけたのだが、期待以上に素晴らしい映画だった。

 映画を見終わってから、監督が「潜水服は蝶の夢を見る」のジュリアン・シュナーベルだということを知り、合点がいった。

 シュナーベルは、映画監督になる前は画家だったそうだ。

 この映画は、画家としてのゴッホについての映画であると同時に、「描く」とはどういうことか、芸術とは何かという、シュナーベルの芸術論にもなっている。

 パンフレットによると、映画の中で描かれた絵画は、シュナーベルはじめ画家チームによって、実際に描かれたという。

 ウィレム・デフォー自身も、シュナーベルに絵の描き方を学び、筆の持ち方から物の見方まで、作業をする中で、知覚が変化することを学んだと、デフォーは語っている。

 ゴッホが神父と語る場面で、「神が私を画家にした」とゴッホは言う。

 絵を描くことは、ゴッホの中では神と対話することなのだ。

 ゴッホは多くの伝記では自殺説が圧倒的だが、この映画では、悪童たちに殺されたことになっている。

 真実は謎だが、自殺なのか他殺なのかはもはや問題ではなく、ゴッホがこの世に生き、数々の素晴らしい絵画を描いたこと、その作品群が弟テオによってこの世に残されたことが、一番重要なのだと思う。

 テオはゴッホが問題を起こすたびに、仕事を放り出して兄の元に駆け付け、住む家や病院への入院、生活費の工面など身の回りの世話をし、映画を見終わったときには、テオは兄に振り回され、かわいそうと思ってしまった。

 しかし、展覧会で実際の作品に接し、テオに送られたゴッホの手紙などを読むと、テオもまた、身近にゴッホの作品に接して、それを世に送り出したことを幸福だと感じていたのではないかと、ふと思った。

 テオはゴッホが37歳で死んだ半年後、33歳の若さで亡くなっている。

 ゴッホが神によって画家になったのなら、テオもまた、神によって、兄の作品を世に送り出す伝道師となったのかもしれない。

 兵庫県美の会場では、二つの作品が追加展示されていた。そのうちの一つ、「ポピー畑」は、死の1ヵ月前に描かれた作品である。遺作と言ってもいいだろう。

 「ポピー畑」を前にして、映画を見て思ったたことや、この展覧会に接して感じたことが一度にあふれ出てきて、涙が出た。

 ゴッホはやはり、奇跡の画家であったと思う。

 この展覧会は、3月に入って、コロナ騒動で休止になったが、17日から再開されることになった。

 素晴らしい展覧会であるだけに、喜ばしいことである。

 できれば、もう一度、出かけたいと思っている。

 

 

 

 

 


「与格小説」考―井上靖『敦煌』『風濤』を読む(2)

2019-11-09 02:18:14 | アート・文化

 

◇『風濤』を読む

 『敦煌』を読んだ話を友人にしたら、本棚に眠っていたという、文字がぎっしり詰まった新潮文庫の『風濤』を譲ってくれた。

 『敦煌』は1959年に書かれ、4年後の1963年、『風濤』が発表された。

 高麗国が元の支配下に置かれた時代、皇帝、フビライハンは日本攻略のために、高麗の国力をはるかにしのぐ数の軍船の建造、兵士、船頭、食糧の調達など、次々と命令を下す。

 元の兵站基地と化した高麗の混乱、疲弊していく様が描かれている。

 井上靖は『風濤』の中で、歴史文献(主に「高麗史」)を頻繁に引用している。

 その漢文の書き下し文に挟まれるようにして、高麗王の元宗、その息子の忠烈王、李蔵用、金方慶ら重臣たちの、国を存立させるために苦心する様、丸裸にされていく国の惨状が語られている。

 今は亡き篠田一士氏が書いている巻末の解説が素晴らしい。

 井上靖は、『天平の甍』に始まり、『楼蘭』『敦煌』「蒼き狼』『風濤』の一連の作品を自ら「西域小説」と命名していた。

 篠田氏は、それが題材的な事柄ではなく、小説そのものの本質的な要素を指す言葉ととらえている。 

 「人事がほとんど無力に近い西域の砂漠のなかでは時間は広々漠々たる空間のなかへ吸収されてしまい、その用をなさないかのようにみえる。

 (中略)井上氏が『西域小説』の名の下に目指したのは、人事はもちろん、人事を背後から支えて、その多彩な変転を色あざやかにみせる時間に背を向け、ただ荒漠たる空間の拡がりのみを読者に現前させようということである。

 その空間を、自然と言いかえてもいい。時間の軛(くびき)から離脱して、永遠の域にほとんど達したような自然。だが、これを小説において志すのは、およそ近代小説の本意にそむくことである。」

 そして、「人事世態を細かく描き、その間に経過する時間の流れを読者に強く感銘づける」近代小説の手法に対して、「西域小説」を反近代小説と位置付け、『風濤』が「『西域小説』を志した井上氏の詩的正義をはるかによく実現した」作品だと評価している。

