蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『成醫會講習所規則』 (明治)

2021年02月28日 | 医学 1 医師、軍医、教育

   

    成醫會講習所規則

第一條 當所ハ一般醫學ヲ講習シ實地醫術ヲ研究スル所トス
第二條 生徒ヲ別チテ定期生及定期外生ノ二種トス
第三條 定期生ノ新入ハ毎年九月十五日ト定メ定期外生ハ臨時入學ヲ許ス
第四條 生徒ハ十七歳以上ニシテ尋常中學科ヲ卒業シ若シクハ之ニ均シキ學力ヲ有スル者タルヘシ
第五條 入學スル時ハ左ノ書式ニ做ヒ身元引受證書ヲ差出スヘシ 

 用紙美濃紙二ツ折
  〔上の写真参照〕

第六條 修學年限ハ四ヶ年トシ而シテ其一ヶ年ヲ冬夏ノ二期ニ分チ冬期ハ毎年九月十五日ニ始マリ翌年三月三十一日ニ終ル夏期ハ四月十五日ニ始マリ七月三十一日ニ終ル者トス
第七條 學課ハ左ノ如シ
 第一冬期  理學  化學   解剖學  生理學    實際解剖
 第一夏期  動物學 植物學  實際化學 實際組織學   
 第二冬期  解剖學 生理學  理學温習 化学温習   實際解剖
 第二夏期  藥物學 藥性學  病理學  産科學    實際外科
 第三冬期  内科學 外科學  臨床講義
 第三夏期  眼科學 婦人科學 臨床講義 病理實際
 第四冬期  内科學 外科學  臨床講義
 第四夏期  衛生學 斷訟醫學 臨床講義 外科手術演習
第八條 實際醫術課業左ノ如シ
    第一手術室ニ於テ施術傍觀二ヶ年
    第二外來患者診察所ニ於テ診察傍觀六ヶ月
    第三外來内科患者クヲーク三ヶ月
    第四外來外科患者ドレッソル三ヶ月
    第五入院患者クヲーク及ヒドレッソル六ヶ月
    以上ハ大中試驗成績ノ順序ヲ以テ習修セシムル者トス
第九條 修業中受ク可キ試驗ハ左項ノ如シ
    第一小試驗 此試驗ハ毎月臨時ニ敎官之ヲ行フ
    第二中試驗 此試驗ハ毎年冬夏ノ二期即三月及七月終講ヨリ二週日ノ後ニ教官之ヲ行フ
    第三前大試驗 此試驗ハ一期半即就學ヨリ一ヶ年半ノ後ニ敎官之ヲ行フ而̪シテ其科目ハ〇理學〇化學〇解剖學〇生理學〇組織學ノ五科トス
    第四後大試驗 此試驗ハ第四期即チ就學ヨリ四ヶ年ノ後チニ敎官之ヲ行フ而シテ其科目ハ〇藥物學〇病理學〇内科學〇外科學〇眼科學〇産科學〇婦人科學〇斷訟醫學〇衛生學ノ九科トス
第十條 大中試驗ノ成績順序ハ既往試驗ト當試驗ノ成績點數ヲ合算シ其多寡ニ由リテ準定ス但シ一学期中一日モ怠ナク出席スル者ハ大中試驗ノ成績點數百點ニ付五點ヲ附加スヘシ
第十一條 試驗問題ノ應答ハ小試驗ニ在テハ書答或ハ口答セシメ大中試驗ニ在テハ書答及口答セシムル者トス
第十二條 大中試驗ニ於テ及第格例及其等級ヲ定ムルヿ左項ノ如シ
    第一各科全點數ノ十分ノ四以上ヲ得テ而シテ各科ノ點數ヲ合算シ全點數ノ十分ノ八以上ヲ得タル者ヲ一級トス
    第二各科全點數ノ十分ノ四以上ヲ得而シテ各科ノ點數ヲ合算シ其全點數ノ十分ノ六以上ヲ得タル者ヲ二級トス
    第三各科全點數ノ十分ノ四以上ヲ得而シテ各科ノ點數ヲ合算シ其全點數ノ十分ノ五以上ヲ得タル者ヲ三級トス
第十三條 試驗及第ノ者ニ授與ス可キ證書ハ左項ノ如シ
    第一及第證書 此證書ハ大中試驗及第ノ者ニ授與ス
    第二卒業證書 此證書ハ大試驗及第ノ者ニ授與ス
第十四條 大中試驗一級及第者三名ニ左ノ賞品ヲ授與ス
    中試驗及前大試驗
     一等 冬期 金五圓ニ當ル書籍或ハ器械ヲ賞品トス
        夏期 金三圓右同斷
     二等 冬期 金三圓右同斷
        夏期 金貳圓右同斷
     三等 冬期 金貳圓右同斷
        夏期 金壹圓右同斷
    後大試驗
     一等 金拾五圓ニ相當ノ書籍或ハ器械ヲ賞品トス
     二等 金拾圓右同斷
     三等 金五圓右同斷
 第十五條 疾病ニ因リ出席シ能ハサルトキハ必其旨届出ツ可シ
 第十六條 學期中定式休業ハ毎年祝祭日日曜日及四月一日ヨリ同十四日迄八月一日ヨリ九月十四日迄十二月廿五日ヨリ翌年一月七日迄トス
 第十七條 入學ノ際束修金壹圓五拾錢ヲ納メ且毎期左ノ授業料ヲ前納スヘシ
     冬期授業料金拾圓   夏期授業料金五圓
 第十八條 前條ノ如ク毎學期授業料ヲ前納シ能ハサルモノハ身元引受人ヨリ左ノ書式ニ倣ヒ分納證書ヲ出シ夏期ハ四月壹圓五月六月各壹圓五十錢七月壹圓〇冬期ハ九月十月十一月十二月一月二月各壹圓五拾錢三月壹圓ノ割ヲ以テ分納スルモ苦シカラス

  用紙美濃紙
   〔上の写真参照〕

 第十九條 定期外生ノ授業料ハ前條ノ割合ヲ以テ入學ノ月ヨリ納ムヘシ
      但シ届濟ノ上全月欠席スルモノハ授業料ヲ徴収セス
 第二十條 實際演習ヲナス者ハ其費用トシテ左ノ金額ヲ更ニ納ムヘシ
     一實際化學   一期  中 金壹圓五拾錢
     一實際組織學  一期  中 金壹圓
     一實際解剖演習 一屍体ニ付 金六圓(八人乃至十二人ヲシテ一屍体ヲ分擔セシム)
     一實際病理學  一期  中 金壹圓
     一手術演習   一屍体ニ付 金六圓(八人乃至十二人ヲシテ一屍体ヲ分擔セシム)
 第二十一條 生徒昇校之際ハ必ス成規ノ帽ヲ冠シ可成制服ヲ着スヘシ
 第二十二條 本所生徒ノ服ハ左ノ如シ
     一冬服ハ紺色ノ、セルヂ或ハ、小倉織ヲ用ヒ裁制ハ、長ジャケットヽス
     一夏服ハ鼠色、或白色小倉織、或ハ、リン子ルヲ用ヒ裁制ハ冬服ニ同シ
     一外套ハ紺色ノセルヂヲ以テ製ス
     一帽子及徽章ハ別圖ノ如シ  (圖式ヲ略ス)


『日本女醫會雑誌』 日本女醫公許五十周年記念號 (1936.6)

2021年02月26日 | 医学 1 医師、軍医、教育

      

  Japan Medical Women❜s Journal
    本邦女醫之機關
  No.73  日本女醫會雜誌 第七十三號
        日本女醫公許五十周年記念號
      日本女醫會

〔口絵〕 
 ・本邦女醫の嚆矢故荻野吟子女史と其筆蹟

 記念祝典の際に於ける私の所感 ‥‥ 會長       吉岡彌生
 五十周年記念號に題す     ‥‥ 副會長 醫學博士 福井繁子

 女醫會の歷史を囘顧するに、所謂天の時、即ち時代の要求によって、周期的な、發展向上を遂げつゝある事は、百般の事業が社會狀勢の推移に伴ひ各發達せると其軌を一にして居ります。
 抑々我國に於ては、昔より女流にして、醫業に從事せし者、其數少なしとは云へ、全國的に、患者の治療に、從事せられたる事は疑なき事實であります。
 筆者の淺見寡聞を以てしても、我大阪に於ては、徳川時代に於て板倉周防守居城の時、其の女難産の際に召出されたる女流産科醫佐伯氏の如き、敏腕果斷の婦人にして、當時惱み深き産婦をして、克く健全なる愛兒を擧げしめ、其功により名を釆女と命ぜられ、爾來幾星霜子々孫々佐伯釆女として今日に到り、現に産科醫として尚ほ盛業を持續せられつゝあるが如き、又筆者の郷里に、錦織と云へる女流産科醫あり、郷黨の信頼厚く、殆んど全縣下に名聲を博し、患者門前に雲集せし等其例尠からず。
 當時日本醫界に於ては、醫育機關等存する筈なく、只名聲ある、醫家の門下として、數年間薫陶を受けたる者、一個の醫人として、門戸を開放せしものなりしを以て、勿論醫籍登錄等の事は絶無なりき。斯の如き狀態なりしを以て、明治初年に於て、醫師法制定を見るに至る迄、産科醫として、女醫の存在せし事は嚴として明なり。
 明治初年、時勢の赴く處、東京帝國大學卒業並に内務省の檢定試驗を經たる所謂西洋醫を以て、一般治療に當らしむるに至りては、在来の開業醫師は漢法醫として、主に現地開業醫の免狀を附與せられたるものと思はる、是等時勢の變遷に伴ひ、一般民衆は西洋教育を受けたる、新進の医師を歡迎するに至りたるを以て、女流者も亦之に追從せざるを得ざる大勢即ち周期に遭遇、刺戟せられて洋醫としての研究勉學に沒頭邁進せざるを得ざりしは必然の事なりしなり。
 此の時に當り我等大先輩荻野吟子女史は、此の周期到着に際し、克苦勉勵專心克く萬難を排して此の天與の時を把握し、女流にして、始めて醫籍に登錄せらるゝの大業を完成し、以て在來の女流醫家の面目を改め、後進に今日の如く、隆々たる光明を、與へられたる事は、吾人道を同じうする者の、日夜感謝措く能はざる所なり。
 爾来東京女子醫專、帝國女子醫專、大阪女子高等醫專等女流醫育機關の相次で開校せられ、現今に至りては、既に同業三千名を突破するの盛況を來せり。然るに、周期即ち、天の時が再び廻り來りて、今より六年前西村庚子氏先づ、學位を獲得せられ、引續き十指に餘る學位獲得者を出すに至れり、案ずるに、約三十年前、宇良田唯子氏は、學位論文を完成し、東京帝大に、學位を要求せられたる事ありしも、當時は未だ天の時到らず、不幸學位を獲得するの榮を得られざりしが、前述の如く、第一の天與期に始めて檢定女流醫家を出し、第二の周期に於て女流の學位獲得者を出すに至りたる如き、是れ皆時運の然らしむる所なりとす。
 來るべき第三、第四、第五の天來時には、必ずや刮目して見るべき、大なる女流醫家の發展向上の遭會すべき事は、疑を容れざる所なり、然れども周期の到來は人力の能くせざる所なれば、徒らに拱手之を待つべきに非ず、日夜斯の道の爲に、奮勵努力して學識を深め、同時に廣く社會の變遷推移を考究し、來るべき周期に備ふるは勿論、惠まれたる時期を克く把握善用すべきは、先輩後進の別なく、我が女流醫界の一般に課せられたる重き責任、大なる榮譽と考ふるのであります。

