尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

生き方を考える場所──「第二章 食物の個人自由」を読む(7)

2014-05-16 19:21:43 | 

 (4)刺身と名づけて魚を生で食うことは、牛鍋・鰻飯などと同じく日本料理の代表のように扱われていますが、これも新世相の一つでそんなに昔からあるものではないのです。ではいつどのように始まったのか。柳田の仮説はこうです。

≪いわゆる早鮓の流行が刺身と提携して現われたろうという事は、まだ断定するのには早いかも知らぬが、少なくともこの二つは同じ歴史の偶然なる原因によって、ほぼ同じ頃からだんだんに頭を挙げて来たという関係をもっている。≫

  「提携」とは、鮨(はやずし)の流行は刺身の助けを必要とし、刺身の普及には鮨(はやずし)の助けを必要とする関係です。どうしてこのような「提携」が可能になったのか。その原因は「二つは同じ歴史の偶然」だとしか述べていません。どういうことでしょうか。考えるに、鮨(はやずし)の流行は商品の流通過程に乗ることで可能になりました。刺身も同じなのです。柳田が言うように、「早便の運送が開け、さらに冷蔵装置の完備する」ようになることです。つまり、刺身(鮮魚)の流行も商品として時代の流通過程に乗ることなのです。この流通過程が充実してくれば、新鮮なネタを求める鮨屋が鮮魚の流通に関心を持ち、新鮮な刺身を都市部に提供したい鮮魚屋が市場に関心を持つ限り、両者の出会いは同じ必然(流通過程)下での偶然(需要と供給の一致)です。これが「二つは同じ歴史の偶然」の意味です。

 これを私たちの問題として考えてみれば、もっと分かりやすく説くことができます。たとえば旅先の鮨屋で旨い握りを口にしたとしましょう。美味いのはシャリと合体した地元ネタだと気がつけば、ネタそのものをじっくりと味わいたいと思うのは自然な欲望です。流通網が発達せず居住地では得がたいとすれば、またかの港町にいって食したいものだと想望するにちがいありません。流通網が改善されて手軽に口にできれば、この地元ネタはそれこそ爆発的に普及することになるでしょう。平成の現代でも見られる光景です。

 (5)刺身が鮨(はやずし)の流行と提携しつつ現われる原因の二つめは醤油の発明です。これがまた鮨と刺身にとって好都合な存在でした。たしかに鮨も刺身も醤油につければすこぶる旨くなります(ワサビもほしいところですが)。ですから醤油との出会いは、鮨と刺身の流行を助けることになりました。醤油はどのような食品だったのでしょうか。

 ≪醤油の歴史はやや明治以前に遡るが、最初はもちろん生魚の味を佳ならしめんがために、考案せられたものでも何でもなかった。動機はむしろ反対の精進料理、すなわち寺方の嗜好品として国外から学んだものと思われるが、日本はこの種の調味料の醸造に非常に便宜の多い国であったとおぼしく、久しからずしてこれが一つの特産となり、西洋に輸出せられてソースの原(もと)になったという話もある。ちょうど甘酒が酢を発見させたように、最初はただもろみの中の水を掬(く)んで、塩気の代用に供したのであろうが、後には特にこのために多量の粕を搾るようになった。そうして明治年代が最もこの生産の躍進した時期であった。≫

 醤油は元をたどれば生魚を美味しくいただくために発明されたものではなかったのです。最初は精進料理における「嗜好品」として外国(たぶん中国)から取り寄せたものです。嗜好品とは栄養摂取を目的としない、香味や刺戟を得るための飲食物のことです。まあ各人各様の好みの品ですね。酒・茶・コーヒー・タバコの類です。千葉県の銚子の名産に「ひしお」がありますが、あのようなものだったかもしれません。もちろん醤油は発酵を応用した醸造品ですから、塩っ気としてはなかなか美味香気豊かだったのでしょう。汁を搾って醤油としての生産が始まり、明治年代がその最盛期になりました。

 このような醤油の全盛時代に、刺身が鮨の流行と提携しつつ「一つの新世相」として世の中に登場します。刺身は鮨ともども醤油に出会ったのです。一方の刺身の流行を促したのは、醤油との出会いばかりではありませんでした。酢の醸造技術が近代(明治)に入り、いよいよ精妙になってきたからです。刺身は酢によっても美味しさを味わうことができたのです。

 ここで、以上の「魚調理法の変遷」を「普及(流行)と分化」という観点で見直してみると、変遷とは、かつて世の中に普及していた物事が、しだいに新しい物事に分化して普及していくことだ、と見なすことができます。たとえば、鮓(なれずし)から鮨(はやずし)への変遷です。鮓(なれずし)は魚の独特な調理法であって、これから分化したとは考えられていても鮨(はやずし)は柔らかくなった白米の調理法という決定的な違いを持つ食品への変化です。この変化には断絶があり、同じ寿司とはいいながら、かつての調理法を忘却、あるいは食品そのものが消滅してしまうタイプです。

 次に鮨(はやずし)の変遷を思い起こすと、それはさらに分化を繰り返していきながら多様な形態を生みだし、総体としての鮨(はやずし)は全国に普及していきます。一方で、強力な提携相手が見つかると、それ自体が分化していく勢いをえます。鮨(はやすし)と提携した刺身がそうでした。鮨(はやずし)から刺身が分化していくときは、新たな流通過程が従来のそれから分化していきました。さらには醤油の発明が両者の普及を助けました。結果として鮨(はやずし)の普及は大きく拡大します。刺身はついに日本料理を語るときにはなくてはならないほどの存在になりました。醤油だって世界的な存在です。ここでの変遷は分化によって新たに商品が誕生しても従来の食品が消失することのないタイプです。

 後者の変遷のタイプは、普及が分化を生み、分化が普及を生みだし合う関係です。普及がより広範化するというのは、多様なかたちの分化が累積・濃厚化しより個別な存在が増えることです。このものごとの広範化と濃厚化との関係が密になるところとは、二つが互いに必要とし合う関係だと私は考えました。上に述べた鮨(はやずし)の変遷が一つの事例になると思います。ならば、「国民としての我々の生き方」がどう変化したか、本節ではどう論じられているでしょうか。書いてある場所は本節の最後です。

 ≪幸いなることはこれ(刺身・醤油・酢)が皆新種食品の追加であって、鮓の改良のごとく今まであったものを滅してしまわなかった。永く併存しまた次第に譲り合って、おのおのの用途を割拠している。四海を洋海とする日本国ではあるが、北と南とでは魚の種類も味もちがっている。新たに缶詰の製法が起れば、缶詰の魚にもまた一隅の領分を付与することができた。自由な選択は常に消費者の幸福に帰着する。ただその間に折々の偏見の存するのを悲しむべきのみである。≫

