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尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

理想的世間話 「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」

2016-11-30 09:37:17 | 

 前回(11/23)は、柳田國男が「世間話の研究」に求めていたのは何か、私なりの読み取りを書きました。それは「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」を知ることでした。ここで柳田が言う「真実の話」とは人間の生き方の真実を捉えたもので、これこそが聴く者の「養い」になるのではないか、と考えてみました。人間の生き方の真実とは、善悪によらない、たとえば同じ柳田國男の『遠野物語』や『山の人生』にあるような話をイメージしています。さて、「世間話の研究」の締めくくりである第五節の後段は何がどう書かれているか読んでいきましょう。「何か変った話」や「奇事珍談」などばかりが話題にされていては、聴き手の「まったく意外に思う真実の話」はどこに残っているというのでしょうか。そこで柳田は江戸期以来の筆記ものにどんなハナシが記録されているか調べました。そこでなにが分かったのか。

 

≪私は大分久しい前から、談話の技術の成長して来た経路を考えて見ようとして、江戸期以来の家々の筆記ものに、主としていかなるハナシが書き伝えられていたかをみようとしている。そうして今日までに得たところの結論は、おかしい話だが大体において、ほぼ我々の新聞の行き方と、古今格別の相違がないということになった。もちろん通信の力は比べものにならぬゆえか、早さにおいては今は確かに大違いであるが、読者の側からいうと早いのは人より早ければよいので、隣近所が全体にまだ知らぬならば、自分の知るのも遅くてもよかった。長崎見聞の異国趣味とか、オロシヤ談判、メリケン渡来の際の風説などは、ずいぶん遅くなっても人が知らぬから話の種になっていた。それから政治は人を本位、誰と誰とがどうしたからこうだという類の、穿ち(ウガチ:せんさくの意)に近いいろいろの事情談、一般に改革に対する不満不評判の声、それもほどなくあきらめて落首文学に堕ちてゆく傾向など、全体に幾分はすかい(斜めに見るの意)の地位から、物を眺めようとする三田村鳶魚(えんぎょ)式と名づくべき皮肉が、江戸で普通になれば京大阪はもとより、小さな御城下から閑な人のいる在所までたちまち行き渡り、その他の報道といえば孝子節婦、義人の善行、及びこれと対蹠的(たいしょてき)なる悪逆無道、切った突いた騙(だま)くらかしたの、今なら警察種ともいうべきものが肩を並べ、たまたま遠方の土地から入ってきた世間話といえば、怪獣、大蛇、巨大なる魚、菌(きのこ)の類にあらずんば、土を掘って稀世(きせい)の珍宝を見つけたという類の、『史記』の貨殖(かしょく)伝以来亜細亜人の興味を持っていた新事件と、単に町の人だけを笑わせるための権兵衛・田吾作談の奇抜なものばかりである。この種の題目の選択には、何かよくよく運命的なる古い方針があったとみえて、二百年以前の筆豆(ふでまめ)がすでに注意をこれに払ったのみか、いまなおこれだけの種さえ集めていれば新聞はできると思うような気風が、稀には一隅に漂ようているかに見える。地方版が発達して、我々の世間話が、外国と中央と各自の県内とに限られ、嶺一つ彼方へ越えれば何事が起こっているのやら、知らずに日本人が結合しているのを、嘆かわしいことのように考えてみた人もあったが、その世間話が本当のものにならぬ限り、たとい境を撤廃して筒抜けにしてみたところで、格別我々の生活実験が、今よりも地平線を広くしてくれることはなさそうである。

 

 ここでいったん切ります。結果は、以上のような種々雑多なハナシで、「我々の新聞の行き方と、古今格別の相違がない」ということがわかったようです。ただその題目の選択には「何かよくよく運命的なる古い方針があったとみえて、二百年以前の筆豆(ふでまめ)がすでに注意をこれに払った」ことが指摘されています。ここで選択されたようなハナシが柳田の求めた世間話に近いものだったようにも読めます。でも、以上のような世間話が、本物­=「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」だったとはいえない、こう言いたいのだと思います。では、そのようなハナシはいったいどこにあるというのでしょうか。

 

 国語が国民の何より大切なセメントであることは、時を同じくした異処住民の間だけではない。親が死ぬ以前に前の代から学んでいたものを、次に生まれてまだ自ら実験せぬ者のために、役に立つか否かはその者の考え次第として、とにかく愛情のただ一つの動機から、伝えておこうとしたものが我々の教育であり、本がない時代にはこれを皆口の言葉によってなし遂げた。単に無意識なる観察と模倣とだけから、子供たちが学ぶのであったら、もっと早くから国は外国化したであろう。しかもその伝承があまりにも印象と記憶を重んじ、また幾分か形式の面白味によって、人を古代崇拝に拘束するの懸念が生じて、ここに自由なる話というものが発明せられ、男女相昵び(ムツビ:親しくなる意)郷党は相信じ、しかもたくさんの新たに学ぶべき労苦を考えて、まず疲れた者が代って子や孫の肩を軽(カロシ?)めんとしていたのである。家ととの中ではその目的は相応にすでに達している。ひとり世間話のみが依然として人間の需要を開拓せず、楽な昔風の御伽坊主(おとぎぼうず)の職業意識を、踏襲させようとしていたのは無意味であった。また嘆息すべき損害でもあった。しかも果たして自分などの想像しているように、これがもっぱら要求者の無欲、もしくは歴史家の今までの習癖、すなわち事件を透さなければ時代を知ることができず、官憲が気を付け始めなければ事件ではないかのごとき、狭い考え方が原因ならば、これを改良することも困難な仕事ではない。何となれば世上の人気(ジンキ:地域の人々の気風)に敏感で、公衆の希望に忠実な点にかけては、ジャーナリズムに上越するものは他にないからである。≫(以上の引用は「世間話の研究」一九三一、ちくま文庫版『柳田國男全集』第九巻 五二八~三〇頁)

 

 柳田國男が求めていた「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」とは、私が想定したようなものではなかったようです。一言でいえば、国民と国民をセメントのように結びつけるような話のことだと読みとれます。言い換えれば「男女相昵び(ムツビ:親しくなる意)郷党は相信じ」られるような話です。しかし、このような話は、実は郷土における「我々の教育」にしか存在しませんでした。というのは、世間話を扱う人々が、国民と国民を結びつけるような世間話を開拓してこなかったからです。その原因は、彼らはいつまでも昔風の御伽衆のような職業意識を踏襲していたり、特別の事件を透してでなければ時代を知ることができないと思い込んでいたりしてきたことにあります。もしこの原因把握が正しければ、世間話の改良は可能です。なぜならば「彼ら」とは「世間話を扱う人々」つまりジャーナリストのことであり、「世上の人気(ジンキ:地域の人々の気風)に敏感で、公衆の希望に忠実な点にかけては、ジャーナリズムに上越するものは他にないから」です。

 解読の難しい文章でしたが、おおよその解釈は得られたと思います。柳田國男のいう「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」とは、人間の生き方のことではないかという私の仮説ははずれましたが、大きくはずれたかというとそうでもないと思えます。人間としての真実の生き方こそが人々の共感をえられるにちがいないからです。もう一つ、世間話というのは御伽衆らがハナシのネタが内部ではなくなって外部に求めたことが誕生の契機になっているという考えは当っていたかどうか。柳田の世間話についての定義から推し量れば、この考えは言葉にならなくても柳田の議論の「当たり前」に属していたように思えます。