 「『風濤』の眼目は、外ならぬフビライそのひとである。この小説を一貫して、たえず、大小さまざまな風が吹きすさび、また、高低さまざまな濤(なみ)がうねり、たかまってくるが、それらはすべて、このひとりの人物から発する。フビライを、人物とよぶにはあまりにも怪物じみている。」

 篠田氏がこのように展開している小説論は、中島岳志氏の「与格小説」と言いかえてもいいと思う。

 登場人物たちは、『敦煌』では、シルクロードで繰り広げられた歴史に翻弄され、『風濤』では、怪物のようなフビライから発せられた、さまざまな風、波に翻弄されながら生き、死んでいく。

 

◇「与格」的生き方

 「与えられたものの行き先」という説明は、「与えられたものを入れる器」と言い換えてもいいのではないか。

 というのは、私は文法用語としての与格に引き付けられただけではなく、中島氏の説明を聞きながら、「私の生き方は与格的だなあ」と思ったのである。

 周囲には意志の強い、気の強い人間だと思われがちであるが、自分では、意志薄弱で、自ら道を選ぶというよりは、流され流され生きてきて、ふと気が付いたら今の自分があると思っている。

 自己実現だの、フェミニズムだの、自分をしっかりもって生きるべきだという社会的風潮の中で育ったので、若いころは、そんな自分が嫌で、ずいぶん肩肘張って生きてきた。

 ところが年を取るにつれて、流されて生きてきた自分は正解だったのではないかと思うようになった。

 その方が楽で、自分に合っているのだ。

 いろいろ関心を持ったこと、学んだこと、経験したこと、出会った人々が、私という器の中で、最初はばらばらに存在していたが、次第にまとまり、私の背丈に合うように収まりよくなってきた。

 「ああ、これはこういうことだったのか」と少しずつではあるが、納得できるようになった。

 中島氏の「与格」の説明を聞いたとき、自分の生き方が「与格的」という言葉で説明できるということを発見したようで、うれしかった。

 大学時代の友人がたまたま電話をくれたとき、その話をした。

 彼女は「私は昔からそう思っていたわよ。あなたは昔から与格的だったわよ」と即座に答えた。

 本人より彼女の方が、私という人間をよく見ていたのである。

 人間を「与えられたものを入れる器」と解釈すると、仏陀が説いた「縁起の法」とも重なってくる部分があるように思える。

 「縁起の法」とは、すべての現象は、そのもの自身として独立して存在することはなく、あらゆる原因や条件が互いに影響し合い、作用しあった結果として生起するという真理をいう。

 人間も、縁起の結果としての、今この一瞬の「私」としてしか存在しない。

 このような存在の在り方を「空」という。「色即是空」の「空」である。

 インターネットで与格のことをいろいろ調べているうち、今年1月、真宗教団連合で中島氏が講演した内容が出てきた。

 その講演で中島氏は、

 「(与格では)言葉が私にきて留まっている。私が言葉の器なのである。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。親鸞は『言葉の器』になりきることによって何かを表現できると考えた宗教家である」

 と語っている。

 中島氏は、『敦煌』の読書会よりずっと以前から、「与格」について考えていたようである。

 与格的生き方と縁起の法、器としての私については、まだ思い付きの段階なので、考えがまとまったときに、改めて書こうと思う。


「与格小説」考―井上靖『敦煌』『風濤』を読む(1)

2019-11-06 16:40:07 | アート・文化

 

 友人と発行している同人誌に書いた文を転載します。

 

 「与格小説」考井上靖『敦煌』『風濤』を読む

 

 今年4月ごろだったか、NHK・ BSプレミアムの「深読み読書会」という番組で、 井上靖の『敦煌』を取り上げていた。

『敦煌』は映画化もされたが、映画も見ず、原作も読んでいないので、どんな小説なのかまったく知らなかった。

 莫高窟の仏教壁画や、大量の仏典が発見された、仏教遺跡としての敦煌に関心があったので、番組を見た。

 「深読み読書会」の出演者は、高橋源一郎、小林恭二、中島岳志、サヘル・ローズという面々。

 出演者が『敦煌』を読んで独自の解釈を展開するなかで、中島岳志氏が「この作品は与格小説である」と評したのが記憶に残った。

 原始仏典を読むために勉強しているパーリ語に、日本語にはない「与格」という文法格があったので、「与格」という言葉に反応したのである。

 

 ◇与格とは

 中島氏は、ヒンディー語を例にとって「与格」の説明をしていた。

 ヒンディーは現在もインドの公用語として最も多く使われている言葉である。

 パーリ語は古代インドのプラークリット(俗語)の一つだが、今は原始仏典の中に残っているだけである。

 文字を持たず、上座部仏教(初期仏教)が伝わった国の文字(スリランカのシンハラ文字、カンボジアのクメール文字、タイ文字、アルファベットなど)で記述され、実際の生活の中では使われていない。

