尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

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共感に談義(説教)は要らない

2016-08-31 06:00:00 | 

 前回(8/24)は、「なぜ語り手は祖父祖母でなければならないか」と題して、語り手としての祖父祖母が「なお一生の間に何遍も、黙って同じ話を傍聴し、幼時少時を追憶する機会が多かった」からこそ、国語の教育としては価値が多かったことを紹介しようとしたのですが、尻切れトンボになってしまったようです。ここで少し補足しておきます。なぜ、そのことが国語の教育として価値が多かったのか。まず学校に「話し方」という課目があるので、誤解されやすいのですが、柳田が「ハナシ方」という場合はじつは子供がハナシを聴くことを意味しています。だからこそ、語り手をだれに求めるかは大事な問題だったことです。それはもちろん祖父祖母ですが、彼らが年老いて初めて語り手となることに価値があるというのは、もちろん彼らの人生経験が関係しています。以下の引用にあるように児童の「話好き」とは、ハナシを聴くことが好きになるという意味です。今回の主題は、祖父祖母のハナシを聴くことが何を意図した行為なのか、ここにあります。引用は、読み易さを考慮して段落を入れてあります。

 

 児童を話好きにする好結果は、むしろある年月を過ぎてから収められるように、自分などは考えている。わかると言ったところで成長した社会の人事が、そうしっくりと腑に落ちるものでないことは、たった一つの婚姻譚(コンインタン)を見ても知れる。笑い話のごときも上品で我々の心から面白がるようなものは、大人が笑うからまずおかしいものと心得るだけである。児童の覚える部分は試験してみればすぐにわかるごとく、「一つ下さいお伴しよ」や「お宿はどこじゃ」の類、もしくは話の前と後に取って附けたいろいろの文句、すなわちハナシといってもかえって方式のカタリゴトに近いものがさきで、それから何回も黙って傍聴しているうちに、想像も鮮かになり、人の憂いや悲しみも身に沁みて来るのである。

わが邦の田舎ではほんの近い頃まで、少なくとも女性だけは成熟した者も、昔話のあわれに耳を傾けていたらしきことは、シンドレラ系統からだんだんと深入りした継子話(ママコバナシ)の、全国に流布しているのを見ても察せられる。あるいは親父が蛇に呑まれんとする蛙の命乞いに、三人ある娘の一人を嫁にくれる約束をする。父が家に来てそれを言い出しかねて、気を病んで寝ている心持も知らず、姉二人は腹を立てて行ってしまう。三番目の娘だけが素直な子で、父さんがきめた約束ならどこへでも嫁に行きます、それよりも早く起きて朝飯をあがれという、こういう情合いなどは小児にはまだわからない。

あるいは善い爺が年取りの米を買いに行く途(ミチ)で、吹雪に濡れている六地蔵を気の毒に思い、笠を買って着せ申して自分は手ぶらで戻って来る。婆にその話をするとああそれは好い事をさっしゃった、私等二人は湯を食べて年取りをして寝ようという段なども、詳しく叙説してもらって和やかな気持になるだけの聴き手が、以前はしばしば童子にまじって耳を傾けていたのである。

一科独立している現在の修身教程の中ですら、こういう農民の心の善良さを、具体的にたたえた例はまだないのである。それを一言の談義も添えずに、端的に胸を打たしめるということは、言わば言語の最終の目途であった。自分がそんなよい人になれるか否か別として、少なくとも人間の可能性、そういった世渡りの途もあるということを、覚えさせる機会はこのほかには元はなかったのである。

教訓という語は為永春水までが使っているので、あるいは見当ちがいの批判を招きそうな虞(オソ)れがあるが、今と方法の異なるものがあったというのみで、以前も言語の修得に大きな信頼を繋(カ)け、言語を通して歴代の国民の活き方を、伝え遺(ノコ)そうという意思だけは確立していた。そうして試験というような性急な方法をもって、しばしばその教育の功程を確かめようとしなかったところに、私たちは古人の自信を見るのである。(ちくま文庫版『柳田國男全集』第二十二巻 一〇四~六頁)

 

 ずいぶん年老いて、幼い頃から繰り返し聴いてきた昔話などを、孫の世代に語るというの意義はどこにあるのでしょうか。上の引用から探せば、「一言の談義も添えずに、端的に胸を打たしめる」ことにあります。ここで「談義」とは説教のこと、「端的に胸を打たしめる」とは、ハナシへの共感そのものを意味します。このためにどうしても年寄の長い人生経験が必要だと言うわけです。つまり柳田はハナシへの共感に「談義」(説教)が伴うことを避けたいのです。思うに、柳田は人を動かすのは談義(説教)ではなく、共感そのものだと考えているのではないでしょうか。人間が若いうちはどこかで説教臭くなる、この臭みを抜くにはどうしても長い人生経験が必要だと考えていたのかもしれません。ところが人情本の作風を確立した戯作者の為永春水までが「教訓」などという言葉を使っていたために、ハナシ(昔話など)を聴くことは教訓を得ることだと誤解されるおそれが出て来ます。

 しかし、「一言の談義も添えずに、端的に胸を打たしめる」ということは、言わば「言語の最終の目途(目標)」なのです。「自分がそんなよい人になれるか否か別として、少なくとも人間の可能性、そういった世渡りの途もあるということを、覚えさせる機会」は、この「一言の談義も添えずに、端的に胸を打たしめる」以外になかったからです。このような「ハナシ方」を通じて代々の親々が伝えたかったことは何でしょうか。それこそ、「言語の修得に大きな信頼を繋(カ)け、言語を通して歴代の国民の活き方を、伝え遺(ノコ)そうという意思」にほかなりません。かれら古人の自信は、引用の最後の一文に尽くされていますが、性急な国語教育(ハナシ方)は説教に堕してしまい、逆効果であることを心に留めておきたい。

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けんかを凝視する

2016-08-30 05:52:58 | 

 庄司和晃「子どものコトバと行動についての諸考察」の第三章「けんか後のコトバと心のたちなおり」に入ります。この章は第一節「けんかを凝視する」、第二節「仲間のコトバとその力」、第三節「愛情要求のコトバというもの」から成り立っています。この第三章では、小学一年生のけんか後のコトバと心の動きを第一~二節で二つ観察し、第三節で一つの大きな提案を行なっています。今回は第一節「けんかを凝視する」を紹介します。

 

  けんかを凝視する

 子どもたちにとって、けんかは1つのレクレーションまたは1つの遊びである、といったような立場に私は自分を強くおしこめておいた一時期があった。

 したがって、そのときはけんかをきびしく禁止したり、けんか両成敗をタテにして両者を同時にこらしめたり、あるいは原因なるものを根ほり葉ほり聞き出して正当性めいた解決法を応用したりすることはあまりしなかった。

 いわば、腕時計を見て「今日のけんかは7分かかった」というような一見して無謀なとりあつかいをしていたのである。(いまは、そういうただ凝視するといういきかたは、よほど割引してもちいるようになっている)

