尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

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大橋尚泰『ミニマムで学ぶフランス語のことわざ』(二〇一七)

2017-04-15 12:34:10 | 

 前回(4/8)は、昭和十五年、『新潮』十一月号誌上で発表された「外国語排斥問題」という無署名の評論を紹介しました。それは外国語(主として英語)排斥・軽視の影響がもたらす「思わぬ支障」についての話です。英語排斥・軽視を提案する議論の「分かりやすさ」や「アカルサ」の陰で、人間の<未知への想像力>を封じる事態が出現することへの怖れだと、私は受けとめました。たとえば、原語で外国語を学んでも「底の底まで」理解することが難しいから、あるいは英語学習が一部を除いてたいして役立つものではないからといって、それを廃止したり軽視したりすれば、異文化や外国人対する理解がうすっぺらな、ことによると相手を侮ったり、排斥・差別したりする日本人を増やすことになりはしないか、という危惧を意味します。別の言い方をすれば、未知なるものへの<思考停止>を招いてしまう怖れです。このような異文化理解は自己認識にもかえってきます。うすっぺらな他者認識は同じくうすっぺらな自己認識しかもたらしません。相手への侮りは、我身における異なる思考の可能性さえ封じ、自分の都合だけが優先され、自尊感情だけが肥大化していきます。こうなると対話への努力は放棄され、残るのは戦争です。

 

 さて、今回は土曜日のテーマである英語教育論争史に一息入れ、新刊書を一冊紹介したいと思います。大橋尚泰著『ミニマムで学ぶフランス語のことわざ』(クレス出版 二〇一七)です。「ミニマムで学ぶことわざ」本はシリーズ化され、本書のほかに既刊には『英語のことわざ』(北村孝一著)、『韓国語のことわざ』(鄭芝淑著)があります。今後『中国語のことわざ』、『ドイツ語のことわざ』、『スペインのことわざ』が続刊の予定です。

 このシリーズは、私が知るどのことわざ本にもない特色があります。これをあらかじめ知っておくことは本書を理解する上で必須だと思います。シリーズの監修者・北村孝一氏の巻頭言「ミニマムで学ぶ<ことわざ>」を読むと、外国語学習における<ことわざ>の意義を、「カルチュラル・リテラシー(異文化の読解力)の重要なキイ」だと位置づけてあります。その理由は、①外国のことわざが学習者の母語だけによる類推では誤解しかねないこと、②ことわざが価値判断や行動の基準性という性格を持つために、しばしば会話や文章の結論に直結しており、文意をほぼ理解していても結論が把握できない場合が生じることの二つを挙げています。二つは言ってみれば、入門期を終えたあとに出現する習得の壁のようなものです。ことわざは「習得の壁」を構成する鉄筋のようなものかもしれません。それゆえ外国語を、「底の底まで」とはいかなくとも今より深く理解するために、ことわざをどう理解するかはとても重要な問題なのだということです。

 ではこのような意義をもつことわざを、教材としてどう準備し編集すればいいのでしょう。監修者の北村氏は、準備し編集されたことわざ群を<ミニマム>と読んで、「異文化理解の出発点として最小限必要なことわざ」と受けとめ、「ことわざを論理的に理解するだけではなく、感覚的にも自分のものにするためのツール」にしたいと表明しています。ここにはことわざを「論理的」と「感覚的」の二つの認識によって身につけたい旨が記されています。かつて教育学者・庄司和晃は、異なる二つの認識である感性と論理が統合されたものを<感性的論理>と呼び、その表現形態を<表象>と定義し独創的な認識論を構築しましたが、<表象>とはシルエット(影絵)のような存在を指しています。ことわざは表象の典型なのです。とすると、ことわざを<表象>的に掴まえるとは、水を汲むのにザルではなく、ボールやヒシャクを使うことと同義であり、対象に相応しい学び方なのです。

 つまり<ミニマム>とは、一定のことわざ群を表象として身につけるための教材のことなのです。具体的な編集方針は、「各言語のことわざ研究者が100のことわざを精選し、意味・用法を詳しく解説し、レトリックや参考となる文化的背景にもふれ」、特に用例については「各言語のネイティブの協力を得て、現代の会話を中心に」提供するというものですが、編集作業は各言語の執筆者に任されているようです。言い換えれば、完成された各言語バージョンには、執筆者なりの<ミニマム>が実現されていることになります。これは大変興味深いことです。なぜなら多様な<ミニマム>を通して外国語習得の壁を突破し得る一般的な知見を得る可能性を示唆するからです。