  ここで垣間見える我々の生き方とは、我々の歴史への態度、歴史への関わり方といってよいものです。鮓(なれずし)から鮨(はやずし)へ変遷のように古いものを滅し忘却して新製品に没頭していく態度。もう一つは、刺身・醤油・酢の誕生が物語るように、古いものを滅ばさずそれを活かしつつ新製品を生みだす態度。後者は選択肢を増やすことに繋がります。これら二つの生き方が浮かび上がってきます。柳田はどちらか一方が正しいと言っているわけではありません。それは本節を締め括ることばが何よりも雄弁に物語っています。すなわち、──「自由な選択は常に消費者の幸福に帰着する。ただその間に折々の偏見の存するのを悲しむべきのみである」。すなわち、生き方を考えるのはここなんだよ、そういうメッセージが伝わります。(続く)


嗜好性の探求──「第二章 食物の個人自由」を読む(6)

2014-05-14 22:35:41 | 

「四 魚調理法の変遷」

 いよいよ第四節です。ここで共同すべき問題は、引き続き「なぜ柔らかい食物が好まれるようになったのか」という疑問です。前節では、まず精白米が普及する中で飯茶碗の形態や米の消費量の増加という分化が現われ、それが変化の原因になってきたことを見、分化はさらに米の消費量の増加を経験する中で、困ったことに「米大切」という我々の窮屈な生き方が析出・分化されてきた過程を見てきたわけです。

 さらに、我々の「米大切」の生き方が普及すると、他の穀物類の生産や研究が停滞してくるという食料問題が分化してきます。でも、我々はこの事態をただ黙視していたのではなく、米を使った多様な調理法を開発する途を選んできました。これは柳田が「最も親切な」と高く評価する解決策ですが、我々の嗜好性を抜きには実験しえない試みです。いかに我々の嗜好を繰り込みつつ柔らかい食物を普及させて来たのか。焦点化していえば、嗜好性の探究(変遷)です。私は、本節「魚調理法の変遷」はこれを探る文脈に位置づけられると考えます。この節も五つの話からなります。

 (1)まず冒頭で柳田は「白米が白くなり過ぎた主たる原因は、鮨米の誘惑であったように考えている人がある」と問題を投げかけます。私などは、あっソウカモなどと思ってしまいましたが、柳田の結論はこうです。白米と鮓とはまるまる関係がなかったと言い切れないけれど、今日の寿司にはそれ自体に変遷があって、決して明治以前から、今の通りのものを食っていたのではない、ということです。

 ここで柳田はスシに複数の漢語を当てていますので、それを調べておきましょう。『広辞苑』によると、「寿司」は当て字で縁起を担いだことばだから置いといて。スシには「鮓」「鮨」二つの漢字が当てられています。意味はやはり二つ記載されていて、①魚介類を塩蔵して自然発酵させたもの。また、さらに飯を加えて発酵を促したもの。なれずし。生成り。②酢と調味料とを適宜にまぜ合わせた飯に、魚介類・野菜などを取り合わせたもの。いいずし・おしずし・はこずし・にぎりずし・まきずし・ちらしずしなど。ふつう「早鮓(はやずし)」と呼ばれます。辞書の意味ではっきり分かるのは、スシには二つの系統あるということです。柳田は①の系統を意味するときは「鮓」を、②の系統を意味するときは「鮨」を使っていると思われます。私は二つの違いを強調したいときには、鮓(なれずし)、鮨(はやずし)というふうに区別して表記します。

 (2)まず鮓(なれずし)の変遷です。これは各地に実例が残っているので、比較によってその変遷の経路が立てやすいといいます。鮓は平安末期の『土佐物語』にも記載があるように、最初はただ魚類を保存する方法の一つでした。海川の獲物はしばしば豊富な収穫に遇ったときは、他日の用に備えたのです。その方法はまず干物にすることです。これは運搬に便利でした。次は塩漬けですがこれは塩の加減が難しく風味が変わってしまうのが欠点でした。しかし、鮓(なれずし)は単に塩蔵するにとどまらず、飯を加え発酵を促すことによって肉質を柔らかくしたうえ、新たなる風味香気を獲得したてんが先の二つと異なります。いいかえれば、我々の嗜好性を刺戟したのです。

 (3)ところが、醸造酢が外部から供給され、寿司の製法は一変します。「早鮓(はやずし)」と呼ばれるものがそれです。予め飯に酢を加えておいてから魚介類と取り合わせるのです。取り合わせ方はいろいろあって握ったり巻いたりして多様な鮨を普及させましたが、その趣向・工夫は「握り飯」に近いものでした。つまり既に白米化した飯の食べ方の工夫、あるいは飯に新たな風味香気を加えたものにほかなりません。

 だからこれを鮓(なれずし)製法の改良だったというには無理があります。なぜなら、鮓の要件は「馴れる」という点にあったからです。「馴れる」とは魚介類と飯とを一緒にして重しでもって漬けることです。日数をかけて漬けることによって米と魚とが変質(発酵によってタンパク質やデンプンが分解され、独特の風味香気を生む)するのを待って食べるのです。この点、鮨(はやずし)はスシメシに取り合わせるのですから、風味香気も薄めになったものでしょう。ですから鮓(なれずし)から鮨(はやずし)への分化は同じスシでも内容が一変する過程だったといえます。そして鮨(はやずし)はやがて全国に風靡していきます。どのように流行していったのでしょうか。柳田はこう述べています。

 ≪都市はむしろ新奇なる物の味を、次から次へと尋ねて行く傾向を持っているが、ことに専門の飲食店が、これを日々の商品として取り扱うようになると、その変化が急速なようである。≫

 鮨(はやずし)の普及プロセスとは、「専門の飲食店が、これを日々の商品として取り扱うようになる」ことなのです。鮨(はやずし)が専門の飲食店の商品になること、一言でいえば商品の流通過程に乗ることです(当たり前と言えば、不遜に思われるでしょうか)。では、鮨(はやずし)の流行は我々の生活の内外にどのような影響を及ぼしていくのでしょうか。(続き)


我々の生き方が見えてくる──「第二章 食物の個人自由」を読む(5)

