尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

虫(好奇心)が騒ぐ本書の構成と内容

2017-02-28 12:02:02 | 

 今日で二月もおしまいです。古くから「二月は逃げて走る」とはよく言ったものだと毎年思います。もしかして「逃げて走る」のは、二月という名の「鬼」だったのかも知れません。節分に家々から追い出しを喰ったものの、まだ周辺をうろついているのを嫌った人々が追い打ちをかけているのでしょうか。この場合「鬼」は厳しい寒さや万病の元である風邪の隠喩だったにちがいありません。──こんな妄想はさておき、話は「鬼」ではなく「虫」でした。

 前回(2/21)は、『「腹の虫」の研究──日本の心身観をさぐる』(長谷川雅雄、辻本裕成、ペトロ・クネヒト、美濃部重克四氏の共著 名古屋大学出版会 二〇一二)の序文の「中」を読み、私なりの読み方を綴ってみました。今回は序文の残り(「後」)で、この本の構成と内容について読んでみます。この本はこんな風に編集しましたという記述ですが、学術書ではとりわけ重要な箇所だと思います。これを予め熟知して本文に入るとそうでないのとでは、初めての山に向かって地図をもって登るのと手ぶらで登るのとの違いに匹敵します。迷子にならずに読むには飛ばしてはいけない文章です。

 

≪ここで本書の構成と内容とを、簡略に述べておこう。

 全体を第Ⅰ部と第Ⅱ部とに、大きく二つに分け、まず第Ⅰ部では、わが国の「虫」観の特徴がどのようなものであったかを、具体的に探っていく。もっとも円熟した姿を見せた、近世の「虫」観を中心に見ていくことになる。

 前述のように、「虫」観形成の推進的役割を果したのは、医家たちだった。彼らの主張した各種の「虫」病は、多分に心身双方の不調を含むものであり、今日の寄生虫症とは全く異なるものである。この、心身の不調を「虫」によるとする見方は、「虫」観の中核をなすものであると私たちは考え、これを「虫因」観と呼ぶことにするが、この「虫因」観の持つ意義は大きい。王朝時代の「物気(もののけ)」や近世の「狐憑き」のように、長い時代にわたって続いた、心身の変調を「憑霊(ヒョウレイ)」によるものと見る、いわば「霊因」観に、強く対抗する意味があったのである。「霊因」性の変調と見なされる限り、それは医療の対象にならない。僧侶や法者といった宗教家が扱うものだからである。しかし「虫因」性の変調であれば、格好の医療対象になる。「虫」という病因と、「駆虫(クチュウ)」という治療法が確定できるからである。当時にあっては、病因と治療法を確定できる病は少なかった。こうして「虫」病は、「霊因観に対抗するための有力な武器になったのである。ただし、「虫因」観によって、霊性が払拭(フッショク)されたかと言えば、そうとも言えない。奇病が「虫因」性の病と見なされたり、体外に排出された「虫」が、この世のものとも思われないような「奇虫」ないし「異虫」であったと、「観察」されたりしたのである。

 第Ⅰ部では、はじめに、当時奇病として知られていた「応声虫(オウセイチュウ)」を取り上げ、「虫」が精神を攪乱する病因と見られた例として、詳しく検討する(第1章)。続いて、稀な病ではなく、ごくありふれた「虫」病である「虫証」について述べる。ありふれた「虫」病であっても、その病者から排出されるのは、ありふれた「虫」とは限らなかった。「異虫」を「観察」したり、「実見」したことを記した医書は少なくない。これらの資料から、「異虫」の意義について考えたい(第2章)。

 次に、「虫因」観をもたらした、その母胎となったものは何かという問題を考える。わが国の医学は、古来中国に依拠してきたために、中国の医学思想を基盤として成り立っていた。その大きな特徴は、心身一元的な見方にあり、とくに「心・肺・肝・脾・腎」の「五臓」を、身体だけではなく精神の中枢と見なしたことである。本書ではこれを「五臓思想」と呼び、この「五臓思想」と「虫」観との関連について考えていく(第3章)

 「虫の居所」とされたのは、主として「腹」と「胸」であったが、当時の「腹」や「胸」は、今日の私たちが思っている「腹」や「胸」と少し違っていた。そのことを、近世的な病である「癪(シャク)」を通じて、明らかにしていきたい(第4章)

 「疳(カン)の虫」は、江戸時代の代表的な小児病であった。和・漢の医学では「疳の虫」(疳、疳症、疳疾などという)がどのように考えられていたかを扱う。「疳」は青年期に至ると、「労」という別の病に変わっていくという特異な病症変遷観があったことを取り上げ、併せて「疳虫」と「労虫」の「実見」記録について検討する。「疳の虫」は、一般の人々、とくに子を持つ親にとって、大きな関心事であった。人々は、「疳の虫」への対処として、民間薬を用いたりまじないを行なったりした。このような「疳の虫」の民俗や民間治療は、江戸時代から現代まで続いており、その様相を近世の資料および民俗学の知見をもとに検討する。また寺社において今日なお行なわれている「虫封じ」の儀礼について、私たちが実際に調査し、知りえた事柄を詳しく述べる(第6章)。

 第Ⅱ部は、「虫」観が時代によってどう変遷してきたかという、おおよその流れを掴むことを目的としている。まず、病を「霊因」によるとする見方から、新たに「虫因」という観点が現れてくる前後の段階に目を向け、「鬼」と病との関連を資料を用いて検討する。続いて、諸病の病因を「鬼」と見る考えから、「虫」と見る考えへの移行段階に焦点を当て、「鬼」性を濃厚に含んだ「虫」が起こす「伝尸(デンシ)病」を取り上げて考察する(第7章)。そして「虫」病が、記録に現れはじめる頃の資料(日記類や医書など)に基づいて、どのような病が「虫」病と見なされ、それがどのように推移していったかを明らかにして行く(第8章)。

 最後は、江戸から明治に移る時代に、「虫」観の大変動が起こったことについて見ていく。近代化は、医学においても西洋医学に全面的に切り替わるという根底的な変化をもたらした。「五臓思想」から「脳・神経」学説への転換が図られ、それに伴って従来からの「虫」観も否定されていく。その過程で「虫」病がどう解体され、近代医学にどう組み込まれていったかを追う(第9章)。近代的な「脳・神経」学説の影響は、教育や文学の世界にも大きな影響を及ぼした。その具体的な様相を、教科書類や近代文学の作品を検討することによって浮き彫りにし、「虫」観の変貌の意義について考える(第10章)。≫(前掲『「腹の虫」の研究──日本の心身観をさぐる』 四~七頁)

 

 上の引用を再読・視写しているうちに、「虫が騒ぐ」という言葉が浮んで来ました。しかし、辞典で調べても見当たりません。母の口癖だったかもしれません。似たコトワザには「虫が起こる」といって、何かをしたいといういつもの気持がわくという意味の一句を見つけました。これは「浮気の虫が起こる」などの使い方をするそうです。でも、「虫」を好奇心と置き換えると、肯定的な意味で使えます。私の「虫」を大いに騒がせたのは、太字にした第3、4章、第7章、第9、10章です。第7章では「鬼」が出て来るのでちょっとびっくり。

コメント

近世における日朝双方の「小中華意識」の強化

2017-02-27 13:43:14 | 

 前回(2/20)は、小説「唐人殺」(珍説難波夢)を通じて、一八世紀後半の日本民衆の朝鮮観、あるいはそれを媒介にした日本人観──朝鮮人と対置したときの日本人は朝鮮人より優秀なのだという優越意識──について考えました。そこでは、朝鮮人の父の血を受け継ぐ鈴木伝蔵による上々官・崔天宗への敵討ちを、朝鮮通信使という幕藩制への反逆と解釈してみました。このような大事件となる日本への反逆が可能だったのは、伝蔵が日本人の母を持つ存在だったからだ。ここに相対的な「日本人意識」が優越意識に転化する契機があるのだと考えたわけですが、正直いうと、スッキリと腑に落ちたわけではありません。仕方がないのでこの解釈は保留して、もう少し広い視野を得たいと思います。前回で第一節近世民衆の朝鮮認識の(1)近世文芸における異国観、を読み終えたことにして、今回は(2)対外認識と自我意識、に入ります。