 つぎに示そうとするものは、かような一時期に、1年生の遊びの時間におこったけんかを、けんかのおわったあとの心のたちなおりという面からまとめあげたものである。

 そのとき、子どもの問いかけ先生や仲間の受けこたえ、先生や仲間の問いかけ子どもの受けこたえというものが、どういう役割をしているものであるかという点にかなめをおくことにした。

「先生、のせてくれないんだよ、いじわるして」

  と伊藤は山田を訴えにくる。

「ほう」

とうなずいているところに山田がやってくる。子どものなかには、自分のことをだれかにいいつけにいったな、と思うとそのあとからのこのことついてくる子がいる。山田はそのひとりである。

「おーい、のせてくれないってきてるんだけど」

  私がゆっくり声をかける。

「ちがうよ、伊藤君はむりにのるからあぶないんでのせなかったんだよ」

「ちがうよ」

「そうじゃないか、ぐんぐんこいでいるところにむりにのって来るんだも」

「ちがうよ、ちがうよ」

「そうだも、こいでいるときちかよってくるのいけないんだも」

山田は私をあいだにはさんでとうとうと異議を申し立てる。伊藤はこのさわやかな弁舌にとてもかないそうもない。ぐっといかりをおさえて私のうしろにひかえている。いまにも泣き出しそうになった。と、やにわに竹のムチをつかみ山田の肩をはっしとばかりに強くなぐりつけた。

「ぶったな、おい」

山田はぶたれたいかりにおされてビンタをひとつくらわした。あとは、すごいつかみあいである。山田はついに鼻血までだしてしまった。鼻血のしぶきが伊藤にかかる。伊藤は泣き声をあげながら、うしろむきになってかかっている。しばらくそうやっているうちに両者ともいかりの気持を発散したのか、一時つかみあいが静かになる。私はおもむろに立ち上がって、まず鼻血のでている山田をぐいとひきよせて机の上に寝かし、顔にちらかっている血をぬぐいとり、服についた血をふきとってやる。彼はコドウもはげしく、目をかっちり開き天井の一角をみつめている。そうしているのを伊藤は1メートルばかりはなれたところからじーっと下目にわたしのしぐさをみつめている。その目のつめたさ、とくに印象的。そこで私は伊藤にちかより肩に手をかけ顔をのぞき、

「ずいぶん血がついてるな、あらってこいよ」

  と声をかける。

「うん」

  とうなずき、彼はいきおいよく水道のほうへかけていった。(註1)

このあと、ふたりともなにやら考え込んで、うつむき顔にたたずんでいる。それ以上、私は声もかけず、しごとにとりかかる。それから5分もたったころであろうか、

「先生!」

  と伊藤が私のところへかけよってきた。

「ああ」

  とふりむくと、さびしそうにポケットに手を突っ込んだまま立っている。

「なんだい」

  というと、

「こんどの遠足どこ?」

まったくとっぴな問いかけである。いまのけんかはとはぜんぜんかかわりあいのないことを問うてきた。

「さて、どこかな、まだきまってないから困ったな」

  というと、

「ふん」

  とうなずく。

「きまったら、おしえてやるよ」

  というと、彼は元気よく外庭のほうへ走っていった。(註2)

それから10分ほどたって‘おべんとうのよ-い’をかけると外庭で遊んでいた子どもたちがいそいではいってくる。ばたばたと用意しはじめる。私は今日、山田たちのグループで食べることになっているのでそこへいくと、山田が話しかけてきた。

「先生、遊んでいっていい?」

「おべんとうおわったら、おしまいでしょう」

  というと、

「でも遊んでいっていい?」

「うん、いいよ」

山田はいつもべんとうがすむとさっさと帰宅する子どもなのに、こんなことを話しかけるから、ちょっと意外な感じがした。私はだまって食事にとりかかった。しかし、山田は放課後に遊んではいなかった。(註3)

・註1 このばあい、山田にだけ私が手当をして伊藤をまるっきりうっちゃっておいたならば、彼のかたくななことこちこちした心はやわらぐであろうか。この意味であの一言は大きな力をもっていると推察される。

・註2 このぜんぜんかけはなれた彼の最初の発言は無視することはできない。なぜなら彼は問いかけに対するまっとうな答えを要求しているのではなく、ある面からいえば、‘先生がどう思っているのか’ためしているのであり、ほかの面からいえば愛情を求めていると思われるからである。

・註3 このばあいも註2とおなじことであり、この発言を私によせることによって彼は安定感をとり戻したのである。それはべんとうがすむとすぐにランドセルをせおい‘遊んでいく’といったさっきのコトバはすっかり忘れ去ってしまったのか‘先生、さよなら’と元気のいいあいさつをして帰っていったことでもわかる。

(太字は原文では傍点ヶ所 『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三〇六~七頁)

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朝鮮通信使・崔天宗殺害事件(一七六四)

2016-08-29 16:33:32 | 

 今週からまた曜日ごとのテーマに戻って書いていきます。8/15のブログで予告したように、今回から池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』(臨川書店 一九九九)を読んでいきます。これは一七六四年に、朝鮮通信使・崔天宗が日本側通詞中官鈴木伝蔵によって殺害されるという事件とその世間への影響を通じて、近世民衆の朝鮮認識を論じた一冊です。「崔天宗」はとりあえず「さいてんそう」と日本語読みで受けとっておきます。私は「序」を一読して、この小さな本が、明快な仮説と方法意識に導かれた叙述であることを直観しました。とくに、双方の相互不信感に注目し、<事実「歪曲」の現れ方>のなかに近世民衆の朝鮮意識を見つけていこうという方法に、たいへん興味・関心を覚えました。歪曲にかぎかっこがついているように、著者はここ善悪を持ち込もうという意識ははじめから排除されていると思われます。つまり「方法としての事実歪曲」を意図しているのです。引用は「序」からです。

 

 徳川家治の一〇代将軍襲職を祝う朝鮮通信使が江戸城での儀礼を終えて帰国途中、宝暦一四(一七六四)年四月、大坂で崔天宗殺害事件が発生した。対馬藩通詞鈴木伝蔵と朝鮮通信使中官崔天宗が悶着を生じ、四月七日の早朝に伝蔵が崔天宗を殺害して逃走する。同一八日に捕縛された伝蔵が五月二日に処刑されてこの事件にとりあえずの決着がつけられるまで、ほぼ一ヶ月、朝鮮通信使は大坂に留まるのである。

 右の一件は時間的にも空間的にも広範な関心を呼び起した。何らの河口をも加えず事実そのものと筆者の感想を伝えたものから、実録小説や歌舞伎・浄瑠璃など脚色を施したものまで、実にさまざまなものが書かれ、流布し、上演された。この一件に題材をとった歌舞伎・浄瑠璃は、明和四(一七六七)年以降、元治元(一八六四)年まで繰り返し上演された。

 また一方で、この事件をめぐる日本側の・朝鮮側双方の言い分には、大きな隔たりがある。その背景には、日本・朝鮮のそれぞれが相手を一段目下にみるような意識構造が当時存在したことが指摘でき、それは両者の相互不信感につながるものであった。

