前回は、「方言の授業」と「コトワザの授業」の教育的な実験の総括(結論と展望および反省事項)的叙述を対象にして庄司和晃の研究法を浮き彫りにしてみました。ただ、「遊びコトバ」ついては、庄司のコメントが少なく、私が第一次テキストの目次を検討した編集の意図については検証することができませんでした。ここはすこし残念なところです。さて、今回は総括のおしまいの部分を紹介します。庄司はコトワザ教育の可能性、コトワザの定義、コトワザとそれ以前との関係について、実にハッキリと応えています。
≪⑤コトワザの授業の可能性について。
・これはまずばくだいなものだといえそうだ。言語感覚に類するものはいうにおよばず、世界観の教育・知識やモラルの教育においてもかなりな可能性をもっている。このことについては、先の子どもたちの歓迎度が端的にものがたっているといっていい。
・たしかに、コトワザは観賞性と実用性の一致した言語である。否むしろ、観賞性と思想性と実用性の三者が統一された言語である、といってさしつかえないであろう。おもしろくて、意味が深くて、役に立つ言語、それがコトワザなのだ。だから、子どもたちに思想的な満足を与えてくれるのだろう。
・そういう点で、前章〔「体系化への構想おぼえがき」〕に示したわたしの言語教育の構想の大部分は、コトワザの教育によって達成しうるといっても過言ではない。≫(本書 九九~一〇〇頁)
まず、コトワザは観賞性と実用性と思想性の三つが統一された言語であるということ。私にはこの定義を初めて知ったときの記憶があります。定義自体はコトワザについてのものですが、あるとき、庄司の著作を通じてこの定義は、良い教材を選ぶときの基準にも使えることを知ったのです。現場の若い教員にとって授業のための教材開発はふだんの仕事であると同時に悩みのタネでもあります。どんな素材を教材として選べばよいか、その原則は何だろうと思っていたときにズバリ応えてくれたのが、この三原則──おもしろくて(観賞性)、ためになって(思想性)、役に立つ(実用性)でした。三つ揃わなければ理想的な教材とはいえない。三つ揃えるのが無理ならば、せめて「おもしろい(観賞性)」という原則だけはできるかぎり優先しようと、若い心に刻んだ憶えがあります。逆にいえば、コトワザこそ教材の理想型を表しているわけです。もしかしたら教育文化の基本的な考え方にも通じているかもしれません。さらに、これら三原則を内蔵するからこそ、子供たちに思想的な満足を与えてくれるのだという指摘も私にとっては重要でした。おもしろいだけの授業、ためになるだけの授業、役に立つだけの授業と三つバラバラに考えてみれば、三つそろった授業の威力の凄まじさが容易く想像できてしまう。ここが授業研究を盛んにやった時代に背中を押してくれたイメージだったからです。
コトワザの性格を以上のように三つに集約すると、今度はその裾野が気になってきます。一般化すればするほど具体的な範囲を確定したくなるわけです。さいごの総括がこの問題の行方を示唆しています。庄司は「わたしの言語教育の構想の大部分は、コトワザの教育によって達成しうるといっても過言ではない」といい切っています。たしかにコトワザを定義する三原則は多様性に富んでいます。これなら彼の言語教育構想における多様な「目標」と「内容」を掬い上げることができそうです。実際、庄司のコトワザ研究に重要な折目をつけた論文「コトワザの論理と教育」(本書第二部 1970.7)には言語教育構想における多様な目標と内容が掬い上げられているという印象もあります。しかし、彼の言語教育構想でリストアップされていた多様な目標と内容がどのようにコトワザ教育に掬い上げられているかの根拠づけや検証は、これからの課題になります。
ですからここで言及したいことは、庄司がコトワザ教育という一事によって、言語教育構想の大部分が達成しうると確言したことじたいについてです。こう言えるのは、それだけコトワザの概念を拡張できたともいえますし、もともとコトワザには多様な文化要素を内蔵できる性質があったともいえます。しかし私には、このような「予想」を可能にしたのは、まず庄司が自前の研究蓄積を捨てなかったことに一番の要因があると思ってきました。これまで一度ならず書いたことですが、新しい分野の研究を開発するというときに、かつて取り組んだ研究の成果をいかに新しい研究に活かそうと腐心・苦心してきたか、その結果だと思うのです。これは庄司の研究的個性というべきものです。
もう一つ書き加えておきたいことは、今しがた「もともとコトワザには多様な文化要素を内蔵できる性質があった」のではないかと書きました。この件についてです。庄司はのちにコトワザ論理発見説というコトワザ本質観を提唱していきますが、この「論理」からうける印象はコトワリ・筋道・法則など抽象的なものです。抽象的なものは感性的・具体的な側面を捨象して出来上がります。「論理」という以上、これで正しいわけですが、どうしてもやせ細ったハリガネのようなイメージを喚起しやすく、そこに豊かな具体性・多様性が伴っていたことを忘れがちです。これはコトワザ論理発見説の誤解されやすいところかと思います。この点、コトワザ教育は言語教育構想の大部分を留保(止揚といってもよい)してあると確言しているわけですから、この時点では誤解の余地は少なかったといえます。しかし、このような論理と具体の関係如何という問題は、論理学的なアプローチではなくて、「コトワザはどのような言語か」を問うような言語学的な関心から見ると、結構大事な問題だという気がしているのです。というのは、なぜコトワザは「思想」(世界観・指針・実践)を内蔵できるのか。このような問いは、なぜたいていの文章には題名がついているのかという問いと重なる気がするからです。興味深いテーマです。
以上のように、「方言とコトワザの授業にみる可能性」についての総括的議論を読んできますと、とくに定義の面から、世の中のコトワザ研究者はコトワザをどう定義しているのだろうか、これが気になってきます。また、三浦つとむの助言から学んだ「核心」は、これまで見てきた教育的な実験から導き出される「コトワザ教育論」と、どのような位置関係にあるのか、あるいはどのような影響関係にあるのか。その初期のかたちを確かめていかねばなりません。次回から、庄司がコトワザ教育を実践していた時期に執筆された「表象論としてのコトワザのもつ論理」(1965.11.1)に入ります。これを読み切ることが、八月中旬以来綴ってきたブログのゴールになります。