 

≪一七世紀には日本・朝鮮それぞれが自らを中心に位置づける「小中華意識」を有しており、お互いの暗黙の了解のもとに、それぞれの「小中華意識」に基づく国際「秩序」を虚構ながら維持してきた。しかし、一八世紀には、日本・朝鮮のいずれもがそうした「小中華意識」を強化させていったがゆえに、従来両者の暗黙のうちに成立していた江戸における外交儀礼維持が困難となる。

 ここで、一八世紀にそのような「小中華意識」の強化がもたらされるのは、朝鮮においては、清国との関係がとりあえず安定してきたことや、国内政治の側面での党争の収拾──英祖・正祖のもとでの政局の安定──といった事態をあげられよう(『韓国史』)。朝鮮実学者たちは、社会階層としては小農民経営を基盤とする地主的土地所有を行なう範疇(ハンチュウ)に属していたのだが、この時期の農業生産力の上昇と、それに基づく農村への貨幣経済の浸透、社会秩序の動揺、といった足許から展開する事態に対して、新しい世界観に基づきながらこれを処理しようとしたのだと評価されている[宮嶋博史「朝鮮社会と儒教」]。つまりそうした社会状況があり、朝鮮実学者たちの内政に対する課題意識があったがゆえに、彼らは好学の国王(英祖・正祖)に迎えられ、政界へ大きな影響力を行使することになる。その朝鮮実学者たちが有していた世界観が、たとえば北学派の「華夷は一なり」「夷を以て夷を制す」とする一八世紀に特有の小中華思想ということであった。

 一方、日本においても近世初頭に「日本型華夷意識」と称されるような意識のあったことが指摘されている[朝尾直弘「鎖国制の成立」]が、そうした意識は日本の「中華」たる由縁を「礼」に求めることができず、「武威」に求めざるをえないという点において、歪んだ、屈折した意識であった。そしてそのような意識は、まさに一六世紀末から一七世紀にかけての歴史過程によって規定されたものであった。とするならば、あらたな秩序が形成され定着し、生産力も向上した一八世紀段階にあっては、そうした意識も言葉の本来的な意味での「中華意識」[塚本学「江戸時代における「夷」観念について」、趙景達「朝鮮近代のナショナリズムと東アジア」]に近付こうとせざるをえない。したがって、それは織豊政権段階で形成された歪んだ中華意識とは異なった、礼を含み込んだ意識となるであろう(a)。それが、たとえば、荻生徂徠や太宰春台らによって追及された、朝廷官位からの脱却と自前の勲階制度の創出や、天皇を山城天皇と呼んで相対化してしまう試みであった[宮沢誠一「幕末における天皇をめぐる思想動向」、柴田純「宋明学の受容と日本型中華意識」、清水教好「対外危機と近世後期の国家意識の諸相」]。一七世紀段階が「武威」を中核にする「日本型華夷意識」であるとするならば、一八世紀段階はそこに「礼」をも含み込む意識であった。

 この同じ一八世紀後半には、右の(a)とは別に、本居宣長系統の国学者たちに見られるような、天皇・朝廷存在を中心に据えて日本を説明しようとする世界観(b)が現れてくる。また、蘭学者や儒学者のなかには「華」と「夷」の区別というものは相対的なものであって、日本が即時的に中華であるということはない、とする発想(c)も一八世紀から一九世紀に登場する。すなわち、一八世紀から一九世紀の日本にはこうした複数の「世界観」が併存していたのであり、「日本型華夷意識」なるものも、そうしたいくつかのうちのひとつの道筋にすぎない。≫(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九 一四三~五頁)

 

 ここには、近世おける日本・朝鮮の対外観の変遷が概括されています。変遷とは、互いに自らを中心とする「小中華意識」の強化という方向です。その結果一八世には江戸における外交儀礼(朝鮮通信使)の維持が困難になりました。また、「小中華意識」の強化という方向においても、朝鮮の事情と日本のそれとは異なっていて、とくに後者の場合は「小中華意識」も一通りでなく三つの思潮があったこと、それゆえ「日本型華夷意識」と呼ばれるケースもそのうちの一つだったことが記述されています。ならば、冒頭で述べた近世文芸の世界に確かめることができた近世民衆の朝鮮人に対する優越意識はどの思潮に含まれるのでしょうか。

コメント

赤木春之「戦車の重要性」(1)戦車前史

2017-02-24 11:32:22 | 

 前回(2/17)は、園田晟之助大佐の講演「軍機械化の急務」を紹介しました。そこでは、国家総力戦と化した近代の戦争において、国民は「軍の機械化時代」をどう迎えるべきかとテーマに、昭和十四(一九三九)年一月十一日、東京日比谷公会堂でも催された「戦車大講演会」での一幕です。講演は陸軍省兵器局機械課長という立場からなされたもので、整理すると「科学と精神」の二つの力を養えということでした。

 前にも書きましたが、前年昭和十三年五月十七日の西住戦車長の戦死からおよそ七ヵ月後、部隊長細見大佐による十二月二十六日の全国ラジオ放送「軍神西住大尉」まで、この間七~八月の張鼓峯事件におけるソ連機械化軍団との軍事衝突を挟んで、年が明けて矢継ぎ早に開催された「戦車大展覧会」(朝日新聞社主催陸軍省後援 一月八~十五日 靖国神社)、この展覧会に合せて戦車百五十台が銀座街を通る「戦車大行進」(一・八)、そして「戦車大講演会」(一・十一)と、新聞社と陸軍が一体となった戦車関係の啓蒙が続きます。

 その後、この昭和十四年は軍神西住戦車長関係の出版が続きます。久米元一『昭和の軍神 西住戦車長』(五月)、講談社の絵本『軍神西住大尉』(久米元一文・伊藤幾久造絵 五月)、富田常雄『軍神西住戦車長』(六月)などの児童・幼児向けの出版。大人向けでは菊池寛『昭和の軍神 西住戦車長伝』(九月)などが続きますが、今回紹介する一書は、同じく大人向けの赤木春之『戦車の華軍神西住大尉』(天松堂書店 昭和十四年二月十五日発行)です。一連の戦車関係の催し物から一ヵ月後の発行です。当時としては驚くほど早いと思います。というよりか、前もって準備していたと思われます。この本には著者の短篇「戦車の重要性」が収録されています。今回はこれを紹介します。なぜ戦車が必要とされてきたのか、さらに戦車をどう実践に活かすか、など分かりやすい文章です。原文は総ルビですが、必要と思われる箇所にのみつけ、漢字や仮名遣いは現代ふうに変えてあります。〔 〕内は引用者による注です。

 

≪欧州大戦に列強を相手に、独逸(ドイツ)が、各地で縦横無尽の健闘をやりぬいたが、結果としては、──勝って敗けた──次第であった.が、これはカイザー〔ドイツ皇帝〕が、独逸の科学陣が、世界を相手にしても、不屈尖鋭なものであることを信じたからであった。

実際、近代戦は、自国の科学能力にあるといっても過言ではないのである。

今度の支那事変でも、外面的に最も重要な役割を演じているのは、戦車と飛行機と火砲との立体トリオである。

中でも戦車の威力は隠れているが実にめざましい、すさまじいものだ。

欧州大戦は、歩兵の強襲によって敵陣を突破するという所謂(イワユル)強襲観念をもって開始されたが、双方とも堅固なる塹壕(ザンゴウ)を構築するに及んでこの戦術は脆(モロ)くも失敗した。

その結果大砲兵戦術思想に変化した。──重砲、野砲等凡(アラ)ゆる巨砲をもって攻撃して敵陣を破砕して打撃を与え、そのあとから歩兵は前進した。然しなおその際どうしても機関銃だけは破砕し得られずに残るため、如何(イカン)とも突撃出来ず、如何(イカ)に無限に砲弾を送っても効なく、再び歩兵思想に還元し歩兵砲の出現となったがこれも空しかった。

