尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

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陸軍少年戦車兵募集の新聞記事

2017-03-31 14:34:31 | 

 前回(3/24)と前々回(4/17)の二回に渡り、戦死した西住大尉の部隊長だった細見惟雄大佐による放送原稿「軍神西住大尉」を紹介しました。この番組は昭和十三年十二月二十六日全国にラジオ放送されましたが、早くも翌年七月十五日には陸軍少年戦車兵募集のニュースが一地方紙の紙面を飾ることになります。今回はこの記事を『信濃毎日新聞』紙上から紹介します。(縦書きを横書きに変えてあります。漢字仮名遣いは典拠のまま、読み仮名は典拠のほとんどについていますが、こちらで選択してあります。)「鐵牛」とは、戦車兵もしくは戦車そのものを指しています。

   (見出し)

≪ 無比の戦車隊への陣容

  ─────────────────────────

近代地上戦の花形

〝若き鐵牛〟を養成

 十月中旬に初試驗

(リード)

【東京電話】空の荒鷲少年航空兵は既に立派な荒鷲となつて戦線に満蒙國境に華々しい活躍を示してゐるが近代地上戦の花形戦車部隊の養成所である千葉陸軍戦車學校では今度少年戦車生徒を養成することになり既に閣議の決定を見たので近く官報を以て陸軍戦車學校生徒志願者心得が公布されることゝなり鐵牛、猛牛の名を以て戦車は全世各國共猛烈な競争となつて居り近くはノモンハンで敗北したソ聯の如く優秀な戦車軍を以て敗退しなければならなかつたことは戦車隊を動かす幹部の精神、教養に缼ける所があることは明らかで優秀なる戦車隊幹部の養成には現在我軍において行はれてゐる二ヶ年間戦車隊に入隊するだけでは尚不充分なので他面年少気鋭の青少年の人材を選抜精鋭無比の戦車隊を作らうといふ意圖(いと)からこの挙に出たものである。

(本文)

この少年戦車兵はおよそ二ヶ年間陸軍戦車學校で教育卒業後は伍長勤務上等兵に服し隊附き一ヶ年の後伍長に昇進、以後勉強次第で将校に昇られる費用は

全部 官費支辨(しべん)その他毎月四圓の手當(てあて)支給を受けるものである第一回採用壮丁人員は百五十名で志願者の資格は大正十年四月二日からどう十三年四月一日までに出生したもの(満十五歳より十八歳まで)その手續は教育総監部、陸軍戦車學校又は全国聯隊區司令部、朝鮮、臺湾、満州國では各軍司令部等で取扱ひ

身體 検査及學科試験は十月中旬全國主要都市で行はれ十二月一日から講義を開始する筈である≫(『信濃毎日新聞』昭和十四年七月十五日 土曜日 七面)

 

  上の記事内容は、見出し、リード、本文の三つに分類できます。これらを紙面構成という視点から考えてみます。典拠では面積が大中小の枠に小見出し・リード・本文記事が紙面左へ向って順に配置されています。いいかえると、いちばん広い平面に四行の見出しを大きな活字で配置し、中くらいの面積にリードを配置し、本文は三つのうちで最も狭い平面に配置されていることになります。文字数で比較すると見出しが三十五文字、リードが三百三十八文字、本文が二百八十五文字になりますので、リードが本文より広い面積にやや多くの文字を費やしていることになります。さらに記事中、最も大きな活字を使用しているのは「〝若い鐵牛〟を養成」の箇所です。以上から、上の引用記事は見出し・リード・本文の順に伝えたい情報が配置されていることがわかります。特に、「〝若い鐵牛〟を養成」という見出しだけで必要な情報を伝えようとする意図が伝わってきます。つまり、これは少年たちが反応することを期待したメッセージなのです。

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八右衛門二十五歳の若さで名主となる

2017-03-30 10:53:48 | 

 前回(3/23)は、浅間山大噴火翌年の天明四年以降に八右衛門の周辺に起きたいくつかのエピソードを紹介しました。まず同年の「未曾有の大飢饉と物価騰貴」によって寄宿していた林本家が身上「没落」に遭ったこと、にもかかわらず叔父・七右衛門の計らいによって十八歳の八右衛門は本家の養女になっていた同い年の菊を嫁にもらい、彼を当主とする林分家の再興が叶ったこと、また新生活のスタートが妻や娘が罹った眼病の治療のために奔走する日々の始まりであったことなどでした。まさに禍福はあざなえる縄の如し、というべきでしょう。さて今回は、二十五歳になった八右衛門のその後の境涯に小さくない影響を与えたと思われる契機を読んで見ることにします一つは伊勢参宮です。

 

≪そういう災難つづきも一つの契機になったのだろうか。寛政三年(一七九一)、二十五際のときに、八右衛門は大峯山を経て、伊勢へ参宮の旅に出た。出立が六月二十八日、帰宅が八月十四日という長旅である。伊勢参宮についての印象を八右衛門は書いていない。だが、一人前の年齢での一ヶ月半に及ぶ独り旅は、その後の八右衛門に小さくない影響を与えたはずである。

伊勢参宮はおそらく一生涯に一度、この時代の農民が経験することのできた、もっとも大きな旅行であったろう。だがこれも、すべての村人が斉しくその機会をもつことができるものだったかどうか。抜け参りの大波が世間をゆさぶるというような時期をのぞけば、次第に参宮者が増していったことは疑いないとはいえ、やはり、家格・貧富・男女を問わずに享受できるものではなかったろう。八右衛門にしても、林家につらなるたしかな家筋のものであることが二十五歳で参宮の旅に出る条件になったと思われる。

今もあちこちの旧家には当時の参宮日記が残されているが、それらを一覧してわかるのは、伊勢参宮が信仰にかかわる経験だけでなく、農民が泊りを重ねながらさまざまな世事の見聞を拡大していく機会としての意味をもっていたということである。農民にとって、伊勢参宮のための長い旅は、自分の居村や周辺の村々を遠くこえた世界をたしかめ、また村の世界だけでなく、町の世界を自分の目と耳で知り、居村を中心にした自分の狭い経験や見解とひきくらべて、驚きをくりかえしながら、新鮮な多量の知見を吸収する時間であった。

このような伊勢参宮の広がりを天皇崇拝の意識と直接に結びつけて考えるのは、かえって無理な理解である。当時の伊勢信仰の普及は、天皇という具体的な人格とはほとんど関係をもっていない。それは、現世利益的な信仰意識と、驚嘆するほどに活発な御師(おし)集団の活動によるものであった。御師手代たちは、全国に散って村に入ると、伊勢講の人々に御蔭(おかげ)話しを聞かせ、正直を中心とする徳目の実践を説くとともに、伊勢暦(ごよみ)と呼ばれる暦を普及させた。この暦は農事暦としても農民によろこばれた。村と家の安穏と農作物の豊穣への願望こそが、伊勢信仰の場合にもその基礎であり、天照大神信仰も、生身の天皇に集中する感情をともなわずになりたつものであったと考えてまちがいない。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二四~五頁)

 ここでつけ加えるべきことがあるとすれば、それは「代参」という民俗についてです。代参とは、村あるいは講を代表して伊勢参宮に出かけることを意味します。代参の旅費は、たとえば頼母子講などによって調達されれば、順番がまわってきたから出立できるとはいえ村や講の協同・バックアップの賜物です。また代参には帰村時の義務がありました。今回行かれず見送った人々への御札を持ち帰ることや土産話(世間話)をすることなどの義務があったのです。この二つは、代参の公共的性格をより強く語っているように思えます。言い方を変えれば、伊勢参宮に代参することは何よりも村の一員としての自覚を高める意義がありました。私見ですが、この方面の民俗的心意は結構根強く、明治以降、村で能力がありながら貧窮のために進学出来なかった青少年に対する郷土からの援助というかたちで近代を生きのびることになったと考えます。とすれば、「代参」という体験は八右衛門の公人としての自覚に小さくない影響を与えたといっていい。 

