尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

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富良野メロンと鼻唄

2016-07-09 05:31:56 | 旅行

 
 北海道への旅の話を初日に戻しましょう。6月28日は、帯広空港から旭川までは車で結構かかります。途中いくつかの観光スポットを見ながら北上する行程です。最初は帯広の「真鍋農園」です。綿毛がまるで雪のように急いで降ってきます。庭園で仕事をしていたおじさんに何の綿毛か訊いてみました、ドロの木の綿毛だと教えて貰いましたが、その大元の樹木が見つからない。下から見上げると、たしかに真夏の雪降りです。このあと、「ビート資料館」を訪ねますが、これは別の機会に紹介します。


 途中、昼食のあと、富良野のラベンダー農園を目指します。いよいよドラマ「北の国から」で有名な富良野です。メンバーはみな初めてではなく、何度か来ている人もいるようでした。思うに、あれほど見せ場の多いドラマを知りません。このドラマについて話題になったとき、必ず一つや二つは「名場面」というのを覚えているようです。ちょうど車が根室本線の「山部駅」前を通過したとき、OYさんが注意を促してくれたので、みな、「あの場面」を思い出したようでした。富良野に来てもまだまだ東京に未練たっぷりだった純くん(吉岡秀隆)、いよいよ東京に帰るためにユキコおばさん(竹下景子)と山部駅に佇んでいます。これから東京に戻ろうとする純君は、送ってきてくれた親戚のおじさん(大滝秀治)にこう念押しされます。──「いいか、お前は富良野を単に出てくのではない、逃げて行くんだぞ」。なかなか厳しい一言です。それだけに、私のような出郷者にはずっと応えてきました。これまで繰り返しこの場面を反芻してきたといっていいかもしれません。私の場合、上京して四十年以上になります。故郷で暮らした日々の二倍以上になります。


 こちらで家族を持ち、子供たちはとっくに巣立っていきました。父は田舎で早く逝き、母親も今は病院暮らしですが、まだ若い時分に上京して一緒に暮らしてきました。親が身近にいる分、アッサリしていられるのかもしれませんが、今ふりかえって「なぜ故郷を出たのか」と自問しますと、「不都合」があったからだというしかありません。不都合は誰の人生にも、いつ如何なるときにやってくるかわかりません。故郷を出ることなく不都合を解決できる人もいれば、そうでない人もいます。もちろん、出たくないのに無理やり出ざるをえない「原発難民」などと言われる人たちもたくさんいます。であっても人類は七百万年以来、生まれ故郷を出て移動(遊動)しながら暮しを立ててきました。「定住革命」の時代に入ったのはたった一万年前にすぎません。その経験はおよそ人類史の七百分の一の時間に過ぎないのです。こう考えれば、まだまだ人類は定住革命を成就するに至っていません。革命は成就するかどうかもわかりません。つまり人類は移動(遊動)することが本然の姿なのです。とすれば、たとえ定住していても定住志向を持たず、それは遊動のための根拠地ぐらいに考えておいて、「どこででも生きられる思想」をもつことを目指した方がストレスがなくて済むのではないでしょうか。つまり定住することから生まれるストレスです。なに、帰りたくなれば帰ればいいのです。行ったり来たり、これが遊動生活でなくてなんでありましょうか。


 どんでもない話になってしまいました。富良野の話に戻りましょう。富良野のラベンダーは、どこを見てもまだ咲き始めたばかりだったのです。とうとう、美瑛のちょうど峠の茶屋的なお店で、ソフトクリームをいただいているうちに、向かいのレストランの花壇にたくさん咲いているラベンダー色のルピナスを、ラベンダーと見誤る始末。ソフトクリーム屋さんが笑い気の毒がって、店の裏にあるビニールハウスのラベンダーを見せてくれました。ラベンダーはなんと言っても香り。まだムンムンするほどには匂ってきません。ビニールハウスでも早かったのかもしれません。


 そんなこんなで、ラベンダーは諦め、急きょ富良野のメロン農家をたずねることにしました。ここは、OYさんの友人が営む「工藤農園」です。なんでも、娘さんが美味しい洋菓子店を出しているらしいことがわかり、女性軍がにわかに活気づきました。ところが、運の悪いことに定休日。でも、農園の方は休日返上でした。ビニールハウスから、日焼けした工藤さんが現われ、納屋に案内してもらいました。入るとすぐに目についたのは、メロンではなく、かつての馬ぞりに使った鞍などのセットが複数組み。思わず重厚な力を発揮した道産子のデカイ顔を思い浮かべました。視線を下ろすと、高床にはメロンがいくつも転がっており、さっそく試食させていただきました。最初のひとくち、甘いジュースに満たされる中、鼻の方に懐かしい香が抜けて行きました。それは幼かった私の大好物であった甘瓜をほうふつさせるものでした。たっぷりの果汁と幽かな懐かしい香、もうこれで十分だと思いましたが、この体験を親しい人たちにもと思い写真のような自宅向けのセットを送ってもらうことにしました。今年は寒い日が多く、僅かですが規格に届かない大きさメロンが多く出てしまったとのこと。それらを贈答用ではなく自宅用として商品化したのだそうです。もちろんお買い得の廉価です。


