@curatorshinya 具体の絵画における吉原治良の円相は、ナーガールジュナが大成した空の概念が日本的に形態化したものだと思う。 吉原次郎が白髪一雄や田中敦子らのゼロ会を具体に招き、合流させたのは、吉原の仏教的世界観が、真言密教を修めた白髪の作品と共鳴したからだろう。
※現代美術が、仏教(大乗仏教・日本仏教→密教→真言宗)と絡めて評論される時代に……
@curatorshinya 道元は有情(衆生)を心として示すことによって、衆生・悉有・仏性・一悉である衆生を統一している。これはつまり唯心弁証法の円環的なアウフヘーベンである、と石井恭二は指摘している。
@curatorshinya 仏教の空における無限の概念を理解する為には、1つの線分を3等分し、真ん中の線分を取り除く操作を繰り返し行なった カントールの無限集合を説明するためのイメージが、中心から放射状に広がっているのだと考えると理解し易いと思う。 asahi-net.or.jp/U+203Esi4k-nkmr/jda…
@curatorshinya 「いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆえに。しかあれば、心これみな衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。」- 道元『正法眼蔵』
@curatorshinya 植民地を沢山持っていたヨーロッパの国々は、その後ブーメランの様に植民地化した国々からの不法移民その他で大変なダメージを受けているけれど、ひるがえって日本は、自らが植民地とした場所に対して、自覚が無さ過ぎる様に思う。
@curatorshinya 明治期に欧米列強による植民地化を避けつつ近代化を成し遂げるには、国家神道が必要だったのかもしれないけれど、戦後に神仏分離が回復できず、靖国同様そのまま問題が放置されてしまっている。近代化の過程で神仏分離してしまったことが、私にはオウム事件の最大の遠因の様に思える。
@curatorshinya もしも日本はこれからも立憲君主制で行くのであれば、日本の天皇制を大陸との連続性の中で捉えることが必要になるだろう。その場合、本居宣長的な歴史観は、揚棄される必要があるのではないか?
@curatorshinya 江戸時代まで古事記はほとんど読まれることもなく、読むすべもはっきりしなかった。何故本居宣長は、古事記を読もうとしたのだろうか?それは本来的な意味での「日本」を立ち上げる際に、日本書紀では不十分だと考えたからではないか?
@curatorshinya 六神通とは六を開いて前三三後三三であり、即ち無限波羅蜜を意味する。また六波羅蜜とは六度(ろくど)とも呼ばれ、ブッダを目指す菩薩が修めなくてはならない6つの実践徳目のことで、般若波羅蜜をもって完成する。
@curatorshinya 大乗仏教の四大がアリストテレスの形而上学の四大元素に一致するのは、アリストテレスの教え子であるアレキサンダー大王の軍勢が築いたグレコ・バクトリア王朝からガンダーラ仏と大乗仏教が誕生したことの一つの証拠とは言えないだろうか?
@curatorshinya 「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯し始めて以来、文明国と呼んでいる」 - 岡倉天心
@curatorshinya フレディ・マーキュリーがたい焼き好きだったのは、そこに遠く日本にまで伝来した自らの宗教、ゾロアスター的なるものを見出したからなのかもしれない。また子門真人がたい焼きの姿に日本人の姿を重ね合わせることができたのは、クリスチャンだった彼の慈悲深さとマイナー性故かもしれない。
@curatorshinya プロティノスの言葉 「到るところにあるが、どこにもない」は、まさに名言だと思う。私はこの言葉から、ナーガールジュナの大乗仏教へと変化・発達したプラトン哲学が、アレキサンドリアに逆輸入されて新プラトン主義へと発展したのではないか、と感じてしまう。
@curatorshinya 人体が僅かに光を放っていることと、輪廻転生には何か関係があるのではないか?また白川静が指摘した、柿本人麻呂の詩の中に見られる、天体の運行と魂の定着の儀式には、何らかの因果関係があるのだろうか?
@curatorshinya 八咫烏と同一視される三足烏とは、烏(からす)が黒いが故に目が一つに見えてしまうことから、そのバランスを取る意味で烏に三本の足を持たせたとは考えられないだろうか?つまりある種、方輪となってしまった片目の烏に足を足して、目と足の合計を合計4にすることが神話的に重要だったのではないか?
