尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

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先祖への変わらぬ思い 柳田国男

2012-11-27 14:28:43 | 旅行

 前回は、柳田自身の烏山体験を綴った明治39年、昭和6年、昭和34年の三つの文書において、藩主に随い飯田藩へ転住した柳田家の烏山墓所を青木家が代々守ってきたという話は誰のものかという点で、くいちがいがあることを指摘しました。常識的に考えれば、いかに記憶力抜群の柳田でもこの56年間に記憶が変わったのだと考えて、まずまちがいないと思われます。それよりも、私は柳田がそのように推測した理由に興味を覚えます。

 明治39年4月3日の早朝、前日に過去帳で烏山柳田家の戒名を発見した柳田らは、境内を歩き回り思いがけなく住職代々の墓所に隣接して建っている柳田家の墓石を発見します。住職に問いただしてみるとそこは地元青木家の墓所だと指摘します。そして青木家は代々善念寺を支えてきた有力檀家だから大切にせよと寺に伝えられていると説明します。柳田の推測・判断が働くのはここです。すなわち、柳田家の古い墓石が青木家の墓所だと見なされてきたということは、「我家の先祖烏山を去るに臨み、管理をこの青木家に託せしものと思われ」(明治39年4月3日の日記)たという推測を生み出しました。もっともな推断だと思われます。すでに無縁仏として合祀・整理されていてもおかしくない近世初期の先祖の墓が、目前に残っているとすれば、そこを墓所としていた青木家が守ってくれてきたのだと考えても不思議ではありません。当時の柳田において、先祖の墓を見つけたことの感激と守って来てくれた人々への感謝が同時に起ち上がったはずです。このように考えれば、昭和6年の一篇「芳賀郡と柳田氏」で烏山を去る柳田家が青木家に墓守を頼んだという記述も、ついには昭和34年の『故郷七十年』における青木家が代々そう伝えてきたという記憶の造形も理解しやすくなります。すなわち墓所を見つけたときから56年間、先祖に対する変わらぬ思いのしからしむところではないでしょうか。

 これほどの、先祖への変わらぬ柳田の思いの底にあるのは何でしょうか。後藤総一郎さんは『柳田国男伝』(三一書房 1988)において、松岡国男が柳田家の養嗣子になった動機を三つあげています。一つは、相次いで両親を失って寂しい思いをしていたこと、その根底には少年時代から一家離散ともいえるほどの半漂泊民的存在として成長してきた彼にとって結婚は「やさしい束縛」であって、社会的に根の広い基礎である家庭を求める感情が存在していること。二つは柳田家の四女・孝に惚れたこと。三つは養家の柳田家への信頼です。たとえば代々の中には、飢饉にあえぐ国元・飯田を顧みない藩主を諫めるために自死した五代柳田為美のような人物がいたことへの心嬉しく思う感情と尊敬の念を抱いたことです。飢饉を絶滅するために農政学を学んだ柳田にとっては当然すぎるほどの心持ちでしょう。

 さて私たちはやっと探し当てた善念寺を訪ねました。この浄土宗のお寺には、正面からは本堂全体が見えなくなるほどの幼稚園が建っていました。本堂も改築中らしく、「柳田工務店」の工事用車両が入っています。さっそく住職にお話を伺ったところ、まず青木家の墓所と見なされていた柳田家の墓はもちろんありませんでしたが、私たちは青木家の墓がないかを尋ねました。住職は青木家の墓所は二つ、あるにはあるがどちらも「饅頭屋の青木家」のものではないとのことでした。柳田家の墓所についてもいつ、どこに合祀されたかも覚束ないとのことです。ご住職は31世を継いだばかりの様子でした。ならば、と代々の住職の墓をお参りさせていただきました。真新しい墓碑にはくっきりと代々の住職名を刻まれていました。柳田らが尋ねたのは明治39年4月2日~3日でした。27世の住職は明治39年1月16日に亡くなっていますから、跡目を継いだばかりの28世住職(大正13年没)が、柳田らの訪問を受けたのでしょう。この方は善念寺に飯田柳田家に繋がる墓石の存在を知りませんでした。ただ、そこを代々の住職が粗末にしてはならぬと言い残してきた青木家の墓所だと認知していただけです。

 その後、柳田の養父母が善念寺を墓参に尋ねるのですが、この時はもうすでに烏山柳田家の墓所は整理してしまったと言われ憤慨して帰ります。そして後に東京谷中に烏山柳田家の墓を改葬することになります。この改葬の年月日がわかれば(谷中墓地で確認できます)、養父母の墓参時に対応した善念寺の住職が誰だったかが特定できます。なぜこんな些細な問題にこだわるのかと言えば、明治39年の先祖探訪に出かけた柳田は当時法制局参事官であり農商務省の嘱託です。自分の墓所を探しに行くのに身分を隠す必要もないことです。ならば当時の住職が、訪ねてきた柳田の身分を知ったうえで、しかも東京の柳田家になんの連絡もないまま烏山柳田家の墓所を整理してしまうでしょうか。この先は、養父母が谷中に改葬したのがいつだったかを確かめてから考えてみることにします。

 

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栃木・烏山 柳田国男の先祖探訪

2012-11-24 09:38:45 | 旅行

 今回は、柳田国男全集の編集委員で古くからの全面教育研究会同人である小田富英さんとの宇都宮・烏山への11月19日~20日の小さな旅です。目的の一つは、小田さんがこの度作新学院大学に赴任したので、宇都宮市郊外のキャンパスまで研究書籍の運搬をお手伝いすること。二つは明治39(1906)年4月1日~3日に柳田国男(旧姓松岡)が、甥の谷田部雄吉をともない養嗣子先である柳田家の歴史を調べに出かけた「柳田採訪」の旅を小田さんと追ってみることです。それは柳田が満31歳になる年のことでした。こちらの時間がなくて4月2日の夕方から3日午前中にかけての烏山での行動を追うことしかできませんでしたが、いくつかは現地に行かねば分からなかった、といえる旅でした。東京小金井の小田さん宅から大学まで車でおよそ3時間かかりました。

 まず、小田さんの真新しい研究室にたくさんの書籍を運びましたが、大きな本棚にはまだまだ余裕がありました。天気の良い日には窓からは正面に筑波山が見えるそうです。隣県茨城に出自をもつ小田さんは小金井小田家の3代目。ここに赴任することになにか因縁めいたものを感じていたようです。ところでこの大学、今年で創立20周年というまだ新しい大学ということで、いまでも広いキャンパスの校舎内外はとてもきれいです。私が70年代に通った大学とは大違い。また、すれ違う学生が見知らぬはずの私に挨拶をしてくれます。またエレベータではおそらく職員の方でしょう、意外にも宇都宮は寒いところだと話しかけてくれる、とても気さくにふるまえる大学のようです。周囲の自然環境がそうさせるのかも知れません。