≪伊勢参宮から帰ると間もなく、二十五歳の若さで、八右衛門は東善養寺村の名主になっている。林家につながる家筋、寺院生活で身につけた教養や見識などが八右衛門を名主役におしあげたのだろうが、それにしても若い名主の誕生である。伊勢参宮も、八右衛門にしてみれば家内安全、病気平癒の願いをこめたものであったかもしれないが、餞別(センベツ)を与えて送り出した親類・組合の人々にしてみれば、将来は名主役を勤める機会も十分にある若い八右衛門に世間を見聞させて修業させる、という意味をこめていたかもしれない。八右衛門が名主になったさいに、天明三年の打ちこわしのときに名主であった高橋家はどうなったのか。名主後退をめぐるなんらかの出入(でいり)を想定することもできるが、前橋領では江戸後期になると入札による交替名主制をとる村がふえているから、東善養寺村もその一つで、この年の入札で後見の勢力もあって八右衛門を選出した、とみるのが自然であろう。こののち長く八右衛門が名主を勤めているところをみると、世襲名主ではなくなっているが、年ごとにかわる年番名主制でもない。多分、名主退役のときに惣百姓選挙という方法がとられていたのだろう。名主になってから十数年間は、八右衛門は比較的大過ない村役人生活を送ったらしい。林分家は、この間に村のなかで確固とした存在になったであろう。≫(深谷克己前掲書 二六頁)

 

 代参が公人としての自覚を高める意義があると書きましたが、もちろんこれに尽きないことは引用が教えてくれます。代参は世間(外部世界)を見ることの大きなチャンスでした。農業の品種や農作業の仕方からはじまり、上方や上方にやって来る他郷人の情報を得る機会でした。代参は世間を自分の目で知ることで自分等の村や生き方を見直す意義があったのです。

 つぎに「惣百姓選挙」とありますが、選ぶ方も選ばれる方もその資格は一人前の百姓であったということです。一軒前(いっけまえ)として年貢の村請けを担い、村の掟を守ることの出来ない者はこの資格から除外されていたことはいうまでもないことです。また、名主の選び方に変遷があったことを初めて知りました。その順序は知りませんが、まず世襲名主、年番名主、入札名主を頭にいれておきたい。

 

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敬語普及の根幹には一つの思い違いがあった

2017-03-29 06:00:00 | 

 前回(3/22)は、全国には敬語の新旧という地方差ばかりでなく、もう一つ別種に、敬語の有無という地方差があることを知りました、すなわち敬語が使われていない地域や時代があったことです。このことを通して、我々が敬語の過渡期に生存している事実を確かめ、我々には敬語の歴史を正しく視る可能性が与えられていることを知りました。今回は、ふだん敬語が使われていないとされる信州地方の様子を見てゆきます。そして敬語がどのようにして発達するかの知見を得ます。

 

≪国語政策のためにする方言調査は、今はその一つの目標をこういう(歴史を正しく視る:引用者)方面に置くべき時代である。というわけは、敬語の土地ごとの特徴が、ラジオその他の影響でおいおいに薄くなり、資料は急激に減少しかかっているからである。その採集の方法の立つまでの間、かりに自分のやや新しい経験を追加しておくが、こういう意味で例に引くのだから、腹を立てる人は多分あるまい。鹿児島があれほど懸け離れた単語と語法とを持ちながら、その敬語の多種複雑と普及の度にかけては、優に先年の古都と匹敵するのとは反対に、中央に近い市街地でも、案外にまだ敬語の使用の盛んでない処がある。信州松本などもその一つで、これは主として旧士族の側のことらしいが、悪い言葉だという評を一度ならず聴いたことがある。この悪いというのは語音が濁っているというのでもなく、また誤まった語法が多いというのでもなく、単に人によって物の言い方に変化が少なく、「そうか」「行くのか」という類の句を他人にもいい、または女たちまでが男らしい口をきくことだそうで、つまりは他よりも差別の必要を、認めるの念が淡かったというに過ぎぬのである。敬語の知識が乏しかったのではない。こういう人たちが神とか主君とか、または改まった賓客(ひんきゃく)とかに対して、稀に思わずに使役する敬語というものが、いかに爽快でありかつ印象の深いものであったろうかを、むしろ私などは考えずにはいられないのである。近世の多くの敬語は、あまり頻繁なる連用によってたいていは力が弱り、せん方なしにまた新しいものを作っては、古いのを下積みにしかつ濫費している。オマエという語がある処では最上級の敬語であり、また他の処では下人に向ってしか用いないという類の不愉快な衝突は、世間が信州松本であったら、起りっこはないのであった。≫(ちくま文庫版『柳田國男全集22』 一三五~六頁)

  敬語が頻繁使われている地域に比べ、そうでない地域であった信州松本が取り上げられています。なぜ使われていなかったのか。松本の人たちは「他よりも差別の必要を、認めるの念が淡かった」からに過ぎず、敬語の知識に乏しかったわけでもなかったのです。また稀に神とか殿様に、あるいは改まった賓客に対して使われる敬語は、爽快で印象の深いものだったろうと柳田は想像しています。敬語も使いすぎると敬意が薄まってしまうという敬語観は、敬語の未来を考えるうえで重要なヒントだと思われます。続きの段落を読んでいきましょう。

 それから今一つこれも信州だが、上伊那郡の俗に箕輪(みのわ)地方という天竜川の上流は、これこそ確かに「ます」を認めなかった土地と言い得る。誰に物を問われても「そうだ」「行った」で、会話は一般にこういうものだと、教養ある者までが思っていたらしい形跡がある。小学校の効果と外部社会の圧迫と、ここではいずれが先に変化をかち得るか。実験の興味の最も多い地域であるが、少なくともつい近い頃まで、どんな旅人でもこの特徴の残りを、感ぜずには過ぎることができなかった。そうしてこの特徴には有力な一つの由来があったらしい。箕輪には昔から、箕輪衆という小さな地士(じざむらい)が多数住んでいて、頭を押え付ける殿様というものの怖しさをあまり知らない。それであの通り折屈み(おりかがみ:礼儀作法)が下手で、見たところ人づき(交際)が荒いのだということであったが、もしそうだったら懐かしい無形の記念物というべきである。武蔵の児玉(こだま)・私(きさい:正しくは「私市」)の党を始めとして、こういう小土豪の群立した土地は関東にも多いが、たいていは一度は鉄火(てっか:有罪かどうか焼金を触って決めること)の洗礼を受け、それからさらに大名制の鋳型(いがた)に嵌(は)められて、やたらに御辞儀をする礼儀作法を、習得せずにはすまぬ者が多かったのである。いくら五町三町の小地頭でも自分の下人はあろうから、それにはまた威張ったことであろうが、言葉を新設するまでの余裕もなく、自分が第一仲間同士、敬語を使わぬ話をしていたから、如在(じょさい:てぬかり)ない者にも真似てみよう手本がなかったのである。敬語はただ単に時の進みに伴のうて、今日のごとき発達を見たのではないらしい。これには人口の増加と社交の錯綜、すなわち目前に多くの異郷人が、出現したことも新たなる原因ではあり、それよりも大きな別種の変化は、敬語と上品なる生活との混同、よい生活をする人がすべて敬語を使用する階級なるがゆえに、せめてこれだけでも模倣してみようとして、格別必要もない区域にまで、これを拡張し始めたのが繁雑のもとであった。児童が最も遅くまでその風に染まなかったのは、箕輪衆と同様のうれしい素朴である。いよいよその児童に敬語の教育を強いんとするならば、少なくともあらかじめ敬語の歴史を明白にしておくことが、文政の局に当る人々の必須の義務だと私は信じている。≫(柳田國男前掲書 一三六~八頁)

 

 上伊那の箕輪地方に敬語が使われることがなかったのは、箕輪衆という地士(じざむらい)集団の影響が指摘されています。彼らは「頭を押え付ける殿様というものの怖しさをあまり知らない」せいだったというものです。柳田はこれに対して「懐かしい無形の記念物」だという好意的な評価を下しています。つまり、まつろわぬ者たちへの共感です。というのは、関東などの小土豪たちは、いずれも中央権力に服従して敬語の使い手として自らを変身させていかなければならない境遇にあったからです。とすれば、そのような境遇はいかに成立し敬語が普及してくるようになったのか、それなりの原因があったと考えられます。「敬語はただ単に時の進みに伴のうて、今日のごとき発達を見たのではないらしい」のです。