クリちゃんは、なぜ「カバ・・・アーン」と言ったのか

2016-11-29 14:02:44 | 

 前回(11/22)は、庄司和晃「子どものコトバと行動についての諸考察」(一九五六)の第五章「うらおもてのあるコトバとほんもののコトバ」を読み終え、第六章「安定感にいたるてだてとしてのコトバとしぐさ」の「Ⅰ.子どもの子どもたる本領」を紹介しました。どこに子供の子供たる本領があるのか。それはムキダシの行動にある、と庄司和晃は書いていました。でも、「ムキダシ」といっても、そのものズバリ的な出し方をするのではなく、大人が聴いていて「ははん、そうだったのか」とすぐさま見ぬけるような比較的単純なコトバのありようを言うのだとも書いていました。このふるまいは可愛らしくもあるので、「子どもらしいムキダシ」と呼び、その一例を根本進の漫画『クリちゃん』を引き合いに出して説明していました。今回は私なりの受けとめを綴ってみます。

 まず注目したいのは、子供の本領たる「ムキダシのたちまわり」を理論的に「これはあちら中心の考え方がはっきりと分化されず、こちら中心の自分本位な考え方にのっかっているからであると考えられる」と指摘しているくだりです。まず子供らしい考え方を「こちら中心」と「あちら中心」という二重性でとらえていることです。このような把握はこれまでチラチラ出ていましたが、おそらく論文「子どものコトバと行動についての諸考察」(一九五六)全体の基調音(主題)だと思われます。二重性把握のどこが優れているかといえば、ものごとを過程的に考察することを容易にするからです。言い換えれば、ひとつの過程には始まりと終りがありますが、その両者の特徴が過程的な構造を作っているのです。「始まり」にも「終り」にも互いを対にするしくみをもっているといえばいいでしょうか。たとえば、始まりを「子供」に、終りを「大人」に見立てると、子供にも大人っぽいところがあるし、大人にも子供っぽいところがあります。庄司は「子供っぽさと大人っぽさ」を「こちら中心とあちら中心」という用語で説明しようとしているわけです。これが庄司の「小学生のコトバ研究」の大きな文脈(理論的前提)だと考えます。

 しかしもっと重要なことは、子供っぽさ(=子供の本領)を「こちら中心とあちら中心」のあいだという未分化な段階に位置づけておいて、その特徴を「こちら中心の自分本位な考え方にのっかっている」と表現したところにあります。つまり、ここでの庄司の議論は、子供存在を過程的に捉えながらもその特徴を手放していない点が優れているのです。この意義を少し説明してみます。

 ふつう子供の成長・発達やその教育に関しては、誰もが一般的な見方・考え方(「観」とか「当たり前」と呼ぶ)を持っています。それは時代の世相でも意識でもどう言ってもいいのですが、時代を動かすほどの大きな「当たり前」が人々のなかに浸透しているということです。私は、それが「子供が大人に成る」という観なのだと考えます。これは大きく二つに分類できます。どちらかというと「大人に成る」という岸辺に重きをおく流れ、もう一つは「子供を独自の存在として考えよう」という岸辺に重きをおく流れです。世の中にはどちらかに偏している一群もありますが、たいていの親や教師は二つの流れのあいだを揺れているはずです。揺れていないのは子供の本領をどちらかに固定して考える人々です。子供を(実は大人も)過程的存在としてとらえていくには、どうしてもこの揺れがやってきます。「揺れ」とは現実の子供のふるまいに誠実であるという証拠です。誠実に対するほうが優れているのは子供を一面的な存在に貶めないからです。──くどくなりました。結論をいうと、子供性と大人性のあいだを揺れながら、つまり両者を視野に入れながら動かぬ地点(島)から子供存在を見るというところに庄司らしい洞察があると思うのです。それを気づかせてくれたのが「こちら中心の自分本位な考え方にのっかっている」という書きようなのです。

 しかし、当時の庄司はとりつく島を見つけていることに気づいていないのではないか、と思われるのです。根本進のマンガ『クリちゃん』からの引用がそのことを教えます。庄司はこのマンガを子供の本領たる「ムキダシのたちまわり」の一例として取り上げています。重要な箇所ですので、再録します。

 

≪ 根本進のマンガ『クリちゃん』に「すきなどうぶつはなあに?」というのがあった。

 ある日、クリちゃんはお母さんといっしょに親しいおばさんの家に招かれた。テーブルの上には山盛りされたまんじゅう一皿のっている。お母さんにだっこされたクリちゃんは山盛りのまんじゅうからかたときも目をはなさない。そのクリちゃんにおばんさんはしきりとといかける。

「クリちゃん、おりこうね、すきなどうぶつはなあに?・・・ワンワン?」(起)

「・・・・・・」

「おさるさん?」(起)

「・・・・・・」

そして、3度目に、

「ライオン?」(起)

とおばんさんがいったときである。クリちゃんはまんじゅうを見つめたまま、とてつもない大きな口をあけて一つの表情を示した。

「カバ・・・アーン」

おばさんもお母さんもその意をさとって微苦笑。(結)≫(『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三一九~三二〇頁)

 

 クリちゃんの「ムキダシのたちまわり」は、まず「お母さんにだっこされたクリちゃんは山盛りのまんじゅうからかたときも目をはなさない」という一瞬からはじまります。おばさんに「すきなどうぶつはなあに?」と問いかけられてもすぐには応答しません。ワンワン? おさるさん? とさそわれても黙ったままです。ついにおばさんの三度目の「ライオン?」という問いかけに、「カバ・・・アーン」という二言を発します。もちろん発する前までずっとクリちゃんは山盛りのマンジュウをジッと見ていますが、ここにあるのは沈黙のコトバ(ハラの言葉)にほかなりません。言葉の字義通り、お腹の空いた状態を表現するコトバがクリちゃんの口を衝いて今出ようとする直前の状態です。

 この瞬間のクリちゃんの心持ちを想像してみると、自分の肚で素直に思ったことがらを表現するコトバを探索(検索)している状態だと言うことができます。探しているのは社会的に流通しうる、つまりおばさんはじめお母さんなどの周囲(他者)との対話で使えるコトバのことです。私はこれまで「アタマのことば」とか「社会的なコトバ」とか呼んできましたが、それが「カバ・・・アーン」の二言だったのです。また、カバという動物の社会的表象は「口を大きくあけている姿」であり、この表象が既にクリちゃんにも内在していたとしたら、その復元こそが「カバ・・・アーン」という現実のコトバに結びついたということになります。クリちゃんは、早くカバのように大きな口を開けて食べたいという思いを込めたのかもしれません。

 前掲庄司論文の第五章の末尾にあった、子供がほんもののコトバを獲得するには、自然交渉における体験が重要なこと、その理由は、子供はとくに「復元する力」が弱いからだという指摘の「復元」の謎を解く大きなヒントになりそうです。復元力とは、何を復元する力のことなのか。クリちゃんの「カバ・・・アーン」という発語が教える重要なことは、発語の際にカバの社会的な表象が伴っていたということです。たんなる表象ではなく「言語表象」であるということです。これは肚で思ったことを社会的ルールにのせて表現する媒介をなす存在です。とすれば、庄司が子供の場合に弱いと指摘したものが「言語表象」の復元力だという可能性があります。もっと広く「表象復元力」のことを指しているのかもしれませんが、ともかく、クリちゃんの「カバ・・・アーン」という発語が、庄司の「こちら中心の自分本位な考え方にのっかっている」という指摘以上の意味を含意していることは確かだと思われます。当時の庄司はすでにとりつく「島」を見ていたのです。まだ指摘しておきたい重要なことがあります。続きは次回に。