 一方、サンスクリット(文語、雅語)は文学、哲学、学術、宗教の分野で使われた。

 大乗経典はサンスクリットで書かれている。

 文字((梵字)を持ち、現在も使われている言語である。

 サンスクリットもヒンディーも、パーリ語も、同じインド・アーリア語なので、文法は似ている。

 与格とは、名詞・代名詞の格の一つ。

 パーリ語の格は8つあって、主語にあたる格は主格 nominative、目的語にあたるのは対格accusative という。

 与格 dative は、パーリ語文法のテキストでは、「受益者for,to ~のために~に」と説明されている。

 「彼は私に(私のために)本をくれた」という文章を例にとると、「彼は」が主格、「私に(私のために)」が与格、「本を」が対格になる。

 この一文を書くために、与格について詳しく調べてみたら、とても分かりやすい解説を見つけた。

 与格 dative は、ラテン語の do(与える)の過去受動分詞 datus( 与えられたもの)に -iveがついて形容詞になったもので、与格とは「与えられたものの行き先」を説明したものだそうだ。

 なるほど、だから「与格」というのか。

 また、大阪大学外国語学部ヒンディー語のサイトを見ると、

 「意味上の主語、あるいは動作・状態の結果が及ぶ対象に後置詞 को を添えて、人格の意志や力の及ばない、感情、生理的な現象、嗜好、状況、事態、また行為の結果や影響などを表現する特徴的な構文を与格構文と呼ぶ」

 という説明があった。

 この説明によるならば、『敦煌』を「与格小説」と呼んだ中島岳志氏の意図がよくわかる。

 中島氏の説明によると、

 「私は風邪をひいてしまった」という文章が、与格表現では「風邪が私の中に入ってきてとどまっている」となり、

 「私はあなたを愛している」は、「あなたへの愛が私の中に入ってきてとどまっている」という表現になる。

 

◇『敦煌』を読む

 では、与格小説としての『敦煌』はどんな作品なのか。

 11世紀、宋の第4代皇帝・仁宗の時代、主人公の趙行徳は、科挙の試験を受けるために宋の都・開封に上るが、最後の試験の順番を待つ間、眠りに落ち、失敗してしまう。

 街をさ迷っているうちに、肉として売られている西夏の女を助ける。

 女が礼にと差し出した布片には、見慣れない西夏文字が記されていた。

 行徳は西夏文字を何とか読みたいと思い、西夏の都、興慶を目指す。

 タングート族の西夏は、シルクロード交易の要衝である一帯の支配権を得ようと、吐蕃(とばん)、回鶻(ういぐる)など、他の民族と戦闘を繰り返していた。

 途中、行徳は捕らえられ、西夏の漢人部隊の兵士にされてしまう。

 読み書きができたため、部隊の隊長で、漢人の朱王礼に認められる。

 回鶻の拠点、甘州を攻めたさい、回鶻王族の若い女を見つけ、かくまって世話をするうち、愛するようになる。

 しかし、興慶に行く機会を得た行徳は、1年後には戻ると約束し、女を隊長の朱王礼に託して旅立つ。

 興慶で西夏文字を学び、漢字との対照表を作成しているうちに、行徳は約束を忘れ、ようやく甘州に戻った時には、女は西夏の太子、李元昊の妾にされていた。

 女は城壁から身を投げて死ぬ。

 戦闘に明け暮れる日々が過ぎ、西夏に降った瓜州の太守から、経典を西夏語に翻訳する仕事を頼まれ、翻訳にいそしんでいたが、西夏王となった李元昊の軍が瓜州へ入城する直前、朱王礼が反乱を起こす。

 朱王礼も回鶻の女を愛しており、李元昊を恨んでいた。

 しかし、朱王礼は敗れ、一行は沙州(敦煌)へ逃れる。 

 西夏軍の攻撃を前にして、沙州の人々が財宝や家財をまとめて逃げる準備に追われるなか、行徳は寺にある膨大な仏典を救おうと思い立つ。

 隊商の商人、尉遅光から、財宝を隠せる洞窟があるという話を聞き、行徳は財宝を運ぶと偽って、尉遅光の手下の手を借り、僧たちとともに仏典をラクダに積み、洞窟へ運び込んで、入り口を封印した。

 その後の敦煌の歴史、1900年代初めに敦煌が発見され、多くの経典がスタインはじめ外国の探検隊に持ち出された顛末を記して、小説は終わる。

 この小説の一応の主人公は趙行徳であるが、彼の行動は、自分の意志とは関係ない、その時々の状況に影響され、「ふとしたことで」「いつのまにか」次の場所に身を置くことになるのである。

 「深読み読書会」でも誰かが言っていたように思うが、本当の主人公は「敦煌」という舞台であり、その時代、シルクロード一帯で繰り広げられた歴史そのものである。

 行徳はじめ、登場人物たちは、自分の意志や力の及ばない、砂漠の歴史の激流のなかで生き、死んでいく。

 まさに「与えられたものの行き先」として、存在している。

 その意味で、中島氏は「与格小説」と呼んだのだろう。

 行徳が西夏軍を迎え撃つ前に宿舎で休んでいるとき、この場所に来るまでの時間をさかのぼって辿る場面がある。

 