こうした苦悶の結果現れたのがイーブル戦場における化学奇襲、即ち毒ガス戦術であった。

然しこれも大砲や重砲弾の被害に比し、僅か二十分の一の効果しか収められず、防護法を施されて深い処に徹底せず遂に、失敗に終ったのである。

かくて戦術は行き詰まってしまった。

ここに打開をすべく生まれたのが戦車であった。

西方戦場カンブレー会戦において数百台の戦車が同盟軍陣を蹂躙(ジュウリン)し、ヒンテンブルク(将軍)をして「その日はドイツにとって暗黒の日であった」と嘆息を洩らさせたほどだった。

従ってこの事実から、戦車さえあれば歩兵力は十分の一で同じ戦果が収められることが明らかになった。

更に戦車を分けず一キロに十台も二十台も密集せしめ大戦車部隊を結成して歩兵を追随せしめる戦術に一変した。また敵陣の障碍物を破壊するにしても、大砲ならば鉄条網二間を破壊するのに距離二千メートルをもって二・三百の砲弾をうちこまねばならないのに、戦車ならば一度無限軌道〔キャタピラ〕をもって蹂躙すれば足るので、幾ら経済的であるかわからない。この強力なる破壊力と経済的な二大武力を有(アリ)つ新兵器戦車をもって武力戦を解決しようとしているうち休戦となった。

しかし如何に戦車を重視するに至ったかは、列強のつくった戦車の数でも明らかである。仏軍三千五百、英軍千五百、さらに米軍は二万一千台をつくる計画を持っていた。

のみならず大戦が続行すれば、連合軍は西方戦場において三万輌の戦車を以て強襲せんと計画していたとのことであった。

休戦と共に各国共鋭意これが発達を志し飛行機と共に目覚しき進歩を遂ぐるに至った。同時に単に攻撃力のみならず大戦中に起った機械化、自動車化或は装甲化がこれと平行して戦車の発達を助けた。

即ち軍隊の機械力を増進せしむるため凡(あら)ゆるものを運搬するに、徒歩では間に合わぬ。輓馬(ばんば)、駄馬を以てしては軍需品輸送にもことを欠くところより絶対に自動車化の必要となり、ここに機械化は絶対不可欠の条件として、空軍と共にこれが充実に各国とも全力をあげて傾注してきたのである。≫(赤木春之・前掲書 一六一~四頁)(この引用は次回に続く)

コメント

東善養寺村は川越藩前橋分領(陣屋支配地)

2017-02-23 20:54:44 | 

 前回(2/16)は、東善養寺村の林八右衛門が入牢中に綴った『勧農教訓録』から、その本心がどのようなものだったかを読みとりました。それは名主(公人)として決して自分はまちがってはいなかったという、内省をくり返したうえでの肚のことでした。次は(二)一生のあいだ浮沈のこと、を読んでみます。ここには彼の出自、天明三年の浅間山の大噴火とそれに続く騒擾、林家の再興、伊勢参宮、家の潰れとまたの再興、川越藩前橋分領東善養寺村の名主として農政改革への参加など多様多難の体験について紹介されています。今回は八右衛門の出自についてです。林八右衛門は明和四年(一七六七)二月二日、上野国那波郡(ごおり)東善養寺村で生まれました。

 

≪(前略)(東善養寺)村は、前橋から伊勢崎へ向かう伊勢崎街道に近く、駒形宿に隣接する。前橋と伊勢崎のちょうど中間ほどに位置するが、今は群馬県前橋市域にはいり東善町という。利根川から一里ほどしかへだっておらず、利根川の支流で前橋城下を流れてくる広瀬川がすぐそばをとおる。用水の便がよく、水田が多い村柄で、畑は少なく、おおむね他村の持地のなかにあった。八右衛門のころ、東善養寺村の村高は八一九石斗三升六合で、武州川越城主松平大和守直温(なおのぶ)の支配領分に属していた。前橋藩領分といってもよいが、川越藩前橋分領と呼んだほうが支配関係を理解しやすい。

八右衛門の父親は林庄七と言い、母親は上州勢田郡下増田村須永の出身で奥田某の娘だったという。母親の出身地下増田村を地図で探すと、郡域はちがうが東善養寺村から近い。八右衛門は『勧農教訓録』のなかで父親の庄七や生家の林家が村のなかで占める位置について触れようとはしていないが、これは五歳のときに父親が死んで、ほとんど一家離散の状態から自分の一生がはじまったという記憶の性であろう。父親死んだ翌年に祖父も死んで、母親と姉と八右衛門だけになっている。母親は同じ東善養寺村の小川清七という者に八右衛門らを連れて再嫁した。六歳という年齢であれば、八右衛門にもこの間の事情はかなり了解できたにちがいない。男手を欠いて二人の子供をかかえた母親が、とりわけ筋力を要する水田中心の農業経営を維持することはほとんど不可能である。娘が成長していれば聟養子をむかえることもでき、八右衛門が一四、五歳になっていれば、後家のままどうにかやっていけたろう。どちらもかなわなかった。親類の助言もあったはずだが、林庄七家を廃家(はいか)とすることになったのである。小川家で八右衛門の腹ちがいの弟、左兵衛がうまれた。

八右衛門が隣村の矢田村にある祝昌寺の住職光円について手習いをはじめた安永四年(一七七五)≫だというから、九歳のときである。しかし、はじめての師光円もその翌年に死んだ。そこで八右衛門は、東善養寺村からみて北西の隣村にあたる山王村の善養寺の恵陳和尚に預けられることになり、その後五年間はこの寺で暮らしている。母親にしてみれば、八右衛門にとって居心地がわるい家族関係の解決策であったかもしれないし、小川家にとっては口減らしの意味もあったかもしれない。善養寺で八右衛門がどのような教養を身につけたかはわからないが、のちに村役人を勤めた力量や『勧農教訓録』を書きあげた能力の下地になるものをここで得たことはまちがいないだろう。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 十五~六頁)

 

 当時の前橋藩については、平凡社大百科事典(山田武麿執筆)によると、酒井氏十一代百五十年の治世のあと、寛延二年(一七四九)からは家門の松平(越前)氏が十五万石で入封した。しかし利根川による浸食で本丸が危険なため、明和四年(一七六七)武蔵川越に移城となり,以後前橋領約八万石は分領として陣屋支配をうけることになった、という事実がわかります。林八右衛門が生まれたその年に、東善養寺村は川越藩の陣屋支配を受けることになったのですから、何だか八右衛門と川越藩のあいだに東善養寺村を挟んで因縁めいたものを感じます。川越市在住わずか三〇数年の私としても関心を持たざるをえません。

 もう一つ記しておきたいことは、働き手の夫を失っても利用できる制度(再嫁のこと)があったこと、新しい家で連れ子の居づらさを解決する一策として隣村寺院への奉公があったこと、さらに奉公中にうける修業などが後に名主の能力を養ったことなど、です。これら人生の岐路で選ばれた選択肢を一瞥するとき、生まれたときの境遇や不幸がいかにその後の人生に影響を与えるものか、という感慨がわいてきます。

 

コメント

敬意のないところに敬語は成立しない

2017-02-22 07:05:16 | 

 前回(2/15)は、柳田國男「昔の国語教育」の最終章ともいうべき「後記」を読みました。ここでの話題は「二種類の敬語」と「伝承としての国語教育の謎」の二つあります。前者の敬語の話題はまだ途中で、どこまで読みとったかというと、こうです。まず敬語の教育には「共同共用敬語」から「比較敬語」へと二段階あったこと。後者の敬語については、必ずしも子供にとっては学びやすい言葉ではないことが説かれていました。にも拘らず、世の中の交際が盛んになると、それまで気軽だった関係にも敬語(晴の言葉)が入ってくることになりました。こうなると、さほどの敬語を使ってきたわけでもない目上の相手にも敬意を表す必要がでてきて、自分の家族を話題にする時には「わざと卑しめる言葉遣いをすることが多くなって」きたのです。そのためにさらに一段と学びにくくなってきたというわけです。これが「比較敬語」が抱える問題です。そして敬意を表すべき人の前で第三者のことをどう言えばいいのか、この問題は未解決です。今回は、これについての柳田の考えを紹介しましょう。以下の引用は前回からの続きです。(段落は私の方で区切ったものです)

