尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

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旅における「はきもの」の問題

2013-03-31 19:17:45 | 

 第5節にあたる「歩く旅は草鞋に限る───鉄道ができても歩くことはなくならない」を読んでみます。

  • は如何に交通機関が発達したとしても、結局は足の厄介にならなければならない。そこで「はきもの」が問題となつて来る。

 これまで見てきたように、旅は信仰性と交易性の二重性を本来的なありかたとする人間行為です。信仰性を実現するのに聖地に赴くとすれば、移動者は道者とも行者ともよばれるくらいですから、そこには自ずと<修行性>が要求されます。修行性の実現はまず聖地までの行程を「歩く」ことに求められます。また旅における交易性を実現しようとすれば、自らの縁喜的な業や物を相手のもとに運び、相対し「給ぶ・賜ぶ」(下さい)と言わなければ交易は実現しません。ですから、結局は足の世話になるしかないわけです。そこで「はきもの」が問題になります。

  •  昔は素足に草鞋をはいたものである。鼻緒ずれを防ぐために甲かけなどを用ゐることもあつた。素足に草鞋ばきの時代が旅行の黄金時代であつたと思ふ。まだ地下足袋だのゴム底だの、無論靴も普及してゐない時代であつたが、それで都会の人も足を痛めずにをすることが出来た。朝出るときは草鞋が足になじまないが、一里も歩くとあしにピッタリと合つて来て、殊に山路を歩く心持はセンシュアルなものであつた。

 草鞋の履き心地を「センシュアル」というのですから、柳田はよほど草鞋が気に入っていたと見えます。私は残念ながら草鞋を履いたことがありません。しかし、いまでもお祭りの激しい神輿担ぎには草鞋は不可欠ですし、ネットで調べると草鞋の履き方を動画でも見ることが出来ます。そこで確認できたことは、草鞋は足指が地面に近く踏ん張りがきき、わらは濡れても滑りにくいことから激しい労働や運動性に優れているという点です。確かに、武士の時代にも兵士は草鞋履きでした。しかし何よりも旅には草鞋が不可欠の用品だったようです。旅が信仰性に遊覧性を加えて庶民層にも浸透したのは近世だと云われています。それは第一節で「群の旅 群の旅行」でも見ました。ただ欠点は足が汚れること、すり切れて持続性に弱いはきものだったので、絶えずスペアを用意しておく必要があったことでしょうか。

  •  明治二十四五年頃になつて、普通の足袋よりも少し厚いもので太い糸を刺してある石底足袋と云ふものが流行した。足袋をはいて草鞋を著けるやうになつたのは新しいことである。石底足袋は普通の雲斎織底(うんさいおりぞこ)より堅い足袋で、今日の地下足袋の前身と見られぬこともない。此の時分には東京市中でも車夫をはじめ、労働者は草鞋をはいてゐるのが普通であつたから、何処へ行つても草鞋を売つてゐた。都会から草鞋が姿を消したのは、大正の初め頃であつたろうか、昭和に入つてからは場末や街道筋にも追々見かけぬやうになつた。
  •  歩く旅には靴や下駄は不向であつて、何と云つても草鞋に限ると思ふ。

 なるほど、草鞋は旅にはピッタリのはきものであることがわかります。しかし、一九四八(昭和23)年という年に旅は「草鞋履きがよい」という話では、いかにも時代錯誤を演じているのではないかと思われます。あえてこの時代に柳田が草鞋履きの良さを語ることが何を意図していたのかを、考えてみる必要がありそうです。この問題を解くヒントを二つ挙げて、この「昔の旅 これからの旅」を全部読み終わったあとで考えてみようと思います。

 一つははきものは、この世とあの世を結ぶ旅の重要な道具だということです。亡くなった人の納棺の姿が旅姿であり草鞋を履かせて送りだすことに典型的に現われていると思われます。ここには人間の魂を乗せて運ぶはたらきを担っていると考えられます。二つは、草鞋の材料の稲ワラは大地からの栄養を吸収して日本人にとっては重要な米を実らせる大切な通り道であり、実った米を支える存在であるということです。ここには稲魂が込められていると考えられてきたのではないかということです。

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日本の旅行道 黎明期と減退期

2013-03-30 19:17:45 | 

 第4節にあたる「旅行道の黎明期と減退期───明治~昭和戦後」を読んでみましょう。

  •  日本の旅行道は明治になつて漸く黎明期に入つたやうなものである。交通機関もボツボツ設けられ、それと何よりも力強かつたのは地図と道路が追々整ふやうになつたことである。私の旅行は明治二十年代に始まつたが、感じやすい白紙状態に居ればのおもしろさを感ぜずには居られなかつた。私たちの友人は身のまはりのものは何も持たずに、行く先々で必要なものを求める事が出来、自由に歩けた。新聞もこんなに同情を持ち、かういふ処に通路があるのかと思ふやうな奇抜な旅行も奨励したものである。時代の空気は青年を旅行させるやうに出来てゐたといつてもよい。宿屋の不完全なことを承知すれば何処へでも行かれた。決して以前のやうに苦しい旅行ではなく、又後のやうな遊覧一点ばりのでもない。青年の修養になり、日本はこんな国であるといふことを知らせることが出来た。

  「旅行」は、「旅」の時代的な実現形態です。新しい交通機関が普及していく時代の中で、旅の交易性(→相互理解性)を最大限に生かした旅行をいかに実現していくか。これが旅行道の課題です。それは「以前のやうに苦しい旅行ではなく、又後のやうな遊覧一点ばりのでもない。青年の修養になり、日本はこんな国であるといふことを知らせることが出来」る旅行です。柳田は若者に期待していたのです。ただし新しい交通機関=鉄道を利用するには課題がありました。

  •  日本の旅行史を書くとすれば、明治中期は日本旅行道の革新期に当る。此の時代の旅行で困難であったのは、汽車や旅館がよくなっても、辺鄙なところに入ることが段々望みにくゝなつたことである。その原因は運搬の問題であつた。実際、で荷物は厄介であつてその処置の如何が苦痛と否との岐れである。私などは官吏であつたから警察や役場へ行つて、よく人足をたのんで荷物を運ぶことが出来たが、一般には荷送賃が高くなり加ふるに土地の生活が進んで、さう云ふ賦役を嫌がるやうになつて困難であつた。又はじめは土地の故老の如き篤農家が一緒に歩いて呉れたが後には土地のことを何一つ知らないやうな人が機械的に荷物を持つて案内するやうになつて、の興趣を減殺されるに至つた。

 たとえ近代なって交通手段が新しくなっても、それまでの旅行での醍醐味はまさに困難とともに道中にこそありました。しかし鉄道が通り駅が出来ると、それ以外の場所は急激に寂れていきました。鉄道から離れた旧街道と宿場町も急速に衰微していきました。これでは辺鄙なところが減るどころか増えるばかりです。