 「水が高処より低処へ流れるように、極く自然に自分は今日まで来たと思った。

 開封を発って辺土にはいり、それから西夏軍の一兵として辺境の各地を転戦し、その挙句の果 てに叛乱部隊の一員となり、いま沙州の漢人と一緒になって、西夏軍との間に死闘を展開しようとしている。

 もう一度新しく人生をやり直したとしても、同じ条件が自分を取り巻く限り、やはり自分は同じ道を歩くことだろう。

 (中略)後悔すべき何ものもなかった。

 開封から沙州までの幾千里の道を、その緩い傾斜面を、自分は長い歳月を費して流動して来て、いまここに横たわっているのである。」

 

 状況に翻弄されながらも後悔せず、自然と受け止める行徳の感慨を記した場面が何カ所か出てくる。

 高橋源一郎氏は、「『敦煌』は井上靖の自伝である」と発言している。

 井上は5歳から13歳まで、両親から離れ、戸籍上の祖母、実は祖父の妾であった人に育てられている。

 日中戦争で出征した経験もある。

 行徳のような与格的な生き方は、井上自身も身につけていたものかもしれない。

      (つづく)

  

 


深読み「令和」考ー『萬葉集』巻五を読むー (2)

2019-08-08 12:05:00 | アート・文化

 友人と発行している同人紙からの転載です。

 

 前号で、大伴旅人の作品の特徴を「虚構の文学」だと評した白川静さんの説を紹介した。「梅花の歌三十二首」」についてもそのことは言える。

 ◇もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を攄べむ

「梅花の歌」の漢文の序が東晋の書家・王義之の「蘭亭序」を模したものであること、「令和」の出典とされる「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぐ」の部分が、後漢の張衡の「帰田賦」から採ったものであり、「帰田賦」は、張衡が時の政治に失望して故郷に帰る詩であることは前号で書いた。

そのあとに、宴席の周りの風景が中国の古典を引用しながら流麗な文章で綴られている。

そして、「梅花の歌」の宴の様子を次のように書く。紙数の関係で、一部を除いて『萬葉集釋注』(伊藤博著)の訳文を引用する。

「一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ(ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう)」

 この序文の後に、宴に列席した面々が詠んだ三十二首の歌(815~846)が並び、さらに「追和歌」六首が加えられている。この六首は旅人の作である。

 憶良たち筑紫歌壇を形成した官人が参集した梅花の宴は、旅人邸での実際の出来事だろう。しかし、前号で紹介した「梧桐日本琴」や「松浦川に遊ぶ」にも見られるように、「蘭亭序」になぞらえた序文と六首の追和歌を加えて、旅人は虚構の物語を創作しているのである。

 長屋王が死に追い込まれたのは神亀6年2月(8月に天平元年と改元)。「梧桐日本琴」の書状が藤原房前に贈られたのは天平元年10月、梅花の宴が開かれたのが天平2年1月、「松浦川に遊ぶ」は同じく天平2年である。

これらの作品が作られた時期、藤原氏の権力は遮るものの無い絶大なものとなっていった。

 古代からの名門氏族である大伴氏。その長たる旅人は、「讃酒歌」(巻三)を詠むことで悲憤、慷慨し、「虚構の文学」の世界に遊ぶことで、ままならぬこの世に身を置くことができたのであろう。

 「もし翰苑にあらずは……」という一文は、梅花の宴についての記述にとどまらず、文学の世界でしか自分の本当の気持ちは表現できないという、旅人の文学論にも思えてくる。

 天平2年(730)12月、旅人は帰京する。帰京から半年後の天平3年7月、旅人病没。67歳であった。

 巻五に収められた旅人の作品は、「松浦川に遊ぶ」が最後である。

 ◇貧窮問答歌と沈痾自哀文

 山上憶良は、旅人が都へ旅立つ天平2年12月に開かれた餞別の宴で、はなむけの倭歌四首と、「敢へて私の懐(おもひ)を布(の)ぶる歌」三首を贈っている(876~882)。

これ以降、巻五は憶良の作品ばかりとなる。主な作品を挙げる。

 「熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首并せて(886~891)は、大伴君熊凝(くまごり)という人が行路で死んだときのことを詠んだ麻田陽春の「大伴君熊凝が歌二首」に和したもの。漢文の序と、熊凝に成り代わって詠んだ長歌と短歌である。

 次に有名な「貧窮問答の歌一首并せて短歌(892~893)がある。

 892の長歌は、貧者が、さらに貧しい極貧者に、「どのようにしてこの世をしのいでいるのか」と問いかけ、極貧者が、「かまどに火がなく、飯を炊くのも忘れているのに、笞をかざす里長の声は寝屋にまできてまくしたてる、生きることはこんなにも辛いものなのか」と嘆く内容である。

 893 世の中を 厭(う)しと恥(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

(この世が厭なところ、身も細るようなつらいところであっても、人間は鳥ではないので、世を捨てて飛び立つこともできない)

