尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

三浦つとむからの学び、その核心(上) 改稿

2017-08-26 17:56:46 | 

昨日は所用があって休みましたが、前回(8/24)の続きを綴ってみます。話題は、庄司和晃が一九六五年の、おそらく九月二十二日に、四種類(①~④)の資料をもって三浦つとむを訪ねたおりに、どのような助言をもらい、それをどのように受けとめたのかでした。今回はその際の庄司の学びに迫ります。今回の資料は、これまでのブログで中心的に取り組んできた資料⑦「認識理論の創造への出発」(同年、十一・十七)を使います。この論文は三浦つとむからの学びをコトワザ教育の実践途上の十一月十七日に、自己の認識の深化を内省的に綴ったものです。庄司の本格的コトワザ研究書である『コトワザの論理と認識理論』(成城学園初等学校 一九七〇)の冒頭に収録されています。これまで通り「本書」と呼ぶのはこの一書を指しています。この学びの機会は、庄司のコトワザ研究の開始を告げるものである、と同時にその核心を衝くものだったと考えています。まずこれまでも引用を含めて紹介してきた三浦つとむの助言は以下の四項目に整理できます。三浦の助言は、

(ア) 庄司持参の資料①「科学の論理形成にさおさすもの(一九六五、八・十二)」で示された、図式≪「経験」―「諺・金言」―「普遍的法則性・弁証法」≫の中間に位置する「諺・金言」に関するものだったこと。

(イ) その「諺・金言」を、「前論理学的段階」と指摘したこと。

(ウ) この際に、庄司に「ことわざ論をやってみたらどうか」と助言したこと。

(エ) 庄司図式「諺・金言」(「コトワザ」段階)は、表象」と位置づけられること、「表象」概念をハッキリ教えたこと。

 では、以上の助言の意義を順に考えながら、庄司の学びの核心にせまってみたい。

 

(ア)「諺・金言」に限定した助言

 三浦の助言が、図式の中間に位置する「諺・金言」に限定されてなされたことは、庄司が構想してきた、言語教育構想を大いに揺さぶりました。「言語教育構想」「小学生のおしゃべりコトバ」研究の蓄積を踏まえた「私的言語教育試論」から「児童言語文化学」構想について、「これによって、わたしの言語教育のふらつき気味の腰がきまった、といってよいくらい」だと言わせています。もう少し引用すると「コトワザをどういう角度でとらえていかなる姿勢をもって子どもたちにのぞんでいくかということについては、確たるものがなく思いあぐんでいたところ」だったのです。つまり、三浦が助言を庄司の図式における「諺・金言」の限定したことは、一挙に庄司の言語教育構想に中心軸を与えたことになります。こうして、前回に読み始めた資料⑤「言語教育の体系化の歩み」では飛躍に見えたコトワザ教育を軸にする「体系化の歩み」の記述に方向性を与えたことになります。次に助言の内容です。

(イ)「前論理学的段階」という助言が与えた三つの示唆

 「諺・金言」は「前論理学的段階」に当たるという三浦の助言は、庄司に三つの示唆を与えたと考えます。「前~」、「論理学」、「段階」の三つです。

「前~」 庄司が「それ以前」を意識することは初めてではありません。三浦つとむの著作を読んで最初の図式をかいたときに、それまで十年以上に渡って蓄積してきた「小学生のおしゃべりコトバ」研究における「理科コトバ」群を、「科学以前」と見直したことは前に見た通りです。ですから、今回「諺・金言」は「前論理学的段階」に位置するという助言を聞いたときには、「前論理学的」という把握の仕方に抵抗感はなかったはずです。その仕方とは、ある高次元の認識がある場合、それ以前にも次元は異なるけれども同じものが共通して見られるという考え方です。「諺・金言」は、本格的とは言えないにせよ、同じく人間思考の法則性を掬い上げた「論理学」にちがいない、という確信です。ここに庄司のコトワザ「論理」説の発生があった、ということができます。

「論理学」 庄司は、この発見のあと、「コトワザの論理」という用語を多用していきますが、これを最初に適用していくのが、一度作成してすでに授業にかけつつあった言語教育構想で、これをコトワザを中心軸にして再構成するときだったと考えられます。このときに資料③「言語教育と科学教育のMemo」を改稿してできたのが、資料⑤の「言語教育の体系化の歩み」(九月二十九日)だったと考えます。その際に資料④「テキスト:試案」も再編集されていったと考えます。これが「言語教育→哲学教育」の姿勢が強化されたと、庄司が書いた事の意味です。ここに「哲学」とありますが、これは「コトワザの論理」と言い換えてもよく、これによって小学生なりに広く世の中の姿をとらえようとする意図が込められているはずです。

「段階」 庄司は、こう書いています。──「ことはそれ〔「言語教育→哲学教育」という強化〕にとどまってはいなかった。別様の展望が開けてきたのだ。それは、何によってであるか。取りもなおさず、前論理学的段階の中の「段階」という把握のしかたがピリピリときたわけなのだ。これではじめて、平面的分類的に発見したあの図式が、ダイナミックな立体的構造図式として、さらなる発見をなしえたしだいなのだ」と。「別様の展開」とはなんでしょう。それは、最初の図式が「ダイナミックな立体的構造図式」に見えてきたということです。また庄司はすこし後に「質的変化へと飛躍せしめた」とか、「発展的・段階的・立体的・動的」にとらえる地位にたかめてくれた、と補足しています。これはどのような質的変化なのでしょうか。「段階的」、「立体的」、「動的」、「発展的」の順に、これらの意味を考えていきます。

 質的変化は、もちろん三浦つとむが先の庄司の図式を指して、≪個別―特殊―普遍≫というふうにも展開できる、と助言したことにはじまっています。これによって、庄司は「諺・金言」(コトワザ)を、個別と普遍の中間の「段階」として見直したわけです。いったい「段階」として見直すとはどういう事態なのか。個別、特殊、普遍の三つを一連のものとしてとらえ直し、それぞれを段階と把握するというとき、その段階のちがいは何を意味するか。それは抽象の度合がちがうのです。すなわち抽象度を基準に三つの水準(地平)に分けたものなのです。敷衍しますと、個別的段階は個別的な事物の範囲での抽象です。例えば個人ごとの経験則あるいは問題解決法を指します。だから、個々にちがった問題解決法の集合を意味しています。この集合のうちからいくつかをならべて(つまり特殊な範囲で)見ると、そこに共通な問題解決法が発見できます。言い換えれば、代々の多数の人々が口伝えで残してきた諺・金言の類に代表させることができるでしょう。これをもっと広い範囲、言ってしまえばすべての人間にとっての問題解決法というふうに共通性を掬いとっていけば、そこに普遍的な問題解決法が発見できるはずだ、といえます。しかし個別―特殊―普遍という繋がりは、相対的です。つまり、普遍的な段階がいつも「すべての人間」に当てはまるものと考えているわけではありません。一民族内であったり、男女別だったりするわけです。

 以上のような個別的範囲、特殊的範囲、普遍的範囲を円の大きさに比例させて、同心円状に重ねると、平面を立体化する契機が生まれます。ここではいちばん下から上へ大小の丸い板が三重になった「普遍―特殊―個別」という立体を思い浮かべることができます。ですが、この一連の「個別―特殊―普遍」の各段階を、「ものの見え方」(認識)という基準でとらえ直すと、すべてのものを対象とする普遍的段階の方が眺望は遠く広く効くにちがいありません。そうすると、正三角形を仮想し水平に三等分する線を引けば、一番上から下ヘ「普遍―特殊―個別」の各段階で構成される立体をイメージできるはずです。後者の方が「立体化」のイメージを強く喚起できるのではないでしょうか。

 さらに、後者の正三角形のように考えると、一連の段階はその抽象度に応じて物事の「発展」を表すことが可能になります。「まだ赤ん坊の段階だからいまそんなこと教えても無駄よ」とか、「中学生の段階にならないと思春期の悩みは分からないよ」などと、「段階」は成長発展の「程度」を表すことができます。さらに、二字熟語「段階」からは階段をイメージできます。階段はのぼりおりするための道具です。もっと言えば、「のぼる(抽象化)」と「おりる(具体化)」という思考の「動的」イメージが喚起されます。これは認識を「発展的」に扱うことを可能にするわけです。仮説実験授業の基礎的研究で、抽象度の高い科学の基本的な法則をいかに身につけるかを研究していた庄司にとって、この程度の連想は容易だったと考えられます。(続く)


