goo blog サービス終了のお知らせ 

尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

遊びは遊んでみるしかない

2016-06-01 12:35:52 | 日記

 今日から六月です。月曜から土曜まで、毎日一つのテーマだけを考え綴っていこうと思い、昨年の十一月下旬に再開したこのブログも、この六月で半年を一週間ほど超えました。また半年を目途に続けていきたいものです。このような形で再開が可能になったのは、まず私自身がアクションを起こしたことが大きな要因です。でも、ブログの訪問者数に如実に表れていますが、拙文を読んで下さる方の支えなしにはここまで継続することは不可能だったと思います。また直接声を掛けて下さった方のコメントも大きな励ましになりました。個々のテーマはまだ起承転結でいえば、ようやく「起」を抜け出したところというしかありませんが、半年やってみて心づいたことが一つあります。それは毎日異なるテーマを考えているはずなのに、いつのまにか共通のテーマを自覚するようになったということです。今回はこの点について少し綴ってみます。

 同じ人間がやっているのですから当り前と言えばそういえるわけですが、これは半年やってみて初めて心づいたことです。勇ましいビジネス書とか人生指南書のジャンルで売れ筋のものをめくってみると、たくさんやりたいことが多すぎて結局何もできない人々について、書いてあります。私のような人間を指すのでしょう。その解決法は、いろんなこと・ものを「捨てよ」と書いてあったりします。たとえば、家で使われなくなったモノ、ああしたい・こうでなければならない、と思う欲求や理想さえも、さっさと捨ててしまえば毎日思い悩んでいる自分とはオサラバできるといいます。たしかに私などもアレコレ悩んでいるとき、自分の欲求が壁になっていたことに気づき、欲求を捨てることで悩みを解消してきたことが少なくありません。

 ところが、私はいつの間にか忘れてしまうことはあっても、人間や社会について、いやこの世界についての多様な興味や関心を捨てることはできません。なぜならば、いくつもある興味や関心のどれも深く探求できずとも、学んでいくうちに時折やってくる「目から鱗が落ちる」快感は、私が元気に生きるための原動力だからです。テーマが見つかることも、わからない問題が見えてくることですから、やはり同じような快感の一つです。だから、どれか一つの興味関心に絞ることはできない相談なのです。原動力を捨てたら私はもう生きてはゆけません。

 さて、月曜日~土曜日(日曜日は休み)まで異なるテーマを探求していくうちに、六つのテーマが、いくつかのより大きなテーマに分類できそうなことがポツポツと心づいてきました。まず毎日のテーマを言葉にしておきます。

 月曜日・・・柳田國男「祭礼と世間」(一九二二)における方法原理にはどのような時代思潮が影響していたのか。日露戦争~大正期における新しい学問や教養主義や修養主義の動向を調べるなかで、その結び目をみつけたい。

火曜日・・・教育学者・庄司和晃はみずからが開拓した「小学生のコトバ研究」をどう展開していこうとしたのか。まずは小学生コトバの採集の枠組を検討すること。

水曜日・・・人間の根っこや幹にあたる「ハラのことば」は、どのように養われてきたのか。枝葉にあたる「アタマのことば」との関係で考えたい。柳田國男による前代国語教育のあり方から探ってみる。

木曜日・・・人間の集団行動を異なる人間同士の同期現象として捉え直せば、どのような構造が見出されるか。日本における百姓一揆と都市騒擾(米騒動)の事例を通して考えてみる。とくに逸脱現象を念頭において。

金曜日・・・戦時下国民学校で教育を受けた子供たちは敗戦後をどう生きたのか。国民学校における、一九三〇年前後に生まれた「戦争の子」をめぐって考えていく。これは親世代の思いを知ることに繋がる。

土曜日・・・日本の英語教育論争史では何が問題になってきたのか。焦点は「訳読」になるのかもしれません。論争史を日本人による異文化摂取の工夫と捉え直して論争の変遷を遡ってみること。

以上の六つのテーマは、現在のところ三つぐらいにまとめることができると思います。

① 人間の成長をハラの言葉とアタマの言葉の二重性で解いてみること。

② 人間の集団行動、学校教育、時代思潮を同期現象として解いてみること。まず、非線形科学としての同期現象をしっかり学ぶこと。

③ 他人・異人・異文化とのつきあいを、人間の工夫として考えてみること。

 もとより、ようやくここまで言葉にできたという段階に過ぎません。いわば仮止めです。これによってテーマが大きく逸脱することを防ぐことができるのではないかと期待します。でも半年に一回ぐらいは軌道修正が必要になってくるでしょう。しばらくは、これまでのように六つのテーマを個々に進めていきたい。さて、バラバラにやっていたつもりなのに、異なるテーマ同士の間に繋がりを見出すこともまた、「目から鱗が落ちる」快感だと感じます。こうなると、私の学びは遊びそのものです。遊びは実際に遊んでみないとわからないものです。


立ち止まって土曜日のブログの進め方を考える

2016-02-06 06:00:00 | 日記

 土曜日のブログは『資料 日本英学史2 英語教育論争史』(川澄哲夫編 鈴木孝夫監修 一九七八)を読みながら日本人の異文化受容の論理を掬いとる目的で始めました。この本は第一章から第八章まで時代を区切りながら、各章には編者による「解説」が付いており、時代の潮流が見事に整理されています。現在取り組んでいるのは、現代編と言うべき第八章です。