 富良野メロンが自宅に届き、食べ頃になりました。試食の味覚に間違いがなかったことを喜びましたが、ふとこれは「鼻唄」に似ているなと思いました。食べ頃がくるまでわずか三日間でしたが、私は試食の気分を何回もアタマとハラで反芻しました。繰り返すうちに、なんというか、いいモノに出会ったときの情緒みたいなものがにわかに宿ってくるように感じたのです。この体験が現実になくなっても感動は記憶されます。これを場所を変えて再び味わうこと、ここが鼻唄に似ているのです。私は柳田國男の「鼻唄考」を読んで、鼻唄とは歌(言語芸術)の発生の「かたち」であること、かつての感動体験と歌の間に発生してくる架橋(カケハシ)のようなものだと考えます。そうすると、故郷を思うことも、懐かしいメロンを食べることもまた鼻唄のようなものだと思いました。鼻唄は、幸福な気分を再現してくれる便利なツールなのです。

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農業高校の今昔

2016-07-08 06:00:00 | 旅行

史跡 旭川農業高等学校旧校舎跡


学校の沿革と小史
大正12・3・10? 文部省告示によって「北海道庁立永山農業学校」設立許可 寺尾熊三初代校長に任命される
大正12・12・5  新設校舎落成式
大正15・3・13  第一回卒業式を行う(農科二十二名、林科二十一名)
昭和16・4・1   学徒隊「永農至誠奉公隊」結成される
昭和16・12・8  太平洋戦争始まる 第十七回~第十九回三期にわたって繰り上げ卒業実施される。
昭和17・4・1   農科定員増(二学級に)
昭和18・4.・1   林科定員増(二学級に)
昭和20・4・1   女子部(農業科)設置される
昭和20・8・15  大東亜戦争・太平洋戦争終戦
昭和22・11・1  「北海道立永山農業学校」と改称
昭和23・4・1   新制高校「北海道立永山農業高等学校」と改称
昭和23・10・30 定時制課程農業科設置許可
昭和25・4・1   男女共学制実施に伴い、女子部廃止される
昭和26・4・1   林業科一学級減 園芸科新設
(中略 写真の撮り忘れ。すみません)
昭和46・4・1   永山町 旭川市と合併により「北海道旭川農業高等学校」と改称
昭和47・4・1   生活科一学級新設
昭和48・9・8   創立五十周年記念式・祝賀会を行なう(協賛会々長 高橋岩男)
昭和50・3・10  定時制(農業科)閉課式
昭和50・8・30  校舎改築期成会設立総会(会長 西野 実)
昭和62・6・22  新校舎第一期工事着工される(建設地 旭川市永山町十四丁目)
平成2・3・16~17 新校舎へ移転開始 旧校舎とのお別れ会
平成2・4・1    「生活科」の学科名を「生活科学科」に変更
平成2・9・23   新校舎落成記念式典・祝賀会(協賛会々長 高橋二郎)
平成5・10・2   創立七十周年記念式典・祝賀会(協賛会々長 平井 操)
平成5・10     旭川農業高等学校同窓会による教育振興基金設置
平成10・10    第四十九回日本学校農業クラブ全国大会が本校で開催される
平成12・2     学校農業クラブ北海道連盟五十周年・OB会二十周年実施
平成14・4     食品科学科新設 農業科学科・森林科学科に学科名変更
平成15・9・6   創立八十周年記念式典・祝賀会(協賛会々長 平井 操)
平成16・3     園芸科閉課式典実施


 昭和二十六~四十六年三月までの沿革を撮り忘れたのは大失態だったが、最初期と最近期の農業界の時代的傾向がいくつかわかります。
・ 「昭和17・4・1農科定員増(二学級に)」と「昭和18・4.・1林科定員増(二学級に)」は、総力戦体制が現われている。戦争は兵士だけの戦いではなく「産業兵士」の戦いでもあった。にも関わらず、農業がそのもっとも根柢的に重要なことが軍部は認知していたのだろうか。戦争に負けたのは「輜重(シチョウ)」部門の軽視にあったという指摘もある。

・たびたびの学科名の変更は、やはり時代で重視される要素が学科名に反映していると言える。そう考えると、「園芸科の閉課」は納得がいかない。今や、十勝から旭川まではガーデン街道と名打って、あちこちに何々ガーデン(庭園、ファーム)といった観光施設が目白押しだ。ドラマ「風のガーデン」で若い女性が働く姿の影響だろうか。どこのガーデンでも、働いているのは若い女性たちだ。彼女たちは若い時に園芸科をめざしているのではないか。女子の農業高校志望が増えているという話を聴くこともある。