「児童言語文化学」構想と「コトワザ教育」のあいだ

2017-08-24 06:06:00 | 

 さっそく資料③の「言語教育と科学教育についてのMemo」(一九六五、九月二九日)を読んでみます。この資料③というのは、そのままの形では『コトワザの論理と認識露論』(一九七〇)には収録されておらず、庄司によれば、本書には「言語教育の体系化の歩み」(一九六五、九月二九日)という題名で、第三部「言語教育試論と小学生にコトワザ観」の第2章として位置づけられています。これを資料⑤と呼んでおきます。資料③と資料⑤の日付けが同じことから、資料⑤には資料③が掬いとられていると判断し、その内容を検討してみることにします。

 資料⑤「言語教育の体系化の歩み」は三つの節からなります。第Ⅰ節「コトワザの教育への展望をもつ」、第Ⅱ節「体系化への構想おぼえがき」、第Ⅲ節「世界観づくりにさおさす言語教育」です。先ず三つの見出しから分かるのは、未来形としての「コトワザ教育」への展望と具体化案、そしてその意義づけが語られているのだと予想できます。まず冒頭を読んでみましょう。

 

言語教育への接近ということでふりかえってみると、これまでに、コトワザの教育を意図的に試みてみたいとは、考えないでもなかった。子どもたちが遊びの中で、サルモ木カラオチルとか、二度アルコトハ三度アルとか自然裡につかっていたからである。それに柳田民俗学からも多くの知識を受けている。だが、その教育をおこなうための明確な視点が定まらなくて組みたてえなかったのである。それが、前章の「付記」〔資料①「科学の論理形成にさおさすもの」のこと〕でふれたように、三浦つとむ氏の著書にヒントをえ、現実のつきつけてくる問題を解決するための手引きとして、「経験」──「諺・金言」──「弁証法」というふうに、図式的にならべてみたときに、ソノ視点ココニアリ、とこちらにピピンとひびいてくるものがあったのである。そうだ。これなのだ!とがてんしうることができたのである。さすれば、子どもの口の端にのぼる数少ないコトワザをゆたかにしていこうと思っていたわたしの考えも、コレデヒキシマル、柳田民俗学の示す諸々の意見も、ハジメテ生キテクル、とまあ悟ったというしだいなのである。「未知の世界」への突進→そのときの「羅針盤」、たしかにコトワザの教育は、かれらの生き方に資するところがあるだろうという予想がフッと浮かび、そこから「言語教育」の中でこそと、一連のこれにさおさす自分のばくぜんとしていたものがひきしめられて、サササササッと過去のもやもやが統一されてしまったのだろう。つまり、その構想〔「小学生における私的言語教育試論」あるいは「児童言語文化学」と呼んできたもの〕の核心的な柱となしうる、ということが悟るがごとくに脳中にひびきわたったのである。≫(前掲『コトワザの論理と認識露論』七一頁)

 

 前回まで読んでいただいた方には、すぐ気づかれたと思いますが、上の引用でいう「コトワザ教育」の位置づけには、この時点で言えば飛躍があります。前回までは「小学生のおしゃべりコトバ」研究をもとに「私的言語教育試論」を書き、その趣意をテキストに具体化し、授業実践にかけつつあり、これによって、「小学生のおしゃべりコトバ」をもとにした児童文化をみきわめていく自身の角度が尖鋭的でないことや網羅的になってしまう弱点を克復する視点を得たい。庄司の言わんとすることを、おおよそこのように受けとってきたはずです。この時点ではコトワザの「コ」の字も登場していないことに気づかれたと思います。ここに飛躍があるのです。では「コトワザの教育」の出どこはどこにあるのでしょうか。庄司によれば、「三浦つとむ氏の著書にヒントをえ、現実のつきつけてくる問題を解決するための手引きとして、「経験」──「諺・金言」──「弁証法」というふうに、図式的にならべてみたときに、ソノ視点ココニアリ、とこちらにピピンとひびいてくるものがあった」と書いてあります。ですが、8/18 のブログ「コトワザに目覚める頃、科学が大好きだった」で、資料①「科学の論理形成にさおさすもの」を検討したように、ここでは「科学」のすばらしさを強調する文脈が大きく、科学以前の段階に気づいたにとどまり、問題解決法としての「諺・金言」は、科学や弁証法に比べれば、「それほどでもない」ということがこちらに伝わってしまうような書きぶりだったはずです。

 しかし、この飛躍あるいは断絶には理由があるのです。それは、資料①②③④を携えて三浦つとむを訪ね大きな示唆をもらったことが、資料③と資料⑤の間の出来事としてあったにも拘わらず、その出来事を書き入れたくても、そうできなかった事情です。ここからは私の想像にすぎませんが、問題は、携えていった資料③を、三浦の助言をもらい大いに示唆されたことを忘れないうちに改稿し、資料⑤を作ってしまったことにあったのでなないかと考えます。この三浦からの学びの出来事を資料⑤に明記しておけば、こちらの混乱もなかったはずです。では、なぜ明記しなかったか。思うに、この年の「私的言語教育試論」をもとに授業用「テキスト:試案」(資料④)をいまだ実践中の、十一月二日に「表象論としてのコトワザのもつ論理」(資料⑥と呼ぶ)を執筆し、同年同月の一七日に「認識理論の創造への出発」(資料⑦と呼ぶ)を執筆したことで、三浦つとむからの学びの過程を記述し終わっていたからだと考えます。そして、この二本の論文を執筆したことで、おそらく、資料③と資料⑤のことは忘れていた。しかし本書を編集する段階になって、この矛盾に気づいたが、資料⑥と⑦を序説がわりに第Ⅰ部「認識理論の創造とコトワザ論」に組み入れたことでよしと判断したのではないでしょうか。忘れたのは、この時期はおそらく授業実践で次々に発見が続きそれを記録し整理して真っ只中であったからでしょう。

 というわけで、はなはだ遠回りになりますが、次回は庄司が三浦つとむと会い、どのような示唆を受けることになったのか、再び見ていかなくてはなりません。庄司が「児童言語文化学」構想からいかに「コトワザ教育」へ進んでいったのか、その「核心的」部分が論じられているはずだからです。このときの学びについて記録的な論文が、資料⑥「表象論としてのコトワザのもつ論理」と資料⑦「認識理論の創造への出発」になります。せっかく読み始めた資料⑤「言語教育の体系化の歩み」は、しばし棚上げです。


見直しというモチーフが「科学以前」を喚ぶ

2017-08-23 06:53:43 | 

 今回は、資料②「言語教育と科学教育の周辺」(一九六五、九月二二日)の最後節(Ⅳ)「雑感的なひとつのしめくくり」を読みます。ここには、庄司がこの当時に置かれた研究上の位置からくる心境を綴った珍しい文章になっています。全面教育学研究会編『庄司和晃先生追悼 野のすみれさみしがらぬ学立てよ』(二〇一六)に収録されている、植垣一彦・小田富英 共編「年譜・書誌」(以降、「追悼集年譜・書誌」と呼ぶ)における一九六五年の記載を再録すると、以下のようになります。

年譜──

一九六五年(昭和四〇年)              三六歳

九月二五日、『仮説実験授業の論理構造』の原稿をまとめるにあたり、それまでの研究と仕事を、「第一期」から「第十一期」にまとめる。この時期を「第十二期 認識理論の創造時代」と位置づける。

この年、ソビエト連邦の婦人委員会に招かれて、芸術家、教育者ら一〇人とモスクワを訪問する。

 書誌──

「仮説実験授業はゼロから出発した」(『教材ニュース』第六七六号、日本写真新聞社)

「仮説実験授業の側面観」(『教育改造』第二〇号、成城初)

「科学よみものの教育ということ」(『科教教ニュース』第一二二号、科学教育研究協議会)

「大多数の子どもの予想がはずれたときの感想集」(『仮説実験授業研究』第三号、仮実研)

「柳田国男の児童観をめぐって」(『教育改造』第二一号)

「仮説実験授業のカリキュラム」(『現代教育科学』第八六号、明治図書)

『仮説実験授業』(国土社)

『理科の授業改造──小学生の自然観と予想授業』(明治図書)

『かっぱはほんとにいますか』(ポプラ社なぜなぜ絵文庫)

『ありはけんかをしますか』(ポプラ社同文庫)

『ふくろうのめはなぜよるみえる』(*ポプラ社同文庫)

『うみのみずはなぜうきやすい』(*ポプラ社同文庫)

 こうしてみると、一九六五年は多忙多産な年だったと位置づけることができます。留意したいのは、ここにコトワザ教育関係の書誌はひとつたりとも記載されていないことです。そのうえでの「多忙多産」だったことです。まず仮説実験授業研究の方面においてどのような状況にあったのでしょうか。さきの資料②の第Ⅳ節から引用しましょう。

 