 

≪支那では弊邦(へいほう)だの寡君(かくん)だのと、わが国わが主をも卑しめていう辞令が元は普通だったが、これだけは我々はもうやらぬことにしている。わが村の鎮守や家の氏神(うじがみ)なども、いくら長者に対してでも謙遜(けんそん)して悪くいうことはないが、親や兄姉などの最もわが身に近い人のことは、さほど貴い相手に向かってでもなくとも、まずは遠慮して内々の敬語を、差し控えるのが今日までの通則になっていた。日頃は父母を敬えと教えられる児童が、他人に対する時だけは粗末にいう方がよいということに、合点の行かぬのももっともであり、また読本(トクホン)にもそうは書いていないのである。この微妙なる自他の境目は、実は日本語の最も歴史的なるもの、精神文化というものの成長を痕(あと)づけている部分であるが、悲しむべし今は混乱に陥ろうとしている。

それから今一つの誤りのもとは、敬語と良い言葉との差別を知らぬ者が、だんだんに多くなって来たことである。なるほど上品なよい生活をしている人々の間に、敬語は最も発達し複雑になっていることは事実だが、これはある時代の必要がそうさせたというに止まり、こうなくてはならぬという理由は別にないことは、今後もし修正を加えるとすれば、まずこの部分に省くべきものが多いのを見てもわかる。また現在もすでにどしどしと、この方面の物言いが、廃れもしくは改まっても行くのである。良い言葉の標準は、必ずしも敬語の分量でないことに気づかねばならぬのである。人が心の内に持つ自然の敬意が、十分に表われるということの方がそれよりも大切である。しかも何人(なんぴと)を敬すべきかということは、言葉ばかりでは指導せられない。他人を敬うあまりに自分の心から貴重する者を、粗末にいう習わしにも批判の余地がある。現に東京では女房が人の前で、わが夫を呼棄(よびす)てにする風は久しく行なわれていたが、関西では様附けにしたり、少しの敬語を添えたりすることは珍しからぬのみか、こちらでも今はだんだんと亭主呼棄てをよい趣味とは考えぬようになりかかっている。

截然(せつぜん)たる法則はおそらくは立てられまい。結局は程度問題に帰着するのかも知らぬが、少なくとも現在はよその人の前で、家の目上を敬称して説くことは、幼児のほかには許されていないのである。しかるに読本に「おとうさまが何々とおっしゃいました」などと書いて、これが同輩ばかりの共同の敬語だということを教えない結果は、たちまち髭男(ひげおとこ)が人の前に出て、緑児同様の口のきき方をする者を生ずる。全く第二種敬語の人により場合によって、細かく変るものなることに心づかず、これを絶対の良い言葉のごとく思い込ませた災いであった。一つの国語のかくまで発達した機能を、殺して伝えるということは国語教育でない。しかもこの弱点を補強する手段といってもそう面倒ではなく、つまり私の考えているようなことを。もう少し精確に突き留めて、それを誰にもわかるように、平易に説明してやればそれでよいのである。≫(柳田國男「昔の国語教育」/ちくま文庫版『柳田國男全集』第二二巻 一二三~四頁)

 

 柳田國男の解決策は、彼が考えていることを「もう少し精確に突き留めて、それを誰にもわかるように、平易に説明してやればそれでよい」というものです。なんと、柳田の文章が読んですぐわかるものだったら、こうして解読を綴らなくてもいいわけで、アンタがやらないでどうするのか、と憤慨したくなります。それにしても、『岩波講座 国語教育』(昭和十二年)の一巻をなす作品としてはだいぶ大胆なことを書いたものです。紙数が不足したために必要な説明も省略したのでしょう。不足していると思われる説明をいくつか挙げてみます。

 一つは、「親や兄姉などの最もわが身に近い人のことは、さほど貴い相手に向かってでもなくとも、まずは遠慮して内々の敬語を、差し控えるのが今日までの通則になっていた」とあるが、なぜ「今日までの通則」になることができたのか。二つ、「この微妙なる自他の境目は、実は日本語の最も歴史的なるもの、精神文化というものの成長を痕(あと)づけている部分であるが、悲しむべし今は混乱に陥ろうとしている」とあるが、「微妙なる自他の境目」だの「精神文化というものの成長」だの、もっと具体的に説いてもらわなければ伝わらない。三つめは、「今一つの誤りのもとは」の一句が突然出てきて戸惑いが隠せないことです。だいぶ端折って書いたなと感じさせる箇所です。私なりに解釈するとこうなります。比較敬語が盛んに使われるようになると、児童がこれをどう言えば分からなくて困る、と、これは教育としては誤った事態です。「誤り」の原因になったのは、「比較敬語」がさかんに用いられる中で、自他の境目が混乱してしまったことにあります。もう一つの原因は「敬語と良い言葉との差別を知らぬ者が、だんだんに多くなって来たことである。」と叙述が続くと受けとればいい。

 ならば、はずせないポイントはどこだったのか。それは今述べた、敬語と良い言葉とを区別できない者がだんだん多くなってきた、というくだりから導かれることです。良い言葉とは敬語のことだと思いこんでいると、敬語をジャンジャン使えばいいという発想になりがちです。こうなると形式的な適用が多くなり、おかしな言い間違いも増えることでしょう。こうではなく、敬語は良い言葉の一つであって、その本質は「人が心の内に持つ自然の敬意が、十分に表われるということ」にあるはずです。そうであれば、肝腎なのは「敬意」の存在です。敬意のないところに敬語は成立しない。この当たり前のことを自覚すること以外に敬語教育の原点はありえません。流石に柳田國男です。──と、ここまで書いて今朝の東京新聞の第一面を目にしました。柳田説の正しさを裏づける文章に出会いました。

 

≪▼・・・四月に新設され、首相夫人の安倍昭恵さんが名誉校長を務める大阪の私立小学校は、教育理念に「日本人としての礼節を尊び、それに裏打ちされた愛国心と誇りを育て」ることを掲げる▼だが、この学校をつくる学校法人が運営する幼稚園は保護者に「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」と記した文書を配っていたという。隣人への憎悪をあおる言葉を使うのが「日本人としての礼節」なのか。それはどんな愛国心や誇りにつながるというのだろう≫(「筆洗」)

 

 こういう幼稚園や小学校で、敬語教育の原点を見つけだすのはおそらく難しいでしょう。「敬語を教えるのは良い学校」という観念は一度疑ってかかる必要があります。

コメント

『「腹の虫」の研究』をどう読むか

2017-02-21 10:56:37 | 

 前回(2/14)は、『「腹の虫」の研究──日本の心身観をさぐる』(長谷川雅雄、辻本裕成、ペトロ・クネヒト、美濃部重克四氏の共著 名古屋大学出版会 二〇一二)の序文を読み始めました。その序文を形式的に前・中・後の三つに分ければ、「前」の部分を読んだわけです。ここには「腹の虫の研究」のモチーフの端緒(初発の研究動機あるいは疑問)が述べられていました。今回は「中」を読んでみます。

 

≪「虫」と正面から向き合っていたのは、当時の医師たちである。江戸時代の医学は、人身中に居所を定める「虫」たちを重視していた。「虫」たちが、さまざまな病を引き起すからである。江戸期の医書は、種々の「虫」病の記載に満ちている。その「虫」たちは近代医学の考える寄生虫とは随分違っていた。その「虫」たちの居所も、腹だけではなく、胸にも皮下にも「虫」が「いる」とされていた。「腹の虫」だけではなく、「胸の虫」や「皮下走虫」などが実在するものと信じられてきた。さらに、これらの「虫」は、人の身体だけではなく、心にも変調をもたらすものと考えられていた。「虫」は、心身を攪乱する病害性によって、人々を苦しめたのである。「虫」は、医師にとってもなかなか手ごわい相手だった。「虫」病によって死に至ることもしばしばあったし、それに「虫」は、心身にわたって複雑な症状を引き起こすため、診断が難しかったからである。医師たちの間では、奇病に出会ったら、「虫」病を疑え、と言われたほどだった。