#仏教 #世界平和修行 #世界平和非暴力非差別 #buddhism #furanonaritasan #hokkaido #japan #ANTISECT #WORLDPIECE #悩み相談 #セクシャルマイノリティ #LGBT
※現代美術が、仏教(大乗仏教・日本仏教→密教→真言宗)と絡めて評論される時代に……
@curatorshinya 道元は有情(衆生)を心として示すことによって、衆生・悉有・仏性・一悉である衆生を統一している。これはつまり唯心弁証法の円環的なアウフヘーベンである、と石井恭二は指摘している。
@curatorshinya 仏教の空における無限の概念を理解する為には、1つの線分を3等分し、真ん中の線分を取り除く操作を繰り返し行なった カントールの無限集合を説明するためのイメージが、中心から放射状に広がっているのだと考えると理解し易いと思う。 asahi-net.or.jp/U+203Esi4k-nkmr/jda…
@curatorshinya 「いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆえに。しかあれば、心これみな衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。」- 道元『正法眼蔵』
@curatorshinya 植民地を沢山持っていたヨーロッパの国々は、その後ブーメランの様に植民地化した国々からの不法移民その他で大変なダメージを受けているけれど、ひるがえって日本は、自らが植民地とした場所に対して、自覚が無さ過ぎる様に思う。
@curatorshinya 明治期に欧米列強による植民地化を避けつつ近代化を成し遂げるには、国家神道が必要だったのかもしれないけれど、戦後に神仏分離が回復できず、靖国同様そのまま問題が放置されてしまっている。近代化の過程で神仏分離してしまったことが、私にはオウム事件の最大の遠因の様に思える。
@curatorshinya もしも日本はこれからも立憲君主制で行くのであれば、日本の天皇制を大陸との連続性の中で捉えることが必要になるだろう。その場合、本居宣長的な歴史観は、揚棄される必要があるのではないか?
@curatorshinya 江戸時代まで古事記はほとんど読まれることもなく、読むすべもはっきりしなかった。何故本居宣長は、古事記を読もうとしたのだろうか?それは本来的な意味での「日本」を立ち上げる際に、日本書紀では不十分だと考えたからではないか?
@curatorshinya 六神通とは六を開いて前三三後三三であり、即ち無限波羅蜜を意味する。また六波羅蜜とは六度(ろくど)とも呼ばれ、ブッダを目指す菩薩が修めなくてはならない6つの実践徳目のことで、般若波羅蜜をもって完成する。
@curatorshinya 大乗仏教の四大がアリストテレスの形而上学の四大元素に一致するのは、アリストテレスの教え子であるアレキサンダー大王の軍勢が築いたグレコ・バクトリア王朝からガンダーラ仏と大乗仏教が誕生したことの一つの証拠とは言えないだろうか?
@curatorshinya 「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯し始めて以来、文明国と呼んでいる」 - 岡倉天心
@curatorshinya フレディ・マーキュリーがたい焼き好きだったのは、そこに遠く日本にまで伝来した自らの宗教、ゾロアスター的なるものを見出したからなのかもしれない。また子門真人がたい焼きの姿に日本人の姿を重ね合わせることができたのは、クリスチャンだった彼の慈悲深さとマイナー性故かもしれない。
@curatorshinya プロティノスの言葉 「到るところにあるが、どこにもない」は、まさに名言だと思う。私はこの言葉から、ナーガールジュナの大乗仏教へと変化・発達したプラトン哲学が、アレキサンドリアに逆輸入されて新プラトン主義へと発展したのではないか、と感じてしまう。
@curatorshinya 人体が僅かに光を放っていることと、輪廻転生には何か関係があるのではないか?また白川静が指摘した、柿本人麻呂の詩の中に見られる、天体の運行と魂の定着の儀式には、何らかの因果関係があるのだろうか?
@curatorshinya 八咫烏と同一視される三足烏とは、烏(からす)が黒いが故に目が一つに見えてしまうことから、そのバランスを取る意味で烏に三本の足を持たせたとは考えられないだろうか?つまりある種、方輪となってしまった片目の烏に足を足して、目と足の合計を合計4にすることが神話的に重要だったのではないか?
#仏教 #世界平和修行 #世界平和非暴力非差別 #buddhism #furanonaritasan #hokkaido #japan #ANTISECT #WORLDPIECE #悩み相談 #セクシャルマイノリティ #LGBT