 さてここから烏山市まで出かけます。およそ30分ぐらいでいけそうな距離なのに、13年前の地図をたよりのドライブだったのでだいぶ迷ってしまいましたが、ようやく市内の柳田家の菩提寺である善念寺に到着です。ここは「お寺の多い町だ」とは、道を教えてくれた新聞販売店やガソリンスタンドでの地元の声でした。柳田国男は明治34年満26歳になる年に柳田家の養嗣子として入籍します(当主柳田直平の4女孝との結婚は明治37年)が、この柳田家は旧飯田藩士です。つまり柳田家は寛文12(1672)年に、領主・堀家の下野烏山藩から信州飯田藩への移封にしたがい、同じく烏山から飯田に転住したのです。飯田に移ってからの墓は現在の飯田市で確かめられます。明治39年の烏山来訪は烏山時代の柳田家の探訪だったのです。同年の柳田の日記から烏山採訪の箇所を拾ってみます。

≪四月二日、月よう、朝雨少し降り後晴る。昨日よりは寒し。(中略)烏山の町には五時頃到着、まず天性寺といふ禅寺に行きて、浄土宗の寺を尋ね、その教へによりて善念寺といふに行きて見る。前年火に遭へりとて焼け残りたる過去帳少しあり。それを出させて見るに、我家の旧記中の先人たちの名皆録せられあり。年来の望みを達したれば、明朝回向を頼むことにして帰り来る。墓石は皆無くなりたりといふ。旅館は叶屋、夜に入り散歩し、帰りて按摩をとらせて寝る。≫

≪四月三日、火よう、曇 早天に再び善念寺に行き、庭内をあるくうちに、ゆくりなく家の墓数基を発見す。代々の住持の墓と接して、かなめ垣にて囲われてあり。これは元町の関谷、又青木といふ饅頭屋の墓所と心得居たりといふ。我家の先祖烏山を去るに臨み、管理をこの青木家に託せしものと思はれ、その青木は今大に微禄せるも、寺に功労ある家なれば粗末にしてはならぬと、代々住職の言ひ置きなりといへり。回向はてゝ後、寺僧の案内にてその家の行き見るに、今は街道ばたの茶店のやうなる小家にて、四十余りの後家一人住し、娘のみ三人ありて皆他処に行きてあり。此婦人の代も夫婦養子にて、仏壇の位牌も別に今まで改めて見たことが無かつたといふ。言ひ伝へも書き付けも無しとのことなり。先々代は婆一人のところへ来たといへば、よくよく昔の事が幽かになつて居たものと思はる。/九時にこゝを引上げ喜連川に向ふ。此あたり一体に、漆を掻いた後の古木を、門の柱などに使ふ風習あり。黒い横筋のある木にて最も趣きあり。道々の村に梅多し。けふはちやうど散りの盛りなり。≫(『定本柳田國男集別巻4』。漢字と仮名遣いの一部を現代風に改めた。)

 烏山を後にして喜連川に向かう途中での漆の見聞について記してありますが、これは今回の「採訪」が、単に柳田家の先祖探しだけでなかったことを示唆しています。「柳田採訪」を追体験した中山一さんの労作『追憶の柳田國男 下野探訪の地を訪ねて』(2004 随想舎)に詳しいのですが、中山さんは烏山の東を流れる那珂川左岸の八溝山地が古くは、国内で最上品質の漆の山地として知られ、その良質な漆を求めてシーズン中は遠くから漆を取るために、ここ烏山には大勢の職人が出入りしたことを調べています。つまり柳田はこの旅で烏山の漆産業を確かめた旅でもあったことを示しているわけです。ところで、柳田国男は生涯に三回、この時の烏山体験に触れています。明治39年採訪から25年後の「芳賀郡と柳田氏」(1931)では以下のように回顧しています。柳田満56歳になる年のことです。

≪・・・私の家の、ある時代に宇都宮殿の家来であったことだけは、ほぼ確実な証拠がある。家で大切にしているたった一通の古文書は、宇都宮最後の主たる国綱公の感状であった。牛込の宅に蔵ってあるからちょっと出して見られぬが、年号は天正であったと記憶する。何とか阪の働き比類なく、満足に思うというような文字があって、宛名は柳田監物となっている。この人が私の家の系図において、生死年月がわかっている最初の人だから、まず自分としては元祖と心得ている。墓は烏山の善念寺という浄土寺に、つい近年までかなり立派なものが残っていた。それをまた私が行って発見したのである。この柳田氏は後の主人堀美作守親昌に随うて、寛文十二年の閏六月に、烏山から信州の飯田に転住し、それから今日までずっと本籍を飯田に置いている。それがかく申す自分の家であった。始祖の監物は七十何歳まで長命したが、この時はむろんもう死んでいた。それと若干の族人の墓を、烏山の名門であった青木という家に託して去ったのであるが、後にこの青木も衰微し、私の家にもいろいろの事件があったために交通が絶えて久しく埋没していたのである。それが二三基の墓石の発見と寺の焼け残りの過去帳によって、一々家にある位牌と引き合せることができ、いよいよ西暦一六七一年以前の数十年間、私の家が烏山にあったということが確かめられたのである。≫(文庫版『柳田國男全集 第31巻』)

 最後の回顧は『故郷七十年』(1959)のなかで述べています。柳田満85歳になる年のことでした。

≪柳田の家は私の養父に当る人もやはり養子で、先祖の墓を何かと気にして過ごしていたが、忙しくて見に行く折がなかった。柳田家は寛文年間まで下野の烏山にいたが、飯田の脇坂家が播州竜野へ移った後、堀家にしたがって飯田へついて行った。それ以後の墓所は飯田にあるが、それ以前の古い墓が烏山にあるにちがいないという気がしていた。しかし父はどうしても行く暇がないので、たしか日露戦争のすぐ後であったと思うが、私と、今谷中に葬られている甥の谷田部雄吉と、二人で出かけていった。/寺にゆくと、「どうもお気の毒様でした。寺では整理の必要があって、無縁仏を片付けましたので、おそらくお宅様のもないでしょう」といいながら、「火事がありましたが、過去帳はこれだけ残っています」と、過去帳を出してくれた。それを繰ってみると、先祖の戒名がいくつも出てくる。「ここにありますよ。これは私の家の戒名です」こうして戒名は見つけ出し、翌日はお経を上げてもらうことになったが、肝腎の墓石がない。「墓石がなくてはねえ」と甥と話しながら、翌朝もう一度寺に行ってみた。/住職が読経の仕度をする間に、墓石のことを気にかけながら境内をぐるぐる歩いていると、お寺の代々の住職の墓というのがあり、そのすぐ脇をふっと見ると、探していた私の家の戒名がずっと並んでいるではないか。さっそく和尚さんを連れてきて見せると、「これは青木という、この地でいちばん主な旦那の墓です」という。しかし墓石に柳田と書いてあるのだから間違いはないということになり、お経を上げて大変成功して帰って来た。青木というのは町の饅頭屋で、念のため訪ねて行ってきくと、何でも先祖が柳田家から頼まれたというので、代々墓所を守ってくれているということだった。長い間の好意に感謝し、今後のことも頼んで帰ってきた。/その話が伝わったので、旧藩のお爺さんたちが大変喜んでくれて、羽織袴でうち連れてやって来、「承ればご先祖の墓所がお見つかりになりましたそうで・・・・・」と、わざわざあいさつしてくれたことを憶えている。その後父が母といっしょに烏山へ墓参に行ったところ、驚いたことに、墓がないのである。寺で処分してしまったのであろう。父が非常に憤慨し、夜も眠られぬくらい怒ってしまった。「わしはこっちへ立て直す」といって、谷中へ代りの墓所を建てたのが、現在の墓である。父にとって烏山というところは、長い間の先祖の墓所を保存してくれて、じつに有難い所であったのが、急に印象の悪い所になってしまったらしい。もうそれっきり一族のものがだれも行かないのである。≫(『柳田國男全集 第21巻』)