 柳田はそれをいくつか挙げています。①人口の増加、②社交の錯綜(目前に多くの異郷人が出現した)、③敬語と上品なる生活の混同、です。そして③の原因が一番大きかったと書いています。すなわち、「よい生活をする人がすべて敬語を使用する階級なるがゆえに、せめてこれだけでも模倣してみようとして、格別必要もない区域にまで、これを拡張し始めた」ことです。言い換えれば、支配層への小土豪を含めた民衆による、自ら進んでの従属です。あるいは「下からの重ね合わせ」による従属環境の成立です。その根幹には、敬語といえばみな良い言葉、社会上層の言葉だと混同してしまう「一つの思い違い」があったのです。鋭い指摘だと言わねばなりません。

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「腹」や「身内」は真実を知っている

2017-03-28 06:00:00 | 

 前回(3/21)に続いて、フィクションとしての文芸作品の中に見える「応声虫」の扱われ方を見ていきます。今回の作品は曲亭(滝沢)馬琴の『南総里見八犬伝』(一八一四~四二年刊)です。これは読本(よみほん)といって、絵を主とした草双紙・絵双紙に対して、文を読むことを主とした本の呼称で、江戸後期の小説の一種を意味します。馬琴のこの作品は読本の代表作品といっていいものでしょう。さて、『南総里見八犬伝』で「応声虫」はどう扱われているのでしょうか。よみ仮名をたくさん振りましたので、かえって読みづらいかもしれません。(引用中の引用におけるよみ仮名は半角カタカナを使って区別しました。また一箇所だけある下線部は、該当する漢字が見つからずひらがな表記に替えてあります)

 

≪近江の胆吹山(いぶきやま:伊吹山)に、但鳥跖六業因(ただとりせきろくなりより)という盗賊の頭領がいた。寺院や豪民を襲って、財を奪うことを繰り返しただけではない。「孕(ハラメ)る婦(オンナ)を奪(ウバイ)拿(ト)らし、生(イキ)ながらその腹を裂(サカ)して、胎内(ハラコモリ)の子を蒸(ムシ)て啖(クラ)ひ、炙(アブ)らしもして」酒の肴にするなど、残虐非道の限りを尽し、人々から「胆吹山の鬼跖六(オニセキロク)」と恐れられていた。その跖六業因(せきろくなりより)が、京都の祇園会を見物するため、物売りの姿を装い、手下の者三、四人を従えてやって来る。山鉾が通るのを、群衆のなかで見物していたまさにその時、業因(なりより)に異変が起こる。その様子を馬琴は、こう描写している。

 「怪(アヤシ)むべし。業因(ナリヨリ)が、肚裏(ハラノウチ)に声ありて、忽然(コチネン)として叫ぶこと、応声虫に異ならず、年来他(トシコロカレ)が做(ナ)しゝ悪事を、云云(カクカク)としゃべる声、高やかにして、人の耳を、串(ツラ)ぬく可(バカ)りに聞えしかば、・・・」。これまで自分がしてきた悪事の限りを、激しくまくし立てる腹中の声が、群衆の中で鳴り響いた。慌てふためいたのは業因自身である。腹を押さえたり、胸をたたいたりしたが、腹の「声」は納まるどころか、ますます激しく罵り続けた。周囲の人々は、それを目の当たりにして、驚き恐れた。こうして悪事が露見したことによって、業因は緝捕使(とりてつかい)の大将に捕らえられてしまう。

 右に引用したように、馬琴は「応声虫に異ならず」と書いているが、次の「巻之四 第九十八回」で「博士(はかせ)」を登場させ、「応声虫」についての見識を披露している。「博士」はこう述べる。「応声虫といふ奇病は、その病人がものいへば、腹内(ハラノウチ)にも声ありて、又その如くものいふのみ。則是响(スナワチ コレ ヒビキ)の音に応ずるに異ならず。その病人は黙然(モクネン)たるに、腹中(フクチュウ)に声あるにはあらず、恁(カカ)れば但鳥業因(タダトリ ナリヨリ)が、腹内(ハラノウチ)に声ありしは、応声虫にあらざる也」。

 このように「博士」は、当人が声を出していないのに、腹の方から一方的に言葉を発するのは、「応声虫」ではない、と断言している。また「博士」は、怨霊による可能性について、「是を怨霊の所為(ワザ)といへるは、拠(ヨリドコロ)あるに似たれども、そも推量の外を出(イデ)ず」と、これも否定し、「毒悪の冥罰」によって「奇病」を得たのだと結論している。

 「冥罰」はともかくとして、業因(なりより)の奇病が何であるかをめぐって、「応声虫」と「怨霊」との両者が取り上げられていることに留意しておきたい。≫(『「腹の虫」の研究』二三~四頁)

 

 馬琴が「博士」を使って説明する「応声虫」は、当人の発話に応えるものだけがそう呼ばれ、勝手に喋るのは応声虫ではないと紹介されています。なぜこういう現象が起きるのか、それは当人の音声が腹の内に響きそれが反射するからだと説いているように読めます。生理学的な説明なので、これはこれで不思議ではない。ですが、自分の腹が勝手に喋りだすのにはやはり驚きます。馬琴は「博士」にどう説明させているのか。「怨霊」のせいとも考えられるが、「毒悪の冥罰」のせいだ、と結論づけています。馬琴の「勧善懲悪」路線ゆえの自然な判断なのかもしれません。

 人に知られたくない自分の悪事を公衆の面前で、自分の「腹」の声が勝手にペラペラと喋り出す。これはどう考えても奇っ怪にして恐ろしく恥ずかしい事態ですが、こんな事はあり得ないという風には思えません。たとえば、ひと頃現代社会に頻発した「会社内部」からの告発を思い起こすからです。「会社内部」も「腹の声」も、「身内」と言い表すことができる点がなんだか妙ですが、これら二つの言葉には、真実を知る存在というニュアンスが含まれていることに心づかされます。また、これに対して馬琴の考える応声虫は、当人からの呼びかけがなければ応ずることができませんので、自分のコントロール下にある存在。勝手に喋り出すのは自分ではコントロールできない外部の影響を想像させます。以上から、ここでの応声虫の扱われ方には、やはり読者の好奇心に応える記述、すなわち説話性を増幅させる効果があることを認めることができます。

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日朝の文人同士による相互認識の実態

2017-03-27 06:00:00 | 

 前回は、「異文化接触の最前線 だから互いに誤解する」と題意して、地域を異にする者同士が実際に関わり合う最前線において、ステレオタイプ化した「誤解の筋道」について考えました。今回は、朝鮮通信使と対馬藩(士)のあいだではなく、日朝の文人同士による相互認識の実態について学びます。(引用中「△葭堂」の△は該当する漢字が見つけられなかった箇所です)

 

≪顕常大典は、のちに相国寺第一一三世となり、また輪番僧として以酊庵(対馬藩の朝鮮との外交文書作成を担う機関:引用者)に滞在することともなる臨済僧である。この人の著作のひとつに『萍遇録(ヘイグウロク?)』があり、ここには(崔天宗殺害事件のあった:引用者)明和通信使と唱和した詩文がいくつも含まれるため、ときに詩文集に分類されることもある。しかしながら記述の多くを占めるのは、大典が大阪西本願寺に設けられた朝鮮通信使の宿舎を訪ね、通信使の書記らと筆談による問答を重ね、詩文贈答を行ったというものである。ここでは、崔天宗殺害事件の前後における日朝相互認識について、『萍遇録』を素材にして、これまで述べ来たったのとは少々異なる角度から触れてみたい。まず『萍遇録』の概要を示そう。

 ある日、京都在住の産科医として知られ賀川玄悦(号は子玄)が、おそらく洛東にあった顕常大典の草庵へやってきた。当時、玄悦は六〇歳代半ば。また四〇歳代半ばであった大典は、相国寺慈雲庵を出て隠遁生活を送っていた。玄悦は、通信使行の沿道各地に詩文唱和を求めてかけつける日本人の多いことを伝える。やがて、明和通信使が帰国の途につき大坂の宿舎に至ったことを知り、大典は玄悦らとともに大坂西本願寺まで出かけた。(中略)