 この「解説」よると、「現在」(一九七〇年代頃まで)の英語教育には三つの流れがあって一つは最も支配的な考えです。これは、簡単にいえば、英語学習の目的を英米の文化的教養を身につけることに置く考えで、戦前から戦後に連続する流れです。これを編者は「文化教養説」と呼びます。しかし、昭和三〇(一九五五)年を過ぎるあたりからしきりに文化教養説への批判が現れてきます。この英語教育批判にも二つの流れがあって、一つは従来の英語教育の欠陥を指摘し、その点を改善することで英語教育の成果を挙げようとする考えです。これを「英語教育改善派」と呼びましょう。二つは英語を与えられたものとして受けとめるのではなく、もう一度、根本からとらえ直そうという考えです。これを「英語教育根本再考派」と呼んでおきます。後者には小田実、鈴木孝夫、ダグラス・スミス、鶴見俊輔、吉川勇一各氏などの文章が提供されています。流れは「微流」ですが、解説者のいう通り根本的に英語教育を考え直す方向だと思います。

 これからどう読み進めていったらいいか、余り考えないで、いきなり鶴見俊輔「日本語と国際語」を読んでしまったので、ここで少し立ち止まって進め方を考えてみます。私は当初、異文化受容の論理を把握するには通読するのが一番いいと思っていましたので、時代を画する代表的な論文を読んで時代をさかのぼって行こうと考えていました。でも、自分で新たに資料を加えるわけではないし、結局は編集者の苦労して集めた論文を読んでいくわけですから、時代ごとに「解説」で整理された潮流そのものを利用させてもらったがいいと考えるようになりました。鶴見さんたちの論文は英語教育批判の「微流」ですが、他の方たちの論文も読みながら、まず、この潮流そのものから異文化受容の論理を掬いとりたいと思います。そこで、順に小田実、鈴木孝夫、ダグラス・スミス、吉川勇一各氏の「英語教育根本再考派」を読んでいくことにします。次には、もう一つの批判的潮流(「英語教育改善派」)を同じように検討したうえで、一つ前の時代へとさかのぼっていきたいと思います。先は長いですが楽しみながら進んでいきます。


金曜日のテーマに関する自註

2016-01-15 06:00:00 | 日記

 毎週金曜日は「少年の予科練体験」というテーマで綴っています。「少年」と書きましたが厳密に少年期に限定して書いているわけではなく、時に思春期、青年期の初期にまで範囲を広げて書くこともあります。金曜日のブログ(といっても二〇一五年十一月からの再開ブログですが)は、いきなり「佐藤忠男さんの予科練体験」から綴り始めたので、その動機についてはこれまで語ることを怠っていました。そこで簡単に触れておきます。

 「少年の予科練体験」というテーマで調べてみようと思った理由は三つあります。直接には教員時代からの恩師・庄司和晃先生が昨年の五月五日に逝去されたことです。私はまことに愚かな弟子であって師が隠り世に移られて初めて、学んだことの余りにも浅きに失していることに気付きました。二つめは生前から先生の「全面教育学」と「予科練体験」は見逃せない関係がありそうだと感じていたことが契機になっています。いずれ研究してみようと思っていたので遅きに失した感がありますが、「少年の予科練体験」の意味について先生と仮想的に対話してみようと思いました。三つめは、昭和二年生まれで先生より二つ年上であった父もまた短い生涯(三十三歳で病没)の中で「予科練体験」を大きな心の財産として生きていたと思われることです。庄司先生の死は私をしては初めて父の生涯を調べ考えてみたい気にさせたのです。

 まず誰かの体験記から読んでいこうと思った矢先、昭和五年生まれの映画評論家・佐藤忠男さんが自らの「予科練体験」を書いているのを知り、ここから始めようと思いました。この論文から学んだことは、これから庄司先生や父の「予科練体験」を見てゆく視点です。三つあります。

視点(1)制度としての予科練は少年たちにとってどのような存在だったのか。

視点(2)敗戦末期の予科練の特攻化や組織内部の崩壊など軍事組織の「崩れ」に対しての少年兵たちはどう向き合ったか。

視点(3)少年の予科練体験は敗戦を通して戦後の生き方とどう結びつくのか。

 視点(1)について佐藤論文は多彩に論じていて、私が綴ったことといえば、①どんな組織かと言えば、志願制と少年制を統合した軍事専門技術者養成集団だったこと。②戦闘要員としての特徴といえば、それは特攻になっても「逃げなかった」こと。③進路としての予科練はといえば、傍流の進学コースのエリートだったこと。④志望の動機について言えば、予科練は飛行機乗りからより有利な就職口に変わっていったこと。視点(2)については、①予科練におけるリンチをどう受けとめたかといえば、暴力に耐えた自分を「誇り」とするという生き方にについて綴っただけです。現在予定している内容は、まず特攻作戦導入による予科練の「崩れ」現象を調べることですが、その一つが「人間機雷」という特攻です。また教員や教育現場についても「崩れ」の一つとして調べて行くつもりです。以上視点(1)(2)のいずれについても佐藤さんは「少年」という条件を踏まえて論じています。私も戦時中の「少年の原像」を通してみていきたい。視点(3)についてはまだ全く手をつけていませんが、佐藤さんの『裸の日本人』(カッパブックス 一九五八)に、戦前と戦後を繋いで日本人の生き方を考える論考がありました。面白いです。