 「虫」に関心を向けたのは、医師たちばかりではなかった。一般の人びとも、「虫」に対して無関心ではいられなかった。そのことは、人々の心情や暮しぶりを活写した文芸作品や浄瑠璃、歌舞伎と言った演劇の台本、それに随筆類などから、伺い知ることができる。それらの作品には、「虫」や「虫」病が多く登場しており、人々が「虫」や「虫」病をどう考え、どう対処していたかが描かれている。人々は、医師を頼るだけではなかった。民間薬を用いたり、「虫」に効くとされたまじないを行なったりもしたのである。とくに、「疳(カン)の虫」の場合は、親がその子どもを連れて寺社に赴き、そこで「虫封じ」の儀礼をしてもらう習俗が盛んだった。「疳の虫」は、幼児のありふれた病であり、またしばしば死亡する怖い病でもあったのであり、わが子の病を心配した親たちは、医師を頼るだけでなく。「虫封じ」の儀礼にも切実な期待を寄せたのだろう。

 近世の医書、文芸書、そして民俗史料などを通して浮かび上がってくるのは、当時人々の日常の隅々にまで、「虫」が深く関わっていたという光景であり、社会全体が「虫」と向き合っていたという構図である。近世には、現代とあまりに異なる、「虫」と人との関わりがあったとみなければならない。

 そうであるなら、このような違いを生み出したものはいったい何か、という新たな謎が立ち現れてくる。近世における「虫」と人との関わりを成立させていたものは、当時の人々が共有していたはずの「虫」観だったのではないかと私たちは考える。近世の「虫」観の大きな特徴は、先にも触れたように、人身中の「虫」が身体だけではなく、精神にも変調をもたらす攪乱 (コウラン/カクラン:かきみだす) 体と捉えられていたことである。このことは、人の身体と精神をどう見るかという「心身観」が、現代とは異なっていたことをも意味している。したがって、「虫」観を探求していくことは、過去の時代における日本人の「心身観」がどのようなものであったかを追及することと、分かちがたく繋がってくる。また、この「心身観」の底辺には、人の自己認識や人間観の問題が大きく横たわっているはずである。

 しかし、かつての「虫」観や心身観は、今日きわめて見えにくいものになっている。明治の近代化によって、これらは「非科学的」で誤った見方として否定され、忘れ去られてすでに久しい時が経っているからである。そのためか、日本の「虫」観・「虫」像を明らかにしようという研究は、これまで殆ど為されてこなかった。本書は、この埋もれたまま眠っているものを、呼び覚そうとする試みである。≫(前掲『「腹の虫」の研究』三~四頁)

 

 すぐれた序文というものは、書物や論文のモチーフにはじまり研究の目的と方法を明快に記述してあるものです。これを読むことによって、自分の問題意識との共通性や相違に心づかせてくれるばかりでなく、未知の問題意識や方法を知るためのえがたい機会を提供してくれます。上の引用も「腹の虫」の研究についてのすぐれた序文の一部を構成していることが分かります。とくに研究のモチーフから目的にいたる過程的な記述は、複数の著者たちが共同研究の出発点において十分な論議を経たものであることを想像させます。

 さて序文によると、「虫」について盛んに語られたのは近世の医書においてです。医師たちが書いた本がたくさんあるようなのです。しかし文芸書、そして民俗資料(コトワザや俗信など)などにも、民間で語られた「虫」がウジャウジャしているようです。こちらの方が資料としては多いのではないでしょうか。いってみれば近世においては社会全体が「虫」に無関心ではいられなかったわけです。けれども現代の私たちからすれば、「虫」に関するコトワザが多く残されているとはいえ、現役で使われているものはそれほど多いとは言えません。つまり近世と現代とでは「虫」が異なってしまったのです。この違い(断絶!)は近世と現代との異なる時代に共有されていた「虫」観の違いにもとづいています。「○○観」というのは○○についての一般的な見方のことです。もっと言えば個別的な「虫」と人との関係を越えたところに成り立つ普遍的な見方のことです。では近世の「虫」観の大きな特徴はどこにあるか。序文(共同研究者たち)は≪人身中の「虫」が身体だけではなく、精神にも変調をもたらす攪乱体と捉えられていたこと≫だと語っています。だとすれは、近世と現代との「虫」観の違いは、精神と身体についての一般的な見方すなわちそれぞれの時代の「心身観」の違いに求めることができます。つまりある時代の資料から「虫」観を抽出したら、それを通じて時代の「心身観」が見えてくるはずであり、さらには心身構造を支える自己認識のありかたや人間観も探ることが可能であるというわけです。

 以上のような問題意識をもった『「腹の虫」の研究』に対して、私はどう読むつもりでいるか。三つ挙げてみます。一つはこの研究における「虫」観の探求から、その変遷ばかりでなく変らない見方を確かめること。これによって、私が「ハラの言葉」と呼んできた人間の本心や自己対話の発生現場をふり返ってみることができそうな気がします。二つめは、「虫」観の抽出の方法や手順(技術)を習得すること。これまで私が蓄積してきた小学生のさまざまな「観」についての資料を分析する方法・技術を身につけたいのです。三つめは、近世の「虫」観や心身観が近代になって非科学的だと否定されていくプロセスについて、です。近世の「虫」観は初めから「非科学的」だとされてきたわけではないはずです。西洋由来の科学の採用によってそのように見なされるようになったというのが歴史的な順序でしょう。ならば、科学⇒非科学の「あいだ」に注目していきたいのです。おそらく、科学が導入・普及するなかで非科学的だといって否定される過程には、経験的にはまだ存在価値があるとされる「前科学」が発見される契機があったはずです。このような考え方は今でも「虫」に関するコトワザ(前科学の典型)の一部が使われるという現実に根拠があります。ずいぶん欲張った目標だと思わないわけではないのですが、これでいいのです。あちこちに散らかしてある多様な関心をいつか共通の問題に統合してゆくには関心のアンテナは広げておく必要があるからです。また実際面では考え続ける縛りになればいいという程度の気持です。そうそう、(認識更新の)チャンスは準備されたところにしかやってこない、こういう言葉もありますので。

コメント

「唐人殺し」そのものが「日本」への反逆

2017-02-20 13:03:17 | 

 前回(2/13)は、小説「唐人殺し」(珍説難波の夢)の筋立てを紹介しました。著者(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書)は、この小説には一八世紀半ばから一九世紀初めにかけて養われてきた、日本民衆の「朝鮮(人)を媒介とした相対的な意味での「日本人」意識」が、母が日本人だという物語と結びつくとどのような変化をもたらすのか、その分析の結果を次のように書いています。

 

≪(先の小説では)明和元年の朝鮮通信使の時に、崔天宗は上々官として来日し、鈴木伝蔵は対馬藩の通詞役として随行する。やがて、伝蔵は崔天宗が父の敵だと知り、遂に敵を討つ。その場面で日本人作者は、崔天宗に「同じ血筋とは雖も、我は色欲に迷い、父同前(然?)の伯父を討つ。夫れにひきかえ其方は、顔さへ見ぬ父の仇を討たんとて幾世の苦労、血筋同じき其方なれども、日本人の腹に宿れば、是ほどまでに違ふものか」と懺悔させる。

 こうした懺悔のさせ方のなかに、当時の日本民衆の朝鮮観が端的に表されているように思える。つまり、同じく朝鮮人の父を持ちながら、自分(崔天宗)は母が朝鮮人だが、おまえ(鈴木伝蔵)は母が日本人だ。だからおまえは仇討ができる。だから日本人は優れている。こういうことがここに示されていよう。これは、先の「父は唐土、母は日本」の国姓爺の評価とも重なるのであり、ここに一八世紀後半の日本民衆の朝鮮観、ないしはそれを媒介にした日本人観を見て取ることができよう。朝鮮人と対置したときの日本人は朝鮮人より優秀なのだという優越意識をもっていた、ということである。≫(前掲書 一四二頁)

 