 京都からやってきた大典と玄悦は、大坂の文人木村△葭堂(ケンカドウ?)とともに四月五日に通信使の宿舎を初めて訪ねた。そのとき応対してくれたのは、製述官南玉(号は秋月)・書記成大中(号は龍淵)の二人であった。この日は大典らが、朝鮮と中国の政治・外交関係などを問いかけ、また成大中からは、日本の衣服冠佩(ハイ:帯びる)制や△葭堂での文化活動が問われている。

 △葭堂宅で一泊した翌六日は、通信使と詩文唱和を望む人々が三〇人ほど先客としてあり、広堂で詩文応酬がなされていたという。大典らはこの日も秋月(製述官・南玉)・龍淵(書記・成大中)を囲んで様々に問答をなし、詩文贈答をなした。大典は、朝鮮王朝を代表する朱子学者李退渓の学風・後継者を問い、また日本・朝鮮・中国の文化的共通性の如何を問うた。そうしたなかには、次のような問答もあった。(中略)

 対馬藩儒者雨森芳洲の評価を大典が問うたのに対し、成大中は「凡人のなかで少し優れている者である」とする。いささか辛い評価にも見えるが、芳洲が努力の人であったことを思えば強(アナガ)ち的外れではないかもしれない。もっともここでは、評価それ自体よりも、話題に日本人儒者が取り上げられ、大典と成大中のあいだに対話が成立しているという点に興味を感じる。

 さて、七日に通信使宿舎を訪れたときには「凶変ありて」立ち入ることが禁じられた。凶変とは崔天宗殺害事件のことである。そのため、大典はこののち暫く△葭堂宅に滞留し、再び宿舎を訪問するのは鈴木伝蔵が捕縛された翌日(四月二〇日)であった。

 二〇日、久しぶりに再会した大典に対し、成大中は「飢渇の思いが慰められる」として歓迎し、製述官南玉・書記官元重挙・金仁謙らともども、この間の日々鬱屈した気持ちを吐露した。そして元重挙は、「両国親睦の誼(ヨシ)み」をこそ重んじ、「一狂賊」の行為によって両国の疎遠な関係になることを望まない、と述べる。成大中は、崔天宗殺害事件についてあれこれ論評することを望まないとし、いったん途絶した日本文人たちとの交流の再会をこそ望む姿勢を示した。

 よく二一日に大典は帰洛し、二七日には、鈴木伝蔵一件にかかわる記事を製述官南玉・書記元重挙に宛てて送り届けさせている。

 五月二日、鈴木伝蔵の処刑が今日執行予定であること、また通信使一行の大坂出立が四日の予定であることを賀川玄悦から伝え聞いた大典は、夕刻に草庵を出て大坂へ赴いた。三日朝に船が大坂へ着くと、その足で通信使宿舎を訪ね、製述官南玉・書記官成大中・元重挙と再会している。この日には、四月末に大典から送られた鈴木伝蔵一件記事をめぐる対話がいくつも記録され、大典の記述が「高僧の筆を得て、凶賊の情を燭(ショク)す。文健やかにして切実なり」(元重挙)とか、「辞法は史漢に逼(セマ)る」(成大中)などと高く評価されている。(「史漢」とは『史記』と『漢書』のこと)

(このあと大典は大坂に留まりながら四日五日にも宿舎を訪ね南玉らと対談する。六日、宿舎から上船に向う通信使一行を見送ろうと、大典は大坂の文人仲間らと堺筋に面した一件の店を借りて、朝から行列が通るのを待った。昼すぎに着飾った一行が見え始め、行列のなかに南玉・金仁謙・成大中らを見出し、互いに握手を繰り返して別れを惜しんだ。)≫(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九 一五〇~二頁)

 

 長い引用になり最後の方は私の不十分な要旨をくっつけることになりました。でも崔天宗殺害事件の同時ドキュメントの趣を感じ取ることができ、興味をもって辿ることができました。また、「詩文贈答」は別にして、顕常大典の著書『萍遇録』からうかがえる日朝の文人同士による問答の話題は初めて知るものでした。日本人儒者の雨森芳洲の評価をめぐって日朝双方の「対話」が成立してきたと見られること、やがて「対話」越えた本心の吐露と交換が見られるなどが心に残ります。ここでは鈴木伝蔵とやがて彼に殺害される崔天宗のあいだにあったとされる言い争いとは、礼節としても内容としても隔絶した交流が存在したことに驚きます。前回は、生まれ育った地域を異にする者同士が、相対する最前線において、敵対的になったり友好的になったりすることを学びましたが、今回の引用で描かれた交流はまるで別物だという感じがします。この本の著者・池内氏のコメントは次回に。

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細見部隊長の全国ラジオ放送原稿(下)

2017-03-24 07:04:33 | 

 今回は、旧部隊長・細見惟雄大佐による、一九三八年十二月二十六日に全国ラジオ放送された原稿「軍神西住大尉」の後半(引用のみ)です。

 

自若従容(じじゃくしょうよう)たる最期

 次に大尉戦死の情況に就いて申述べます。

 本年五月十七日、大尉の属する高橋隊は徐州戦宿縣付近に於て敵を攻撃しましたが、敵前突然クリークにぶつかりました。大尉は勇敢にも単身戦車から飛び出して偵察し、通過地点を発見しましたので、戦闘中の隊長戦車に向って走って行きました。この時です、敵の狙撃を受け、敵弾は右内股に命中し、衣嚢(イノウ:ポケット)に入れてありました時計(今私がここに、このマイクの前に持って着て居ります時計、西住の血が尚残っています)を裏から表に貫いて、動脈を破りました。大尉は遂に畑中にどっと倒れました。しかし気丈な大尉は、近付く隊長に「負傷は軟部のようですから大丈夫です。部隊は左の方から敵を攻撃して下さい」と意見を述べ、戦車の中に搬(はこ)び込まれましたが、出血甚だしく乗務員必死の手当も及ばずだんだん力が抜けて、再び立つ能わざるを自覚したのでありましょう、自分を介抱中の高松上等兵に(これは西住の教育した初年兵です)「御前達と僅か一年で別れるとは思わなかった。自分が居なくなっても、平素自分が言うていた軍人の魂、軍人精神を基として中隊長殿初め各幹部方の教えに従い立派な軍人にならなくてはならん」と諭して居ります。愈々(イヨイヨ)命の目睫(モクショウ)の間(カン)に逼(セマ)りまするや、自若として少しも取り乱すことなく、次の最後の言葉を遺(のこ)しました。当時戦車は轟々と真っ暗な畑中を一意本部の位置に走って居ります。其の中で「部隊長殿、隊長殿、西住は御先に満足して往きます、しっかりやってください。御母様、小次郎は御先に往きます。自分は満足して居りますが、御母様は御一人で淋しい事と思います。可愛がって頂きました姉さん、色々お世話になりました。弟──立派に・・・」尚言葉が若干ありますが既に力なく、また戦車の音で聞き取ることが出来ません。

 天皇陛下万歳を三唱し奉り、後は一語なく、遂に常に生死を共にしたる其の戦車の中で、真に従容(しょうよう)として名誉の終焉(しゅうえん)を遂げたのであります。

 こうして部隊の至宝西住は壮烈なる戦死を遂げたのであります。年僅かに二十有五。噫!