 まえがきが長くなりましたが、さっそく大橋尚泰著『ミニマムで学ぶフランス語のことわざ』を紹介しましょう。ここに著者なりの「ミニマム」が実現されています。二つ挙げてみます。まず「用例」についてです。用例は具体的でなければ役立たないのは自明ですが、著者はフランス在住の複数の友人に連絡を取りメールを交換しながら、書いた例文を見てもらい、またフランスの一般的教養人三人の協力を得て、「生きた会話」としての例文、言い換えれば「現在使われている日常会話での用例」を100以上作り上げたことです。ここだけでも、私の知ることわざ辞典にはなかったことです。たいていは文章の一節を流用したものが多いように思われますが、本書での用例は一つのまとまった会話なのです。「用例」とは簡単に言えば、使い方の見本です。学習者はこの「見本」によって具体的な場面(感性)におけることわざ(論理)の使われ方を知るわけです。くり返せば、「このような場面にはこのようなことわざが相応しい」という、場面とことわざの結びつきを知ることです。日本の例を出してはナンですが、たとえばある人の失敗を「サルも木から落ちる」と評価するか、「弘法も筆のあやまり」と評価するかは微妙なニュアンスの違いがあります。ことわざを表象として身につけるとは、このようなニュアンスの違いを心得ていることです。

 この本の最大の特色は、ニュアンスの違いを理解するための手がかりが、一つのことわざに一頁分用意されている解説に存します。この解説が一種類ではないのです。ここが類書に見られない特色のひとつです。たとえば、私には日本には似たようなものが思いつかなかったフランスのことわざがあります。和訳だけですが〔77〕の「やり手にはやり手と半分」(八六頁)というものです。この頁には、表題のフランス語原文の下に和訳を載せ、以下つぎのように各種の「手がかり」が用意されているのです。一部引用してみます。

【意味】抜け目のない人には、それを上まわる(プラス半人前、つまり1.5倍の)抜け目ない人がいるものだ。上には上がいるものだ。

【用法】相手の策略に気づき、その裏をかく手を使うときや、もっとうまい手を使って相手をやり込めてやろうと決意したときに使う。

 以下【ポイント】、【参考】、【類】、【反】、【用例】と続きます。【類】【反】は類諺と反対諺のことですが、これらが設けられていないことはあっても、【意味】や【用法】や【用例】はもちろん、【ポイント】や【参考】が欠けている頁は一頁もないことは特筆すべきです。さらに各章の最後に、全部で六つの「コラム」が用意されていますが、これもまた、ことわざを身につけるときの<表象>は学習者によって多様であることを踏まえた高度な仕掛けというしかありません。親切が尽されています。それにしても、100のことわざについてこれだけ各種の解説を揃えるのは容易な作業でなかったはずです。この意味で大変な労作・力作といってもまちがいありません。

 二つ目は、100のフランスことわざの精選とその分類についてです。まず精選について、「一般のフランス人が耳にしたことがないようなことわざ」が極力除外されていることです。ここにも現にフランスで活用されている、つまり「生きたフランスのことわざ」という編集方針が貫かれています。どうしたって「生きたことわざ」には「生きた会話」が必要になります。またこれら100のことわざの分類についてですが、章立て順に紹介しますと「いきいきとした動物たち」、「苔むす智慧」、「達観と諦念」、「処世術と助言」、「生活の場面」、「勇気と励まし」の計六つになります、これら六つはいわば著者大橋尚泰氏によって完成された<ミニマム>を支える柱です。どのような柱で自分の<ミニマム>を構築しようとしたのか、探るための資料でもあります。シリーズが全部顔を揃えたときの楽しみです。

 最後にこの本を手にとって、私は高校一年のときに通った英語塾で与えられた薄い参考書のことを思い出しました。塾の先生はすでに高校を退職していた英語の先生でした。たしか題名は「英文法梗概」だったと記憶していますが、学習塾ではこの参考書を使って、基本的な文法事項を確かめたり慣用的な表現を繰り返し音読して意味を確かめたり、とにかくそんなことの繰り返しでした。私はそのつど自分なりの覚え方が浮んできて、一年間だけでしたが飽きることなく塾に通ったことを覚えています。あちこち手垢とアンダーラインとメモいっぱいの一冊でしたが、手元にないことを残念に思います。大橋尚泰著『ミニマムで学ぶフランス語のことわざ』をはじめて手に取ったとき、うれしかったのはあの参考書に似ていたことです。

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1 コメント

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御礼 (大橋尚泰)
2017-04-15 22:05:34
過分にお褒めいただき恐縮です。
今後ともご指導の程よろしくお願い申し上げます。

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