友人と出している同人紙からの転載です。
三題噺のような題名だが、「気功」「動的平衡」「有機農業」、最近、この三つの言葉を結びつけて、考えを巡らすようになった。その経緯について書く。
◇「峨眉気功」との出会い
「気功」とは、「峨眉気功」のこと。昨年暮れ、上智大学大阪サテライトキャンパスの公開講座「こころとからだのケア学」を受講した。
全4回の講座は、毎回、後半に「峨眉気功」の実習がついていて、峨眉気功の中の基礎となる「伸展功」の技を習った。
講座のまとめに、「東アジアの養生文化の発掘と未来可能性」というシンポジウムも開かれ、峨眉気功の伝承者、張明亮先生の講演を聞く機会に恵まれた。
張先生が第14代伝人として中国内外で指導している「峨眉丹道医薬養生学」は800年の歴史があり、峨眉山の臨済宗の僧、白雲禅師が創設したと伝えられる。峨眉山は道教の聖地でもあり、芥川龍之介の短編『杜子春』で、主人公の杜子春が仙人修行をするところが峨眉山である。
峨眉養生学の中心となる思想は、「太極」に象徴される宇宙観や生命観、「気」の思想だ。
私は更年期に持病の喘息やアレルギーが悪化し、中医学の治療で改善した経験がある。現在も主治医は中医学の先生だし、鍼灸治療も続けてきて気の存在を実感しているので、張先生の峨眉養生学についての話はとても納得できるものだった。
◇生命の三つの側面―「形」「気」「神」
とりわけ印象に残ったのは、「形」「気」「神」についての話だ。宇宙の万物はすべて「気」で構成されており、生命の根源である。
「気」には「有形」と「無形」の二種類の存在形式がある。無形の気は微細で、拡散し、運動している状態で、見ることができない。有形の気は、気が凝縮して、目で見える実体となったものだ。
これを人間に当てはめると、目に見える肉体は有形の気で、「形(けい)」という。目に見えない心、精神などは無形の気で「神(しん)」という。
気は、形と神を仲介してつなぐもので、生命そのものである。気がなければ肉体は死に、心は活動できない。
張先生はまた、気は私とあなたをつなぎ、私と世界、自然、宇宙をつなぐものだと説明された。
峨眉伸展功は導引術の一つ。導引とは、肢体の屈伸運動で気血の巡りを促し、健康体と長寿をもたらす、中国古来の養生法だ。
張先生は、伝統的な導引術を基礎として、ヨガなども取り入れ、「峨眉伸展功」を完成された。
伸展功は、伸ばす、曲げる、緊張させる、緩ませるという身体運動によって、気を鍛錬し、心身をコントロールし、形神合一(心身合一)、ひいては人天合一を目指す技である。
気をコントロールするためには、気を感じることが必要だ。
例えば、立つという姿勢の場合、頭頂と足底の二点を相反する方向に伸展させる。すると二点の間に、気が通る道ができる。この気の通る道を「勁(けい)」といって、張りすぎても緩めすぎてもいけない。
伸展功は、「勁」を常に保ちながら動かなければならない。しかし、緊張させる部分、緩める部分、身体のあらゆる部分の動きを観察し、正しい姿勢と動きを身につけなければ、「勁」を感じることはできないし、「気」も感じられない。
私は長年、友人の鍼灸師の下で鍼灸治療を受けてきた。気が通る道筋を経絡(けいらく)というのだが、的確なツボに鍼(はり)を打たれると、経絡に沿って気が動いていく様子を実況中継できるほど、気を感じ取ることができるようになった。しかし、伸展功で「勁」を感じるのは難しい。
今、月一回の講習会と、月三回の伸展功を中心とした気功教室に通っているのだが、道遠しである。それでも、体が動く限り続けようと思っている。
続ける理由は、伸展功が単なる健康体操ではなく、その背景に道教や仏教など、東洋の叡智ともいうべき身体観、世界観、宇宙観があって、折に触れて新しい発見をもたらしてくれるからである。
◇動的平衡こそ生命の働き
伸展功を学び始めて半年ぐらいたったころ、教育テレビの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組で、生物学者の福岡伸一先生と坂本龍一の対談を聞いた。
坂本龍一の音楽に対する真摯な姿勢にも感動させられたが、福岡先生が「動的平衡」について話した内容に、思わず引き込まれた。
福岡先生の多くの著作はいまだ読んだことがなく、動的平衡という言葉も聞いてはいたが、それがどういうことを指すのか知らずにいた。
ロックフェラー大学で、自分の研究分野のことを坂本龍一に話す場面で、動的平衡という言葉が出てきた。