 そうした相互不信感は何も一八世紀後半だけに限って特徴的なものでなく、それ以前からの不信感の積み重ねの中で培われてきたものと思われる。本書はそうした不信感の淵源がどこまで遡るのかを究明しようとするものではない。また近世日本人の朝鮮蔑視観や不信感の由来を、あらかじめ古代以来に朝鮮蔑視観に求めるものでもない。むしろ日常的は接触の中での行き違いや誤解等々の積み重ねがまずあって不信感が生じ、ある時期にそういった不信感に「神話」が与えられ、朝鮮蔑視観の「伝統」が作られていくのではあるまいか。

 それではいったい近世という時期には、日本と朝鮮との間にどのような具体的な誤解や行き違い存在し、相互不信感が醸成されたのだろうか。また解消しなかったのだろうか。本書では、崔天宗殺害事件にかかわった局面に限定し、相互不信感の具体的な有様を明らかにしたい。

 また、近世日本の民衆がこの事件に大きな関心を寄せたことは、この事件に題材を採った文芸作品がいくつも登場したことからも明らかである。それらの文芸作品が、実際の事件をどのように伝えたか、一つ一つの文芸作品に立ち入って検討してみたい。文芸作品における事実「歪曲」の現れ方に、当時の人々の意識が反映されていると考えるからである。そうした作業を通じて見えてくる近世民衆の朝鮮認識について言及できればと考える。

 そのため、第一章では、対馬藩政史料など歴史学の文献にもとづいて崔天宗殺害事件の経過を具体的に述べ、第二章では、事件に直接関わった人々の日記・記録類にもよりながら、置かれた立場の違いによって異なる姿を見せる事件像のズレを描くように努めた。第三章では、崔天宗殺害事件を取扱った記録・伝聞類や文芸作品について検討した。とりわけ文芸作品については、少々煩雑ながらひとつひとつの作品に分け入ってみるよう努めた。第四章は、崔天宗殺害事件を脚色した「唐人殺し」を含む異国・異国人を素材にした江戸時代の文芸作品を素材に、近世日本民衆の朝鮮認識の特徴を整理した。補論は、朝鮮通信使がたびたび来訪したことで知られる清見寺(静岡県清水市)が所蔵する通信使関係資料について、その特徴を整理したものである。現在清見寺に伝わる通信使関連資料の多くが、明和通信使を契機にして再構成され・整備され、そののち「観光資源化」されてきた点が注目される。まだ十分煮詰まった議論にまで至ってはいないが、近世民衆の朝鮮認識を考える素材ともなろうかと思い、補論として収めた。(前掲書 一~三頁)

 

 この事件が広がってゆくとき、そこに「自分化」の機制が働いていることを予想できます。またこれを「うわさ」論として考えてゆくこともできそうですが、まずは事実「歪曲」の事実をしっかり読んでゆきたい。

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<在野>とは何か

2016-08-27 14:02:34 | 

 昨日、地元の退職者の働き方を研究する会を運営する方々の話を聴く機会がありました。退職後も元気に働いている、というか、元気に生きている人々の話を聞きながら、自分の生き方・働き方の参考にしようという趣旨の会だ、とまずは受けとめました。臨席して話を聴いていると、「独学」とか「在野」という言葉がポンポン飛び交うことに耳をそばだてました。「雑学」という言葉も含めて、改めてこれらの言葉が、今の世の中で希求されている何かを象徴しているのではないか、という思いにしばし浸りました。このことを頭の片隅に置いて、礫川全次編『在野学の冒険』の感想のまとめみたいなことを綴ってみたいと思います。

 今回は、高岡健「柳田国男の<資質>についての断章」を取り上げます。この論文は副題に「<在野>とは何か」とありますので感想のまとめとして相応しい。高岡論文の主旨は、柳田国男自身が語る「神隠し」に遭いやすい気質と、彼の学問(民俗学)との関連を問うなかで、<在野>とは何かを見定める一篇と言えます。また、いまだに柳田国男が記述する民俗、あるいは民俗学という学問が客観的な事実を記述するものだと思い込んでいる素人に向けて、「編集者としての柳田国男」、あるいは「民俗採集についてまわる選択枠組」に思いをいたす一矢になるかもしれない、とも思いました。結論部分だけを引用します。

 

 繰り返すなら、輸入された「心理学」や「社会心理学」といった「学問」によって、神隠しや鬼子や蛇を科学的に解明することは、少なくとも現時点では出来ない。記述から出発する民俗学だけが、解明を可能にする潜在力を有している。柳田はそういっていることになる。/あえて「学問」と民俗学を対置させ、前者に「心理学」や「社会心理学」を含めるとき、柳田は後者に何を含めようとしたのか。入眠時と出眠に「空想」を呼び起こしやすい<資質>に根差した環界との交流を、含めようとしたのだ。だから、柳田が「栞(シオリ)」として集めた実例は、単なる実例であることを超えて、柳田自身の<資質>と共振するという特徴を持っていた。いいかえるなら、柳田が集めた実例には、常に柳田自身の<資質>が貌を覗かせていた。

 事実に<資質>が貌をのぞかせる地点を<在野>と呼ぶことが出来る。だとするなら、<資質>を殺した地点で成り立つものが「学問」にほかならない。柳田は、たしかに生活においては文学を離れ、官吏としての歩みを選択した。しかし、「此世(コノヨ)」と「うつくしかりし夢の世」を行き来する<資質>を、手放すことが出来なかったがゆえに、その思想はいつも<在野>そのものだった。(前掲書 一三一~二頁)

 

 「実例」(民俗記述)と柳田の<資質>が共振するのだという指摘、見逃せません。共振とは<同期>のことです。同期の構造をなんとか明らかにしたいという私とも「共振」しています。まあ、それはさておいて在野とはなにか。高岡氏は「事実に<資質>が貌をのぞかせる地点を<在野>と呼ぶことが出来る」と簡潔に言い切っています。資質とは、一般に個人に備わった生来の特徴、あるいはもっと広く環境によって背負わざるをえなかった特徴ととらえてみますと、前回紹介した芹沢俊介氏が、「宿命」と呼んだ「老い」に共振せざるをえなかった地点もまた高岡氏の「在野」の定義と重なります。最初に紹介した山本義隆氏の講演論文における、一六世紀の医学に携わった外科職人が実際治療を研究しはじめた地点、あるいはその成果を自分の言葉によって論文に仕上げた地点もまた<在野>であることがあきらかです。三人の論者はいずれも、<在野>の定義が共振しています。互いに別々に考え寄せられてきた文章の論点が一致するという不思議は、この定義の本質性を語っています。私が呼ぶ<自分化>という方法も、この<在野>の定義に重なります。