 最初にこれを読んだときは鋭い指摘だと直観しこの本を丁寧に読んでみようと思ったわけですが、その後この小説に則して考えてみたとき、分かるようで分からなくなってしまいました。そこで分からない部分をはっきりさせることによって、直観で分かっていたことをより明瞭にしたいと思います。まず「分からない部分」です。この小説では対馬藩通詞役の鈴木伝蔵は朝鮮の血を引く日本人に設定されています。この伝蔵が朝鮮人の父の甥でありながら父の敵でもある崔天宗を討ち果たします。父の敵をとった伝蔵の行為は、当時の日本民衆にとって称賛に値するものです。

 他方で当時日本民衆が、朝鮮を媒介しつつ育ててきた相対的「日本人意識」を考えると、この意識は古くは三韓征伐や秀吉の朝鮮侵略などの歴史的な情報源から得られたものです。すなわち朝鮮が日本に反逆(謀反)するのには正当性があるという認識を前提にした上で、日本に戦争責任があるということを認めている意識です。しかし、このような筋立ての近世演劇を好んだ日本の民衆は、その戦争責任を現在の自分には及ばないと考えている点で相対的な「日本人意識」だったわけです。

 しかし鈴木伝蔵による敵討ちは、表面的には同じ血を引く朝鮮人・崔天宗を討つ話ですので、相対的な「日本人」意識がはたらくためには、朝鮮人による日本に対する反逆行為が必要になります。ところが当の日本が見当たらないのです。ここが分からなくなってしまった部分です。でもくり返し読んでいるうちに心づきました。それは朝鮮通信使の朝鮮側官人を殺害するという行為(事件)そのものが幕府と対馬藩で支えてきた日本の対朝鮮外交への反逆(謀反)だったのです。いってみれば「唐人殺し」そのものが幕藩体制(日本)への反逆だったのです。日本の民衆はこう考えたにちがいありません。朝鮮人が朝鮮人の敵を討つのは当たり前だが、このような大事件となる日本への反逆が可能だったのは、伝蔵が日本人の母を持つ存在だったからだ。ここに相対的な「日本人意識」が優越意識に転化する契機があるのだと考えます。

 相手国に対してその歴史的な関係も知らなければ興味関心もない民衆世界であれば、この小説を目にすることもなく、それを原作とする演劇を鑑賞することもなかったでしょう。このような民衆にとっては朝鮮を含めた異国に対する意識はただ閉じていくしかなかったに相違ありません。しかし時代は一八、九世紀、外国船がたびたび沿岸に出没する事件について直接であれウワサであれ、何かを感じ想い考えずにはすまない時代だったはずです。当時の日本民衆が過去の記憶から当事者意識の欠如した相対的な「日本人」意識を持つようになり、「日本人の血」を理由に朝鮮に対して優越意識をいだくのも、ばかでかい異国船や異人の姿形をみて自分たちより強いのではないか、優秀なのではないかといった劣等意識をうみだしやがて「攘夷」を意識しだすのも、やはり一八世紀以前に異国・異人に対して閉じていたからだ、といいたいところです。「鎖国」という歴史用語が教科書から消えてもこの事情は変らないと思われます。

コメント

藤村 作が論じる英語教育の価値

2017-02-18 11:28:08 | 

 前回(2/11)は、藤村作の「中学英語科全廃論」(一九三八)の冒頭で終ってしまい、著者の紹介もしませんでした。今回はまずここからです。藤村 作(ふじむら・つくる:1875~1953)は、『デジタル版日本人名大辞典+plus』によると、≪明治~昭和時代の国文学者。明治8年5月6日生まれ。七高、広島高師の教授などをへて、大正11年母校東京帝大の教授となる。のち東洋大学長。近世文学を学問の対象としてとりあげた先駆者。「日本文学大辞典」を編集。国語教育学会会長、日本文学協会会長。昭和28年12月1日死去。78歳。福岡県出身。著作に「上方文学と江戸文学」「訳註西鶴全集」。≫という人物です。「近世文学を学問の対象としてとりあげた先駆者」という評価が書いてありますから、彼の「中学英語科全廃論」(一九三八)は、国文学サイドから見た英語教育論なのだな、という予想がたちます。

 また前回引用の最後に英語科同様、数学科も教育制度改革のための教科目検討の対象に含まれていたことに驚きます。驚いたのはこれも時間数短縮や廃止の議論の対象に含まれているのではと思ったからですが、そうではないはずだと棚上げして、藤村の文章の続きを読んで行きましょう。彼の文章は論理的かつ煽動的です。そのあたりを意識して引用してみましょう。藤村作は、英語の教育価値はその実用価値と教養価値によって決まり、すべての教科目の存置(そんち:残すか廃するか)と時間数は、両価値の秤量によって決定できると書いたあと、それぞれについて論じてゆきます。(漢字と仮名遣いは現代ふうに改めてあります。)

  

≪まずその実用価値に就いて考えよう。国民普通教育に於ける教科目の実用価値は、国民としての実際生活に於て必要とされる程度に依って定められる。国語科の如きすべての国民が一日もそれを用いずしては、国民としての実際生活が成立し難い国語を取扱うものと、仏語科(仮にこれが教科目となるとして)の如き、現在国民の大多数が、国民生活上必要としていない仏語を教えるものと比較すれば、頗る明瞭なことである。国語科がすべての国民普通学校の教科目として採用されているのに、仏語科が僅々一二の中等学校の教科目たるに過ぎないのは、誰しもこれを当然とするであろう。この立場に於て英語科の実用価値を考えれば、中等学校を以て学校教育を卒(オ)えて実務に就くものの十中九分九厘までは卒業後英語をその実際生活の上に役立てているものはないのである。これを実際に役立てているものは、官署、図書館、会社に於ける英文タイピストたる女であるとか、印刷所に於ける英文の選文、植字、校正に従事するものとか、外国書肆(ショシ:書店)に勤務する店員とか、その範囲はきわめて狭小であるであろう。かかる少数者の為に他の大多数者を犠牲にして、多数の時間を英語科に費すことの不合理なことは恐らく異論を容るるの余地はない筈である。≫(川澄哲夫編『英語教育論争史』五三一~二頁)

 

 もうお気づきだと思いますが、藤村の論じ方です。我が国における国民生活上の実用価値がずっと低いとわかる仏語の例をもってきて英語も同じだ結論づける論法です。これは英語が日本人にとって独自な大きな存在だったという議論を完全に無視しています。無理な比較をしているわけです。しかし自分がやっておきながら、今度はこの正しくない比較をしているのは英語必要論者だといって批判するのです。漢文科との比較です。英語科には教養価値があるゆえに必要だと論じるやりかたと、漢文科には道徳価値があるゆえ必要だと論じるやり方は似ている。だが教養価値と道徳価値を混同してはいけないと、書いています。

 

≪抑々(ソモソモ)英語科の教養価値を定むるには、その教科用書の内容を検討して見なければならないが、ここにそれを詳述することは出来ない。併(シカ)し教科用書に多くの国民の教養価値ある内容が含まれていることがわかっても、それが直ちに英語科の教科目としての価値とはならない。その内容の性質次第では、これを国文に記しても同様の価値を持ち得るものは、これを国文で教授する方が国民教育の上では順当のことであるから、そういう性質の内容はこれを除外して考えるのが正しい。そこで英語科の教養価値を定むる為にする教科書の内容検討は、わが国語では表すことの出来ない、英語の形を透さねばどうしてもわかり難い内容のみを取り出してしなければならない。そうすれば、英国民性の具現たる英語そのものの持つ特長、及び高級な英文学の持つ感じ、においは、到底他国語に移すことの出来ないものであるから、それだけを取り出して見て、それが果してどれだけの、我が国民教育上に教養価値を持つかを検討することが本当に英語科の教養価値を決定する道である。この点に於いて従来英語科必要論者は、恰(アタカ)も漢文科の必要を唱える漢学者と同様の誤謬に陥っていたと思う。英語教科書中に多くの教養価値を含んでいるから、英語科が教科目として必要だというのは、漢学者が教科書たる漢籍は国民道徳を養うに足る価値あるものであるから、漢文科が教科目として必要であるというのと甚だ相近い。同じ内容ならば外国語を透して学ぶよりは、自国語に依って学ぶ方が、遥かに容易でもあり、又国民教育に於ては自然である。余はここに外国語、外国文の教科目としての価値を論じて、その教養価値を考える人は、必ずこの混同をしないように注意することを重ねて勧告しておく。