 以上、三つの烏山体験の記述を比べると、疑問がわいてきます。それは飯田に転住したあと、柳田家の墓所を青木家が代々守ってきたという話は誰が述べたのかという点です。明治39年の日記では、「我家の先祖烏山を去るに臨み、管理をこの青木家に託せしものと思はれ、その青木は今大に微禄せるも、寺に功労ある家なれば粗末にしてはならぬと、代々住職の言ひ置きなりといへり。」と、ここでは青木家が飯田に去ったあとの柳田家の墓所を守ってきたという話は柳田国男の推測です。つぎに一篇「芳賀郡と柳田氏」では、「それと若干の族人の墓を、烏山の名門であった青木という家に託して去ったのであるが、後にこの青木も衰微し」と記し、去った柳田家が墓守を頼んだように読めます。最後の『故郷七十年』の記述は、「青木というのは町の饅頭屋で、念のため訪ねて行ってきくと、何でも先祖が柳田家から頼まれたというので、代々墓所を守ってくれているということだった。長い間の好意に感謝し、今後のことも頼んで帰ってきた」とあるように、青木家の先祖が去って行く柳田家から頼まれたということを、当時の青木家が伝承していたことになります。しかし、これは明治39年日記の記述と矛盾します。青木家にはそういう言い伝えがなかったと記しているからです。(続)

 

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吾野・坂石町分 明治43年の山崩れ

2012-11-20 22:10:23 | 旅行

 「第1回飯能ものづくりフェア」は18日で閉幕でしたが、そのとき会場でいただいた「吾野宿歴史散歩」(発行:吾野宿再生と吾野を語る会)というチラシを読むと、柳田国男が短篇「村の址」で書いていた、明治43年の大雨による坂石町分での山崩れ(土石流災害)についての石碑があることを知りました。またフェア会場に居合わせた飯能市の観光協会の方に、明治43年の山崩れについて訊ねてみたところ、名栗の穴沢地区でも大きな犠牲が出て慰霊碑があるとのことでした。名栗訪問は後日に期し、まず吾野に行ってみることにしました。吾野宿(坂石町分)とはどういうところでしょうか。さきの「吾野宿歴史散歩」にはこう説明があります。

≪平安時代、すでに武蔵野国国府が東京府中と現在の知々夫(秩父)に国府を置いたために、秩父街道が山岳宗教関係者らにつかわれ、吾野も利用されたと思われます。その後、鎌倉時代になると武蔵武士の活躍があり、この坂石の地も頼朝の御家人として源平合戦一ノ谷の戦いで平氏の大将、平忠度(ただのり)の首を取り「忠澄の勇」として讃えられた岡部六弥太忠澄の領地となりました。さらに江戸時代、徳川幕府編纂の「新編武蔵風土記稿」によると、元禄13年坂石村から分郷して民家29戸秩父街道に沿って生活し、馬継ぎの宿場なれば町分と称するとあります。秩父街道の中心は大宮郷であり、吾野道は吾野宿が終点であり、江戸に向かう場合は起点でもありました。秩父観音参り、秩父三山(秩父神社、宝登山神社、三峯神社)参りの道として、また秩父絹の商取引の道として利用されました。さらに、この道に沿う高麗川によって吾野の材木は、西川材として江戸に運ばれました。栄えたときは商店も多く、正月には三河万歳、座敷万歳、角兵衛獅子、瞽女(ごぜ、目の不自由な女の人)の三味線唄、ヨカヨカ飴売り夫婦が来ました。今、殆どの家は一度も途絶えることなく、人々は先祖伝来の土地に住み続けています。≫

 坂石町分に集まる漂泊の芸人たちにも興味を覚えます。それより柳田の「村の址」には災害で跡形もなくなったり、疫病で消えてしまったりした村が数多く紹介されていますが、坂石町分では「今、殆どの家は一度も途絶えることなく、人々は先祖伝来の土地に住み続けてい」るというのですから、すごい所です。また柳田は、同じ短篇で「吾野の宿は昔の秩父街道の大駅である。今は汽車のために旅客を奪はれたけれども、絹と杉材との取引が盛な為に、尚市場の面目を失つては居らぬ」と、明治43年当時の坂石町分を記述していますが、「市場の面目」とはどのようなものだったのか、『飯能市史 資料編Ⅵ 民俗』(1983)から拾ってみます。

≪坂下町分には、明治時代から大正末期まで市がたった。家並みと道路との間が4m~5mもあいているが、これはその昔、麦干しなどの場所として、ことさら空地を作っておいたものである。このゆとりを利用して市がたった。/戸板を並べ、その上に品物を陳列し、日除けにはテントを用意した。ここへの品物の運搬は主に馬力輸送であった。店を出す者は大体は飯能町からだが、越生、小川からも来た。現在山手町のかじ音さんなど、この市日に売る品物を、前日まで運送で送って、預けつけの家に届けておき、当日、なべ釜、包丁、鎌、鍬などを売ったという。/盆前の市が7月9日で、坂石町分の市はにぎわった。大体、古い時代の買物の目安は「ぼん、くれ」で、そこまで待っていたわけだから、年2回の市では買いたい物がたくさんあった。/とくに12月24日の暮れの市はにぎわった。吾野谷津の一番奥の正丸とか、高山、風影、長沢、井上あたりからやってきた。「きょうは町分の暮れの市だから、山仕事も早仕舞いだ──」と言葉を交わしたという。/そして盆は盆仕度の物、暮れは正月用のものを一ぱい並べて客を待った。/なんといっても暮れの市は盛んで、魚の干物、鮭、ます、神棚用の物、お勝手道具、反物、衣類、はき物、子供のおもちゃ類まで多種多様だった。/暮れの市の次は2月28日のひな市。次は4月28日~29日の5月節句の市だった。≫