 しかも、創生期の日本の鉄道は大都市一極集中型、喩えてみれば自転車の車輪のようでした。軸が大都市で各線路はスポークのようであって、スポーク同士がつながるような路線がいくらかでも出来るのはずっとあとのことになります。こういう辺鄙なところに行きにくくなった不便さは汽車が使えないということだけではありませんでした。

 旅行にともなう荷物の運搬が困難になったことが述べられていますが、結局は余所の土地を知るという旅の課題が実現困難になっていきます。まだご存じの方も多いと思いますが、国鉄時代にはチッキという手荷物の託送制度がありました。旅客からの手荷物を国鉄が預かって輸送する制度です。乗車券を提示して運んでもらうのです。私なども上京するときは割安だったので布団や衣類などの荷物をチッキで運びましたが、当時「日通」ぐらいしかなかったのでこれを使うのはお金がかかりました。このチッキも戦後は宅配便の普及で出番がなくなったのでしょう。国鉄は1986年に廃止にしました。またチッキが明治時代においても誕生していたのかどうか、私はまだ調べがついていません。

  •  戦時、戦後の今日の旅行、これは皆具(つぶさ)に体験してゐるやうな生きんが為めのであつて、もう旅行道からは減退期と見るより仕方がない。

 やがて戦争がはじまり、そして終わってみれば、もう生きんがための旅行ばかりであった、ということになります。つまり旅行道は戦後になってもまだ十分に追求されてはいないということが分かります。柳田國男にとっては、再び旅行道の原点(旅の本来性)に戻って構想するしかない、そういう時代だったのではないでしょうか。

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日本の地形からくる必然 割拠主義

2013-03-29 19:17:45 | 

 第3節にあたる「日本の地形からくる必然───割拠のほうが自然」を読んでみましょう。

  •  日本は地形からいへば統一よりも割拠の方が自然であり、全国が一つになるには却つて不自然となるセオリーである。皇室を中心として強く統一を唱へたのも、詮ずる所は地形の必然からであらう。だから旅行も個人、団体いづれも、大凡サークルがきまつてゐて其の区域が限られ行動半径が自ずから定まり、何処へでも歩くといふ状態ではなく、引寄せられるところがあつた。従つて一般には東北の如きも、せいぜい出羽三山止りで、それより奥へは延びず、況(ま)して北海道迄は思も及ばなかつたし、南の方も太宰府までゝ行きどまりであつたのである。

 柳田は日本の国土は山がほとんどで、そこで暮らす人間は山肌に無数に刻まれた谷筋に袋がぶら下がるようにしていくつもの集落を形成してきたと、どこかで述べていました。さらには、そのような集落と集落との間は、もし通い合う道が通らねば山一つ隔たっているだけなのに、何百年間もお互いのことを知らずにいる、そういう国柄だとも述べています。ここから柳田國男の中に日本人の「割拠主義の克服」という課題が生まれたと思われます。いってみれば「自分ばっかり主義」の克服です。

 列島に人間が住みついてから何万年になるのか知りませんが、それほどの年月が経っても、まだお互いをより良く知り合うための民俗も制度も出来てはいません。列島に住む日本人にとって山ひとつ、川一本、海峡ひとつ超えればそこは見知らぬ異郷でしかなかったからです。ですから、柳田にとって旅や旅行の議論は遊覧や行楽は大きな問題ではなく、日本史上の大きな変革さえも相互理解がどの程度達せられるかというモチーフを秘めた問題だったのです。戦後昭和23年の年頭に「もっと知り合おう 祖国はここに立つ」とか、「日本を知りたい」と書いた心情を、年寄の世迷い言と受け取ってはならないのです。以下の引用は、そのような観点で読み取る必要があります。

  •  明治初年の地方に関する知識が、官民ともに愕(おど)ろく程貧弱で、限られて居つたことは、右(上──引用者)のやうな実情に由来するのである。当時薩摩・長門等の藩が中央へ来て政治上いろいろやつたが、肝腎の地方知識の貧困から云ふことには限界があつた。平民生活が外もうごかされず中もうごかされなかつたのは、さう云つた不徹底おかげのである。

 とすれば、旅や旅行をどのように考えればいいか、明瞭になってきます。旅の<交易性>を軸に新たな時代に即応した「旅行道」の構想にほかならない、私はそう思います。

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中央と地方の文化交易

2013-03-28 19:17:45 | 

 第二節にあたる「中央と地方の文化交易───地方文化は乱世に培養される」について読んでみましょう。

  •  次に中央と地方の文化が旅行によって交流した著しい例を挙げて見よう。それは足利時代中期の京都の衰微と旅行の関係に見ることが出来る。当時の京都は応仁の乱によって戦火の巷となつたため、荒廃疲弊の極に達したのである。物資も金銀も地方にのみ偏在して全く京都にはなく、あるのは唯難民の彷徨と飢餓だけと云ふ状態であつた。物の欠乏と購買力の欠如によって、京都は多数の消費者を擁した都市としての機能を完全に失ってしまった。戦禍の齎(もた)らす悲惨な結果には時と処の相違なく、まことに今日の社会状況とよく似てゐる。その時の京都にあつたのは無形の文化だけであつた。これが地方に幸ひし、中央の文化を吸収する絶好の機会となつた。

 「旅」とは信仰性と交易性の二重性をもつ本質的・一般的なあり方を、また「旅行」とは時代的・特殊的なあり方を意味するというのが、私のこれまでの議論でした。この基準からみると、上の引用における「旅行」の使い方は適合しています。これを「徒歩によるものを旅の時代、鉄道などの交通機関によるものを旅行の時代」というような基準をもってしては柳田の文章は理解しがたいということになりましょう。続きを引用します。

  •  即ち文人墨客などは食へぬ京都を棄てゝ、続々地方行脚に出たのである。いはゞ地方疎開であるが、一番歩いた連歌師の宗祇をはじめ幾多の文化人が各地へ都落ちをしてゐる。彼等としては地方へ持つて行くものは、無形の文化より外にないから乞食商人と悪口をいはれても忍んだ。歌や物語を地方の大名や豪家に土産として書いてやり、或いは連歌を興行し、帰りに金銀を土産に貰って来る一種の文化交易である。

 京都の戦禍から逃れ地方疎開に出た文人墨客たちが、大名や豪家に無形の京文化(歌や物語)を提供するかわりに金銀を得ていたという時代的な現象は、「個人の旅(一人旅)」のもつ<交易性>に焦点を当てた展開、すなわち「一人の旅行」であることが読み取れるのではないでしょうか。最後の段落です。

  • かやうに中央の文化人が田舎へ田舎へと出かけた結果は、期せずして中央文物の地方普及となつたが、優位にあつた地方は決して中央文化に盲従したのではなく、よく之を摂取して一大飛躍を遂げるに至つた。地方文化は乱世のときに培養されるものである。