2014-05-14 09:26:42 | 

(3)強飯ばかりであった時代から固粥が普及していく時代への変化、言い換えれば毎日の米の飯が柔らかくなってきたこと、ぐっと縮めていえば「飯の進化」ですが、この変化には「また新しい幾つかの原因が来たり加わっている」と柳田は述べています。二つ加えています。一つは飯茶碗と杓子の形態の変化、二つは米の消費量の増加です。

 まず飯茶碗は、ずっと昔の木製の御器(ふた付きの碗)から陶器製に取って代ってからも、しばらくは壺形(梅干の容器に似たもの?)でした。これがおいおい朝顔形の平めになり、さらに皿形へ進んで行こうとしています。これは「飯が次第に盛りやすくなって来た証拠である」と分析します。

 今度は杓子の変化です。ずっと以前はスプーンのように中を十分に凹ませたものから、今は凹みの痕跡を遺すのみで、ほとんと一枚の平たい板片に変っています。この変化から何が分かるかというと、「飯が強飯のごとくぽろぽろと飜(こぼ)れやすいか、もしくは現在のカユのようなものであったなら、こうした杓子は役に立たなかったはずである。ちょうど豆腐の程度に切って載せてよそうように変化して、始めてこの篦(へら)式のものを普通とすることができたので、これが新しいということはすなわち今の飯の製法の固有のものでないことを意味する」と解説しています。「豆腐の程度」とはうまいこというものです。米飯を豆腐のような形を成すには「少なくとも白米の皮をできるだけ厚く剥いて、糊を多く作って粒と粒との結合を十分ならしめる必要」があります。つまり杓子が篦式に変ったこと一つだけで精米(白米化)の必要を説明できるのです。

 ここにも社会的分化があります。米飯食を担う茶碗や杓子の形態が従来のものと取って変わること、広く言えば、みんな同じ形態だったものから異なる形態が生まれることが分化なのです。米が玄米から白米に変わること、これもまた分化です。白米の弊害が脚気病となって現われることは次の話の冒頭で触れられていますが、これさえ行き過ぎではあるけど分化にちがいありません。柳田は米の進化における二つめの原因を米の消費量の増加に求めています。これが次の話になります。

その前に、ここで柳田は、「問題の共同」という方法によって『世相篇』を解読しようという私にとって、とても有意味なことを述べています。こうです。

 ≪(柔らかくなる飯米の普及の)いかなる影響が個人生活の内部、及び外の方の交通の上に出現しているか、考えてみようとした人もまだ多くないらしいが、・・・≫

 

 これは従来の歴史研究に対する批評ですが、同時に自分の方法の開示です。「問題の共同」の普及にともなう分化の影響は、個人生活の内部と外部交通の両方面に出現する、こう教えているのです。文脈に沿っていえば、米が柔らかくなってゆくこと(普及)の影響は、個人生活の内部では茶碗や杓子の形態変化や白米化という分化──この分化は行き過ぎて脚気病を招いた──を出現させ、その外部交通の方面では米の消費量の増加という分化を出現させる。自分にも使えそうな知識です。

 (4)では米の消費量の問題です。これが以前は今日(もちろん昭和初期)のように多くなかったのです。

≪(以前は)稲を栽培しなかった土地はすでに弘く、米は通例城下と湊町とより他へは、輸送せらるる途が付いていなかったのである。畠場や山間でこれを常食に供し得なかったのはもちろん、田を耕す村々でも米の飯は始終控え目であった。明治二十何年頃に独逸人のエッゲルトが、政府のために調査をした際には、米は全国を平均して、全食料の五割一分内外を占めていると言った。兵士その他の町の慣習を持ち還る者が多くなるとともに、米を食う割合は次第に増すことであろうと説いている。その予言は確かに的中した。≫

  明治二〇年代に、米の割合が全食料中たった二十%前後とは少し驚きます。いつの間にか明治になってから米は一気に生産増加していたものとばかり思っていたからです。私の偏見でした。エッゲルトの予言通りに、兵営でさえ飯は目に見えて白くなり、米しか食わない人が増加し、粗悪な外国米が山奥まで運び入れられました。米の消費量が増大したのです。

 この変化は精白米が増えて我々の飯が柔らかくなった原因になったのですが、実はそれ以上に大きな変化(分化)をもたらしたのです。以前からあった議論ですが、米は日本人の主食だと信じて疑わない人々ばかりが日本の生活問題を論じようとしたこと。そして米の飯は贅沢、食えるだけで幸福だと思うような質朴な考えとが合体して、始終人々の注意を米に集めた結果、我々の食料問題を非常に窮屈にしたことです。米の消費量の増大という分化が、これまたもう一つの分化すなわち米中心に考える傾向をもたらしたというわけです。

 (5)その結果、米以外の食品の研究と改良とが停滞してしまいました。例えば麦は品種を取り換え、需要を繋ぎましたが、他の穀物の効用は閉塞してしまい、折角発展しかけた畠地の農業は退歩したのです。しかし、かつてはこうではなかったのです。米の消費は潤沢ではなかったからこそ、米を中心にした調理法は多彩で、家族の新しい美味しいを開発するような主婦の技術や気働きもここに発揮されました。例えばその料理──みそうず(味噌汁の雑炊、わんこ飯ですね)・雑炊・五目飯(・・・鮓も!)などに限らず、まだいくらもあるでしょうが、いずれもある時代の食料問題の、最も親切なる解決策だったのです。異なる分化が展開する可能性があったのです。だからこそ、国の栄養の未来を説く者はこの方面の改良を考えなければならない、そう柳田は言います。(おそらくこのモチーフが次節以降のテーマである「魚調理法の変遷」、「野菜と塩」などに繋がっていくと思われます。)

 私は本節で、我々の毎日の飯が柔らかくなりこれが全体に普及(広範化)するにともない、その影響は個人生活の内外にさまざまな分化を出現(濃厚化)させて行くありさまを見てきました。ここに広範化と濃厚化との密な関係を認めないわけには行かないようです。いよいよ「国民としての我々の生き方」がどう変化したかの問題が語られます。柳田は第三節「米大切」をこう締め括っています。

≪米の交易の突如たる隆盛に出くわして、人はまずその解放の喜びに酔うてしまったのである。米さえ食っていればという一つの幸福に安んじて、かえってその利用法を粗略にした形のあることは、木綿やモスリンの流行ともやや似ていた。そうして問題は決してヴィタミンBだけの消長ではなかったのである。≫

  ここに現われた我々の生き方は、「米さえ食っていればという一つの幸福に安んじて、かえってその利用法を粗略にした」、この一節に込められています。でも、もっと適切な言葉を私たちは既に知っています。「米大切」!(続く)