・現在の旭川農業高校の周囲をぐるりと一周した。もちろん車で。ものすごく広い。こんなところで男女共学の世界は楽しかろう。現代農業の後継者を探すより、地元でカップルが生まれれば、これに越した妙策はないともいえるか? たとえ二人で札幌や東京に出ていっても、いずれ帰郷してくれればいい、そんなふうに悠長な時代ではないと思うが、現代の農業高校は女子生徒数の増えるのを願っているのではないか。

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美田の底に鎮る魂

2016-07-07 06:00:00 | 旅行

阿部みどり女句碑

《 永山の屯田公園に立つ「屯田歩兵第三大隊本部跡碑」の背面に刻まれた句「郭公(カッコウ)や 美田の底に鎮る魂」は、阿部みどり女の作です。みどり女は明治19年、屯田兵本日本部長などを歴任し永山地名に名を残す永山武四郎の四女として札幌に生まれました。本名は光子。高浜虚子に師事し、昭和55年に没するまで句作に打ち込みました。句集に「定本阿部みどり女句集」などがあり、昭和53年には蛇笏(ダコツ)賞を受賞。上川神社には父武四郎の歌碑が立っています。》

 おそらく、日清日露戦争に赴いた屯田兵の銃後を支えた北海道の女性の魂が、阿部みどりの句に込められているにちがいない。「美田の底に鎮る魂」の「鎮る」の読み方を、「しずめ・る」なのか、「しずま・る」なのか決定できない私にはこのような解読は敷居が高い。だが、確かめてみたい欲求は小さくはない。この魂は現代において伝承されているかどうか。つい最近立てられたらしい「永山屯田音頭」を紹介してみたい。同じ敷地に立てられていたものです。旧永山戸長役場の建物を出て、中庭の西側にみつけました。

永山屯田音頭

《永山屯田まつり30周年記念
永山屯田音頭
作詞・作曲/溝口洪 歌/鈴木峰子 舞踊振付/掘田宗良

海をへだてて 北国の
大雪山の 峰仰ぐ
この地にきづく 開拓の
道を拓いた 屯田兵 ソレ
みんな揃って 輪になって
語り明かそう 夜明けまで


清き流れは 石狩の
川面に浮かぶ ちぎれ雲
愛するまちよ 永山は
黄金色づき心がはずむ ソレ
みんな揃って 輪になって
歌い明かそう 夜明けまで


夜のとばりが おりる頃
屯田まちに 星が降る
開拓 魂 永遠に燃え
希望果てない大きな夢をソレ
みんな揃って 輪になって
踊り明かそう 夜明けまで

建立 平成二十八年七月
寄贈 永山公民館リズムサークル 》

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屯田兵の文学 板東三百(ミツオ)

2016-07-06 06:00:00 | 旅行

 「旧永山戸長役場」のパネル展示紹介の続きです。世に屯田兵村の文学があったということさえ、思いも及ばなかった不明を恥じたいが、それよりも旭川で邂逅したことへの期待が大きい。どんな話だろうか、ぜひ読んでみたい。
 
板東三百(ミツオ)と永山

《 永山のみならず北海道開拓の歴史は屯田兵ぬきに語ることはできませんが、この屯田兵の生きざまを永山兵村を舞台に描き続けた作家に板東三百(ミツオ)がいます。三百は屯田兵の息子として永山兵村に生まれ、終生兵村にこだわり続けました。「私は、兵村の歴史や現実をとほして、人間の生死や姿や、人生の究極するところを探求し、そこから私たちの生きる道を求めたいと念願したのである」。短編集『兵村』に収められた三百の言葉です。》

 

 

 屯田兵とその村を舞台に、屯田兵の生きざまを描いた文学だという。屯田兵の話はそんなに古い話ではないということは、前回初めて知ったばかりだが、軍事と開拓(農業)をどのように両立していったのだろうか。また、これは日本の近代軍隊にどのような影響を与えたのだろうか。私はこれまで屯田兵について参考文献を調べてみようという気さえ起きなかった。

作家の生い立ち
《 板東三百は、屯田兵赤坂幸太の八男として明治39年9月1日、永山村150番地(元永山2条8丁目)に生まれ、のち叔父板東平吉の養子となりました。旭川中学、山形高校を経て東北帝大をを卒業、教員生活を送りながら作家の宇野浩二に私淑し、昭和14年「兵村」が芥川賞候補になって脚光をあびました。また、昭和19年に発表した「兵屋記」が歴史文学賞候補となり、新人作家としての地歩を固めましたが、昭和21年東京で没しました。》

 

 