 ≪板倉聖宣氏の発想にかかる「仮説実験授業」を樹立すべく、実践的にとりくみ、つづいて手がけた基礎研究を通して体験が更にさらに深まるにつれ、根本問題から細かな方法までいな、自分の生き方にまで気にかかるようになり、何ともはや、たいへんなことになってしまった。とくに、この頃というのは、以前の仕事の数々も気にかかってろくろく眠ることもできないほどだ。ここ数週間、床にはいったためしがない。机のそばでゴロネである。それもおしい。時間がほしい。つぎからつぎへと新しい考え・思いつき・発想がでてきて、書き留めざるをえないからだ。ここ数週間は、何かしら仮説実験授業のデモンにとりつかれてしまっているらしいのだ。≫(『コトワザの論理と認識理論』所収 六七頁)

 

 なんだか庄司の息づかいまでが聞こえてきそうな文体です。私も同じ歳くらいだったと思います。このくだりを読み、うまく言えませんが、ある種の感動を味わった憶えがあります。ここで留意しておきたいのは、「自分の生き方」や「以前の仕事の数々」も気にかかるようになってきた点です。もう少し、この時期、庄司の見方・考え方がどう変化しているか、をみていきます。

 

 ≪すべてのことが新しい分野にみえて仕方がないのだ。科学の何たるかがわかりかけてきたためかも知れぬ。実践の原理が身につきはじめてきたからかも知れぬ。逆転されたんだろう。考え方がかわってくると、こんなにもすべてが新鮮なものかとあらためて感じいってるしだいだ。それに、仮説実験授業の実践と研究の以前にやった仕事が、実に価値あるものに転化しうるものだ、という喜びがわきおこってしかたがないのだ。・・・オクラになっていた児童文化関係のものが、あらたにみえてきたのもそのひとつ。すなわち、言語教育論もデモンと化して、自分をつかまえてはなさないのだ。

 

  ひとつの普遍性を獲得すると、たしかにこれまでの風景が一変します。ここでは科学という見方・考え方だったようです。そのような見方が個別分野を超え、異なった分野を見る目をも変えるのだということが伝わります。これにとどまらず、普遍的な視線の獲得はそれ以前の仕事(「小学生のおしゃべりコトバ」の研究)をも見直し再構成への道を拓くことになります。これは前回ブログで触れた「庄司らしさ」の発現でもあります。さて、このあと庄司のペンは、吉本隆明の「書くという作業をつづけてきた私的な体験をさかのぼってみると、論理化の欲求、抽象化の欲求がはげしい時期と、具体的なものへの執着のさかんなときとは、自分のなかで波をなしているように思われる」(『模写と鏡』の「あとがき」)という一節から、現場の教師として実際主義にこだわっていた自分を析出していきます。そうしたうえで、抽象化か具体化か、つまり「あれかこれか」にこだわる発想を相対化し、「あれもこれも」と考える柔軟な思考に変化しようという意志を表明しています。この考え方が後に、認識の「のぼりおり(抽象化と具体化)」を思考運転の中軸とする「三段階連関理論」を先取りしているように見えるのはまず無理のないところです。

 さてこれで資料②「言語教育と科学教育の周辺」を読み終わりましたが、この一篇に底流していた見直しというモチーフが、最後にきて表面に露出してきたな、という感想をもちます。こう見てくると、資料①「科学の論理形成にさおさすもの」において、過剰とも思えた「科学」強調の意義が分ってきます。「科学以前」の「諺・金言」に光を当てる準備段階だったことに心づくのです。ここにも見直しというモチーフが底流していたことが読み取れます。資料①が資料②を喚び込んだのです。次回は資料③に入ります。


庄司による『児童言語文化学』構想

2017-08-22 18:33:59 | 

 前回(昨日)は、庄司和晃が三浦つとむに手渡し助言を求めた際の、四つの資料のうち資料②「言語教育と科学教育の周辺」の第Ⅰ、Ⅱ節を読み取ってみました(昨日のブログは補足してあります)。この二つの議論の底流には自分の研究を見直すというモチーフが流れていることを見ました。その研究とは「小学生のおしゃべりコトバ」の採集をもとにするもので、「遊びコトバ」と「理科コトバ」に注目して「子ども心の世界」にタッチしようとする研究でした。これは必然的に、「コトバ以前」を意識することになったというのが、私の考えでした。さて、今回は残りの第Ⅲ、Ⅳ節を読んでいきます。前者は「児童言語文化学への志向」と題されていて、庄司の「小学生のおしゃべりコトバ」の研究が、当時どこを目指していたかが窺われます。

 ピアジェ先生の児童心理学に対抗すべく、試みられた庄司の研究はどうなったのでしょうか。「もろ手をあげての降参」とまではいかないがそれに近いものでした。自己分析によるとその原因は「学」的な方法論をもたなかったことだと言います。だから、採集における「ハイマワリ的な経験主義」、資料処理では「精いっぱいに解釈主義・コンニャク問答式・手前勝手な心理的イジクリ主義」が主であったと書いています。「コンニャク問答」は落語にあり、相互の誤解にもとづく滑稽なやりとりのことです。やや自虐的ですがここにも自分の研究の「見直し」の契機が認められます。このような契機はどのような研究者にもやってくるとい思います。私は、庄司のコトワザ研究が三浦つとむの助言を示唆深く受けとめたことをもって彼のコトワザ研究のスタートと考えたいのですが、それまでの各種の「見直し」をコトワザ研究「前史」と呼ぶとすれば、以下の引用に見られる発想に、強く「庄司和晃らしさ」を感じるのです。彼は、「小学生のおしゃべりコトバ」研究から「身にしみてわかった」こととして、次のように書き出しています。

 

ただ、コトバというものが人間形成上、スゴイはたらきをしている、ということだけは身にしみてわかった。そういう点で、自身にとっては大きな収穫であった、と考えてはいる。自分なりの言語教育論をまとめあげたい、何とかそれを組みあげてみたい、というのも数多くのナマのコトバ群に接したところから、発想したものだといってもいい。/その採集したコトバとそれの分類・解釈・発見にもとづいて、自分の学校で、国語・文学とは別に「コトバ」の時間が特設されてもよいのではないかと、しばしばかんたんな形で提唱してもみたのだが、こちらの説明不足もあり、まだ筋だったところもないせいか、かくべつの反応もない。しかし、ここには新しい教育分野の何かがあるというばくぜんとした見通しみたいのがあるので、個人的につきあたってみようというわけである。だからこの論考に「私的言語教育試論」と銘打ってみたのもそういう意味においてである。/そして、デカイことをいうと、わたしは、この体系立てと実践を通して、いつかは、『児童言語文化学』というものへ到達してみたいのである。その足がかりは目前にせまっている。≫(本書『コトワザの論理と認識理論』 六六頁)

 

 目前にせまっているのは、もちろん厖大な理科コトバと遊びコトバの採集資料をさします。言ってみれば、自分の努力とそれなりの蓄積、努力の結晶です。それを否定しないこと、たとえ自分の研究に対して消極面があったとしても、自分のやったことの積極面はこれを捨てない、という発想です。ここからがすごい。この積極面においては単に「捨てない」でおくことにとどまらず、「努力の結晶」を新たな構想のもとに「組みあげ」たい、と考えたことです。そのような発想のキッカケは、「ここに新しい教育分野の何かがある」と思ったことにあります。ここでは、「私的言語教育試論」と呼ばれ、その「体系立てと実践」を通してより高次な『児童言語文化学』を構想していたことです。先にこのような考え方を「庄司和晃らしさ」と呼びましたが、これは「小学校教師らしさ」といってもよいものです。仕事相手の小学生に「消極面」があるからといって否定するのではなく、その「積極面」を捉え、ここに新しい成長の何かがあると感じその成長を図るのは、この仕事のもっとも良質な部分に属します。そしてこれを構想して終わるのではなく、具体化しようとしているところに、ヨリ強い「庄司和晃らしさ」があると思うのです。

 実際に、先の「努力の結晶」を整理・解釈し、さらに柳田国男の児童関係本に触発されつつ、直に柳田から指導を受けつつあった一九五七年頃には、『児童生活誌』をまとめる志をたてていたことが書かれています。この『児童生活誌』の大きなコンセプトは、なんと「児童文化の概念革命」にありました。庄司は、当時の「児童文化」と称されるものが、詰まるところ大人や教師が用意した「教育文化」にほかならず、「子どもが生み出したものこそ、児童文化であり、そこを意識して論立てと実証こそ必要だ」という、具体的な本づくりの戦略もできていたのです。その根拠は、自分が採集した「小学生のおしゃべりコトバ」が、どれも子供の間でだけ使われていたコトバにほかならなかったという特色に依拠していたと推察できます。この「子供の間でだけ使われ、児童のためにだけ使われる」コトバだけを「児童語彙」と呼び、それらをだいたいに子供がコトバを習得する順に分類・排列した柳田の『分類児童語彙』をほうふつさせます。しかしこの『児童生活誌』は、その下工事ともいうべき「小学生における遊びコトバの研究」もかなりはかどっていたにも拘わらず、出版されることはありませんでした。なぜか、それは庄司自身が感じていたひとつの弱点が克復されていなかったからでした。こう書いています。

