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自分自身で出来る危機管理

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仏壇!

2011年07月10日 | 東日本大震災から学ぶこと
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6月18日(土) 宮城県にて

2011年06月21日 | 東日本大震災から学ぶこと
6月11日、S院・Tさんから「18日同行可能ですか?」とメールを頂戴した。

同じ新幹線、古川駅にて合流というアバウトな約束で待ち合わせ!

配車された駅レンタカーは、↓だった。3500円/日



まぁ、2名乗車だから、ど~にか動くでしょう。で、K寺さんへ。

OさんとTさんは同級生とのこと!
自坊法務と前線基地といろいろご心労で、正に100日休む間も無いOさんに、「南三陸から海岸線を南下して石巻から戻って来ます」と、これまたザックリした「予定」をお伝えしてからいざ出発!!

「幹線外して行きましょう!」とTさんのナビゲートで、絶妙なルートで南三陸・志津川へ!




(出所:http://www.hanadataz.jp/td/saigai2011/ogatsu-kitakami-minamisanriku/ogatsu-kitakami-minamisanriku.htm)

正午頃志津川市街へ。
防災センターにてお勤めして、松原公園へ。

公園は瓦礫の集積場となっていた。
ココにはC58 16号機が静態保存されていたそうだが、この有様。




100t近い鉄の塊を転がしてしまう今回津波の凄まじさを思う。



昭和35年のチリ地震津波では、41名が犠牲になったそうだ。



東方の海岸に移動して、読経。


穏やかな、何事も無かったような、ありふれた風景。
この海水面を15mは隆起させ、泥水の塊とする「自然」の力を改めておもい知らされる。



対岸のホテル観洋の駐車場を拝借して、遅い昼食休憩。




高台のこのホテルの2階まで水位は上がったようだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110530/220288/?P=8&rt=nocnt
(↑このサイト、ログインしないと閲覧出来ないかも知れません)

防災センターに戻ると、14時46分だった。



防災センターの旧玄関は花や線香が手向けられている。
時間的にも、お参りの人々は絶えることがない。

正面を外して、再度お勤めしていると、背後に少年野球のユニホーム着た子供達が1列に並んでいた。
帰り際、保護者とおぼしき方が、我々に会釈して見送ってくれた。



見ず知らずの、宗派も判らないけど、「ありがとうございました」って気持ちだったのだろうと勝手に解釈して、志津川を後に・・・。

(後日のNHK報道によると、センター職員のMさんが歌津中学校の野球指導をされていたらしい、
当日試合には負けたが、終了後報告と感謝の気持ちを伝えにやってきた、とのことであった)

東浜街道を南下して、戸倉からR398へ、志津川湾を左に見ながら、北上町方向へ。
国道は比較的高所を走っているが、ところどころに仮設住宅が建設されていた。

Tさんが以前援助活動に来た時の、現地の人との話を車中で聞かせて頂いた。
入り江ごとに集落はあるけど、隣の集落との間には、それぞれ何らかの「確執」が少なからずあるそうだ。

途中「神割崎」という景勝地の看板。今回唯一の観光!


縁起の解説はgoogleにて

北上町、北上川左岸を石巻方面へ進む。一関街道に乗り、北上川を渡る。
道の駅「上品の郷」で休憩して、時間的にキビシイかな?とは思いましたが、
「大川小」と「女川」を経由することとなりました。

北上川右岸堤防上の道を進む。


(堤防を乗り越えて、内陸に取り残された漁船)

「堤防」があるがゆえに、堤防の内側(川じゃない方)に「水」が入ったらどういうことになるか?
これは、「大川小学校」の祭壇に手を合わせていて、思い知らされることに。




(この「森」の高台を目指して避難。児童108人の約7割にあたる74人と教職員10人が津波で死亡・行方不明)

大川小の入口


喪服を着けた多くの「遺族」が手を合わせに来ていた。
(遺族会主催の合同慰霊祭後のお参りだったことを、後の報道にて知ることとなる)

香炉に線香をお供えして、Tさんと2人、祭壇左脇にそれて読経。
とてもじゃないけど、正面に陣取る気持ちにはなれない。
次第は理趣経・心経・諸真言。今回「頭」総てTさんにお願い致しました。

読経終わって、周囲360度を見渡す。

平成23年6月18日 大川小にて


ここに来るまで、
「どうして教職員は、もっと早く逃げなかったのだろう?」
という疑問がぬぐえなかった。



校庭に立ってみると、「堤防」が高すぎて、「川」は見えないという事実。
森の高台に移動始めるや、津波は既に堤防を乗り越えて、押し寄せて来ていた。

校舎を水没させる大量の泥水が渦巻く中に、のみこまれたという現実。


小雪の舞う3月11日。暗くなり始めるであろう夕刻。
引率していた教職員のおひとりおひとりの無念を思うと、「どうして?」なんてあまりに「他人事」の言葉でしかない。

(6月27日 匿名化・追記)

コメント

津波

2011年04月20日 | 東日本大震災から学ぶこと




コメント

尊いと思う

2011年04月14日 | 東日本大震災から学ぶこと
79才。ご老僧様に素直に頭下がります
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状況

2011年04月14日 | 東日本大震災から学ぶこと


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