モノと心を区別する──「第二章 食物の個人自由」を読む(4)

2014-05-13 23:59:30 | 

「三 米大切」

 本節は五つの話から構成されています。前後の繋がり(文脈)を意識しつつ読んでいきます。

(1)一つめの話の冒頭で、「次には日本の食物の一般に柔かくなって来たこと、これにもあるいは婦人の力が、加わっているのではないかと考えられる。というわけは温かい冷たいにかかわらず、総体に鍋で煮る物が年とともに増加しているのである」と述べています。前節の関連で言えば、鍋料理の普及と女性の関与、結果とし増加した「温かいもの」を、巧みに取り入れながら連歌的に本節の主題に繋げています。それを疑問のかたちにしてみれば、「日本の食物が一般に柔らかくなってきたのはなぜか」ということになります。しかし、ここで注意が必要です。この主題をただ柔らかい食物が増えたのはなぜかという文脈だけで読んでいくと、次の第四節「魚調理法の変遷」、第五節「野菜と塩」の位置づけが分からなくなってしまうからです。

 というのは、前節で柳田は、現代世相から切り取った食物文化の傾向を四つ挙げていました。引用しておきます。

 ≪明治以降の日本の食物は、ほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。その一つは温かいものの多くなったこと、二つには柔かいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心付くように、概して食うものの甘くなって来たことである。これに種目の増加を添えて、四つと言ってもよいかも知らぬが、こちらはむしろ結果であった。≫

  二つめはどう書いてあるでしょうか。柔らかいものが「増えた」という言葉はありません。「柔かいものの好まるるようになった」と記してあるだけです。つまり柔らかい食物が増えたのではなく、我々の柔らかい食物への嗜好性が普及(広範化)したと書かれているのです。でも、この嗜好性が広がるには柔らかい食物の増加が前提になります。「日本の食物が一般に柔らかくなって来たのはなぜか」という本節の主題は、嗜好性の前提となる柔らかいものの増加・普及という意味だと受けとる必要があるのです。もっと言えばモノとココロを区別して読むということです。

 のっけから脱線が長くなってしまいました。一つめの話に戻ります。明治以降日本の食べ物は一般に柔らかくなってきましたが、古代はそうではなく我々の祖先は獣の肉を乾して食べ、これが不足すると今度は魚や貝を乾しただけで食べていました。もちろんこれらは固い食物です。特に熨し鮑などは酒の肴だったゆえに、今でもお祝い事の進物などに使われています。お祝い事に酒は付きものだからでしょう。ほかに木の実、それに生米までかみ砕いてお腹を満たしていたのです。おそらく我々のコメカミはぴくぴくと動いていたことでしょう。それに比べ現代の我々の歯は弱くなりました。

 (2)歯よりも大きいのは米噛(こめかみ)の問題です(これは柳田のシャレ?)。つまり「毎日の米の飯が柔かくなって来たこと」です。足利期の記録には「強飯(こわめし)」という言葉が出ているので、この頃には既に「強(こわ)くない飯」があったことが分かります。敷衍すると、日本における米飯の作り方には二通りあるのです。蒸すと煮るです。甑(こしき)や蒸籠で蒸して作るのを「強飯(こわめし/こわいい)」、今でも「御強(おこわ)」と呼んでいます。水を加えて鍋で煮て作るのを「姫飯(ひめいい)」といいます。二つは全く別物です。姫飯は固粥(かたがゆ)とも言い、水分の多いものを汁粥(しるがゆ)と言います。現在の飯に相当するのが固粥で、ふつう「お粥」と呼んでいるのが汁粥です。

 さて現在の飯(固粥系/鍋で煮る)がどうして今日のように普及するようになったのか。柳田は「軍陣行旅の盛んな時代に甑や蒸籠を運ぶことが煩わしくなり、自然に簡便な調理法として鍋で米を煮るようになったのではないかと言います。「最初のうちは水分をやや少なく、粒がはらはらと口の中で分かれて、噛まねば処理し得ないのを本式としていたのが、明治に入ってからさらに一段と御強(おこわ)には遠くなって、舌と顎(あご)とで押し潰しても呑み込まれるようになった。」こう述べています。

 強飯ばかりであった時代から固粥が普及していく変化を説いていますが、これが社会的分化です。このような分化の累積を柳田は「濃く(濃厚化)」(「時代が現世に接近するとともに、この問題の共同は弘くなりまた濃くなって来る」)と呼んでいるのではないかというのが、今の私の仮説です。(続く)


柳田国男の歴史学批判──「第二章 食物の個人自由」を読む(3)

2014-05-12 22:17:24 | 

 前回は、温かいもの(鍋料理)の普及の根本的な理由が、「家内食料の相異」とこれを可能にした「火の神道の譲歩」に存したことまでを辿りました。(4)は、温かいもの(鍋料理)の普及を媒介した小鍋の出現についてです。

(4)小鍋の出現は温かいものを提供したいという我々の工夫の産物であり、鍋料理の普及にともなう分化のかたちでした。しかし、小鍋を火にかけ周囲と異なる料理をつついて楽しむという行為を「小鍋立て」といいますが、これはやがて一段と「竈(かまど)の分裂」を容易にすることになります。

まず小鍋立てに大きな興味を抱いたのは若い女性たちでした。しかし、平安末期の歌学書や東北に伝承されている鳥の「ききなし」、さらに江戸期の多くの女訓の書、そして近頃まで行われていた田遊び歌には、小鍋立てが悪徳の一つだと記されています。特に、男のおらぬ日に「留守事」をするのは、今なお普通の家では面白いことと考えられていないのです。

 この感情の起りはどこにあったのか。柳田は、小鍋立ての楽しみに走る女性たちに対する悪感情は、「家庭における食物統一の破壊、大袈裟にいうならば火の神信仰への叛逆を怖れ」に、その起点があったと述べています。でもこれって「火の神道の譲歩」の再説です。ですから、ここでは小鍋立てに対する悪感情が歴史的なものであったことのほうが大事です。次の歴史学批判に繋がってゆくからです。

 (5)まず柳田の歴史学批判に耳を傾けることにしましょう。

 ≪歴史はいうまでもなくこの見解(「小鍋立て」に対する悪感情──引用者注)の当不当には論及しない。しかも事実としてぜひ知らなければならぬことは、かつてそれほどやかましく戒められていた小鍋立ての独立が、今では普通となり時としては主婦の気働きと認められるようになること、しかもある時代には何ゆえにさしも禁断せられ、またいかにして次第にその作法が改まって行ったかを、解説する者すらないことである。すなわち日本の風俗はすでに驚くべく変化しているので、固有の国風は少なくとも食事についてはそう明確にはこれを指示することができぬのである。≫