20世紀の生物学は、細胞の中で何がどういうふうに作られているかというメカニズムばかり研究してきた。しかし、今世紀にかけて、作ることよりも壊すことの重要性が注目されるようになった。
福岡先生は、三分の一ほどが欠けた車輪が坂を登っていく図を示す。
欠けている輪の下の端で分解作用が起き、上の端で合成作用が起きている。分解と合成の絶妙なバランスが、生命現象の流れ=動的平衡で、車輪が坂を登る力となり、転がり落ちるのを防いでいる。
つまり壊すこと、分解がなければ、生命は維持されない。合成より分解のスピードが勝れば、細胞は老化し、やがて死に至る。
福岡先生が示した動的平衡の図は、太極図を思い起こさせた。太極図の陰の部分が分解作用と考えれば、陽の部分は合成作用。陰と陽は常に動き、変わり続けている。しかし気の働きによって絶妙のバランスをとっているので、生命も宇宙も維持されている。
また、動的平衡の概念は、仏教の「因果の法」や「無常」にも通じる。
複雑な因果の働きによって物事が生じては滅する。生きとし生けるものは一瞬たりとも留まることなく、変化し続けている。
『方丈記』の冒頭部分「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」、だからこそ川は流れ続けることができるのだ。
◇有機農業の有機とは「天地有機」
この6月、久しぶりに保田茂先生のお話を聞いた。保田先生は、私がかかわっている産消提携団体「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」(通称求める会)を40年以上前に立ち上げた一人である。
神戸大学農学部の教授を退官されたあと、NPO法人・農漁村文化研究所を創設し、有機農業の研究と普及に携わっておられる。
「有機農業が目指してきたもの、目指すもの」と題された講演で、改めて考えさせられたのは、有機農業の本質的な意味についてである。
保田先生は、1970年代に有機農業運動に尽力した一楽照雄氏の思想に触れ、「有機農業の有機は、『天地有機すなわち、天地、機あり』と理解すべきである」と言われた。天地には自然の働き、法則があるという意味である。
ハッとさせられた。今まで、有機とは、有機物の有機だと解釈し、有機農業とは農薬や化学肥料を使わず、環境に負荷をかけない農業だというような、表面的な理解しかしていなかった。
保田先生の言葉に強く心が動かされたのは、中医学や鍼灸治療を受けてきた経験や、伸展功、仏教の勉強を通じて、日常的に「天地有機」を感じるようになっていたからだと思う。
「有機農業とは、大自然の法則を大地に生かす農業だ」と先生は言われた。
「天地有機の世界は、山の森、土手の草むらに存在する。山の木、土手の草は自然の法則に従って生きているから、病気や害虫の被害はほとんどない。その秘密の力は土(腐葉土)と環境(生態系)にある。腐葉土は、植物性の有機物を主体に、ダンゴムシ、ゴミムシ、ミミズなどの小動物、土壌微生物など、多様で豊かな生態系の中でつくられる。だから、特定の生物の異常発生も抑制される」。
「したがって、有機農業の基本原理は、いい土をつくること、いい環境をつくることである」。
保田先生は、天地の機、すなわち自然の法則に学び、しかも、生産者ができるだけ楽に、質の良い農産物をつくれるように、10年にわたる農業の実践を通じて、有機農業技術を研究され、各地で農業従事者の塾を開き、技術を伝え続けておられる。
結論というにはおこがましいが、この世に存在するすべてのもの、自分自身、社会、世界、自然、宇宙全体、すべてのものは、天地の機によって生じ、滅する。
天地の機、その叡智を学び、自らのものとすることで、人間は世界と調和した生き方ができるのではないかと考えている。
『荘子』の「渾沌、七竅(きょう)に死す」という寓話を折に触れて思い起こす。
南海の帝・儵(しゅく)と北海の帝・忽(こつ)が、中央の帝・渾沌(こんとん)の手厚いもてなしを受け、その恩に報いようとする。人間にある七つの穴(目、耳、鼻、口)が渾沌にはないので、その穴をあけてあげようと、一日に一つずつ穴を穿っていった。渾沌は七日目に死んでしまった。儵忽はつかの間という意味。渾沌は未分化であらゆるものを包みこんでいる自然。
効率や便利さを追い求める人間の浅知恵が何をもたらすかを、強烈に皮肉った寓話である。