 こで一寸申します。これより先私は主力の戦闘を終えて夜九時頃帰って来ました。その時朝から高橋隊に連絡に出して居りました品川大尉が大急ぎで帰って来ました。人を払って特に小さい声で、西住重傷、ここに来るまで危いらしいと云うことを告げます。部隊としては重大な事であります。

 戦車は尚も大尉の遺骸を乗せたまま真っ暗な畑中を驀進に驀進(ばくしん)を続け、落命後三四十分にして本部位置に到着致しました。然しすでに親愛敬慕する吾が西住中尉は去って呼べど答えずでありました。戦車から静かに外に出されて眠る西住の遺骸の周囲には、忽ち隊の将兵が集まりましたが、あらゆる感情を押えて、唯々(タダタダ)黙して見守る許りでありました。敵襲、敵襲の報告を受けつつ敵弾の下に他の戦死者と共に西住の遺骸を守ったあの周大庄の一夜は、終世忘れることの出来ない思い出であります。

軍人精神の華

 大尉は士官学校入校の時すでに今日あるを覚悟しておりました。ここに昭和八年一月父から小次郎宛の手紙があります。大尉が特に赤線を附しておる所を朗読致します。「進級などを目当にしてはなりません。唯々一途に己れが本文を尽すと云う考えで学究奮励すればいいのです。若し将来戦死でもすれば猶結構です、私は御前さんが閣下になった時以上の満足を得る理(わけ)です。私(ワタクシ)を忘れて奉公の覚悟で奮励されるよう希望します。父より、小次郎」とあります。出征前母堂に今度は生還を期せざるを誓い、陣中左の二首を壁書して愛唱して居ました。

武夫(もののふ)の誉なりけり大君の御盾となりて朽ち果つるとも

親思う心に優る親心今日の音づれ何んと聞くらん

 また平素何時戦死しても差支えないように、身の回りを整頓してありましたことは大尉の近くに起居した兵が感心して居りました。戦死後行李(こうり)を見まするに三十回に余る小隊の部下の功績は詳細に整理してありました。実に立派な覚悟で、従容死に就きたる戦死の情況と思い合せて感誠に深きものがあります。

 大尉は熊本県甲佐の人、故歩兵大尉西住三作氏の二男でありまして、陸軍士官学校第四十六期生であります。人となり温厚真面目、しかも気宇大にして無邪気でよく兵隊と冗談など言うていましたが、軍隊の規律のことや戦闘のことに及べば厳極(ママ)でありましたことは、部下の兵隊が皆申して居りました。また極めて親切で、余後備(ママ)の老兵まではこの若き将校を限りなく敬慕して居りました。責任観念、犠牲的精神の旺盛なることは、すでに申上げました如く、特に謙譲の美徳を有して、大功あって其の功を誇ったことを聞いたものがありません。誠心誠意中隊長を補佐し、常に軍隊は隊長核心主義に徹底せねばならぬと言い、全く言行一致していました。

 然し一度戦に臨むや沈着剛胆、常に必勝を信じて疑わず、勇猛果敢身を殺して喜んで死に就く軍人精神を極度に発揮しました。戦闘回数実に三十四回、負傷すること五度、しかも一回も戦闘を休むことなく、繃帯(ほうたい)のまま又は下駄を穿いて戦闘に従事しました。

 大尉の戦車に残る弾痕は、数え得るもの千余個、正に満身創痍(まんしんそうい)とでも申しましょうか、本年二月南京に於て畏れ多くも、朝香宮殿下当隊を御巡視遊ばされましたる際、この戦車を御覧遊ばされまして、「この戦車は尚使えるか」との御言葉を賜りました。大尉は当時兵と同様戦車乗務員の位置に直立して御言葉を拝し感激したのであります。

大尉母堂の手紙

 実に西住大尉の如きは忠孝両全の道を踏み、智にして仁、而して勇、啻(タダ)に皇軍将兵の亀鑑(きかん)たるのみならず、昭和聖代に生を享(ウ)くる吾々国民の誇として、此の人ありしことを後世永く伝えたく思うのであります。ここに親愛景仰(しんあいけいぎょう)する西住大尉の英霊に対し対し謹みて誠を捧げて終りまするが、最後に大尉戦死後母堂から私宛に参りました手紙を申し添えて置きます。

天皇陛下のため皇国日本のため死んでくれた小次郎よ、よく死んでくれた。これが老いし母の心から小次郎の霊に対する慈愛の最後の言葉で御座います。

然し小次郎は何(ド)んな死に方をしたであろうか、最後まで潔(いさぎ)よく働いて死んでくれたであろうか、詳報のくるまでは心配でたまりません。母は決して泣きはしません、泣けば名誉な貴君(あなた)の魂に対してつまらぬ母であります。

小次郎の霊よ、貴君(あなた)の戦車隊を護りつつ、あくまで戦って下さい。これが七世までの御奉公です。

と、此の母にして此の子あり、此の子にして此の母を持つを深く感ずる次第であります。

 天地正大の気溢れて、神州に鐘(あつま)る。秀ては富士の峰となり、流れては大海の水となる。銃前に西住大尉の忠烈に輝き、銃後に其の母の赤誠(せきせい)に之れを見るのであります。

 御稜威(みいつ)八紘を被い下忠誠を致す、悠々三千年、国史の精華今復(いままた)光を発したのであります。≫(『戦ふ戦車』朝日新聞社 一九三九 八六~九二頁)

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家再興なった八右衛門一家の暮らし

2017-03-23 13:46:06 | 

 前回(3/16)は、天明三年(一七八三)に浅間山大噴火のあとで前橋領分に起きた打ちこわしの模様の続きを読みました。打ちこわしが収束を迎え捕縛された者の中に、番屋に騒ぎを鎮めてみせると請け合った龍門村の中村勇右衛門という人物の登場、打ちこわしには多様な職業の者が集まっていたこと、また所払いに処せられた村人が家を処分してのち相変らず東善養寺村に住み続けたことから、幕藩制の構造的動揺がもたらす「刑罰の不徹底」を知ったことなど、全体に一八世紀末頃からの時代の変化を想像してみました。今回は、天明四年(一七八四)に一八歳のときに嫁をもらった八右衛門が、その後二十五歳のとき伊勢参宮に出かけるまでのおよそ七年間の経験を読んでみます。

 

≪八右衛門が、寄食している本家の娘の菊と夫婦になったのは翌天明四年(一七八四)である。だが、八右衛門は本家の跡取りにはならなかった。菊は富田村の親戚から入籍した養女であったし、すでにその前の年に、伊勢崎に近い連取村から音八という者を名跡(みょうせき:跡目)として迎えいれていたからである。

 天明四年は前年の噴火や冷害の影響がいっそう深刻にあらわれた年で、一八歳の八右衛門は、夫婦暮しとともに未曾有の大飢饉と物価騰貴を経験することになった。飢饉は、その年だけでなく、種籾(タネモミ)欠乏のために翌年の暮しにいっそう強い影響をおよぼすのである。米は一両でようやく二斗六升、大麦さえ一両で三斗六升しか買えなくなった。麦花一升一一二文、煙草は一分で二五〇目掛(ガケ)四把(ワ)、すべてがこんなありさまで、逆に銭相場は一両に六貫六〇〇文の安値になった。物価が上がって銭価が下がれば難儀は倍加する。

 こんななかで、林家の名跡をついだ音八は、その前年から、所持する水車で村の郷蔵米(ごうぐらまい:凶年に備えるための穀物)を精白して連取村へおくり、そこで酒造をはじめていた。また、麦を前年には両に三石八斗という相場で桐生に近い大間々(おおまま)町に売り出していた。これは聟入りしたばかりの音八の才覚ではなく、林本家が、「質商売」を足場に「酒造」や麦売買を加えて経営を拡大しようとしたのであろう。ところが大飢饉で米相場が上がり、郷蔵米も村へ返済しなければならなくなった。そのうえ、火事があって出費がかさみ、おまけに飢饉のせいか盗みにねらわれて、ごく短期間のあいだに林家の「身上も没落に及ぶ」(巻之三)という事態になった。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二三頁)

  天明四年は前年の噴火や冷害の影響がいっそう深刻になった年だったと書いてあります。前年の打ちこわしから免れても、「質商売」から事業を拡大しようとした林本家にも身上「没落に及ぶ」事態が襲います。近世における民衆の貧窮への感じ方は、ひどい飢饉が何度もあって馴れていたこと、また同じ境遇の人間が多かったせいで、今日の感覚で我々が感じる苦しみとは異なり、何とか耐えたのかもしれないなどとも考えます。しかし「貧苦が本式に忍びがたくなったのは、零落ということから始まっている」と書いたのは柳田國男(『明治大正史世相篇』)でした。まわりがひどい貧苦をなんとも思わないような中では、自分の身上だけの没落は堪え難いことだったにちがいありません。そんな零落を敏感に予感したのか、そうなる前に林本家の叔父・七右衛門は八右衛門夫婦に家屋敷を与え、林分家を再興させます。この事実から、父が死に家が零落したために母と姉と引き離され、六歳のときに寺に預けられた八右衛門が、その後どのような気持ちで生きてきたのか、が伝わってくるエピソードです。おそらく家再興の願いを生きてきたはずです。

