風と花とわたし 〜

日常のささやかな喜びの輪を広げて・・・RING、リング♪ ring!

終戦記念日最後の時に

2011-08-15 23:57:00 | 日記

終戦の今日、最後に忘れてはいけない犠牲 

戦い 「 特別攻撃隊 」

 



空では、「 神風特攻隊 」。

http://www.youtube.com/watch?v=_Z2ExB2o6V4&feature=fvwrel


海では、「 人間魚雷 」。 

 http://www.youtube.com/watch?v=RxmIzNb3Wh8  

 

  http://www.youtube.com/watch?v=f6yoXgG_Dg8&feature=related


日々の暮らしは、やがて 史実、歴史となります。 

史実としてしまわないよう、戦争が始まった原因、

経緯をよく調べ、自分の暮らしに照らし合わせて

ゆきたいと思います。



何故なら、物事はすべて こころ 

が作り出すものだからです。

国家へと繋がる小さなわたしのこころ。 

日々、見詰め、改めます。

 

 


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66回 終戦記念日と硫黄島

2011-08-15 21:00:00 | 日記

終結に向かっての日本の戦いの中で、

「 硫黄島の戦い 」は屈指の激戦地でした。

1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、

艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。

上陸から約一カ月後の3月17日、

栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする

日本軍の激しい抵抗を経てアメリカ軍は同島をほぼ制圧、

3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が

玉砕したと発表する。

 

しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、

3月26日、

栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、

これにより日米の組織的戦闘は終結した。

日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、

20,933名 の守備兵力のうち 

20,129名 が戦死した。

これは損耗率にして96%にのぼる。

 

 

一方、アメリカ軍は 戦死6,821名、

戦傷21,865名 の 

計28,686名 の損害を受けた。

太平洋戦争後期の上陸戦での

アメリカ軍攻略部隊の損害実数が

日本軍を上回った稀有な戦いであり、

また、硫黄島上陸後わずか3日間にて

対ドイツ戦(西部戦線)における

ノルマンディー上陸作戦を含む、

アメリカ軍の各戦線・戦場での

戦死傷者数を上回った第二次世界大戦屈指の

最激戦地のひとつとして知られる。

http://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY&feature=related


 

 


映画「 硫黄島から手紙 」 

予告編 http://www.youtube.com/watch?v=9qKo9Lp5oUE  

 

 

12日にテレビで放送されたようですが。

ストーリー [編集]
2006年、硫黄島。 地中から発見された

数百通もの手紙。

それは、61年前、

この島で戦った男たちが、

家族に宛てて書き残したものだった。

届くことのなかった手紙に、

彼らは何を託したのか----。

 



戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、

陸軍中将、栗林忠道(渡辺謙)

が硫黄島に降り立った。

本土防衛の最後の砦とも言うべき

硫黄島の命運が託された。

着任早々作戦を変更し、

部下に対する理不尽な体罰を戒めた栗林に

兵士たちは驚きの目を向ける。

今までのどの指揮官とも違う男との出会いは、

硫黄島での日々に絶望を感じていた

西郷(二宮和也)に、

新たな希望の光を抱かせる。

硫黄の臭気が立ち込める灼熱の島、

食べ物も飲み水も満足にない過酷な状況で、

掘り進められる地下要塞。

張り巡らせたこのトンネルこそ、

米軍を迎え撃つ秘策だったのだ。

 

1945年2月19日、

ついにアメリカ軍が上陸を開始する。

その圧倒的な兵力を前に

5日で終わるだろうと言われた硫黄島の戦いは、

36日間にも及ぶ歴史的な激戦となった。

まだ見ぬわが子を胸に抱くため、

どんなことをしても生きて帰ると誓った西郷、

して彼らを率いた栗林もまた、

軍人である前に夫であり父であった

61年ぶりに届く彼らからの手紙。

そのひとりひとりの素顔から、

硫黄島の心が明かされていく----。

 


