尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

いま読んでいる論文の意図に気づく

2017-09-22 10:59:51 | 

 今回は、「表象論としてのコトワザのもつ論理」(1965.11.1)の続きです。第Ⅱ節「第二段階としての表象論のもつ有効性」を読んでみます。

 

つぎに掲げる引用文は、無意識ながらも、認識論にタッチしたものとみられよう。

(1)「なお、諺のことを、古く「たとえ」とも「世話」ともいっているが、それは、諺が比喩的表現に富み、又、世間一般にいわれる語であることから来たものであって、そうした名称にも、諺の性格が出ているといえる。(創元社編集部編『ことわざ新辞典』:創元社:昭和40:15版P.5より:初版は昭29

ここから、つぎの問題点を浮きあがらせることができる・

①「たとえ」とか「比喩的表現」とかのもつ論理と役割、および歴史的背景のもつ意味。

②「世間一般にいわれる語」のもつ意味。

③「例」とか「たとえば」とかの論理と心理。

 わたしたちは、「例」をひいて議論を進めたり、「たとえば」ということで相手に理解してもらおうとする。相手が得心したような顔つきや言動を示したりしないと、いよいよもって多くの例をひっぱりだしてくる心のはたらきがある。これは、相手ばかりに関係したことではなく、こなたにしても抽象論議のばあいなどには、「たとえばどういうことですか」と問うこともしばしばである。そういうことでがてんしようとする。ここには、「説得の論理」「合点の論理」がある。/この論理自体、認識発展論からいえば、第二段階の表象論的段階に属する、といってよいであろう。人は多く、この段階において説得したり、合点したりして、自分の考えを進めているわけである。「例」とか「具体例」・「たとえば」とだしてくるそのものは、認識発展論論からいえば第一段階の個別的・感性的・直観的段階のものといいうるし、「抽象論」とか「理屈一点ばり」とかのものは、第三段階の概念的・普遍的・理性的段階のものといいうるであろう。≫(本書 十頁 太字強調は尾﨑 以下も同じ)

 

 ここでいったん切りましょう。引用は③の問題点──「例」とか「たとえば」とかの論理と心理──に関する庄司のコメントです。すこし驚くのは、この時点ですでに、後の「認識の三段階連関理論」の骨格の第二段階を表象論的段階として位置づけるのはいいとして、思考運転(説得や合点)の契機になる「たとえば」の使い方の意味をすでに押さえていることです。「たとえば」とだしてくる当のものや「例」自体が第一段階に属し、このようなコトバによって相手の説得や自分の合点を導くという認識活動は第二段階に属するというように両者を区別していることです。これは、表象の二重性的性格とその実践性を理解していなければできないことです。「この時点」というのは、三浦つとむの助言やコトワザ教育の実践があったこの一九六五年の一〇~十一月のことですが、もうすでに「思考運転」という動的なイメージが成立していたのです。こんなに早い段階でもう本格的な研究がなされていたことにちょっと驚いたのです。ここに仮説実験授業研究で鍛えられた目があったことは疑いのないことですが、のちに「つまり」というコトバとともに「きっかけコトバ」と名づけられ、認識発展論(「のぼりおり認識理論」)のタグのようになっていったことを思えば、仮説実験授業の影響は相当なものだったと思えます。

 つぎは問題点①──「たとえ」とか「比喩的表現」とかのもつ論理と役割、および歴史的背景のもつ意味──に関するものです。庄司が教育研究大会に参加する機会があったときのことです。開会式ではたくさんのお偉いさんが挨拶をしたが、そのなかでタトエやコトワザがよく使われていたこと、その使い方を紹介したあとで、以下のようにコメントを加えていきます。

 

この(挨拶した)人たちは認識における発展の論理的な意識を持っているのではなかろう。どうにかして、自分の考えなるものを伝えたいという心理のもとにいっているのであろう。だからある意味において、この中の「タトエ」や「名句」や「コトワザ」は、ナチュラルな形で生きてはたらいているといってもよいのである。/しかし、こうした心理に宿る論理をつかみだし、意識的に行使するようになれば、さらに効果的な方法論を身に体することができる・・・/ここからいっても、第二段階の表象論には「説法の論理」「説教の論理」が内在しているといってもよいであろう。いな、その論理が第二段階の論理といってもよいのである。/講演・演説・講釈・講話・問答・対話・提唱の成功・失敗のカギは、この第二段階の論理適用いかんにかかっている、・・・ワカルとはどういうことかにさおさす重大なことがらだからである。≫(本書 十一頁)

 