≪経営の失敗ということとなんらかの関係があるのか、あくる天明五年に、七右衛門は、二年まえの打ちこわしで所払い刑をうけた藤吉の親吉右衛門から買いとってあった家屋敷を、八右衛門夫婦に与えて分家させた。八右衛門は父庄七の位牌をひきとった。八右衛門の分家独立は明和九年(一七七二)に絶えた林分家を一五年目に復興させたことにもなる。

 妻の菊は八右衛門と同年であった。菊は、そのころ流行した眼病を煩ったが、それが意外な大病になり、片方の眼が見えなくなった。天明六年に長女順、その二年後に長男要蔵、寛政六年(一七九四)に次男徳二郎が生まれた。順も母と同じ眼病に苦しみ、この頃の八右衛門は家族の眼の治療費に大金を工面しなければならなかった。治療のためには力を尽くしており、妻と娘を、藤岡や居村から四里ほども隔たった多湖郡長岡村の目医師のところへ、百日ずつ滞在させたり、赤木山麓に住む法真流梅本玄寿という医師に治療をたのんだりしている。娘の眼はやがて平癒したが、妻の眼はついになおらなかった。八右衛門自身も、「十九歳より廿五歳迄甚だ病身」(巻之三)であり、このころの八右衛門家のもっとも大きな出費は治療費であった、のちに、長男の要蔵を病死させている。≫(前掲書 二四頁)

 

 八右衛門にとって分家は、家の再興であり主人となった自分が新しい家を豊かにしていくスタートラインであったはずです。ところが妻の菊と長女順の眼病の治療に八右衛門は奔走することになります。再興なったばかりの家に治療に要した大金の蓄えがあったとも思えません。どう工面したのでしょうか。林本家には頼れないはずです。しかし、私にはこう思えます。幼い頃から零落による貧苦を堪えてきた者にとって、他人の袖は頼りにしなかったのではないでしょうか。もともと家は一度失っています。しかし今回は家屋敷もあれば耕す田畑もあったはずで、ゼロからの出発とはいえません。若い力もあって眼病で苦しむ妻とともに必死で働いて治療費を得たのではないでしょうか。もう一つ考えられるのは、東善養寺村には、各自の貧窮が孤立におちいるのを防ぐ相互扶助の仕組みがあったのではないかということです。「所払い」刑を居村で生きた藤吉の一件がそう感じさせます。ここを調べることができれば面白いのですが。

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敬語が使われていない地域と時代がある

2017-03-22 13:27:45 | 

 前回(3/15)は、敬語は全国で一様に発達してきたわけでなく、その使われ方には地方差があることを知りました。とくに南島や東北にはシンプルな形の古い敬語が残されていることを知りました。たとえば、奄美大島では対等な物言いの「ある」「あらぬ」の句尾に、「居る」を強めた意味の「オウル」を加えて、アリオウル・アリオウラヌと言うことで目上に対する敬意を表現しました。また八重山諸島ではもっと簡単に、「ユウ」をつけてアルユウ・アラヌユウと言うだけでした。「ユウ」は本土で使う「よ」と同系語だと柳田は考えているようです。

 次に東北へ行くと、六県の広い範囲でやはりシンプルな敬語が見られます。句尾に「スまたはネス」あるいは「シあるいはネシ」を付けて相手に敬意を表します。これらの意味はもと「申す」だったらしいことは、「ムシ」とも「ンス」とも、ときに「マス」と付け加えることからわかります。「おれ行くとこァどこだべマス」(=私の行く所はどこでしょうか 岩手県中部)の「マス」は標準語の「あります」などの「マス」とは全く別のものだという指摘は印象深いものがあります。以上は「敬語の新旧という地方差」でしたが、敬語の地方差にはもう一つ別種類のものがあるのです。それは敬語が使われている地方とそうでない地方の存在です。言ってみれば、「敬語の有無という地方差」です。柳田はここから何を導きだそうと言うのでしょうか。

 

≪敬語の地方差はこの他に今一つのものがある。右の南北の二例では、極度に単純だというばかりで、とにかくあることは確かにあり、また相応に繁く使用せられている。これに対しては別になお一種、ほとんと「ござる」「あります」の存在を忘れたのかと思われる地方が、少なくも元はたしかにあった。私が五十年前にびっくりした下総の一隅では、それでもまだ小児とこれを相手とする者との群だけに限られ、ただその場におり合さぬ第三者についてのみ、成人もこれを無視するというまでであったが、稀にはまだずっとこの程度を越えた例がある。地域ではないが学校の生活、ここだけには敬語が甚だしく不人望で、今でも純然たる仲間の言葉が行われ、人によってはそれが世の中へ出るまでも続いている。行儀作法を好いことと心得ておりながら、一方にはまたひどく他人行儀ということを憎む階級が、社会の中堅にもいるのだから、この問題はむつかしいわけである。しかし解決の鍵もやはりここにあると私などは狙っている。だから最初にまずこれと地方の敬語使用圏の消長とを比較してみる必要をも感ずるのである。文学はだいたいに敬語使用者の記録といってよいのであるが、それでもまだその中には京と江戸との、かなり際立った地方差が見られる。これも若い頃の自分の経験であるが、江戸はあれほどまでに二本差した人に対して、遠慮した物の言い方をする土地柄であったにかかわらず、仲間同士の会話はいわゆるぞんざいいかついものだった。ことに中分(ちゅうぶん)以下の婦人などは、男に対しても別に女言葉も使わず、平気で行くか来るかどうするのだなどと言っていたことは、近世の中本(ちゅうほん)類にもよく描写せられている。湛念(たんねん)な学者だったら例は何百でも並べてくれるであろう。それが明治に入って程もなく影を潜めたのは、隣近所へ雑多の他処者(よそもの)が入って来て住んだからで、つまり敬語を必要としなかった「仲間」が、崩壊してしまったのである。学校でも中央の出入りの多いものでは、ほんの目礼ぐらいで話をする折も少なく、いわゆる他人行儀が普通になって、もう坪内さんの『書生気質』のような、特色の多い書生言葉も亡びかかっている。この二つの経過には似通うたものがあるかと私には思われる。敬語をよい言葉と呼ぶ名に絆(ほだ)されていたけれども、これを使わずともよい間柄の減少することは、考えてみると必ずしも幸福とは言えなかった。

 少なくとも以前は互いに敬語を交さず、私たちがこういう文章で書くような、また外国語でみるような平常の言葉で、意思を通じていた人及び場合が、今よりずっと多かったことは確かである。それが現在のいわゆる丁寧な言葉に、改まって来たのは最近であるゆえに、人で言うならば少年とか学生とか、労働の団体とかが後に残り、婦人とか客商売の者とかが、一足先に進んでしまったのである。土地を目標にして見て行っても、まだまだ意外な方面に敬語の使用の著しく尠(すくな)い小社会が残っている。過渡期に生まれ合せた我々学徒の、これがまことに大きな仕合せで、これあればこそ始めて今までの経過を認識し、それを参考にして残りの未決を、できるだけ国民に都合のよいように、解決することも望み得られるのである。いちがいにそれを下品と評したり、または人物粗野などと報告したりすることは、手短かに申せば因習のしもべであった。また歴史を正しく視ることのできぬ者の、あわれなる現状維持説であった。≫(ちくま文庫版『柳田國男全集22』 一三三~五頁)

 

 全国には敬語の有無という地方差があることから、何を導けるのか。柳田はまず地域ではなく学校生活に注目します。そうすると、ここでは今でも仲間同士の言葉が盛んに使われており敬語は人気がない。だが世の中に出るようになると礼儀作法を求めるようになる。つまり敬語がほとんど使われない場所から使われる場所へ、と敬語の扱われ方の変遷を認めることができるはずです。この筋道を手がかりに、地方における敬語の消長(盛衰)と比較しようというのです。そこで選ばれるのは江戸です。なぜ江戸なのかというと、文学の世界をみるとだいたいは敬語使用者の記録になっており、京と江戸の間には、敬語の有無という地方差が描かれています。そう、江戸では意外にも敬語があまり使われておらず、仲間同士の物言いは「ぞんざいでいかつい」ものだったことが見えてきます。

