前回(4/22)で川澄哲夫編『英語教育論争史』第五章「太平洋戦争と英語(一)」を構成する全五節のうち第一節「適性語から敵国語へ」を読み終えました。今回から、第二節「敵性風俗を排す」に入ります。史料は全部で八本、時代は昭和十五~十九年に発表されたものです。編者・川澄哲夫氏は、第二節の解説「外来語の問題」を≪昭和十六年(一九四一)十二月八日、太平洋戦争が始まって、英語は「適性語」から「敵国語」になり、すべての敵性風俗が排斥された。開戦直後の十二月十五日には、「極東」なる言葉が、国辱的だという理由で使用が禁止された≫と、書いています。朝日新聞の翌十六日の夕刊には次のような記事が掲載されています。
≪「極東」の字句を抹殺 けふ次官会議で一致
一五日の次官会議で奥村情報局次長から「極東」なる語辞(ゴジ)を政府公文書をはじめ新聞雑誌・宣言・決議等すべての文書から撃滅したいとの提議があり満場一致これに賛意を表したがこれに関し次のやうな情報局次長談が発表された
【情報局次長談】本日の次官会議において爾今(ジコン:以後)「極東」なる語辞を政府は公式非公式いづれたるを問はず使用せざることを申合せた、よつて民間においてもこの趣旨に副(ソ)ひ新聞雑誌、宣言、決議または一般の会話にも使用せざることを希望する、そもそも極東なる語辞は英語のファーイーストの翻訳で明治初年以来七十年間使用せられて怪しまなかつたのである、この字句はいふまでもなく英国を世界の中心なりとの観念の上に組立てられたものであって、英国およびアングロサクソン秩序の世界においては当然とされた語辞である、我々の住む東亜の天地は英国から見れば「極めて東であり」遥なる東部──ファーイーストであろうが日本人やアジア人にとっては世界の中心であつて決して極めて東部ではない大東亜戦争が宣言せられ大東亜新秩序が建設せられつゝある今日今尚英国式の、英国中心の語辞が我々の住む東亜の呼称に使用せられ、日本人が自身がこれを使ふことは洵に不名誉至極であると共に絶対にゆるすべからざる不注意である、大東亜戦争なる名称が発表せられ、米英撃滅の大戦果があげられつゝある今日一億国民悉くこの国辱的語辞を日本から一掃するやう切望に堪へない、言葉は観念や世界観の表現であつて決して軽視出来ない、国内輿論(ヨロン)指導の立場から衷心(チュウシン:まごころ)より国民にお願ひしたい≫(川澄哲夫編前掲書 五五二~三頁)
川澄哲夫氏の解説を続けよう。
≪十二月二十三日の『朝日新聞』には、「抹殺せよ〝アメリカ臭〟」という見出しで、風俗研究家で、当時早稲田大学教授であった今和次郎と興和写真報国会なるものが、銀座の街頭で、アメリカ臭風物の撮影を行い、銃後の風俗を是正し、社会の反省をうながそうとした、という記事がのっている。
ジャズは敵性音楽、マイクロフォンは敵性器具、サクソフォンはアメリカの象徴でけしからんなどと排斥されたが、とりわけ問題になったのは外来語であった。すでに、昭和十五年頃から、Way Out, Entranceなどの駅の表示板の英語がなくなり、タバコの「バット」や「チェリー」が、それぞれ「金鵄(キンシ)」と「桜」に変り、レコードが「音盤」、プラットフォームが「乗降廊(ジョウコウロウ)」、ロータリーが「円交路」になった。漫才のミス・ワカナは、ミスがいけないといわれて、メスワカナにした。この外来語改称の問題は、戦争が深まるにつれて極端になり、外国のスポーツである野球やゴルフ、外国の発明品であるラジオのようなものにまで及んだ。少しばかり例をあげてみよう。
○ ストライク(よし一本)、三振(それまで)、セーフ(よし)、アウト(ひけ)、ファウル(だめ)、ボーク(反則)
○ ゴルフ(打球)、パー(基準数)、ホール・イン・ワン(鳳)、キャディ(球童)
○ スキー(雪滑)、スケート(氷滑)
○ ストレート(直打)、フック(鍵打)、ゴング(時鐘)、ノックアウト(打倒)
○ ピアノ(鋼琴)、クラリネット(竪笛)≫(川澄哲夫編前掲書 五一五~六頁)
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということでしょうか。これって感情だけで動いている子供の行動様式そのものではありませんか。どの国の文化も外国の影響なくして成立するはずがない、とは日本の歴史を省みるだけで、すぐに心づくものだと思うのですが、喉元過ぎると暑さを忘れる国民性の根幹には没歴史的思考が常駐しているということなのかも知れません。あるいは歴史的に扱っても、都合のいいところだけを使っているのかもしれません。私たちが使っている漢字は外来語。中国から伝わってきたものです。中国は外国ではないというのでしょうか。日中戦争下、中国は敵国ではなかったのでしょうか。敵性語を排斥しなければならないと「お上」が決めたのなら、漢字表記である姓名を変えなくてよかったのでしょうか(前に読んだ史料にも同じ揶揄がありましたっけ)。なんという事大主義とご都合主義!このような時世に世の文化人・知識人は本心ではどう考えていたのか、次回から落着いて読み取っていかなければなりません。漫才のミス・ワカナは、ミスがいけないといわれて、メスワカナにしたそうですが、「メスワカナ」という一語は私に幽かなアイロニーを喚起させます。彼らにこれほどの抵抗力さえ残されていたのかどうか。
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