  柳田の歴史学批判の要点は三つあります。一つは「実験の歴史」の提案から必然的に導かれる論点で、変化を知るということ。二つは、ここが何ともユニークですが変化の動因を解説する者がいないという、この事実を知ることです。つまり歴史はその変化の動因まで説いていかねばならない、こういう期待です。ここは事実重視の口ぶりが多いという印象が強い柳田の発言からすれば意外な感じがしますが、変化の動因を(断定に陥らない程度に)説明せよと述べているのです。変化の動因を解説する目的は「国風」を明らかにすることです。でも、「実験の歴史」という方法だけでは「明確にはこれを指示することができ」ないのです。そればかりか、自分たちの歴史(変化)さえ信ずることもできない。

 ≪現在の実状においては、小鍋の利用にかけては我々はまず世界無類である。あるいは日本料理を言うとただちにいわゆる鋤焼(すきやき)の美を喋々する者も多いが、これはもちろん牛鶏の食用が、この頃始まったことも知らぬような、西洋の半可通(はんかつう)調子を合せた言葉である。しかも一方には秋田県などの貝焼から、こちらは町の大道の鍋焼饂飩(なべやきうどん)に至るまで、あらゆる銘々料理の方法は全国に行きわたり、味と材料との際限もない増加がある。これが僅々(きんきん)五六十年内の発明であり、また普及であることを信じ得ない者の多いのは、むしろ自然というべきである。≫

  いやはや手厳しい。だが私たちの現在においても事実でしょう。

 「国風」とはその国特有の風俗・習慣、くにぶりのことです。くにぶりを作り出すのは「国民としての我々の生き方」の歴史です。すなわち、「問題の共同」という方法によって我々の生き方を問題にせよ、こう言っていることに帰着します。とすれば、私たちは「問題の共同」という方法に新たに付け加えるべき条件を得ることができそうです。それは変化の動因をどのように解説すべきかという論点に関わってきます。

(6)温かいもの(鍋料理)の変化の起りは「小鍋立て」にあったと仮に分かったとしても、鍋が今日のような発達を見るに至った理由をどう説明するか。柳田は二つ心づいたと述べています。一つは「飲物との関係」、二つは「女性の関与」です。要点だけ記します。前者については、まず温かな飲料が親しまれ始めたのは、お茶が常人の家庭に入ってきてからです。酒を燗して呑むようになったのは『平家物語』に挿話があるように、その頃だろうといいます。とにかく、「人が温かいものを喜ぶ風は、最初から今のように濃厚でなく、中頃酒茶の常用に誘導せられて、特にふうふうと吹いて食うようなものを、御馳走と感ずるようになったらしい」と書きます。「中頃」を中世と考えても、今と昔の間と考えても、とにかく平安末期から中世を挟んで近世そして近代へと飲物を通して「人が温かいものを喜ぶ風」が濃厚になってきたと傍証しています。

 (7)二つめは、「女性の関与」すなわち「小鍋を愛した人たちの感化」から鍋が今日のような発達を見るに至った理由の説明です。柳田はこう述べています。

≪料理は昔から正式のものは男の作業であった。単に小規模なるただの日の食事のみが、主として婦人によって用意せられたのである。それが打ちくつろいだ火処の近くであったゆえに、当然に温かい食物は多かったわけで、母や妻娘などの親切を聯想(れんそう)することが、おそらくそういうできたての食事の、旨さ嬉しさを倍加したかと思う。衣服がよそ行き趣味をもって、漸次に常着を改良したのとは正反対に、飲食はいつでも勝手元から発達している。≫

 すなわち、ふだんの温かい食べ物にはいつも母や妻娘の親切な像が結びついていたこと、これが温かい食べ物が普及していく助力になったというのです。これにとどまらず、「飲食はいつでも勝手元から発達している」と記すように、女性の関与は「古例を無視した自由なる材料選択、それから手料理の無造作な試みが、徐々として本膳に影響を与え」てきた、その結果が我々の現在なのです。柳田は本節をこう結んでいます。女性への期待がイデオロギーでなく、歴史的な考証から導かれたことがよく分かります。

 ≪我々の食物の温かくなったということは、言わば料理の女性化の兆候である。行く行くこの問題を全部挙げて、彼等(女性たち)の管理に委ぬ(=委ねる)べき傾向を語るものと言ってよい。≫

 さて私たちは、歴史の動因を説明する柳田の試みから何を学べるでしょうか。

①変化の動因の説明は仮定であって、いつでも仲間の検証に窓を開いておくべきこと。

②変化の動因は、普及にともなう「分化」を契機にして説明できそうなこと。ここでは「小鍋立て」がそれに相当し、更なる分化(濃厚化)として「飲物との関係」や「女性の関与」が位置づけられること。

以上の二つをとりあえず確認しておきます。

 最後に、第二節の位置づけです。第一節の「村の香 祭の香」は先に、「概論的位置づけ」と記しました。いま言い換えれば、「問題の共同」の起ち上げ、のほうがよかったと思えます。では、第二節「小鍋立と鍋料理」はどうでしょう。食文化(温かいもの増加)を我々の問題(疑問)として歴史的に考えていくとき、「共同の飲食」から「小鍋立て」を経て「鍋料理の隆盛」という変遷は、昔からすでに普及していた「共同の飲食」から「小鍋立て」が分化し、やがて銘々料理としての「鍋料理」が新たな普及を迎えるというふうに語られていました。こう解釈すると、本節のタイトル「小鍋立と鍋料理」は合点できます。

 またこの分化は、さらに「飲物との関係」と「女性の関与」とに分化していく様相も描かれていました。分化が重ねられ濃厚化していくのです。そこで、本節を、「問題の共同」における歴史的構造(普及と分化)の文脈化と位置づけておきたいと思います。以後この文脈に沿って、柔らかいもの、甘いもの、種類の変遷が問題とされていきます。「国民としての我々の生き方」がどう変化したのかを説くのは、まだ少し先になります。(続く)


普及に伴う「分化」の芽ばえ──「第二章 食物の個人自由」を読む(2)

2014-05-12 16:13:37 | 

「二 小鍋立と鍋料理」

 前節では前代から近代へ変わる時代を背景に、我々の嗅覚経験の変遷を説く中で、ついに「火と食物の香」に辿りつきました。これを各論に具体化していくのが第二節「小鍋立と鍋料理」以降の節になります。焦点化される時代背景は近代化の過程です。ここでは七つの話から構成されています。 