 ここで、今の時代「独学」「雑学」「在野」という言葉が、なにを背負わされて人口に膾炙しているのか、すこし考えみると、それはこれまでの官学・専門学・大学などの知の権威を造形してきた様々な機関の質的崩壊です。要するにこれまでの<知>の権威が信頼できなくなったのです。かつて全共闘世代が掲げた「知性の叛乱」が社会の隅々まで知らず知らずに浸透した結果ではないか、などと言えば笑われるでしょうか。目前の問題を「自分にとっての問題」としてとらえ直し、腑に落ちるまで考え抜いてみるという経験がいつのまにか顧みられなくなってきた世相を、表わしているように私には思えます。

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「思想としての在野学」の核心に触れる

2016-08-26 12:39:32 | 

 前回(昨日)は、礫川全次編『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)収録の一篇、芹沢俊介「思想としての在野学」を紹介しました。今回はその後半です。前半(昨日)は芹沢氏が「在野学の先駆」と位置づけた民間学の定義をめぐって、芹沢氏から見た鶴見俊輔の議論を紹介しました。それによれば、民間学とは「親問題」(「自分にとっての問題」)の取り戻しのことで、この「取りもどし」のためには「学びほぐし」が必要なことが語られていました。私はこの「学びほぐし」こそ、<自分化>の前提になるものだと考えていますが、芹沢氏によれば(「自分にとっての問題」の)「取りもどし」はまた「反逆のダイナミズム」を含み、氏の考える「思想としての在野学」に引き継ぎたいと書いていました。「反逆のダイナミズム」を含む「在野学」とはどのようなものなのでしょうか。その核心に迫りたい。

 

●外在的であって同時に内在的な問題

 では、私にとっての最初の「親問題」とはなんであったか。一言でいえば、家族であった。もう少し具体的に記すと、同居する家族の中の老いであった。二十代後半の私の生存の不安の大きな部分はここにあったのである。/なぜ家族の中の老いという問題に私が遭遇したかについて簡単に述べてみたい。それには、時間の針を五十年ばかり過去へと巻き戻さなくてはならない。/批評というジャンルで物を書き始めたのは、一九六〇年代末である。その頃の私は、自分が老いることなど想像もしていなかった。それどころか、目の前の一寸先が光なのか闇なのかもわからなかった。「いま・ここ」にいることだけでせいいっぱいであった。当然と言えば、当然かもしれない。一九四二年生まれの私は、若さの真っ只中にいたのであるから。/したがって、老いの問題は、自分が老いを生きて体験しているわけではないという点では、明らかに私(という自我)にとって外在的な問題にすぎなかった。研究対象としては成立しても、これだけでは批評の主題にはならない。批評において「親問題」になるということは、外在的な問題が同時に内在的な問題でもあるという二重化状態が生まれなければならない。それが「自分の問題を探し当てる」ということの意味だからだ。

 私は、若さの真っ只中にいた。その一方で、当時、老いは実生活面における私の最大と言ってもいいくらい気がかりの一つであった。私には、帰る故郷や頼るべき身寄りをもたない祖母(継祖母)がいたからである。徐々に述べるが、目の前に老いたいのちがあり、その寄る辺のないいのちにすがるようにされながら、何一つ応えられずにいる自分の無力さに、恐怖に近い絶望感を覚えていたのである。反面、すがられることのうっとうしさをもあった。自分にのしかかっている対象化不能な問題という意味では、老いは十分に内在的な主題であったのである。/老いは、私という自我にとって、外在的であって同時に内在的な問題でもあるという二重性として登場していたのである。言葉がこうした二重性を蝕知することができるなら、批評は、あるいは思想は、ここに立ち上がるかもしれない。/基本条件は満たせた、これで書いていける、と思ったのだ。私は躊躇なく、老いの問題を主題にしたのだった。(前掲書 八三~四頁)

 

 この文章はまだ先があるのですが、長いのでここまでとせざるを得ません。そこにはもっと具体的に書いてあります。さて、引用から私が受け取れることの一つは、なんらかの外在的な問題に対するとき、それが既に、というか外在的な問題への気づきが同時に自分にとって切実な問題になってしまっていることがある、ということです。俗な言い方をすれば、人はそれぞれの境遇において逃げられない問題を抱えてしまっているわけです。宿命的な問題の存在です。これは自分をふりかえってみた場合いくつもあった気がしますが、年を重ねるにつれていつのまにか一つに収斂していることに心づきます。もしかしたら、これは例外的なケースではなく、人はいくつもあった切実な問題を、結局は一つの道を選んで「自分にとっての問題」としてを考えて行くしかないことを示唆しているように思えます。「考える」ということはそういうことなのだ、という感慨が自分にもやってきたことを想います。(この一つを追究したいと思ったら少し元気になりました)

 二つめは、芹沢氏は外在的な問題は対象化されたもの、内在的な問題は対象化不能なものとしてその二重化状態を言葉で蝕知することが批評(知的営為)のはじまりだと述べていますが、この点に関して、です。この指摘は「在野学」の核心に触れているのではないかと考えます。というのは、まず「雑学」を興味・関心の渦中にあること、いってみれば「対象化不能」という内在的問題の範囲にとどまっている段階と見なせば、「独学」を外在的問題と内在的問題という二重性の高度に発展した段階と想定することができます。つまりこの二重性(両義性)が雑学段階と独学段階を架橋する中間的な性格を持っているということなのです。とすれば、私が「方法としての<自分化>」で表現しようとした段階の、その構造を意味していると考えられます。図式化すれば、

方法としての<自分化>の構造 = 外在的問題と内在的問題の二重性

というふうにです。こうみてくると、「自分にとっての問題」を探し出すことは批評への道であり、独学に至る道の一本を開示してくれているということが分かります。

 三つめは、雑学から独学へと媒介する「方法としての<自分化>」は、普遍化つまり「のぼる」過程を意味していますが、独学から雑学への具体化つまり「おりる」道も示唆しているのではないか、もっと簡単にいえば、この方法は「のぼる」だけでなく「おりる」ことをも媒介していると思えるのです。たとえば今日視聴した朝ドラ『とと姉ちゃん』の話です。主人公常子の出版社が、電化製品トースターの「商品試験」の結果を雑誌で発表したら、粗悪な製品を作っていた小さな工場を窮地に追い込んでしまいます。常子がこのことに悩む場面がありました。ここをどう解決するか興味をもって視聴しました。「商品試験」という雑誌の企画を、「のぼる」過程としてみれば、高度成長期において量産されてくると粗製濫造が生まれ、電化製品の質が問題になってきます。そして、このような外在的な問題に対して、消費者の安心安全な暮らしのお手伝いをしたいという「常子にとっての問題」(内在的問題)が干与することによって、外在的な「商品試験」という問題は精度の高度化や消費者の支持が広範化する、つまり高次化・普遍化する過程としてとらえ直すことができます。