    日本女醫公許五十周年祝賀會

  式辭     會長 吉岡彌生

 本日女醫公認五十周年記念の催しをいたしますに際し、来賓各位並びに會員多數御出席下さいまして、主催者として、厚く御禮申上げます。
 女醫は昔から全くないのではなく、千代萩の小牧が女醫であったやうにも傳へられ、又了義解と云ふ書を見ると、奈良朝時代に博士が七人の賢明なる娘を集めて、醫術を口述し、内侍所の側にて炙點を行ったと云ふ記錄があり、その後織田豊臣時代にはなかったやうですが、徳川時代には相當ありました。野中兼山の娘野中婉女もその一人で、自分は處女であると云ふので、振袖姿で、然も男の患者の塲合、絲脈を案出したのも有名な話であります。
 又芭蕉の門人度會園女が醫者であった事も見のがせぬ事實で、今深川にその墓碑が殘っています。尚又近くは有名なシーボルト先生の息女楠本いねも女醫でこの方は明治六年まで生存して、宮内省囑託を命ぜられてゐました。
 最初日本に西洋醫學が入りましたのは、明和八年今より一六八年前に杉田玄白、前野良澤、この方々によって、オランダ醫學が學ばれ、引つゞき徳川末期に英米の醫學が入り、明治三年の頃、世界の狀勢を見るに醫學の進歩してゐるのはドイツであると云ふので、ドイツ醫學が學ばるゝやうになりました。その内次々に西洋醫學が盛んになったので、二千有餘年來基礎を固めた皇漢醫が、これに對抗しやうと結束し、一方政府では西洋醫學の長所を認め、科學的に研究された西洋醫學でなくてはならぬとて、これを防ぐ手段として、醫術開業試驗を行ふ制度を設けました。かくて明治九年より各府縣に命じて、地方の狀況に應じて試驗を行ふ事になり、其後制度を改めて、明治十六年内務省だけで、前期と後期にわけてこれを行ふ事になりました。
 私共の先輩荻野ぎん子女史は、若くして結婚し、婦人病に罹り、そのため順天堂病院に入院し、病院生活二ヶ年に及び、この時異性の醫者でなく女醫があったらと痛切に感じ、自ら進んで女醫たらんと希望せられました。
 當時女子の醫學を修むる處なく、初め高等師範の前身竹橋女學校に勉強、第一囘の卒業生として出身、其後醫學を學ぶために、軍醫監石黑忠悳閣下にお願ひして、下谷練塀町に高階經徳氏の經營さるゝ好壽院に入りそこで修業しました。さていよゝ開業試驗を受けやうとすると、女子にその資格がないとの事で、要路の人々を歷訪して、許可を得る事に努力しましたが、要領を得ないので、石黑閣下より時の衞生局長の長與專齋翁に賴んで頂き、又巨商高島嘉衞門氏よりも説いて頂いて、二ヶ年の努力で、やうゝ明治十七年許さるゝ事になりました。女史のよろこびは一通りでなく、私も生前會ひましたが、そのよろこびは口にも筆にも例へられぬと申して居られました。かくて女史は十七年前期試驗に合格翌十八年後期試驗に合格、初めて女子として醫師の資格を得られました。自分の病氣の體驗から、どうぞ醫者になりたいと努力せられた女史の苦心と、石黑閣下並びに長與專齋翁の御盡力を思ふ時、この御三方には何とかお禮を申上げずには居られないと思ひます。
 この内お二人は故人となられましたが、幸ひ石黑閣下は御生存故、ぜひこの席にお招きしたいと思ひましたが、おみ足が惡くて代理の方をお出で頂いた次第であります。
 斯うして荻野女史が女醫になられてより滿五十年、生澤いくのと云ふ人が續いて女醫となられましたが、この人についての記錄はありません。第三になられた高橋瑞子氏は、女子に醫學の門戸を拓く事に大變努力せられました。女史は明治十九年醫師となり、元大工町に開業して、明治二十二年に留學しましたが、婦人の留學は實に珍しい事でした。
 女史は醫學に志しても、女子に入學を許す學校がないので、濟生學舎の開放を賴むべく、舎長の長谷川泰先生に面會を求めんと二日間その門前に立ちつゞけて、やうゝ許さるゝ事になりました。その後慈惠大學の前身成醫會や関西醫學校等でも女子の入學を許しましたがこれ等廢校の後は、濟生學舎のみ女子を入學させました。然しこれも風紀上女子の入學を拒絶する事になりました。當時私は微力でしたが、こゝで女醫の進路が絶えては、折角荻野女史や高橋女史が開拓されたのに殘念な事であると思ひ、生意氣な人間と思はれたかも知れませんが、明治三十三年十二月女醫學校を創設しました。その後濟生學舎も廢校になり、東京醫學校、日本醫學校等に女子入學を許されて居たのも、專門學校昇格のために、これも女子を入れぬ事になり再び女醫學校のみで、女醫を養成する事になりました。
 續いて昭和の時代となって、大森に帝國女子醫專、大阪に大阪女子高等醫專の創立あり、女子の醫學校が三校となり、今や三千六百の女醫を算するに至りました。
 是等女醫は約三分の一は開業、その他は病院又は社會事業の救療に從事し、研究中の人もあり、それゞ活動して居ります。
 今日までの道程を振り返ります時、石黑閣下、長與專齋翁の御盡力と、荻野女史の努力を感謝し、一方會員の皆樣もますゝ責任を完うして世の中に盡さねばならぬと痛感いたします。
 この記念すべき今日の催しに際し來賓の方々にお禮を申上ぐると同時に會員の御努力をお願ひいたし度いのであります。
       ✕         ✕       ✕
 (當日式塲に於て、石黑忠悳閣下並に吉岡彌生女史に左の頌徳表及感謝狀を捧呈せり)

 上の文等は、昭和十一年六月三十日發行の 『日本女醫會雜誌』 第七十三號 日本女醫公許五十周年記念號 日本女醫會 に掲載された一部である。


『濟生學舎同窓會誌』 濟生學舎同窓會 (1938.12)

2021年02月24日 | 医学 1 医師、軍医、教育

        

               昭和十三年十二月發行
  濟生學舎同窓會誌
      長谷川先生追悼會及同窓會大會報告號
          東京濟生學舎同窓會

〔口絵写真〕 
  ・この御肖像は明治四十一年五月コッホ博士來朝の時氏に贈る爲にめに撮影せられ其の殘りし一枚を畑氏に贈られたるもの也〔上の左から二枚目の写真〕
  ・同窓會設立の恩人 大石榮三君の在りし日の面影
  ・昭和十三年十月十五日上野精養軒に於ける濟生學舎同窓會並に長谷川先生二十七回忌法要參列者記念撮影 
  ・谷中永久寺に於ける長谷川先生二十七回忌法會
  ・十一月三日 廣島市醫師會舘に於ける廣島同窓會記念撮影

卷頭言
追懐の辭       陸軍軍醫中將 芳賀榮次郎

 長谷川泰先生は、明治初年に於けるわが國醫學界の巨星であった。當時石黑忠悳、長與專齋、佐々木東洋などの諸氏と名聲並び稱され、日本の醫學に盡された功績は永く沒すべからざるものがある。
 先生ははじめ警視廳に勤め、産婆養成制度を創始せられたりしたが、そこを直ぐやめて獨力で本郷湯島に濟生學舎を創立された。私もたまゝ聘せられて講師となったが、濟生學舎は謂はゞ醫師速成機關である。規定頗る自由何年制とか何年卒業とかいふことがなく、志望によっては同一人で何れの科目をも聽講を許されてゐた。從って勉強家は前期後期の別はあったが、あらゆる科目にわたって講義を聽いたものである。當時は私立出は前述の前期後期の國家試驗があったが、大抵の學生は三、四年位でそれをパスしたものである。稀れには二年半位で全科を卒はった人もある。而して明治九年より閉鎖に至る明治三十六年迄の間に学舎が世に出した醫師の數は實に一萬五千名に及んでゐるのである。常に千名からの學生が居り、まことに旺んなものであった。
 後年、私は獨逸に留學して、圖らずも彼地の大學と濟生學舎の内容の相似たるにほとゝ感心させられたものである。たゞ異る點は、あちらの大學では學課による順序があって、上の講義を聽こふと思ふのには先きの先生の聽講證明を貰はねばならぬことである。長谷川先生が獨逸流を採り入れたものか否かは關知しないが、すべてに窮屈な規則づくめの無いところはそっくりであった。
 先生は学舎創立後、長與專齋氏の後を承けて内務省衞生局長となられ、わが國の醫事衞生制度に企圖されたところも多かったが素々官吏などとは合はない肌合ひから、その椅子を投出してしまはれた。而して今度は郷里より代議士として立たれたが、その議政壇上に於て論ずるや、常に政府が槍玉に擧げられ、江戸っ子辯舌の所謂爆彈攻撃振りは異彩を放ち、政府委員をして冷々せしめ、時の人綽名して本郷鎭臺と稱したものである。
 内に細心を藏しながらも外見頗る豪放磊落、上に強いかはりに下に對しては良かった。當時文部省が種々の規定を設けて濟生學舎へ干渉をはじめたことから意見衝突、先生は忽ち明治三十六年濟生學舎を閉鎖してしまはれたのである。 
 若しそのまゝに經營をつゞけてゐたならば當然醫科大學ともなったものであらうが、然し妥協を全然排せられたところに先生の面目躍如たるものがあったと言へよう。
 何といっても長谷川先生のわが醫學界への貢獻は甚大なものがあり、爵位くらゐは當然頂けたものである。
  官吏の壓迫をぢりゝ受けて、先生や長與專齋氏に始まる開業醫制度が奇胎に瀕せんとしつゝあるのが、現今の有樣であるが、これを見るにつけてもかゝる際に長谷川先生の如き人物があったならばと、今更にして先生を追懐するの情禁じ得ない次第である。  (昭和十三年十二月八日稿)
 
感謝のことば            ‥‥    長谷川保定

 此の度國を擧げての非常時局にも拘はらず、濟生學舎同窓會に於て亡父の二十七回忌法要を營まれ、二百數十名に亙る多數の同窓會員諸彦が會同せられ、私及び一族の者まで御招待に與りました事は、誠に感激の至に堪えぬ處であります。惟ふに近來道念頽廢し、人皆な功利に走り、人情紙よりも薄き時勢に於て、其沒後三十年に垂んとする今日、亡師を慕ふの情斯の如く厚きは、蓋し世間に類例の少ない事と存じます。況んや亡母及叔父順次郎並に物故同窓會員諸氏の法要まで兼ね行はれました御友情の厚きに至りましては、夫れ等諸氏の靈は勿論の事、亡父亡母順次郎叔父の靈も亦た定めし喜ばれる事と信じます。
 今回偶々濟生學舎同窓會誌の發刊せらるゝに當り、私は其紙面を拝借して感謝の辭を述べ、併せて聊か當日の感想を語らせて戴き度いと存じます。
 私は當日の盛會を眺めて、大に歡喜致しました。然し乍ら一面に於て私は物故同窓會員諸氏の事を想ふて、聊か寂莫の感なき能はずでありました。就中痛感致したのは、三年前物故された大石榮三君に對する追憶であります。同君が濟生學舎の職員として寄宿されたのは、年は解りませんが、恐らく私の生れて間もない事で、私の漸く物心が付いた時分に知った同君の顔には、あの人の特徴である鬚がなかったのですから、同窓會諸君の内で生れて初めて知った一番古い人と云へるでせう。廢校の三年計り前、同君は結婚して日本橋に開業せられましたが臨床講義の助手として日々通勤せられ學校の最後まで且つ一番長く勤めた職員でした。故人が同窓會創立者中の最も主なる人物で、且亡父の銅像建設運動の際に當っては、率先寢食を忘れて盡力せられたと云ふ事は、既に皆樣のよく御承知の事と存じますが、前述の如く家庭的に親しみの深かった丈け、特に私は同君を追憶して感慨無量なるものがあります。
 濟生學舎の廢校後、慥か明治卅九年の正月でした、大石君が突然私の處へ見えて、濟生學舎に寄宿した職員其他親しい人丈けで、一夕の會合を催したいと思ふ、就てはおやぢでは何ふ煙たくてゆかぬから、私に代って出席し呉れないかと云ふ事で、私は快諾して早速同君と相談の上、會場をお茶の水寳亭と定めて關係筋に通知を發した處、大石、陸、山方等の諸氏を始め十五六名の人々が來會せられ、一夕の歡を盡しました。其翌年正月にも同處に同じ樣な顔振れの集會を催し、更に四十二年正月には日本橋の平野屋に集會しました。此の時には今迄の顔振れの外、職員でなかった故木村助三郎氏、富田信吉等の諸氏も馳せ加はり、茲に始めて同窓會結成の相談が持ち上り、夫れが段々に成熟して明治四十四年四月常盤華壇に於ける謝恩會の催しとなり、遂には完全なる同窓會の成立を見たのであります。而て其の寳亭や平野屋で共に歡談した諸君の内、二三氏を除くの外殆んど皆物故せられましたので、私は當時の事を憶ふと、此等物故諸氏に對し誠に追惜の念に堪えざるものがあります。
 左りがら私は當時一面に於て、同窓會員諸氏、役員諸氏併に舊講師等諸先生の愈御壯建な御姿に接した時、何とも云ひしれぬ歡喜の念を禁じ得ませんでした。私は茲に皆樣御一同の將來益々御健勝ならん事を祈ると共に、其御厚情に對し、併せて深甚なる感謝の意を述べる次第であります。
 又今回同窓會員中篤志の方々の御盡力によりて亡父の遺稿を蒐めて遺稿集刊行の企てが計畵され其の刊行會より出版する事となりました事も誠に感謝に堪へぬ事で併せて御禮を申上げます。

                         大會委員長
大會を了りて            ‥‥ 東京 松村淸吾
同窓會設立の大恩人大石榮三君を偲ぶ ‥‥ 東京 黑河内金八
                         常任幹事
大會開催の經過及懐舊記       ‥‥ 東京 大野喜伊次 〔下は、その一部〕

 明治維新、草創の際、諸般の制度總て混沌たる時代に於て吾が醫學の制度をして確然百年の大計を立てしめ以て今日の燦然たる時代を現出せしめた事は幾多の先覺者によって成されたものではあるが特に指を屈するは實に長谷川泰先生である。
 當時大學東校(現東大醫學部)が英國醫學を廢して範を獨逸醫學に採るに至ったのは中助敎であった先生が岩佐純、相良知安の兩氏を助けて機略縱横の奮鬪によりて大西郷、參議大隈八太郎を動かして遂に吾が國醫學の基礎を確立せしめたのであった。
 後衞生局長としてはその卓絶せる識見と膽略を以て衛生行政に數多貢献する處あり又代議士としては議政壇上に侃諤の辯を揮ふて政府當局の心膽を寒からしめたなど實に吾が醫事行政に寄與せられたる功績は歿すべからさる處である。更に先生が吾か醫學界に大なる足跡を印せられた事は濟生學舎創立である。
 當時吾が國最大の私立醫學敎育機関であった同校は新進の敎授等が献身的に教鞭を採り天下の醫學生悉く其門に蒐ったと云ふ實に壯觀を極めたもので其の敎授法が期せずして獨逸の醫科大學と軌を同ふした今日の所謂自由教育方式であったと云ふ事も校長たりし先生の先覺に驚かざるを得ないのである。
 其の講議は早曉五時より晩鐘八時迄打續けられ敎室に溢れたる學生は廊下、窓外に新聞紙を敷きて聽講し、電車などの交通機關無き當時市内にても遠隔の地に住せし學生は星を頂きてわらじ履で通學した者もあったと云ふ事で今日の樂學生の夢想だも及ばぬ處である。この熱心なる勉學によりて卒業せし者貳萬五千餘を算し全國都市は素より寒村僻地にも至り或は遠く海外に迄及びて當時新進醫師として各地に於て覇を稱し日本醫師界を縱斷した一大勢力であり、又保健衛生に貢献する處大なるものがあったのである。
 若し同校が今日迄繼續せられたなら恐らく世界有數の醫學の殿堂となったであらうが明治三十六年毎に政府當局と意見を異にし衝突のみして居った先生の大學昇格申請は薄弱な理由で却下の運命を見るに至ったので性來の癇癖勃發して憤然として廢校を天下に宣言し即日校舎を鎖したのは實に惜しむべきであった。
 先生の人格高潔佛典周易にも深き研究あり其の辯論の雄大なるは彼の「傳染病研究所を市内に置くも妨げ無し」の五時間に渉る大雄辯に反對派及當局を辟易せしめて今日の北研を芝區内に設立せしめたるは普く世人の知る處である。 