 結局、旅や旅行がもたらす文化交易は、相互の文化形成と相互理解の二つの問題を提起しているように思われます。ここでは対等性がピックアップされているようですが、旅や旅行の問題は考えてみると存外に大きなテーマを孕んでいることがわかります。

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一人旅のはじまり

2013-03-27 19:11:30 | 

 柳田国男は旅には動機の上からみると、旅は二つに分類できるといいます。一つは「群の旅」であり、もう一つは「一人の旅行」です。なぜここで「旅」と「旅行」を使い分けるのか、動機の上から分類したというのですから、分類基準は動機にあり、分類された二つのグループは次元が同じでなければ成り立たないはずです。そしてそれぞれを説明するわけですが、「群」の方はなんと「群の旅行は・・・」で始まり、「一人」の方は「個人の旅即ち一人旅は・・・」で始まるのです。今のところ、私にはこれを整合的に説明することはできません。とりあえず棚上げして「一人」の方の説明を聞きましょう。

  •  個人の即ち一人は比較的近世になつて起つたもので、旅行の効果が新たなだけに考へなければならぬことが多い。この一人旅の始は「あきない」ではなかったかと考へられる。この頃の商(あきなひ)と云ふのは、物を分配する方から始まつたもので、後には越中富山の売薬行商の如く顕著な発達を遂げたものもある。又この旅に先行すると見られる流民や浮浪人の所謂漂泊(さすらひ)も、旅の一形式と云へぬこともない。定住地を持たない夫等(それら)の旅は、甲地から乙地・丙地と転々とすることとて、きまつた仕事なり目的なりを持ちながら発足地へ復帰する上述のとは自ら内容に差があるが、としては最も原始的なものである。と同時にこれらが一緒になつて、旅行の品質を悪くしたことも争へない事実である。

 旅とは一般的なありかた、旅行とは特殊なありかたと考えれば、一人旅は比較的近世になって<商い性>という一般的要件を獲得したと述べています。たとえば越中富山の売薬行商はこの顕著な現われだとしています。さらに商い性をともなった一人旅の以前には、「流民や浮浪人の所謂漂泊(さすらひ)」の旅があったことを指摘しています。そしてこの「漂泊」は旅としては最も原始的だと述べています。並べてみると以下のようになります。

行商(比較的近世に一人旅がはじまる) ← 流民や浮浪人の漂泊(旅としては最も原始的)

 旅の起源について、柳田はこれ以上は述べていないのですが、実は昭和初期にタビの起源ともいうべき議論をしているのです。たとえば「行商と農村」(『農業経済研究』第7巻第2号、昭和6年4月10日、岩波書店)や、「旅と商業」(『明治大正史 世相篇』の「第六章 新交通と文化輸送者」)などです。煩わしい引用はやめて私なりのおおざっぱな理解を述べてみます。

 日本において漂泊民の歴史はおどろくほど古く始まっています。中世には彼らの大部分は「聖(ひじり)」を名乗り、宗教によって各地を転々としながら毎日の暮らしを立てていました。それは主に所属する寺社の勧進を求めながらの旅であったとともに、商と工についての業あるいは種々の芸能によって暮らしを立てていたと考えられます。その中には、物乞い同然の者たちもいたことでしょう。物乞いをホイトといいますが、ホイトは「祝(ほ)ぎ人」であり、祝言の配布を業とする者のことで、単純な物乞いではなかったのです。かれらは各地の家々を訪ねて暮らしを立てていたのです。

 では、どうやって家々を訪ねて行ったのか。それは言葉です。タベとは「給ぶ・賜ぶ」つまり「ください」という意味、または「食ぶ」つまり「(飲食物を)いただく」という意味があります。こういう言葉を言いながら家々を訪ねて行ったと考えられるのです。ただ貰うばかりではありません。それは単なる物乞いです。そうではなく、自分の業を提供しながらその交換に食べものを求める暮らしだったのだと考えられます。今でも各地で行商をタベトと読んだり旅人をタベトという方言がその痕跡を伝えています。タビという言葉の起源はここにあるというのです。つまり家々の悦ぶ縁喜の品を提供して、下さい下さいといって、交易を要望することがタビと名付けられたということです。また、確認になりますが、みずからを「聖」と称したかれらの旅には当然<信仰性>という性格がともなっています。つまり、旅というものは<信仰性(宗教性)>と<交易性(商い性)>をもってはじまる、こういっていいと思います。

 そうすると、柳田が談話「昔の旅 これからの旅」を始めるにあたって、旅を、群によるものと一人(個人)によるものに分類した理由がおぼろげながら分かってきます。まず私が拙い理解で述べたような「旅の起源」について詳しくは述べていません。つまりカットされているわけです。これを説明するとなれば漂泊民の歴史から話さなければなりません。そこで旅の起源の本質的な要素である<信仰性>と<交易性>を、「群の旅」と「一人の旅行」の各々に担当させたのではないでしょうか。これは便宜的にそうしたというのではありません。「群の旅」も「一人の旅行」にも共通して旅の本質的性格である<信仰性と交易性>という二重性は貫かれておりながら、「群の旅」は信仰性を濃厚にもち、「一人の旅行」は交易性が濃厚だという性格に根拠をもつ判断であったろうと思われるのです。たんなる方便ではなかったのです。

                                                                    

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群の旅 群の旅行

2013-03-25 23:59:05 | 

 柳田國男はあきらかに旅と旅行を区別(意識)して自分の旅(旅行)論を展開しています。前回確認したことは、いくつかの辞書で二つの言葉の意味の違いでした。というよりは、その区別の発想はどのようなものかを考えました。それは、旅というのは一般的な歴史認識を表し、旅行というのは特殊的なそれを表しているのではないか、というものでした。つまり旅行は旅の下位概念なわけです。

 ここで民俗学での議論を振り返ってみると、時に人間行為の歴史を「変わらないもの/変化するもの」という二重性で理解する仕方が散見されます。そこで私は、「変わらないものとしての旅/変化するものとしての旅行」という視角で柳田の旅(旅行)論を解読してみたいのです。でも、それぞれ具体的にはどういうことか、という疑問を持たれるかと思いますが、その点を柳田國男がどう考えていたのかは、順々に明らかにしていくつもりです。

 取り上げるのは前回その冒頭を引用した「昔の旅 これからの旅」(1948)です。これは談話を編集人がまとめたものだから正確さに欠けるという考えもあると思います。これも一理あるでしょう。しかし柳田がこれに署名し雑誌(『旅』第22巻第1号 1948.1.1 日本交通公社)に発表したということはそれなりの責任が発生することを意味します。さらに、この文章を読んでみると、やたらに旅と旅行の意識的区別が目につきます。執拗に、とっていいくらいです。このことは私の想像ですが、編集人があまりに旅と旅行という言葉を混同して談話をまとめたので、原稿作成に協力した当時の民俗学研究所の留学生だった大月松二さんが柳田の意向を念頭において丁寧に手を入れたからではないかと思われますが、今は確かめようがありません。