 ところが「商品試験」の高次化・普遍化は、さきに述べたような問題を呼び寄せてしまいます。編集長の花山の中では、市場で勝ち抜くには企業側の努力はあたり前ですから、小さな工場主の訴えなどただ退けるだけです。ところが常子は今後どう対処すべきかで悩むのです。この悩みの解決は、生産者の小さな工場がどうすればいいかにかかっています。これが「おりる」過程です。常子にとっての問題は「安心安全な暮らしのお手伝い」でした。ここには消費者への確かな情報提供ばかりでなく、じつは生産者側への改善の願いが含まれています。常子はかつての恋人・星野が語る息子の火傷のあとのエピソードを聞いて、この願いを思い起こすのです。ここに、「おりる」過程における「常子にとっての問題」の価値があります。そしてその小さな工場に出かけてゆき、訴えていきます。工場主は反論するものの、大手の製造するトースターでも欠陥のない製品はいまだ日本には出現していないことを常子から聴き、小さい工場が生き残る方法は製品を安くするしかないと考えていた自分を反省します。そして欠陥のない製品を作ることを決意するという話でした。工場主をみる常子の視線が、雑誌の反響に喜んでいた頃とずいぶんちがいます。「のぼる」だけではまだ半分なんですね。「おりる」過程があって初めて全体が見えるのです。

 私たちはこのような「のぼり・おり」を暮らしの多様な局面で経験しているのではないでしょうか。その鍵が方法としての<自分化>にあるのではないか、こう思うのです。やはり、この感想はもう一回必要なようです。

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なぜ「自分にとっての問題」が必要なのか

2016-08-25 10:52:22 | 

 礫川全次編『在野学の冒険』(批評社 2016)の感想の続きです。前回(8/23)は、「在野学」という新しい概念の中間的性格(両義性)を手がかりに、まず山本義隆氏の「一六世紀文化革命」を読んで、独学と雑学を繋ぐ方法として<自分化>という考え方を導きました。今回は芹沢俊介「思想としての在野学」を読んでみます。そしてどのような営みを「在野学」として描いているのか確かめてみたいと思います。私が目を見はったのは、「外在的であって同時に内在的な問題」という一節ですが、その前に必要なことがらを説明しておきます。芹沢氏はまず、「在野学」と似ているた従来の民間学とは何であったのか、鶴見俊輔による定義に注目します。そして、そのうけとめようを以下のように記しています。

 

 「私たちが生きていること、やがて死を迎える自分の問題を探し当てることを学問のひとつの道と認めるならば、そこに育つ学問は民間学である。」(『民間学事典』「刊行の言葉」)/字義どおり読めば、民間学は、「親問題」を探し当てる道として成立する、と述べられている。だが、そのためには、これまで述べてきたように、「子問題」に専心させられてきた(現に専心させられている)没主体としての自分を認識し、その状態からの離脱を目指すことが不可欠である。自らが生きて「いま・ここ」において感覚している世界に軸足を置きなおすことが必要である。これを鶴見俊輔は、「学びほぐし」という言い方で表現している。受けとらされた既成のセーターを一度ほぐして糸にし、自分のからだに合ったものに編みなおすという例で鶴見俊輔はこの言葉を説明している(『教育再定義の試み』)。問題探し、問題づくりの主体を自分に取りもどす基本的作業のことである。/現代において、民間学とは、「親問題」の取り戻しのことである。右の鶴見俊輔の民間学の定義は、自分という固有の経験(痛み=『教育再定義の試み』)を問題の起点として大切にするゆえに、このような主体の取りもどしを不可避のものとして要請せざるをえないのである。(前掲書 八一~八二頁)

 

 引用中に「親問題」「子問題」という鶴見俊輔の用語が出て来ます。「親問題」とは、人の生涯において投げ込まれ、それを探りあてようとして、取り組むことになるはずの「自分の問題」を意味します。また「子問題」とは、簡単にいえば学校が要求する「いい子」になるための問題のことです。鶴見俊輔にとって「母親」問題はぜひとも解決しなければならない人生問題であったこと、また両親は自分を生み出す母胎であったことを鑑みれば、この二つの用語の必然性を納得はできます。しかし、直感的に分かりにくいと思われるので、私なりに言い換えておきます。「親問題」とは生涯における切実な「自分にとっての問題」のこと、「子問題」とは学校がおしつける「学校にとっての問題」のことです。

 民間学は「親問題」(自分にとっての問題)を探し当てる学問として存在する、これが民間学の定義です。ところが、多くの子供たちはそこから遠ざけられ、「子問題」(学校にとっての問題)を押し付けられています。これでは、いつまでも「自分にとっての問題」を探し当てることはできません。では、なぜ「自分にとっての問題」が必要なのでしょうか。そんなのアタリマエじゃないか、という意見もあるかも知れません。でも一度は腑に落ちるまで考えていく必要がある、というのが私の経験知です。

 柳田國男は、かつて歴史というものが他人の家の事跡を説くものだという考えをやめなければならないと説きました。すなわち、「人は問題によって他人にもなれば、また仲間の一人にもなるので、しかも疑惑と好奇心とが、我々に属す限り、純然たる彼らの事件というものは、実際は非常に少ない」と述べています。つまり「自分にとっての問題」をめぐって歴史は描かれるべきだと述べているのです。そして、この考え方を「問題の共同」と呼びその展開として『明治大正史 世相篇』(一九三〇)を描いてみせました。また浜田寿美男氏は、『「私」とは何か』(一九九九)において、人間身体は「(本源的)個別性」と「(本源的)共同性」の二重性で成り立っていること、後者は身体どうしが互いに共鳴(同期)し合う「同型性」と、両者のあいだで交わされる「能動―受動」のやりとりを「相補性」と呼んで、「私」という存在は他者なくしては成立しないことを解き明かしました。さらに言語というものをふりかえってみれば、客観と主観を二重に表現したものであり、それゆえ自分と他人とを繋ぐツールとして人間生活に役立ってきたこと教えています。私たちの存在はいつどこで生きようと死のうと、他者との関係なしでは存在し得ないのです。他者と関係づけられた自己の起点は、この身体をもった自己以外にありません。この「起点」を意識することが「自分にとっての問題」を自覚することに繋がります。

 では、この重要な「自分にとっての問題」をどうすれば自覚できるのか。「子問題」つまり「学校にとっての問題」によって、括弧のなかに隠されてしまった切実な「自分にとっての問題」が、生まれてこのかた自分に内在し続けていることに気づくことです。気づいたらその縛りを解体してしまわなければなりません、これが「学びほぐし」(鶴見俊輔)です。芹沢俊介氏のいう、子供暴力の根源にあるイノセンスを解体するのために必要とされる、親の「選びなおし」と重なる考え方です。「学校にとっての問題」中心から「自分にとっての問題」中心へと、自分の生き方を転換してゆくことです。芹沢氏はこれを「反逆のダイナミズム」とよんで、考えるべき「在野学」でも共有したいと述べています。では、芹沢俊介氏の描く「思想として在野学」はどのようなものなのか。「外在的であって同時に内在的な問題」の一節がそれを解き明かしています。(次回に続く)