互いの思い込みによる誤解の文脈

2016-11-28 10:05:45 | 

 前回(11/21)は、池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九)の第二章第一節における、崔天宗殺害事件直後のようすめぐって朝鮮通信使からの声明文を紹介しました。今回は声明文から事実関係を確かめた著者の解説とコメントを紹介します。大文字のアルファベットは、著者が事実関係を整理したもの(だと思われます)。

 

≪ところで鈴木伝蔵は、捕縛後における幕府の取り調べに際し、殺害時の様子を次のように述べている。

(前略)去る六日夜(中略)明け方、右の朝鮮人が寝入っていたので、伝蔵が所持していた懐釼(カイケン)で喉を突いたところ声を立てた、懐釼もその場に捨て置いて逃走し(以下略)[八田家]

(前略)八ツ時分(午前二~三時)ころだったと思いますが、朝鮮人が開門の合図をするので、そののち再び従事・上官の台所口より忍び入り、宵に崔天宗の居るところへ行ってみたところ、よく寝入っておりました。まだ夜が明けておりませんでしたので、近くにあった行燈三つのうち二つを消し、行燈ひとつを崔天宗の枕元へ持ってゆき、面体をしっかり確認したのちに胸の上に跨り、懐に忍ばせておいた鎗の穂先で咽を突きました。すると叫びましたので鎗の穂先を抜かずにそのまま何度か咽をつきました。そのうち足をひっかけて転倒したため、ほかの官人たちも目覚めた様子がしたので、はじめに忍び込んだ台所口より逃げ出し(以下略)[評議物留帳 一二九頁]

 四月七日の未明、開門の合図がおわったあと宿舎に忍び込み、行灯の光で顔を確認した(B)あと、崔天宗の上に跨がって鎗の穂先で咽を突いた(A・B)。崔天宗が叫んだために逃走した(A・B)が、「足をひっかけて転倒した」(B)ため他の官人たちも目覚めてしまったらしい。伝蔵の供述した状況は先の通信使側の声明書で述べられたものと酷似している。しかも伝蔵は次のようにも言う。ほかの朝鮮人たちは、必ずや自分が崔天宗を殺したことを知っているに違いない。にもかかわらず朝鮮人たちが犯人は伝蔵だと名指しにしないのは「伝蔵が出勤してきたときに捕えて〝なぶりもの〟にし、恥辱を与えようと魂胆」に違いない。とすれば大坂から逃走するしか道はなかったのだ[評議物留帳、一三三頁]、という。伝蔵は、現場から逃げる途中ほかの朝鮮人たちに顔を見覚えられたと確信していたのである。

 こうした事実からすれば、声明書で上々官たちが主張した事柄には十分な根拠があるといわざるを得まい。今回の通信正使曮が「殺害を行ったのは日本人であることは、万が一にも疑いない」[趙曮、四月七日]と言切るに足る根拠が存在していたと考えても差支えないのである。だからこそ通信使側は、吟味の上に犯人を差し出してもらわねば日朝両国の友好関係上に問題を生じることとなると述べ、しかもその犯人は死罪に処せられるのが当然だと自信を持って主張するのである。また、犯人の処刑によって被害者が再生するものでもないが.それで死者の怨をすすげばすこしは冤魂(エンコン:怨恨?)を慰めることにもなろう。[対馬(a)]し、死刑執行こそが通信使を接待する「道」に叶うとも述べている。

 右のような通信使側の立場からすれば、事件の解決は速やかに行われ得るし、行わねばならなかった。にもかかわらず、事態は遅々として進まない。製述官(書記のことか)である金仁謙は、四月七日の日記に「蛮人が無常にも全然驚いたりしている様子がなく、日暮れまで待ってもひとことも言ってこない」[金仁謙]と記し、三使は「一夜を経ても未だ罪人がはっきりと分からないというのは理解できない」[趙曮]と不満を隠さない。しかもそうした不満は満たされなかった。「使臣たちは連名で島主(対馬藩主)へ手紙を書いたが、返事もない」(四月八日)[金仁謙]し、「島主からの返事がついにやってきたが、語意が狡譎(コウケツ:ズルがしくうそつき)で節々に痛憤する」(四月八日)[金仁謙]ばかりだったのである。

 しかしながら対馬藩側の説明によれば事態が遅々として進まないのも無理はないのである。第一に、対馬藩は、四月一三日夕刻に鈴木伝蔵の家来儀右衛門が主人の書翰を携えてくるまでは、事件を朝鮮人同士の諍い結果または崔天宗の自殺と考えていたからである。そして第二に、対馬藩は、今回のような特殊な事件については幕府の指示を得ずに単独で判断して動くことは出来ないと考えていたからである。そのためひとつひとつの動きに対してすばやい対応をとることができなかった、というのである。≫(前掲書 五四~六頁)

 

 以前この事件の事実経過を紹介したときにも感じたことですが、たしかに、引用にあるように対馬藩の対応は事件に対しても通信使からの声明文に対しても、すばやい行動をとったとは言えないものでした。しかし、そこには理由がありました。対馬藩は犯人像を特定できず、しかも幕府(大阪町奉行所・大阪城代)の指示なしに動くことはできないと考えていたからでした。このここで私が注目したいのは、双方の思い込みです。

 崔天宗は日本人から怨みを買う覚えはないと言って息を引き取りました。この思い込みは製述官・金仁謙の日記(『日東壮遊歌』東洋文庫 一九九九)にも見られるように、すでに通信使全体に浸透している対馬藩への見方・考え方に通じたものだと想像できます。また通詞・鈴木伝蔵は、これまた犯行後にほかの朝鮮人に顔を見られたはずなのに、自分を名指しにしないのは、あとで「なぶりもの」にして恥辱を加えるつもりらしいと思い込んで逃走しました。結局、このことが対馬藩による犯人像の特定を遅らせることになったわけです。

 何か事件が起きたとき、利害関係にある人間のあいだには、元々あった思い込みが再現されたり、その場で新たに思い込みが生み出されたりすることがあるということ。さらに、別次元においてもあらたな誤解の文脈を形成するものだということに気づかされます。これは私たちの日常でも頻繁に経験できることです。


中島文雄「文学部の問題」

2016-11-26 08:15:41 | 

 前回(11/19)は、当時東京教育大学英文学の教授・福原麟太郎の「英文科の問題」(『英語青年』昭和三十六年十二月号)を紹介しました。そこでは、戦前の学問観を引きずるのをやめて、戦後の英文科は変化する必要があると主張されていました。すると、翌昭和三十七(一九六二)年に東大文学部長中島文雄が『英語教育』一月号に、「文学部の問題」を書いて福原麟太郎の議論には同感だ、ことは英文科にとどまらず文学部全体の問題だとして、文学部改革構想を提案します。短篇ですので、今回はこれを全文紹介します。

 

≪十二月の英語青年誌上で福原先生は「英文科の問題」を書いておられる。今の時代に昔の制度そのままの英文科は、「あまり専攻学科を守りすぎ、学究的でありすぎるよう思われる」とし、生活のための教養としての英文学を講じる必要を説いておられる。全く同感である。しかし、ことは単に英文科ばかりの問題ではなく、文学部全体の問題であるといえる。東大を例にとると文学部は十八学科に細分されている。戦後教育学科が学部として独立した以外には、ほとんど明治以来の制度を保存しているわけである。大学進学者が国民の中の選ばれた少数であり、文学部入学者が大部分学者か教師になった時代は、これでよかったが、新制度になって大学は高等普通教育の機関と化し、学問専攻者のためには大学院で schooling が行われるようになった現在、文学部のあり方は一考を要する。