 ハレの日を楽しみに暮らしていた山間の人々の姿が目に見えるようです。でも、来て欲しくないハレもあります。それが災害でした。かつての山崩れはどうなっているのでしょうか。飯能市の運動公園から吾野までは30分もかからなかったと思います。高麗の巾着田を横目で見ながら秩父往還とよばれた国道299号を走って行きます。ややしばらくして大きく右にカーブする坂道で「坂石町分」という表示を目にしました。まもなく国道299号線のバイパスと旧道の分岐点にかかりました。「吾野宿まちなみ展覧会 2012、11/18──25」という看板も見えます。街並みそのものが博物館という発想はちかごろよく見かけます。ハイキングコースがあるようですが、ともかく駐車場を探さねばなりません。通りで見かけた人に吾野駅まえにスペースがあることを聞きあちこち迷いながら吾野駅前に到着。駅前のお店の方に訊ねてみると、駅前は「駐車禁止」と釘を刺されてしまいましたが、明治43年の山崩れ現場の貴重な写真を見せていただきました。ほんとにすごいものです。まるで急傾斜のスキー場、いやそれ以上でしょう。岩土が大きく露出した現場が生々しく映っていました。その際平成11年8月におきた駅裏の山崩れの話も詳しく聞かせてもらいましたが、これは又の機会に紹介したいと思います。とにかく車で行く方法を教えてもらい、明治43年の山崩れ現場・大高山に向かいました。飯能市街地の方向にすこし逆戻りして細い橋を渡り山道を登ります。いくつかカーブを過ぎたところでやや森林が少ない空間に出ました。ここに小さな「土石流災害之地」と刻まれた石碑が建ててありました(写真右)。裏の碑文にはこうあります。

≪明治四十三年八月十一日 土石流が坂石町分を襲った 大高山から崩落した石塊は 百年を経た高麗川に今でも残る だが 濁流の削跡は万緑の森林に甦った 自然の摂理を後世に伝えるために この碑を建立する /平成二十二年八月十一日 /緑と健康の会 代表 大野 孝≫

 じつに百年たってからの建立です。犠牲者の数や被害状況は刻まれておらず、簡潔な文章です。このことがかえって、今に生きる人々が何を伝承しようとしたのか推察することができます。百年というときの長さを軽視することは困難なようです。車をところどころで停車させながら、崩れた現場らしき場所を観察してみますが、「濁流の削跡は万緑の森林に甦った」とあるように、たしかに砂防ダムが斜面に紛れて見える周りは森林に囲まれています。

今度は国道に出て、高麗川に崩れ落ちた辺りに見当をつけてみます。写真ではわかりにくいですが、たしかに並の大きさとはちがう巨大な岩塊がありました(写真右)。

 

 

帰途について、途中「かたくりの郷」でおそい昼食にしました。ここは「揚げたて」を出すのが好評とかで、妻はコロッケ定食。私は地元産の椎茸そばと「みそポテト」をいただきました。一口サイズに切られたジャガイモは天ぷらのように揚げられていて、甘味噌がかけてあります(写真左)。コロモ付きのいも田楽は初めてです。味噌がジャガイモによくからむようにという工夫でしょう。焼いてはいませんが、これも「いも田楽」の普及形態だと思いました。糖質を気にしながらも完食してしまいました。親切な店の人にコーヒーまでごちそうになって、飯能市の郷土館に向かいました。

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水と土と木 飯能を行く

2012-11-17 08:59:04 | 旅行

 

第1回飯能ものづくりフェア会場

昨日(11/16)は良い天気でした。知人から知らせを受けていたので、「第1回飯能ものづくりフェア」(11/16~18)に出かけてみました。飯能は川越の自宅から車ですぐ近く。フェアの場所は入間川河川敷の岩沢運動公園。この催し物は「西武線沿線サミット協定記念事業」としての企画です。これは「西武線沿線サミット」という飯能市、東京都豊島区、秩父市、西武鉄道が連携・協力して地域の魅力を高めることを目的に今年2012年5月20日に結ばれた協定です。なるほど、豊島区は池袋に西武池袋線の始発駅がありますし秩父市は終点です。その中間の飯能市は古くから木材取引の市場町として発展。現在は繊維・電気機器工業もさかんだとか。また東京の衛星都市化が進行して人口も約8.5万人。たしかに私の通勤していた東京都瑞穂町の職場にも飯能から通う同僚が5、6人はいました。

 地図を広げてみると、飯能市の市域は西に大きく口を開き、尾びれを東南に向けたオコゼのようです。毒のある背びれにあたるところに北から順にときがわ町、越生町、毛呂山町、日高市と接しています。腹の部分は東京都青梅市、尾びれは狭山市と入間市に接しています。オコゼという魚は奇っ怪な形をしていますが、山の神が好物とする魚だとされています。大きくあいた口が西の秩父山地を向いていて、妙に納得してしまいます。飯能市には大きな川が二本、西北から東南方向に流れています。北側を流れる刈場坂(かばさか)峠を源流とする高麗川は、日高市の高麗郷にあるヒガンバナで有名な巾着田あたりで北東に流れを変えて行きます。南側には、名栗渓谷に集まった水が入間川となって飯能の市街地を流れていきます。飯能の街中は入間川のつくり出した河岸段丘と扇状地の要になる場所、広く武蔵野台地の一つの始まりを構成する空間ということが出来るでしょうか。

 「第1回飯能ものづくりフェア」会場の入間川河川敷の岩沢運動公園は入間川が大きくカーブする内側に、外側は段丘になっていてここに市民球場や体育館やサッカー場のある阿須(あず)運動公園があります。なかなか立派な施設に見えます。入間川を挟んで運動公園が二つもあります。隣接するのは駿河台大学の大きな校舎です。このあたりの西側に鉄橋があり、八高線に乗ると入間川が大きくカーブする光景を眺めることができます。八高線は八王子から高崎までの路線ですが、どこを走っていても眺めていて飽きない景観が続きます。その中でも入間方面から山間を抜けた時に広がるこの鉄橋からの眺めが最高です。今回初めて逆に入間川からこの鉄橋と背後の山並みを眺めました。やっぱりいいですね。飯能を「森林文化都市」と自称したい気持ちがわかります。残念なことにいい眺めだと思ったときに限って写真に撮ることを忘れたり、撮影ポイントが得難かったりします。でも、いいのです。心象はしっかり刻まれています。欲しいのはいいカメラではなく、心象風景を表す言葉です。