長谷川先生二十七回忌追悼會及第二十二會同窓會大會の記
   同窓會會則制定         ‥‥  常任幹事 大野喜伊次
大會に参列して所感を述ぶ      ‥‥ 東京 吉岡彌生
敢て靜岡縣在住の濟生學舎出身者諸君に諮る
                  ‥‥ 靜岡縣三島町 大橋春太郎
廣島縣同窓會大會の記         ‥‥ 廣島市 堤長二郎
はしがき          ‥‥ 三重縣宇治山田市 畑嘉聞
民族論               
あれも一時これも一時     ‥‥ 埼玉縣鴻之巢町 河野柳三郎
醫道精神を發揚して醫業報國を志すべし  ‥‥ 靜岡縣小山町 岩田浩
   然らざれば我等の前途は只に滅亡あるのみ
埼玉縣濟生學舎同窓會湯島會に就て ‥‥ 浦和市 戸所龜作  
大阪濟生學舎同窓會淳交會員琴平詣りの記  ‥‥ 大阪 赤塚虎之助
編輯後記          
文藻欄            ‥‥  各地會員
長谷川先生遺稿集頒布の計畵  〔上の写真の一番右〕
同窓會報

 濟生學舎同窓會誌
 昭和十三年十二月廿七日印刷
 昭和十三年十二月卅一日發行
        【非賣品】
  東京市京橋區銀座西三ノ一
 發行兼編輯人 大野喜伊次
 
 發行所 濟生學舎同窓會
  東京市京橋區銀座西三ノ一


「貴志康一氏 渡歐告別演奏會」(1932.6)、「貴志康一歸朝演奏會」(1935.11)

2021年02月22日 | 作曲家 その他



 青年提琴家 
   貴志康一氏 
     -渡欧告別演奏会

 (ベエトオヴエンに捧げる夕べ) 貴志康一氏 レオ・シロタ氏共演

   於 朝日会館  【会員券】 A \ 2.00 B \ 1.00 C \ .50

   12日 午後

 
     
 欧洲に再度の研鑽を重ねて作秋帰朝、以来東京・大阪に屡々その収穫を発表して好楽家の讃嘆を浴びつゝあった大阪が生んだ青年名提琴家貴志康一氏はこのほど愛器ストラデイヴアリスを抱いて第三回目の渡欧の途に就かれることになりました。同氏送別のため鬼才レオ・シロタ氏の共演を得て、こゝに「貴志康一氏渡欧告別演奏会」(ベエトヴエンに捧げる夕べ)を開催致します。
 貴志氏の真摯にして卓抜せる藝術、「鍵盤上の不可能事なし」と謳はれるシロタ氏の神技については既に御承知でありませう切に貴下の御来聴をお待ち申し上げます。

   主催 朝日新聞社会事業団

      -プログラム-

 1 ベトオヴエン ……
       「スプリング・ソナタ」ヘ長調(作品 24)
           アレグロ モルト エスプレツシイヴォ
             スケルツオ
                ロンド(アレグロ マ ノン トロツポ)

 2 ベトオヴエン ……
       「ソナタ七番」ハ短調(作品 30 No.2)
           アレグロ コン ブリオ
             アダヂオ カンタビイレ
               スケルツオ(アレグロ)
                  フイナアレ(アレグロ)
 3 ベトオヴエン ……
       「クロイツエル・ソナタ」イ長調(作品 47)
           アダヂオ ソステヌウト
               フレスト
                 アンダンテ コン ヴアリアツイオニ
                        フイナアレ(ブレスト)

 

 貴志康一歸朝演奏會
    指揮 貴志康一 管絃樂 新交響樂團

  十一月廿六日(火)午後七時半
     於 日本靑年館
     會員券 一圓 二圓 三圓
         プレイガイド・三省堂・當日會塲

 GRAND CONCERT
  BY KŌICHI KISHI
 WITH NEW SYMPHONY ORCHESTRA
  20th.November,
  7.30P.М. Nippon
 Seinenkan
 -hall

 (1)ベートーヴェン
     「コリオラン」序曲
 (2)チャイコフスキイ
     「交響曲 第六番
       (悲愴) ロ短調
 (3)シューベルト
     「未完成交響曲」ロ短調
 (4)ワグナー
     歌劇「名歌手」序曲

異境ベルリンにあって、その名指揮を謠はれた貴志康一の東都
第一回演奏會!! 晩秋靜夜、外苑にこだまする神韻を聽かう!!

 ★彼を指揮者として成功せしめた所以のものは獨特の熱ある態度であって、其の情熱は彈力性に、彈力性は情熱にと、兩者が互に刺戟し合ふ處に發するものである。その演奏には粗豪さがなくリズムは彈力を帶び、楽器群の組成は卓越せる光澤を發揮してゐる。(ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング・一九三四年十一月二十四日紙)
 ★日本人貴志康一氏は伯林フィルハーモニー・オーケストラを指揮し、特にその際、音色に對し驚嘆に價する指揮振りを示した又音色に對すと同樣な卓越せる感覺を以て、器樂を編成してゐることを示してゐる。(ペー・ツエット・アム・ミッターク・一九三四年十二月四日紙)
 ★此の前のフィルハーモニー・オーケストラの日曜音樂會は日獨協會後援のもとに、日本の指揮者貴志康一氏の非凡なる精妙さと極めて確信に滿ちた指揮振りに依り、力強い印象を與へる機會を提供した。(ペルリーチ・モルゲン・ポスト・一九三四年十一月二十四日紙)

 東京 小野ピアノ店 大阪


「細川碧 交響樂的作品發表會」  日比谷公會堂 (1938.12)

2021年02月21日 | 作曲家 その他

   

  細川碧
交響樂的作品發表會

  12月4日(日)夜7.30
    1938
  於 日比谷公會堂

Symphonisches Konzert
     von
 Midori Hosokawa

     曲目

Ⅰ 小組曲 「日本の物語」

   (1)春の月 
   (2)囁き
   (3)日本娘の踊り
   (4)嘆き
   (5)花見行列

Ⅱ ピアノ協奏曲 ハ長調

   (1)アレグロ マエストーソ
       (2)アンダンテ ラメントーソ
            (3)ロンド

Ⅲ メツオソプラノ獨唱
      (オーケストラ伴奏ー邦語にて獨唱)

   (1)二つの歌  作詩 川上如雲
       イ カスタニヱの  ロ 天地に
   (2)歌劇  ” 佛陀 ”   第一幕
       戀のアリア

Ⅳ 交響樂詩合唱付

   (1)明治天皇御製組曲
       アレグロ ー レント ー アンダンテ
        ーアレグロ
   (2)「法の夕」 第二樂章
       アレグロ スケルツアンド
        ー グラーヴェ デイヴヲタメンテ
             マ センプリーチェ
  
    演奏

    指揮
  細  川  碧

   メツオソプラノ
 リヤ フォン ヘッセルト

   ピアノ
  レオ シロタ

   オーケストラ
  新交響樂團

   コーラス
 玉川學園合唱團  
 東京混聲合唱團

     細川碧略歴 

 音樂生活に最初の一歩を踏入れしは東京府立一中在學中同校聲樂擔當梁田貞氏より初めて作曲の手解を受けたるの時に初まり、爾來東京音樂學校本科を經て同校研究科作曲部にありて信時潔教授の許に研究を積み、研究科卒業と同時に文部省在外研究員としてオーストリヤに留學、樂都ウィーンに於て國立音樂藝術單科大學に入學し五ヶ年の研鑽を累ね一九三四年四月同大學優等デイプロームを獲得す。
 其の後二ヶ年の間屡々ウィーン並びにブダペストの放送局より自作品の演奏及び「日本の音樂」に就て講演を爲す。就中故ドルフス墺太利國首相並びに松永墺國公使の開會の辭を以てなされたウィーン・フヰルハモニー交響樂團演奏に依る交響樂詩「法の夕」の放送は彼の最も感激深きものであった。
 指導教授たるウィーン國立音樂學校々長兼國立音樂藝術單科大學々長フランツ・シュミット博士はその二つのオペラ、四つの交響樂等により大形式の作曲家として夙に令名高き人であって、今回演奏の交響樂詩「法の夕」は同博士激賞絶讃を惜しまれなかったものである。
 昭和十年三月歸朝、爾來母校に助教授として作曲理論の敎鞭をとる。

    會員券
¥ 4.00 3.00 2.00 1.00

    前賣所
プレイガイド本支店  有名樂器店

                  本社 濱松市
山葉ピアノ・オルガン  日本樂器製造株式會社
                  支店 銀座七丁目


「支那各省別名表」「各省別名起源略解」 鶴峯生 (1912.3)

2021年02月21日 | 清国・民国留日学生 1 教育、松本亀次郎

  