 この短歌の後に「山上憶良 頓首謹上」とあり、筑前守という官名がないので、天平3年暮れ、任を解かれ帰京した後の歌であるらしい。

 巻五の最後には、憶良の絶筆と言われる三部作が並ぶ。

 「沈痾(ちんあ)自哀文」は、「重い病に自ら哀しむ文」。岩波文庫の『新訓万葉集』(佐佐木信綱編)で四ページを超えるほどの長編の漢文である。

 何の報いか、重病に襲われたわが身の苦しみをつぶさに記し、「人は誰しも限りなき命を願うが、死という宿命からは逃れられない。長生きできないのなら、ならば、せめて病の苦しみから逃れたいものだ」と生への執着を切々と語る。

 三部作の残る二作、「俗道の化合即離(けごうそくり)、去りやすく留(とど)みかたきことを悲嘆(かな)しぶる詩一首并せて序も、「老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌七首」も、世の無常を嘆き、老いと病、我が子という煩悩に苛まれて、悟るに悟れず、死ぬに死ねない自らの姿を描いている。

 これら三部作は、天平5年(733)6月3日に作られている。同じ年、旅人の死から2年後に憶良は没する。74歳であった。

 ◇後期万葉の両輪、旅人と憶良

 大宝元年(701)、憶良は40歳を過ぎて遣唐使に随行する遣唐少録に抜擢されるが、それまでの経歴は知られていない。憶良が渡来人であるということは、様々な研究によってほぼ間違いないと思われる。

 白川静さんの『後期万葉集』によると、憶良が筑前守として赴任する以前の作品はわずか六首。それが、旅人の大宰帥着任以後、たちまち多作となった。

旅人も大宰府に赴く前は寡作の人だったが、憶良の作歌の時期と重なる数年間に六十九首の短歌を作っている。

 空想の世界に遊ぶ旅人と、現実を直視し生きる苦しみを歌った憶良とは、文学的に対立する関係にあったと見る研究者は少なくない。

 しかし、白川静さんは「二人が相対立していたのではなく、二人が、人麻呂的な古に対する、天平的な新として、飛鳥的古を否定したのであった。そのとき彼らの理念を支えたものは、憶良においては百済的な仏教の信仰であり、旅人においては中国の古典の世界であった」と論じている。

 旅人の文学の特徴を「虚構の文学」とする一方、憶良の作品については「常に自分を超えて他に代位するというところがあって、自己表現に徹しきれない部分が残されているように思う。『貧窮問答歌』にしても、彼の実生活そのままではありえないが、彼の歌には自己を一般化し歌う、また他者に自己を投影して歌うというような姿勢がある。それはいわば代作者的な姿勢である」と評する。

 そして、「かれ(憶良)の歌業が、旅人という有力な歌友をえて、世に伝えられることは、疑う余地のないことであった。(中略)旅人と憶良とが、後期万葉の歴史を動かす両輪であったことは、万人の認めるところである」と述べている。(『後期万葉論』第四章 仮合即離の境涯)

 ◇『詩経』と『萬葉集』

 白川静さんは『初期万葉論』のなかで、中国の『詩経』と、日本の『萬葉集』を取り上げて、比較文学的研究を試みたと述べている。

 『詩経』は中国最古の詞華集。紀元前九世紀をその中心年代とし、『萬葉集』は八世紀後半を中心としている。

 千数百年を隔てているが、各地域の、異なる立場における生活者の歌謡を含んでいる点、古代詞華集の成立する歴史的条件において共通するものがあるという。

 「(それまでの)共同体の秩序が不安定なものとなり、生への不安が高まるにつれて、人びとは自らの歌を欲するようになる」というのである。

 このような視点をもって『萬葉集』巻五をつぶさに読めば、安倍首相が「『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定した。(万葉集は)我が国の豊かな国民文化を象徴する国書」だと、嬉々として解説しているものとは異なる風景が見えてくる。

 旅人、憶良の晩年に当たる時代は、天平文化の花開いた時代だと歴史教育では習うけれども、災害や疫病が多発し、長屋王の変、藤原四兄弟の死、藤原広嗣の乱が相次ぐなど、権力闘争と政情不安の時代であった。

 聖武天皇はその災いから脱却しようと、仏教にすがって国分寺建立、大仏造営を行い、遷都を繰り返した。その混乱が収まりを見せないまま、時代は平安へと移っていく。

 『萬葉集』巻五が、旅人の「凶問に報ふる歌」という悲嘆の歌に始まり、憶良の「貧窮問答歌」や「沈痾自哀文」などの作品群で終わっていることは象徴的である。

 巻五全体に通奏低音のように流れているのは、ままならぬ人生の悲哀と悲憤、この世で生きることの苦しみ、嘆きだ。

 考案者とされる万葉学者、中西進氏がどんな理由で「令和」を推薦したのかは知らないが、巻五が『萬葉集』の中でどのような位置づけになっているか、理解しているはずである。

