6月26日(木) シルバー講座でお隣の米子市探訪に行きました
天気は晴れ、気温26~28道路の照り返しでもっと暑く感じるかな?
と思っていましたが、以外や以外元町旧商店街はほとんど風が
ありませんでしたが、他は適当に風があり歩くには丁度良かったです。
皆生海岸は、これくらいの暑さならホント心地よい風で気持ちヨカッタですヨ!!
米子は、戦国時代吉川広家が治めていました。徳川時代に伯耆の国の領主に
封ぜられ米子城を完成させた
「中村一忠」以降、境港・出雲・鳥取方面、
さらに、山陽方面にもつなぐ山陰随一の交通の要衝だったこともあり、
「山陰の大阪」と呼ばれる
「商業都市」として発展してきました。
山陰地方の昨今、厳しい過疎化・少子化の流れの中、米子市は
1970年代から人口が増加し、現在は15万弱の人口になっています。
しかし、街を見てみますと個人商店が減り、郊外型大型店舗が賑わうという、
他所と同じ構図になっています。市内アーケイド街も(今は一部アーケイドなし)
残念ですが多分にもれず
「シャター通り」の様相となっていました。
現在、それを打破しようと街を活性化する活動が進んでおり、
道路両側に緑を増やしたり、若者向けの店舗を増やしたりと、
昔の?記憶とは全く違う街並みになっていました。
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* 想い出? つぶやき?
※ 私たちの若いころは、夜勤明けは映画、土用夜市が定番・決まりでした。
買い物だと言えば米子の商店街に行ってウロウロ、キョロキョロしながら歩いて
「やよい」か「商店街」で買い物をしていました。
高島屋はありましたが、高級品・高価な品々が多くてね
私はあまり利用をしてないですね。
マァー!! たまーに、 最上階の大衆食堂くらいでしたかねー・・・
商店街は、昼間も結構人通りが多かったですが、土用夜市はもうなかなか前に
進めないくらいの、ひと・ひと・人でしたね ~!!
昔が、なつかしいですね~
皆さん!!
半世紀・50年もたってましたがね ~
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米子の元町商店街から半世紀・50年前の思いと重ね合わせながら変貌の町並みを
朝日町、通りぬけからルート9に出て、耐震工事が完了しオープンの外観が
グラウンドピアノ型米子市公会堂前の芝生で休憩後、収容1120名のメーンホールを
見学させてもらいました。
そこから、お昼「食事処・海王」までをだべりながら食べんがために、頑張り
歩きました。
テーブルについて今季初回ですので自己紹介をして、定食を話をしながら完食。
13時10分まで休憩で、横になる人・2~3人でお話をする人・色々
公会堂メーンホール 今回の食事処
休憩後はバスで移動、皆生海岸遊歩道を皆生温泉神社・有本松太郎像・トライアスロン発祥像・
護岸工事経緯・重要性・移り変わりなど等を見て皆生公園で小休止をしながらの散策
【皆 生】町名の由来
天正年間は「
海池村」(うみのいけ)で「
かいけ村」でしたが、
江戸末期の1867年に、「
皆生村」(みないきる)「
かいけ村」に
改名をされたそうです(皆生温泉神社に記載)
有名な皆生温泉が発見されのは明治の初めの1900年、地元の漁師が偶然に発見
したのが最初と言われ、その後「有本松太郎氏」によって開発がすすめられ、
発展をさせていきました。そして約7年で山陰最大級と言われる、現在の
「皆生温泉」の基盤を築きました。
温泉の歴史は100年ちょっとですので、比較的新しい部類になると思います。
しかし、それが古い歴史の趣のある温泉街とはまた一味違った、少し猥雑な
雰囲気を味わえる温泉街に、今はなっている気がしますが、皆さんは?・・・・
また、鉄人レース・トライアスロン発祥の地としても有名で、回を重ねるごとに
申し込みが多くなり、全国から沢山の皆さんが参加される大きな大会で真夏・7月の
一大イベントでも有名ですよね
これからの時節は、水分補給と休息をとりながら・・・・・
では、この辺で失礼をいたします