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気ままに生活してるシニアの残日録

丸山真男「日本の思想」を読む(3/3)

2024年04月26日 | 読書

(承前)

Ⅳ「である」ことと「する」こと(講演記録)

  • 私たちの社会が自由だ、自由だといって、自由であることを祝福している間に、その自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのではなく、自由となろうとすることによって、初めて自由でありうると言うことなのです(p159)
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    その通りでしょう、「自由」を「平和」に置き換えてみても同じでしょう、そして自由や平和になろうとすることとは、自由や平和を戦ってでも勝ち取るものだ、というのが丸山氏の好きな西欧の歴史であり、現にウクライナでは自由を勝ち取るために戦っている。日本だって同じでしょう
  • 人々は大小さまざまの「うち」的集団に関係しながら、しかまもそれぞれの集団によって「する」価値の浸潤の程度はさまざまなのですから、どうしても同じ人間か「場所がら」に応じていろいろにふるまい方を使い分けなければならなくなります。わたしたち日本人が「である」行動様式とのごった返しの中で多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石がするどく見抜いてたところです
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    丸山氏の指摘するとおりでしょう、漱石の講演録「現代日本の開化」には、西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である、開化の推移は内発的でなければ嘘だと申し上げたいのであります、西洋人が百年の歳月を費やしたものをわずかその半ばに足らぬ歳月で明々地に通過し終えるとしたならば吾人はこの驚くべき知識の収穫を誇り得ると同時に、一敗また起つ能わざるの神経衰弱にかかって、気息奄々(えんえん)として今や路傍に呻吟しつつあるは必然の結果として正に起るべき現象でありましょう」と述べている
  • 近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです、もちろん、「であること」に基づく組織(たとえば血族関係とか、人種団体とか)や価値判断の仕方は将来とてもなくなるわけではないし、「すること」の原則があらゆる領域で無差別的に謳歌されてもよいものでもありません(p181)
  • 徳川時代のような社会では大名であること、名主であることから、その人間がいかに振舞うかという型がおのずと決まってきます(p163)、儒教的な道徳が人間関係のカナメと考えられる社会が、典型的な「である」社会だということを物語っております(p164)
  • これに対してアカの他人同士の間に関係を取結ぶ必要が増してきますと、どうしても組織や制度の性格が変ってくるし、またモラルも「である」道徳だけではすまなくなります(p164)、封建君主と違って、会社の上役や団体のリーダーの「えらさ」は上役であることから発するものでなくて、どこまでも彼の業績が価値を判定する基準となるわけです(p167)、一般的にいって経済の領域では、「である」組織から「する社会」組織へ、「属性」の価値から「機能」の価値への変化がもっとも早く現れ、もっとも深く浸透します、ところが政治の領域では経済に比べて「する」論理と「する」価値の浸透が遅れがちだということです(p168)
  • ところが制度を判断する際には、まだ多分にその制度の現実的な働きによってテストしないで、それ自体として、いいとか悪いとか決めてしまう考え方が強く残っています、しかも現代の国際国内政治がイデオロギー闘争の性格を帯びているために、自由世界と全体主義世界とか、資本主義と社会主義とか言う分け方をあらゆる政治現象の判断に「先天的」に適用しようとする傾向が、右のような「である」思考に加乗されることになってきます(p170)
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    確かに氏の指摘するとおりでしょう、物事を黒か白かと単純に決めつける発想は知的態度とは言えない。例えば、氏は共産主義を悪と決めつけるのは間違えで、共産主義のイデオロギーの中には人道主義といった普遍的価値の側面があると述べている(p171)、ただ、そのような側面は理論上あるだろうが、共産主義の実践においては人権侵害が行われている例も多いので、その理念と実践には大きな乖離がある
  • 政治行動とか経済活動といった社会行動の区別は「する」論理から申しますと当然に機能の区別であって、人間や集団の区別ではない、文化団体である以上、政治活動をすべきではない、教育者は教育者らしく政治に口を出すなというふうに考えられやすいのです、しかし、民主主義は非政治的な市民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動によって始めて支えられるといっても過言ではないのです(p175)、政治と文化とをいわば空間的=領域的に区別する論理こそまぎれもなく、政治は政治家の領分だという「である」政治観であります(p177)
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    誰であれ政治的意見を述べるのは自由であり、それは当たり前だ。それをあえてここで書くのは、この当時、日教組の政治的影響力が強く、また、学生運動が激しい時代だったから、そういうことと関係しているのか、具体的に書かないから何を言いたいのか実にわかりにくい
  • 日本の近代の宿命的な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、その上、「する」原理を建前とする組織が、しばし「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです(p178)
  • 現代のような「政治化」の時代においては、深く内に蓄えられたものへの確信に支えられてこそ、文化の(文化人ではない)立場からする政治への発言と行動が本当に生きてくるのではないでしょうか、現代の日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか(p182)
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    空疎な言葉の羅列で実にわかりにくく、わざと何を言っているのかわからないように書いた文章ではないか。自分は精神的貴族であり、文化の担い手であり、そのよう文化を代表するものたちが政治に意見を言うのは有意義で、それでラディカルな民主主義が実践できるのである、とご高説を述べた選民意識に満ちた文章だ、「ラディカルな」とは字義通り過激なマルクス主義革命のことではないのか、それを巧妙にわかりづらく、しかし、その世界にいる人にはわかるように書いた文章ではないか

あとがき

  • 私の分析に対する批判の明確な誤解と思われる受取り方の例としては、もっぱら欠陥や病理だけを暴露したとか、西欧の近代を「理想」化して、それとの落差で日本の思想的伝統を裁いたとか、いった類いである、これに対する理論的な答えとしては、 「陸羯南(くがなつかん)」の小論や「明治国家の思想」を見て頂くほかはない(p189)。
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    大事なところなので、理論的な答えを説明してほしかった、(1/3)でもコメントしたとおり、氏の説明は西欧を誉めあげ、日本の状況を批判するというようにしか見えない

本書の読後感であるが、難解な部分も多かった、特に「Ⅰ日本の思想」がそうだった。本書が想定する読者は大学の研究者や日本思想を勉強している学生等なのであろう、難しいことをわざと難しく解説していると感じた。

本書にはデカルト、ベーコン、ヘーゲル、スピノザ、ホッブス、コント、ルソー、スペンサー、バッグなどの哲学者か思想家だろうか、フリードリヒ・ヘール、チャールズ・ビアード、K・レーヴィット、W・ヴンド、A・ローゼンベルグ、E・トレルチ、K・マンハイムなどの研究者だろうか、多くの西欧人や小林秀雄などの日本の知識人の考えをふんだんに引用している、丸山氏は「おれは難しい古今東西の文献に目を通してすべて知っているのだ」と言うことをひけらかしているように思えた

丸山氏は進歩的文化人のリーダー的存在だったのだろうが、なぜ「進歩的」などと言われるのかよくわからない、西欧の思想やマルクス主義を信奉するのが進歩的なのか、もっとも、もう進歩的文化人など死語になっているが

最後に、丸山氏であるが、弟子の中野雄氏が書いた「丸山眞男 音楽の対話」(文春新書)という本があり、随分前に読んだことがある、この本を読むと丸山氏はかなりのクラシック音楽ファンであることがわかる。この機会に再読してみたくなった。

(完)



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