 まあ、ここでは先の「説得」や「合点」の論理ではなく、ある意味、高みからの「説法」や「説教」の論理もまた、第二段階の表象論的な段階に属しているという指摘です。ここにとどまらず、以下のように議論が発展することがすごい。まるで「表象論という刀」の切れ味を試しているかのような物言いです。すなわち、表象的な論理を意識的適用・論理の意識的行使ができるかどうかが、成功失敗に分かれ目になる。それは、なぜか。説法や説教の成功とは伝えられる内容がワカルということ。ゆえに第二段階の研究は、ワカルとはどういうことかにさおさす重大問題を提起している、とも付け加えています。「ワカルとはどういうことか」という問題は、当時の教育学においてスッキリ解明されたわけではない(もしかして今もそうかも知れない)が、「さおさす」とはそのような時代の流れに乗る問題なのだという話なのです。話が良い意味でデカクなっているというか展望が出てきたわけです。このことは、≪「比喩的表現」とそれのもつ論理は、如上のしだいであり、その歴史的背景=人類の認識発展のことについては、古代インド思想の所産ともいうべき論理学の解明ならびに宗教の論理の考察の際において詳述してみる心算である≫(同前)と話が括られていろことからも明らかです。「宗教の論理」の考察は、庄司の学生時代(師範学校~大学)からの蓄積のある研究テーマですので、これもまた自分のキャリアの活かす途に心づいたことを意味します。では、最後の②──「世間一般にいわれる語」のもつ意味──の問題点を見ていきましょう。

 

「世間一般にいわれる語」というコトワザの性格、これを単に「性格」とのみ規定せずに「論理」として把握する必要があろう。性格→論理(あるいは発想)となってこそ、生きていくための武器、問題を解き明かすための技術と化しうるからである。「世間一般にいわれる語」というところには、個別的段階(第一の段階)を踏まえて、そこをのりこえた論理を示唆するものであろう。個別的段階から発展した段階のものであることを暗示しているわけである。もちろん、ここにもまた認識発展論の意識はない。だから、この『ことわざ新辞典』の前文「コトワザについて」(P.3~19)は、いわゆるの解釈、分類的説明になりおわっているのである。「世間一般」とはいうけれども、この説明と性格的説明は、第二段階の表象論=特殊的段階のものである。第三の概念段階をいっているのではあるまい。これについてはいずれ明らかになるであろう。≫(本書 十二頁)

 

 ここでは「世間一般にいわれる語」としてのコトワザについて、「世間一般にいわれる語」という性格について言及されています。しかし、コトワザを認識発展論の文脈で見直すとき、その性格について云々するよりも、これを「論理」と捉え直すほうが「生きていくための武器、問題を解き明かすための技術」として活かせるのではないか、というのがここでのコメントでもっとも言いたいことだと受け取れます。ここでハッと気づかされるのは、この論文「表象論としてのコトワザのもつ論理」の性格です。もうすでに読み始めながら、庄司のコトワザ研究におけるこの論文の位置については、単に「表象論の基礎固め」とか、「言語教育構想の大部分を達成しうるコトワザ教育」論との影響関係にあるという見込みに過ぎなかったのですが、少し見えてきました。それはこういうことです。

 三つ目の引用では、庄司はコトワザを「論理」として捉え直すべきことを書いていましたが、これは教育的な実験として成果を、表象論の立場からどう了解することができるかという試論的な位置にあると気づいたわけです。庄司は「方言の授業」から「コトワザの授業」に到る実験において、コトワザの定義を確立してゆきました。それは観賞性・実用性・思想性の統一された表現だという規定です。しかし定義はその内容と範囲の限定であって、本質を意味しません。本質は物事の実体構造の先にあって抽象度の高い認識です。ではコトワザはどのような本質をもっているのか。庄司の獲得した「言語教育構想の大部分を達成できる」というコトワザ教育観が求めていたのは、定義に含まれるすべてのコトワザに共通する本質的な認識だったと考えられます。なぜならコトワザの本質観がなくては、コトワザ教育の体系化はもちろん、これを通じて自前の認識理論など作れるわけがないからです。それが、コトワザの本質を「表象的な論理」に求めることだったのです。結論的にいえば、論文「表象論としてのコトワザのもつ論理」は、「言語教育構想の大部分を達成しうるコトワザ教育」論を構造化するためにこそ必要であったのです。ここでいう「構造化」とは本質観にもとづいて、コトワザ教育の全過程を改めて解釈し編集し直すことです。(昨日はお彼岸の所用でブログを休みましたが、往き帰りの時間に考えることで当該論文の位置づけに気づきました。オイシイ考えには熟成が必要なようです。)


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