少なく読み多く考える+やることは小分けして

2015-12-31 06:00:00 | 日記

 いよいよ今日で二〇一五年も終りです。ブログを始めておよそ三年三ヶ月。毎日でなくても継続して書こうと思いながら、これまで挫折が三回(四回かも)。性懲りもなくまた十一月下旬に再開してからようやく一か月経ちました。これまでの拙文は長短合わせて一九六本になりました。始めたときは年に一〇〇本くらい書き続けていけば、いい歳になる頃にはもう書きたいことはなくなって胸の裡もスッキリしてこの世とおさらばできるのではないかと思っていました。しかしまだまだ書きたいことは山ほどあるのに、それを書き続ける作業はなかなか難しいことだ感じてきました。

 なぜ挫折したのか振り返ってみると一つ問題(パターン)が見つかりました。あるテーマを追いかけようとします。資料を探します。関連する本を探し読んでいるうちになんとまた異なったテーマが浮んで来てそっちに興味関心が傾きます。そしてまた、というふうにその都度のテーマの追究も中途半端に終り、ブログの方も結局挫折というパターンが見つかりました。ですからテーマを最後まで追究したことが少ない。といってその都度異なった話題を見つけ書いていくのはもう大変です。その割には手元に残った本だけが増えていく。これを「テーマに翻弄される挫折」とでも名付けておきます。この挫折タイプを多様な関心があるから単一作品ができ難いと受けとると、テーマを絞ってやればいいということになりますが、あっちこっち興味をもって考えることは子供の頃からやってきたことで、これを否定したら私という個性は滅びます。なんとか自分を否定しないで一つのテーマを継続したい。

 こんなわがままな要求を解決するヒントになったのは、信仰物理学者・日下部四郎太が教える「少なく読んで多く考える」という言葉です。この箴言は日下部の学生時代に後輩であった物理学者・寺田寅彦が随筆「読書の今昔」(昭和七年一月 東京ン日日新聞)で紹介したものです。「少なく読んで」とは多読をやめるということです。一つの論文一冊の本に絞ることです。「多く考える」とは継続して考えるということです。両者を実現するにはまず週六回書くと決め、月~土曜日まで曜日ごとに異なるテーマを設定することです。一週間に六つのテーマで自分の好奇心を満たし、週に一日一つのテーマをだけを考えこれを毎週実行するという形態を考えてみました。これで多様な関心と単一作品の完成を両方とも実現することができるのではないかと思ったわけです。でも、こんなことが可能なのか自分でさえ疑いました。そういう背中を押してくれたのは「歳をとったらやることは小分けにせよ」という晩年の吉本隆明のヒントでした。そこで思いついたのは、書きたいことをできるだけ一つに絞りA4一枚に収まる短い文章にすることです。

 それでも毎日書くというのは大変なプレッシャーです。急な用事だって出てきます。これまた自分に実行の二の足を踏ませました。どうすればいいか。これはあっさり解決しました、前もって一週間分のブログを書いてしまいアップロードを予約しておけばいいと思ったことです。これは意外にも毎日のストレスを高めることがなくて済みました。あとはアクションを起こすことだけです。こうして、同じ曜日には同じテーマで書くという形態ができました。ですからカレンダーで前回のブログを探すなら、前週の同じ曜日をクリックしていただくとすぐに見つかります。

 まだ個々のテーマはまだ「多く考える」段階には至っていませんが、これまで未熟なブログにお付き合いいただいた方に深く感謝します。どうぞよいお年をお迎え下さい。なお、新年のブログは元旦から三日間お休みし四日から始めます。


雑談は楽し♪

2015-12-20 06:00:00 | 日記

 先日、地元の「川越民俗の会」(十一月例会)があった。今回は町のお米屋さんの中では最古参(?)のご主人(以下「お米屋さん」と呼ばせていただく)をお招きして、「戦中・戦後のお米屋さん事情」といったお話を聞いた。貴重な話がごまんとあって大変興味深かった。お話がひと通り終ればたいてい質疑応答に入る。最初はサービス心旺盛なひとが口火を切ることが多い。実物を持ち込むのも興味を掻きたてる。で、地元の話になると、これが盛り上がる。

 今回は、お話のあと、メンパというお米を量る容器を見せてもらった。米が一升ほども入るブリキでできた深底の容器だ。これがお米屋さんの業務には大変便利なものらしい。そのうち、一人が「土方弁当(どかたべんとう)」に似ていると言う。ここから談話の一部を再現してみよう。(「米」はお米屋さんの略、ABCは会員。「先」は会長の略)

.土方はここに蓋(ふた)をつけて食ったあもんだ。

.「メンパ弁当」と言ったんだ。

.それを「五(いつ)メンパ」と呼んだこともある。その弁当が五個もあるのか?と聞かれることもあるんだが、そうじゃないんだ。メンパ弁当は深いほうに身(三)を入れ、残りは蓋(二)だから、合わせて五つで「五メンパ」。

一同.(笑い)