 今文学部で学生の多いのは社会学科と英文科である。これは何も社会学者や英文学者になろうという学生が多いわけではなく、就職上有利と考えられているからである。就職といえばこの一、二年、文学部まで求人殺到で、新学士は専攻学科の区別なく、放送ジャーナリズムをはじめ、あらゆる生産会社、商事会社に入って行く。この傾向は今後も続くであろう。こういう現実を無視して専門学科の孤塁を守るのも一つの見識かも知れないが、むしろ積極的に文学部の教育を改革して、法学部や経済学部の卒業生とはちがったタイプの社会人を養成する方が賢明ではなかろうか。文学部こそ知的好奇心にとみ想像力の豊かな教養人を作るのに、もっともふさわしい場所なのではなかろうか。もちろん文学部の教師は、それぞれの専門分野における学者でなければならず、大学院においては学生を学者や教師に育成しなければならない。しかし新制度の学部においては、それとはちがった教育を考えてよいのではあるまいか。

 そこで私は、文学部の学科区分をもっと大まかなものにして哲学系文学系の諸学科を統合して人文学科とか教養学科とし、英文科などもその中に解消されてしまったらと考える。(大学院人文科学研究科に英語英文学専門課程を存続することは言うまでもない。)そして授業科目を何十単位か必修にし(外国語も何単位か必修にする必要があろう)、専門科目は選択にしておく。一般科目は老練の教授が担当する。こうすれば、まだ学問の何たるか知らない新制大学生も、知的興味をそそられ、広い教養を身につけると同時に、専門的研究にも進みうる能力を養われるであろう。その上で大学院へ進むものは将来大きく伸びる可能性をもっているし、実社会に出る文学士は、法経出身者や技術者とはちがった意義を持つ存在となりうるであろう。

現行の文学部の制度では、いきなり学生はどれかの専攻学科に所属させられ、その学科の指定する専門科目を何十単位も必修しなければならない。また教師の方も、各学界の学者がそろっているのに、セクショナリズムのために一向にその学識を教育面に生かしていない。まことに学生にとっても教師にとっても惜しいことである。≫(『史料 日本英文学史2 英語教育論争史』八六三~四頁)

 

 上の議論の前提になっているのは、一言でいえば、文学部の英文学科に限らず学者や教師になろうと思わない学生たちが増えてきたという時代状況です。いいかえれば、大学教育の大衆化の問題です。ある学問領域について学者や教師になることを選ばない学生の増加現象は、従来に比べてその学問領域に触れる若者たちが増えたということになります。そこで文学部長・中島文雄は、学問研究は大学院でやればよく、大学では履修しなければ科目を何十単位か必修 (外国語も何単位か必修にする) にしておいて、専門科目は選択科目にしておく。そして一般科目の方は老練の教授が担当する。こうすれば、新制大学の学生も、「知的興味をそそられ、広い教養を身につけると同時に、専門的研究にも進みうる能力を養われるであろう。その上で大学院へ進むものは将来大きく伸びる可能性をもっているし、実社会に出る文学士は、法経出身者や技術者とはちがった意義を持つ存在となりうるであろう」と書いています。つまり、専門学の下位に「一般教養」があってという構成です。これは世間にもよく知られている教育システムだと思いますが、一般教養科目を老練な教授に講義してもらえば、学生の知的興味が湧き、同時に広い教養を身につけることができるかと言えば、なかなかそうはいかないのは、戦後大学の種々の改革が証拠立てています。

 私の関心に引き戻せば、英語あるいは英文学を異文化として、その摂取・受容の問題としてみれば、専門領域もそうでない領域も等価です。異文化を分類するのに価値の上下はないはずです。ただ各自の興味関心に応じて摂取することができる多様な分野があればいい、つまり異文化は自由に学ばれなくてはならないはずのものです。そうすると、学問研究は勝手にやってもらっていいのですが、英文科学生にとっての一般教養とはどのようなものかが気になってきます。ただ、いろんな学問領域を広く学ぶといっても、そこに知的興味を持たせるには、授業内容に「入門期」的な配慮も必要になってくることでしょう。はてさて、異文化についての一般教養? 異文化摂取の大衆化? これをどう考えればいいのか。


戦時下マスコミと軍神形成

2016-11-25 06:00:00 | 

 前回(11/18)は、服部裕子「子ども向け伝記『軍神西住戦車長』論──軍神の形成と作品の特徴──」から、「軍神の形成」を紹介しました。今回はその続きです。

 

≪陸軍の花形兵器である戦車に関する催しは、すでに日中戦争開始に頃にも見られた。だが昭和の軍神西住戦車長誕生後には、一九三九年一月八日から一五日にかけて、東京朝日新聞主催、陸軍省の後援で「戦車大博覧会」が靖国神社で開かれ、一六〇〇発の弾痕のある西住の戦車や遺品も展示された。この「戦車大博覧会」に合わせて陸軍戦車一五〇台が銀座街を通る「戦車大行進」(一・八)や、陸軍関係者による「戦車大講演会」(一・一一)が催されている。「戦車大行進」の様子は紙上に写真入りで大々的に報じられただけでなく、八ミリフィルムを媒体に新聞社のニュースとして各地で上映された。「戦車博覧会」も、東京だけでなく名古屋、大阪でも開催されたようである。盧溝橋事件から二年半、日本軍が南京後略に成功しても蒋介石は抗戦する姿勢を崩さなかった。日中戦争が泥沼化する中で、軍神を形成し国民の戦争熱を高揚させる必要があったのであろう。

 陸軍より伝記執筆の委嘱を受けた菊池寛は、文芸家協会会長としてすでにペン部隊を組織し一九三八年秋に従軍していたが、取材のため再度中国大陸に出かけ、一九三九年三月七日から「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」の夕刊紙上に「西住戦車長伝」(~八・六 一二七回)を連載した。この連載に合わせて同時期、新聞社主催、陸軍省後援で「西住大尉展覧会」(三・五~一四 上野松坂屋)が開かれ、西住の戦車や大尉の愛用机など遺品が陳列され、話題を呼んだ。

 この新聞連載小説は好評を博し、単行本として一九三九年九月に上梓され、ベストセラーになったばかりでなく、翌年一一月には松竹によって人気俳優の上原謙主役で映画化され、いっそう世間の注目を浴びた。スクリーンには、陸軍機械化部隊の協力により、煉瓦の壁や鉄条網を突破し、主砲が火を噴く戦車の姿が実に勇壮に映し出されている。興行収入はその年の最高だったという。

 菊池の新聞連載と同時期、三月には北原白秋作詞による「西住戦車隊長」(飯田信夫作曲)がビクターレコードより発売されているが、伝記や特集を組んだ雑誌の刊行以外にも、講壇・浪曲・演劇・講演会等が次々に催された。

 すでに前年一九三八年四月に国家総動員法が公布されており、このように一流の文化人が結集し、マスコミが総動員して昭和の軍神戦車長を崇める風潮は、当然のことながら子どもの世界にも及んでいる。