 ところが明治の世を迎えるようになると、「隣近所へ雑多の他処者(よそもの)が入って来て」住み始めます。すると、従来の仲間同士の物言いは減少し、増加した他処者(よそもの)との間には他人行儀な言葉遣いすなわち「敬語」が増えていくというわけです。このような江戸における敬語使用の消長に関する記述には、学校生活でみた敬語の変遷と似た筋道を見つけることができます。そうすると、ここから柳田は何を導き出そうとしているか、が見えて来ます。それは、かつて敬語が使われていない地域や時代が確実に存在し、今も残っているし、他方で敬語が「発達」している、そのような過渡期に我々が生まれ合せたという事実です。

 また、柳田はここで敬語の価値に関わる一言を記しています。すなわち、「(敬語を)使わずともよい間柄の減少することは、考えてみると必ずしも幸福とは言えなかった」。仲間同士の物言いが減っていけば自分の肚を語り合う機会は減っていきます。こういう機会が減れば、公共は強者の独占物と化してしまい、たしかに幸福な社会からは遠ざかるだけです。

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応声虫 演じられて心づく面白さ

2017-03-21 07:30:52 | 

 前回(3/14)は、近世の随筆類から応声虫の事例、大人がかかる奇病としての「応声虫」の事例を知ることができました。今回は第二節創作文芸にみる「応声虫」、に入ります。ここでは、フィクションとしての文芸作品に見える「応声虫」の扱われかたを見てゆきます。『「腹の虫」の研究』の著者は、その仕方を「説話性」と受けとめていますが、この「説話性」の意味するところがはっきりと書かれていません。あえて関連する言葉を拾い挙げると、「奇異性」、「実際にあった話」、「広がり」、「伝聞」、「変形・加工」などが見つかります。これらから私なりの受けとめを言葉にしてみると、説話性とはハナシやカタリが備える、「聴き手や観客の好奇心(面白さ)に応える性質」のことだと一応定義可能です。こう捉えると、「応声虫」という奇病が説話性を含み、またフィクション文芸がそれを増幅させていくものだと想像することは容易になります。さて、ここでは二つの作品を見てゆきます。浄瑠璃の『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』と、読本(よみほん)の『南総里見八犬伝』です。今回は前者です。フィクション文芸の中で「応声虫」の説話性がどのように膨らむのかを確かめていきます。

 

≪『鬼一法眼三略巻』は、歌舞伎や文楽で今日でもしばしば上演される人気演目の一つであり、とりわけ「菊畑」や「大蔵卿館」の場は.歌舞伎ファンにとってお馴染みの舞台であろう。もともとは、文耕堂(ぶんこうどう)と長谷川千四(せんし)との二人の作者による浄瑠璃作品で、享保一六年(一七三一)に大阪・竹本座」で初演され、その翌年に早くも歌舞伎化されている。「応声虫」のことが出てくるのは、浄瑠璃作品の最初の場面(「第一」)であるが、今日では文楽でも歌舞伎でも上演されなくなっている箇所である。物語を要約しながら、「応声虫」がどのように扱われているかを見ていこう。

 時は源平時代である。熊野別当の弁真(べんしん)は、保元の乱で源為義に見方したために、平清盛によって切腹させられた。残された弁真の妻は(北の方)と、その娘である椰(なぎ)の前とは、坂上文藤次(さかのうえぶんとうじ)のもとに身を寄せている。文藤次は娘の飛鳥が、梛の前の乳母をしていた縁もあって、この親子を預かっているのである。

 北の方は、その時懐妊とも病気ともつかぬ、尋常ならざる状態にあった。かつて北の方は、弁真との間に男子のないことを悲しみ、熊野権現に立願して悪夢があり、懐妊の兆候を得た。しかし、出産には至らず、すでに七年もの歳月が経っている。男子誕生の時は殺害せよとの命を受けた郡代(ぐんだい)が、毎日「病人改め」にやってくる。この日も「病人改め」にやってきた平太諸賢(もろかた)が、乱暴にも北の方の懐を引きあけて、腹部を押したり掴んだりするので、見るに見かねた文藤次が諸賢(もろかた)にこう言う。

 「毎日毎日同じ事申すに似たれども、正(まさ)しく応声虫と申す病にて、時々腹の内から応々と申す、幾度(いくたび)仰せられても、病にまがひ御座なし」。これに対して諸賢(もろかた)は、「言ふな言ふな、応声虫の煩ひ、物知(ものしり)につくと尋ねたれば、応声虫とは声に応ずる虫と書く、(中略)此女が病、応声虫に極(きわま)らば、外にて言う事を口うつすべし、目前に実否(じつふ)を正して見せん」と立ち上がり、強引に北の方を自分の方に引き寄せ、その腹部に向かって言い立てる。「ヤイ腹の内の病よ、応声虫か、応声虫かやい」と言っては耳を傾け、「文藤次、何とも言わぬぞよ、但し是はむつかしさに言はぬか。いろはにほへと、言わぬぞよ、ちりぬるおわか、言わぬぞよ言わぬぞよ、なんと、声に応ぜいでも応声虫か。懐胎に極(きわま)つたはやい」と決めつける。文藤次は、懐胎ならば十月(とつき)で生まれるはず、七年も経っているからには懐胎ではない、と反論する。しかし、一歩も引かぬ諸賢(もろかた)は、老子が八十年もの間、母の胎内にいて、白髪で生まれてきた、という話を引き合いに出して撥ねつける。

 この後、北の方は、清盛の命を受けた平広盛によって、結局切り殺されてしまう。動かぬはずのその死体に、動きが起こり、疵(きず)口から、男子が生まれてくる。大きさは八、九歳の童子ほどもある巨大児だった。すなわちこれが、武蔵坊弁慶だった。

 この作品の「応声虫」は、懐妊なのか、それとも腹部の病症なのかが、言い争われるなかで登場している。懐妊との異同が問題視されるということは、「応声虫」が胎児と同じほどの大きさということになるが、この点、やや不自由な感じを与える。にもかかわらず作者が、数多くある病のなかで、ことさら「応声虫」を登場させたのには理由があろう。考えられることは、まず、懐妊して七年も経つという例外状態を説明するのに、めったに見られない奇病こそがふさわしいということ。それだけでなく、懐妊と病との区別を決定づけるうえで、演劇的説得性を持つからだと思われる。「応声虫」ならば、声に応じて言葉が返って来るはずであり、胎児ならばそのようなことは起こらないのであって、容易に区別ができることになる。諸賢が「腹」に向かって、あれこれ言葉をかける場面は、きわめて風変わりな設定ではあるが、観客はそれを違和感なく楽しんだことだろう。「応声虫」がだれの耳にも明らかな聴覚的確証になるわけであり、演劇的効果を高める役割を果している点で、興味深い例である。≫(『「腹の虫」の研究』十七~二十頁)

 

 北の方や文藤次は、清盛に切腹させられた弁真(べんしん)の忘れ形見だからお腹の児を守りたい、それゆえ奇病の「応声虫」だと主張する。他方で「懐妊」を疑い生まれた子が男児だったら殺せと命じられ、「病人改め」にやってきた郡代の諸賢(もろかた)の反論の発生。この言い争いの中から「応声虫」が登場しますが、その説話性はどう表現され増幅されているか。まず、北の方が懐妊しているとして、七年も生まれないのは腑に落ちないと感じている観客からすれば、応声虫はどのような役目をしているか。著者は「懐妊して七年も経つという例外状態を説明するのに、めったに見られない奇病こそがふさわしい」と述べています。懐妊して七年も経つのに未だに子が生まれない不思議さには、めったに見られない「応声虫」という奇病が似合うということなのでしょう。私は、この「不思議さ」と「奇異性」が共存する観客の気分に、北の方が殺されその傷口から生まれた男児がのちの武蔵坊弁慶だったというオチを、深く納得させる効果が生じたのだと思いました。