 板東三百は進学によって生まれ育った故郷を背にしたひとりです。その意味では都会で故郷を思う人間のひとりであって、これは日本人の代表といっていい。日本人の多くは出郷者だからです。都会に生まれ育った者は含まれないのではないか、と訝しむ方もおられるだろう。だが、その前の世代その前の前の世代は、たいてい出郷者なのではないだろうか。


屯田兵を描く
《 三百が兵村を文学上のテーマとしたのは、両親の足跡をたどりながら自らの存在について深く探求するという創作上の理由によるものでしたが、そこにはむろん兵村自体への深い愛着がありました。「私達の村は、いつも清新な歴史の香りをもつてゐると言はうか、あの清冽な水と青草の村道に立てば、いまも、村の先駆者たちの兵農両全の姿が髣髴とし、かつての上官たちの馬蹄の響きと叱咤号令が、絶えず、私たちの耳朶を打つが如くである」。》

 

 

 板東三百による屯田兵の文学が、一般の出郷者の文学と異なっている点は、おそらく自らを開拓者と自覚しているかどうかではなかろうか。開拓者に軍事が伴うことは、西部劇でお馴染みです。開拓者とは自らを守ろうとする者であり、新しい土地を切り拓く者の謂いです。ならば、一万年ほど前から始まった「定住革命」(西田定規『人類史のなかの定住革命』)を担った遊動民は、屯田兵とスピリットを同じくするのではないか。列島のムラやマチ、どこをとっても起原においては、開拓者でありかつ家族を含めた共同体を守る戦士である「屯田兵」の勇気が奮われたはずです。

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開拓と軍事 永山地区の歩み

2016-07-05 06:00:35 | 旅行

 


さっそく「旧永山戸長や役場」建物に入ってみましょう鍵はかかっておらず、スリッパも取りそろえてあります。玄関から最初に足を踏み入れるのは、薪ストーブのある板の間です。ここに永山村地区の歩みをはじめ、永山に関わりのある著名人、あるいはかつての永山村の様子などが、写真付きの説明パネルが掲示されています。順に紹介してゆきましょう。《 》内がパネルの説明。

 

永山地区の歩み

《 永山地区の開拓の歴史は、明治23年、未開の原野に400戸の屯田兵屋が建設されたことに始まります。同年には永山村が置かれ、翌年には永山私立東・西小学校が開校、25年には郵便局が開局して急速に市街地が整備されていきました。その後、昭和29年には町制が施行、36年には旭川市に編入合併し、現在に至っています。なお「永山」の地名は屯田兵本部長永山武四郎の名をとったものです。(写真は永山神社境内にある永山武四郎像)》

 


 「屯田兵」といって私がイメージする時代は、明治初期。また寒さに強いと言われた「旭川師団」の兵隊さんは日清戦争から活躍したのではないかと思い込んでいました。明治23年入植では、明治27年に始まる日清戦争に参戦したのかどうか。開拓しながらの軍事教練では、たった4年間で実践で戦える戦力になったのかどうか、ちょっと考えさせられます。参戦したとしても、開拓は戦争中も進められたはず。残された年寄りや女性や子供たちの肩にかかっていたのかもしれません。

 

屯田兵の入植

《 樺戸・空知両監獄署囚徒を使役して建設した兵屋には、翌明治24年に屯田兵400戸が入植しました。永山兵村には東旭川・当麻・永山で構成する屯田兵第三大隊のうち、第一、第二中隊が置かれ、大隊本部も設置されました。屯田兵は、兵務の一方、支給された15千坪の未開の開墾に明け暮れました。永山地区の開拓の歴史は、これら屯田兵の血のにじむ努力ぬきに語ることはできません。(写真は永山屯田公園内の「屯田歩兵第三大隊本部跡の碑」)》

 


 屯田兵も大変だったけれど、兵舎だけでなく要所と要所を繋ぐ道路建設では、たくさんの囚人が動員された話を、国道39号を走る車の中で運転するOYさんから聴きました。後にこの国道を拡張する工事では、路肩からたくさんの人骨が見つかったと言います。動員された囚人たちの犠牲なくしては語れない歴史です。

 

本田親美(チカヨシ)と戸長役場

《 明治24年永山村に置かれた永山・神居・旭川3村の初代戸長本田親美は、弘化4年鹿児島に生まれ、北海道屯田兵司令部付から戸長に任ぜられました。親美は、のちに旭川村の初代戸長を経て、明治35年に一級町村制の施行にともない実施された町長選挙により、初代の旭川町長に選出されました。親美は鉄道施設など旭川の発展に尽くし、その遺徳をたたえて常葉公園には彼の顕彰碑が建立されています。(写真は旭川市立中央図書館蔵の初代戸長の本田親美)》

 


 山県有朋が中心になって作られた明治の地方行政組織。町村制は長期間を通じて幾たびか改革されたことを覚えています。この点、学制改革と似ています。西洋文化を自分化・土着化するには時間がかかるのがあたりまえなんですね。

 