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なぜ語り手は祖父祖母でなければならないか

2016-08-24 06:00:00 | 

 前回(8/17)は、「話の発達」として取り上げられた「雑談(ぞうだん)の魅力」について考えました。「雑談(ぞうだん)」とは「ウソかも知れないからそのつもりで聴け」という話のことでした。そして前代のハナシ(咄、噺)とは、雑談のうちのとびきり面白いものを呼んだ言葉でした。今風の言い方をすれば、このようなハナシをかつては国語教育の「教材」として位置づけていたということになります。ですから、「学校の国語教育」からみれば、なんてデタラメなことをやっているんだという評価になるでしょう。反学校教育的だとさえ言えるかもしれません。でも同じハナシでも「昔話」ならそんなに目くじらを立てることはなくなるかもしれません。ですから、ここが考えどころ、昔の国語教育の奥深いところなのです。前回も書きましたが、雑談としてのハナシは「話し方」教育の教材ではなく、むしろ「聴き方」教育の教材だったのです。そしてハナシには語り手がいました。祖父祖母(じいばあ)です。なぜ語り手は「じいばあ」でなければならなかったか。柳田の文章を見ることにします。(わかりやすくするために行替えを施してあります)

 

 だから児童の学校に「話し方」という課目があるということは、甚だしく旧式人をまごつかせる。児童には菓子よりも話のすきな者がある。しかし彼等は徹頭徹尾聴き手であって、話をする役ではなかったのである。いかなる昔話の一つを取り上げてみても、子供が年長者に向って語る形で、伝わっているものなどは絶無である。またそういうことをする必要もなく、第一に聴衆があり得なかったのである。もちろん彼等の中には素質によって、若いうちから話をして聴かせたがる者、または小児でも聴いたばかりの話を、口移しに受売りしようとする者があったろうが、これは成人の模倣であり、前者はすなわち早熟であった。

通例はこの記憶をずっと後年に持ち越し、次の代の子や孫が話をせがむいたいけさに誘われて、思わず古い印象を蘇(よみがえ)らせるのであった。近頃は聴衆が小粒になって、ただ睡眠を安らかならしめる手段に、用いるかと思うような場合ばかりが多いが、もっと盛んに十一十二になる児までが、群がって祖父祖母(じいばあ)の物語を聴いた時代にも、彼等に期待せられるのはゲニとかサソとかまたはフンソレカラという相槌を打って、熱心に耳を傾けていることを示すだけで、覚えてすぐにまた自分でも同じ話をすることではなかった。それには口真似でなければ移せない感じが、あまりに多くまじっており、かつまた二度や三度聴いただけで、受け継ぎ得るほど単純なものでもなかったからである。年寄が昔話の宝の庫(くら)となるのは、なお一生の間に何遍も、黙って同じ話を傍聴し、幼時少時を追憶する機会が多かったからで、国語の教育としてはこの方がはるかに価値が多かったのである。

それを児童に話がわかるくらいなら、話をすることもできるはずだと、思っているのは荒っぽい推論ではなかろうか。そのようなことをあえてすれば、昔話は急激に子供らしく、また大まかに過ぎたものになって、大人はもとより幼い者までも、興味を持ち得ないものになるか、そうでなければ魔王だのライオンに食われるなどと、用もない強刺戟を輸入することになろうとも知れぬ。

小さな話好きの愛着を感じたのは、本来はそれが大人の話だからであった。大人も面白がりまたは面白そうに説いてくれるという点に、隠れたる魅力があったのである。それを子供が真似するとなると、目途は実はまったく別のものになるのである。単に彼等をして思い感じたままを、口で言い現わさしめるようにとの望みならば、こういう形式的な口真似は有害であった。そうしてハナシ方という語の用法は、今なお誤解を招きやすいのである。(太字は原文では傍点ヶ所。ちくま文庫版『柳田國男全集』第二十二巻 一〇三~四頁)

 

 かつては、子供の頃に「じいばあ」から聴いたハナシ(昔話など)を、すぐに口にするようなことはありませんでした。大人も面白がるハナシですから簡単に口真似できるようなハナシではなかったからです。このようなハナシを幼い頃から繰り返し聴いて成人しそして年をとっていくことが、「祖父祖母」たちの心に何を蓄積していくことになるのか。ここに「昔の国語教育」の価値がありそうです。また引用からは前代の「聴き方教育」は、人生経験を豊富にもった祖父祖母を語り手(教師)と位置づけていることが明らかですが、現代のどこの学校に、眼前の子供たちが遠い将来、年寄となってよき語り手(教師)になることを意図した国語教育の計画があるといえるでしょうか。これほど「昔の国語教育」からは隔てられているのです。

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方法としての<自分化> 礫川全次編『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)

2016-08-23 06:00:00 | 

 今回は三冊目、礫川全次編『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)をとりあげます。前回独学と雑学を対照しそれぞれの特徴を列記しましたが再録すると、以下のようになります。

独学・・・概念的 本格的 最終的 全体的 本質的 明言的 専門的 客観的 普遍的

雑学・・・感覚的 初歩的 入門的 断片的 隙間的 示唆的 趣味的 主観的 個別的

 礫川氏は『雑学の冒険』の「はしがき」で、在野学という領域が独学とも雑学とも重なることを指摘しています。ならば、在野学を独学と雑学のあいだに置いてみる試みを恣意的とは言えないと思います。<独学──在野学──雑学>と並べてみることで、在野学の中間的性格が浮かび上がってくる気がするのです。たとえば、概念的と感覚的のあいだ、本格的と初歩的のあいだ、本質的と隙間的のあいだ、客観的と主観的のあいだ、・・・というふうに考えてみると、在野学の中間的性格がおぼろげに見えてくるようです。「中間的性格」とは両義的であることです。両端の雑学的性格と独学的性格を二つ兼ね備えているということです。在野学の中間的性格をもっとはっきりさせるには、この両義性を手がかりに、『在野学の冒険』のなかで「在野学とはどのような学問か」を内在的に論じている作品で確かめてみればいいはずです。ここでは、山本義隆「一六世紀文化革命」、芹沢俊介「思想としての在野学」、高岡健「柳田国男の<資質>についての断章」の三本を取り上げます。まず山本義隆氏の講演記録からと思ったのですが、これを紹介する編者・礫川氏の「はしがき」の記述のほうが断然分かりやすいので、急遽変更して引用します。

 