 この文章は全部で七つのまとまりからなります。私なりに小見出しをつけて、その順序で読んでいこうと思います。小見出しを並べてみますと、以下の如くです。パラフレーズもつけてみました。

  1. 群の旅 一人の旅行───旅と旅行
  2. 中央と地方の文化交易───地方文化は乱世に培養される
  3. 日本の地形からくる必然───割拠のほうが自然
  4. 旅行道の黎明期と減退期───明治~昭和戦後
  5. 歩く旅は草鞋に限る───鉄道ができても歩くことはなくならない
  6. これから期待したい国内旅行───手荷物・宿泊所・歩くこと
  7. 旅行道の荒廃を救うもの───「遠方の一致」に気づくこと

 ではさっそくはじめましょう。「1.群の旅 一人の旅行───旅と旅行」の冒頭です。段落ごとに読んでいきます。

  •  旅行道の発達、の歴史と云ふやうなことを考へると、日本は他処(よそ)とかはつてゐて興味もあり裨益(ひえき)することろも多いと思ふ。

 旅行とは旅の特殊なあり方ですから、歴史上どこでも起こりえ、それが発達という概念で括られています。すなわち「旅行道の発達」とは、旅行の成長するありかたが念頭におかれています。あとで詳しく出てきますが柳田は「旅行道」という言葉にあるべき旅行のあり方を込めて使っています。他方「旅の歴史」とは、変わらないものとしての旅のありかたです。「変わらないもの」の歴史とはヘンな言い方かもしれませんが、たとえばクシャミの歴史はそのようなものです。

 クシャミはもとクサメといいました。これは「糞でもハメ(くらえ)」という意味です。なぜくしゃみをそのように呼ぶのかその歴史をたどると、古くからに日本人はくしゃみをするたびに、特に幼い者の魂が悪魔に抜き取られると畏れていました。そこで魂を抜き取る者に対して「糞くらえ」(クサメ)と罵倒してきたのです。いまもくしゃみをするたびにいつの間にか「ハックション」とまるで言葉でクシャミと怒鳴るように使われているということは、クシャミをするたびに人間の魂が抜けることを畏れる心意が変わらぬものとして伝承されてきたことを意味しています。こういう「変わらない歴史」もあるのです。では、柳田が想定した変わらない歴史としての旅とはどのようなものなのでしょうか。

  •  は動機の上からこれを群(ぐん)のと一人の旅行との二つに分けて見ることが出来る。まず第一に群のであるが、これは大勢の仲間とつれだつた賑やかな旅行であつて最も早く発現したものである。

 柳田は「旅は・・・・」と、まず一般的なあり方を述べようとしています。で、これを動機の上から「群の旅」と「一人の旅行」と分類できると述べています。ここから分かるのは、旅の一般的なあり方はまずその<群性(集団性)>にあり、その時代的なあり方の一つとして「一人の旅行」があるということです。次に、この分類を「動機の上から」したことについてはどうでしょう。

 旅に出るのに誰かと共にいくのか一人で行くのかは確かに出かけることの動機になりますが、こういうことって本質的な動機といえるのかという疑問がわきます。ですが、次に段落にみるように、信仰においては本質的なんですね。神や仏への信心は共同ですることが原初の形だからです。つまり信心は共同祈願のほうが個人祈願よりも歴史的に先行するのです。

 まとめますと、変わらないものとしての旅はまず<群性>を持ち、「群の旅」として想定されます。そしてこれが、「大勢の仲間とつれだつた賑やかな旅行」として、ある時代に最初に現象するわけです。これを変化するものとしての「旅行」と呼ぶのは合理的です。

  • 群の旅行は主として信仰に発したもので道者(どうじゃ)が中心であり、熊野参りの道者などがその先駆者に数へられ、年百年中、沢山の人が熊野を目指して集まつた。富士や出羽三山の行者(ぎょうじゃ)も型は熊野からとつたものである。かうしたは複雑で信仰が濃厚にあらはれてゐた。この点は東西軌を一にして外国にも見られ、かの地でも宗教的の聖地巡礼即ちピリグリメーヂがの濫觴(らんしょう)である。

 濫觴とは、ものの始まりの意味です。ここでは群としての聖地巡礼が旅の始まりであることを補説しています。つまり<信仰性>が<群性>とともに旅の一般性を構成する要件なのです。道者とは連れだって寺社に参詣する旅人のことです。日本では熊野詣でに道者が集まることが旅の現象形態のはじめであって、それゆえの「群の旅行」という物言いになったと考えられます。行者とは仏道の修行者のことです。

  •  この道者や行者のが段々庶民の間に弘まるやうになると、当初は信心から始まつたものであつたが伊勢参拝や大和巡りが附加され、或は金比羅詣でや更に長駆して出雲大社や太宰府天満宮あたり迄赴く者などが出て来て、遂には信仰だけでなく遊覧をかねてする方が強くなつて来たのである。又、東国の富士や出羽三山の行者と同じく、全国各地にも夫々(それぞれ)名山霊峰を修験の道場とする行者が活躍するやうになつて、津々浦々にの風潮を昂まらせたことも見遁せない。兎も角これらは新しい見聞をひろめるためにもなり、もはや単純な信仰のためのとは云えなくなつた。近世になつて八十八ヶ所とか三十三番札所の巡拝の如く、信仰に引き戻さうとするものもあつたけれども、どちらかといへば名所旧蹟に心を惹かれるやうになつて来た。消費生活、奢(おごり)の生活になつて来たからである。鉄道が敷かれるやうになつてから鉄道では、この民衆心理を利用して旅行をそゝつたが、戦争になつて中止となつてしまつた。併し、これから形をかへててつゞくかと思ふ。以上は群の旅行今日で云う団体旅行に当る。

 詳しく論じませんが、これまでの旅と旅行の区別はここでも通用します。ただ、ここで重要なことは一般的な旅というものが、<信仰性>と<群性>を構成要件としながら、ある時代には「群の旅行」として現象し、時代がくだってきてそこに<遊覧性>が加わったとき、またあらたな「団体旅行」が現象してきたという理解です。

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旅と旅行の区別

2013-03-24 23:59:13 | 

 およそ一週間、ブログをお休みしました。この間は強風が吹き荒れ、梅に花もすっかり落ちてしまい、はやサクラの開花の予想も聞かれるくらい今年は暖かいようです。また花粉も吹き荒れ、滅多に花粉症に罹らない私も、毎日鼻水ズルズルくしゃみで顔はクシャクシャでした。このブログを開始しておよそ半年、思いきって休んでしまいました。

 さて、春といえば、あの三木成夫さん風に言うと「食と性の宇宙リズム」における性に目ざめる季節です。多様な草花が一斉に花開くこの季節になると、私たち人間も内臓に記憶されたこのリズムを呼び覚されるのでしょう。なんだかウキウキ気分になります。どこか花咲く野辺に出かけて宇宙リズムと共鳴したいところです。ならば、ここでもう一度旅について考えてみるのも意義深いことかもしれません。