発展する市街

《 北限での稲作は、明治20年代の試行錯誤期を経て30年代には現在の市内各地で活発に行われるようになりました。永山地区では、最初神居村に置かれた農事試験場が旭川村を経て明治37年永山村に移ったこともあり、水稲を中心に農業が大きな発展を遂げました。屯田兵村の周辺には本州各地からの団体移民、大農場等の開墾地が展開し、永山地区は一大農業地区として発展、現在の市街地の基礎をつくりあげました。(写真は明治38年島田晴夫氏蔵の「にぎわう永山村のお祭り」)》

 

 

 

 熱帯起原の水稲を寒冷地で育てるには、永い年月を要したことはよく知られています。品種改良は必須だったことでしょう。開拓地には、まず「農事試験場」が必要なことは見えやすい道理です。そしてその成果を教えていく農学校が、次代の後継者作りであったこともまた道理です。

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「旧永山戸長役場」

2016-07-04 15:15:13 | 旅行



 旅の最後の日(6月30日)の朝、ドラマ「風のガーデン」のモデルになったという上野ファームを訪ねる前に「旧永山戸長役場」の復元された建物を見に寄りました。この建物はかつて旭川農業高校がかつてあったところです。現在は、市役所支所や永山図書館などを含む複合施設が建っています。この一角にあります。さっそく表示板(写真のようにジュラルミン製の立派なもの)を読んでみましょう。


 この建物は、明治26年(1893)8月、永山村番外地の一角(現在の旭川市永山2条19丁目)に、石狩国上川郡永山村戸長役場の庁舎として、永山村が建築したものである。
 戸長役場とは、明治初期に町村の行政事務を執行する機関として、全国的に設置されたものである。明治22年(1889)、市制並びに町村制が施行され、以後、本土では戸長役場は町村役場と改称されていくが、しかしその市制・町村制の施行から除外されていた北海道では、戸長役場はそのまま継続される。明治30年(1897)に公布された、北海道独自の区政ならび一・二級町村制の施行以降、その指定を受けた町村の戸長役場は、順次町村役場と改称するが、大正12年(1923)の戸長役場全廃まで、なお一部存続していた。
 明治23年(1890)9月に設置された神居・旭川・永山の3村は、初め石狩国樺戸郡月形村戸長役場の所轄下置かれたが、翌24年7月、永山村に3村を包括する戸長役場が新設されることになり、屯田歩兵第三大隊本部官舎(現在の永山神社付近)を仮庁舎として開庁した。明治26年6月、旭川村にも戸長役場設けられたのに伴い、永山村戸長役場は、永山村と旭川兵村が所在する旭川村字ウシシュベツの地域を所轄することとなった。そのときに永山村戸長役場の庁舎として建築されたのが、この建物である。
 明治39年(1906)4月に永山村は二級町村制施行の指定を受け、戸長役場は村役場と改称された。しかしなお引き続きこの建物は大正10年(1921)11月に村役場が移転するまで、ほぼ30年間、永山村戸長役場・村役場の庁舎として使用されたのである。
その後、建物は民間に払い下げられ、現在の旭川市東6条4丁目に移設されて、幾多の増改築をみながら、平成4年(1992)まで民家として利用されてきた。
 この建物は北海道における明治初期の役場庁舎建造物としてきわめて珍しく、貴重な遺構である。ここに旭川市は、平成6年(1994)、解体材を利用し、戸長役場役場当初の姿を推定して復元した。 旭川市教育委員会


 この永山戸長役場はまずどこ建っていたのでしょうか。「現在の旭川市永山2条19丁目」と書いてありますので、現在の地図で確かめてみると、現在の「旧永山戸長役場」のある場所は、永山3条19丁目ですので、大雪国道を挟んで反対側の区画ということになります。案外ここから近くにあったということになります。民家時代は現在の旭川市東6条4丁目に移築されていたといいますから、これも地図で確かめてみると、「旧永山戸長役場」から真西に向かって日本製紙旭川工場の宗谷本線もしくは国道39号を挟んだ反対側あたりになります。民家時代はともかく、このような歴史的建造物が本来あった場所から離れるほど無意味なことはありません。「旧永山戸長役場」という歴史的名称は<場の表現>を含んで初めてそう言えるわけです。

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「旭川」の前はなんと呼んでいたか

2016-07-02 14:18:49 | 旅行

 北海道の「旭川」という地名由来について、興味深いサイトがあります。郷土史愛好家のMomonga氏による「何もない街」http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/main.htmです。旭川に関するさまざまな謎を解いているサイトと言ってもいいかもしれません。今回はそのうちの「旭川の名の謎」を読んでみました。いやあ、ドキドキしながら読みました。

 まず、私が旭川空港で見たアイヌ語由来の「旭川」の解読は、単に現在の旭川市内に東南方向から流れてきて、やがて東から流れてくる石狩川と合流する忠別川のアイヌ語由来であって、旭川のアイヌ語由来とは別物だという指摘です。前回紹介した旭川空港の「アイヌ語地名表示板」にも、