 英語科の持つ教養価値を右の如く限定して見れば、英語という言語から、英国民の特殊なる国民性、国民精神を知ることは、我が国民に取って無用ことでは勿論ない。また英文学から我々日本人の精神内容を豊富にし、高尚ならしむべき幾多のものの得らるべきことも論はないが、さてそれを収得し得る為には相当の語学力を必要とする。この語学力は中学校の五年間の勉強では、到底望めない。現に中学を出てもそれを実際に役立て得ていないのでもよくわかる。こういう不充分な語学力で英語の語感まで透して、細かに英文学の精神を把握するということが、中学生又はその卒業者に望まれることであろうか。思想感情の大体を理解することは、必ずしも原語に依らないでも済む。それを飜訳し、書き替えた自国語でも出来るということは、我々が昔から漢文を漢語として読まず、訓読して理解して来た経験の上でもよくわかる。我々日本人は多年訓読に依って支那思想、印度思想を十分に吸収して来ているのである。現今我が日本人の大多数の要求する英国精神の理解はこの程度のものでよいのではあるまいか。よく細かに知るに越したことはないが、そういうことは、学者、外交官、その他特殊な少数者のこととしても、我が国家の損失はない筈である。それよりはこういう少数者の便宜の為に、他の大多数の学生に、多くの時間と、大きな労力を空費せしめている損失の方が大きいのである。≫(同前 五三三頁)

 

 たしかの英語の教養価値は学ぶ必要・意義があるが、原語でなければ学ぶことが出来ないものに限って検討されるべきだ。こう大向うを肯かせておいて、そのようなことは漢文を訳読(日本語化)して理解してきた我々の従来のやりかたにならえば、英語も飜訳(日本語化)でわかる程度で十分ではないか。どうしても原語で英語の教養価値を学ばせたいというなら、それも結構。ただし中等学校レベルでは無理でしょう。ならば、中等教育の英語科は廃止していいのではないか、じゃなくて廃止すべきだと、オトシどころを予め用意している論法といえます。要するに、少数の便宜のために大多数に多くの時間と労力を空費させるのは改善すべきだという結論にもっていきたいのです。

コメント

軍機械化時代に求められたもの 科学と精神と

2017-02-17 15:01:16 | 

 前回2/10)までで「戦車大講演会」(一九三九)における角中佐の張鼓峯事件(一九三八)情報の真偽を確かめました。まだ知りたいことはいくつもありますが、いったん張鼓峯事件からいったん離れ、「戦車大講演会」のほうに戻りたいと思います。先の角中佐の講演「列強の機械戦準備」は、列強の軍機械化の情報を紹介しながら日本もまた早く軍機械化を進めていかなければならないという趣旨でした。今回紹介するのは同中佐の前に行なわれた「軍機械化の急務」という講演です。講師は陸軍省兵器局機械課長の職にあった園田晟之助大佐です。肩書きからみると軍機械化推進の実行責任者のようにも考えられます。彼は軍機械化の時代に、総力戦体制を担う国民に求めたい要望を語っています。引用中の「今次事変」とは日中戦争(一九三七)のことです。

 

軍機械化と国家総力戦

 さて、近代の戦争が国家総力戦となり、国家、国民の全知全能を挙げて、これを戦争遂行に最も都合のよい体制に組織し、活動させることが必要なことは言うまでもないことであって、我が国の現況は正にこの過程を辿りつつある。国民は国家の命ずる所に従い、或は軍に入って戦場に活動し、或は銃後にあって生産に従事し、各々其の本分に最善を尽すことが戦争に最後の勝利を得る所以である。

 軍隊を組成するものも国民であり、戦争の遂行に任ずるものも亦国民である。ここに於て将来に於ける軍機械化の趨向(スウコウ)に鑑(カンガ)み、二三希望を申し述べたい。

 その第一は、今次事変に於て戦車、自動車等の各種機械化兵器は、戦場の華として偉大なる活躍を示したが、仔細に考察すれば、其の性能に於ても、数量に於ても、吾々の期待に遠きものが尠(スク)なくないのみならず、中には外国に依存しなければならぬ場合もないではない。若しも支那よりも更に優秀な装備と、強大な国力をもつ国家と干戈(カンカ:武器)を交えなければならぬ情況となれば、決して今次事変の勝利ぐらいに甘んじることはできない。

 たとえば戦車の装甲鈑(ソウコウバン)にしても、さらに軽量で而も強靱無比なるものを発明し、これを多量に製産する設備を整えるとか、エンジンの砂塵(サジン)による磨損(マソン)を減少するため、更に強固なる鋳物(イモノ)を作り出すとか、外国品も及ばぬ特殊鋼の製法に成功する等は絶対に必要なことである。しかしこれは、軍が単独に能くする所でない。皆国民が各々その専門的能力を発揮し、学者も製造家も、第一線に生命を賭(ト)する将士と同様に真剣な気持を以て研究することが必要である。このような研究の完成により、世界無比の戦車を作り、悪路嶮難(アクロケンナン)を踏破してなお屈せぬ自動車を完成し、無敵の機械化部隊を編成することが出来るのである。

 第二には、愛車心の養成ということである。最近、戦場に於ける軍馬の功労に酬(ムク)ゆる意味で、盛んに愛馬心が鼓舞せられて居る。これは平素から愛馬心なり、動物愛護の心が国民に十分涵養されて居れば、戦場に於いても、期せずして自ら軍馬を愛護することとなり、馬匹資源の育成にも役立つと云う精神からだと思われるが、車輌についても亦同様である。平素貨物自動車を使用し、或はタクシーを運転して居る人も、一度召集せられて軍に従えば、戦車の操縦者となり軍用車の運転に任じなければならぬ。

 平素から自己の車を大切に取扱い、朝夕の点検、手入れ、時機を失せぬ修理、無理な運転を絶対にせぬ事等が習慣づけられて居ったならば、一朝軍に従っても亦、心手期せずして弾丸雨飛(ウヒ)の中にこの習性を発露することが出来るのである。戦場に於いては、作戦上の要求から、相当無理なことが多く、破損故障率も随分多い事は已むを得ぬが、必要の時に最大の能率を発揮し、また成るべく長く車輌を活用するためには事なき時にいたわって置くことが必要である。

 内地に於ても、全く手入の届かない汚れた車を運転し、或は徐行すべき状況にも拘らず、無暗に速度を出す等、取扱いに遺憾の点も多々見受けられる。車輌は人や馬と異なり、故障や無理があるにしても、何等の表情を示すものではないが、やはり食事も必要であり、休憩も絶対に必要である。風呂にも入れてやらねば成らぬ。車も使用し運転し車に接する人は、この思いやり即ち愛車心を平素から発揮してこそ、機械化部隊の優秀な戦士となる資格があるのである。国民に対する愛馬心と同様、愛車心を養成して戴きたいことは軍の熱烈なるようぼうである。

 第三に、機械化部隊の主体をなしているものはガソリン機関、ディーゼル機関等の内燃機関であって、文化の発達と共にこれ等機関は、また交通機関、動力機関として益々其の用途を広めんとして居る。よって今やこれ等の機関の原理なり構造なりを知ることは国民の常識として必要とすることとなった。往々、自家用自動車をもつ人が自動車のことは運転手に任せ、中には一概に国産車を排撃して外国車に走り。また運転手は機関の故障は工場の技術者に一任し、自ら進んで故障の余地乃至は排除を研究しないような傾向のあるのは甚だ遺憾に堪えない。

 我が国に於てはこれ等に関する教育機関なり施設なりが不充分であることが其の最大原因であるとは思うけれども、軍の機械化に伴って、苟(イヤシク)も軍の組成分子たらんものは作戦用兵に任ずるものも、指揮運用に当るものも。補給輸送に任ずるものも、皆この基礎的常識を備えていたならば、無理な要求もせず、無茶な使用もせず、内燃機関に必要な燃料なり部品なりの補給についても、弾薬や糧食と同じように取扱わるる事となり、遺憾なく機械化部隊の威力を発揮し得るのではないかと思う。成る可く多くの国民に内燃機関の常識を普及する教育機関なりを施設なりを設備することを促進すると共に、国民も亦機会を求めて知識の吸収に当り国家に貢献するの素養を会得することが必要である。