 次いで応声虫の説話性がどう増幅されたのか。著者は応声虫が「懐妊と病との区別を決定づけるうえで、演劇的説得性を持つからだと」書いています。すなわち、北の方のお腹に向かって声をかける諸賢(もろかた)のパフォーマンスが、懐妊か病かをハッキリ決定づける効果をもっているということです。著者の言う、≪諸賢が「腹」に向かって、あれこれ言葉をかける場面は、きわめて風変わりな設定ではあるが、観客はそれを違和感なく楽しんだことだろう。「応声虫」がだれの耳にも明らかな聴覚的確証になるわけであり、演劇的効果を高める役割を果している≫という分析が腑に落ちました。

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異文化接触の最前線 だから互いに誤解する

2017-03-20 10:07:10 | 

 前回(3/13)は、一八世紀後半から近世演劇上に現れた日本民衆の相対的な対外認識が、一九世紀になるとなぜか後退していく話でした。その背景には、中国人も、朝鮮人もオランダ人もみな唐人と呼ぶ慣習が進行していました。では、どう後退していくと論じられていたかというと、対外的には日本型華夷意識のもとで、民衆は支配者の意識に自らを重ねていくようになりますが、その支配層に比べ貧困な海外情報しか得られない状況下では、「尊大な自己中心主義的発想」をもつようになるという議論でした。しかし、このような発想は客観的な事実認識に裏付けられたものではなかったので、直接相手と触れ合う機会があれば解消できるような性格の対外認識でした。この議論については、同じ著者・池内敏氏による姉妹書『近世日本と朝鮮漂流民』(臨川書店 一九九八)を参照しながら再度考えてみたい。

 さて、今回は第四章「近世民衆の朝鮮認識」の第二節「朝鮮認識の地域差と階層差」に入ります。この第二節で第四章はおしまいですが、構成は(1)異文化接触と認識の有様、(2)共感する文化と相互認識、の二つの議論からなります。

 

≪ところで、民衆が自らを重ね合わせた支配層の認識も、実は単一な認識ではない。たとえば、崔天宗事件に際しての徳川幕府と対馬藩を対比しても、その差は明瞭である。

 たとえば通信使一行の帰国後に本格化する崔天宗殺害事件の審理の過程において、徳川幕府側は鈴木伝蔵個人の責任を問うというよりも、対馬藩としての共同責任を追及した。紛争発生の背景分析を要せず、紛争を生ぜしめた管理責任の追及であった。そして事件の当事者対馬藩を差置いて、以酊庵を介して幕府が直接朝鮮に裁断結果の報告をしようとする。幕府にとっては、朝鮮との間の外交秩序の大枠 ―友好関係の維持― が必要不可欠なのであって、事件の背景にある日朝相互の紛争の種の部分にまで踏み込んでいく必要性を感じない。

一方対馬藩は、崔天宗殺害事件に関しては、そうした紛争を生ぜしめてしまう背景にむしろ関心を集中する。管理の徹底で解決する問題ではなく、そもそも紛争を生ぜしめてしまう要因が対馬藩と朝鮮(あるいは日本と朝鮮)との間に存在するとの立場である。それは、朝鮮と隣接し、接触する機会の多かったことに由来しよう。そしておそらくそうした背景には対馬藩を媒介にして成り立ってきた近世日朝外交体制があるのであって、しかもそれが宗家の家業の問題でもあったがゆえに、この間の幕府の動向に神経を尖らせることとなった。

 こうした幕府と対馬藩の姿勢の対照さは、結局のところ、日朝外交への関わりの仕方の差、具体的な交渉の蓄積を有するか否かといった実務経験の差、といった点に起因するように思われる。例えてみれば、「最前線」と「後方」との現実に対する認識の厳しさ、甘さの差異である。

 対馬藩家老小野典膳は、彼の体験した範囲ながらも、通信使来聘(ライヘイ)のたびに朝鮮通信使の繰り広げる無礼の数々を列挙する。宝暦度通信使に際して馬上の通信使が馬付の者を鑓(ヤリ)の石突で突き伏せて半死半生の体に至らしめたこと、馬の口付きの者は管鞭で打擲(チョウチャク)されること、延享度には、壱岐勝本に到着した通信使の軍官が予定外で島巡りをしたいというのを拒絶したところ唾を吐きかえられたこと、藍島では出船の際に島内で出された夜具を悉く盗んで船に積み込んだこと、その後も方々の御馳走場(ゴチソウバ)で同様のことが繰り返されたこと、下行(ゲギョウ:下賜される)物に難癖を付けて魚ならば大きなものを要求し、野菜ならば季節はずれのものを要求する。あるいは、こうした朝鮮側の行為を咎め立てすると、御馳走人大名は何も言わないのに対馬藩の役人は少々のことで文句を言うと謗(ソシ)る・・・。こうした自らの直接的な体験を通じて対馬藩士たちは彼ら独自の強烈な朝鮮認識を育んでいく。そして「畢竟(ヒッキョウ)、朝鮮国の人心・風俗は対州(対馬藩)の者のほかにはわからない」とは、崔天宗事件に関わって発生した幕府の「伝達方針」を批判したときの御隠居様(宗義蕃)の言であった。

 ところで、基本的には異文化接触(経験)の多寡(タカ)が異文化認識の有様を決定するように思われるが、しかし必ずしも経験が多ければ理解が深まるということでもない。経験の在り方が、何らかの理由により一方的にステロタイプ(画一的)化されることで、異文化に対して「友好的」にもなりうるし、「敵対的」にもなりうる。とりわけそれは「最前線」で顕著に現われてくる。対馬藩士たちの強烈な朝鮮認識は、まさに「最前線」における具体的な経験によって培われていることが見て取れる。これは同一階層の朝鮮認識における地域差のあらわれと言い換えることもできよう。≫(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九 一四八~五〇頁)

 

 対馬藩家老小野典膳のところには、実際に通信使の接待に携わる藩士たちから何種類もの苦情が寄せられたのでしょう。上に挙げられた通信使の「無礼」の数々には、私も少々驚きました。ですが、かといって通信使一行全員が無礼であるわけがないのも自明です。このような相手の部分的な瑕疵を全体的なそれであるかのように偽装する議論が、今日でもしばしば対立する相手に使われる例はあちこちで見られるように思います。この偽装はいいかえれば共同幻想のよろしくない側面ですが、すこし冷静になれば自分の偽装には心づくものです。冷静になれない感情がそこに発生しているから偽装的な議論がまかり通ってしまう。また、好き嫌いを口に出すことがまるで権利であるかのように思い相手を罵る例も見られます。これはいわば「子供の仕草」の一つです。人は大から小まで、相手の部分的な瑕疵を全体的なそれであるかのように偽装する議論が大好きなのかもしれません。

 同じ文化を共有する国家でさえこうなのですから、異文化・異民族のあいだで相互理解を深めるのが難しいことはよくわかります。だから、感情的になるまえに、誤解の筋道を了解しておくことが重要なのでしょう。異文化接触の経験が多いからといって、必ずしも理解が深まるわけではないことを入口に著者は「誤解の筋道」について書いています。経験の在り方が何らかの理由でステレオタイプ化する場合には、われわれは経験の多寡にかかわらず、異文化に対しては「友好的」にも「敵対的」にもなり得るというのです。

 異文化の話でなくても、動物を可愛がる他人に対して下す「動物好きに悪人はいない」という判断は一つのステレオタイプでしょう。また戦地で敵方の民間人に救われたことが、戦後に「友好的」な付き合いを自分に課す根拠になるとか、あるいは相手の何気ない差別語が生涯「敵対的」な心持を作ってしまう場合などを想定することができます。ならば相手に対するステレオタイプな経験をどうしたら防ぐことができるのか。それぞれの異文化経験は、同一階層であれば地域によって異なってくるのは当たり前だと認識しておくことだと私は受けとります。この「地域」を背負い異文化を体現する人間同士がナマでかかわりあう場が「最前線」だとすれば、「最前線だから誤解する」と考えておくことが、双方のステレオタイプな経験を相対化し得る一つの方法なのだと考えます。

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