 さてフェアです。 チラシで紹介され出店した工房を分類すると、金工・版画その他が2店、染色工芸が2店、ガラス工芸が1店、木工芸が8店、陶工芸が21店です。陶工芸が圧倒的です。21店のうち飯能市に所在のある窯元が9店、のこりは隣接・周辺の秩父、入間、狭山、川越。東京からも東村山、あきる野、瑞穂。遠く山梨県上野原からも参加しています。やはり飯能を中心として良質の粘土がとれるのでしょうか。聞いておけば良かったと後悔しました。次は木工芸です。全8店の内、6店が飯能市所在の工房です。残りは入間市、東松山市です。ああ、やはりと感じました。この「ものづくりフェア」から飯能の印象を絞れば、入間川や高麗川の水、それに運ばれる森林の樹木(杉材)、そして粘土の三つになります。フェア会場を一巡して心に残ったのは「名栗カヌー工房」と、目的にしてきた「拓蔵窯(たくぞうがま)」です。カヌー工房は以前から関心がありました。真っ直ぐな板を曲げてつくり出す曲線が好きなのです。初めて写真でしか見ることのなかった杉材を使った実物をさわることができて感激です。もってみると意外に軽いものです。またここではカヌー製作のを教えてくれる工房であることを知り、すこし心を動かされます。でも、もし出来るのなら私がやってみたいのは和船です。

 もう一つは、旧知の石毛拓蔵さんの「拓蔵窯」です。石毛拓蔵さんといっても今回で二回目です。ずいぶん前に川越での個展で大皿を購入してからのファンなのです。色合いも手触りも、重さもお気に入りの一品でした。今回はコーヒーカップがお目当でしたが、並べられた作品を眺めると以前と違った印象です。緑の色合いが混じったものが増えています。わけを訊いてみると、いま「織部」をいろいろと試しているとのこと。陶芸に無知な私は何のことかさっぱりわかりません。あとで調べてみると古田織部の創案した「織部焼」のこと。織部は、安土桃山時代に信長・秀吉に仕えた三万石級の大名で千利休の高弟であること、関ヶ原では徳川方につき、のちに徳川秀忠に茶の湯を教えたこと、大阪冬の陣で豊臣方に内通しているという疑いで家康に切腹させられたことを知りました。また安土桃山という時代は信長始め文化に深い関心を抱いた権力者によって革新された時代だったことも知りました。

皿

 以前、私にギターを教えてくれた若い同僚がギターを購入するときには、はじめに値段とかメーカーとか知るよりも、その商品(作品)と「目が合う」ことが大事だと教えてもらったことがあります。それ以来、改めて何か購入するときにはこの原則を思い出します。石毛さんの作品を眺めているうちに、目があったのは淺皿と深皿の組み合わせです(写真左)。一緒に行った妻はティーポットを選びました(写真右)。石毛さんは主に茶器を製作しており、今回は「ふだん使いの器」を中心にして出品しているとのことでした。家に帰ったらまずポットを使ってコーヒーをすすり、夕飯には煮物を皿に盛ろうということになりました。

 久しぶりにお会いした石毛さんは肌つやもよくお元気そうでした。全面教育学研究会では、かつて詩人の思想的直感とでもいうのでしょうか、鋭い批評で何度もどきどきしたことがありました。ときには悩みの相談にのっていただいたこともあります。穏やかに話される表情からは、≪「大震災・原発事故」後の、地方都市の「苦境の状況」を、少しでも明るい方向にシフトをきれるようにと、3日間ですが盛り上げていくつもりです。さらに、これを機会に第2回、第3回と、「ものづくりフェア」の継続恒例化をめざしたいと思います。≫と案内状にあったやや硬めの決意を伺うことはできませんでしたが、穏やかな表情からはかえってこのフェアに対する陶芸家らしい、じっくりとものづくりに向かう姿勢と同じものを感じました。(フェアは11月18日まで開催中です。)


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柳田国男の災害観 「村の址」を読む

2012-11-14 21:48:50 | 

 柳田国男の旅論をまとめて読もうと思い、柳田国男全集23巻を調べていたら、「村の址」(『中学世界』第13巻第16号 明治43年12月10日 博文館)という短篇を見つけました。柳田の災害ものといえば、このたびの東日本大震災を契機に、『雪国の春』に収められている「豆手帖から」の大水や津波に関する叙述が一部注目されましたが、災害全般にわたった柳田の文章は初見でした。私は、3・11の大震災が起きて以降、いま柳田国男が生きていたらどんなことを書いただろうかと考えることがありましたので、ここで紹介したいと思います。旅論の方は読んだ感想などを「小さな旅」の合間にぽつぽつと綴っていければ、と考えています。

 さて、「村の址」一篇は、明治末期の中学生向きに書かれた災害論ですから、具体的で大変分かりやすく書かれています。私は全体を四つに分けて読んで柳田の災害観を4つに整理してみたいと思います。

 柳田は神嘗祭の前日(1910年10月14日)に友人の「松本君」と秩父旅行にでます。秩父に入る前に埼玉県飯能市吾野(あがの)で災害の現場を目前にするのです。災害とは、1910(明治43)年8月1~16日に関東地方を襲った大雨のことです。前線、低気圧と二つの台風によって埼玉県内だけでなく、関東地方に大きな被害をもたらしました。「明治期最大の水害」と呼ばれているものです。埼玉県のサイトによると、被害の概要は、死者・行方不明者 347 人、床上浸水 59,306 棟、堤防決壊 945 箇所、山崩れ 3,329 箇所、道路被害 4,392 箇所、橋流失 1,103 箇所(以上、全県内)でした。柳田らが目前にした吾野村では「土石流が発生し高麗川に天然ダムを形成し、南、坂石町分で死者 22 名、民家埋没 7 戸、流出7戸、全半壊 22戸の大きな災害となった」ことが知られています。柳田らが目撃したのは災害発生からおよそ二ヶ月後の現場でした。

≪此の夏の大水には、此部落は一たび沼の底になつた。それは此坂石町分の下手で、対岸の山が山半分崩れた為めに一時高麗川の流を断切つたからである。川のこちらの岸には、まだ建てゝ間の無い家が数戸押潰されて、二十四人土中に埋められた、大雨の真夜中であつた故に、一人も救われなかつたのである。さて其土を人も掘り川の水も押流すけれども、まだ一人の姿をも見ることが出来ぬさうである。大きな四角な卒塔婆をその天然の大塚の上に立て、引接のつもりであらう、布の綱を傍の大木へ引渡してある。生死の問題に冷淡であると思つた松本君が、悄然として帽を脱いだ。自分も一には此人々の薄運を悲しみ、一には文明人の天然を征服すると云ふことも、存外根拠の無いものだと云ふことを知つて寂しい心持ちがした。≫