 第四に、機械化部隊の根幹をなす装甲車輌乃至は自動車は、ご承知の如く各種重工業の綜合によるもので、頗(スコブ)る複雑巧妙、数千万の人力、機械力による工程を経て初めて完成せらるるものである。然しながらこの堅く冷き鉄片の結合の如き車輌の内にも、必ずや霊の宿るものあるを信ずる。戦車が敵弾雨飛(テキダンウヒ)の中を敵陣中に突入して縦横に活躍する、大小の弾丸が命中する、また最多の障碍物、散兵壕等を踏破し妨害に遭遇するのであるが、能くこれ等の至難なる障害を踏み破ってエンジンの活動を継続して人と車が一体となり、必死の活動を為して全軍戦勝の端を拓くのである。

 古来日本刀には霊気宿って妖気を払うという事が広く日本人に信ぜられて居るが、これは刀を鍛錬する刀匠(トウショウ)が、心身を浄めて妄念を断ち一心不乱、神の如き心境を以て鍛錬するからである。古来の名刀と、これを作った刀工の苦心と修養とを知る時は、神霊の宿るも宜(ムベ)なるかなと肯(ウナヅ)かせるものがある。≫(『戦ふ戦車』(朝日新聞社 一九三九) 五九~六四頁)

 

 軍機械化が急務とされる時代に国民に求める要望は四つありました。①軍機械化の先端をゆく技術革新を可能とする人材、②戦車や自動車への愛車心、③科学的認識の普及、④機械にも魂が宿るという考え方。まとめてみると、「科学と精神」になるでしょうか。やがて日米戦争が始まると、国力の差からまもなく物資不足がやってきます。そのさい強調されたのは科学抜きの精神力であったこと、また日米開戦前には科学技術も国力を補う重要な手段として重視されていたことが分かります。

コメント (2)

私欲によって罪を蒙ることは一つもなし

2017-02-16 13:00:00 | 

 前回(2/9)は、深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』(朝日新聞社 一九七八)で最初に取り上げられる伝記「東善養寺村八右衛門」の年譜を紹介しました。ここから私たちにも八右衛門の生涯についていくつかのことが分かりますが、著者は最晩年に入牢(じゅろう)中に書かれた『勧農教訓録』三巻と子孫に伝わる証言をもとに彼の伝記を編集したことになります。書かれた史料は八右衛門自身によるこの長編の文書しかないのです。しかも私はこれを読んでいないのですから、伝記を読んで分かることは著者の捉えた八右衛門像でしかないことは自明です。ここを自覚しながら読んでいきたい。伝記の構成を予め提示しておくと、次のようになります。章立ての番号はこちらで付けました。(一)『勧農教訓録』のこと、(二)一生のあいだ浮沈のこと、(三)七ヵ村百姓一同、門訴のこと、(四)迷信不分明そして子孫へ教訓の論、の四章立ての構成です。さて、今回は(一)を読んでみます。

 『勧農教訓録』は、門訴頭取を理由に永牢を命じられた一八二二(文政五)から三〇(文政一三)年に牢死するまでの八年間のうち、永牢の判決が出た翌年の文政六年から文政九年までの四年にあいだに書き挙げたようです。年齢(数え)でいえば五七から六〇歳の期間になります。牢死は六四歳でした。著者によれば『勧農教訓録』には、厳しかったはずの牢暮らしの体験についてはあまり書かれてないそうです。八右衛門から五代目の子孫に伝わる「名ばかりの座敷牢」という証言を考慮すると、門訴頭取と判定されて以後の永牢生活は独り牢で幽閉あるいは生涯にわたる監禁だったと想像したほうが事実にちかいと述べています。では、八右衛門は幽閉中、主に何について書き付けたのでしょうか。著者はこう書いています。

 

≪(入牢中の八年間は)苦痛の日々にはちがいないが、肉体的な苦痛以上に、江戸門訴の頭取として獄中生活を強いられていることの方が八右衛門には耐えがたかったようにみえる。「愚老、永牢難義(儀)の事、誠に不思議(儀)」(巻之三)という簡潔な表現に、八右衛門の無念さと諦めを読みとることができる。その二つの気持の交錯のなかで、しだいに八右衛門は、覚悟、というような気持を固めていったようである。

我器量ニて、七ヶ村このたびの騒動の頭取とて永入牢(ながじゅろう)となりし事、上(かみ)の御かげ、身分不相応の名をひろめし事、我身ニとりてハありがたく大慶に思ふなり。

やや自嘲気味だが、前橋藩への皮肉をこめて「ありがたく大慶」と言ってのけるまでには胸中にかぎりない葛藤がくりかえされたろうし、

「かかる難儀にあふべき筈はなけれども、誠(まこと)これを天命とも因縁とも謂(いい)ツべきか。併(しかし)、私欲によって罪を蒙る事ハ一ツもなけれバ、先祖を恥しむると云ふも有るべからざれバ、是のミ嬉しく思ふなり」(巻之三)

と書けるまでには、自分の一生を想いおこせるかぎりの場面から組み立てかえして、その浮沈の道筋を見きわめることが必要であったろう。この記述は、漫然と諦めと開きなおりの言葉をならべた文章ではない。儒教で天命、仏教で因縁といわれる人の災難というものは、たとえ親の命を守り先祖を恥ずかしめなくても防ぎきれないことがある、だが肝要なのは親の命を守り先祖を恥ずかしめないこと、そのことなのであって、その基準から自分は外れたことがないのだ、という自己評価の宣言のように私には読める。

八右衛門がいつごろから三巻にも及ぶ『勧農教訓録』の執筆を前橋の牢内で考えはじめたのか、そして、いつから実際に書きはじめたのか、このことを知る手がかりはない。おそらく、毎日毎日の揺れうごく気持を踏みこたえながらしだいに死の覚悟をかためていき、自分の所存を明晰にして子孫へ申しおくることを決意してのちのことと考えられるから、入牢後かなりの時間を経てからであることはたしかだろう。

『勧農教訓録』の内容の、もっとも多くの部分は江戸門訴にかんする記述である。第三巻では、前橋藩政に対する批判、自伝、子孫への教訓などを記している。全体の構成には工夫が重ねられており、文章は明確で理解しやすい。長い獄中生活のなかで反芻されきったものであり、それに子孫へ言い残しておきたいという強い願望が、できるかぎり、よけいな敬語を省きあいまいな表現を避け短かい文章をつみ重ねるという方法をとらせたのであろう。

(中略)

『勧農教訓録』が執筆された状況については、あきらかにできない点が多い。しかし、確かなことは、これを書きあげたときの八右衛門が、「世の中に離れて今は楽隠居」と詠み、時世を「六十路(むそじ)ふるやぶれ衣を脱ぎすてて本来空(くう)へ帰る楽しさ」としたためて、生死を離れようとしていたことである。その解脱に似た心境が、『勧農教訓録』をこんな言葉で結ばせたと言えるだろう。

子孫ニ才智発明の者出来(しゅったい)の其時は、愚老〔此書──著者注、以下同じ〕赤面して閉口なるべけれども、それは苦るしけれども又喜は百倍すべし。(巻之三)≫(前掲書 八~一四頁)

 

 著者は、『勧農教訓録』に込められた八右衛門の本心を「私欲によって罪を蒙る事ハ一ツもなけれバ、先祖を恥しむると云ふも有るべからざれバ、是のミ嬉しく思ふなり」に求めていると思えます。さらにこの境地に至るまで、そして「世の中に離れて今は楽隠居」と言えるまでの内省(解脱)の合せて二つの過程に注目していることも伝わります。また八右衛門は、自分は公の立場で考え行動したのであって藩による「門訴頭取」という判定はまちがっていること、またそれゆえ先祖の名に恥じない行動をとったことを主張したと受け取れます。ここには「公私と家」という二つの行動規準があります。この二重の規準を八右衛門はどう生きようとしたのか、次回以降読みとっていきたい。

コメント