今日15日正午より、日本武道館にて 

戦没者追悼式が行われました。

戦争遺族者は60%が、70歳以上。

語り継いでいく、若い世代への継承の時間が

短くなってきました。

戦没者は約310万人。 

参列者の世代交代は著しい。

20年前は戦没者の妻が2700人余と

全体の4割を占めたが、

今年の出席見込み者は43人(0.9%)で

過去最少を更新。

父母の参列は2年ぶりになかった。

一方、子どもは3180人と全体の

3分の2を占める。

孫を含む戦後生まれは

過去最多の451人にのぼった。

【朝日新聞】

 



    


<天皇陛下のお言葉>

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、

全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、

かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、

深い悲しみを新たにいたします。

 


終戦以来既に66年、国民のたゆみない努力により、

今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、

苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお

尽きることがありません。

 

ここに歴史を顧み、

戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、

全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、

心から追悼の意を表し、

世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。 


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日本の夏・・・・・・

2011-08-15 11:49:28 | 日記

 

今夏も 日本の終戦の日 が来ました。

66回目。

小さな頃は、8月15日は世界でみんなが、

悲しい思いをしていると思っていましたが、

小学生の高学年頃には、日にちも違い、

喜んでいる国もあるんだ・・・・

と不思議な思いでした。

 



明日は、お盆も最後の日。

ご先祖様に元の彼岸の岸へお戻りいただく

送り火が寺院で焚かれます。

そして、また、社会もいつもの様に

歯車が回り始めます。

 



浅草のほうずき市で購入した 

我家の ほうずき も

お店のマダムがおっしゃっていた通り、

「 うまく育てられたら、お盆の頃に、全部色付きますヨ 」

見事、色付きました・・・

でも、色付くと、葉は枯れてしまうんですね。

自然は、いつも何かの終わりと始まりが

ひとつなんですね。

私も若い人達を輝かせてあげられるような

女性(ひと)になりたいです。 

またひとつ、自然から教えてもらいました。  

 




今日は太平洋戦争について

(感情は入れずあくまでも歴史にとどめます)

振り返ってみました 。

 



■ 太平洋戦争(たいへいようせんそう)■

1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃、

日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、

1945年(昭和20)9月2日、

日本の降伏文書調印によって終わった戦争。

日本の指導者層は大東亜戦争と呼称した。

 



<終結に向かっての日本>
アメリカの対日反攻戦略は、

日本陸軍の主力と戦うことによる

人命の損失と消耗を避けるため、

中国本土を避け、フィリピンから沖縄を経て

日本本土へ迫る島伝い作戦の形をとった。

◆ 1944年(昭和19)10月、米軍はフィリピンに上陸し、

日本の地上兵力を壊滅させたほか、

レイテ沖海戦などで海軍兵力と

航空機の大半を失わせたので、

日本本土と南方資源地帯との連絡は

完全に遮断された。


◆ 1944年(昭和19)11月、

サイパンを基地として大型爆撃機B‐29が

大挙して飛来、

東京をはじめ各都市の空襲を開始し、

本土の国民も直接の戦禍を受けるようになった。


◆ 1945年(昭和20) 1月、

最高戦争指導会議で本土決戦即応態勢

確立の方針が決まる一方、

10代の少年から40代の老兵までが召集され

て本土決戦用の兵力が増強された。

 


◆ 1945年(昭和20) 2月、

米軍の硫黄島(いおうとう)上陸。

4月には沖縄本島上陸が開始された。

沖縄に米軍が上陸した直後、小磯内閣は辞職し、

鈴木貫太郎内閣が成立したが、

5月ドイツが降伏と、最高戦争指導会議は、

ソ連を利用する和平工作を進めることを決定、

和平の仲介をソ連に申し入れることとした。

 