  ここで、流れ始めた文脈を覚えていてほしい。次はお米屋さんの発言だ。

.先生、こういう話、知ってます? 明治何年かの大火のときに、八万三千軒焼けたという話があるのを知ってますか。

.ああ、そんなこというね。

.えッ、八万戸も焼けたんですか。

.うん、八万三千軒(はちまんさんせんげん)ね。

.そんなに焼けたんですか

.ちがうんだよ。八幡様と浅間神社が両方焼けたんだよ。こういって東京から来る新聞記者連中を煙にまいたのさ。

一同.(大爆笑)

.そうね、昔はそういう話を作る名人がいたんだよ。○○という人だが、これが面白い話をいっぱい作ったんだ。

 と、話題は地元の有名人の話に転換してゆく(こんな人がいたのか、これはおもしろそうだ)。さらに有力な一族の話まで展開してゆく。その前提は、参加者のうち最低一人は文脈を覚えていることにある。それぞれの情報を交換し合うのだが、みなさん結構なお歳だから、自分が見聞きしてきた事実の重みを知っている。だからうわさ話などは一切出さない。これがこの会の作法である(と、勝手に思っている)。これは落語ではない。我が「民俗の会」における雑談の一部なのである。

 私などは三〇年以上も住んでいながら、地元をよく知らず、雑談の文脈にもついてゆけず、つい手前の関心だけで、「昔、養鰻場をやっていた人がいると聞いたんですが、どこか分かりますか。」などと間抜けな質問をしてしまう。しかし、雑談メンバーは「文脈破壊者」にも優しい。(括弧は私の状況説明)

.ウナギの養殖ね・・・大学の近くに池もっている人があったんじゃないかな。

.あのさ、○○(地名)の方で、イワナの養殖やっている家があるぜ。そいで、養殖で使った水が、井戸を掘ってくみあげた水なんだが、それが田んぼの用水路に流れて、今では蛍が出てる(えーッ)。

.さっき話題になった○○さんは、ホタルの養殖やっているって聞いたけど。

.ああ、それは自宅で、趣味でやってんだ。そういう家は何軒かあるだよ。

.大学の近くには沼がえらくあってなあ、ライギョがいっぱいいたもんだ。

.そういぇや、たしかにライギョがいたな。

.ライギョって、旨いんですか。

.(即答)旨い!

.あぶらっぽいの?

.いや、すごくあっさりしている肉。

.天ぷらにして食うと旨い。

.ナマズの天ぷらもあるぜ。

.ライギョはナマズよりあっさりしている味だ。

.(ライギョは)けっこうデカイんだな。

.おお、(両腕を開いて)こんなんあるぜ。

.それは、デカすぎじゃない。

.いやあ、ホントにいるんだよ。(うでを広げて)1m20~30はあったな。

.でも、「ライギョ料理」ってあまり聞かないですね。

.気味悪くて、みんな食わねえのさ。

.ヘビみたいに背中に黒い縞模様がある。

.でも、今ではライギョ、いなくなっちゃったよね。

.むかし、○○公園にはいっぱい、いたね。

.なんで、いなくなっちゃたんだろうね。

.農薬に弱いんだろうな。

.除草剤の影響だろう。

.あ、そのせいか。ありゃー、何でも食っちゃうんだよな。バッタやカエルまでな。

.そうかそうか。餌が無くなっちゃったんだな。たしかに・・・虫も減った。

.あ、あのー、うなぎの話が出たんだけどね。蒲焼きにご飯がつきますよね。それに合う米というのはあるんですか。(さすがに先生は文脈を落とさない)

と、今度は米の種類、米の味が話題に変わってゆく。いやあ、この話題の展開、その中で得られる意外な知識。雑談は実に楽しい。「知識の温泉」と言いたい。こういう雑談が日本の「談話」の原型を造ってきたのかもしれない、などと考える。と、ふと伝統的な「連歌」を思い出す。自分にも連歌的な議論ができるといいなあ。文脈です。文脈。


死ぬ気でやってみな 死なないから

2015-12-15 06:00:00 | 日記

 母が入院している病院は高齢者が多いのですが、カウンター脇に書籍コーナーがあります。そこに「かつて」入院していた方の作品が展示されていることがあります。この言葉は見知らぬそのような方が、ペンを口にくわえて綴った「名言集」に記されてあったひとつです。それを全文紹介すると、

 死ぬ気でやってみな 死なないから そういう覚悟で実現できない夢はない 

  「死ぬ気でやる」。これは私の経験でいうと、自分の本気を表現したいとき小学生がよく口にする言葉です。そんなとき「死んだらなにもできないんじゃないの?」などと茶々を入れてしまうのが私の習癖。「茶々」とは冷やかしです。認識論的にいえば、相対化です。学校というところに勤める人間の悲しさは、自分のハラで思っていなくても、いつのまにか「本気」になっている自分に気付かないことです。大人でさえ「いのちは地球より重い」なんてことを真顔で口にすることがあります。そんなとき若い頃は相手に対して心で「バカ」とつぶやいてきましたが、歳を重ねてくると自然に相手に向って、「でも、地球が滅びたら命もなにもあったもんじゃない。いのちより地球が大事なんじゃないの?」などと茶々を入れる「智恵」もでてきましたが──。