 こう述べていますが、「坂石町分(さかいし まちぶん)」とは聞き慣れない言葉です。当地に友人をもつ知人に尋ねたところ、吾野の坂石地区は町分と村分に分けてあって、町分とは街場だとのことです。また「引接」とは辞書に「ある人を他の人に引き合わせること」と記してありますから、土砂の下になっている行方不明者への悲しみと、早く発見されるようにという願いとが、土砂が押し寄せ大きな塚の上に建てられた四角卒塔婆と大木を結んだ綱に込められていたことが分かります。今回の東日本大震災で津波で一変してしてしまった街並みを眼前にした人々が、悄然として言葉を失い、ただ手を合わせるしかなかった風景と同じものです。柳田はそこに加え、自然災害に対する文明の限界を感じ寂しい心持ちになってしまいます。あと、犠牲者の数は飯能市史によると「22名」です。

 続けて柳田は「松本君よ。此の如き例は近代の歴史に決して稀有なものでは無い。自分はまだ多くの類型を知つて居る。あまり悲しい物語である故に、山中の旅行ではわざと云はなかつたのである。」と記しています。災害は「近代の歴史に決して決して稀有のものでは無い」こと、これが一つ目のポイントです。この短篇が発表されたのは同じ年の12月ですが、犠牲者のことを考えるとなかなか口にできる言葉ではないと思われます。しかし悲しみがどれほど大きくても、50年もすると残された人々はどうなってしまうのかを、柳田は自分の旅行体験を丁寧に述べるなかで指摘しています。

≪昨年六月の初に自分は飛騨の白川村に入り、此名の通りに水の色の蒼白い庄川の岸を下つた。折からの梅雨で、霧のやうなしぶきが傘の蔭まで満ちわたつた。飯島萩の町の盆地を過ぎると、両岸の山が狭まつて、椿原の下流では人家の無い岨路が中々長い。闊葉樹の林地の中には処々に地理書に所謂扇状地fanの小さいのがある。僅かに雑草に蔽はれて居るが、其下はすぐに稜(かど)のある小石原で、踏めばぐわらぐわらと草鞋に響く。近年の出水で作られたものである。対岸は常磐木が多く、此辺へ来ると、姫子松が段々に減つて、赤松が多くなつて居る。赤松の赭(あか)い幹は岩と水の色に映えてゐた。その岸に一箇所山の頂上から真直に切下げたやうな大薙(おおなぎ)があつて、裾には其土で作つた少しの平地に、二三十年の赤松林があつた。自分の荷持は越中のボツカであつた故に、詳しい事実は知らなかつたが、此山崩れは百年ばかり前のことで、この土の下には一つの町があつたと云ふ。水害の後に来て見たら、跡形も無かつたのださうである。川荒の土の上には、翌年は草が生え、十年すれば林になり、五十年を過ぐれば、埴土が耕作を誘ふやうになる。人の烈しい悲と畏怖もまた略右の年数で忘却せられるのである。≫

 要するにどんな大きな災害でも50年も過ぎれば災害の悲しみも恐怖も忘却されてしまうのだと述べているわけです。これが二つめのポイントです。三つめの場面は、災害のあとに何が残されているか事実を紹介しながら語られていきます。まず大津波で陸地に置き去りにされた「帆の破れた船」を残し家々をすっかり津波にさらわれてしまった宮城県唐桑村、明治12年の福島県の磐梯山の噴火で、川が堰き止められてできた檜原湖に沈んでしまった大きな村。湖水の底には土蔵の瓦屋根が見える。私は小さい頃檜原湖行きのバスから湖底に沈んだ神社の鳥居を見たことがあります。さらには函館の大沼の水底に見えるエゾマツの林。九州長崎県の島原半島では、普賢岳噴火によって平地面に大きな空洞ができたこと、そこで一年生き延びた人々がいたこと。鹿児島県の桜島では二百年前の噴火に対する畏怖が伝承されていること。伊豆の大島では三原山の噴火によって、溶岩の下に以前の地層が残されていること。これらの記述から伝わるのは災害は必ず爪痕を残すことです。これを災害の伝承に役立て災害の恐怖を今に伝えている地方もある、こういうことです。これが第三のポイント。

 四つめです。柳田は「地の利乏しくして村の絶えた地はいくらもある」と、人々が消えていった村々を紹介していきます。「天草を旅行するとき山中の松林の中に土窟の跡石垣など」をたくさんみたこと。伝染病のために家々が取り壊され石垣だけが残る宮古八重山の島々。村人が疾病で死に絶えて屋敷地が畑になった駿河江尻町の辻村。猛獣に襲われ死に絶えたと言われている奥遠州の榛原郡の小村、等々。こういう例は「外に何ほどもあるのである。」と、柳田は強調しています。そして最後に、自分が若い頃に一夏を過ごした三河の伊良湖崎古い村が、軍用地として接収され消えてしまったことについてこんな感慨を記して短篇を結んでいます。

≪村の人は十分な代償を受けて満足して立退いたでもあろうが、あの明神山の蔭のつめたい清水は再び汲みに行くことが出来ぬ。数十匹の兎に出逢つた、小山の麓の小松原には永久に遊びに行くことが出来ぬ。あの年の紀行は村民の子孫にとっても大事な記念になつた、世の中の進むと云ふことには、色々の意味を含んで居るものである。≫

 村とは、人が生を受け育つ故郷のことです。軍用地として接収されることは故郷を奪われることです。また「村民の子孫」とは柳田自身のことだと解釈すれば、その地その村に親しんだ者にとっても大事な場所であるにちがいありません。ここに時代は違っても、福島第一原発事故の放射能汚染によって故郷を追われた人々の思いと重なる感情を見出すことができます。まだ国家官僚だった柳田の、このような発言が当時においても相当過激なものであったことは現代と比べてみると一層納得できるのではないでしょうか。天災であろうが人災であろうが、災害というものは人々から故郷を奪うのです。ここが第4のポイントです。

 私は、柳田の災害観においては三つめのポイントに注目したいのです。すなわち、災害は必ず爪痕を残します。これが後にどのように表象化されていくのか、ここをもっと広く調べたいと思っています。

 

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「いも田楽」は他にもあった

2012-11-10 15:11:55 | グルメ

 家に帰ってからも、「いも田楽」のことが気になるので「下栗芋」について調べてみました。
下栗芋とは、信州遠山郷の下栗に伝わる在来種のジャガイモのことです。赤いもと白いもの二種類あります。下栗は南アルプスを眼前にする「日本のチロル」と呼ばれるくらいの標高1000メートルの急斜面にある集落です。この地域は他の地方と交通が隔絶していたために、長い間自給的・伝統的な農業が守られてきました。さてこの芋は、作付を二度して収穫できるので「二度芋」とも呼ばれますが、現在は3~4月に作付をして7月に収穫することの方が多いようです。小振りですが他品種に比べデンプン質の割合が多く、甘み・旨みが濃いうえに煮崩れしません。大きいものは他の野菜などと煮て食べますが、小さいのは皮のまま(皮は薄くて柔らか)煮てから串に刺し焼きます。そしてエゴマやクルミの味噌だれを付け焼きして食べるのです。これが「いも田楽」です。
2002(平成14年)に長野県の「選択無形文化財」に指定されました。いわば地域の特産品としてブランド化されたわけです。