 

だが、反省してみると、児童文化をみきわめていく自身の角度が尖鋭でなく、もうら〔網羅〕的であった。それを、自分なりの言語教育を通じて深めてみたいのである。この教育のためのテキストもできたし、授業にもかけつつあるしで、さしあたっての到達目標として『児童言語文化学』におきたいと考えている。≫(前掲書 六七頁)

 

 弱点とは「児童文化をみきわめていく自身の角度が尖鋭でなく、もうら〔網羅〕的であった」ことにありました。ところが上の記述には、今回はその実現のための授業用のテキストも作り、すでに授業にかけているということが判明します。ここで「今回」というのは、少し話がさかのぼります。くり返しを厭わず書いてみます。一九六五年八月に出版された『仮説実験授業』(国土社)における「予想・仮説着目史考」を「辿り終え」(つまり原稿を仕上げたことを指すと考える)、その延長線上に浮かび上がってきた「問題解決学習」への関心に端を発します。この本の「あとがき」の日付けが「一九六五年七月」であることを考慮すると、おそらく夏休みに、庄司はこの国の教育学者による「問題解決学習」論をいくつか読んだことになります。そして読後に失望を覚えた折りに、三浦つとむの『弁証法とはどういう科学か』(講談社)の一節が蘇ってきて、そこから一つの図式を描きます。

「経験」─「諺・金言」─「普遍的法則性・弁証法」

 この図式化によって、問題解決のたよりになるもの、手引きになる「コトバ」として「諺・金言」に気づくのです。そして庄司はこのとき、再三書いてきたように、まっすぐコトワザ研究に向うのではなく、どういうわけか、この「諺・金言」は「忘レテイタ、ヌケテイタ、気ヅカカナカッタ、これは放っておいていい問題ではない、ということを直観し、「言語教育というデーモン」に魅せられたように、集中的に資料①②③④を作成するのです。そして二学期に入ると、資料④の「テキスト:試案」を授業にかけていきます。ここからが重要ですが、授業実験をおこなっている期間のある日(九月二九日以降十月いっぱいだと想像する)、先の資料(①②③④)を携えて敬愛する三浦つとむを訪ねることになります。ここで「今回」というは、『児童言語文化学』構想の決意を記しとどめた資料②「言語教育と科学教育の周辺」(九月二十二日)と、資料③「言語教育と科学教育についてのMemo」(九月二九日)、資料④「テキスト:試案」(九月?日)を用意した頃ということになります。

 残るのは、第Ⅳ節「雑感的なひとつのしめくくり」ですが、長くなったので、次回にこれを読んだうえで、いよいよ資料③にとりかかることにします。


コトバとそれ以前の関係に心づく

2017-08-21 06:07:48 | 

 今回は昨日の続きです。庄司が一九五八年に綴った論文「一年生の自然交渉にみるコトバの示すもの」(成城学園初等学校研究集録『人間と教育』第11号 同年十二月)の一節を読んでみたい。この資料についての書誌情報が不足していたので、さきほど前回のブログに補足しておきました。実はこの論文の題名は、本書(『コトワザの論理と認識理論』一九七〇)に収録される際に改題されたものです。原題は「一年生の理科コトバをめぐって」です。この文章を一読したところ、一年生の理科コトバの分類整理から得られる印象がくっきりした、また論理的に明快な論文だと思いました。では、このなかの一節「言語教育と理科教育<低学年理科>」を読んでみます。前回紹介した庄司の引用では肝腎の説明が抜けていたからです。

 まず庄司は言語教育と理科教育との関係について自分の結論を先に提示していきます。それは、≪1年生の理科教育は言語教育の一環として位置せしめていった方が子どもの成長にとってプラスになるばかりではなく、教師側からいっても育てやすくなるであろうと考えたのである。≫と述べた上で、その理由を述べていく展開になっています。しかし長文なので、前段の話の筋を箇条書きにし、急所となる説明箇所だけを引用します。


 一年生の理科教育の目指すところは、自然との直接経験(交渉)を豊かにしてやることである。しかし直接経験だけではだめだと考える。

直接経験を主流にしつつも、間接経験も必要なのだ。

二つの経験には長所と短所があるが、両者の短所を考慮にいれて、それぞれの長所を尊重していくべきである。

このように考えるのはなぜか。それは一年生の自然経験を豊富にしていきたいからである。では「経験を豊富にする」ということはどういうことだろうか。

それを「語彙を豊富にすること」だと考えたい。なぜ、そういえるのか。

 1年生の子どもの豊富な経験がいくら積まれてもコトバによって定着されないと意味ある知識にはなるまいと思うのだ。意味のある知識というのは社会化された知識ということである、社会化された知識というのは客観化されて誰にでも通じうるということである。/コトバによって定着されない経験というのはばくぜんとしている。ばくぜんとしたものはほんとうの力となりにくい。自分一個のことなら困らないかも知れない、しかし、それさえもその個人にとっては不幸である、と私は考えたい。/なぜならモノを認識していく初歩の段階は他からモノを区別するといういとなみを通じてなされるものであり、それがコトバによって明らかになっていくすじあいのものだからである。/ススキのそばを幾度となく通り、ススキにふれ、ススキの葉をちぎり、指から血を流し、ロケット遊びをする。それをいくらやって楽しんでも、それが「ススキ」というコトバによって結び付けられないと「あれ、あれね、あのながいはっぱでやったでしょう、おもしろかったな、しゅーんととんでいくんだもんな、のぶちゃんなんかさ、ゆびをきってさ、ちがどんどんでてさ、ないてんの」「あああれか、あれなんだっけな・・・あれ、またやりたいな」といったぐあいの会話になってくる例もある。第三者からみると、何がおもしろかったのか、何がとんでいったのか、何をやりたいのか、さっぱりわからない、当人同志ははそれでも同一線上に立ってしゃべっていることだけは分る。それとて、実に不経済な対話である。(中略)それだからといっても何でもかでもコトバでおさえてしまう、子どもがそのモノについてさまざまな正体づかみの発言をしないうちにこちらが先にたっておしえてしまうのは避けなければならない。先に立ち過ぎると、子どもの問題になってくれないからである。ただし、そのあとに、若しくは子どもの問いに応じてコトバでもってしっかりと結びつける努力だけはしてあげなければならない。≫(本書 三四九頁)

 

 一年生の自然交渉にコトバを介在させていく意義を、コトバの基本的働きである「分節化」を主軸にした明快な回答だというべきです。すなわち一年生の自然交渉(経験)はコトバによって、それを増やしてゆくことによって豊かになる、これが庄司の言う理由です。ところで、ススキの事例はちょっと忘れがたい。これは高齢化しつつある我が家の会話によく似ています。物忘れとコトバを知らないことの間には共通性があるようです。・・・それから引用末の親や教師の対応は現在でも通じる普遍的な態度ということができましょう。一年生の理科教育を言語教育の一環としてやりたいという庄司の立場は、その是非はともかく、どのような前提に立っているか。すこし書いておきたい。それはコトバとそれ以前を区別すること、言い換えるとコトバにはいろいろあるが、人間が世界を認識するときのもっとも高次元の手段だとすれば、これを意識するとき、コトバ以前が無理なく視野に入ってきます。庄司は「言語教育と理科教育<低学年理科>」を取り上げることで、「コトバとそれ以前」という関係に心づいたのではないでしょうか。これが第Ⅰ節「言語教育を意識する」の通奏低音として流れ始めたと考えると、次節の「児童言語への着目」もそのように読み取ることができます。

ここでは自分の「小学生のおしゃべりコトバ」の採集方法が、研究初期においてはもっとも原始的な方法、つまりエピソード的な拾いあげから出発したことが記されています。しかし、J.ピアジェの児童心理学に対する対抗すべく、かの先生が「イキモノ」そのものにタッチした面が手弱いように思えたこと、さらに子供の生活主体ともいうべき「遊び」のなかで生産してゆく特有なコトバにも手をつけていないようにも思えたということ、これら二点から、庄司は自分のおしゃべりコトバの採集が、「理科コトバ」と「遊びコトバ」という二分野の特化した研究方向をとらせたことなどを綴っています。この間には職場の先輩から子供の世界そのものを知ることの大切さを助言され、二種類のコトバを握りとれば、「子ども心の世界」がハッキリ見えてくるだろうことを確信していったのでした。これも初期の我が採集法の見直しを試みたことを意味しており、「理科コトバとそれ以前」、「遊びコトバとそれ以前」という関係に心づいたのではないかと思えます。残りの二節にも、この通奏低音が流れているのかどうか、次回に確かめてみます。