 このようなウソは共同幻想のひとつです。学校に限らず共同幻想が真顔で主張される社会は危険です。真顔のその裏に特殊な利害が絡んでいるからです。そうなるとそのウソに同調しない者は邪魔になり排除する動きが出てきます。左右どちらにも言えることです。でも共同幻想と見破ることができる間はまだ救いがあります。ところが「死ぬ気でやる」という共同幻想がハラに入ってくると、コリャもう大変。本気で「ほんとうに死ぬ気でやれるだろうか」という自分への問いかけが始まります。自己対話という格闘が自分をさいなみます。さんざん悩んで「死ぬ気でやる」とハラを決めたとしましょう。それでも「やはり」と躊躇するのが人間です。人間は弱いのです。

 だから、どの社会どの時代でも「死ぬ気」を実現するには、それなりの作法(修練と儀式)を作り出してきたにちがいありません。戦後社会はそれを顧みることなく七〇年。作法を忘れ捨ててきたので、死に方を知らず「人間の弱さ」をいじくりまわすしかなかった。言葉は悪いが、弄んできたのではないか。その結果人口に膾炙(かいしゃ)していったのが「死ぬ気でやる」という言葉だったのではないでしょうか。

 特攻を志願する若者が「死ぬ気でやります」なんて口にしたらおかしいです。死ぬことが当たり前に思われていた時代に、「死ぬ気」をことさら口にすることはないはず。想像するしかないのですが、それなりの修練と儀式を踏まえ出撃してゆく若者のハラには眼前の敵以外に思うことはなく、むしろ無心に「勇躍壮途(ゆうやくそうと)につく」状態だったのではないでしょうか。

 だから、冒頭の一句中「死なないから」という言葉は私の目を惹きました。今の時代に、「死ぬ気でやる」と口にする空虚を衝いたものだという気がしたのです。言葉を変えれば、死を受容している方からの「無心になること」への願いと受けとりました。


介護に「しつけ」はいらない

2015-12-08 06:00:00 | 日記

 前回(先週の火曜日)、七年前に寝たきりになった母のこと、その症状から我々が以前に比べて衰えを感じていることを縷々述べました。どなたもそうだとは言えないと思いますが、子にとって親の衰えを目にするのは一つの心の動揺です。「心の動揺」とは、親の衰えに対して「正視に耐えられない」と感じる経験です。どなただったか、介護における老人虐待の裏に「しつけ」の存在を指摘されたとき、私はハッとし、腑におちました。「しつけ」は衰えを否定し逆行させる方向に為されるからです。親の衰えを見たくないのです。見たくないから元気だった時のカタチに「しつけ」たくなるんですね。軽微なものでは言葉の乱れから、ひどくなると手を出すことにまで及びます。

 私とって介護のほんとうの始まりは、この「しつけ」を放棄することだったと思います。いまから振り返れば、親が衰えてゆく姿をそのまま受容する歴史だったともいえます。「受容」とはどういうことかといえば、親の衰えをそのまま受けとめること、つらくても「しつけ」的な発想にいたらないこと。「そのまま」とは、家族として必要な時に必要な処置を行えることです。これらを目標にやってきました。そうすると、時折ですが母の「生き方」ではなくて「生きる力」のようなものを感じるときがあります。たとえば、口を開けたまま唸るときは、自分で胸を圧迫している痛みか、体の一部の位置が決まらなくて痛いのか。そういう訴えだけかといえば、そうではないのです。いつだったか、妻がこんなことを呟きました。──母がテレビ番組あるいはそれを見ている私等について何ごとかを語っている、そこでの話題に怖がったり憤慨したりしているのではないか。その意見に目のウロコが落ちたのです。これは介護し介護される関係をちょっと大きくみることからやってくる気付きだということになります。

 日常生活への関心といってしまえばそれまでですが、もう自分では口で食べることも、自分では身動きも、痰をだすことも、もちろん排泄の始末なんかはずっと前に、できなくなっています。でも、まだ、自力で呼吸できているだけでなく、テレビの番組の鑑賞に参加しているという指摘に、私ははっとしました。たしかに考えてみれば当然です。視力はもう失っているといっても聴く方は大丈夫なのですから、聴くことによって精神は何ごとかを営んでいる。言葉にできないが自己とは対話している。痛みや痒みについても同じです。それが生きることの一部を成していることに、改めて気付かされたわけです。というよりか、この精神のありかたこそが「生きる力」にほかならないという感触を大事に思いたい。母が生きる姿をもっと深く知りたい。生きるという人間の姿をもっと広く見たい。

 では、人間が肉体的に衰えてゆくとき、あるいは精神的に立ちあがれないほど落ち込んだとき、あるいは両方ダメだと思ったとき、人間はどのように「生きる力」を喚び起こすのか、ここには壮絶な自己との戦い(対話)があるのではないか。そんな人々の姿を採集してみたい。これこそ「ハラのことば」が生み出される母胎にちがいありません。毎週火曜日そんな試行錯誤を綴ってみようと思います。


いま、母のこと

2015-12-01 06:00:00 | 日記

 私の母は、いま八十七歳、来年の三月三〇日になれば米寿になる。今年の四月下旬から入院している。パーキンソン病を発病したのが、六〇歳を過ぎた頃だったから、もうこの病気とのつきあいは二十八年になろうとしている。この病気の特徴と言えば、徐々に身体の自由が効かなくなることだ。中には転倒して骨折で寝たきりになる人が多いらしいが、母は運がいいのか、慎重に自分の身体とつきあってきたのか、骨折は一度もなく、今から七年前の一〇月に持病の喘息が出て、私に「病院に連れて行け」と言って入院した。母八〇歳のときだった。それ以来、入院の常連になった。