 編者が最初に、「在野学」という言葉を意識したのは、山本義隆さんの「一六世紀文化革命」という文章(『論座』二〇〇五年五月号所載)を読んだときでした。この文章は、本書に再録されていますが、オリジナル版に対し、徹底的に手を加えていただいたものです。ここで山本さんは、近代の科学というものは、十六世紀に、在野の職人が、みずからが獲得した「知」を、日頃使っている「俗語」で記録したことに始まるという指摘をされていました。たいへん重要な指摘だと思いました。/なぜ、「在野の職人」だったのでしょうか。山本さんによれば、それは、彼らこそが、自分の仕事で行き当たった諸問題を、自分の頭で、科学的に考察できたからです。たとえば、当時の医者は、手術をする、包帯を巻くといった手を汚す仕事は、理髪師あがりに外科職人にまかせていたそうです。そうした職人たちが、学術用語のラテン語ではなく、ドイツ語、フランス語、英語といった「俗語」で書き始めたのが十六世紀でした。まさにこのとき、近代の科学が誕生したわけです。/この十六世紀の職人たちの研究成果、これこそが「在野学」です。アカデミズムの世界の外に(在野に)位置する研究者による研究成果で、アカデミズムも、その価値を認めざるをえないような研究成果。ひとつには、これを在野学と呼んでよいと思います。/いま、「ひとつには」と申し上げたのは、別の意味での「在野学」というものも想定できると考えたからです。従来のアカデミズムが扱いきれない、あるいは扱おうとしてこなかった「在野」的な分野にこだわり、そうした分野で、何とか学問を成立させようと努力すること。──これもまた、「在野学」と呼んでよいのではないでしょうか。(前掲書 三~四頁)

 

 礫川氏は、山本義隆氏の講演記録「一六世紀文化革命」という文章から、「在野学」の定義を導いています。一つ目は、たとえば医学の世界では、文献知の段階からおりて来ようとしない「大先生」に代って、実際の治療に当たっていた「在野の職人」が、「自分の仕事で行き当たった諸問題を、自分の頭で、科学的に考察」した成果を当時学術用語だったラテン語ではなく自分たちの俗語で著したものを、「在野学」と呼んでいます。二つめは、≪従来のアカデミズムが扱いきれない、あるいは扱おうとしてこなかった「在野」的な分野にこだわり、そうした分野で、何とか学問を成立させようと努力すること≫をそう呼んでいます。在野的な研究成果とその歩み・努力をさして定義しているわけです。ですが、「在野の職人」への評価軸である「研究成果とその歩み・努力」という地平を超え、もう少し内在的に考えてみたいと思います。この職人たちが行っている仕事は、「本格的」段階にあるラテン語医学の実践的分担であり、また治療法の研究・改良だったはずです。そしてその成果を自分たちの言葉で著すことは、高次な段階から自分の領域に下りて受けとめることです。また「在野の職人」の仕事は医学的には「初歩的」段階から治療実践段階へのぼって受けとめることです。この両義性・二重性を<自分化>と呼んでみたいと思うのです。またもう少し広く捉え直して、「在野学」を「初歩的」段階と「本格的」段階のあいだをのぼりおりする方法と呼ぶことも可能です。すなわち、方法としての<自分化>です。

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歴史の多様な側面が見える 礫川全次著『雑学の冒険』(批評社 二〇一六)

2016-08-22 06:00:00 | 

 前回紹介した礫川全次著『独学の冒険』は、いわゆる独学の著名人が登場し、その動機・研究歴・その成果からみて、本格的な段階としての「独学」事例集だと位置づけることができます。それゆえに私に「独学の覚悟」がありやなしや、を迫る一冊であったことを述べました。今回取り上げたいのは、二作目の『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)ではなく、三作目の『雑学の冒険』(批評社 二〇一六)です。「独学」の本格性と比べると、「雑学」の特徴がよく見えて来るからです。まず帯に注目したい。カラーで古書の表紙が紹介されています。眼を凝らして書名を確かめ中身を知りたくなります。だいたいにおいて戦前戦後の古書の表紙は直截なものが多い気がします。

 さて、この本の中心テーマは、第三章「国会図書館にない100冊の本を紹介する」にあります。著者は、この章の原稿を『独学の冒険』に収録するつもりであったと書いていますから、著者の中では「雑学」が「独学」と関連づけられていたことがわかります。この本を一言で評すれば、歴史の多様な側面を見せてくれる点にありますが、その本体がこの第三章です。「1 私家版・非売品など(一三冊)」からはじまって、「10 独習書、参考書など(六冊)」「11 その他(九冊)」までの百冊を十一グループに分類する手際も見事なものだと思います。分類項目を見ていると、「国会図書館にない本」というのは、実は図書館側が架蔵の価値有りと認識できなかったものが少なくないのではないか。また全部が古書ですから発行年と一緒に紹介文を読むと、社会の歴史とはこんなに多様な側面をもっていること、歴史はこんな細部にも宿っていることに小さくない驚きを覚えます。私が特に注目したのは、「独習書、参考書など」にその時代の世相が如実に表れるというところです。そこには「文検のしくみ、受験生の意識や生活など貴重な史料と言える」(一七六頁)という著者の視線がなければ、国会図書館とて架蔵しないのも無理がないと思えますが、実はここが感度の働かせどころだと思い繰り返し読みました。「感度」というのは、誰も顧みない書籍にこそ大事な事実が隠されていることに気づく感性のことです。何か気づきそうなくだりに出会うことはとても楽しい瞬間なのです。残念ながら、いまのところ明確な形ではやってきませんが、アンテナは微動しています。

 このように考えると、あまり人が顧みない古書から何が見えてくるかという紹介文は実にありがたいものです。これまであまりお目にかかったことがない種類の文章です。そういう観点でいうならば、冒頭の「Q&A──なぜ、国会図書館にない本を問題にするのか」、第一章「たとえば、どんな本が国会図書館にないのか」、第二章「国会図書館にない本は、どのようにして生じたのか」などの章も、私に取っては初めて知る議論ばかりですが、分からないことと、分かるところをきちんと区別して語る文体は実に小気味いい。世の中にある「書誌学」という学問分野がこのようなものならば、大いに興味がそそられるところです。

 もう一つ、第四章「書物を愛する方々へのメッセージ」はこの本のなかでも特筆に価するのではないかと思います。「1 国会図書館にお勤めの方々へのメッセージ」、「2 公共図書館の閲覧サービスについての展望」、「3 古書業界で仕事をされている方々へのメッセージ」、「4 読書家・蔵書家・古書愛好家の方々へのメッセージ」です。該当する人間グループへのメッセージを読んでいただければ、いかに実用的で為になることが書かれているかお分かりいただけると思います。私個人についていえば、やはり「4」のメッセージ、蔵書の処分の仕方です。死んだら子供たちが処分してくれるのではないかと漠然と思ってきましたが、書物の価値がわからない場合にはどのような処分も期待することができないことを知りました。特にここで引用して心覚えにしておきたいのは、以下のことです。「4 読書家・蔵書家・古書愛好家の方々へのメッセージ」から紹介します。

 

 三 どうしても処分してほしくない本、家族がその価値に気づいていないであろう本などがある場合には、家族・友人・研究者・古書店主などに、その存在を知らせておきましょう。その際、「この本は国会図書館にもない」ということを強調するのも、ひとつの手です。

 四 生前に、自らの蔵書を縦横に駆使して、自分の研究を感性させ、出版、専門誌掲載などの形で、世に問いましょう。いずれは散逸する「蔵書」への感謝の形としては、これが最高の形ではないかと、私は考えます。