支那各省別名表    鶴峯生

  各省別名起源略解

 各省別名、或は古名に因る者有り、或は略稱を用ふる者有り、或は名山大川に本づく者有り、就中省城の略稱又は古名に取る者、最も多しとす、本表擧ぐる所、〇符を附する者は、最近官報紙上に用ふる者に係り、其の他は、新聞紙、淸國行政法、宦郷要則等に因りて、之を補ひ、其の疑はしき者は、之を闕く、本文解説は、主として大淸一統志、讀史方輿紀要、廣輿記、皇朝政典類纂、日知錄等の諸書に據る。
 直隸省 略して直省と云ふべからず、所謂直省とは、支那本部二十二行省の、直接淸朝に隸属する者を云ふ、蒙古西藏等の外藩の、間接に附属する者と、區別する所以なり、但し直豫東三省、或は直督等の如く、熟字的に用ふる例は、常に見る所なり、直隷、禹貢兗二州の域、陶唐氏に幽都有り、虞周に幽州有り、春秋戰國の時、燕其の大部分を領す、漢魏に燕國幽州の稱有り、前燕の慕容儁、後燕の慕容垂、亦此に據る、是より以後、燕國燕山燕雲燕京幽州幽燕幽都等の名、歷世迭に用ふ、遼金元明以來北京に都してより畿輔の地と爲る。
 山東省 略して東省と云ふ、東三省も亦東省と略稱す。例へば「吉省同属東省、迥異腹地」「孫寶琦電奏、東省災區太廣」等の類の如し、前者は東三省の略稱にして、後者は山東省の省文なり、塲合に由りて區別すべし、山東の稱、今右に因りて、廣狹の差有り、或は崋山以東を指し、或は太行山以東を指す、今の山東は、乃ち宋の京東西路にして、金改めて山東と爲す者なり、禹貢靑徐及び兗豫四州の域、春秋戰國齊魯の舊城に属す、其の地泰山有り、又泰岱と稱す、四嶽の宗たり、齊省魯省又泰岱の稱有る所以なり。
 山西省 京西太行山の西に在り、省名の起る所以なり、省城太原府は、禹貢冀州の域、周並州に属し、叔虞此に封せらる、初め唐國と曰ひ春秋晋と更め、戰國趙に属し、秦に晋陽と云ひ、太原と云ふ。
 河南省 黄河の南に在り、因りて名づく、爾雅九州に曰く、河南を豫と爲すと、省城開封府は、禹貢兗豫二州の域、戰國の魏、此に都して大梁と云ひ、後周隋唐に、汴州と云ひ、五代の梁及び宋、皆此に都して東京と云ひ、金に南京と云ひ、元に汴梁と云ふ、明に開封府と爲す。
 江蘇省 省城南京は、春秋呉に属し、戰國越に属し、後楚に属す、楚の威王、金陵邑を置く、其の地王氣有るに因り、金を埋めて之を鎭す、故に名づく、三國の呉此に都し、建業と云ふ、晋に建康と云ひ、唐に江寧と云ふ、總督は江寧に鎭し、巡撫は蘇州に治む、故に寧督(或は江督)蘇撫と云ふ。
 安徽省 省城の在る所安慶府は、春秋皖國と爲し、隋に同安と云ふ、皖水中を貫く、故に又皖江と云ふ。
 江西省 大江の南に在り、而して之を江西と稱する所以は、何ぞや、日知錄に曰く、唐の貞觀十年、天下を分ちて十道と爲す、其の八を江南道と云ふ、開元二十一年、又天下を分ちて十五道と爲す、而して江南を東西二道と爲す、江南東道蘇州に理め、江南西道洪州に理む、後人文を省きて、但江東江西と稱するのみと、省治南昌は、黔江に枕み、漢に豫章と云ひ晋に江州と云ひ、宋齊梁陳並に豫章と爲し、唐に洪州と云ひ、南唐都を此に遷し、南昌と云ふ、宋元に隆興と云ひ、明初洪都府を置き尋で南昌と改む。
  附説、江蘇安徽は元と一省たり、初め江南省と稱し、江寧府に治す、康熙六年、改めて二省に分つ、今江蘇安徽江西三省を合稱して兩江と云ふ者、元と江南江西の總名なり、
 浙江省 浙水域内に流る、因りて省名を得、浙水又銭塘江と云ひ、或は之江と云ふ、形を以て名づく、淛は浙と同字のみ、省城杭州府は、春秋呉越に属し、秦會稽に属し、東漢呉に属す、陳に銭塘と云ひ、隋に杭州と云ひ、唐に餘杭と云ふ、宋の高宗、南渡して此に都し、臨安と云ひ、元杭州路と改め、明杭州府と爲す、呉山は杭州府城内俗に城隍山と呼ぶ者有り、即是なり。
 福建省 省治福州府は、周時七閩の地、秦に閩中と云ふ、漢初無渚を封して、閩越王と爲し、此に都す、晋に晋安と云ひ、隋に閩州と云ひ、泉州と云ひ、唐に建州と云ひ、福州と云ひ、長樂と云ひ、宋に威武と云ひ、元明に福州府と爲す。
 湖北省 省城武昌府は、禹貢荊州の域、周の威王の時、楚に属す、楚の熊渠、其の子紅を對して卾王と爲してより、始めて卾渚と名づく、春秋に夏汭と云ひ、秦南郡に属す、漢に江夏と云ひ、三國の呉武昌と云ひ、劉宋に郢州と云ひ、隋唐は卾州と云ひ、五代唐に武淸と云ひ、宋に卾州と云ひ、元明に武昌と爲す。
 湖南省 省城を長沙府と爲す、湘江に臨む、禹貢荊州の域、應天文翼軫の分野、軫の旁小星有り、長沙と云ふ、其地に應ず、周に星沙と云ひ、春秋戰國、楚の黔中の地、昔熊繹此に封ぜられ、熊湘と云ふ、漢に長沙と云ひ、三國の初め蜀漢に属し、後呉に属す、晋に湘州、隋に潭州と云ひ、宋に武安と云ひ、元に天臨と云ひ、明に長沙府と爲す。
  附説 湖南湖北を併稱して、兩湖と云ひ、又湖廣と云ふ、湖廣の稱、元に始まる、元初め湖廣等處行中書省を置き、後河南行省に分属す、明の洪武の初め、仍ほ湖廣行省を設け、九年改めて、湖廣等處承宣布政使司を置く、康熙三年湖南湖北を分ちて兩省と爲す。
 陝西省 陝西の稱、亦古今に因りて變遷有り、公羊傳始めて陝東陝西の稱有り、後漢書郡國志、陝陌を以て二伯の分る所と爲す、即今の河南の陝州是なり、兩晋の時、陝の東西、各都を建つるの地に隨って、之を稱す、西晋洛陽に都すれば、則關中を稱して陝西と云ひ、東晋建康に都すれば、則荊州を稱して、陝西と云ふ、唐の乾元の時より、陝西節度使を置く、陝州以西を指して而して言ふ、宋初始めて陝西路を置く、是に於て潼關以西全秦の地、通じて之を陝西と云ふ、禹貢雍州の域、周王畿と爲し、鎬京に都す、東遷の後、秦に属す、戰國の時、秦咸陽に都す、秦の始皇亦舊に仍る、漢の高帝、長安に都し、改めて渭南河上中地諸郡を置く、後西晋西魏後周隋唐、皆長安に都す、明改めて、西安府と爲す、陝西省、潼關の中に有り、關中又關内の稱有る所以なり。
 甘肅省 禹貢雍州の域、春秋戰國の時、秦及び西羌の地に属す、秦天下を併せて、隴西北地二郡を置く、唐の貞觀元年隴右道を置き、後朔方河西隴右經原諸節度使を分置す、其の地隴山の西に在り、隴西又隴右の稱ある所以なり。 
 新疆省 古へ雍州外の地たり、前漢武帝の時、天山南路に都護校尉を置く、唐の貞觀永徽の盛時、北西安西都護を分設す、而も版籍司徒に登らず、貢賦天府に入らず、駕馭の名有りて、而し開闢の實鮮し、漢より以來、烏孫凶奴鮮卑突厥于闐龜茲焉耆回紇吐蕃準爾等の諸蠻、代る々々此に據り、叛服常無し淸朝に及びて、康熙帝三たび朔漠を征し、雍正乾隆二帝、相繼ぎて大師を興し、之を討平す、爾後始めて淸朝に歸服す、光緒年間新疆省と爲す、新省と略稱するの外、別名を用ふるを見ず。
 四川省 廣輿記に曰く、四川泯江沱江黑水白水四川を取りて、名と爲すと、日知錄に曰く、唐時劍南一道、止だ東西兩川に分つのみ、宋に至りて、益州路梓州路利州路虁州路と爲す、之を川陝四路と曰ふ、後遂に文を省きて、四川と爲すと、後説是なるに似たり、四川禹貢梁州の域、殷周の世に至りて、即廢して置かず、杜佑以爲らく、當時已に蠻夷の國と爲る、牧誓に稱する所、唐蜀羌髳微盧彭濮の人是なりと、夫れ蜀蠺叢國を開きてより以後、西南連山深く阻て天梯雲棧の間に僻處す、地の險を言ふ者、必ず以て唱首と爲す、金牛道を開くに逮びて、肇めて秦の封を啓く、巴蜀の郡縣に列する此より昉まる、省治成都府は、禹貢梁州の域、古より蜀國と稱す、秦に蜀郡と云ひ、漢に廣漢と云ひ、益州と云ひ、蜀漢此に都す、晋に成都と云ひ、錦城と云ひ、唐に劍南(北東劍閣の險有り)と云ひ、南京と云ひ、西川(四川唐季東西兩川に分つ)と云ひ、宋に益州と云ひ、元明に成都と爲す。
 廣東省 日知錄に曰く、廣東廣西も亦廣南東路廣南西路の省文なり、文獻通考、宋太宗至道三年、天下を分ちて、十五路と爲す、其の後又三路を增す、其の十七を廣南東路と云ひ、其の十八を廣南西路と云ふと、廣東禹貢荊揚二州の南裔、周藩服と爲す、戰國の時、百粤と爲し、亦揚越と云ふ、漢初越國と爲す(越粤同字)其の地五嶺の南に在り、故に嶺南と云ふ、唐の貞觀元年嶺南道を置き、至徳元載、嶺南節度使を置き、咸通三年、分ちて嶺南東道と爲し、宋廣南東路を置く、相傳ふ、昔仙人有り、五羊を率きて、此の地に到る、故に又羊城と云ふと。
 廣西省 禹貢荊州の南徼、春秋の時、百粤の地たり、漢初南越國に属し、晋廣州の地たり、唐初嶺南道に属し、後分ちて嶺南西道を置き、宋廣南西路を分置す、省城桂林府に在り、唐に建陵郡と云ふ、故に桂省又建陵の名有り。
 雲南省 禹貢梁州の南境、古徼外西南夷の居る所、戰國楚の莊蹻、西略して其の地に王と爲り、滇國と號す、漢に益州と云ひ、武帝の朝、彩雲南中に見ゆ、雲南の名此に始る、其の地昆明湖有り、古名滇池と云ふ、滇池又滇南の稱有る所以なり。
 貴州省 禹貢荊梁二州の徼外、商周鬼方の地と爲す、戰國の時、楚黔中の地と爲し、漢初南夷の地と爲し、元鼎六年、牂郡を開置す、唐の貞觀四年、黔州都督府を置き、開元二十一年、黔中道に属す、域内烏江中貫す、一名黔江と云ふ、黔省と名づくる所以知るべし。
 盛京省 禹貢冀靑二州の域、商營州と改め、周幽州に屬し、秦遼東遼西二郡を置き、漢初之に由る、省治奉天府は、禹貢靑州の域、商周秦倶に肅愼の地と爲し、漢晋に邑婁國と爲す、唐の睿宗の時、渤海大氐に属し、瀋州を置き、定理府に隸し、遼に興遠軍と云ひ、金に顯徳軍と改め、元に瀋州と云ひ、後瀋陽と改め、明瀋陽衛を置く、淸朝都を建て、尊んで盛京と爲し、奉天府を設く。
 吉林省 古肅愼の地、漢晋邑婁國の地と爲す、後漢之を勿吉と云ふ、唐の貞觀二年、燕州を置き、後黑水府と改め、渤海大氐に属す、吉省と略稱するの外、別名を用ふるを知らず。
 黑龍江省 古肅愼氏の地、漢晋に邑婁國の地と爲す、後魏の時、始めて黑水部有り、勿吉國七部の一と爲す、隋に黑水靺鞨と云ふ、唐時黑水又十六部に分つ、黑省又江省と略稱す、伹江蘇及び兩江も江と略稱することあり、例へば江督は兩江總督の略稱にして、江撫は黑龍江省巡撫の省文なるが如し、塲合に因りて區別すべし。

〔蔵書目録注〕上文中の太字部分は、原文では●が付されていたものである。

 上の文は、明治四十五年三月二十日(中華民國元年三月二十日)發行の雑誌 『燕塵』 第五年第三號 (第四十九號) 北京 燕塵會 に掲載されたものである。
 なお、作者の「鶴峯生」は、当時在北京で京師法政学堂教習をしていた松本亀次郎と推測される。


『雄叫』 第一號 士林莊本部 (1928.10)

2021年02月18日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 

雄叫

〔第一面〕

    宣言 
 
 今や日本國民は對内的にも對外的にも、奴隷解放戰を戰はざるべからざるの秋を迎へた。實に見渡す限り、全世界を荒掠し全人類を支配するものは人間生存の理趣と其の躍進的活歷史の無視否認以外の何物があるか。過去若くは未來を現在に須いんとする錯誤と人間ならぬ物慾偽理とは普く世界を横行して、今の時に値せざる人間と其の世界とを造り出して居る。
 然して今日、人類が嘗めつゝある慘苦と惱悶とを最も深刻に體験しつゝあるものは吾が日本だ。日本を包んで外より之れを絞らんとするものは、老獪なる英米的資本主義、狂妄なる露國的共産主義の双頭の毒蛇である。日本を内より崩壊せんと企つるは、是等の模倣直譯と反動的錯誤とである。然も日本は國際的に、白人專制の世界に於て呪はれたる特殊部屬たり同時に首たる無産階級だ。
 -此の世界的苦悶のどん底にある吾等こそ、選ばれたる人類最後の戰士として解放戰を戰はざるべからざる運命の兒であるのだ。
 吾等は天の道法に則り、人間生存の理趣に基き、物慾偽理錯誤の憎むべき臣妾奴隷及び其等の荒掠によりて人間的一切を抑奪されたる痛ましき多數の人々を匡救すべく、遂に人間奪還の聖戰を戰はざるを得ぬ。
 然して現代人類の是くの如き悲命亡運を轉回すべき最後の戰場は、選ばれたる戰士吾等が立てる日本だ。吾等の誓願は此の日本に於ける現狀打開ー奴隷解放戰の遂行克服なると共に、再建したる日本を旋風的中心とする世界革命戰の遂行にある。
 茲に『日本』を透して普く世界に宣言要求する。-人間生存の理趣を殘賊する一切の錯誤と物慾と偽理と去れ。正義の太陽輝く『光の國』現はれよ。
 頭なき政治家の齷齪、脚なき思想家の喧噪、理なき資本家の横暴、誠なき社會運動家の跋扈、道なき藝術家の獣行に超出して、吾等は吾等に適はしき國民の日本、吾等の日本に適はしき世界を實現すべく、普く戦士を全國に求む。

     士林莊同人

   綱領

人類ヲ正導スベキ則天日本ノ建設
 一切ノ奴隷的思想ト其レヲ根基トスル組織、運動ノ根絶
 國民理想ノ闡明ト其ノ信仰的情熱ノ激成
 國民人權ノ確立ヲ以テ國民國家ノ完成
 人生ノ理趣ニ基ク社會ノ實現
 經濟ノ國家的統制ニヨル國民生活ノ安定向上
 道義的對外策ノ遂行ト其ノ爲メニ軍備ノ躍進的充實
白人種ノ隷從ヨリ全有色人種ノ解放
國家生存權ノ國際的主張
日本文明ノ世界的宣揚

〔第二面〕

    主張  

  人間奪還の戰途に立つ

      一

 人間の生存は單なるパンのみによりて營まるゝものでない。單なる個人主義でゞもない。と同時に個人の一切を否認する共産主義でゞもない。
 人間が他と特異なる点は、一に『よりよき生存』を希求し歩一歩之れを實現して行く所にある。开は『よりよからんとする心』あるに因る。然して此の心はパンのみによりて其の自然的生命の保續をなす所の他の一般生物に對して明かに人間の特別者なることを意味するものである。同時に、不斷なる『よりよからんとする心』が不斷なる『現在に甘んぜざる心』なることに於て、即ち、其の各々の慾求の限りなきことである。此の心は何物と雖も否認することを得ぬ。是れ自己本位、個人主義が人間の心に永存する所以の根本である。然るに、生物の一個である点に於て人間はパンより離るゝ能はざること、生物としての自然的生命を享有せるが故に他と等しく其の生存の境域資源範圍に限界があり制限があること、集團生活を營むこと、等々の幾多の條件は、『よりよき生存』のために斷じて各自の單なる個人的絶對性を其儘に放任するを得なかった。
 斯くて、人間生存を組立つるものは、向上的精神生活でありパンの物質生活であり、個人本位の生活心理であり社會公共的生活心理であり、同一の根據に出でゝ複數なる是等の諸相は有限なる生活環境に對して必然相互の間に秩序と統制とを導びき來りて政治生活を齎して居るのだ。是の生活諸相の諧調されたる所に、始めて人間の眞實なる生活がある。

     二

     三

     四

 嗚呼、吾等は人間なるが故に人間生活をなさんことを熱望する。日本に生を育まれて居るが故に日本國家に國民としての人間生活をなさんことを祈る。然るに現狀正に是くの如し。ー今や吾等は、内外共に是の奴隷の鐵鎖を寸斷し禁制の鐵扉を打開すべく、唯一つ解放戰あるのみである。
 國民よ起て。同志は征旗を押立てよ。
 國内に蔓る資本主義と共産主義とを驅逐せよ。
 人間を奪還して國民日本を建設せよ。
 國民日本を旋風的中心として世界革命に前進せよ。
 