そして、症状が安定した翌年からは、一年間に半分ほどは家で介護をして、もう半分は私たちの休養ということにして、リハビリを目的に毎年入院させてもらっている。私が退職したのが「入院の常連」になった年の三月だったから、母と同じくやはリ本格的な介護を始めて、来年の四月で八年介護してきたことになる。妻も退職して来年同月で四年になる。二人して家で介護をするときは、口腔ケアから下の世話まで総てやってきた。

今年で七回目の入院はもう七ヶ月になる。いつ退院させたらいいか目下夫婦での協議事項なのだが、まだ結論がでていない。というのは母の症状が重くなってきたことだ。もうしばらく前から話ができなくなり、寝返りは「病院に連れて行け」入院以来できていない。おまけに両腕は内側に曲がり両手は固縮が進み、あらぬ方向を指している。これでは爪切りが難しい。また緊張が襲うときに胸への圧迫を緩和するために、常時手首と胸の間に低反発スポンジを挟んでいる。そのために皮膚が弱くなってこのケアは妻が関心をもってクリームの選択に頭を悩ましている。母が自分で動かせるのはもう瞼だけだが、これも怪しくなってきた。だが、いまいちばん厄介なのは嚥下能力が低下してきて痰を吸引してあげる機会が頻繁になってきたことのように思われる。軽い喘息症状も見られる。──と考えると退院を決めるのに躊躇する。

 こんな母でも、毎年夏になると田舎から母の姉(今年で九十歳)が曾孫たちと一緒に見舞いに来てくれる。けっこう遠い所なのに日帰りで見舞いに来てもらって、今年で十一年目になった。この伯母は元気で話すことができるが、とうに腰は曲がり耳も遠い。反対に母は話せず、両眼とも緑内障による失明状態で寝たきりだが、耳はいい。変な組み合わせだが、さすが仲良し姉妹だ感じることがある。たとえば、二人が対面する場面はちょっと楽しい。三年前には、伯母が「きっと元気になるんだよ」と呼びかけると、見えない目を開け小さく頷いていた。その表情が見えても伯母は妹の声が聞きたいのだ、聞きたいから何遍もこの呼びかけを繰り返す。母の方は堪らないから「わがったあ」と絞り出すように返事。周りの者がちょっと驚くほどだ。昨年は、目だけは開けたが返事はできなかった。今年は目もつむったままだった。

私たちは毎週一~二回、病院に洗濯物を取り換えに通う。洗濯は病院に頼めるが意識的にそうしている。病室を訪ねる。まず寝たきりの母に声を掛け、家の方であったことなどを話しかける。目はいつもつむったままだが、私たちが来院したことに気付いているのか、ぐっすり眠っているのかは顔つきですぐに判る。妻は連絡ノートに目を通してから、介護や看護職員が母と接するときの話題を提供するためにあれこれ記入している。それが終ると、積極的に声をかけ、九月に生まれた曾孫のことなどを話題にしている。いちど娘夫婦が見舞いに行き、曾孫ができると知らせたときはパッと目をあけたらしい。

私一人の時は、洗濯して持ってきたものを整理ダンスに入れ、代わりに汚れ物をバッグにビニール袋ごと入れ替えたら、「また来るね」などと言って直ぐに帰ることが多い。母は知らんぷり。急ぎの用事がなくても最短五分で帰ることがしばしばだ。誤解してもらっては困るが、これは母の症状が良いときなのだ。安心して帰れるからそうなる。そうでないときは、マスクの下では開けっ放しの口で唸っている。ときには病室に響かせるほどの大音響だ。私はこれを聞くのが精神的にいちばんつらい。幼い頃から持病の喘息発作を目にしてきたばかりでなく、私が覚えている限り、これまでの入院はすべてがこの喘息がキッカケになっているからだ。そういうときは帰りにくい。でも、唸るのはすべて喘息が原因だというわけではない。むしろ少なくなったのは、お世話になっている職員の皆さんのお蔭。緊張している肩や腕を軽く長くマッサージしてあげると、足をさすってあげているうちに、唸りが収まるときもある。

 こうして短時間で帰れるのは母が静かに眠っているからだが、静かに寝ているときこそ、帰途、母の生き方、ではなくて「生きる力」とその根源を想うのです。


ここにも、ハンサムウーマン

2013-09-02 23:16:03 | 日記

 二か月以上書かないでいたこのブログ、また再開します。

 今回は私の伯母の話です。お盆の季節になると、毎年会津若松に住む、ことし八十九歳になる伯母(母の姉)が寝たきりの母の見舞いに来てくれます。会津から川越まで、車で片道五時間ほどかけて、孫の家族が連れてきてくれるのです。もう十一年目になります。伯母は近頃は少なくなってきたようですが、まだまだ畑仕事の現役です。いつも丹精こめた野菜をたくさん持ってきてくれます。母はここ数年、夏になると熱中症対策とリハビリのために入院しているので、伯母たちを直接病院に案内することになります。