 

「旭川」と言う自治体は、市内を流れる忠別川をアイヌが「チュクぺッ」と呼んでいると和人が聞き取り、それを「チュプペッcup-pet:太陽・川→日が昇る川」と解釈して、明治23年(1890年)に命名されたものである。

 

とあるように、「日」がなぜ「旭」に変わったのかの説明がありません。さらにアイヌ語の解釈の一つである「チュプペッcup-pet:太陽・川→日が昇る川」も事実と異なっているというのです。なぜならば、日の出があるのは忠別川が流れてくる東南方向ではなく、東方向の大雪山連峰からです。とすれば、「チュプペッ:日の川」は「日の出」の川と解釈すべきではなく、「日の光をいっぱい浴びるとか、日の光を川面に照り返すとか」と受けとめればよい、と述べています。これで、旭川を忠別川と同一視する議論はペケです。そこで、旭川と名がついた場所をかつてはいったい何と呼んでいたかという疑問がやってきます。コンテンツ「無視され続ける重要な疑問」からかいつまんで引用します。

 

 旭川の名が出現する以前、この地は石狩国上川郡字忠別太と呼ばれていました。/(3県時代の約4年間は札幌県)/まだアイヌ語地名のカタカナ表記が多い中「忠別」には既に漢字表記が広く使われていたのです。「太」はアイヌ語の「プト」のことで川口を意味します。/つまり忠別太と言えば忠別川と石狩川との合流付近の地域を指します。/(中略)/「忠別」の漢字表記が使われるようになったのは明治7年に高畑利宜が描いた「上川地図」が最初で、/以降、明治23年に旭川の名が登場するまでこの地はずっと忠別(太)という漢字名だったのです。/ここで重要なのは既に漢字による地名表記が定着していたという事実で、/そのアイヌ語源が本当は何であったかはこの際さほど重要ではありません。/他地域の事例から見ても本来であれば当然この忠別がそのまま村名に使われたはずです。/何故使われなかったのでしょう?/(中略)/

実は3村(プラス2村)の中で名前の由来に疑いようのないのは永山村だけです。/これはその名の通りこの地に深く関わった永山武四郎の名に由来します。/そしてこの永山武四郎こそが、タイミング的にも、この地への関与度合、立場的にも、旭川の名付け親として最も「怪しい」人物です。


 「忠別(太)」に込められた意味こそ、この謎を解く鍵です。「忠別」を和語で解釈すれば、忠と離れること、言ってみれば「忠に非ざること」です。近代国家建設に当たって、「忠別」はいかにもまずいと考える人たちがいました。コンテンツ「永山武四郎と旭日旗説」からMomonga氏の結論を紹介しましょう。

 

永山武四郎が名付け親として最も「怪しい」理由とは・・・/彼が当時北海道庁長官であると同時に屯田司令官(陸軍少将)という地位にあった事。/さらに上川の開発と大兵団設置・上川離宮計画を強く推進していた人物であった事です。/これらを考え合わせると先の疑問全てにぴったり辻褄の合う説明ができます。/つまり/軍人は忠節を信条とする事からまず「忠別」という字句を嫌った。/まして離宮の麓の兵団に「忠別」などあってはならない。/その上で元々忠別の語源とされる「チュプ・ペッ」の意について、/日本軍旗である「旭日」に通じるとして「旭日の川、旭川」とした。(以下略)

 

 こんな事情はつゆ知らず、私たちは最後の日に「旧永山戸長役場」の史跡を訪ねました。そこで「永山武四郎」と出会うことになります。

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「旭川」という地名

2016-07-01 11:47:46 | 旅行

 今週の28(火)から三日間、昔の同僚グループ五人で北海道旭川に行って、昨日帰って来ました。いつもなら行って帰って無事おしまい、そんなふうな旅が多かった気がします。ですが、今回は「真夏の北海道」、昼間は暑い日が続き、とうとう三日目の旭山動物園を歩いている最中に具合が悪くなってしまい、日陰で横になって赤く日焼けした首を冷やしました。こんなことは初めてで、ふと「自分」や「旅」についてふりかえる機会を得ました。

 初日は羽田から帯広空港に飛んで、十勝平野を南北に走り旭川まで行き、二日三日と旭川を拠点に幾つかの庭園(ファーム)見学を中心に、その隙間にポツンポツンとあまり話題にならないような小さな観光地を見てきました。案内してくれたのは北海道出身の元同僚OYさん。これまでグループの小さな旅も、彼のワゴン車と案内なしには成り立たないものばかりです。今年で何回目になるのか思い出せないほどです。当ブログのタイトルには「本ときどき小さな旅」と名付けておきながら、「本」ばっかりに走ってきた気がしますので、ここらで、旅の話を数回書いてみようかと思います。