 五 専門的な研究などは、とても無理だという場合、せめて、ブログなどを使って、古書に関するエッセイなど発表されたらいかがでしょうか。古書にまつわる思いで、蔵書から得た珍しいネタの紹介、珍本発掘の報告など、書くことはいくらでもあるはずです。これもまた、「蔵書」への感謝の形のひとつと言えると思います。

 

 著者の礫川全次氏が、かつて私に語ってくれた古書に関する名言を二つ覚えています。一つは「自分の研究フィールドは古書店」という言葉です。これは以前にも紹介しました。二つは「古書は共有財産」という言葉です。私はつい最近まで自分の本は私有財産という観念が強く、つい書き込みをしながら読む癖を矯正できないままで来ました。しかし著者の「蔵書」への感謝の形、そして「古書は共有財産だよ」という言葉を揃えると、やはりまちがっていた思わざるをえません。

  さて、最初に戻って「独学」と「雑学」の対照を考えます。

独学・・・概念的 本格的 最終的 全体的 本質的 明言的 専門的 客観的 普遍的・・・

雑学・・・感覚的 初歩的 入門的 断片的 隙間的 示唆的 趣味的 主観的 個別的・・・ 

 今日はこんなところですが、上の独学と雑学の対照を見ながら、両者の間に「在野学」を挟んでみると、どう位置づけることができるでしょうか。思うに、在野学の中間的性格です。次回はこれを考えます。

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独学の覚悟を迫られる 礫川全次著『独学の冒険』(批評社 二〇一五)

2016-08-21 20:34:30 | 

 今週は曜日ごとのテーマをお休みして、気になっていた本を紹介したいと思います。それは礫川全次著『独学の冒険』(批評社 二〇一五 十月)、同編『在野学の冒険』(同社 二〇一六 五月)、同著『雑学の冒険』(同社 二〇一六 六月)の三冊です。『独学の冒険』と『雑学の冒険』の二冊は在野史家・礫川全次氏の単著で、『在野学の冒険』は八人の論客による論集で礫川氏は編者を兼ねています。三冊揃ったところで、三冊の関連が書かれている『雑学の冒険』の「はしがき」を読んでみますと、独学・在野学・雑学は互いに重なり合う部分を持ち互いに繋がっていると言いたいのだなと伝わります。というよりか、三冊を続けて読んでみますと、それぞれの個性が自ずと浮彫りになって来ます。私の受けとめを一冊ずつ一言でまとめると、『独学の冒険』は独学の覚悟に迫られ、『在野学の冒険』は学問研究の方法について深く考えさせられ、『雑学の冒険』は、歴史の多様な側面に気づかされる、という言葉になります。まず、『独学の冒険』」から敷衍していきます。私がこの一冊から受けとめた「独学の覚悟」の要点は三つあります。

(イ) 研究動機に切実さがあったか

(ロ) いつも完成品だけを目指していなかったか

(ハ) チャンスをみずから切りひらこうとしてきたか

 (イ)は、第五章の一つ「八王子が生んだ異色の思想家・橋本義夫」が語る、どんな人間でも「書かねばならない」ことがあるという指摘が私の内面を抉りました。たしか小説家の中村光夫がよい文章の条件として書く人の「切実さ」を挙げていましたが、これを含めて自分の「研究動機に切実さがあったか」と自問しました。すると、途中まで作ってはまたちがう物を作り始めるという少年時代の工作遊びと同じことをやっている現在の自分が見えてきました。そこでは、己の切実さをより広く社会や歴史に位置づける発想なんてまるで希薄、・・・というかそういう位置づけを意図的に留保していたことに改めて気づかされたのです。

 (ロ)の「いつも完成品だけを目指していなかったか」について。これは第二章の「自分の資質にあった研究スタイル」が参考になり、立ち止まって考えました。歴史学者・家永三郎は「教科書裁判」関係の集りで、私も何度か尊顔を拝したことがあります。この高名な教授が自伝で「私の研究テーマは、このように次から次へと変わってゆき・・・」と書いてあったことを知って驚きました。ですが、家永さんほどの研究実績をもった人が、テーマを次々と変えていたということを知って、もしかしたら、一つのテーマから完成品を得るところまで漕ぎ着けない独学者は、案外いっぱい潜在しているのではないかと思いました。それには必ず理由があるはずです。

 この予想は、第一章の独学者としての柳田国男を論じた末尾の一節に結びつきました。著者は「なお、柳田の例でもわかるように、独学者が初めて研究成果を公表することは、その独学者にとって、一つの過程にすぎません。」と述べられています。いつもなら読み飛ばしている一文かも知れません。完成品は一つではなく、矛盾した言い方ですが、中途半端な研究も「完成品」になり得るし、事実だけを記述した研究も完成品の一つです。要するに完成品か否かは、目的しだいということになります。完成品にも段階があり、それぞれにニーズに応えた研究作品群という中に位置づけてみると、それぞれの役割の独自性が見えてきます。やはり、と思いました。私のアタマが固かったのです。なにか結論が明解に書かれているものだけが、「研究論文」あるいは「完成品」と呼ぶに値する、こんな価値観が私にしみこんでいたことが自覚できたのです。
著者の引用は、続いてこう結ばれています。

その最初の研究成果を、「原点」としながら、さらに研究を深めて、次なる成果を目指すという考え方が大切です。そういった意味をこめて、研究がある段階に達したときは公表をためらうべきではない、と申し上げたわけです。(69頁)

 それにしても、(イ)も(ロ)も初めて知ったことではありません。昨年の五月に亡くなった教育学者・庄司和晃先生から教わってきたことなのです。恥ずかしいというかナサケナイ。教え甲斐のない人間だったわけです。その原因は分かっています。大人になり教師になって他人の中途半端は許容できても、自分のそれはイヤだったのです。感情を次の段階にひらいて行く途を自分で閉ざしていたのだと思います。

 (ハ)の「チャンスをみずから切りひらこうとしてきたか」について。これもまったくやってこなかったといってもいいです。「機会を活かしきる」ことを念頭に、与えられた機会を活かして精いっぱい自分なりのものを書きたい、こう思ってきました。ここにも「完成品」は一つしかないという価値観が露呈しています。

 第四章の「独学者が世に出るまで」では、映画評論家の佐藤忠男さんの独学論が紹介されています。私は佐藤さんの作品は好きでこれまでいろいろ読んできましたが、ただ、この「チャンスは、みずから切りひらけ」の一点、書いた原稿をあちこちの出版社に持ち込むことは自分にはできないな、と思ってきました。理由は分かっています。そういう生き方は苦手、これは性分と思い込んできたわけです。しかし、まさにここをひらいて行かなくてはならない、ようやくそう自覚しました。著者も別の箇所で述べているように、まずアクションを起こせと教えています。アクションを通じて先の「三つ要点」を血肉化すること。では何から始めるか。考えるのではなく、・・・やるかやらないか、決めること。──ここまで、自分に「独学の覚悟」を迫った一冊です。ブログを再開する気になったのも、この一冊が大きな契機になっています。

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