 病棟でお世話になっている職員の方から聞く感想が、まず伯母と母の顔がよく似ているという声です。私にはあまりそうだと意識したことは少ないのですが、たしかに似ているようです。ずいぶん昔のことですが、従妹が我が家に遊びに来ていたとき、後ろ姿をみて「母ちゃん」と呼びまちがえていましたから、体つきも似ていたのでしょう。でも今の母はやせ衰えており、目はほとんど見えず、両腕を固縮させ、言葉数も少なくなっています。でも一つだけしっかりしているのが聞こえです。一方、伯母は腰は曲がっていますが、自力で歩行できます。また目も歯も大丈夫ですが、いささか耳が遠くなっています。二人の会話はこんな始まりです。

 伯母が、「タカセ(伯母の住む土地の名)だよ、ワカル?」 頷いているようにも見えますが、母は無言です。母の声を確認できないせいなのか、伯母は同じ問いかけを二回三回、いや四回五回と呼びかけます。ついに母はしぼりだすように、「ワカル」と答えるのです。

 こんなふうにして一年ぶりの会話がはじまるのです。まだ母がもう少し自由に話せたときには、伯母はベッド脇に腰かけ二人でいつまでも楽しそうに話していました。近頃はめっきり伯母の話しかけのほうが多くなりました。そこでいつも語られるのは、「来年も来るから必ず元気になるんだよ」という励ましです。母の病気が難病でよくはならないと分かっているはずなのに、「元気になること」を信じ願うことに一点のくもりも感じない語りかけなのです。私はこの場面に接する度に、自分の言葉の薄っぺらさを反省しないわけにはいきません。自分の病気のことは熟知しているはずの母も、繰返される姉の言葉についに「ワカッタ」といってしまっているのではないかと思えます。

 今回は口腔ケアを担当する職員のかたも同席していたせいでしょうか、伯母は、「お医者さんや看護婦さんたちのいうことをよく聞いて必ずよくなるんだよ」と、母に言い聞かせたばかりか、母の人生の一コマにも触れる話をしてくれました。母が三歳、伯母が七歳のころまだ二十六歳と若かった産みの母が亡くなりました。今年のように暑い夏に倒れたのです。その後の母の人生におけるがんばりを語ってくれました。伯母だって幼くして産みの母を失ったのですから、姉の立場としてはもっと苦労してきたはずです。でもそんなことは口にしないのです。あとでこの職員のかたに聞いたことですが、このあと母は当時の苦労話を語ったそうです。

 「ならぬことはならぬ」とは、大河ドラマ『八重の桜』で、広く知られることになりましたが、この教えをひっくり返せば、「よいことはよい、いいことはやってみなければならない」とドラマのセリフにもありました(うろおぼえですが)。ここにも、ハンサムウーマンがいる。私にはそのように思えました。

 

 

 


穴掘り熱中少年

2013-03-02 22:58:56 | 日記

 一息入れます。

 前に「すごいぞ 富士山麓農民」というコラムを書きました。それは、自然災害を逆手にとって溶岩原野を開拓する百姓たちの姿に感動したからです。ですが、もう少し考えてみますと、私は、どうも用水路という「隧道(トンネル)」に反応したのではないかと思うのです。これを書いた後、トンネルや穴についての記憶が次々に思い出されて来るからです。

 いつ頃だったか、友人が息子の「穴掘り癖」について語っていたのを思い出します。その子は幼い頃から地面に穴を掘るのが大好きで、やや長じてもスコップで穴掘りばかりして遊んでいたので、電信柱を設置する会社に就職するという話でした。私は笑って聞いていましたが、密かに(自分もそうだったなあ)と思いながらあれこれ記憶をたどっていました。

 田舎の冬景色で思い出すことは、まず雪が積もりますから、踏み固められている道路に落とし穴を掘ることでした。誰かを落してやろうなんて考えていません。それらしく見えない所に穴が空いているという空想が楽しかったのだ思います。雪のない季節は、村のお兄さんたちといっしょにちょっとした空地や川原の土手にも掘って遊びました。冬に戻りますが、他にもちょうど石造りの橋のような人が登れるような大きな台形をつくって、そこに穴を開けて川が流れる様子を空想するのです。もちろん遊び仲間の従兄弟でといっしょにです。あとは、かまくらです。低学年の子供の力で雪を背の丈以上に積みあげるのは容易ではありませんから、屋根の雪がゴソッと落ちてうずたかくなった山に穴を穿つのです。ここに七輪を持ち込んで餅を焼くのが目標でしたが、空洞ができあがってしまうと、なんだかつまらなくなってしまい、それで終わりでした。

 村の北側には猪苗代湖から西に流れてくる大きな川があり、向い側の台地にぶつかり手前にカーブしていました。その水のぶつかる場所は大きくえぐれている、つまり穴が空いていると伝えられていました。そこはいつも水が渦巻いていました。話題がそこに来ると、きまって母の思い出話の登場です。戦時中といえども、子供にとって夏はいつも水浴びの季節です。村の子供らがそこで泳ぎます。東京から疎開していた家族があって、そこの子供たちも水浴びに来ていたそうです。そんなある日、そのうちの一人が渦巻き付近で溺れて沈んだのを見た母がそこに飛び込んで救助したという自慢話です。母15~16歳頃だったと思われます。戦後の話に戻りますが、その川は定期的に上流の水門が昼間だけ閉められ水量が少なくなる日がありました。こういう日には私はこの穴捜しに何遍も潜った覚えがあります。しかし、自分が描いていたような大きな穴はついに見つけられませんでした。