 斯くて、吾人は聖戰を戰ふべく茲に士林莊同人に團結した。ー同志は士林莊に集まれ。國民は我等を支持せよ。

〔第三面〕

    士林春秋 

  不戰条約の成立
  政黨の動揺
  米価暴騰
  思想善導案

 「日本改造法案大綱」
    ポケット型普及版近刊

 著者は吾等が戰ふ聖戰の指導的中心だ。同時に本書は此の著者によりて指示されたる改造方針であり指導精神である。經典である。
 今や時運の大濤狂瀾沖天の勢をあげんとするの時、吾等は本書が普く全國に熟讀理解されんことを切望せざるを得ぬ。少くも同憂同志の人々の懐中不斷に本書の存在せんことを祈るものだ。
 茲に熱烈なる同志田中操氏の幾年血涙の努力に財源を得て、ポケット型縮刷普及版の初版千部を公刊する。從來の型を一變して縮小したのは携帶に便ならしむる意味だ。定價を付して有償にしたのは、此の賣上金を以て更に第二版第三版出版の經費に充當せんとするからである。
 同志は各地書店と協力し各々其の數部數十部を分擔して思想理解の普及、同志の糾合養成、行動の便に資せられたい。廣く賣って戴きたい。
 詳細なる事は、本紙添付の印刷物によって御承知ありたい。尚、必要なる事項については左記宛に御照會の上、萬事遺憾なき連絡の下にそれゞ御協力御奔走あらんことを祈る。
      士林莊本部

〔第四面〕

    消息 〔下は、その最後の部分〕

 一人の同志は少くも卽時新しき五人の同志を作れ。十人の同志を作れ。-混乱が加速度を以て進行する時、吾徒同志はそれ以上の加速度を以て増大されて行かねばならぬ。
 「雄叫」 は聖戰を戰ふべき戰士同人を求めんとする戀文である。全國同志の消息戰況を彼此通ずる書簡である。單に呈示して足るべき吾徒の理想方針信條の集錄である。相互鍛錬のための研究論議の書物である。時に經典である。吾徒戦鬪のための指示書であり訓令文である。
 然も此の片々たる印刷紙は、今の時窮苦の中にある吾等有志の血と汗との結晶ででもある。同志諸君は本紙が負へる使命と有志の微衷とを諒察し同時に吾徒戰線の擴大進展のために、本紙の永續と發展とのために、確實に規定の月額經費を負擔して戴きたい。一と月、ゴールデンバット一個半の節約を以て足るべき負擔に過ぎない。
 同人氏名は逐號紙上に掲載するであらう。參加者はどしゝ本部に御通告ありたい。尚各地の御近況を通報せられたい。
 嗚呼、遂に久しき隱忍自重から蹶起する秋は來た。無限の希望と無量の感慨を以て茲に第一號「雄叫」を送る。

 全國の同志は即時士林莊同人に團結せよ! 一人の同志は即時少くも五人の同志を作れ!
 「雄叫」を支持せよ! バット一個半を節約して國民運動に參加せよ!

    規約

一、士林莊同人ハ目的信條ノ体現貫徹ヲ期ス。
  同人ハ一切ノ艱苦ヲ冒シ肝腦ヲ竭シテ戰フコトヲ誓盟ス。
二、士林莊同人ハ對外責任ヲ負荷スヘキ代表一名ノ外役員ヲ設ケス。各員ハ相互ニ密接ナル連絡ヲ保持シツヽ分ト質トニ應シテ各々其ノ十全ヲ竭スヘシ。
三、士林莊同人タラントスルモノハ參加書ヲ本部ニ送付スヘシ。一地方ニ同人二名以上アル塲合ハ互選ヲ以テ代表一名ヲ置キ本部トノ直接連絡ニ當ラシムヘシ。
    附則
一、本部ハ「雄叫」ヲ頒布ス。同人ハ其經費月額金拾錢ヲ納入スルモノトス。
ニ、特別ノ計畵、事變等アル塲合ハ其都度本部ヨリ告知シ行動ス。

 昭和三年九月三十日印刷 (以印刷代謄寫)
 昭和三年十月 一日發行
     東京市外代々木山谷一四四
  發行者   士林莊本部
    代表   西田税
     東京市芝區金杉川口町二四
  印刷所   士林莊印刷所


「中華民國々民の中日親善觀」 馬伯援 (1919.6)

2021年02月17日 | 清国・民国留日学生 2 著作、出版物、劇

中華民國々民の中日親善觀
       中華靑年會幹事 馬伯援

    ◎日本に對する不滿の原因

 政治的關係より觀て 日本の政府が支那に對してとった政策には色々不滿の點もあるが、其の内で最も甚だしいのは、例の大隈内閣時代の二十一ヶ條問題である。若しあれを提出した人が、他の軍閥であったならば何でもなかったし、又何の問題も起らなかったに違ない。なぜかなれば、軍人といふもの自己の國家の爲めには弱國の土地を侵略するか、強奪するかゞ、あたりまへの職業であるからである。然し日頃口に同文同種を説き、日支親善を叫び、内外共に信用を擅 ほしいまゝ にして居た大隈侯が、斯くの如き口是心非、言行不一致なことをしたといふことは、我々支那人をして、本當に日本を信用することの出來なくならしめた一のことであるし、又日本の紳士の人格をも信用することの出來なくならしめた一のことである。大隈侯に次いで我々の信賴を裏切ったのは、犬養氏である。犬養氏も亦我々の主張に近く、又善良な人格の人ではあるけれども、寺内内閣の時之を助けて支那の軍閥ー軍閥ではない彼等は大泥棒であるーに味方し、張作霖、張敬堯、曹汝霖の如き、惡魔的人間に其暴威を振はしめたといふことは、侵略的主意から出たと云はれても、辯解の辭がないと思ふ。善良な人間を助けることならばよい、人民に利益を與へることならばよい、然し家を燒き、器具を奪ひ、婦女を辱かしめて、殘逆無道の限りをつくした張作霖一派を援助したといふことは人道上から見て果して如何であるか。軍閥に銃器を賣りつけたのは、日本政府である。よし其の賣りつけた理由と、動機は何であったにしても、其の銃器を手にして立ち、暴逆の限りをつくして、無辜の民を悲境に泣かしめたのは彼れ軍閥の土匪一派である。何人と雖も、泥棒は嫌 きらひ である。又何人と雖も自家の娘を愛さずしては措かない。支那軍閥をしてかくの如きの罪悪を犯さしむるに、間接とは云へ尚最大の力があった日本は、また土匪一派と罪を分つべきではなからうか。
 支那人が日本及日本人を信ずることが出來ずして、排日を叫んで立った理由の一は此處にある。山東問題の如きは之に比べると極く小範圍の問題にすぎない。
 以上の如き政治的理由が日支兩國をして離間するの止むなきに至らしめたのも亦、自然の運命であった。然し人道的主義主張が世界を風靡して居る今日であれば、將來に於てはかくの如きの、非人道的なる政府は、追々姿を失ひ、賣國奴と侵略者の醜類が影をひそめて、眞の意味に於ける日支兩國の政治的關係が結ばれることであらうと信ずる。
 國民的關係より觀て 政治的不滿と共に我々支那人の日本人に對して堪えられぬ苦痛は、所謂日本浪人の亂暴狼藉である。馬賊を助けて家財器具を奪ひ去るも彼等である。阿片の密賣をするも彼等である。また聞くも怖ろしいあの嗎啡を賣りつけて、支那國民を精神的にも、肉體的にも破滅させてしまう樣な、残酷なことを敢へてするも彼等である。日本の租借地と云へば、之悉く阿片の密賣地で、日本の政府は税金をとって之を許してある。尚其他に風儀を亂る淫賣婦、賭博、果ては恐喝のいかに多きか。然し問題は之のみではない。日本の軍艦が一度支那の港に入るや、海軍々人は何をするか。物を買っては値切る、金は拂はない、おしまいには撲る、之をしても尚我々に、日本を信ぜよといふのであるか。支那は勿論日本に比して文化の程度が低い。然し一般の智識が今や高くなつゝある。騙すことは一度はよい、二度は駄目である。欺騙の手段は愚者に對するにはよい、智者に對しては駄目である。支那は今は力はないから、何も彼も致方 いたしかた もない、然し内心は絶對に服從しては居ない。
 今や我々は公明正大の手段をとるか、或は泥棒をするか、其の岐路に立って居る。如何に口に日支親善を唱へ、同文同種を叫んでも、其の實際政治に於て、非人道的態度に出て、其の商業取引に於て日本の浪人の如き殘逆無道のことをする樣では、到底將來は悲觀の外なない。靑島問題にした處で、日本は支那に靑島を還すつもりには相違ない、然しそれは何んであるか、恐らく血も肉もすゝりとった形骸に過ぎないであらう。靑島をとるもよい、山東をとるもよい、然しそれは一部資本家の懐を肥すだけのことで、恐らくは一般の利益とはなるまい。支那四百餘州は無限の寶庫である。原料はいくらでもある、その原料を日本が輸入し、加工製作して輸出したならば、どんなに利益であるか知れない。それには日支間の感情の融和といふことゝ、自由貿易自由競争を奬勵して、あらゆる不正不義の呪ふ可き惡辣手段から救ふといふことが第一の問題である。今や世界は國際的に眼覺めつゝある。よし實行までとは行かなくとも、人道が口にせられつゝあるの時である、日本だけが、國際的關係から離れて、單獨に行動し、存在するといふことは到底あり得なくなって來て居るのである。

    ◎支那留學生問題

 支那留學生が、國民として日本から受けた屈辱と、日本に對する不滿は前述の通りであるが、尚學生自身が現在日本にあって、直接身に感じて居る不滿足も、決して少くはない。今その重なるものをあげると、第一にそれは支那人を、頭から輕蔑するといふことである。勿論それは日本人の無意識な行爲であるかも知れないが、我々から見て傲慢と思はれる點が随分ある。例へば先日の田中陸相の支那陸軍大學留學生招待會の時の如き、陸相が「靑島は日本にとってしまっても當り前である、お前たちが不滿足に思ふのはいけない」と、いふ樣なことを、我々に敎へる樣な態度で云った。之では誰も滿足するものがない、悉く皆反感を抱いて散じた。此の會なぞは、表面は非常に感情の融和が出來た樣に、思はれたかも知れないが、結果は全くの反對に終った。
 日本の警察官の態度も、餘りよくないと思ふ。勿論日本の巡査は、多くは無學の人で、日本人に對してすら官僚的威嚴を示さうとする種類の人であって、それを充分知悉して居る我々には、何等の痛痒もないけれども、年若い支那の學生が初めてあゝした不親切な取扱いをうけると、矢張り反感を抱かずには居られない。
 下宿屋の待遇もいけない。女中は不親切で、主人は冷酷である。貸家を探さうたって、支那人と見れば高値をふく。街に出て買物をし樣とすれば不法な暴利をむさぼられる。道を歩いては小供にまでチャンゝと犬ころの樣に馬鹿にされる。學校に行っては先生に講壇から罵倒輕蔑されるまでで只苦しめられる爲めに來た樣なものである。實物の規箴は敎育上の一番よい方法である。在留の支那學生が日本の對鮮學生の壓迫を目睹親見して非常に傷心して居る。又日本の憲兵の朝鮮に於ける行動も、平素朝鮮學生からきいて居る。之等はつまり日本政府に對しての不滿足の點である。問題は勿論、今は差細なことであるかも知れない。然し支那人は決して其の輕蔑せられたことを忘れない國民である。將來に於ける影響は決して單純なものではないことゝ思ふ。要するにそは一般人の道徳問題である。又智識問題である。決して忽 ゆるがせ にすべからざる事であると信ずる。

    ◎何故英米を慕ふや

 英米が何故に慕はしいかと云へば、それは何となく氣持ちがよいからである。勿論米國などでは、移民問題はあるが、それはかまはない。彼等國民がいかに親切に、我々を取扱って呉れるか、それは只々感謝の外はない。殊に一番氣持ちのよいのは、下宿屋の待遇である。それに學生は仲よく交って助けて呉れるし、先生は手を引いて導いて呉れる。日本の學校では博士にでもなると、仲々時間通り敎室に出て來ない。一寸用事でもあるとすぐに休講する、まるで少しの親切心もない。然し米國の學校では、決してそんなことはしない。毎時間きっと來る。また夜なぞは學生を自宅に呼んで、色々歡待して呉れる。之等のことは、到底日本では見られないことである。かうして受けた有り難いと思ふ感情が、英米を慕ふといふことになって來るのである。

    ◎將來如何にすべきや

 支那には其の祖國を賣って、自家一身の利益を得樣とする、破廉恥漢があると同時に、日本にも己一身の利慾の為めに、侵略的行動を敢へてする非人道的人間がある。然しそれは或る一部の限られたる人間に過ぎなくて、本當に自己を愛し、他を愛し、兩國の前途を憂いて居る眞實の人のあることを私は知って居る。茲に於てか私は思ふ。之等新しきに眼覺めつゝある、若い人々が一緒になって、研究に從事し、永き將來に於ける諒解と、解決を根本的にする以外、兩者の親善を計る方法はないと。
 他の惡しきを知り、之を黙って居るのは不親切であり、また罪惡である。宜しくその惡しき點を赤裸々に先方に云ふべきである。それは一番正直なことである、又相方の誤解を去ることであると思ふ。以上私は自己の信ずる處を簡單ながら正直に述べたつもりである。

 上の文は、大正八年六月十五日發行の雑誌 『實業之日本』 支那問題号 第二十二卷 第十三號 實業之日本社 に掲載されたものである。


『“皇道隊”蹶起事件の全貌』 (1936)