 「大毎小学生新聞」には一二月一九日第一回全面に「昭和の軍神西住小次郎大尉 激戦三十回、戦車中に散る 烈々たる軍人精神」という見出しで、また「東日小学生新聞」には一二月二一日、第二~三面見開き全面に、「〝昭和の軍神〟西住大尉 神々しい日本武士の姿 永久に輝く戦車長」という見出しで特集が組まれ、両新聞とも写真と西住の戦闘・最期・遺言・両親等の記事が掲載されている。その後も、西住の伝記が掲載される翌年三九年四月頃まで、西住戦車長関連記事が載せられている。一例を挙げると、「軍神と〝日の丸〟部下の山根准尉が語る大場鎮の奮戦ぶり」(「東日小学生新聞」一二・二二)、「西住小次郎少年 五歳で早〝軍人魂〟」(同新聞 一二・二四)、「子供好きな西住大尉」(「大毎小学生新聞」一九三九・二・五)、「どんな寒い日でも素足で体操をした元気な西住少年」(同新聞 三・一三)など。前述の「西住大尉展覧会」に関する記事は、見出しの「武勲を慕ふ小学生満員」が目を引くが、「東日小学生新聞」三月八日、久米正雄作「少年物語 西住戦車長」の連載が始まった日に合わせて掲載されている。久米正雄の「少年物語 西住戦車長」は、「大毎小学生新聞」でも三月一二日から連載された。

 単行本の刊行はやや遅れて五月に、本稿で取り上げる久米元一『昭和の軍神 西住戦車長』と<講談社の絵本>『軍神西住大尉』、六月に富田常雄『軍神西住戦車長』が発行された。そのほか渡邊善房『ニュース童話集 夜明けの戦場』(清水書房 一九四〇・一二)、齋田喬『放送少国民劇集 少年の歌』(弘学社 一九四三・二)の中でも取り上げられている。また、「大毎小学生新聞」では、軍神西住大尉に捧げる綴り方と図画まで募集している。以上述べてきたように、西住小次郎は軍神として崇められ、マスコミの宣伝効果によって、子どもにとっても身近で、憧れの存在になっていったのである。≫(服部裕子「子ども向け伝記『軍神西住戦車長』論」二〇一一)

 

 以上の引用を写し取りながら思い巡らせていたことを二つ。これほど多様なマスコミによってクローズアップされ流布した「軍神西住戦車長」物語から受ける印象が、大人と子供、あるいは世代間で異なるものであろうこと、また共通性に思いを馳せました。もう一つ考えていたことは、山形県西村山郡本郷村葛沢(現、大江町葛沢)にはどのようなマスコミの影響が流布していたのだろうか。当時のマスコミが騒ぎ立てる一九三九(昭和十四)年頃、当時、尋常小学校五年生の庄司和晃少年は「軍神・西住戦車長」を知ることができたのだろうか。知りえたとすれば、新聞だろか、映画だろうか、ラジオ放送だろうか。彼は、三年後の中学二年のとき、昭和十七年十月、親に内緒で陸軍少年戦車兵学校第四期を受験することになります。


波及の契機 二重の圧迫・街道筋の共有・世直し神

2016-11-24 10:59:10 | 

 前回(11/17)の「天保七・八年一揆・打ちこわしの政治史的意義」の続きです。天保五年の気候は平年並だったのにも関わらず、前年の凶作(巳年のけかち)によって労働力に痛手を受けた農村ではみすみす不作にしてしまいました。天保六年から七年にかけては奥羽・関東地方を中心にふたたび異常気象に見舞われます。このような凶作の連続は、前回紹介したように社会不安を醸成する原因となり、都市生活者全体を圧迫していきます。今回はその続きです。各地の宿場町、在町の周辺に民衆蜂起の動きが際立ってきます。

 

≪こうして、(天明七年)七月下旬から、江戸周辺だけをとってみても、表4(省略)のように、各地で蜂起の動きが際立ち始める。それは武州岩槻城下をはじめ、野州天明宿、武州八王子宿、同川崎宿、同幸手宿、相州大磯宿、藤沢宿などの宿場町、武州青梅街道道筋の町・村や、久喜町、相州厚木町、伊勢原町、上総勝浦町、下総野田村、野州栃木町、上州大間々村、中之条町、真岡町の在町やその周辺に、打ちこわしや、それまでに発展せずとも安米売りを要求して貧民が立ち上がった。これは、まさに米穀供給の停止と商品生産物の下落という二重の経済的圧迫による人民たちの蜂起であったといってよいであろう。

 そして、その二重の圧迫をもっとも極端に受けることになった諸地域では、貧しい百姓と貧民層の結合による大蜂起を促すことになったのである。なかでも、米騰と特産の「郡内絹」の値段がいちじるしく下落したうえに、甲州街道筋の仕事が激減してしまった甲州郡内の甲州街道筋の百姓や宿民たちの窮乏は、「所々に捨子数知れず、谷村(ヤムラ)町内にて赤児を捨、犬食いては頭は町中に有、手足胴体は所々にあり」(『甲州国津留郡郡内一揆関係史料』)と悲惨な状況を生み出すほどすさまじくなっていたが、ほとんど救済らしい救済もないため、ついに犬目宿に暮らす者のあいだから打ちこわしが起こった。日頃から発展していた経済的な関係で、この打ちこわしの目標ははじめからきわめて広範囲におよんでいた。ひとたび打ちこわしが起こるや、たたかいはまたたくまに笹子峠を越えて国中平野部から甲府まで接近し、そして市中を席巻するにいたる。そしてさらに、「甲斐国民奮起」といわれるほど国内各地から一揆に呼応する者が続々と結集し、ついに「一国騒動」といわしめるほどの大一揆となった。

 もっとも、まもなく周辺諸藩から呼び集められた鎮圧軍の武力に屈し四散されはしたが、今度はこの一揆の噂を聞いた三河加茂郡の同じような経済的条件で苦しんでいた貧しい百姓や貧民層が、九月下旬、甲斐一国騒動にも劣らない打ちこわしを組織し、これもまた大きなたたかいへ発展するにいたった。世に加茂一揆といわれるこの打ちこわしに参加した五千人近い呼応者は、口々に「世直し」を叫びつつ、在方町や村々の豪農・地主・商人らに安米売りや質利の値下げを求めて数日にわたり激しい打ちこわしをかけた。この地域もまた、東海道と信州をつなぐ伊那街道の豊川水運筋や、岡崎城下から足助町を通る矢作川筋で、三河湾や瀬戸内の製塩を輸送する中継地点にあたっていた。そのため、農業外に「足助塩」などの仕立て直しや、交通運輸労働に従事するその日暮らしの「買い喰い」層が村民の多数派になっていたのであった。

 幕僚と藩領の錯綜する非領国的な地域に発生したこの甲斐と三河の大一揆は、規模の大きさや波及性もさることながら、たたかいの主体から戦術、そして「世直し神」に未来を託した参加者たちの領主観にいたるまで、これまでの百姓一揆には見られない性格を持っていたのである。それは、加茂一揆の参加者たちが、声高らかに村役人や代官所役人らをののしった言葉によく表れているし、その鎮圧体制にも大きな変化がみられたのである。