(1)まず具体化の手続きとして現代世相の一面として「食物文化」を取りあげ、その特徴を色と音の場合と比べます。すなわち現代の食物文化において以前は大なる統一をもっていたが、次第に「分立」する勢いにあることを指摘します。具体的に言えば、明治以降の食物には著しい傾向が見られるのです。すなわち①温かいものが増えた、②柔らかいものが好まれる、③甘くなってきた、④(以上の結果から)種目の増加したこと、以上の四つです。そこで最初に「温かいもの」が問題(疑問)化されていきます。なぜ明治以降温かい食物が増えたのか、こういう疑問です。ここに「問題の共同」が起ち上がります。

 (2)そこで、「温かいもの」がどのようにして増加したのを確かめていかなければなりません。そのために「現代生活の横断面」すなわち各地の料理を比較してみるのです。そうすると、おおよその「趨向」(物事のなりゆき)がわかってきます。それをもとに「どういう順序を踏んで改まって行くのか」を考えるのです。これが、柳田のいう民俗学の方法です。

では、どんなことが分かって来たかというと、まず昔も飲食の温かいというのは「もてなし」(馳走)であったことです。神仏への供物にしても何か一品は湯気の立つ物を供えてきたのです。ところが大切な「賓客」に出すハレの食事になると儀式手続きに時間がかかり冷めてしまいます。こうなるともてなす側では温かいもので誠意を表したいと思っても、正式な食事を提供しようとすればするほど相手に伝わりにくくなります。その理由は簡単です。つまり「我々は共同の飲食ということを、温かいということよりもなお重んじた」からです。「共同の飲食」とは、「同じ火、同じ器をもって調理した物を、主客上下が相饗する」こと、「相饗(あいあえ)」とは、もてなす/もてなされることです。この共同飲食には早くからの仕度が必要でした。客に暖かい「小鍋のもの」を勧めるには、この「共同の飲食」という考え(ルール)を諦めるしかありません。

 (3)「共同の飲食」を守り支えて来たのは村の人々の「火の神道」という信仰です。それは、家の同じ火で調理した同じ食べ物を食べてこそ家の一員としての肉体を持てるという考え方です。これは火が自由にお運搬されるようになっても、久しく続いていきました。ですから、正式の食物はかえって配当が面倒なために、冷たくなってからようやく口に届いたのでした。

ところが「共同の飲食」のありかたが変っていくのです。柳田は実にざっくりと、鍋料理の隆盛にいたる過程を描いています。

 ≪それが最初にまず大きな器から取り分けて、別に進めるものを涼(さま)すまいとする心遣いより、鍋とかユキヒラとかいうものがだんだんに発明せられ、結局今日のごとき鍋料理の隆盛を見るに至ったのである。炭焼き技術の普及が、これを助けたことはむろんであるが、それよりも根本の理由は家内食料の相異及びそれを可能ならしめたる火の神道の譲歩であった。≫

 やや分かりにくい箇所ですが、最初は分配時間の短縮化でしょう。あとに控えている料理が冷めないようにする工夫です。次に、鍋やユキヒラの発明ですが、「ユキヒラ」とは、陶器製の土鍋で、蓋・持ち手・注ぎ口が付き、加熱がゆっくりで保温性に富む調理道具のことです。これまたもてなしの温かい料理を冷まさない我々の工夫です。そして現在の鍋料理の隆盛にいたるわけですが、ここで留意したいのは、温かいもの(鍋料理)が普及してゆく際には、分配の工夫とか小鍋の発明などがともなっているという理解です。

 鍋料理の普及(隆盛)とは言い換えればその一般化(普遍化)であり、それにともなって起ち上がるさまざまの工夫や発明とは「(社会的)分化」ではないか考えられるのです。柳田は食物文化全体の変遷を概括するとき「分立」という言葉を使っています(本節冒頭)が、私は過程的に言うならば「分化」が良いのではないかと考えています。理由の一つは辞書(広辞苑)的な意味からです。三つあります。①均質のものが異質のものに分かれること。またその結果。②社会的事象が単純・同質なものから複雑・異質なものへ分岐発展すること。③(生物学)発生に過程で細胞・組織などが形態的・機能的に特殊化し、異なった部分に分かれること。①は一般的な意味、②と③には「発展」や「過程」の言葉が見いだせるからです。

 このように見てくると、先の引用にあった「最初にまず大きな器から取り分けて、別に進めるものを涼(さま)すまいとする心遣いより、鍋とかユキヒラとかいうものがだんだんに発明せられ、結局今日のごとき鍋料理の隆盛を見るに至った」という一節には、「問題の共同」でいうところの広範化にともなう濃厚化(分化)の芽ばえを看取できるのではないでしょうか。

 話を戻します。さきの引用にあった鍋料理隆盛(普及)の根本理由である「家内食料の相異」とこれを可能にした「火の神道の譲歩」については、次の話で敷衍されていきます。(続く)


まず現代世相から疑問を立ち上げる──「第二章 食物の個人自由」を読む(1)

2014-05-11 02:35:31 | 

 第二章の構成を紹介しておきましょう。「一 村の香 祭の香」、「二 小鍋立と鍋料理」、「三 米大切」、「四 魚調理法の変遷」、「五 野菜と塩」、「六 菓子と砂糖」、「七 肉食の新日本式」、「八 外で飯食う事」の計八つの節から構成されています。表題を眺めていると内容が幾つも浮んで来ますが、論理として統一された筋道はよみがえってはきません。これを可能にしたいものです。それはともかく柳田の表題の付け方は内容の論理を自覚すればするほど秀逸に感じます。いつもほれぼれします。こんなことを感じつつ読んでいけたらと思います。

 

「一村の香 祭の香」

 柳田の「実験の歴史」という提案からみれば、誰でもが時代に変化を確認しやすい史料として感覚を取りあげるのはもっともなことです。我々の感覚は近代に入ってからどのような変化を見せるのか。「第一章 眼に映ずる世相」において、まず視覚(一部触覚)そして聴覚の変化を見てきました。その中から我々の「(時代は)もう、そうなってしまっている」といういささか没歴史的な生き方が浮彫りになってきたことを確かめてきました。「第二章 食物の個人自由」の冒頭を飾るこの節では、嗅覚を導入として触覚と味覚が史料として採用されていきます。ここでは五つの話から構成されています。