 以下は私の推量と独断による解釈。

 「令和」という熟語が成り立つのであれば、『字通』にあるような、そもそもの漢字の意味を尊重して、「令和」とは「令に和す。すなわち、謙虚に天のお告げを聞き、その声に従う」と解釈したい。

「理不尽さと貧しさの中で苦しむ民が顧みられない世の現実を見よ、そして天の声に耳傾けよ」という為政者への思いが託されているのではないか。

 これは、まさに「貧窮問答歌」に託された憶良の思いと一致するではないか。   (おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 


深読み「令和」考―『萬葉集』巻五を読む(1)

2019-05-26 21:30:24 | アート・文化

例によって、友人と発行しているミニコミ紙に掲載した文章を転載します。

 

新元号「令和」をめぐる騒動があまりに軽薄、解釈も恣意的なので、出典とされる「梅花歌三十二首」が含まれる『萬葉集』巻五を読み返してみる。

漢字には意味がある。

白川静さんの『字通』によれば、「令」は「礼冠をつけて跪いて神意を聞く人の形」から、「おつげ、みことのり、いましめ、よい、させる」などの意味が生まれた。

「和」は、「軍門の前で盟約し、講和を行う」意。そこから「やわらぐ、なごむ、かなう、したがう、声があう」の意味となる。

二文字を合わせた「令和」という熟語はどういう意味になるのか。そもそも熟語として成り立つのだろうか。 

安倍首相は記者会見で「『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」と説明。

さらに記者の質問に、「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定した。(万葉集は)我が国の豊かな国民文化を象徴する国書。我が国の悠久の歴史、薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄はしっかりと次の時代にも引き継いでいくべきであると考える」と答えている。

「即位後朝見の儀」で、「天皇陛下のお言葉」を受けた「国民代表の辞」でも繰り返している。

天皇の言葉が、簡明ながらその思いが伝わってくるのに対し、首相の言葉は美辞麗句を並べた内容のないものだ。

官僚が首相の意を忖度して書いた作文なのだろうが、安倍政権がこれまでやってきたことと重ね合わせると、「よくもまあ!」と、その厚顔ぶりに呆れる。

「令」と「和」という文字が使われているのは、『萬葉集』巻五の815から846までの梅の花を詠んだ三十二首の歌の前に添えられている長文の漢文の序である。

 

梅花の歌三十二首併せて序

天平二年の正月の十三日に、帥老(大宰帥大伴旅人のこと)が宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぐ。(以下略)

 

大伴旅人による序が、中国東晋(317~420年)の書家、王義之の『蘭亭序』を模したものであることは、古今の万葉集研究者が指摘している。

『蘭亭序』は、名勝・蘭亭での曲水の宴で作られた詩二十七編の序文として王義之が書いたもの。

岩波の新日本古典文学大系『萬葉集一』の補注では、「令月」以下の語句は、後漢の張衡「帰田賦」にある「仲春令月、時和し気清らかなり」から取ったものであると述べている。

「帰田賦」は、張衡が時の政治に失望し、官職を辞して郷里の田園に帰る詩である。

旅人の他の作品にも中国の詩文を引用した表現が多くみられる。旅人は中国の詩文に通じていた教養人であった。

であるから、安倍首相が「初めて国書を典拠とした」と、さも我が国固有の表現であるかのごとく言っているのには違和感を覚える。

国書にこだわること自体が、文化のあり様というものを理解していないし、そもそも万葉集を読んだことがあるのだろうか。

万葉集に戻る。万葉集の軸となる部分は旅人の子、大伴家持の編集によるという見方が有力である。個々の作品を読むだけでは歌に込められた意味は理解できない。

歴史的背景も含め全体を見渡して、編者の意図を読み取らなければならない。

巻五には、いわゆる筑紫歌壇の歌が集められている。

神亀から天平年間に大宰府、筑紫に滞在した歌人(大伴旅人、山上憶良らが中心)がサロンを形成、筑紫歌壇と呼ばれる。

 

◇巻五は旅人の悲嘆の歌で始まる

巻五は「不幸が重なり、悪い知らせが続いて、独り断腸の涙を流している」という漢文の序に続いて

793 世の中は空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり 

   (世の中は空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてくる)

という旅人の悲嘆の歌で始まる。

旅人は、神亀四年(727)、大宰帥(だざいのそち=大宰府長官)に任ぜられ、六十三歳という老齢の身で筑紫に赴く。

当時、政治の中枢にいた長屋王(天武天皇の孫であり、高市皇子の子)と旅人は近しい関係にあったようだ。

聖武天皇の母宮子と、妃の光明子は藤原不比等の娘である。

二人を押し立てて権力を握ろうとしていた藤原氏にとって、光明子の立后に反対していた長屋王は邪魔な存在であった。

旅人の大宰府赴任は藤原氏の策略だという見方がある。

大宰府着任の半年後、異母妹・大伴坂上郎女の夫、大伴宿奈麻呂の死の知らせが届く。

そのひと月前、旅人は最愛の妻、大伴郎女を失っていた。

793の歌は、身内の死を悲しむだけではなく、老齢になって都から遠ざけられた旅人の悲嘆がその背景にあるように思われる。

その次に、山上憶良の歌が続く。

憶良は旅人が大宰帥に着任した前年の神亀三年、六十七歳で筑前守に任ぜられた。

仏教思想がちりばめられた漢文の哀悼詩と、「日本挽歌」と題した794の長歌、五首の反歌(795~799)を、旅人になり切って詠んでいる。

「私に付き従ってきたばかりに、都から遠い異郷の地で死んでしまった妻、私はなすすべがない」という内容で、ここでも妻の死を悲しむばかりでなく、都を離れた鄙(ひな)の地にいる嘆きがうたわれている。