 たとえば、一揆勢が求める参加要請を断り、焚き出しだけに応じようとした村役人らに対しては、「ナンダかさ高な庄屋の浅はか、世直し様に入る者を一人もダサナイとは言語道断なり。腹がへると天から酒も弁当も自由自在に下さる、徒にタワ言ぬかすな」(『鴨の騒立』)といい、一揆勢と対決しようとした藩兵に対しては、「御大名の歴々張弓・鉄砲・火縄など仰山な御行列是迄見たこともござらぬ古の軍の体」(同)といい、さらに交渉中の役人を「ナンダ間抜け役人、出しゃばるな、八斗の米を六斗と間違うたばかりに、無役に家を二三軒崩かせた。畢竟うぬらが間ごつくから無益な事を仕出しおる。おのれがような役人に扶持大小はいらぬ物」(同)と侮蔑したのであった。ここには、百姓の領主への不信や不満が極限に達していたことが如実に示されていよう。そして、強大な一揆勢力の力を背景に、領主に代わって、あらたな救世主としての「世直し神」が創造されていた。

 この結果、甲斐・三河の二大打ちこわしは、多大な影響を幕藩領主内部に与えずにはおかなかった。なぜなら、幕府の権威をかけた大弾圧後も、両地方では、依然、再発の動きがしばしば見られたし、さらにその影響を受けて各地で激しい打ちこわしや、蜂起への不穏な「寄合い」が持たれたからであった。そして、従来からの食糧に代わる山野の非常食の症例や疫病対策のほか、領内安定のため是が非でも食糧確保が至上命令となった。当然、この結果は、これまでの米穀流通の流れを変えたから、大都市の町民たちの生活をますます圧迫することになった。≫青木美智男『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九 二四三~七頁)

 

 上の引用には、天保七~八年にかけて、「米穀供給の停止と商品生産物の下落という二重の経済的圧迫」を激しく受けた地域(宿場町や在方町)を中心に発生した一揆・打ちこわしが広範に波及していく経過が記述されています。著者がこの波及現象をどのような契機によって描いているか抽出してみます。前提は、宿場町や在方町でそれぞれ異なる生業で暮らす貧しい百姓や困窮民の場合です。大雑把に三つあげることができます。

①「米穀供給の停止」と「商品生産物の下落」の二重の経済的圧迫を受けていること。

②同じ街道筋を生活圏にもっていること(広範な経済的な関係で互いに結ばれている)。

③正義の根拠を政治権力(藩主など)より上位の存在に求めていること(「世直し神」)。


柳田國男は「世間話の研究」(一九三一)に何を求めていたか

2016-11-23 16:15:16 | 

 前回(11/16)は、ハナシの発生に関する経済的事情を知りましたが、結局それは室町期における御伽衆などハナシで職業をたてる人々が誕生するなかで生まれたという議論でした。しかし、彼らが苦心して集めた話のネタが、すぐに古くさくなり二度話すと風邪を引くなどと言われたしなめられたことが、世間話がハナシの一派として生まれるキッカケになりました。私は先走って、御伽衆などの面々がハナシのネタを内部から外部に求めるようになることがその契機になったと書きましたが、それが当っているかどうか。これも含めて柳田國男は「世間話の研究」をどう締め括ろうとしているか。最終の第五節を読んでみることにしましょう。

 

≪(たとえ世間話が上のような契機で生まれたとしても)少なくとも世間話という名は当っている。セケンは実際の日本語においては、今の社会という新語よりも意味が狭い。これに対立するのは土地または郷土で、つまり自分たちの共に住む以外の地、弘く他郷を総括して世間とは言っていたのである。そういう未知の天地に対しては、昔から大きな好奇心はあった。それが最初のうちは昔の昔のその昔に対すると同じく、かなり奔放なる空想を働かして、たとえば孫悟空の『西遊記』を見るように、どんな法螺(ホラ)話でも包容する余地があったのである。ところが遠征が行われ人の往来が時とともに繁くなると、今まで聴いていた話のどれだけまでが本当であり、自分たちの判りきった生活と比べて、どれほど違っているのかにまた新たなる興味が生じた。詳しく説かずとも、近世の欧米に対する我々の知識欲がそのよい例である。これを四五百年前には国内の各地が、互いにゆかしがり(行きたがり)また間違って教えられていたのである。曾呂利新左衛門の逸話中にも多いように、どうじゃ近頃かわった話は聞かぬかなどと、顔さえ見れば先ず尋ねるのが、あの時代の「有識階級」の普通の癖であった。手前が今朝出て参りまする路で、木の鑵子(かんす)で茶をわかしている者がありましたとか、または昨晩は何とか坂の下で、恐ろしいものを見ましたとか、また例のその方がでたらめであろうなどと、けなしながらもそのような話を面白がって聴いていた。この放縦(ほうしょう:わがまま)なる聴衆の笑いずきが、せっかく発達しようとした世間話の若芽を、惨(みじめ)たらしく折りさいなんだ損失は大きかった。茶坊主が野幇間(のだいこ:芸のない素人の幇間ホウカン)となりまたただの取り巻き連となってしまうまで、金のある者のわがままはずっと続いていた。彼らさえ真面目に好い話を求めたならば、いくらでも新しい経験は自分の耳目を煩わさずに、外から供与し得られる時代になってからも、人は代物を払う以上は楽しまされなければ損だという考えがあって、常におおよそ見当のついた書物を買おうとし、または半ば期待し得る講演ばかり聴こうとしていた。そのためにこれほど出版物が多く、誰も彼も饒舌(じょうぜつ)になったにもかかわらず、存外この方面からは自分の養いになるものを得なかった。

 ただ今日はもう求めても得られなかった時代とは違っている。以前は引っ込んだ田舎の村々に、世間話を運んで来る人の種類が限られていた。たまたま一人で長旅をして、戻って来た者があっても、そういうのは話が下手であったり、または作り事をするのが容易に露(あら)われた。話には別に劫(こう:永い年月)を経た名人があって、それは行商とか遊歴文人とか行脚(アンギャ:諸国を旅する修行)僧とかの、先き先き世話になり宿主の機嫌を取り結ぶべき者、または旅芸人などのほとんと軽口を専業にしている者であった。どんな話が村の人たちには喜ばれ、もしくは目を円くされるかを知り抜いている上に、まことしやかに地名や人名を取って附ける術はよく解していた。従うて地方の世間話は、いつまでも古い型を脱し得なかったのである。今日はもちろん人文地理の教育も進み、そんな事があるものかという制限は多くなったが、なお根柢(こんてい)において「何か変った話」を聴こうとする態度が跡引くゆえに、せっかく金をやって視察をして来たり、または歴史に伝わるような戦争に出た者が戻ったりしても、彼等もまた努めて奇事珍談のいたってありふれたものを説くに苦心して、まったく聴衆の意外とするような、真実の話を後に残すのであったのである。(次回に続く)≫(「世間話の研究」一九三一、ちくま文庫版『柳田國男全集』第九巻 五二六~八頁)

 

 ここまで来てようやく柳田が短篇「世間話の研究」に何を求めていたのかが分かります。そこを判読するには、引用末尾に見える「何か変った話」」と「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」の二つの世間話、両者の質的な相違を読み取る必要があります。前者は、未知の天地に対する大なる好奇心や、世間と郷土の違いに興味をもつ人々に対してその欲求をみたすだけの世間話、または御伽衆として権力者を笑わせる話、あるいは近世に下ると奥まった村々にまで行商・遊歴文人・行脚僧・旅芸人などがもたらす「変った話」などの世間話を意味しています。後者はそのような単に内部にいる者が興味関心を満たすだけの世間話ではなく、「自分に養い」になる世間話です。どのような世間話が我々の「養い」になるというのでしょうか。それは「まったく聴衆の意外とするような、真実の話」のことです。これが柳田の求めていた世間話なのです。自分を養い・聴衆が意外とする・真実の話です。私はこのような世間話とは、人間の様々なかつ真実の生き方が表れている話のことではないか。こう予想して次回の第五節の後半を読んでみたいと思います。