 まず言葉です。私が学んできた柳田國男は、しばしば旅、旅行、旅行道という言葉を使いますが、どうもそれぞれの違いがわからず文意をつかみそこねているのではないかと思うことがあります。たとえば次のようなくだりです。昭和23年の『旅』という雑誌に載った談話「昔の旅 これからの旅」の冒頭の部分です。(段落ごとに分けて引用します。下線は引用者)

  •  旅行道の発達、の歴史と云ふやうなことを考へると、日本は他処(よそ)とかはつてゐて興味もあり裨益(ひえき)することろも多いと思ふ。
  •  は動機の上からこれを群(ぐん)のと一人の旅行との二つに分けて見ることが出来る。まず第一に群のであるが、これは大勢の仲間とつれだつた賑やかな旅行であつて最も早く発現したものである。

 これはこの談話のプロローグにあたる部分で、これから話すことは「旅行道の発達、旅の歴史」についてですよ、という案内をしているわけですが、続いて「群のと一人の旅行」とか「まず第一に群のであるが、これは大勢の仲間とつれだつた賑やかな旅行であつて最も早く発現したものである。」、というように最初から「旅行」と「旅」を説明もなく区別して扱っているので出だしから戸惑ってしまいます。というのも「旅行」も「旅」も、たとえば「歩きと徒歩」、「泳ぎと水泳」、「勤めと勤務」などのように、和語由来か漢語由来かを考えるくらいで、ふだんは意味は同じで、ただ一方は柔らかく他方は固くというように文脈上のニュアンスで使い分けていることが多いからです。

 では実際意味の違いがあるのでしょうか。辞書で調べてみます。まず「旅」についてです。まず『広辞苑第六版』(岩波書店)では、≪住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」といった。≫とあります。ここには歴史的な変遷に触れているところが注目されます。次に「旅行」は、≪徒歩または交通機関によっておもに観光・慰安などの目的で他の地方に行くこと。≫とあります。両者の違いは、出かける手段や目的という条件が加わった点です。

 こんどは『新明解国語辞典第五版』(三省堂)はどうでしょう。まず「旅」は、≪①差し当たっての用事ではないが、判で押したような毎日の生活の枠からある期間離れて、ほかの土地で非日常的な生活を送り迎えること。②差し当たっての用事のために遠隔地に赴くこと。≫です。さすが評判の辞書だけあってちょっと心惹かれる意味です。「旅行」はどうでしょう。≪ふだん生活している所からしばらく離れて、遠隔地へ赴くこと〔多く、交通機関を利用するものを指す〕≫と、両者を区別しています。両者とも、日常空間からの離脱と遠隔地での滞在を意味しますが、時間的には旅は「一時的」、旅行は「しばらく」という違いが込められています。もう一つの違いは、とくに旅行は「多く、交通機関を利用する」場合です。

 三つめは、『国語大辞典』(小学館)です。まず旅は、≪①住む土地を離れて、一時、他の離れた土地にいること。また住居から離れた土地に移動すること。②自宅以外の所に臨時でいること。よその土地へ行かない場合でもいう。③祭礼で神輿が本宮から渡御して一時とどまる所。≫と、こう書かれています。そして「旅行」については、≪旅に出ること。よその土地へでかけて行くこと。たび。行旅。≫と記されてあります。私には、旅も旅行も同じ意味としか受け取れません。が、あえて突っ込めば、旅を行為主体から見た意味に解せば、旅行はそれをやや客観化・観察化したニュアンスが感じられます。

 さて、どうしたもんでしょうか。これら三つの辞書では旅と旅行をその出来映えはともかく三者とも区別したいという気持だけは感じることができます。問題はその区別の仕方なのですが、こんな実際的な区別もあります。それは国立歴史民俗博物館での企画展図録『江戸の旅から鉄道旅行へ』(2008)における区別です。───≪本展では、移動が徒歩によるものを旅の時代、鉄道などの交通機関によるものを旅行の時代とし、「旅(旅行)」の様相が歴史的に変化する姿を描き出すことに致しました。≫(「ごあいさつ」)というものです。なるほど、こういう区別もありましたかという感想ですね。この区別は時代によって分けたこと、その違いは移動手段によるものでああることに特色があります。これは一見、『広辞苑』や『新明解国語辞典』と似たような区別だとおもわれますが、そうではありません。

 歴博の『江戸の旅から鉄道旅行へ』では、「旅の時代」が時間的に「旅行の時代」につながる存在として位置づけられていますが、前の三つの辞書では、二つの違いは抽象度のちがいを表していると考えられるからです。簡単にいいますと、旅とは一定期間の住居からの離脱という一般性でくくれますが、旅行とはそこに属性(特殊性)を伴ったものだということです。その属性とは、旅の<交通手段>だったり、<目的>だったりするわけですが、ともに時代によって変わってきますから<時代>もまた属性の一つになります。つまり旅行とは、旅という一般性をふまえた特殊性の表現だとまずは考えておきたいと思います。さて、これで柳田の叙述がうまいこと解釈できるかですが。

 

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立ちあがること 「眺望」の促迫

2013-03-15 20:57:21 | 

 動物としての人間が、人間としての人間に変身する時を「心の目ざめ」と呼び、満一歳にを境に発現する「指差し」そして「呼称音」について学んできました。しつこいようですが、あと一つ「直立」について三木成夫さんから学びます。ここは是非触れなくてはなりません。なぜならばこの本『内臓とこころ』の原本にあたる『内臓のはたらきと子どものこころ』を読んだとき真っ先に感動を味わった箇所だからです。(段落ごとに箇条書きにします)

  •  さて、つぎにいよいよ「直立」の問題に入ります。これは、いまお話しました「指差し」「呼称音」という、この二つの動作とは、まさに切っても切れない間柄のものですが、クラーゲスは、これを「視界拡大」の衝動───人間だけのもつ、この強烈な促進の産物としています。
  •  皆さん、子どもの頃、縁日の人だかりのうしろから覗き込む時の、あの爪先立ちを思い出して下さい。もうふくらはぎの筋肉がフラフラです。それと闘いながら爪先立ちです。これを支えているのは、さきほどから言っている強烈な好奇心───これです。これがどんなに根強いものか、十分お分かりでしょう。小学校の遠足の〝山登り〟も、そうです。一歩登る、それだけグッと視界が開けてくる。その心のときめき・・・・・。だんだん頂上が近くなる。もうクタクタですが、しかし一刻も早く辿り着いて、展望台から、なにのさまたげもなく四方を見晴らそうとする。この促迫───まさにこの「眺望」の促迫が、人類に直立をもたらしたと言うのです。
  •  遠くを見る眼差し、というのがあります。たとえば、あの小高い丘に腹這いになっているライオンや、大空を舞っている鷲。目付きがどことなく人間と似ていないですか。みな遠くに焦点を合わせた眼差しだからです。しかし、そこには根本的な違いがある。動物たちのそれは、たったの獲物と直結しているだけです。まさに〝狙う〟それです。しかし狙うときに姿勢を高くする必要はない。ライオンが後足で立って獲物を狙ったりしますか・・・・(笑声)。これに対して人間のは、あくまでも全体の景色を、それも出来るだけ遠くを・・・・・というものですね。ここでは、とうぜん姿勢を少しでも高くしないといけない・・・・・。
  •  直立を産むのは、ですから、狙う衝動ではなく、あくまでも遠くを眺めようとする衝動です。この「遠(エン)」に対する強烈なあこがれ───これこそ人間だけのものです。宇宙の彼方に、果てしなく旅を続けてゆく、あの世界です。言ってみれば私ども星ひとつ眺めてる時でも、そこでは、じつは何千・何万光年の「時空の遠」を見ている、ということになる・・・・・。(123~124頁)