 ネットで調べてみると、「いも田楽」という食べ物は全国にたくさん存在します。材料の芋はといえば、全部が全部サトイモといってもいいくらいなのです。確かに秋の収穫時のサトイモは粘りもあって美味しいものです。ところが、下栗の二度芋のほかに「いも田楽」の材料に小振りのジャガイモを使う地方が確実に存在します。(サツマイモはどうなんでしょう、・・・見つかりませんでしたが)

 一つは、埼玉県奥秩父の大滝村の「中津川いも」です。
大滝村とは埼玉県の西端に位置する1000~2000メートル級の山々に囲まれた峡谷の地です。埼玉県の秩父農林振興センターによると、中津川地域の特産品で、いもの皮がやわらかく、皮ごと食べられるのが特徴です。やはり地元の急傾斜地で作られているとのことです。食べ方は、エゴマ味噌を付けて「いも田楽」としての食べ方が紹介されています。さら地元で「紫芋」ともよばれる品種もありますが、これも「中津川いも」と呼ばれています。明治期末の日露戦争から帰ってきた兵士が持ち帰って育てたという話が伝えられています。


 二つは、徳島県の西、四国山地の一角を形成する1000~2000メートル近くの祖谷(イヤ)渓谷でとれる「ほどいも」と呼ばれる小振りのジャガイモです。
この芋の通販を営む「祖谷芋屋」によると、祖谷の中でも標高が700メートル以上あり、日当たりの悪い場所ほど「うまい芋が出来る」と言われてきました。この会社の畑は、その条件を満たした東祖谷の久保陰という場所にあります。栗のようなモチモチ食感とほんのりした甘みがあり煮崩れしないことが特徴です。やはり「いも田楽」として食されています。先祖代々自給用に栽培されてきたので地元以外ではほとんど知られていなかったようでこれも特産品・在来種ということができるでしょう。植え付けは山の上にはまだ雪が残る3月初旬、急勾配の土地に作られた狭い段々畑に、人の手で一粒一粒、植えられています。それは昔も今もほとんど変わりません。7月中旬に収穫されています。さらに「ほどいも」にも、「赤いも」と「白いも」の二種類あります。


 三つは、同じ徳島県の祖谷渓谷に続く剣山(ツルギサン)周辺には、急斜面でとれる「いやふど」という小振りのジャガイモも知られています。
このいもを宅配する会社「らでぃっしゅぼーや」によると、味は淡白で肉質が締まっているのが特長で、「いやふど」を使った郷土料理は、「でこまわし」と呼ばれる田楽が代表的です。蒸して皮をむいた芋を串に刺して山椒味噌をつけ、囲炉裏に立ててじっくり焼きます。香ばしさが食欲をそそります。別名「ごうしゅいも」や「源平いも」などとも呼ばれます。「源平いも」の名前の由来は、都を追われてこの地方に落ち延びた平家の一族が伝えたという伝説と、皮の色が赤色(平家)と白色(源氏)の二種類あることからとか。


 四つは、岐阜県吉城(ヨシキ)郡上宝(カミタカラ)村の新穂高温泉で「あぶらえ料理(エゴマ料理)」の一つとしてふるまわれている「いも田楽」の、材料の「ころいも」です。


ただこの近くの飛騨地方では「ころいも」といえば、男爵いもなどを掘ると一緒に付いてくる小芋のことをいうそうですから、「二度芋」や「中津川いも」や「ほどいも(いやふど)」とは品種がちがうようです。
 ですが、この地方も北アルプスへの西側入口に位置し、急斜面に囲まれた地域です。もしかしたら、「ころいも」と呼ばれている品種はずっと以前は、ふつうの男爵いもなどの小芋とは異なっていた可能性があります。もともと二度芋のような品種を作っていたのかもしれません。でも、後継者がいなくいなったために仕方なく、郷土料理として伝統を守ってきた「あぶらえ料理(エゴマ料理)」の一つとしての「いも田楽」に、男爵いもなどの小芋を代用してきた可能性があるからです。というのは、この新穂高温泉ができる前の山村が、明治政府から払い下げられた共有林野を処分した資金で温泉を掘り、次の世代のために温泉地に転換したという記事をどこかで読んだ憶えがあるからです。とすれば、これまた山村の在来種を守りながら自給的な農業を営んできた歴史が、郷土料理「あぶらえ料理(エゴマ料理)」に託され生き延びているといっていいかもしれません。

 これまで、「いも田楽」に使われる小振りのジャガイモについて、各地で特産品とか郷土料理とかブランドとかに焦点を当てながら調べて来ました。では田楽とは何かを辞典(百科事典マイペディア 平凡社)でみると、これは「田楽焼」の略称であって、豆腐を竹串に刺し、味噌をつけて焼いた料理のことです。サトイモ、こんにゃくなどは応用だとされています。だとすれば、小振りのジャガイモを使った「いも田楽」も応用の一つです。ここから、小振りであればどんなジャガイモでも、竹串に刺して、そこに味噌をつけて焼いて食べる料理を思い浮かべることができます。こんな「いも田楽」ならば、全国の家庭で広く調理されているのではないでしょうか。こういうのは特産品ともブランド化ともいわないはずです。もっと広げて考えれば、串に刺さなくても大きなジャガイモを薄切りにして味噌をつけて焼いて食べる田楽も必ずや広く存在するにちがいありません。

 こういう、広範にどこの家庭でも作られている「いも田楽」を、認識論の上で素朴な段階と位置づけてみますと、信州下栗の「二度芋」、奥秩父大滝村の「中津川いも」、祖谷・剣山周辺の「ほどいも」や「いやふど」を使った、それぞれの田楽料理は本格的な段階ということができます。地域の特産品としてブランド化されたり、由来の物語を付帯して世の中へアピールしているという特徴を挙げることができます。そうしますと、中間の過渡的段階として位置づくのが、新穂高温泉の「あぶらえ料理(エゴマ料理)」としての「いも田楽」です。この段階には、小振りのジャガイモならどれでもOKという側面と、伝統的郷土料理としてブランド化しつつあるという側面とが合わさっているという特徴を指摘することができます。

 この<素朴的──過渡的──本格的>という「いも田楽」の三段階の連関を考えてみますと、右方向へは「のぼる」、左方向へは「おりる」という人間の認識活動を想定することができます。すなわち、「のぼる」は、ジャガイモを使った田楽料理が、伝統的な郷土料理としてブランド化していく道筋を示唆し、「おりる」は、ブランド化したジャガイモの田楽料理がだんだん世の中へ知られ、「それなら自分で作ってみようか」といったキッカケで、大衆化していく道筋を示唆していると考えられます。