 


科学から理科コトバへ

2017-08-20 22:10:22 | 

 いま庄司和晃のコトワザ研究の始まり方を調べ、その「原初のかたち」を捉えるべく四苦八苦しています。それは、庄司が一九六五年のおそらく一〇月中に、三浦つとむに渡した四つの研究資料を同定できていなかったことが原因ですが、昨日(八・十九)国会図書館に行き、私が所蔵しているコピー版『コトワザの論理と認識理論』(成城 一九七〇)で欠落していた第Ⅱ章「コトワザの論理と教育」と、その元になった同じ題名の論文(『成城学園五十周年記念論文集 教育』一九六七)を閲覧したところ、一九六五年に作成した研究資料とは異なった、より発展した論文であることが分りました。ならば、と思い『コトワザの論理と認識理論』の原典で再度確認したところ、先の四つが収録されているのは、庄司の記述では、第Ⅱ章ではなく、第Ⅲ章の「言語教育試論と小学生のコトワザ観」であることがはっきりしました。間抜けた話で、原文では「第Ⅲ章」と印刷してあるところを、コピー版で不鮮明だったために私の方で「第Ⅱ章」と誤読したことが原因でした。ちょっと情けない思いをしましたが、私の想像通りこの四つの資料は、第Ⅲ章の「言語教育試論と小学生のコトワザ観」に収録されていたのです。再度この四つの資料を前掲書から紹介します。(前回までは「論文①・・・」というふうに紹介してきましたが、資料の中に「メモ」や「試案」と題するものも含まれるので、以下「資料①・・・」というふうに書き改めます。

・資料①:「科学の論理形成にさおさすもの」(一九六五、八・十二記)。副題は「科学の有効性・実践的課題をめぐる問題を理論化するための一資料」。

・資料②:「言語教育と科学教育の周辺」(一九六五、九・二二記)。副題は「小学生における私的言語教育試論(1)」。

・資料③:「言語教育と科学教育についてのMemo」(一九六五、九・二九記)。副題は「小学校における私的言語教育試論(2)」。

・資料④:「テキスト:試案」(一九六五、九)

 もうひとつ、資料③と同じ日付け(九・二九)のある論文「言語教育の体系化への歩み」が、先の第Ⅲ部の第2章に再録されています。これは、おそらく資料③と同じもの、あるいは改稿されたものではないかと思われます。これを資料⑤と呼んでおきます。一つ考えられるのはこういうことです。庄司が三浦つとむに会いにいったのは九月二九日だったとすると、この日に出かける前に資料③を書きあげ、三浦に助言をもらって大いに示唆されたことを、帰宅してからその日のうちに資料⑤として改稿した、というふうにです。

 前回(九・十八)は、資料①を紹介したわけですが、これは今回紹介する「言語教育と科学教育の周辺」の末尾に付記されていた資料でした。そこでは、当然と言うべきか、意外というべきか、「科学」の重要性を再確認するような内容でした。コトワザ研究が画期的なスタートを見せるのは、三浦つとむと会ってからのことですが、その直前には「コトワザ」への関心は、「さほど」ではなかったことになります。科学の関心からコトワザ研究に移行するためには、その間に何か媒介項があったことが予想できます。三浦つとむに読んでもらう資料②「言語教育と科学教育の周辺」(一九六五、九・二二記)にはどんなことが書かれていたのでしょうか。

 この論文は、第Ⅰ節「言語教育を意識する」、第Ⅱ節「児童言語への着目まで」、第Ⅲ節「児童言語文化学への志向」、第Ⅳ節「雑感的なひとつのしめくくり」の四つからなります。各節の見出しから、すぐに判明するのは「言語教育」への関心です。もっとハッキリ言えば、庄司はこの資料の中で、科学教育研究から「小学生のコトバ」研究への繋がりを意識しているのです。後者は、科学教育(仮説実験授業)研究以前の、一九五三年に柳田国男の助言を契機に着手される「子どものおしゃべりことばの採集」をもとにした研究のことです。第Ⅰ節「言語教育を意識する」の冒頭には、≪言語教育と科学教育・・・そのネモトにさおさすであろう考え方と根拠および実践についての控え集。≫と、書いて「言語教育」と「科学教育」の繋がりや根っこにあるものを探ろうとしていたことが窺われます。さて、第Ⅰ節は、まず二年生の「目と耳を主とする」採集分類に始まり、その成果は「小学校生活に於ける二年生」(成城学園初等学校研究集録『人間と教育』第2号)に発表。次に「子どものコトバと行動」という題で雑誌(国土社刊『学校劇』)の十二回の連載(一九五六~五七)執筆へと結実します。この連載後に覚書を記し、そのうち「子どもの隠語のむれ(未登録のコトバ群)」、「おなかの満足と子ども」、「子どものナゼナゼ居士派」、「ニックネームの発生」、「コトワザの口出し」「子どもの説明コトバ」、「かえうたのおかしみ」については論考風にまとめたことが記してあります。この論考風のテーマでは「コトワザの口出し」が注目されますが、これは多様な「小学生のおしゃべりコトバ」の中の一つとして位置づけられていることに留意しておきます。その十二回の連載は本書『コトワザの論理と認識理論』の下篇に、八回分のテーマに改稿されて収録されています(火曜ブログで私なりの読み取りを行いました)。一方で、この連載には庄司による「言語教育」への提言があります。これは、<笑うの教育>を話題にしたもので、その主張にはこうあります。

 

「・・・子どもたちはムショウにしょうこりもなく腹の底から笑いころげてみたいのだ。・・・笑いの教育のテダテとして、/○かえウタで遊ぶ、○かぞえウタで遊ぶ、○ウソくらべ、ウソものがたりの創作/などの時間がうんととられていい。ウソものがたりの創作、ウソくらべなどは子どもたちがワッとくいついてはなさぬほどに歓迎するものだ。子どもの空想力・想像力などはもりもりとやしなえる。土台、子どもはそういう“うらがえし的な世界”を好むものだ。・・・おたがいに怒らない条件のもとにウソつきあい、だましあいをする時間をもつということは、いままでの教育で軽視されてきた面の一つである。だから、日本のいまの子どもたちは貧弱な空想力しかもっていないし、ユーモアじみたおしゃべりなども下品になっているのではなかろうか。」≫(前掲書 六四頁)

 

 私は三〇数年前にこのくだりを読んで、小学校教師・庄司和晃をいっぺんで好きになったのですが、この話については、「子どもたちはムショウにしょうこりもなく腹の底から笑いころげてみたいのだ」という子供観と、「子どもの空想力・想像力などはもりもりとやしなえる」という教育観に注目しておきたい。簡単にいえば「腹の底から笑う子ども」と「空想力を養う」という二点が、当時の小学生のおしゃべり研究から浮き彫りになった「言語教育」の提案だったのだと、受けとめておきたい。

 庄司はこの「子どものおしゃべりことばの採集」をもとにした研究を続けるうちに、彼らの「おしゃべりコトバ」には、「遊びコトバ」と「理科コトバ」の二種類あることに気づきます。後者は「自然の事物現象に子どもがあいたいしたおりに発するおしゃべりコトバ」群のことですが、一九五八年に「一年生の自然交渉にみるコトバの示すもの」(前掲成城学園初等学校研究集録『人間と教育』第11号 同年十二月)を綴っているときに、あることに心づきます。それは、「言語教育と理科教育<低学年>」という名を付した「一つの論」でした。そこにはこうあります。

 

「・・・一年生の理科教育は、言語教育の一環として位置せしめていった方が子どもの成長にとってプラスになるばかりでなく、教師側から言っても育て易くなる、であろうと考えたいのである・・・」/といって、ついでその理由を述べたあとに、/「・・・子どもと自然の交渉は、一年生教育のなかから抹殺してしまうことができない。・・・それを一年生教育のどの分野において満足されなければなたないか、という段になると、私は、意味のある知識則ち社会化された知識の収穫増加という側に立って“言語教育の一環”としていった方がよくはないか、考えるものである。」と結んでおいた。≫(同前 六五頁)

 

 とにかく、一年生の理科教育を言語教育の一環として考えるべきだ、という議論であることは伝わりますが、その理由にあたる説明がないために分かりにくくなっています。出典の前掲「一年生の自然交渉にみるコトバの示すもの」に戻って理解していく必要があります。これは次回に。今回押さえておきたいポイントは、庄司の科学(教育)重視の思考が、十年前から取り組んできた「子どものおしゃべりことば」研究にさかのぼって、かつての議論を見直そうとしていること。二つは、庄司の科学教育重視の関心がいきなり「コトワザ」に向ったのではなく、小学生の「理科コトバ」へ向ったということです。(まだ、コトワザに目覚める以前の話が続いています)