以下に続く旅人と憶良の主な作品について見ていこう。

800~805は、憶良が管内巡察の折、詠んだ作品。筑前守として、民の暮らしに向き合おうとした憶良の生真面目さがうかがえる内容だ。有名な「子等を思ふ歌」の反歌

803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に及(し)かめやも  

もこの中で詠まれた歌だ。

 

◇長屋王の変

これらの作品が作られたのは神亀五年である。

翌神亀六年(729)二月、長屋王の変が起き、長屋王と妃の吉備内親王、二人の間の四人の子(皇位継承権があるとみなされていた)は自殺した。

事件が藤原氏の策謀であったことは、ほぼ定説になっている。

同じ年の八月、元号が改まって天平元年となり、光明子は皇后となった。

長屋王を自殺に追い込んだ藤原不比等の四人の息子は、八年後の天平九年(737)、天然痘で相次いで亡くなる。

長屋王の祟りだと噂された。

 

◇旅人、藤原房前に琴を送る

810~812は、旅人が対馬産の梧桐で作った日本琴(やまとのこと)を藤原四兄弟の一人、房前(ふささき)に贈るに際して添えた書状の中の二首と、それに対する房前の返書および返歌である。

旅人の書状は、琴が乙女となって夢に現れ、「匠に切られて、琴となった私ですが、徳の高い方の側に置かれることを願っています」と語り、旅人と歌を贈答するという物語仕立てになっている。

旅人の趣向をこらした書状に対して、房前の返書は短く、実に素気ない。

旅人の書状の日付は「天平元年十月七日」。

長屋王一族の悲劇、光明子が皇后となって、藤原氏の権力を握ったことは、もちろん知っていただろう。

『字通』の著者・白川静さんには『初期万葉論』『後期万葉論』という名著がある。

『後期万葉論』の第五章「旅人讃酒」で興味深い旅人論を展開している。

琴をめぐる旅人と房前のやり取りについて、「房前は旅人より十六歳下ながら、中衛府の長官(中略)、九月には中務卿を兼ねている。便々と誼を請うわけにはゆかぬが、文学の戯れとしてならば、古族大伴氏の衿持を傷つけることもあるまい。(中略)文学に託した和親状のようなものであった」

「その房前の返事が、いかにも慇懃無礼な文章とも思われるのは、私だけであろうか。誇り高い名門で、政界の最長老の地位にある旅人として、それはまさに『狂を発する』ほどの屈辱ではあるまいか」と書いている。

 

◇虚構の文学

白川静さんは、巻五に収められた代表的な旅人の作品「梧桐日本琴」や「梅花の歌」に続く「松浦川に遊ぶ歌并せて序」を例に挙げ、旅人の作品の特徴を「虚構の文学」と呼んでいる。

「松浦川に遊ぶ歌」(853~863)は現在の佐賀県松浦郡の景勝地、玉島の潭(ふち)に遊んだ折に詠まれた歌と漢文の序である。

美しい仙女たちが現われて、蓬客(ほうかく=さすらいの旅人)と対話し、歌の贈答をするという内容で、一幕物の劇のように仕立てられている。

「梧桐日本琴」も、「松浦川に遊ぶ」も、現実の出来事を、中国・唐の伝奇小説『遊仙窟』(主人公が神仙の家に泊まり、仙女たちと交歓するというあらすじ)を模した、虚構の世界に置き換えて、一つの文学作品を構成している。

虚構の文学の世界に遊ぶことで、生き難いこの世の中と向き合おうとしたのではあるまいか。

旅人には、もう一つの代表作、次の338に始まる十三首の「酒を讃(ほ)むる歌」(巻三338350)がある。

338 験(しるし)なき ものを思はずは 一(ひとつき) 濁れる酒を 飲むべくあるらし

   (甲斐のない物思いにふけるよりは、一杯の濁り酒でも飲む方がましであるらしい)

白川静さんは「讃酒歌」について「旅人にとっては悲憤の歌であり、慷慨の詩である」「いつも説話のような歌物語の裏に隠されていたかれの本当の姿が、ここにある。その意味で、これほど自己表現的な文学はかつてなかった」と評している。

                                    (つづく)

 

  


中山連山のコバノミツバツツジ

2019-05-01 00:40:55 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、コバノミツバツツジが咲くころ、友人と二人で中山連山を歩く。