 そこで次に考えてみたいのは、地域ブランドとしての「いも田楽」体験とは、そこに暮らす人々にとってどのような意味をもつのか、こういう問題であります。

 
 

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天空の里 遠山郷下栗

2012-11-07 13:06:48 | 旅行

 程野(ホドノ)を後にして、私たちは中郷(ナカゴウ)の正八幡社に到着。社殿は2002年に建て替えられたものだそうです。程野同様大きくてまるで倉庫のようですが、中をのぞいてみるとギャラリーがついています。大事な霜月祭に氏子だけではなくたくさんの観客が来訪するからでしょう。社殿の内側を囲むように貼られたたくさんの寄付者。昨年も県外からもたくさん駆けつけたことがわかります。

 次は、上町(カミマチ)の正八幡社です。車を降りると宿場らしい街並みが見えます。おそらく秋葉街道を往復した「中馬」に従事した馬喰たちが一泊したところだったのでしょう。上町正八幡社の隣には祭り伝承館「天伯」が、むかいには山村ふるさと保存館「ねぎや」がありました。霜月祭りをまだ実見したことがない私は、迷うことなく祭り伝承館に入り、すぐに霜月祭りのDVDを視聴しました。ありきたりですが、この祭りが集落の人々を繋ぐ重要な神事であること、同じ霜月祭りでも集落ごとに少しずつちがっていることがわかりました。遠山郷の暮しを伝える展示物のなかで私の目を引いたのは、遠山郷一帯の大きな立体地図です。なんとこの地は中央構造線とかさなっていたことを学芸員の方にお聞きしました。中央構造線とは、九州から四国、紀伊半島、そしてこの秋葉街道(国道152号線)と重なりやがて関東へと続く日本最大の断層です。これはランドサッドからの日本列島の映像でもはっきりわかります。断層部分はもろく川に削られてまっすぐな谷になっているので宇宙からもよくわかるのです。自分が中央構造線の上に立っている不思議さに、しばし言葉が出ません。

 この立体地図で最終目的地の下栗の位置を確認して先を急ぎました。上町からは細いのぼり道です。30分もくねくねと曲がっていったでしょうか。やがて視界が広がってきました。広々とした南向きの30度前後はあるだろうと思われる急斜面に家が点々と見えてきたと、思うやいなや、道は急に狭くなり民家が道路に迫ってきます。家屋は大きくなく、家のすぐ前に小型の耕耘機が見えます。民宿の脇をすり抜けて「下栗拾五社大明神」(写真上)下の駐車スペースに到着です。社殿の方から何人か続いて降りてきます。なにか神事があったようです。Mさんは顔見知りを見つけてKさんと何か質問しています。私は鳥居のまえの簡易水道に興味を持ちました。分水の施設でしょうか。近づいて耳をすませてみると流水の音がはっきり聞こえます。

 あとでわかったことですが、下栗には、かつて標高の高いところから低いところにむけて井戸が三箇所しかありませんでした。その井戸を中心に上下左右に次第に住居が作られていったのですが、井戸から離れた家になるほど距離に加えて高低差も大きくなる理屈です。こうなると、水汲みは厳ししごとであり、水は大変貴重です。ですから集落の人々は、食事に使う水以外は雨水をため風呂や洗濯に利用していました。そこで1955(昭和30)年に、地区内の有志によって集落上部の沢から水をひいて各戸に水道を設けたのです(野中健一「長野県下栗地区における山村生活誌──昭和20年代の農耕を中心に」北海道大学文学部紀要 1992)。現在はこの施設に加え、新たに簡易水道が設けられたことを降りてきた集落の人から聞きました。その記念碑も見つけましたが、そこからの眺めがすばらしかった(写真下)。2500~3000メートル級の山々が並ぶ南アルプスです。 そう、ここは標高800~1000メートルですが、なんだかこちらの方が高く見えます。

 さいごは地区の展望広場に行きました。ここは上村小学校下栗分校跡地だったところです。宿泊施設「高原ロッジ下栗」がありました。Mさんはここに何泊もしながら下栗の写真を撮り続けたそうです。私たちがふだん暮らす平地にはない魅力があったと思われます。考えるに、その一つは「天空の里」と呼ばれるほどの眺望の魅力と、そこで自然条件に適応した伝統的な農法で暮しを営む人々の暮しの魅力であったかもしれません。こういう場所で暮らすということは、日常的に鳥瞰的な視線と虫的な視線を養うということです。前者は世界を大所高所から眺め自分たちの暮しを客観的に見ることを可能にします。いわば大自然におけるちっぽけな自分に気付かされる視線です。後者は日々の暮しにおける細々とした仕事のなかで生まれる悩みや晴々した気分、苦労や喜びを体験する視線です。互いの視線を関連させながら日常的にノボリオリする認識活動こそ「山村の思想」をかたちづくる重要な契機なのではないでしょうか。そうであればこそ、ここ下栗の人々の郷土イメージがどのようなものなのか訊ねて見たい気がします。それはきっと「平地人を戦慄せしめ」(柳田国男『遠野物語』)るにちがいありません。

 また地区の主婦7名が運営するそばを中心にした郷土料理店「はんば亭」があります。車も数台ありましたが、この店はもう閉店のようです。なにか、下栗特産のたべものを、と思っていましたが残念──。ところがありました。家具工房が一軒。ここから下栗芋を使った「いも田楽」のいい香りがぷーんとにおってきます。けれど、血糖値が気になります。決心がつかず、エーイ、と思って買ったのは、地元で出ているガイドブック『下栗の里を歩く』と絵はがき・・・。

 この展望地には、二つ記念碑がありました。一つは著名な地理学者市川健夫さんが下栗を「日本のチロル」とよんだ石碑です。もう一つはじっくり碑文を読むことができなかったのですが、地区共有林野の問題が解決したことの石碑です(たぶん)。あとで調べて(星川和俊「天竜川・遠山郷の自然および土地利用の変容──序説──」『環境科学年報23』 2001)みると、遠山郷は遠山氏が滅亡していらい天領になり近辺の山々への立ち入りが禁じられます。しかしその後「百姓稼山」が認められ山の中腹から上は御料林として伐採禁止に、下は農民の共有林になりました。明治になると、地租改正により「百姓稼山」は公有地となり入山禁止になり、その周辺が民有地として認められました。その後、中腹以下私有地境まで上村を含めた5組合村の共有林になりましたが、そのあとが大変です。1879(明治12)年に、この山林を利用する権利(地上権)を有力者らに売却したために、権利が個人や企業を転々としました。村に地上権がないという時代が長く続いたわけです。それがやっと1962(昭和37)年に上村に地上権が戻ってきました。この83年にも及ぶ地区の人々の苦労は大変なことだったと思います。そういう歴史的に意義のある記念碑ではなかったでしょうか。

 時計は16時をまわっていました。「いも田楽」に心を残し、下栗の里をあとにしました。

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