ムキダシのたちまわり

2016-11-22 08:52:38 | 

 前回(11/15)は、庄司和晃の「Ⅴ 応対のしかたのことなど」(第5章うらおもてのあるコトバとほんもののコトバ)を読んで、庄司が子どものインテリ派に冷淡であるようにも読めるが、後の庄司の認識理論における感覚・表象・概念それぞれの段階の等価性とどう繋がるのかという問題を提起しました。再読してみると、認識やコトバというものは体験に裏打ちされたものでなければホンモノになれない。したがって体験(とくに自然交渉による)と切り離された知識(概念)とホンモノのそれとはきちんと区別して子どもに伝えておくほうがよい。この区別を自分に課す厳しさが「冷淡」に見えるのだと受けとめることができるように思いました。

 しかし、末尾に記された「しかし、〝実物を見ること〟〝事実を見聞することが〟がナゼ子どもにとって(とばかりはいえまいが)必要なのか、のもんだいはとり残されている。一言にしていえば、復元する力が子どものばあいとくに弱いからである、といえようか」という一節は腑に落ちないのです。なぜ子どもには体験的な認識が必要なのか。この疑問は当たり前すぎて、これまであまり深く考えることがなかったことに気づきます。私には、「体験」とは生きることそのものだとしか答えようがありませんが、庄司はその理由を「復元する力が子どものばあいとくに弱いから」だと書いています。「復元する力」とは何か、これがピンときません。これで、第5章「うらおもてのあるコトバとほんもののコトバ」は終りですが、この疑問を失念しないようにして、次の第六章「安定感にいたるてだてとしてのコトバとしぐさ」に入ります。まず第一節「子どもの子どもたる本領」を読んでみましょう。

 

Ⅰ 子どもの子どもたる本領

 子どものコトバと行動には、額面どおり、受けとりにくいモノがかなりある。

 そのコトバの背後に横たわる心づかいに思いをよせないとみこみちがいの判断をくだしてしまいやすい。判断がくるえば、とうぜん対処の仕方もはずれたものになる。はずれれば子どもの要求を満足させてやることができない。

 子どもはおとなにくらべて自分を抑制したり、相手のデカタをじゅうぶんに計算にいれて行動したりする力は弱い。

 ぜんぜんないのではない。おとなも感心してしまうような、まことに巧妙なたちまわりもないわけではないが、たいていムキダシのたちまわりをするところに子どもの子どもたる本領がある。

 これはあちら中心の考え方がはっきりと分化されず、こちら中心の自分本位な考え方にのっかっているからであると考えられる。

 しかし、ムキダシといっても、そのものズバリ的なだしかたをするというのではない。おとなが聞いていて〝ははん、そうだったのか〟とすぐさま見ぬきうるようなわりあいに単純なだしかたをさしていっているのである。その点、まことにかわいらしいシグサであるといえよう。

 根本進のマンガ『クリちゃん』に「すきなどうぶつはなあに?」というのがあった。

 ある日、クリちゃんはお母さんといっしょに親しいおばさんの家に招かれた。テーブルの上には山盛りされたまんじゅうが一皿のっている。お母さんにだっこされたクリちゃんは山盛りのまんじゅうからかたときも目をはなさない。そのクリちゃんにおばさんはしきりと問いかける。

「クリちゃん、おりこうね、すきなどうぶつはなあに?・・・ワンワン?」(起)

「・・・・・・」

「おさるさん?」(起)

「・・・・・・」

そして、3度目に、

「ライオン?」(起)

とおばんさんがいったときである。クリちゃんはまんじゅうを見つめたまま、とてつもない大きな口をあけて一つの表情を示した。

「カバ・・・アーン」

おばさんもお母さんもその意をさとって微苦笑。(結)

 ──このマンガは漢詩の起・承・転・結のスタイルをきびしく守らずに起・起・起・結の手順を踏んではいるが、なかなかおもしろく子どもの心づかいをえぐっている。

 ここに、いわゆる子どもらしいムキダシの1つがあるとみられよう。

 そういった子どもの行動とコトバをつぎに例をもってとりあげ、その意味するところをすこしさぐっていきたいと思う。≫(『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三一九~三二〇頁)

 

 子どもの子どもたる本領はどこにあるか。それはムキダシのたちまわりに存する。これが庄司の本意でしょうが、ここに見られる「当たり前」(文脈・枠組)は、小さい子供は「あちら中心の考え方がはっきりと分化されず、こちら中心の自分本位な考え方にのっかっている」存在であることです。ここを前提にして議論を展開するつもりだと思われますが、幼児がある対象をジッとみたり、やがて指差しをしたりする行為を下敷きにして見ると、「こちら中心主義」は、他者と出会うための基礎構築というニュアンスが感じられます。この事業は児童期をはるかに超えて永い道のりを歩むべき宿命を背負っているのではないでしょうか。


事件直後、朝鮮通信使からの声明文

2016-11-21 13:39:31 | 

 今回から、池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九)の第二章「事件をめぐる人々のこころ」を読んでいきます。第二章の原題は「崔天宗殺害事件における日朝相互認識」(『鳥取大学教養部紀要』26、一九九二)とあるように、ここでは日朝両国の相互認識がテーマです。そのまえにこの章の構成を見ていきます。

 第一節    事件をめぐる対馬藩と朝鮮通信使

(1)   殺害直後の様子

(2)   崔天宗の葬送

(3)   鈴木伝蔵の処刑

第二節    日本と朝鮮における事件の処理

(1)   徳川幕府と朝鮮政府

(2)   対馬藩における事件の処理

①藩内の謹慎と動揺、②「伝達問題」と朝鮮順和の事情、③謹慎の解除

(3)   相互認識の行き違い

  第一節で、対馬藩と朝鮮通信使の相互認識の如何を説き、第二節では徳川幕府と朝鮮政府による事件処理の態度を比較し、対馬藩内部による事件処理を内側から描いています。そして最後に著者の批評です。私がこの本を読んでみようと思ったのは、この著者の批評が契機になっています。まず、第一節の(1)「殺害直後の様子」を読んでいきます。今回引用する「声明文」は、第一章第一節の(1)事件の経過で、すでに引用しましたもの(9/5のブログ)です。ここで簡単に再録すれは、この声明文は上々官・崔鶴齢、李命尹・玄泰翼の三名の連名で、崔天宗が殺害された七日に直ちに対馬藩に提出されたのでものです。そして対馬藩はその訳文を添えて大坂町奉行所(幕府)に事件の発生を伝えました。ただし大阪奉行所はこの声明文をほとんど無視したばかりでなく、翌八日に出された通信使からの奉行所宛て書翰も受け取りませんでした。