 私には二度目の旭川。二日目に滝上(たきのうえ)町にある「陽殖園」に向う車中で、大雪山(タイセツザン)連峰の残雪を眺めながら、ふと、なぜ「旭川」という地名が生まれたのだろうという疑問が湧いてきました。残雪が農事暦に利用されてきたことはよく知られているように思います。たとえば長野県の白馬(シロウマ)岳の残雪の形が「白い馬」に見えることから、麓で暮らす人々に水田のシロカキ(代掻き)の時期を知らせる「自然暦」であったことです。これに似た民間伝承は全国のあちこちに残されています。私が、大雪山(旭岳)の谷筋に残る幾本かの残雪の形を眺めながらすぐに連想したのは、かつての旭日旗のイメージでした。これが「旭川」の地名由来になっているのではないか、こう思ったのです。三日目(昨日)、旭川空港で帰りの便を待っているとき、到着ロビーのあるビルの外に、旭川市教育委員会によるアイヌ語地名表示板・「「旭川(あさひかわ)」の命名由来」がありました。全文を紹介しますと、

 

 「旭川」と言う自治体は、市内を流れる忠別川をアイヌが「チュクぺツ」と呼んでいると和人が聞き取り、それを「チュプペツcup-pet:太陽・川→日が昇る川」と解釈して、明治23年(1890年)に命名されたものである。/「チュクペツ」の音の解釈については、cuk-pet(cuk-cep):秋・川(秋・魚→鮭)、ciw-pet:波・川とする3つの説がある。(太字は引用者)

 

 なんだかゴチャゴチャしているので、整理してみます。末尾の「3つの説」を明治23年に制定された解釈以外に三つあるよ、と受けとめると、①は「チュクペツ」を「cuk-pet:秋・川」と受けとめる解釈。②は「チュクペツ」を、「cuk-cep:秋・魚→鮭」と解釈する説。③は「チュクペツ」を、「ciw-pet:波・川」と解釈する説。定説も含めて全部で四つの解釈は、現在の忠別川をアイヌ語でどう呼んでいたか。これを和人はどう聴きなしたかの相異を意味しています。このようなアイヌ語に由来するという地名解釈は、北海道はもちろん本州でもしばしば目にするところです。また「聴きなし」という認識法が、「客観的」認識というより、聴く側の想像や思い入れを強く反映する「物語的」認識を特長とすることを踏まえますと、アイヌ語由来の地名でないものを、そのように解釈してしまう傾向はあちこちに見られるのではないでしょうか。小学生の私が「旭川」の地名を初めて知ったとき、札幌など簡単には読めなかった北海道各地の地名に比べ、なんだかすごく平凡な印象をもったことを覚えていますが、ネットで「旭川」の地名由来を調べてみると意外なことがわかりました。

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山奥、一夜の「怪異」

2015-11-30 06:00:00 | 旅行

 先週火曜日に公開した、塩竈神社「神輿荒騒動」の報道(2)の続きです。この騒動の反響記事として紹介した「日下部博士の信仰物理学」をじっくり再読してみました。・・・どこもおかしくない科学的な議論です。やはり頭の片隅に偏見があったようです。「信仰物理学」という名称に、どこかオカルトっぽい印象を持っていたからだと思います。そう反省させてくれたのは、先週二十五日山奥での体験です。その日のことを綴ってみます。

 この日を挟んだ数日、私は群馬県の、新潟県境近くの山奥に位置する知人の山小屋に一人滞在しました。ここは冬になると名にし負う豪雪地帯です。家屋は築三十年を越すすこし西南方向に傾いている趣きのある山小屋ですが、温泉に浸かり秋枯れの景色を堪能したくて出かけたのです。風呂から上がって腰掛けていると、幽かに微動を感じます。自宅にいるときも同じことがあり、歳のせいによる変調かなとも思います。昼間は、ここから見える県道をときどき往来する車の音が聞こえるだけで、崖下の渓流の音も聞こえてきません。ときどき林間から小鳥の声が聞こえるだけです。とても静かです。

 ところが夜になると山奥の音風景は一変します。夕方暗くなり雨戸を締めます。テレビもラジオもつけないでいると、いろんな音が聞こえてきます。家の内部からは冷蔵庫の幽かな唸り音、風呂場の方からは温泉が湧いてくる音が聞こえてきます。では、家の外部からの音はどうかというと、経験者にはお分かりいただけると思いますが、けっこうさまざまな音が聞こえてくるのです。夜行性の大小の動物がここら辺りにけっこういることは知っています。明るい内に目撃したのは、ツキノワグマが県道を斜めに横断するところ、アナグマの親子連れには何度か、孤高のキツネ、重量感のあるニホンカモシカ、それからお馴染みのニホンザルは気が抜けません。あと、えーと、テンが勢いよく斜面を下っていくアスリート顔負けの姿も見たことがあります。