 私がこの引用によって書いてみたいのはもちろん「眺望」の促迫についてです。その前に我が子の直立の時を振り返ってみます。上の子が直立して二足歩行したのは母子手帳によれば、誕生日の前日です。それまで炬燵につかまり立ちしていた時期を脱して自分の二足だけで直立し歩み始めたのです。ですが、又々バカ親である私は、帰宅してから歩き始めた息子の姿に喜び、「這えば立て、立てば歩めの親心」とはよく言ったものだなあ、などと呑気に眺めていたのですから、その姿に「眺望の促迫」が衝動になって立ち上がったなどと考えることなどできるはずもありません。

 しかし、より興味深いのは息子はつかまり立ちをはじめてから、当時NHK朝ドラの『おしん』が始まるとテーマ曲に合わせてひざをガクンガクン伸縮させていたことです。いまそのことを覚えていないと息子はいいます。まあ当然でしょう。いまから考えますとこの子は幼いからだに内臓された宇宙リズムを『おしん』のメロディに重ねていたのかもしれません。また下の娘の時も「直立」を目撃したのは帰宅してからですが、この子も自分の足で歩き出す前から、女房がバザーで見つけてきた歩行器で、毎日家の中でも外でもガラガラやっていました。だから感動はそれほどでもないのかと思いきや、そうではありませんでした。やはりバカ親ならでの感動はあったのです。娘の歩行器での歩き方を思い出しますと、やはり何か拍子をつけてガラガラ動き廻っていたなと思えるから不思議です。これまた内臓波動を感受していたのかもしれません。なかなか子どもの直立の姿に「視界拡大」の衝動を感受するのは難しそうです。そこで自分の「視界拡大」の衝動体験を振り返ってみます。

 私は十八歳まで盆地で生まれ山に囲まれて育ちました。山に囲まれて日々を生きるということは安心安定を得る一つの条件です。と同時に山の彼方に憧憬する契機を含んでいます。だから、幼いころ描く風景画はたいてい山です。山を描きながら心はその先に馳せています。この感触はずっと後々まで残っていました。また幼い頃からいつも眺めていたのは磐梯山です。この山の西麓にほど近い場所からの眺望です。この山は昔爆発して裏側はポッカリ穴が空いていることを誰からともなく聞いていたので、いつか是非見てみたいものだと思っていました。その願いが叶ったのは小学校も高学年の頃です。裏磐梯の五色沼を見につれて言ってもらったときには、あんまり大きく山肌が欠損しているので、これが穴だとはにわかに認識できなかった憶えがあります。またこんどは磐梯山を裏側から登ってみたら猪苗代湖はどう見えるだろうか、そんなことばかり考えていたものです。

 会津若松市街からは東に背あぶり山が見えます。この山にはスキー場があったので、中学年には数回行っていたので様子は知っていました。その頂上からの眺めはすばらしいものです。西に会津盆地全体が、北に表から見る磐梯山の雄姿、東に猪苗代湖の全体が眺望できるのです。この三点セット、360度の大パノラマは生涯忘れられない風景です。眺めるたびに「指差しの促迫」を感じていました。「あー」とか「うわー」とか声に出した記憶はありませんが、これを絵に描けないものかという促迫は感じていました。

 高学年の頃です。校舎三階の教室の窓からはいつも背あぶり山が見えました。何だか授業中にもぼんやり眺めていた記憶があるのに、先生に叱られた憶えがないのはどうしてだろう、と大人になってからも急に思い出すことがありました。まあ、こんなことはどうでもいいことですが、当時の私が気になっていたことが二つほどありました。一つは現地に行って見える背あぶり山と、学校の校舎から眺めるそれとのギャップのようなものです。このギャップを埋めたくて二つの視線を交錯させながら二つの映像のつじつまを合わせたくてムズムズしていたことです。「いまあのように見える場所は、山に登ったときならばどのへんだろうか」・・・・・こんな調子です。

 もう一つは、背あぶり山の頂上から見た大パノラマの先はどうなっているのだろう、行ってみたいという「眺望」の促迫です。これはその先にある郡山やもっと遠くの東京。東京なら就学前に連れていってもらったことがあります。いつのまにか、かつて見た東京の風景を辿っています。あるいは今度の日曜には背あぶり山に行こう。ロープウエイでいくか、山道を行くか、誰と行こうか、どこまで行ってみようか。──天気のいい日はこんなことの繰り返しでしたが、長ずるにしたがいこんな関心はいつのまにか別の関心事に変わっていきました。やがて高校を卒業し進学する時期ですが、中途半端な気持ちでの受験でした。なぜ故郷を出るのか。人に語れるような動機ではなく、「ごく自然に」といったら不自然でしょうが、いろいろと故郷を出ていく決定的な理由を見つけられないまま離郷することになりました。

 ・・・・・あれから42年。いまは埼玉県川越市に住みながら退職後を生きています。しだいに大きく膨らんでいく・いま自分はなぜ此処にいるのだろうかという疑問は、私に故郷や異郷の問題、さらに離郷や帰郷の問題を考える道に導きました。たとえばなぜ人は離郷するのか。私はある絵本を繰り返し見ながら、なんらかの「欠如」を感じるからだと考えるようになりました。でもいまいち自信はありません。そんな最近のことです。三木さんの記述に出会ったのです。子どもが直立つまり立ちあがるのは、「視界拡大の衝動」に導かれるからだというくだりです。即座にビリッと来ました。「立ちあがり」は旅立ちに通じます。「旅立ち」すなわち離郷です。こう考えると、離郷の動機は「視界拡大の衝動」にあったのではないか、そう直観したのです。もっと考えると、この衝動は言い換えればさらなる「眺望」への促迫です。そしてこの促迫こそ、からだに内蔵された生命記憶のよみがえりへの感受ではないかと思ったのです。