  中学年のころには村を離れ会津若松市の郊外に越していました。私の遊び場は母が勤める大きい工場のある広い敷地でした。ここにはまだ工場全体のインフラがが未完成なのか、大きなコンクリート製の土管がいくつもあった気がします。というのも、この頃土管に潜って遊んだことはたしかな記憶なのですが、どこにあったか考えると此所しかないように思えるのです。土管の中に潜って何かしようといいうことはないのですが、そこにすわっているとなぜかホッとしました。いわゆる子供の隠れ家だったのかもしれません。ここを自分の住処にするにはどうしたらいいのかと空想していたのではないでしょうか。ちょうどその頃学校の映画会で「漂流記」というタイトルだったかどうかはっきりしないのですが、乗っていた舟が難破して無人島に漂着する子供たちの物語を見たからです。彼らは生きるためのさまざまな工夫を試行錯誤していくのですが、私に強烈な印象を残したのは大樹の上に造りあげる家でした。今でいうツリーハウスです。自分でも作りたくて作りたくて仕方なかったことを覚えています。自分だけの居場所がほしかったものと見えます。

 テレビが見られるようになってから間もなくですから、中学年になったばかりではないでしょうか。NHKの夕方の子供向けの番組で、お坊さんのような風体の大人が、大きな岩に向かって鑿(のみ)と鎚(つち)だけで、そこに住む集落のために人間が行き来できる隧道(トンネル)を堀抜こうとする物語です。他にはタイトルも話の内容も記憶にないのですが、これもいまだに心に残っています。岩に「穴を穿つ」といえばイメージはまずここが起点です。とにかく毎日掘っていく場面が続く番組でした。最後は貫通させるのですが、一人の小さな力でもコツコツやればなんとかなるという思想を心から合点した体験です。ところがどういうわけか、心にはそう思ってもちっとも実行できない人間になったのは、おそらく高学年になって、繰り返し見た植木等の映画のせいにちがいありません。こう言っていいかどうかわかりませんが、欲望の赴くままに調子よく行動する人間像になんだかスカッとする思いを感じていたからだと、今は亡き植木さんのせいにしておきましょう。

 そんな自分にショックを与えた事件が起きました。それは原っぱに置き去りにされていた保冷庫に入った子供が内側から扉を開けられず、窒息死するという痛ましい事故でした。これを新聞かテレビで知った私は、遺体には胸をかきむしった無数の傷が残されていたという報道に敏感に反応しました。しばらくその苦しさを想像しては、それこそ自分も息を詰めていたのです。このことがあったせいか、穴でも空洞でもトンネルでも先が開放されているその先にも思いを馳せるようになったのだと言いたいところですが、そんなことはわかりません。

 高学年の頃は白虎隊で有名な飯盛山に自転車でよく遊びに行きました。ここには栄螺堂(さざえどう)という面白い仏堂がありました。相当古い建物ですが、入場料も要らず自由に入れます。ここは入口を登ると最上階を経由して出口に下りてくるまで、のぼる誰とも会わずに戻ってこれるふしぎな建物でした。この栄螺堂を使って会津軍は薩長軍をまいて逃げたのだという大人の話を聞いたことがありましたが、よくよくあとで考えてみると、この仏堂の中心軸から下ってくる人影は見えるし、出口が敵軍に包囲されていたらアウトでしょう、なんて考えたことがありました。ここはいわば、のぼりくだりが別々にあるトンネルなのです。これが楽しくてかくれんぼや鬼ごっこをして遊んだものです。

 この飯盛山の栄螺堂の山側には洞窟がありました。ここからは水量の豊富な流れが結構ダイナミックで、その前が大きな池になっていました。遊び疲れると、その水が流れてくる洞窟の穴をずっと見つめていたことを思い出します。この穴の先は、猪苗代湖に取水口があります。それはアタマでわかっていてもその水流の過程が想像できません。というのは、この穴の上流にある「戸の口原(?)」は、戊辰戦争時に官軍と白虎隊を含めた会津軍が戦った戦場です。戦況不利になった白虎隊は、この隧道を通って退却してきたという言い伝えがあったからです。白虎隊の少年たちは、この水の中をどうやって流されてきたのか、溺れなかったのか心配になったりしてどきどきしていました。

 この心配は中学になって、白虎隊の少年が通った藩校の日新館には「水練場」があって、水泳はできたのだと知って腑に落ちた憶えがあります。また大人になってからですが、ウォータースライダーを幼かった我が子を抱いて滑り下りるとき、ふと白虎隊もこんな感じだったかと思ったこともありました。ところで、私は最近知ったのですが、もと白虎隊の生き残りだった人物の書いた当時の記録が平成期になって発見されたそうです。彼が戸の口原(?)から逃れる時は、別ルートで城下に入ったそうですから、隧道退却説は先に知られていた生き残りの「飯沼貞吉」さんの証言だったのでしょうか。

 キリがありませんね。でも、こんなことを思い出しているうちに気付いたことが一つあるのです。「穴を掘る」という表象は、「入門」という事態に似ているということです。ともに先にあるものは未知だからです。この未知に遭遇することが謎ときに一致するならば、「穴掘り」も「入門」も、きっと楽しいものになるにちがいない、これです。なんだか昨日と同じようなオチになってしまいましたが、ひっくり返して言えば両者とも、必ずしも貫通する必要も上達する必要もない、そういうことです。