ですから、夜になってクマザサの茂みをなにかが通るガサガサ音、イヌともなんとも判断の出来ないなき声、風に吹かれた枯れ枝が落ちてトタン屋根にぶつかる音、樹木にピシッと亀裂が走るような音が聞こえても、そんなに気にはなりません。だいたい音から想像できるのでとくべつに怖いということはないからです。でも、山に詳しいひとの話によると、ときに人間のギャーという悲鳴のようなものも聞こえるそうです。残念ながら私はまだ聞いたことがありません。風が強い日は植物どうしがこすれあったり、ぶつかりあったり、と想像できる場合も少なくありません。だけど、やはり風の音はなんとなく昼間でもいやなものです。

 さて、この日、夜更けになると、それほど大きくないものがガサッ、ドサッとおちる音が家の周囲から断続的も聞こえてきます。聞き覚えがあるような、ないような曖昧な音です。トタン屋根に固い木の実のようなものが落ちるなら、すぐに判りますが、何だがこれまたバサッと落ちる音です。建物が時にビシッと出す音は自宅でも経験済みですが、なんだか今夜は回数が多い。食器を洗っていると、突然ドン、と大きなものが小屋のどこかにぶつかる音が聞こえ、思わず「だれ!」と叫んでしまいました。だからといって、真っ暗な外に出て確かめようかどうか。躊躇しながら「面倒だ」といいわけする自分は、少し怖いのです。

だんだん気味悪くなってきて、明朝起きたらすぐに確かめようと、早めに布団に潜り込みました。でも、なかなか寝つかれません。ここに来てから感じる大地の微動、これまであまり聞いたことのない音の数々、家の周辺に原因になるものが何もないとすれば、これは何か大きな変動の兆候ではあるまいか。まさか山肌の表層崩壊?ならば長雨が続いていたとか、そういう前段があるはずだがそれもない、などとウトウトしかけたとき、小屋が建つ石垣の一角が崩れるような音がして半身を起こし、どうしていいかわからず、しばし呆然としていました。すこしたって石が崩れる音は続く気配がないことをいいことに、そのまま寝入ってしまいました。

──朝、目を覚まして窓の方に視線をやると、明るくなっています。しまった、寝過ごしたか、と思って雨戸を勢いよく開けると、──そこは、みぞれ交じりの雪が積る、辺り一面の雪景色です。茫然として、ただ昨晩あれこれ考え不安な時間がまるで夢のように感じられます。その落差に感動しているというか。周囲を見回せば、たしかにみぞれ雪が葉っぱや枝に積ると、みずからの重みでバサッと落ちてきます。子規をパクって、「クマザサのばさりばさりとみぞれけり」とでも詠みたい気分。屋根に積ったやつもズルズルと滑って軒下にドーンと落ちる音を出しています。これで、私は腑に落ちました。

やっぱり山の朝は最高の気分。闇夜の不安をすっかり吹き飛ばしてくれる。・・・「信仰物理学」とはこういう「無知」からくる不安を吹き飛ばしてくれるものではないか。これは真面目に考えていい問題だ、そんなふうに思ったのです。

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まつり前の「すみよし菖蒲園」

2013-06-02 10:59:20 | 旅行

 昨日(土)の午前中のさわやかな風に誘われて、ちかくの埼玉県坂戸市塚越の「すみよし菖蒲園」を訪ねました。

 20種、約7万本の花菖蒲が6000㎡の畑に咲き誇る「菖蒲まつり」は、今週土曜日の6月8日~23日までの期間。モデル撮影会もあるとか。今年で10年目、地元の花卉愛好会の人たちが丹精こめて育ててきたようです。また飯盛川の土手は「紫陽花の散歩道」、道路を間に菖蒲園の反対側には「すみよし桜の里」が隣接しています。季節にはたくさんの人で賑わうのでしょう。

 

 賑やかな「菖蒲まつり」もいいですが、祭りの前の風情もなかなかです。紫の花菖蒲もまだ数本、まつり前に訪ねるものずきにも十分なサービスです。可憐なすがたを見せてくれます。

小船はモデル撮影会用かな。

 

紫陽花もまだですが小紫陽花が足元に少し。土手には河津桜でしょうか、花も少し残り、実ができていました。

 

 水を入れる前の菖蒲畑もありました。いつ水を入れるのか、花卉愛好会の方にお聞きしたところ、目安の一つは背丈がある水準にまで育ってからということでした。

 これから盛りを迎えようとする菖蒲園のとなりには、一面の黄色い小麦畑。昨年の秋に播いた冬麦でしょうか、いまはこんなに実りました。刈り取られるのを待つだけです。

 ところで、この初夏のさわやかな季節を「麦秋」というのだと初めて知りました。あとで調べてみると、小津安二郎監督による映画『麦秋』(1951)の英語題名は Early Summer です、なるほど。 

 

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