コトワザに目覚める頃、科学が大好きだった

2017-08-18 05:55:39 | 

 今回は一九六五年の十月中に、庄司和晃が三浦つとむを訪ねて手渡した資料のうちの一つ(前回同様論文①)を読みます。「科学の論理形成にさおさすもの」で、副題は「科学の有効性・実践的課題をめぐる問題を理論化するための一資料」です。これは同年の八月十二日の日付がついており、私がいま取り組んでいる庄司の最初のコトワザ研究本『コトワザの論理と認識理論』(一九七〇)の第Ⅲ部「言語教育試論と小学生のコトワザ観」の第1章「言語教育と科学教育の周辺」の「付記」として再録されています。再録されたのは前掲書の出版時の一九七〇年です。その前書きにはこうあります。《ここ〔付記〕にとどめておく理由はこの論考メモが、わたしをしてコトワザの研究と三段階連関理論の構築へと向かわしめた、いわば結び目にあたるおぼえがきだからである。そしてここから、その後、どのようなプロセスを辿っていったについては、本書の「認識理論の創造とコトワザ論」〔前掲書第Ⅰ部〕の項に述べてある。》と書かれています。一九七〇年の時点でふりかえったとき、庄司はこの資料①を、コトワザ研究(と三段階連関理論の構築)へと向かわせた「結び目」だというのです。結び目の先はもちろんコトワザ研究以降を指します。ならば結び目の手前はなんでしょう。この疑問を覚えておきます。

 さっそく本文に入ると、庄司は冒頭をこう書き始めています。

板倉聖宣氏から、つぎのような意味のことをときおり耳にする。「君自身の生活行動をみたまえ。科学なんて役にたってるかナ。身辺雑事のことは、たいていが経験で間にあってるじゃないか。」と。

 庄司は板倉聖宣の指摘を「なるほどなるほど。そういえば」と事例をいくつか挙げたあと「ほとんど(役だって)ない(イヤ、マルッキリナイカナ)」と書いています。では、理科教育・科学教育はどうかと自問し、ほぼ肯定的な答えを列挙しています。ここで留意しておきたいことは、三浦つとむから助言を得る前に、すでに庄司は「身辺雑事のことはたいていが〔科学ではなく〕経験で間に合っている」ということを相応に合点していたということです。このあと、庄司は三浦つとむの『弁証法とはどういう科学か』(講談社 一九五五)の一節を引用しています。長いので、要点をかいつまん紹介します。五つあります。

⑴人生は未知の世界への旅行だ。何か道に迷わないための地図のようなものがないか。ある、それが人々の過去の経験だ。
⑵古くから、多数の経験より生まれ多数の経験によって確認された「生活の指針」として「諺や金言」が残されている。
⑶もっと科学的な手引や方法はないのか。科学者も問題解決には先輩たちも過去の経験から得られた方法を使うが、個別科学の方法を万能なものとしては使えない。
⑷しかし、いくつかの個別科学の方法には共通性がある。たとえば、物事の区別が一時的・相対的であることは自然・社会・精神を貫く普遍的法則性の一つであって、これを認識してあらゆる問題の解決に役立てることができる。〔これを弁証法と呼ぶ〕
⑸個々のバラバラな認識の結果を弁証法を使って概括し関連付け、また既知の対象の一面と未知の他面との間に弁証法的な関係があるだろうと予想して、これを道しるべとして未知の世界に踏み込んでいける。

 後半になるとなかなか抽象的で難しい物言いになりますが、庄司は弁証法を使って誰も解いた事のない大きな謎を解いてみたかったのかもしれません。それとも大好きな銭形平次のように難事件を次々と解決したかったのかも、です。当時三浦つとむの弁証法の本を読んで、こう思った青年は少なくなかったはずです。現実の小学校教師・庄司和晃の以下の受けとめに、このような夢を持った子供たちを育てたいという夢がなかったとは誰も否定できないでしょう。

ここには、問題を解決するときにタヨリになるもの、テビキになるものは何かということが、「経験」━「諺・金言」━「普遍的法則性・弁証法」という形でみごとに分析され、秩序だてて述べられている。/そして、ここから、一般的な原理・法則を教えるということは、どういう意味をもつのか、科学の論理を身につける重要性、科学・技術の諸成果が役にたつのはどういうばあいであるのか、などについて改めて考えさせられる。

 もうお分かりだと思います。庄司は当時、問題解決のためには何よりも科学、科学、科学だったのです。大変重視していたのです。たとえ、
<「経験」━「諺・金言」━「普遍的法則性・弁証法」>
という形に図式化しても、科学の素晴らしさはもう疑えないほどの立場にいたのです。仮説実験授業研究で大きな成果を出したことが根拠になっていたのでしょう。だから、冒頭で板倉聖宣の経験重視の指摘に同意しながらも、再び取り上げて

いつであったか、板倉氏は、つぎのようにも言い切ったことがある。「科学が必要になるのは、やりなおしのきかないとてつもなく大きい仕事をなしとげるときだ。」

と、こう言わせているのです。庄司は科学を「やり直しのきかない大きな仕事」に役立てるような大きな仕事がしたかったのかもしれません。

 さらに今西錦司の、探検とは科学的な裏付けによって挑戦することであって、その裏付けの少ないものは冒険と呼ばれて否定されがちだ。しかし探検から冒険的要素が消えていくのは忍びない。科学の裏付けによって成功の自信が持てるようになった探検をこそ冒険と呼びたい、こういう話にも庄司は当然惹かれます。科学に裏付けられた冒険的探検に向かう「精神」という言葉に、戦時中、陸軍少年戦車兵に憧れた少年時代を思い浮かべたかどうか。あるいは終戦間近「理科系の専門学校」といっていい海軍甲種飛行機練習生(第15期)だった経歴も参考になるかもしれない。庄司にとって科学は大きな魅力であったことは、もう間違いないことです。コトワザ教育への目覚め(結び目)直前のことです。



庄司和晃研究には詳しい書誌研究が必須だ

2017-08-17 14:46:26 | 

 前回(昨日)は、庄司和晃の「認識理論の創造への出発」(1965.11.17)もとに作成したコトワザ研究の始まり方を九つの段階に分け、私の自問自答を含む覚書を加えながら、❹まで綴りました。❶〜❸はいわば大衆の問題解決法の一つとしての「コトワザ」の存在に気づくまでの過程でした。❹ではその位置づけが変化し、より広く子供の生活原理となるような「言語教育」の一部として、捉え直されることになったと言えます。今回はその続きです。

❺庄司はさっそく4本の論文と授業用のテキスト試案を作成します。持って行ったのは①〜④。
①「科学の論理形成にさおさすもの(1965.8.12)
②「言語教育と科学教育の周辺(1965.9.22)
③「言語教育と科学教育についてのMemo」(1965.9.29)
④「テキスト;試案」(9月中)
⑤「言語教育の体系化のあゆみ」(1965.9.29)

▶︎上記の資料は、いま利用している『コトワザの論理と認識理論』(1970)の第Ⅱ部「コトワザの論理と教育」として収録されているが、私のはコピー版であったために、どこかに紛れたのか第Ⅱ部が欠けている。今は手元にないので諦めていた。ところが、手元にあるだけのコピーを繰っているうちに、上記の①②と、③と同じ日に執筆された論文⑤がこの本にも再録されていることに、遅まきながら気がついた。
▶︎第Ⅲ部「言語教育試論と小学生のコトワザ観」の第1章として、②が同じ題名「言語教育と科学教育の周辺」で再録され(執筆日も一致)、また①がここに〔付記〕として再録されていた。さらに、続く第2章「言語教育の体系化への歩み」は、執筆日が③の資料と一致しているが、三浦つとむに会いに行くときはもって行かなかった。この本(『コトワザの論理と認識理論』1970)で初めて発表されたものだ。
▶︎庄司が上記の①〜④の資料を携えて三浦つとむに会い助言を受けたことの重要性にだんだん心づくにつれて、とにかく①②を読んでみるしかないと覚悟した。それと並行して第Ⅱ部のコピーを取って来なければならない。③をコピーしたら⑤と比較したい。少し時間がかかりそうだ。このまま続けるか、ここでいったん中断して再開するか。永遠の中断はない。とりあえず今日は撤退だ。
▶︎最初の目論見は、庄司和晃のコトワザ研究の「始まり方」に注目し、さきの本の序説にあたる第Ⅰ部の「認識理論の創造とコトワザ論」だけからその「原初のかたち」を抽出できそうに考えていたが、見通しがだいぶ甘かったようだ。でも手ぶらで撤退するのはチト悔しい。
▶︎そこで、今回つくづく思い知らされたことを綴っておく。たしかにコトワザ研究以外でも、庄司が各種研究会用に用意したガリ版のMemo・覚書・論文は「膨大な」量になるらしい。それらの資料が成城学園初等学校から出版される雑誌や「研究双書」そして市販本になるまでには幾度か改稿されたり差し替えられたりする例は今回思い知ったが他の単行本にも見られるに違いない。それゆえだろう、庄司は自分の文章には必ず執筆日を入れ、単行本に再録される際にしても、巻末には「初稿発表おぼえがき」を入れている。また「はしがき」や「あとがき」には丁寧な研究の歩みを書き残して、読者の便宜に供する努力を怠らなかった。この事実は何を教えるだろうか。一つは「庄司和晃」研究には、最初に残された研究資料の「膨大さ」にふさわしい、詳しい書誌研究が必須だということだ。もうこれがなければ、思い出の中の庄司がいかに莞爾としていても、いつまでも手強い研究対象であることをやめないであろう。二つは「膨大な」研究資料が書誌的に整理され、そこから見えてくる研究過程は多くの人々を激励すると確信している。今回綴りはじめた大きな動機は、庄司のコトワザ研究が、そのような性格をもったものであることに気付いたからだ。それは一回目(月曜日)にこっそり書いておいた。