<終結に向かっての連合国>
◆1943年(昭和18) 1月、

カイロ宣言を発し、

対日戦の目的を明らかにするとともに、

日本の無条件降伏まで戦争を続ける態度を明らかにしていた。

さらに日本本土上陸作戦が具体化するにつれて、

アメリカはソ連の対日参戦を熱望。



◆1945年(昭和20) 2月、

米英ソ首脳によるヤルタ会談では、

ソ連の満州の権益や北方領土確保と引き換えに、

対独戦終了後における対日参戦の約束がなされた。

しかし対独戦が終わったころから、

米ソ対立が表面化し、

米政府内部では、天皇制の保持を約束することによって

日本の早期降伏を促進しようとする機運が高まった。


◆1945年(昭和20) 7月初、

その趣旨を盛り込んだポツダム宣言の原案が作成された。

しかし、7月16日に原爆実験が成功すると、

ポツダム会談に臨んだトルーマン大統領は、

天皇制条項を日本が受諾しにくい形に書き改め、

7月26日に公表して日本に無条件降伏を呼びかける一方、

25日には原爆投下命令を出した。

それは、8月1日以降天候の許すときには日本の4都市

(広島、小倉(こくら)、新潟、長崎)のいずれかに

原爆を投下することを命令したものであって、

ソ連参戦以前に対日戦を終了させようとし、

または対ソ示威の効果をねらったものと解されている。


<終結>
日本の終戦決意を最終的に固めさせたのは原爆ではなく、

ソ連の参戦であった。

8月9日、ソ連が参戦し、

満州・朝鮮で軍事行動を開始すると、

同日夜半から10日にかけて開かれた御前会議は、

国体護持の条件のみでポツダム宣言を受諾することを

決定した。

これに対し、アメリカは12日、

日本側の条件を暗に認めた回答文をバーンズ国務長官の名で

通告してきた。

その表現があいまいであったため、

陸軍を中心とする主戦派は

あくまで本土決戦を主張したが、

14日の御前会議は、天皇の「聖断」によって

無条件降伏を決定した。

この決定は翌15日、天皇のラジオ放送(「玉音放送」)

によって国民に告げられ、

戦争は終わったのである

(なお正式の降伏文書調印は9月2日)。


<戦争の犠牲>

【広島・長崎原爆】
●1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆が投下され、

市街地を壊滅させたほか、

被爆による死者は、1945年末までに、

広島で約14万人(誤差1万人)、

長崎で7万人(誤差1万人)

に上ったとされている(ISDA JNPC編集出版委員会編

『被爆の実相と被爆者の実情――

1977NGO被爆問題シンポジウム報告書』による)。


【沖縄戦】  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6 
●日本軍による組織的抵抗の終わった6月23日まで

3か月近く続いた沖縄戦では、県民も戦闘に義勇軍

として動員される一方、戦闘の巻き添えをくったり、

日本軍にじゃま者扱いにされて殺される例も多かった。

当時50万の人口をもつと思われる沖縄で、

県民非戦闘員を含む日本側の死者は、約18万人

(県援護課資料による)をはるかに超えたものと推定される。
                                                     [ 以上 執筆者:荒井信一 ]

 


【学徒出陣】
●1943年10月21日、

全国を代表して東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で

「出陣学徒壮行会」が実施された。

当時の報道によれば秋の強い雨の中、

観客席で見守る多くの人々

(引き続き徴兵猶予された理工系学部生、中等学校(旧制)生徒、

女子学生などを含む)の前で東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県

の各大学・専門学校から召集された出陣学徒の隊列行進

(伴奏・陸軍分列行進曲)、

海ゆかばの斉唱、

宮城(皇居)遙拝、

岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、

東條首相による訓辞、

東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞

などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して

終わったとされる。

なお、全国で学徒兵として出征した対象者の総数は

日本政府による公式の数字が発表されておらず、

大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって

失われた例があるため未だに不明な点が多い。

出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、

死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。

 

【東京大空襲】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
●1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、

特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の

空襲は大規模であった。通常「東京大空襲」と言った場合、

特に規模が大きかった1945年(昭和20年)3月10日に

行われた空襲を指すことが多い。

1945年(昭和20年)3月10日、爆撃は325機。

B-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、

0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りに

その後城東地区にも爆撃が開始された。

0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する

爆撃も開始された。

爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、

秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。




   

  原爆ド―ム

 

    

  沖縄戦

  

  学徒出征  

          
   

  東京大空襲鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)

 

  以上 ウキぺディアより

                                                        


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