前回(11/23)は、柳田國男が「世間話の研究」に求めていたのは何か、私なりの読み取りを書きました。それは「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」を知ることでした。ここで柳田が言う「真実の話」とは人間の生き方の真実を捉えたもので、これこそが聴く者の「養い」になるのではないか、と考えてみました。人間の生き方の真実とは、善悪によらない、たとえば同じ柳田國男の『遠野物語』や『山の人生』にあるような話をイメージしています。さて、「世間話の研究」の締めくくりである第五節の後段は何がどう書かれているか読んでいきましょう。「何か変った話」や「奇事珍談」などばかりが話題にされていては、聴き手の「まったく意外に思う真実の話」はどこに残っているというのでしょうか。そこで柳田は江戸期以来の筆記ものにどんなハナシが記録されているか調べました。そこでなにが分かったのか。
≪私は大分久しい前から、談話の技術の成長して来た経路を考えて見ようとして、江戸期以来の家々の筆記ものに、主としていかなるハナシが書き伝えられていたかをみようとしている。そうして今日までに得たところの結論は、おかしい話だが大体において、ほぼ我々の新聞の行き方と、古今格別の相違がないということになった。もちろん通信の力は比べものにならぬゆえか、早さにおいては今は確かに大違いであるが、読者の側からいうと早いのは人より早ければよいので、隣近所が全体にまだ知らぬならば、自分の知るのも遅くてもよかった。長崎見聞の異国趣味とか、オロシヤ談判、メリケン渡来の際の風説などは、ずいぶん遅くなっても人が知らぬから話の種になっていた。それから政治は人を本位、誰と誰とがどうしたからこうだという類の、穿ち(ウガチ:せんさくの意)に近いいろいろの事情談、一般に改革に対する不満不評判の声、それもほどなくあきらめて落首文学に堕ちてゆく傾向など、全体に幾分はすかい(斜めに見るの意)の地位から、物を眺めようとする三田村鳶魚(えんぎょ)式と名づくべき皮肉が、江戸で普通になれば京大阪はもとより、小さな御城下から閑な人のいる在所までたちまち行き渡り、その他の報道といえば孝子節婦、義人の善行、及びこれと対蹠的(たいしょてき)なる悪逆無道、切った突いた騙(だま)くらかしたの、今なら警察種ともいうべきものが肩を並べ、たまたま遠方の土地から入ってきた世間話といえば、怪獣、大蛇、巨大なる魚、菌(きのこ)の類にあらずんば、土を掘って稀世(きせい)の珍宝を見つけたという類の、『史記』の貨殖(かしょく)伝以来亜細亜人の興味を持っていた新事件と、単に町の人だけを笑わせるための権兵衛・田吾作談の奇抜なものばかりである。この種の題目の選択には、何かよくよく運命的なる古い方針があったとみえて、二百年以前の筆豆(ふでまめ)がすでに注意をこれに払ったのみか、いまなおこれだけの種さえ集めていれば新聞はできると思うような気風が、稀には一隅に漂ようているかに見える。地方版が発達して、我々の世間話が、外国と中央と各自の県内とに限られ、嶺一つ彼方へ越えれば何事が起こっているのやら、知らずに日本人が結合しているのを、嘆かわしいことのように考えてみた人もあったが、その世間話が本当のものにならぬ限り、たとい境を撤廃して筒抜けにしてみたところで、格別我々の生活実験が、今よりも地平線を広くしてくれることはなさそうである。
ここでいったん切ります。結果は、以上のような種々雑多なハナシで、「我々の新聞の行き方と、古今格別の相違がない」ということがわかったようです。ただその題目の選択には「何かよくよく運命的なる古い方針があったとみえて、二百年以前の筆豆(ふでまめ)がすでに注意をこれに払った」ことが指摘されています。ここで選択されたようなハナシが柳田の求めた世間話に近いものだったようにも読めます。でも、以上のような世間話が、本物=「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」だったとはいえない、こう言いたいのだと思います。では、そのようなハナシはいったいどこにあるというのでしょうか。
国語が国民の何より大切なセメントであることは、時を同じくした異処住民の間だけではない。親が死ぬ以前に前の代から学んでいたものを、次に生まれてまだ自ら実験せぬ者のために、役に立つか否かはその者の考え次第として、とにかく愛情のただ一つの動機から、伝えておこうとしたものが我々の教育であり、本がない時代にはこれを皆口の言葉によってなし遂げた。単に無意識なる観察と模倣とだけから、子供たちが学ぶのであったら、もっと早くから国は外国化したであろう。しかもその伝承があまりにも印象と記憶を重んじ、また幾分か形式の面白味によって、人を古代崇拝に拘束するの懸念が生じて、ここに自由なる話というものが発明せられ、男女相昵び(ムツビ:親しくなる意)郷党は相信じ、しかもたくさんの新たに学ぶべき労苦を考えて、まず疲れた者が代って子や孫の肩を軽(カロシ?)めんとしていたのである。家ととの中ではその目的は相応にすでに達している。ひとり世間話のみが依然として人間の需要を開拓せず、楽な昔風の御伽坊主(おとぎぼうず)の職業意識を、踏襲させようとしていたのは無意味であった。また嘆息すべき損害でもあった。しかも果たして自分などの想像しているように、これがもっぱら要求者の無欲、もしくは歴史家の今までの習癖、すなわち事件を透さなければ時代を知ることができず、官憲が気を付け始めなければ事件ではないかのごとき、狭い考え方が原因ならば、これを改良することも困難な仕事ではない。何となれば世上の人気(ジンキ:地域の人々の気風)に敏感で、公衆の希望に忠実な点にかけては、ジャーナリズムに上越するものは他にないからである。≫(以上の引用は「世間話の研究」一九三一、ちくま文庫版『柳田國男全集』第九巻 五二八~三〇頁)
柳田國男が求めていた「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」とは、私が想定したようなものではなかったようです。一言でいえば、国民と国民をセメントのように結びつけるような話のことだと読みとれます。言い換えれば「男女相昵び(ムツビ:親しくなる意)郷党は相信じ」られるような話です。しかし、このような話は、実は郷土における「我々の教育」にしか存在しませんでした。というのは、世間話を扱う人々が、国民と国民を結びつけるような世間話を開拓してこなかったからです。その原因は、彼らはいつまでも昔風の御伽衆のような職業意識を踏襲していたり、特別の事件を透してでなければ時代を知ることができないと思い込んでいたりしてきたことにあります。もしこの原因把握が正しければ、世間話の改良は可能です。なぜならば「彼ら」とは「世間話を扱う人々」つまりジャーナリストのことであり、「世上の人気(ジンキ:地域の人々の気風)に敏感で、公衆の希望に忠実な点にかけては、ジャーナリズムに上越するものは他にないから」です。
解読の難しい文章でしたが、おおよその解釈は得られたと思います。柳田國男のいう「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」とは、人間の生き方のことではないかという私の仮説ははずれましたが、大きくはずれたかというとそうでもないと思えます。人間としての真実の生き方こそが人々の共感をえられるにちがいないからです。もう一つ、世間話というのは御伽衆らがハナシのネタが内部ではなくなって外部に求めたことが誕生の契機になっているという考えは当っていたかどうか。柳田の世間話についての定義から推し量れば、この考えは言葉にならなくても柳田の議論の「当たり前」に属していたように思えます。