児童言語研究はコトワザ研究と深い関係がある

2017-08-16 09:44:25 | 

 前回(昨日)は、庄司和晃のコトワザ研究のはじまりの過程を辿りました。庄司論文「認識理論の創造への出発」(1965.11.17)の内容を九つの段階に分けて紹介しました。今回は各段階で発生した私のいくつかの疑問を解き、また覚書をメモしながら(▶︎印)、全体的な筋道を見つけます。それが「原初のかたち」に該当します。今回はそこまで到達しないかもしれません。白ヌキ番号は、前回ブログに対応しています。

❶ 仮説実験授業の基礎的研究(『仮説実験授業』国土社 一九六五)後に派生した「問題解決学習」への関心から、当時の教育学者の議論を読むが、その「属国意識」や「主体性欠如」に失望する。
 ▶︎まず研究対象としてのコトワザに出会う以前に庄司には科学教育(仮説実験授業)に関する研究史があったこと、そこからコトワザ研究までのあいだには「問題解決学習」への関心があったことに留意したい。
 ▶︎「問題解決学習」は、庄司が成城学園初等学校に赴任してまもなく参加することになる、いわゆる「柳田社会科」あるいは「戦後社会科」の内容づくりで核心をなす教育方法だった。
 ▶︎また、戦後の教育学者批判には庄司の戦争体験からくる反省が感じられる。「問題解決学習」も「教育学者批判」も戦後二〇年という時代意識が背景にあった、と考えられる。

❷こんな折り、以前から繰り返し読んでいた、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社)の一節がよみがえってきた。そこには「問題解決学習」に関する総結論と実践を促す契機が満載されていることに気づいた。
 ▶︎一九六五年以前から、庄司が三浦つとむを読んでいたことは重要だ。三浦は戦後のサークル運動や青年の「ものの考え方」に大きな影響を与えた在野の研究者だったからだ。

❸三浦の文章をもとに問題解決に関する論理構造を三分類に図式化した。これは、経験 ━ 諺・金言 ━ 弁証法、というつながりを一番上に、その下に「過去の経験 」━ 「生活の指針」 ━ 「科学的方法」、続いて<個別体験> ━ <経験規則> ━ <一般法則>と三重になっていた。
 ▶︎図式化とは、のちに庄司の研究を飛躍的変える「表象」の一つだが、ここで留意したいのは、この図式がすでに三重構造になっていたことだ。これは三分類の変種を三枚重ねただけに見えるが、それぞれの変種が立体化し得ること、すなわち三つが「異なる位相」にあることに薄々気づいていたことを意味する。(ここが後に三浦の助言を大きな示唆だと受けとめる土壌になったと考えられる)
▶︎したがって、上の図式で中間に位置する、諺・金言、「生活の指針」、<経験規則>の三つを、コトワザとわざわざカタカナ表記で統一して把握する仕方はできていたと考えたいが、まだ分からない。

❹自分で作成した先の図を眺めながら庄司はあることに気づく。それは両端の分類に挟まれた中間のコトワザの世界を忘れていたことだ。このとき十年来抱き続けてきた「言語教育」のアウトライン(大要)をやってみたいという気持ちが猛然と起った。
 ▶︎ここで一つ疑問がある。「コトワザの世界」を忘れていたことが、なにゆえかつて構想していた「言語教育」の大要をやってみたいという気持ちをもたらしたのだろうか。庄司は最初の著書となる『一年生という子ども─教育と研究』(成城 一九五五)で、自然や遊びや学校生活における子供のことばを通して一年生のイキイキとした姿を描いている。これを契機に、後に自ら「児童言語研究時代」と名付けるように、児童言語の採集研究に熱心に取り組むのだが、当時の採集手帳や研究覚書を記した手帳の題は「子どものコトバと行動」(一九五六、四)、「小学生の理科コトバについて」(一九五八)、「三年生の理科コトバをめぐって」(一九五九)など、「ことば」ではなく、「コトバ」とカタカナ表記されている。庄司のカタカナ表記の含意は、もちろん言葉といってもいろいろあるから、ということだと考えると、コトワザは大衆の「問題解決ための手引の一つ」だという気づきは、まず子供の「コトバ」に光を当てたのであって、コトワザはまだその一つに過ぎなかった。それゆえの「言語教育のアウトライン」だったと仮説を出しておきたい。
 ▶︎この辺りの話は、庄司の最終講義の一つ「庄司和晃 私の研究歴 談話録(2)」(全面教育学研究会 編『庄司和晃先生 追悼 野のすみれ さみしがらぬ 学立てよ』所収、また全面教育学研究会ホームページでも閲覧できる)に詳しい。先の疑問に対する答えは、「口言葉の採集は、今度は決まり文句に注目することになり、それがコトワザの発見に結びつき、コトワザ教育学を成立させたんです。」という証言に尽きているのではないか。まずコトワザよりもコトバ(言語教育論)だったのである。
 ▶︎その「言語教育」をどのようにイメージしていたのだろうか。庄司はこう書いている。「おぼえる主義みたいな国語教育、役に立ちそうにもない文法教育、鑑賞解釈主義とおぼしき文学教育‥‥そういうものでない言語教育(、)本当といいたいコトバの教育、いやいや、そういう教科も含んだあらゆる教科、そればかりでない子どもの生活全般にひびきわたるような基盤となる言語の教育」。下線部に尽きているようだ。いいかえれば「哲学」のような、原理をおしえる授業というイメージか。とすれば、仮説実験授業の根本目標と重なってこよう。
 ▶︎児童言語研究時代は長く、一九五五〜六〇年代後半にまで及び、その成果は『理科の授業改造─小学生の自然観と予想授業』(明治図書 一九六七)と『仮説実験授業の論理構造』(仮説実験授業研究会 一九六八)に代表させることができる。とすると、一九六五年に開始される「コトワザ研究」の前史(土壌)は、この児童言語研究で覆われているといって良いのかもしれない。
 ▶︎ひるがえって庄司の風貌や語りを思い出してみると、「小学生のコトバ」研究時代を語るその姿勢は、温かく笑顔に包まれていた印象が鮮やかだ。根底には「コトバ」を掌にのせてまるで飴玉をしゃぶるように味わいかつ研究する姿勢が溢れていた。これは庄司自身が柳田国男を語るときに、必ずといっていいほど語られた枕詞のようでもあった。
 ▶︎また、最初のコトワザ研究書『コトワザの論理と認識理論』(成城 一九七〇)の「はしがき」には、「本書は上編と下編にわかれていますが、‥‥後者にはコトワザの研究を意識的におこなうまえに、小学生の言語生活を解明した成果を収めておきました。上編と研究史的にも内容的にも間接的なかかわりがあるので収載しておいたわけです」と明記されている。このように、庄司のコトワザ研究は、その「小学生のコトバ」研究史と存外に深い結びつきがあるらしいことが分かる。
 ▶︎ともあれ、先にあげた「言語教育」のアウトラインが具体化され、実際のどんな授業が行われたのかを確かめるまでは、詳しいことは分からない。というのは、後に出てくるけれど、この授業に取り組んでいる過程で、三浦つとむに会いその後のコトワザ研究の方向を決定づけるからだ。(今日はここまでとします。)