2021年02月12日 | 二・二六事件 2 怪文書

“皇道隊”蹶起事件の全貌

 一. はしがき

 粛正選挙に於ける与党大捷、政局安定の夢を破つて、二月二十六日の早暁、一面白雪に清められた帝都は、突如“皇道隊”の蹶起によつて眞赤に彩られた、岡田首相を始め斉藤内府、渡辺教育総監、高橋藏相、牧野前内府、西園寺公等要路の大官、重臣が襲撃された未曾有の突発事件は九千万国民をして驚愕せしめたことは勿論である、輦轂の下、遂に戒厳令が公布され、蹶起した“皇道隊”は抗勅の汚名を冠されて、二月二十九日、騒擾の帝都は漸やく静穏に帰した、今回の不祥事件が如何に経済界へ大きな衝撃を與へたかは云ふまでもなく、全国の清●市場は一斉に臨時休業を発表し、帝都の経済機構は一時殆んど停止状態に陥つた。
 反乱部隊の大部分が帰順し、帝都の治安維持されて以来経済界は漸く落付を取戻し、懸念された対外的影響も対外為替及び公、社債等は一時低落を見たが何れも直に反撥を示した、然し乍ら戒厳令は未だ撤去された訳でもなく、且つ“皇道隊”蹶起の中心人物たる元陸軍將校の村中孝次-予備陸軍大尉ーを始め西田税-予備陸軍中尉(三月五日東京に於て逮捕さる)ー磯部淺一ー予備陸軍一等主計ー等は行方不明にして、戒厳司令部では捜査中である、從つて謂ゆる“皇道隊”蹶起事件は、全く片付いた訳ではない、茲にその全貌を記述することは未だその時機に至つてゐないとの譏りもあるが、兎に角出来得る限り資料を蒐集して、眞相を伝へ從来の不祥事件と異なる特異性を抽出することゝした、今回の“皇道隊”蹶起は勿論予想し得ざる突発事件ではなく、起り得べくして起つた事変であるが、この点は村中孝次の執筆せる“第一”及び“第二粛軍ニ関スル意見書”並びに田中清少佐手記の“三月事件”及び“十月、十一月事件”の記述を精読すれば、軍部内の動向も判然としまた今次事件の核心を摑み得るだらう。
 
 二.“皇道隊”蹶起の経過概要

 戒厳司令部当局談として、三月四日今次の事件経過の概要は既に発表された、“皇道隊”の兵力は近歩三、歩一、歩三、野重七、所沢飛機銃に届する將兵及び民間側―陸軍予備將校―の参加を合して約千五百名に達し、先づ警視庁、内務省、を襲撃占據し、次いで首相官邸、斉藤内大臣私邸、渡辺教育総監私邸、牧野前内大臣宿舎、鈴木侍從長官邸、高橋大藏大臣私邸等を襲撃した。斉藤内大臣、渡辺教育総監は即死し、高橋大蔵大臣は重傷後薨去、鈴木侍從長は重傷を負ふた、今戒厳司令部発表の経過槪要に少しく補充を加へ二十六日以後の暦日経過を記述することとする。
 
 二十六日午後三時 第一師営戦時警備下令され、甲府、佐倉、高崎の一部々隊に上京を命じたが、市内には二十六日中に入り得ず甲府は代々木に、佐倉は両国河岸に待機した、尚ほ水戸、宇都宮等の部隊にも上京を命ぜられた。 
 同   午後九時“皇道隊”幹部野中、安藤、栗原等と荒木大将会見、蹶起の趣旨及び希望を聴取。 
 二十七日     東京市の区域に戒厳令中一部の施行を命ぜられ、香椎中將戒厳司令官に補せらる。 
 同   午前八時 歩三連隊長渋谷大佐は戒厳司令施行後自決した。歩三の連隊旗は“皇道隊”の歩三將兵が奉持してゐた。 
 同   午前十一時半 上官同僚などの原隊復帰説得奏功し警視庁、内務省占據歩三將兵約五百名は完全に撤退、首相官邸に引揚ぐ、後正午警視庁再び占據さる。 
 同   午後四時 満井中佐、流血を見ず円満解決のため陸相官邸に於て“皇道隊”の要望条件に就き会見 
 同   夜 首相官邸占據の“皇道隊”部隊は丸ノ内ホテル、山王ホテル、幸樂に分宿した 
 二十八日午前十時 軍事参議官は秩父宮殿下に対し奉り殿下の名によつて、“皇道隊”の解散を命ぜられ度き旨要請、殿下は拒絶し給ふ。 
 同        加陽宮殿下は姫路より長距離電話を以つて“皇道隊”解散の意思を問合せ給ひ、“皇道隊”は解散の意なしと奉答
 同  正午“皇道隊”幹部と岡村少將及び橋本欽五郎大佐-三島重砲連隊長-等会談し畫食をとりつゝ妥協殆んど成立してゐたが具体的問題の討議に入つて遂に決裂し物別れとなつた=行動不明を伝へられてゐた“皇道隊”幹部は正午に至つて前夜来会談せること判明したわけである
 同        西大將、阿倍大將は軍事参議官会議後首相官邸に於て野中大尉、安藤大尉、栗原中尉等、“皇道隊”幹部と重要会議を行つたが“皇道隊”幹部等は両大將に対し原隊復帰の命令は軍事参議官としてか、それとも勅命か、陛下の勅命には絶体に服從し敢て御命令に背き奉るものでない、然し軍事参議官としての命令には服し難いと強硬に主張した。 
 同  午前二時 川島陸相は勅命を奉じて香椎戒厳司令官に伝達し、香椎司令官より第一師団長堀丈夫中將に奉勅の趣旨を伝へ更に歩兵第一聯隊長小藤大佐旨を奉じて、“皇道隊”千五百の將兵に勅命を伝へたー勅命は香椎司令官に対して“速に原隊に復帰せしめよ”と下つた趣、“皇道隊”に対して“原隊に復帰せよ”と勅命が下つたのではなかつた、と云はれてゐる。
 同  午後四時 衆議院新議事堂占據の“皇道隊”部隊は万歳を三唱して香田大尉引率の下に原隊へ復帰しつゝあつたが、途中再び引返して山王ホテル、首相官邸に立籠つた 
 同  午後六時 陸軍省は階行社に、内務省は芝警官講習所に、司法省は市ヶ谷刑務省に文部省は文理科大学に夫れゝ一時移轉、戒厳司令部では遂に強行處置を決定した模様。
 二十九日午前六時 勅命に抗した“皇道隊”は遂に反徒の汚名を冠され、戒厳司令部は永田町附近居住の市民に対し避難を命じた、尚ほ前夜来反乱部隊は追々帰順す。 
 同  正午 衆議院新議事堂を中心に警備隊は土嚢を築き機関銃を据へて待機中
 同  午後四時 反乱部隊は首相官邸を占據せる一部分を残して殆んど帰順す 
 同  午後六時 反乱部隊の中心人物野中大尉は首相官邸に於て自決し、帝都の治安は完全に平静に復した。

 斯くて反乱部隊の將兵は何れも原隊に復帰し、民間側参加の村中孝次、磯部浅一の両名は行方不明であるが山本予備少尉は自首し、渋川予備少尉及び西田予備中尉は逮捕されたので“皇道隊”蹶起事件は大体に於て終末を告げた訳である、尚ほ首相官邸で自決した野中大尉の略歴を示すと左の如くである。-村中磯部は二十九日に西田は三月五日何れも逮捕されたものである。
 
 ▲野中四郎大尉(三四才)岡山市下石井四二七の生れにして実父は元下関要塞司令官陸軍少將野中克明にして、その四男、親戚野中類四郎の養子となり、美保子夫人との間に子供三人がある。
  麻布歩兵第三聯隊第三中隊長、第三十六期の卒業にして大正十三年十月二十五日少尉任官、昭和八年八月一日大尉に進級

 三.“皇道隊”蹶起の趣旨

 抗勅の汚名を冠せられ、遂に反徒と見做るゝに至った“皇道隊”は当初国体原理に基く昭和維新を図して蹶起したものであった、ニ十六日午前十時頃東京各新聞通信社に手交して、全国の新聞通信社に通信を強要した蹶起趣意書によっても明かであるが、特に襲撃された重臣、大官に対しては大体左の如き理由によるものである。

   イ.岡田首相
   ロ.渡辺教育総監 
   ハ.高橋藏相
   二.鈴木侍從長及び牧野前内府
   ホ.“皇道隊”蹶起趣意書           
 
 四.“皇道隊”蹶起の特異性

  イ、途中に於て雄図空しく、抗勅の汚名を冠せられ反徒として扱はるゝに至ったが、趣意書に示された如く飽迄大義明分を瞭かにして蹶起したものであり、“五・一五事件”と趣を異にし、“三月事件”とは勿論雲泥の相違ある点
  ロ、ニ十八日岡村少將、橋本大佐と“皇道隊”幹部の会談に於て、具体的問題に入り遂に決裂したが、具体的問題の内容は
   1、私有財産制度の限定 2、疲弊困憊の農村匡救対策の確立 3、重要産業の国家経営 4、重大時局に䖏する強力内閣々員の理想的人物
 等あげられたものゝ如くである、農村匡救対策は別として、私有財産制度の限定、重要産業の国家経営問題等は、從來單に理論の範囲を出でなかったものが、今次の事件に於て遂に新経済国策として表面に押上げられたこと
  ハ、重大時局に処する理想的人物があげられ、経済機構の大改革を、実力行使によって実現を企図したことは、論理的に大権干犯の譏りを受けるかも知れず、重臣、大官等に対する大権干犯の糾弾も国家撞盖に陷る憂なきを得ないが、信念の上に於ては、国体原理に基く昭和維新断行にあったことの意義
 等が抽出される、從って、信念的蹶起の意義は軍人精神の発揚顯現とされ乍らも、これが皇軍の国民皆兵に対する思想的影響性を、反徒としての断罪上に、今後種々の問題を提起して居るのみならず、皇軍志気の上にもまた反映すべきを保し難い、また信念的蹶起の意義は次の事実と共に思考されるべきであらう。
 イ、“皇道隊”は麻布步三の九百名が中心となして居った、全員出動参加せし第六中隊はかつて、秩父宮殿下が御訓練になったものであること
 ロ、勅令が香椎戒厳司令官に下った後に於ても事態収拾に困憊せる軍首脳部は再度秩父宮殿下に対し奉り、“皇道隊”の鎮壓要請論が起った事情
 ハ、“皇道隊”の主張に宮殿下が共鳴された際には更に事態の紛糾拡大する虞ありとして、要請中止となった点
 ニ、奉勅の奏請に際して“皇道隊”に対する勅諭か、戒厳司令官に対する勅令か、には相当議論があったこと
 
 五.“皇道隊”に対する批判

 国体原理に基く昭和維新断行の大旗をかざして蹶起した“皇道隊”の雄図も、中途に於て抗勅の汚名を冠せられ、その最後は、あたら憂国の士も勅令によつて制定された東京軍法会議に於て、反徒として断罪さるゝ運命にある、一千五百の“皇道隊”将兵が身命を賭して実現を念願した昭和維新の断行は、余りにも貴重なる多くの犠牲のみ払つて、再び一回遷延するの已むなきに至つたことは、軍人たると一般人たるを問はず祖国“日本”を憂ふるものら斉しく痛恨するところである。
 去る三月三日以来東京憲兵隊本部によつて反乱將兵の調書作成が行はれて居る、調書作成の衝に当れる一憲兵は“神霊の御加護によつて彼等の言はんとするところを、せめて調書の上に、余すところなく尽さしめ度い”と洩らして居る、茲では“皇道隊”の蹶起に対する批判よりは寧ろ何故彼等の雄図が、昭和維新断行の大旗かざした国体原理に基く信念的行動蹶起であつたに拘らず、中途に於て反乱、逆臣の汚名を冠せられねばならなかつたか、に思ひを囲らして見ることが、より重要であらう。
 1.再度秩父宮殿下に対し奉り“皇道隊”の鎮撫を要請せんとし然も殿下の“皇道隊”に御共鳴遊ばされた場合の事態紛糾拡大を虞れて中止、強行処置に出でことゝ、軍首脳部のスタツフ
 2.戒厳司令官に勅命が下り、“皇道隊”に勅諭が下つたものでないことは既述した、從つて抗勅の罪は一等を減じられる、とは雖も、奉勅の奏請が勅諭であつた場合に想到するとき、二十八日の西、阿部両軍事参議官と“皇道隊”幹部との会見顛末に於て瞭かなる如く、一千五百の將兵をして反徒たらしめずに終つたであらうこと、斯る論理的追求は更に
 3.破壊行動後の建設工作に就て、上層部への信頼過重、皇道派の巨頭たる眞崎、荒木両軍事参議官の奉勅奏請を繞る積極工作と、下級將兵の信頼に答へ得ざりし不信
 4.客観的には皇道派巨頭の眞崎、荒木両大將の総退却、統制派、機関説信奉の側近者等を糾合包含した現狀維持願望の捷利、維新断行の遷延
 輦轂の下、四日間に亘つて襟宸を悩し奉つた“皇道隊”の蹶起は斯くて“五・一五事件”以来の犠牲に更に多くの加重を結果することゝなつた、にも拘らず、妖雲は依然として払拭さるゝに至らなかつた、奉勅奏請を繞つて、この事は明確に云ひ得るところである、帝都の治安は戒厳司令部の強硬処置によつて平静維持確保さるゝに至つたと香椎司令官は発表して居る、果して然るか?“昭和維新断行”は、“皇道隊”蹶起事件によつて一日を遷延されたと解し得るも“遷延”は断じて“解消”にあらざることを附言して結語とする。(終)

〔蔵書目録注〕これらの文中には、以下の文〔全文または一部〕も引用・所収されている。
 
 ・「渡辺教育総監に呈する公開状」〔『大眼目』第三号増刊からの引用〕
 ・「父兄各位へ」中隊長山口一太郎〔その二.精神的後援についてのみ〕〕

 「赤坂歩兵第一連隊第七中隊長山口一太郎大尉が本年の壮丁入営に際して父兄約六百名に述べた挨拶」(昭和十一年一月十日)で、「国体明徴に関して何等誠意のなき現内閣や皇軍を国民の怨荷たらしめようとする高橋蔵相の如き私は憎みても余りあるのであります。」などと述べられているもの。