(1)まず現代(昭和)の世相から「物の香」を取りあげ、おいおいと整理される傾向にあることを指摘します。それは嗅ぐ能力の衰えという事実です。なぜ現代になって嗅覚は衰えたのか。その疑問が提示されます。「問題の共同」の成立です。ここで「問題」とは疑問に含まれるテーマのことです。とはいえ、このような疑問は逐一記述されるわけではないので補って読んでいくしかありません。

(2)そこで最初の疑問(問題)を小分けして考えていきます。最初に考えるべきは、我々の以前の嗅覚はどうであったかです。前代の嗅覚のありようを我々の問題として調べていくのです。柳田は我々は以前この鼻の感覚によって大切な人生を学び味わっていたと述べます。この歴史的事実はどこから得られるのか。柳田は田舎を歩けばわかると述べ、日本アルプスの案内人のエピソードをとりあげていきます。

≪おねの曲り目に立ってこの沢には人が入っている。この沢には誰もいないということを、一言で言い当てる者がいくらもいる。わずかな小屋の煙が谷底から昇って、澄み切った大気の中に交じっているのを、容易く嗅ぎつけることができるからである。≫

 このような鼻の感覚経験をなにか機械や推理や計算によって補充するのは不可能に近いと柳田は述べ、この点から言えば近代文明人は愚かになったと言います。これは一つの文明批評ですが、これと似た事例は他にもあると仄めかしています。では鼻の能力を衰えさせた原因はどこのあるか。その一つは煙草だと言います。近世になると煙草の香はきつくなり、分量も増えました。我々はそのほとんどが、鼻から煙草の煙を吹き出すことに興味をもっている。人の嗅覚はこれによって絶えず刺戟され、ついに他のいろいろな微々たる雑臭を嗅ぎ逃している。つまり最初はこの一種の強烈な香気の統一の急迫から逃れようとしたが、後にはかえって全体の嗅覚を支配され、衰えることになったというわけです。ここに一つの回答が記されますが、疑問はさらに展開してゆきます。

(3)煙草が周囲の嗅覚に与えた影響が小さくなかったことは、「村の香」についても影響を与えました。嗅覚の衰えは、人をして「祖先以来の生活に、深い由緒ももつ数々の物の香」から、なんの思い出もなく別れることを可能にしました。たまたま忘れがたき愛着を抱く離郷者がいても、都会ではこれを語り合う方便を持たなかったのです。しかし、村に育った者ならば思い出すことができる、そう柳田は言い切ります。ただ忘れているだけなのです。村の香とは、どのような香だったのでしょうか。こう記しています。

≪たとえば盆と春秋の彼岸の頃に、里にも野山にも充ち渡る線香の煙は、幼ない者にまで眼に見えぬあの世を感じさせた。休みや人寄(ひとよせ)の日の朝の庭を掃き清めた土の香というものは、妙に我々の心を晴れがましゅうしたものであった。作業の方面においても、碓場・俵場の穀類の軽い埃には、口では現わせない数々の慰安があり、厩の戸口で萎れて行く朝草のにおいには、甘い昼寝の夢の聯想があったが、やはり何と言っても雄弁なのは火と食物の香であった。≫

 非常に印象深い一節です。線香の香に結びついたあの世の消息、朝の掃き清めた土の香から感じた晴れがましさ、穀物の埃から感じた慰安など、どれもこれも自分の過去を思い出させてくれる文章です。村に育った者には心あたりがあるのです。しかし、何と言っても雄弁なのが「火と食物の香」。この香はどんな思い出に結びついていたのでしょうか。柳田はその香は「無始の昔以来人類をその産土に繋いでいた力」だったと述べます。つまり火と食物の香は、産土(うぶすな)すなわち生まれた土地の思い出に繋がっていたのです。

(4)柳田は、鼻は要するに産土に繋がる力を嗅ぐために備わったものだ、そこまで言います。それには根拠があるのです。村ではいろいろの火と食物の香を統一する技術が、無意識のうちに養われてきたと記し、以下のように村の暮らしを説いていきます。

≪食物はもとは季節のもので、時を過ぐればどこにもないと同様に、隣で食う晩はまたわが家でも食っていた。これはひとり沢に採り、畠に掘り起こすものが一つだというばかりでなかった。遠く商人の売りに来る海の物でも、買うて食おうという日には申し合わせて買い入れる。臨時の獲物は豊かなるがゆえに頒たれたのみではなく、どれほどわずかであっても、こっそりとは食わぬことが人情と言うよりはむしろ作法であった。人を仲間とよその者に区別する、最初の標準はここにあった。≫

 つまり、火と食物に関するさまざまな香を統一して産土に結びつける技術が述べられていますが、要諦は「こっそりとは食わぬ」という作法にあったことです。私などにもこの感覚が残っています。それは「尾骶骨的心情」(庄司和晃)とよんでいいもので、遠くの知り合いから名産を送って貰ったときなど、わが家だけで食べてしまうのはふだんから親しい付き合いのある隣近所に対して、いささか後ろめたさがともないます。又、滅多に口に入らないお菓子などを購入したときにも、家で一人で食べるのは家の者に対して後ろめたさを感じます。しかし、ふだんから付き合いのない隣近所やまったくの他人に対しては、同じ場所にいてさえ後ろめたさなど感じることはありません。不思議なものです。「こっそりとは食わぬ」作法は確かによそ者と仲間に分ける基準に相違ありません。現在でも納得できる指摘です。このような作法は近代になるにつれて崩れていきます。柳田の言葉を使えば、「竈が小さく別れる」時代になるのです。こういう時代になっても残っていたのは「祭の香」です、これについても統一する技術の養われ方を説いています。

≪竈が小さく別れてから後も、村の香はまだ久しく一つであった。ことに大小の節(せち)の日は、土地によっては一年に五十度もあって、その日にこしらえる食品は軒並みに同じであった。三月節供の乾貝や蒜膾(ひるなます)、秋は新米の香に鮓(すし)を漬け、甘酒を仕込んで祭の客の来るのを待っている。特に香気の高く揚がるものを選んで用意するということもなかったろうが、ちょうど瓶(かめ)を開け鮓桶をこれへという時限までが、どの家もほぼ一致していたために、すなわち祭礼の気分は村の内に漾(ただよ)い溢れたのであった。≫

 竈(かまど)が小さく別れてから後も、「同じ食品をおおよそ同じ時刻に作る」という作法によって、祭の香は統一されていたのですが、さらに時代が変わっていきます。どう変わっていったのでしょうか。