 ですが、その衝動は「指差し」や「呼称音」と切っても切れない間柄にあるという箇所がよく分りません。ずっと大きな眺望を得たいと思うこと、そういう衝動を自覚できる場合の一つが、夜空の星を眺めるという行為ですが、これを丁寧に見ていくと自分なりの解釈ができそうです。いま夜空に見える星の輝きは、何万光年も昔に発した光が届いた視覚映像です。つまり〝いまの此処〟に〝かつての彼方〟がよみがえったということになるのです。これは二重映しという「指差し」や「呼称音」の構造と同一のものであることが確認できます。今回はここまでです。

 

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なぞる つまむ つかむ

2013-03-14 23:48:47 | 

 前回、三木成夫さんの『内臓とこころ』から学んだこと、──私たち人間は目前の「印象像」に記憶の「回想像」を重ねてみること(=二重映し)で、深い・奥行きのある世界を体験することができるということ。これが内臓波動(=からだに内蔵された食と性の宇宙リズム)を感受する方法でした。しかし私たち以外の動物だって内臓波動は存在します。そこには食と性の二大本能として彼らの暮らしに埋め込まれています。彼らは内臓波動を意識(あたま)にまでのぼらせることがないのですね。ならば、私たちはいつ頃どういう契機で「二重写し」のできる動物になるのでしょうか。いわゆる「心の目ざめ」の時期です。

  •  さて、ここで幼児の世界を見てみましょう。いったい、この「心の目ざめ」は、いつ頃からか?私はやはり、あの「舐め回し」の始まる半年頃からぼつぼつその準備に入るのではないか、と見ています。もうお話ししましたね。手が十分でないので、口の方から先に持ってゆく。手で持てても拇指(おやゆび)がきかないのでしっかり握れない。そんな中で舌の動きだけはみごとです。蛇と同じぐらいにすばやい。それでもって、ものの凸凹に沿ってなんども、なんども、微細になぞっている。あの目つきをごらんなさい・・・・。この乳児の心は、しかしまだ、まどろみの状態でしょう。このまどろみの心が、やがて初めて、その目を開くのが、あの誕生を境に忽然と現れる「指差し」のしぐさの中です。これこそ人間の心の目ざめの最初の標識なのではないか・・・・。あの、さきほど述べた、過去の記憶のよみがえりが、そこにはなければならない。(118頁)

 満一歳を境に忽然と現れる「指差し」。これが「心のめざめ」の最初の標識だというのです。我が子のアルバムにはないかどうかさがしてみました。それ以前の舐め回しは何枚かありましたが、「指差し」と分かるものは残念ながら見つかりません。母子手帳をみると、満1歳6か月頃の頁に「絵本をみて動物や物の名前をきくと、それを指さしますか」という質問項目がありますが、そこには上の子も下の子も「はい」に○がついていました。そういえばこの頃から寝る前には毎晩絵本を読んであげました。でも、我が子のアルバムは、・・・・まあ、バカ親だったことの証明ですね。かわいいと思ってシャッターを切ったらしきポーズばかりです。「指差し」が人間になる最初の標識だ、などという問題意識は微塵もなかったのだから仕方ありません。この指差しはいったい何を意味しているのか。三木さんのお子さんについての感動的な記述を見ましょう。

  •  上の子どもが、初めて窓辺で雀を見た時、抱かれたまま、さっそくちっちゃな人差し指を伸ばしました。そしてすぐに部屋の中へ向きなおって、こんどは、いつも見ているガラガラを指差すのです。そこには小鳥の飾りがついている。あれと〝おなじ〟だというのでしょう。この乳児にとって、同じものを発見したということは、まさしく初体験です。そこでは、さきほどの「印象像」と「回想像」の二重映しが現われたことは申すまでもない──おそらく生まれて初めての、一つの感動だったのでしょうね・・・・。そして、こんどは下の子どもの時です。団地の庭にツツジの花を指差すのです。とっさに、その〝指差し〟の指を、少しずつ対象に近づけて、花びらに触れるようにしてやると、そこでは、まず、握るということはしない。なんと、その一差指の先端で輪郭をなぞっているのです。あの舌でやっているのと、まったく同じように・・・。(120頁)

 ここでの「指差し」とは、似たものがここ(そこ、あそこ)にあると認めること・わかるということです。三木さんはこれを簡潔に「同類の指示」と後述しています。「同類の指示」が可能だったのは、目前の「印象像」(雀)に記憶の「回想像」(ガラガラの飾りの小鳥)を重ねることができたからです。この幼児の指差しにはやがて「ワンワン」とか「ニャンニャン」という「呼称音」がともなってきます。これが最初の言葉の姿だといいます。そして

  •  (ドイツの哲学者)クラーゲスは、この呼吸音をともなう指差し動作の中に、じつは、原初の人類の〝思考〟の姿があるのだと言っています。スゴイ眼力ですね。この感じは、しかし現代でも十分にわかります。たとえば私たち、ビルの屋上から真赤な夕焼け雲を見たりした時、思わず「アー」と声を出しながら、指差しの少なくとも促迫は覚えるでしょう。この瞬間、私たちはもう好むと好まざるとに関わらず、原初の姿に立ち還っているのです。圧倒的な大自然を前にした、その時の思考状態ですね・・・・。頭の中はけっして空っぽではない。ふつうは思考と申しますと、すぐに「抽象思考」「概念思考」といった文字が浮びます。女性の皆さん方は、こういった言葉はにが手でしょうが、まず思考というと、これです。クラーゲスは、この世間一般の思考と対照的に、この原初の思考を「指示思考」と命名する。もちろん思考というからには、そこには〝あたま〟の働きがからんでくるのでしょうが、この頃の幼児に、いったいそんなものがあるのか・・・・・・?(122頁)

 クラーゲスは、満一歳を過ぎた幼児の呼称音をともなう指差し行為には、「原初の人類の〝思考〟の姿」があるというのです。これを「指示思考」と呼ぼうというわけです。私は、たとえば真赤な夕焼け雲を見た時の、「アー」と声を出しながら指差しの促迫(そくはく)を実感することができます。「促迫」とは読んで字の如し、「うながしせまる」という意味です。実際に指差しはやらなくても内面ではそのような気分になります。こういう体験を含めて果たして「思考」と呼べるのかという問題提起をしているわけです。

 どうでしょうか。三木さんは、写真のキャプションで下のお子さんは、ツツジの輪郭をなぞっているうちに、その蕾を人差指と親指で〝つまむ〟ことをしたそうです。決して〝つかむ〟ことはしなかったと記しています。そしてここに、この「指差し」の独特の段階があるのではないかと述べています。「つかむ」とは概念的思考・抽象的思考つまりあたまを使って対象を把握することです。もっと言えば、概念は抽象の産物です。抽象とはその具体的な属性(感覚)を捨ててほかの対象との共通性を抽出することです。つまり多様な感覚をもつ対象群から共通項をぬきだして一般的に自分ものにすることです。いいかえれば、感覚を経てあたまで考える世界です。