庄司のコトワザ研究 この劇的な始まり方

2017-08-15 11:56:35 | 

 前回(昨日)の自分のブログを見て驚きました。なんと肝心のコトワザ研究の内容が書かれたおらず、「見取り図」と言いながらその位置が不明で、書いてあるのは二つの研究史の流れ、コトワザ研究の内容が空洞なのです。それに一部書いてあるはずだと思ったことが書いていない。朝に急いで訂正しておきました。こんなダメ文章でも目を通してくださった方々には頭が下がる思いです。なぜそんなことになったのか。私には悪い癖があります。一つに集中して考えが順調に進んでいるときはいいのですが、うまく展開しないときには停滞状態に陥ります。ここで、一旦集中を外して気分転換でもすればいいのですが、時にここをゴリ押しする時があるのです。そんなときは大抵軽い身体運動が伴っている場合が多く、頭はもうパソコンのようにフリーズしているのに、手指はがんがんキーボードを打っているのです。コントロール不能だったのです。困ったことです。危険です。すみませんでした。

 さて今回は、庄司和晃が一九六五年にコトワザ研究を開始する、その仕方に注目します。研究を開始する契機になった新しいコトワザ観を捉えるのではなく、それを含めた「コトワザ研究の始め方」を見るのです。そこに「原初のかたち」を見出したいのです。「原初」とはいかにも人類の原初・始原などをイメージさせ、大袈裟な物言いですがそれぐらいの意味を持たせているのです。「本質」でもいいのですが、やや庄司和晃個人を超えて聞こえるので、ここでは庄司和晃固有の本質を見たいと思い、「原初のかたち」を採用することにします。

 まずはじめに、一九六五年に書かれたコトワザ研究論文の執筆終了日を早い順に並べて見ます。さらに、※印は庄司が三浦つとむを訪ね、助言をもらった時期や、新しい「言語教育」授業の実施された期間についっての情報です。以上全ての情報の出典は、最初のコトワザ研究本『コトワザの論理と認識理論─言語教育と科学教育の基礎構築』(成城 一九七〇)ですが、第Ⅱ部「コトワザの論理と教育の」を欠いていますので、後で補充する予定です。それでも、これだけのことが分かりました。

①8/12「科学の論理形成にさおさすもの─科学の有効性・実践的課題をめぐる問題」
②9/22「言語教育と科学の教育の周辺─小学生における私的言語教育試論(1)」
③9/29「言語教育と科学教育のMemo─小学生における私的言語教育試論(2)」
④9/29「言語教育の体系化の歩み」
⑤9/?「テキスト;試案」
※10月中に①②③⑤の資料を持って三浦つとむを訪ねた。だが、③と同じ9/29に書いた④は持って行かなかった。なぜか。(論文⑧)
⑥※10月中に、方言の授業の一つとして柳田国男「蟻地獄と子供」の一部を読む授業が10/12、15、16、19、の四回に渡って実施をされた。この新しい「言語教育」の授業は、9月にテキストが出来次第授業にかけられたと思われるので、仮に9上旬〜12月上旬の期間に実施されたとしておく。(論文⑧⑨)
⑦11/01「表象論としてのコトワザのもつ論理」
⑧11/17「認識理論の創造への出発」
⑨※12/18コトワザの授業が終了する

 以上の経過を踏まえて、一九六五年に、庄司はどのようにコトワザ教育を開始したのかを追っていきましょう。
❶『仮説実験授業』(国土社 一九六五)で書いた「予想・仮説着目史考」の続きで「問題解決学習」について諸家の議論をまとめて読んだが大きな不満があった。それらは「現場教師へのおどかし説」、「外国学者中心の整理的見取図にすぎない」、「属国意識あるいは主体性欠如」、「証拠となる事実は一つもない」など。

❷そんな折に、以前からくりかえし読んでいた三浦つとむ『弁証法とはどういう科学か』(講談社新書)の一節がダイナミックな形でひらめてきた。そこには「問題解決学習」についての「「総結論」が圧縮され、さらに「実践行動をうながす契機」が満ちていた。

❸このとき三浦の文章から立体的な論理構造と未開拓な曠野を発見した。前者の論理構造をつぎのように図式化してしてみた。それは、AーBーC/経験ー諺・金言ー弁証法/「過去の経験」ー「生活の指針」ー「科学的な方法」/<個別体験>ー<経験規則>ー<一般法則>、という分類的把握だった。

❹この図を見て、Bの「諺・金言」の存在が「忘レテイタ、ヌケテイタ、キヅカナカッタ」と自覚し、これは放っておいていい問題ではないと直観する(❸の「未開拓な曠野」を指す)。「10年ほど前からいだきつづけながら、そして、中途でたちきれながらもまた心にかけ、今日まで放置しておいた言語教育のアウトラインをやってみたいという気持ちが猛然と起ってきた」。

❺さっそく「小学生における私的言語教育試論⑴⑵」(9/22,29)を書き始めた。その一方で「いぜんからあたため続けていた」内容をテキスト化(9/?)していった。六年生の子供たちに授業を実施するにあたり、大学ノートには「小学校言語学(小学校哲学)」という題をつけさせた。(11/17の時点で10時間ほど実施済み)。子供たちの反応はよかった。「三浦つとむ氏のいう「多くの経験からうみだされ多くの経験によって確認された、民衆の生活の指針として」生きてはたらいている“コトワザ‘’という問題解決の手引きのひとつが、強烈な導火線となって、ねむりにねむりつづけていた言語教育論が目をさました」のだった。

❻(おそらく10月中のある日)このときの諸論文とテキスト試案(①〜④)を三浦つとむに会い手渡した。そして三浦から、❸における図の、Bの「諺・金言」について多大な示唆を受ける。このとき、以下のような思いが去来する。─「実のところ、言語感覚をやしなうぐらいのことは自分としても授業を運ぶ様々のメソッドを開拓しているがゆえに、大いに自信があるのだが、諺をどういう角度で捉えていかなる姿勢をもって子どもたちにのぞんでいくかということについては、確たるものがなく思いあぐんでたところなのであった。単に、民衆のチエを知らせ・伝えていくという姿勢ではものたりなくて元の気も出てこず、さりとて鶴見俊輔氏流のテクニカル的プラグマチズムでは仮説実験授業の論理を把握した地点からいって自身をして満足せしめない。存命中に10年ばかりの間、じかに、しばしば教えを受けた柳田国男氏の流儀・史眼をそのまま借用するのには、今の心意からいって何かが足りないという気がしてうまく乗り出せないでところであった」。

❼三浦の示唆は、Bの「諺・金言」は「前論理学的段階」に位置するという指摘だった。これで「ガチッときたわけである。柳田流の視点は、およばずながらワガモノにしているという自負はあるのだが、この鮮鋭なる示唆によって体内の組織がえがいっきょに遂行されたごとき共感とも共鳴ともつかぬ何ものかを握りしめることができた。それによって言語教育→哲学教育の姿勢がさらに強化された」のだった。

❽三浦のこの示唆は、別様の展望を開いてくれた。それを可能にしたのは前論理学的段階の中の「段階」という把握だった。どのような展望を、だろうか。❸の図式を使うと、三浦は、経験ー諺・金言ー弁証法を、経験ー諺・金言ー論理学と受け止め直したうえで、これに(個別)ー(特殊)ー(普遍)を重ねてみるよう指示してくれた。「これは私にとってたいへんなできごとであった」という。庄司の最初の分類的図式化を質的変化させ、「発展的・段階的・立体的・動的」に捉える可能性を高めてくれたからである。この出来事は、そのときに三浦が言った「コトワザ論をやってみたらどうか」という助言を巡って考えるうちに一つの結論が出ることになった。それはコトワザ研究を通して、自前の認識理論を創造しようという決意が生まれたことだった。

❾三浦から受けた示唆はもう一つ(三つ目)あった。それはコトワザ段階が「前論理学的」だと言えるのは、無体系であるとともに感性的なものが残っているゆえだが、このような性格をもった認識は「表象」と呼ばれること。表象的論理は具体的な生活の中では特殊性として捉えられた論理であって、日常生活で使う「道具の論理」となって現れている、こいうことだった。これを庄司は「わたしの着手しつつあるコトワザ論は単なる諺論ではない、ちじめていえば、表象論なのである。そしてそれは、自身の認識論を創造するためのカギ 」だとも、「自分の生き死ににかかわることがら」だとも記すのだが、相当な覚悟を持って臨んだことが伝わってくる。

 以上が、庄司和晃のコトワザ研究の始まり方です。なんともドラマチックな認識劇といえばいいのでしょうか。小田富英 氏による「庄司和晃先生年譜・書誌」(全面教育学研究会 編『庄司和晃先生 追悼 野のすみれ さみしがらぬ 学立てよ』二〇一六)を繙くと、一九六五年は児童書や科学教育(仮説実験授業)方面でも、多産な一年だったことが分かります。しかしこの裏でコトワザを巡って庄司和晃の激しく熱いドラマが展開していたことを知るとき、私たちもまた「一九六五」は長く忘れられない数字になりそうです。続きは明日に。