 ・「“皇道隊”蹶起趣意書」〔全文〕


『支那革命畫報』 (日曜画報臨時増刊) (1911.12.5)

2021年02月11日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

   

     十二月五日發行
    日曜画報 臨時増刊  第一卷 第五十號
  支那革命畫報
         博文館發行

    ▲畵報欄

◎大淸國幼帝と攝政王(及皇族諸殿下)
◎盛装の淸國貴婦人
  ◬慶親王世嗣妃殿下◬肅親王妃殿下◬載澤公妃殿下◬那桐夫人
◎武昌革命軍司令部
  ◬司令部正面◬同上側面◬革命黨首領小像
◎革命前湖廣總督瑞澂と湖北軍幹部 〔上の写真:左から2枚目〕

叛乱前武昌にて撮影せしもの前列向って三人目黎元洪、四人目張彪、六人目瑞澂、五人目及七人目は瑞澂の子息、他は何れも佐官以上の武官
革戰之湖廣總督瑞澂、並湖北幕僚(此像係是未叛亂以前之所撮映也)由前列右旁起算、三黎元洪、四張彪、六瑞澂、五、七瑞督之少君

◎革命爆發前の湖北新軍 〔上の写真:左から3枚目〕
  ◬湖北新軍少尉以上將校全部◬革命の急先鋒となれる湖北砲兵隊

(上)武昌兵營(湖北第八鎭)將校全部本年春の撮影にかゝる前列中央軍服を着せるものゝ右一番目師團長張彪、旅団長王得勝、次は同黎元洪)       
        The Complete officers of the eight division, in Wu-chang.  photographed before the outbreik of the Revolutionalists. )
(上)湖北第八鎭將校全部
(下)武昌砲兵隊(十月十日夜革命の急先鋒となりしは此隊中の二個大隊なり)
        The Artillery in Wu-chang.  
(下)武昌砲兵隊

◎革命第一日の慘狀(其一)
  ◬破壊せられたる武昌總督衙門◬同上總督衙門及督練公司附近の慘狀
◎革命第一日の慘狀(其二)
 ◬破壊し門前に棄却せられたる總督常用馬車◬破壊後淸民恣に衙門に亂入し物品を掠奪し去る
◎黄鶴樓より見たる武昌市街
◎長江艦隊の遁竄
 ◬十月十日夜總督衙門は破壊せられ瑞總督身を以て軍艦楚謙に逃る◬瑞總督楚謙をして武昌を砲撃せしむ◬武昌に在りし淸國軍艦遁れて各國租界附近に至る◬佛租界附近に遁れたる淸國軍艦更に獨租界附近に遁れ各國領事より下航を迫らる◬十四日淸艦各國總領事の要求に依り日本租界下流まで下航す
◎漢陽及漢口續て革軍に歸す
  ◬漢陽製鐵廠及幣工廠◬武昌蛇山砲兵陣地◬兵火を被れる漢口華景街の慘狀◬漢口占領後の革軍市街巡警
◎革軍占領の武昌
 ◬武昌城壁に據れる革軍◬燒燬せられた張彪官邸◬革軍の武昌漢陽門内警備◬武昌市街巡警◬武昌占領後革軍頻りに對岸漢口に騎兵斥候を放つ
◎帝國軍艦の活動
 ◬漢口農務學堂の兵火(學堂は美代法學士十餘年間教習たりし所)◬帝國軍艦隅田外國人救護の爲武昌に急行す◬十月十三日帝國軍艦對馬漢口に着し内外人の大歡迎を受く◬帝國總領事館より旗艦對島に對し連りに信號す◬漢口沖に在る帝國軍艦對島

   ▲上段より
  (一)帝國軍艦隅田外國人救護の爲武昌に急航す(圖中遙かに烟を吐き居るもの即ち隅田、他は淸國軍艦)
  (二)十三日帝國軍艦對島漢口に着し内外人の大歡迎を受く、獨租界より撮影、右は獨逸砲艦)、
  (三)帝國漢口領事館より連りに對島艦に對し信號を發す
  (四)十一月十日江上警備艦より武昌農務学堂の兵火を望む、(學堂は美代法學士の十餘年間教習たりし所)、
  (一)十月十一日帝國軍艦隅田、因欲救護外國人 急武昌(圖中遙々起烟之戰囘即是隅田、其他即淸國戰艦)
  (二)十月十三日帝國戰艦駛到漢口 蒙諸内外人之大歡迎、
  (三)帝國總領事館頻向帥艦對島發行信號
  (四)農務學堂兵火、
  (From the top)
        2. The Tsu-shima, a japanese washipp, arriving at Hankow on Oct. 13th-receives the warm welcome from Japanese and foreign residents there. ( Taken from the German settlement. On ths right is a German warship. )
   3. Signals from the japanese Consulate to the flagship the Tsushima.
        4.  The fire of “ Nomugakudo ” ( a chincse agriculutual school.  )

◎日本陸戰隊の上陸
 ◬十三日日本陸戰隊(對島水兵)漢口に上陸す◬同上

 (上)日本陸戰隊の上陸(對島の水兵百名を以て組織す)(十三日以後列國居留地の聯合防衞任務に當る)
     The landing aspecis Jpanese naval brigade.
 (上)日本陸戰隊上陸於漢口租界、對島艦水兵)
 (下)同上 其後吃水の關係上後に亂地に急航せる龍田、千早、安藝、生駒等の水兵と交代す)
 (下)續 同上
  
◎日本居留地の警備
 帝國總領事館を警護せる日本陸戰隊◬漢口日本義勇隊總員
◎列國の警備(其一)
 ◬十月十二日在漢口に各國對時局會議の爲露國總領事館に會す◬露國水兵の漢口租界の警備◬漢口の佛國陸戰隊
◎列國の警備(其二)
 ◬獨陸戰隊の獨逸租界警備◬米國陸戰隊及獨國陸戰隊の警備
◎武漢パノラマ
◎江岸停車場占領戰(其一)
 ◬革軍先づ電線切斷の爲め露國租界附近に火を放つ◬江岸停車場附近の革軍陣地◬官軍砲兵の奮戦
◎江岸停車場占領戰(其二)
 ◬官軍河南兵の前進◬革軍に用品輸送◬革軍江岸停車場を占領す
◎江岸停車場占領戰(其三)
 ◬江岸停車場附近の砲兵陣地(一)◬江岸停車場附近の革軍砲兵陣地(二)
◎戰後の荒涼
 ◬江岸停車場附近の革軍露出する◬江岸停車場附近の兩軍の累々たる死屍
◎江岸停車場占領後の革軍
 ◬江岸停車場守備隊と其幕僚◬革軍砲彈運搬兵の休養
◎革軍砲兵の作業
 ◬江岸停車場附近革軍砲兵陣地作業
◎漢口恢復戰初まる
 ◬避難船南陽丸より漢口兵火を臨む◬南陽丸より軍艦龍田艦隔てゝ兵火を望む
◎革軍利あらず
 ◬革軍江岸停車場より漢口停車場に退く(一)◬同上(二)
◎革命軍の退却
 ◬日本租界附近を退却しつゝある革軍◬其他
◎漢口停車場に退却せる革軍
◎北軍官軍追撃
 ◬北軍勢に乗じて革軍を追撃す◬北軍日本租界附近に於て革軍砲兵隊陣地を占領す
◎北軍漢口を恢復す
 ◬北軍漢口停車場を恢復す◬北軍漢口恢復後日本租界後部競馬場入口より新馬路に向け砲列を布き、爾後時々漢陽大別山の革軍と砲火を交換す
◎避難船中の觀戰
 ◬十月廿七八日の漢口兵燹を避難船南陽丸より臨む◬淸國軍艦の武昌砲撃(砲臺附近の火災)
◎京漢鐡道線路
 ◬漢口第一鐵橋及附近◬同線路一斑◬停車場附近の客車及貨車
◎動亂雜觀
 ◬動亂爆發後の銀行取付◬革軍軍隊輸送革軍◬斬首せられたる支那人◬其他

   ▲記事欄

▲何の道革命は免れざる運命 犬養毅
▲革命亂の過去現在及び將來 根津一
▲支那革命黨の由来と勢力  平山周
▲支那革命黨首領孫逸仙
▲脅かされたる北京政界の權力轉變
▲革命亂の起因及其經過
▲武漢革命軍の中樞人物

 一 王得勝
 二 湯化龍
 三 黎元洪
 四 黄興

▲情の黄興と孫逸仙     粹菩提
▲「民報」社毒茶事件    近藤京魚 
   ‥‥間牒の奸計‥‥革命黨の密偵‥‥
▲蘆原將軍の革命気焔
▲彈丸雨飛下の寫眞撮映談
▲五十年前の革命大亂
▲革命川柳         馬太郎
▲革命輕口 戰鬪新話    鬼太郎

〔裏表紙〕動亂渦中の支那帝國


「帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料)」 2 (1938.5)

2021年02月08日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

(3)警視廳交換台のスリルを偲ひて

 事件勃發當初、警視廳の交換室にあって、誰よりも先に擴大して行く不安を總身に感じながら、よく職場を護りつゞけた交換嬢たちは、思ひ出の廿六日には職場の休憩室で、茶話會を開き膝つき合せて「あの日」を偲んださうであるが、當時籠城組の一人として悲壯な經驗をした、新監督岸田さがさん(二四)を訪ねて、當時の感想を叩くと、岸田さんはまざゝと事件當時の情景を眼前に想ひ浮かべて、感慨を新にしながら語る。
 「警備係から事件があるといふので、私達八人が杉田監督代理に起されたのはたしか、朝の五時廿分ごろだったと思ひます。警視廳の交換台は全部で十六台ですが、繼續して交換事務を執ってゐた四人と合せて、當時の全員十二名が部署について、大急ぎで各警察署へ、非常招集の通知の連絡をし終ったのは六時五分ごろでした。そのとき十五、六人の兵隊さんが着劒した銃を持って、ドヤゝと交換室へ入って來ました。」岸田さんはしばしば當時を追懐してゐる樣であった。
 「最初はアラ兵隊さんが入って來たわ。といったやうな輕い氣持ちだったのですが、十人位室から出て行って、殘りの兵隊さんがうしろに並んで、交換事務に干渉し始めました。」
 何しろ餘計なことを言ふと劒で突き殺すと云ふので、私達はこれは大變と感じ覺悟をして一層緊張しました」
 「公衆電話で度々何かあったのかと尋ねて來るのですが、何も判りませんと答へる外、どうも出來ないのです。常より歸りが遅くなったので、心配して家から問合せがあっても、何も話すことが出來ません、七時ごろ『一切交換を中止しろ』と命ぜられましたが、石田さん(當時の監督)が兵隊さんに交渉して、『通話を止めたら火事その他の事件があった場合大變なことになるから‥‥‥』と職務の重大な事をお話して、約十五分位で再び連絡を始めました。
 兵隊さんは四五十分おき位で交代して、監視してゐましたが、その後は干渉が一層やかましくなって、モシゝとかハイハイといふ事務の用語以外は、何もしゃべれませんでした」。かうして朝五時から夕方の六時近くまで、恐怖と緊張の十二時間餘が過ぎたのである。其の間食事はどうしましたと聞くと、「食事は前日の夕方食べたきりで、夕方交代して歸る迄カタパンを少し食べただけですが、緊張し切ってゐたので、疲勞も空腹も感じませんでした。夕方五時半ごろでしたか、電話係の事務の宿直員から交代の話があったときは、一同ホットしました。併し佐伯さん達の交代組十八人の顔を見たら、このあとどうなるだらうと思ふと氣の毒で、思はず涙が出て來ました」と岸田さんは當時の複雑した心境を語るのだった。
 「特に印象の深かったのは當日の午後特別警備隊の方が、一人交換室へ來られたことです。あのときはどんなに氣強く感じたことでせう。それでその後もその方に會ふ度毎に二・二六事件のことをすぐ思ひ出します」と語り終って如何にも感慨深さうであった。
  
(4)岡田總理を助けた三憲兵の殊勲記(事件當時の秘錄)