 他方「なぞる」とは、指差しの段階を含んでいますから、これによって対象を固定し、なぞるという感覚刺激の引き金によって得られた「印象像」を過去の記憶による「回想像」で裏打ちすることです。あくまで対象のありかたはそのままにして内臓波動を奥深く感じる世界です。どちらも、体壁系の感覚・運動器官を手がかりにして成立するのですから、一方を「概念的・抽象的思考」と呼ぶなら、他方を「指示思考」とよんでも差支えないと私は考えます。それよりも興味深いのは、<なぞる──つまむ──つかむ>と並べてみると、<内臓(こころ)感受性──つまむ ──大脳(あたま)思考性>と置き換えられることです。つまり、「つまむ」は、「内臓(こころ)感受性」と「大脳(あたま)思考性」の中間段階にあるということです。このありかたをじっくり感じかつ考えたい所です。

 

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心のめざめ よみがえる生命記憶

2013-03-13 23:11:42 | 

 前回で心とは何かを言い当てるのに、三木成夫さんの説明を引用しましたが、訂正が必要です。正しくは心と呼ばれる現象の生物学的根拠のことです。心そのものは「からだに内蔵された食と性の宇宙リズム」すなわち「内臓波動」をアタマで受けとめた「感じ」とでも言うしかありません。その「感じ」=心的現象の世界は生物学的根拠とは相対的に独立したものと考えられますから、それはまた独自の領域をもつ問題になります。ここでは心を生物学的根拠との関連で考えています。

 「アタマばっかり主義」で生きてきた(つもり)の私にとって今必要なのは、内臓波動に目覚めることだと思っています。ではどうすればいいのでしょうか。これを三木さんの『内臓とこころ』(2013 河出文庫)から学び取ってみたいと思います。まず「内臓波動」が私たちのからだに記憶されているという、その根拠です。三木さんは次のように語りかけます。

  •  わが国には、昔から千々の春そして千々の秋、という言葉があります。私どもの細胞原形質は、言うなれば、生命誕生の、あの三十億年の昔から、なんと〝三十億回!〟にわたって春秋を経験してきた・・・。なんだか急にとてつもない話になってしまいました。一寸聞くと、大風呂敷か大法螺のようですが、しかし理論としてはこれ以外に考えようがない・・・。(114頁)

 春秋の、つまり食と性の宇宙リズムを「三十億回」繰り返したからだ、と来ましたか。・・・・幼い頃に繰り返し練習したことは生涯忘れません、三つ子の魂とも言いますから、納得です。また睡眠と覚醒の繰り返し、空腹と満腹のリズム、呼吸(ガス交換)のリズム、女性の定期的な排卵のリズムなど・・・だれに教わったわけでもないのに身に付いています。これらの根拠は?と問えば、とてつもない回数を繰り返してからだに記憶されたんだぞと言われれば、因と果を無理矢理くっつけられたような気がしますが・・・。それはそれとして、私たち人間はいかにして内臓波動を意識できるのか。次の話を聞きましょう。

  •  うるしの技法で、塗っては乾かし、塗っては乾かし、何回も何回も積み重ねてゆく方法があります。宇宙リズムの生命記憶も、このような構造をもっているはずです。つまり、この「三十億回」にわたって塗り固められた内臓波動の生命記憶が、なんらかの〝引き金〟で、意識の表面にその顔を覗かせる、というしくみなのですね・・・・。(114~115頁)

 「感覚刺激の引き金」が必要なのです。これを私たちは「けはい」と呼んできました。ならば、「けはい」を感じるときの仕組みが知りたいものです。

  •  このように見てきますと、どうやら私たち人間の心の現われかたには、なにかひとつのルートがあるように思われてきますね・・・。それでは、ある一つのものが目に入った時、同時に、それに関わった過去の、ありとあらゆる記憶が再燃して、その視覚像を十重二十重に包み込む・・・ということではないかと思う。〝心に浮ぶ〟と申します。一羽の雲雀に春の想い、ここでいえば春に関わる千々の想いが浮ぶ。一匹の赤トンボに、同じように千々の秋の想いが浮ぶ。あの入道雲を見ますと、はじめは、誰でも入道さまの横顔を連想するでしょう。しかし、それだけではけっしてない。夏の生命記憶がむくむくとよみがえり、私たちの意識を強烈に彩る。そして心から夏が来た!と叫ぶわけです。あの胸の奥そして肚の底から湧き上る叫びです。ここでいう、まさに「内臓感受」の世界です。はらわたの世界です。(115~116頁)

 何かを見たら、──ここが感覚刺激の引き金です。それに関わった過去の記憶をいろいろ思い浮かべてみること。たとえば、この形が何かに似ていないか想いをめぐらせてみること。これは「見なす」とか、「見立て」に関係してきそう。もっといえば、何か音(音楽)を聞いたら、それに関わった過去の記憶をいろいろ思い浮かべてみること。ここでは「ききなし」が関係していそう。自然音が奏でるリズムをとらえることに結びつくかもしれない。また何か手で触れられるものがあれば、何回もそれをなぞってみる。なぞりながら過去に似た経験がないか思い浮かべてみる。どんな記憶がよみがえるだろうか。ヘンな臭いがする。かつて似たような臭いを嗅いだことがないか思い出してみる。幽かになにか思い出さないだろうか。初めての食べものがある。過去に似たような味覚がなかったか思い出してみる。

 すなわち、内臓波動の生命記憶を喚び起こすには、まず過去の経験から探し出された各種の表象を思い浮かべ重ねることが必要だったのです。少なくともこの「心に浮かべる」ことが、生命記憶を探し当てる出発点でしょう。この時、心に思い浮かべる表象には感覚ー運動器官による「体壁記憶」も当然含まれます。三木さんはこの思い浮かべる仕組みを「印象像」と「回想像」という用語を使って、

  • 私どもは、これを目前の「印象像」に、記憶の「回想像」が裏打ちすると申しています。二重写しができるのです。いってみれば〝いまの此処〟に〝かつての彼方〟がよみがえる・・・・。どんなものにも、そこには奥行きというものが認められるのでしょう。(117頁)

と、述べています。印象像に回想像を幾重にも重ねるという方法、両者の二重写しの論理がポイントかと思います。最後に、内臓波動の生命記憶に関してどうしても引用しておきたい箇所があります。

  • 私たち人間は、しかも人間だけが、この自然の森羅万象に対して、ある時は、限りない畏れと、またある時は限りない親しみ、そして懐かしさを覚える・・・・。これらはすべて、こうした過去の記憶の再燃によるものです。そしてこれは逆に、新鮮なものに対する衝撃的な関心を呼びさますのです。たとえ〝こわいもの見たさ〟であってもいい・・・・。いわゆるこれが「好奇心」というものです。(117~118頁)

 ここには、私にとってとても重要なことが述べられている気がします。「過去の記憶の再燃」にかかわること。でも、それを語る言葉が思い浮かびません。・・・いずれ、です。

 

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