(5)祭の香は地方によって少しずつ差異があったけれども、これを互いに比べてみる機会がありません。比べない故に、祭の香の記憶は固有のものとして顕著だけれども、祭の香といえば普通こういうものだ、という感覚しか残りません。それぞれの香自体に色の場合のように名前でもあったら、香の記憶が保存されたかもしれません。だから、思い出すときはただ「○○の香」と呼ぶだけです。

 そのうちに時代が「少しずつその内容を更(か)え、かつ混乱をもってその印象を幽かならしめた」ために、多様だった祭の香は、「だいたいにおいては空漠たるただ一つの台所の香」になってしまったのです。柳田は「一 村の香 祭の香」をこう締め括っています。

≪そうして、家々の空気は、互いに相異なるものと化して、いたずらに我々の好奇心だけを刺戟する。これが鼻によって実験せられたる日本の新たなる世相であった。≫

 こう締め括っているわけですが、最後の一文にもあるように、この節の目的は、世相の史的解説にありました。現代の世相の一面から、誰にも身に覚えのある嗅覚の衰えを問題化(疑問の設定)して、我々(仲間)の問題としてその由来を説くのです。その説き方は全体の輪郭を与えるものといってよく、この節は概論的位置づけになり、各論は次節以降ということになり、焦点化されるのは、「竈が小さく別れて」いく時代,すなわち近代化の時代です。

さて、ここで少し考えておきたいのは「問題の共同」における前代と近代の区別に関することです。前代社会とは近世を指しますが、これが近代社会と決定的に異なるのは個人の自由が社会理念の主柱に置かれているかどうかです。もちろんこの自由がどの程度実現されているかは捨象しています。とすると、「問題の共同」の要件である他人と自分(社会と自分)の関係を、二つの社会について見た場合どういう違いがあるかという問いになります。

 まず前代社会における構成員は、その実存様式がそのまま家や一族・・・社会の構成員になるという特徴を持っています。たとえば結婚。前代社会では婚姻の自由はないといっていいでしょう。自分の好きなひとと結婚する自由はなく、それは家同士の問題、姻戚によって一族の構成員たりうるかという問題でした。つまり個人は家(社会)と重なっていたのです。いいかえれば前代社会においては、個人はさまざまな規範によって拘束されていたわけです。一方、近代社会では階層によって違うでしょうが、その初期でさえ一般に婚姻の自由はある程度認められていたといってよいでしょう。つまり結婚は個人間の問題であり、家(社会)とは分離しているのです。言い換えれば、個人はさまざまな拘束から解かれた自由な存在なのです。ほかに職業選択や移動の問題についても同じように区別することができます。

 以上の区別を踏まえたとき、同じく「問題の共同」といっても扱いが異なってきます。前代社会を前提にする場合には、個人は他(他人・家・・・社会)の問題に重なっている自分を発見すればよく、近代社会を前提にすれば、個人は他(他人・家・・・社会)の問題にどう繋がっていけるか、つまり公民としての生き方を考えることが必要になってくるはずです。第一節の記述は前代における問題の共同が語られています。次節からは近代における問題の共同が中心になっていきます。近代社会における他人はどう仲間に繋がっていくのか、ここを逃さないように読んでいこうと思います。(続く)



柳田国男『明治大正史世相篇』第二章を読み始める

2014-05-10 17:35:27 | 

 私は、いま柳田国男『明治大正史世相篇』を、柳田自身の歴史学についての提案にもとづいて読んでいます。それは二つありました。一つは、毎日の鏡のように世の中の変化を容易に確かめられる歴史の創造、これを柳田は「実験の歴史」とよび目前の世相解読に適用する提案です。二つは実験の歴史をどの方面に展開してゆくかに関する段階的な提案です。柳田は「問題の共同」という用語を使っています。以下は、「第一章 眼に映ずる世相」を解読したうえでの、私なりの現時点での整理です。

 (1)思想的には、歴史は他人の事蹟を説くものだという考えを改めること。

 (2)「問題の共同」の原理は、他人の問題を仲間(我々)の問題として考えてみること。そのさいに我々の疑問(疑惑と好奇心)を大事にすること。疑問が問題の共同を成立させる重要な契機になるからです。他人の問題を自分だけにとどまることなく、「仲間」の問題として考えることの意味には、市民社会あるいは中間集団の構成員、言い換えれば公民性というニュアンスが感じられます。そこで、戦後、柳田はこれからの社会を担っていく存在として「友だち」を重要視していた(たしか川島武宜との対談)ことを記憶していますが、これと『世相篇』の最後に「我々は公民として病みかつ貧しいのであった」という言葉を合わせ考えたときに浮上する幾つかのテーマが気になります。

 (3)は歴史的構造への着目です。時代が近代に接近するに従い、問題の共同は弘く(広範化)、濃く(濃厚化)なる、こう述べています。<普及と特化>という組み合わせで読み解いたこともあります。第二章を読んだ感じでは、<一般化と分化>と呼んだほうがいいかもしれません。

 (4)さいごに、この問題の共同についての広範化(普及)と濃厚化(特化)の関係が最も密になるところに、国民としての我々の生き方がどう変化したかの問題がある、こう柳田は述べています。いうまでもなく、彼はここまでの記述を目的とする提案をおこなっています。「問題の共同」における広範化と濃厚化の両者の関係をどう考えたらいいのか、私は「互いに他を必要とし合う関係」と説明してきました。これも第二章を読む手がかりにしていきたい。

 以上の柳田の提案を、私は「問題の共同」という方法、と呼んできました。ここで「世相」の意味が気になります。まずその意味を辞書的に「世の中のありさま」で、一旦は是とします。そして柳田の提案がそうだったように、世相を我々の問題として受け止め直し我々の生き方がどう変化したかを探求することに、明治大正史を世相編としてとりあげる意義がある、こう考えておきます。そうすると世相とは、問題の共同という媒介によって世の中のありさまと我々の生き方という二つの意味があることになります。これを以後『世相篇』を読んでいく際の手がかりとして使っていきます。

 このコラムでは、前回まで二つの提案とくに第二の「問題の共同」という提案が、どのように叙述されているのかまず「第一章 眼に映ずる世相」を四苦八苦しながら読み解いてみました。一部に混乱はありますが、第二の提案にもとづいた歴史叙述になっていることは疑いがありません。管見ですが、この提案を『世相篇』における歴史の方法として言及した研究者は僅かです。しかもこの提案に沿って『世相篇』の記述を具体的に辿る仕事は未だ見当たりません。そこで「問題の共同」という方法の多様な実現形態を念頭に、この柳田の方法がいっそう浮彫りになるように私なりに「第二章 食物の個人自由」を読んでいきたいと思います。(続く)