≪今七日の明け方。正使の都訓導崔天宗が開門の合図を行ったあと寝間に戻って熟睡していたところ、胸苦しく感じてはっと目を覚ましたところ、日本人が胸に跨って咽に刃を突き立てた。大声をたててすぐにその刃を抜いて起き直り捕まえようとすると、その日本人は逃げて行った。頻りに助けを求め、従事官の都訓導下僕および一行の人々が急いで駆けつけると、疵口から血が流れ出ていた。驚いて事情を問うと、崔天宗の体は弱りつつあったが、手で喉の傷口を押えながらこれまでの様子を述べた。その上で、自分はいま人から恨みをかう覚えがない、自分を刺殺しようとした者がどういうわけでなのかは身に覚えがない、という。すぐに薬を与えたが、だんだん気力もおとろえてゆき、日出の後についに死去した。崔天宗の遺骸の側には殺害に用いた刃があり、柄は短かく、鎗の穂先で魚永という二文字の銘が刻まれていた。この刃は柄・さやとも白木造りで日本製のものに間違いない。殺害犯が逃走する際に、従事裨将(ヒショウ:補助する人、副官)の炊事場を通かかり、そこに臥せっていた下官姜文石の足を踏んだ。足を踏まれて驚いた姜文石が姜見たところ、燈影越しに日本の黒衣を着て帯刀したした者が急に走り出していくのが見えた。それで盗人が逃げていくぞと大声で叫ぶと、近くにいた近くにいた下官白進国・金東安・朴春栄・金正玉・朴仁栄らが一斉に起きあがり、あいつは間違いなく何かを盗んで逃げようとしているに違いないとしてともに大声を挙げた。上房裨将の炊事場に下官崔無淑・尹命石・乙伊・姜時大・金国昌、副房裨将の炊事場にいた下官金汝守・金老末・金允所らも、これまた起きあがってみたところ、くだんの日本人が戸口を飛越えてに逃げ出した。

 さて、そもそもこの度の通信使は徳川将軍襲職の祝賀のためにやってきたというのに、日本人が理由もなく通信使の従者を殺害するなどとは前例もない一大変事である。この事件は吟味の上、殺害犯を差し出していただかなければ、日朝両国の友好関係の上でたいへん問題を生じることとなります。もちろん人を殺害した者は死罪となるのが天下同然の法であり、殺害に使用した刃は直ちに当方で確認したものですし、殺害犯が逃げて行くのを見た者は一人や二人ではなく大勢が確認したものなのですから、御詮議なされば必ず犯人が誰であるかは分かるというものです。どうぞ吟味をなさり、日朝両国百年の約条が立つようにしてくだされたく、千万のぞむところです。≫(前掲書 五二~三頁 長崎県立対馬歴史民俗資料館・対馬藩宗家資料)

 

 この朝鮮通信使からの声明文に対する著者(池内敏 氏)のコメントは次回に。


福原麟太郎「英文科の問題」

2016-11-19 15:42:02 | 

 前回(11/12)は、当時英文科に進学する学生の中で、本格的に英文学研究を志す学生が少なくなったという、日本の英文学そのものへの東大教授平井正穂の嘆きを紹介しました。私は、平井の議論や専門教育に役立たない英語教育批判論も含めて、専門的な学問領域における「入門期」研究の欠陥を指摘しましたが、平井に嘆きに対する意見としてはすこしピントがずれていたようです。平井の嘆きの趣旨は、このままでは後継者がいなくなるのではないかという日本における英文学への危機感だったからです。この点に関して、福原麟太郎は『英語青年』(昭和三十六年十二月号)に「英文科の問題」を書いて、戦後は専門的な英文学研究に志す学生が減ったという認識に同意しながらも、日本の大学における英文科教育の質的転換を説きます。今回はこの福原の議論を紹介します。

 

≪平井正穂氏が Shakespeare News 第一号(日本シェイクスピア協会々会報)に書いたところによると、シェイクスピアを卒業論文に選ぶ学生が最近次第に減って来たという。恐らくシェイクスピアは学生の興味の対象に遠く、あんなむづかしいものよりも面白い現代文学をというのであろう。本当に英文学を専攻するつもりのない学生が安易につくという例の一端とも考えられるものである。現代文学だってむづかしいが、英文学研究という学究的献身からは遠ざかってゆく傾向が見られるというのであろうか。平井氏は「今は本当は日本におけるイギリス文学の危機なのである.私たちの世代のものが先輩から受け継いだ伝統を、私たちが逆に譲ってゆく相手の者は意外に僅少なのだ。」と嘆いている。私もなるほどとうなづくのである。

 この感想は平井正穂という世にも厳格な熱心な精密な学者の筆に書かれているので特に意味をもつ。(中略)こういう人が今の英米文学研究の有様をみれば、その跡を受け継いでゆきそうな学生の僅少を感じるかも知れぬ。しかし、それはそんなに案じることはないのだ。後継者は沢山でなくてもよろしい。真実研究に打ちこむ人がまだ少数でもあるならば、そしてそれはあるにそういないのだから、この道は続いてゆくであろう。

 むしろ問題にすべきは、同じ文中で、平井さんを愕然とさせたという「先生は何か我々を誤解しておられるのではないか、我々が英文学者になるとでも思って講義をしておられるのではないかという」学生の質問である。それは簡単に言えば、英文科へ入って来て、英語に上達し、西洋にことにも親しんで、卒業したら、銀行会社、あるいは役所、あるいは新聞雑誌放送、出版、株式取引所でも自動車製造工場へでも、どこへでも就職しよう、学校教師もまたよし、と思っている連中が英文科にいることで、彼らがすなわち本当の英文科をとりまいている英語学生である。

 かれらはなるほど英文科生にふさわしくないかも知れない.平井さんは、彼らこそ今や英文科の本流で、えいご英文学を専攻しようと思っている学生や教師はアウトサイダーにすぎぬと言っているが、そうではない。彼らこそ傍流には相違ないのだが、その彼らは我々の英文科で自分たちの得たいものを得ているであろうか。(中略)

 私は、大学の講義というものは、紀要論文によく見るような細緻な研究報告でなくても、もっとおおらかに文学を語るというものであるべきではないかと思う。そして話の間に、文学に透徹する示唆が精髄を与えられ、それが学究的な研究に導くというのがよいのではないか。イギリスの名ある大学教授たちの講義は、そうであるようだ。そして談笑のうちに講義が進んでいくものだと聞いている。

 教師は何より前に、大学で習慣となった学問的探求の形式についての固定観念を捨てることが必要である。つまり英語英米文学者でなければ興味をもてないような講義題目を掲げなければ大学の講座の権威を傷うというような考えに執着しないことである。たとえば、古典韻律の英詩に与えた影響だとか、──いや実はどんなむづかしそうな題目をかかげても、私流に言えば、もしそれが、人間はいかに生きるかという問題に触れるものなら、どんな学生にも興味があるであろう。(中略)

 そして例の卒業論文だが、英文学の学者にも教師にもならない学生たちには、卒業論文を課さないで英文解釈のなり、商用文なり、会話演説なりの単位を余計に取ることにしたらどうであろう。(『資料 日本英学史2 英語教育論争史』大修館書店 一九七八 八六〇~二頁)

 

 福原麟太郎の反応は、後継者は沢山いなくてもよろしい、少ないがチャンと存在すると応じた上で、それよりも日本の英文学それ自体へ議論を転回してゆきます。戦後多くを占めることになった英文学を専攻しようという志望をもたない英文学科の学生にとって「英文科で自分たちの得たいものを得ているであろうか」と問いかけます。変化する学生のニーズに適応しようというわけです。そしてどんな講義でも、「人間はいかに生きるかという問題に触れるものなら、どんな学生にも興味があるであろう」と締め括っています。そのような講義を可能にするには、大学教員はまず従来の固定的な講義観から自由になるべきだと述べているのです。それうえで具体的には、たとえば卒業論文も選択制にしてはどうかと提案します。まさに変化する時代に合った大学教育の変更を提案していると言えましょう。