いつもは連休に入ってからだが、花が散ってしまっているので、今年は1週間早く、21日の日曜日に出かけた。

藤棚がある公園から山に入る。白藤が満開で、その藤を見に来ている人が結構いた。いつもはアブハナバチがブンブン飛び回っているのだが、今年は数が少ない。

4月に入ってから、寒さがぶり返す日が多かったせいだろうか。

友人ともども、年のせいで足腰が弱ってきているので、ゆっくりと歩く。

曇り空でも、歩き始めると汗びっしょりになって、髪を染めて間もなかったので、帽子の縁が染料で青く染まってしまった。これもいつものことである。

登り始めたのが11時を過ぎていたので、会う人は、下りの人ばかり。それも、若い人より我々と同年配の高齢者が多い。

はあはあ言いながら登っていくと、高齢の男性のグループが突っ立っている。

かれらが立ち去ってから、私たちは石の上に腰かけ、チョコレートを口に含んでお茶を飲んだ。

友人曰く。「さっきの人たち、立ったままだったでしょ。座ると立ち上がるのにしんどいから、立ったまま休憩してたんよ」。

たしかに、高齢者は一度座ると、なかなか立ち上がれない。

私たちがお弁当を食べるのは、一度沢に下りてから。水の流れが気持ちいいし、日陰だから涼しい。

ところが、下ってきた男女の高齢者グループから、「こんなところで食事したら、石が落ちてきて危ないよ」と声をかけられた。

「いつもここで食べているから大丈夫です」と言うと、「この人は登山のプロだから」と、女性が男性を指さして言う。

たしかに周りは、土が崩れたあとがあったが、いかにも「プロの言うことを聞け」と言われたようで、少しカチンときた。

親切心で言ってくれたらしいが、もう少し言いようがあるのではと思う。

腹ごしらえを済ませて、沢を登る。頂上までには、急な、岩だらけの登りが続く。体がなまっているうえに、お腹がいっぱいになったあとなので、息苦しい。

それでも、昨年登った時よりはましなような気がする。

昨年、駅までのバスが1時間に1本しかないところに引っ越したので、急ぐ時と炎天下をのぞいては、歩くようにしている。

それで少しは足腰が鍛えられたかもしれない。

途中会った女性が、頂上近くがいちばんツツジがきれいだと教えてくれた。

ちょうど満開の時期だが、花をつけているツツジの木そのものが少ない。

昨年夏の猛暑と台風、秋の大雨、暖冬という異常気象で木が弱って、花をつけていないのだ。

頂上にはいくつかのグループが立ったまま、休憩していた。座るのに適当な岩などがないせいもあるが、やはり一度座ってしまうと、立ち上がるのがしんどいからなのだろうか。

私たちは紙袋を敷いて座り、甘いお菓子で一服した。

それから奥の院目指して降りる。トイレと聖水を汲むのが目的だ。聖水を持ち帰り、家でコーヒーをいれるのが毎年の楽しみなのだ。

奥の院はきれいに整備されて、昔のような雰囲気は失われたが、それでも、高木が茂っていたり、ツバキをはじめ、いろいろな花が咲いていて、好きな場所だ。

ベンチでコーヒーを入れて一服。

それから阪急中山観音駅まで降りるはずだった。

ところが、途中の夫婦岩で道を間違えたらしい。出たところが売布きよしガ丘という新興住宅地。売布神社駅までアスファルトの道を下っていると足が痛い。

中山観音へ出て、駅から国道に出たところにある「マリーアンジュ」というケーキ屋さんで、ゴルゴンゾーラのチーズケーキと紅茶をいただいて、疲れをいやすというのが最初の予定だった。

友人は途中下車するのは面倒だと、そのまま電車に乗って帰って行った。

私だけ中山観音で降りて、まず駅前の苗屋さんで、ニガウリの苗を買った。これも例年のこと。

マリーアンジュのケーキはどれもおいしいが、とりわけ、ゴルゴンゾーラのチーズケーキは、ほかではお目にかかったことがないし、途中下車してでも食べる価値があると私は思う。

ところが、この日はそのケーキがなかった。

ショック! ゴルゴンゾーラチーズが明日にならないと入荷しないのだそうだ。

ご主人(パティシエというのかな)が挨拶にきて、ゴルゴンゾーラのチーズケーキを作るようになったいきさつを話してくれた。

酒飲みで、ケーキをあまり好きではない知人にもおいしいと言ってもらえるケーキを作ろう、酒を飲みながらでも食べられるケーキを作ろうと、研究を重ねて作り上げたのだそうだ。

ゴルゴンゾーラの塩味と合わせるのに何をどれだけ使うか、いろいろ組み合わせて工夫したそうである。

この話を聞いたうえは、また近いうちに、店に寄って、ケーキを食べないわけにはいかない。

その日は、他のお勧めのケーキと紅茶をいただいた。

とてもおいしくて、山登りの疲れも十分癒やしてもらった。

来年はツツジがたくさんの花をつけますように。