前回(昨日)は、庄司の言語教育「体系化への構想おぼえがき」の「(A)目標にしていきたいもの」における最後「⑥コトワリの把握能力を高める」について、その特徴を考えました。他の能力についての言及メモに比べコトワザに対するそれは、抽象的段階にとどまっていることを指摘し、かえってこのことが間近に迫った「三浦つとむからの学び」を深いものにしたであろうことを述べました。
この点を補足しておきます。コトワザは「前論理学的段階」に属すという三浦の助言が、なぜ庄司にあれほどの共感をもたらしたのかという問題にかかわります。庄司はさきの「⑥コトワリの把握能力を高める」で、「事象の複雑さの中に、端的にコトワリをつかむ能力をやしなくこと」というメモを冒頭にもってきています。「コトワリ」という古語を使っていますが、内意は「すじみち」や「ものごとの道理」のことです。広い意味での能力を考えていこうとしていたことが推測できます。また科学のコトワリについては「法則」や「法則性」という用語を宛てています。また「法則づくり」というコトバで、科学的思考を養成する一手段として位置づけてみたいともメモしています。これは、つづくコトワザについてのメモから分かるように、コトワザを広く「コトワリの把握と問題の解決能力」として関心を高めていた一方で、科学については「法則」という狭い意味にこだわって.おり、科学の「法則」もまた「コトワリ」の一つのかたちだとハッキリ自覚してはいなかったと思われるのです。
しかし庄司は、一方で一九六五年頃よりしだいに「論理」というコトバを使っていく回数が増えていく印象を私は持っています。ピークは『仮説実験授業の論理構造』(一九六八)から『感性的論理学』(一九七五)の頃だと思いますが、もっと早くには「教育改造の論理」という使い方も見られます(一九六五刊行『仮説実験授業』まえがき)。この場合の「論理」とは、「考え方」、「思考の道筋」、「考える技術」といった意味です。すなわちその頃の庄司においては、「論理」と「コトワリ」とは「すじみち」という意味で親近性があり、そうでありながら合体することなく両立している思考状況にあったと言えます。ここに三浦の「コトワザは前論理学段階にある」という助言が与えられたとき、どのような反応が表われるか。・・・「前論理学」あるいは「論理」という一語が、庄司の思考に強烈に作用し、一挙にコトワザも科学の法則もコトワリ=論理であって、両者のちがいは「科学=論理学段階」と「コトワザ=前論理学的段階」を分けるところにある、と合点したのではないでしょうか。
さて今回は、「おぼえがき」の「(B)内容としてとりあげていきたいもの」を読んでみたいと思います。いうまでもないことですが、「内容」とは庄司の言語教育で扱う教育内容のこと。以下のように箇条書きにされたメモですが、この排列の意味をハッキリさせるために、(A)の「目標」①~⑥のどこに該当する内容であるかを〔 〕に記入しておきます。①「言語への意識を高める」→「言語意識」、②「言語選択能力を高める」→「選択力」、③「言語の生出能力」→「造語力」、④「言語の記憶技術能力」→「記憶術」、⑤「言語以前の感覚能力も高める」→「言語以前」、⑥「コトワリの把握能力を高める」→「コトワリ把握」に簡略化しておきます。
≪(B)内容としてとりあげていきたいもの
①「コトバ」というもの〔言語意識?〕
②言語以前の「コトバ」〔言語以前〕
③身ぶりと素ぶり〔言語以前〕
④動物の「コトバ」〔言語以前〕
・信号など。
・リリーサーの原理*
*〔ある要因が動物固有の行動を触発するとする原理。形・色・匂い身振り、その複合がその要因になる〕。
⑤サルの「コトバ」といわれるもの〔言語以前〕
⑥未開人の「コトバ」というもの〔言語以前〕
⑦方言〔選択力〕
⑧物の名・生きものの名まえ〔造語力〕
⑨笑い話〔造語力〕
⑩落語〔造語力〕
⑪たとえ〔造語力〕
⑫ナゾナゾ〔造語力〕
⑬コトワザ〔コトワリ把握〕
⑭いろはだとえ〔コトワリ把握〕
・いろはガルタなど。
・藤村などのものも。
⑮名句・金言・格言・故事〔コトワリ把握〕
⑯座右銘と標語〔コトワリ把握〕
⑰遊びコトバと理科コトバ〔造語力〕
⑱コトバ遊び〔選択力〕
⑲記憶の技術〔記憶術〕
⑳言語の歴史〔言語と言語以前の境界?〕
・サインの系列
・人間のコトバの系列
㉑きまり・掟・ルール〔コトワリ把握〕
㉒命題〔コトワリ把握〕
㉓法則と法則性〔コトワリ把握〕
・宗教上の法則
・科学上の法則
・世渡り上の法則 ≫(本書 七四頁)
太字の箇所に注目していただきたい。選択力・造語力・記憶術を「言語」で括ると、上の言語教育の「内容としてとりあげていきたいもの」の排列は、おおよそ、
言語以前―言語―コトワリ把握
と整理することができます。ただし、「コトワリ把握」には、コトワザや科学やルールなど抽象度が異なるものが含まれています。これを前に考えた「目標」①~⑥の排列「言語―言語以前―コトワリ」と比べると、「言語」と「言語以前」の位置が逆転しただけです。が、今回の排列の方が順次性に対する意識が明瞭になっていると思われます。しかし、実際にどのような順序で授業を組んでいくかは、この排列通りとは限らない。庄司はこの内容のうちから、子供の反応を確かめながら選択し授業を実施していることが後に分かるからです。
以上の教育内容の排列は、(A)では抽象的だった目標を内容面に具体化したものです。認識が具体化されるときには、(あたりまえですが)感性的な認識が表に出てくるものだということを確認しておきたい。これがあってこそ、内容の選択が可能になります。しかし教育内容を具体化したから、それを全部やりたい・やらなければならない、と考えないところが庄司和晃の魅力だと言えます。このような考え方はどこからくるのか。私は、上の引用に続く最後の一節にヒントがあるように思います。
≪とにかく、「コレハオモシロクテ教材化シウル」というものを、何でも、どんな本でも、どんな話からでももってくること。そして、テキストに組みいれるときには、コトバを意識させる、おもしろいものを念頭においていきたい。それは、自分のコトバをもつ、自分の好きなコトバをもつ、自分の考えをもつ、ということに直結していくことだからである。≫(同前)
教材化の大事な原則が語られています。のちに庄司はすぐれた教材を選ぶ視点を、①おもしろいか(観賞性)、②役に立つか(実用性)、③ためになるか(思想性)の三つを挙げていますが、上の引用では、まず「おもしろい」教材を用意することが第一だとして、その理論的根拠を、「自分のコトバをもつ、自分の好きなコトバをもつ、自分の考えをもつ、ということに直結していく」からだとしています。つまり、子供たちに対して何よりも主体的な自分を(自分で)養うことを願っていたのです。