 昨年二月廿六日午後八時十五分陸軍省は左の如く發表した。
 ◬首相官舎、岡田首相即死◬齋藤内大臣即死◬渡邊‥‥
 若しもこの陸軍省の發表が、眞實を物語るものであったとしたら當時の總理大臣岡田啓介氏は、叛亂軍の犠牲として永遠に我等の世界と袂別してゐたのである。ところが事件勃發から三日目、總理の死を嘆いた國民は、意外なる發表を耳にした。廿九日午後四時五十分内閣は左の如く發表したのである。 
 「今回の事件に際し、岡田首相は官舎において遭難せられた旨を傳へられたが、圖らずも今日まで首相と信ぜられてゐた遭難者は、義弟の松尾大佐であって、首相は安全に生存せられてゐた事が判明した」
 思ひ設けない事實!數百人の叛亂軍に包圍されながら、岡田首相はかすり傷一つ受けず、首相官舎を脱出したのだ。奇蹟が行はれたのだ!福田秘書官の發表した「首相脱出の眞相」も、人々を納得させることは出來なかった。新アラビアンナイトとして、アメリカの某新聞が三萬ドルの懸賞金附で、その眞相を究めようとしたのも無理のない話である。では岡田總理救ひ出しの眞相は何うか?
 ー早くも事件の一周年を迎へ、今日まで全く秘められたゐた眞相が、茲にはじめて明かにされた。
 昭和十一年二月廿五日の午後九時ごろ、平常のごとく首相官舎日本間十二疊の寢室に寢た岡田首相は、翌廿六日の明方近くになって突如!深夜の静寂を破るたゞならぬ物音に目を覺ました。
 「重大事件が起ったに違ひない」と直感し、ガバっと跳ね起きた岡田さんは、枕元の時計を見た。時に午前五時✕十✕分である。
 「これはたゞ事ではない!」総理は中庭に面した廊下を通って、女中部屋、浴室に通ずる襖を開いたのである。この時、別棟に泊ってゐた。總理の義弟松尾傳藏大佐は、同じ廊下をすれ違って首相寢室の横に出た。松尾大佐と擦れ違った瞬間も、岡田さんは全くその事に氣づかなかった。官舎警備員(警官)詰所の邊りから響く物音は、次第に大きくなる。日頃思ひ惱んでゐたある豫感が今、事實になって起ったのである!風呂場にかくれた岡田さんは、背後に地響をたてるダッダッダツといふ機關銃の響きを聞いたのだった丁度その頃田園調布、東玉川の私邸に住む憲兵曹長小坂慶助氏(三八)は、同じく廿六日午前五時✕十✕分けたゝましいベルの音を聞いてガバと跳ね起きた。憲兵司令部からの電話ーー只事ではないのだ。小坂憲兵は明治卅三年府下國分寺町生れ、明日は俺の誕生日なので、隊の同僚も集め知己も迎へて賑やかにお祝ひをやらう、と夫人に總ての用意を言ひつけて眠ったばかりの所だった。そこへ急の電話、取るものも取敢ず勤め先の九段下麴町憲兵分隊にタクシーを走らせた。もどかしい一分、二分、五分‥‥‥隊に駈けつけた時、既に分隊長森少佐(現在京都隊長)が部下を集めて訓辭を下してゐる。「如何なる非常時に際しても、憲兵は憲兵本來の使命を果さなければならぬ。私は君達に全信賴をかける‥‥‥」小坂氏は聲涙共に下るこの言葉を聞いて早速自らの使命についた。
 「靑柳軍曹!小坂伍長集れ!」手兵は二人これから受持の首相官舎の警備に乗込むのだ。空は重い雪曇り、寒氣は次第にきびしく、帝都未曽有の恐怖の第一日が明け初めた。小坂慶助曹長、靑柳利之軍曹、小倉倉一軍曹この三氏こそ、岡田啓介大將を死地より救ひ出した、殊勲の三憲兵としてその機略、その沈勇を永遠に記さるべき事件背後の殊勲者である。三憲兵が歩哨線を突破して永田町首相官舎裏門に到着したのは朝の六時ごろ、四圍はまるで死の樣な靜けさ、朝來訪れる者もない官舎裏庭の淡雪は、鋲を打った軍靴に踏み蹂られてゐる。詰所にゐる筈の警官は何處に行ったか一人もその姿が見えない。脚下に見える溜池ー赤坂見附一帶思ひなしか電車、自動車の交通も緩慢である「恐怖におびえる帝都!」不安は益々濃くなる。一歩、二歩多數の銃劒に護られて進む毎に凄慘の氣は深まる。日本間に通ずる廊下を過ぎて、首相寢室と廊下一つ隔て内庭に出た。すると蜂の巢の樣に無數の穴の開いた杉戸を開けて、裏庭を見ると、悲慘!血が雪を點々と染めてゐるではないか。岡田首相は遂にあへなくも逝ったのであるか、やがて首相寢室に入った時、寢具の中には童顔の首相が面に苦悶の色も表はさす靜かに眼をつぶってゐるのを見たのだった。
 「岡田首相は暗殺された!」‥‥‥‥‥これが三憲兵が本部に入れた第一報だった。
 岡田總理の死はも早や一點の疑ひを容れる餘地もなかったのである。ところが靑柳軍曹が首相官舎内の各室の檢索をなし、最後に女中部屋まで來ると、官舎の女中秋本さくさん(三〇)府川きぬえさん(二一) の二人が、何故か此恐怖の場所を去らうともせず、押入の前にうっ伏して嗚咽してゐるのを發見したのだった。その後氣にかゝるまゝに、二、三度女中部屋を覗いて見たが、二人とも前と少しも位置を變へず、同じ場所にじっとしてゐる、その樣子が押入れの中に何者かを匿ってそれを必死に護りつゞけてゐる樣に思はれたので、靑柳軍曹は
 「お前達は其處で何をしてゐるのか」と訊ねると、二人の女中は消え入るやうな怖え聲で
 「御主人の死體を護るため此處に置いて下さい」といふ。その樣子その言葉の調子から軍曹は、この押入の中に誰かを匿してゐると感じたが、今それを氣付かれゝば、兵は激昴してやうやく靜まりかけた事態が、再び惡化するのを怖れ「謎の押入」はそのまゝそっとして置いて、一先づ報告のために分隊に引揚げたのだった。その日の午後交替して首相官舎に赴いた小倉軍曹は、靑柳軍曹から機會あらば「女中部屋の謎の潜伏人物」を確める使命を受け繼いでゐたのだが、叛亂軍の本據たる首相官舎は、そのころからやうやく情勢變化し、邸内深く入ることは非常に困難になってゐた。しかし執拗に機會を狙ふうち、午後五時半折柄忍び寄った宵闇の好機に乗じ、女中二人の泣き伏す部屋に近づいた小倉軍曹は、必死に取りすがる女中を斥けて、押入の襖を開けたーと同時に中から
 「射てッ!」と低いが張りのある老人の聲がし、流れ込む淡い光線に照らし出されたのは、意外にも寢室に横へられてゐる筈の死體の主「岡田總理」ではないか!
 「閣下!僕に委せて下さい!憲兵ですッ!」
 低いが確信に滿ちた強い語氣で小倉軍曹は云った。この一語に岡田總理は凡てを悟ったものか、コックリうなづいた。後は双方無言仰臥した總理には、女物羽織をかけて、襖はまた元通り閉されたのであった。ところがそれから半時間もたった頃、一大事が持ち上がった。と云ふのは行動隊の下士官が兵一人を從へて女中部屋の檢索にやって來たのだ。その下士官は
 「此處には女中二人きりか?その押入の中を調べろ!」と兵に命じた絶體絶命だ!だが小倉軍曹は平靜な態度で
 「先刻一通り調べましたが、異狀は認めませんでした」とはっきり答へた。しかし巡察下士官は「さうか。だがもう一度調べて見よう」と云ひ、突然ガラリと襖を開き、懐中電燈をつけたとパッと蒼さめた總理の顔面が照らし出されたのである。「しまった」と思った瞬間、それを認めた巡察下士官は、
 「何んだ!爺さんが一人居るではないか」といったので小倉軍曹は咄嗟に
 「これは永年官舎に勤めてゐる爺やです、さっき氣絶したまゝ入れて置いたのです」と何氣なく言ってのけると、「さうか、では君に賴むよ」と巡察下士官は輕く聞きながして行ってしまったのであった。冬の日は既にトップリと暮れ、寒々と火の氣一つない總理の寢室では、岡田首相の身代りになった松尾大佐が、肉親の通夜もなく淡い電燈の灯かげで、偉大なる犠牲者の眠りを續けてゐる。それにしてもどうして「生きてゐる岡田首相」を救ひ出せるかを小坂曹長、靑柳、小倉軍曹は、福田秘書官と共に夜っびて救ひ出し計畫の協議に耽ったのだった。焦躁のうちに時間は徒らに過ぎて行く、翌廿七日の午前中も救出工作は遂に徒勞に終った。ところが午後になって總理の近親者に對して、燒香を許すといふことが判った。これこそ待ちに待った機會である。今はもう躊躇すべき時ではない。この燒香者の出入の隙に乗じて首相を救ひ出さうといふことになり、福田秘書官は淀橋の岡田家に電話をかけ
 「廿七日午後二時、特に官舎内で燒香を許すといふことだが、老人ばかり十名を早速寄越して貰ひ度い。女は對絶にお斷りすると申込んだ。この奇妙な電話こそ總理脱出のために打った大芝居だったのである。
 親戚總代の元鐡道技師加賀山學氏は、十一人の老人を引連れ。午後一時三台の自動車に分乗して官舎を訪れた。首相の身邊係りの小坂曹長は、女中に命じてマスク、ロイド眼鏡、モーニングを押入に運ぶ。緊張に蒼白となった福田秘書官が、靑柳軍曹と共に、燒香客を招じ入れる間に、身支度は整った。機會を見て小坂曹長は、廊下を日本間表口まで駈け出し、通用門に向って
 「大變だ!燒香に來た老人が腦貧血で卒倒した早く車を呼べ!」と叫ぶと、通用門を警戒する五名の歩哨が、サット兩側に分れ自動車係小倉軍曹の指圖で、用意のフォード三五年型二一一號がスーツと車寄せに入って來た。福田秘書官に抱かれたマスクの岡田總理は小坂曹長に右肩を支へられ、其のまゝ車中に入り「病院へ」と叫ぶ聲を殘してまっしぐらに溜池に走り下り、自動車の持主淀橋區下落合三ノ一一四六元代議士佐々木久二氏邸に辷り込んだ。かくて岡田總理は三憲兵の機略と、沈勇によって紙一重の死地を脱し、奇蹟的脱出に成功したのであった。(以上秘錄了) 


「帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料」 1 (1938.5)

2021年02月08日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 

 下の資料は、昭和十三年五月一日發行(非賣品)の 『昭和十二年中における社會運動槪況  昭和十二年中に於ける左右社會運動關係者消息一般(四)』 社會思想對策調査會調査 に掲載されたものである。

附錄(四)
 帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料

二・二六事件後一年

     二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の感想集錄

(1)「幸樂」の女將佐藤らくさんの感想談

 雪の思出の日「二・二六」のカレンダーが無殘にひきちぎられてからもう一周年、さまゞの感情をこめた追憶で、無限に膨んだその日、一年の回顧を通じて、刻まれた歷史の齒車の痕を眺める多くの眼に浮ぶものは冷微な批判か、或は言葉もない感慨か、ーそれゞの立場によって異ることだらうが、先づ何よりも溢れるばかりの思出に胸をふさがれるのは、當時あの事件の空氣を最も身近に呼吸した人達だ。その一人赤坂「幸樂」の女將佐藤らくさん(三九)を訪ねてきく。「もう一年ですか、初めはあんな大きな問題だとは思はなかったし、‥‥‥何んだか暮の樣ですわ」と記憶の糸をたぐる樣に投げる眸の彼方、中庭を披露の花嫁さんが美しい晴着姿で靜かに過ぎて行くのが見える。柔かな初春の陽射が、緣側のガラス戸を通して流れてゐる。
 「私の所で忙しかったのは二月廿六、廿七、廿八の三日間、随分賑かでした。退去を命ぜられる迄は少しも恐くなかった。本當にお祭り騒ぎとでもいひたい位で、私の所は三日天下でしたわオホ‥‥‥」と微笑で語る落着には大きな時の流れが感ぜられる。
 「廿六日朝十時ごろ中橋さん(元中尉)が陸軍の自動車でやって來て、お握り五百人分、酒一樽、味噌汁、牛の串燒を注文されました。蟇口を開けたから金を呉れるのかと思ったら、またパチンと閉めちゃいました、私の所は近歩の方も、步三の方もみんな掛けでしたから、安心してゐましたが‥‥‥味噌汁は酒の空樽に入れて、うちの男が四人がゝりで、トラックで首相官舎に持って行きましたみんな何も知らんものだから喜んで行きましてね『これがすんだら、大宴會があるから女將に宜しくいっといて呉れ』なんと云はれ、歸りには官舎のガラスの碎片まで喜んで拾ってきました‥‥‥」「大きな宴會は取消されましたが、その晩は明大ラグビー部の送別會があって、お客との間になぐり合ひがあったり、慶醫會の集まりなどもあって、普段と變りはなかったが、重大ニュースがあるといふラヂオの發表もきかずに、みんな寢ちまひました‥‥‥」
 記憶の斷片が次第に生々とよみがへってくる。
 「兵の宿舎に當てたいから用意して呉れと電話のあったのは、廿七日の夜、下檢分に來た將校さんは、充分に御馳走して呉れ、酒は絶對に出してはいかん。若い連中だから、特に女中さんなどにも注意して呉れ、なんていふので随分御念の入ったことだと、そのときは思ひました。雪はやんだけど殘雪が玄關前に光ってゐる中を、陸軍の提灯をつけラッパを吹いて午後八時ごろ兵隊さんがやって來た‥‥‥お湯に入る。煙草をのむ。手紙を書く。キャラメルをしゃぶるといふ和かなもの、お客さんもどんゝやって來たし、『しっかりやり給へ』なんて兵隊さんの肩をたゝいて歸って行ったりした。若い兵卒の方は一晩中電話の周りをとりまいて『お母さん‥‥‥』『叔母さんか‥‥‥』『をぢさんか‥‥‥』などゝ一晩中寢ないでかけてゐる樣です‥‥‥家にサイン狂がゐましてね、將校さんの全部に字を書いて貰って喜んでゐました。家中の人が一番恐い人だと思ってゐた澁川さんも『俺も書くのか』といひながらサインしてゐました。
 この頃から帳場をつとめる山田君が話に加はった。
 前日に引きかへ、形勢ががらりと變ったのは二月廿八日朝のこといつのまに來てゐたか宇田川さんといふ人が、絶對に兵卒に電話をかけてはいかんと命令するし、家の交換台を私にやらせ、私の後でポケットをガチャゝさせながら立ってゐた。この人は帳場に來たときは、何時も先づピストルをポケットから出して置き、話がすむとまたそれをポケットに入れて歸って行きました!群衆心理とでもいふんですかね女中など一寸も恐がらず、キャラメルかなくなると、兵隊さんに貰ひに行ったりしてゐました。夜の八時ごろ山本さんといふ人が大きな日の丸の旗をかついで醉っぱらってきて『これから世の中が變るから、お前だちは氣の毒だなあ一々宴會などしてはいけないんだよ』などゝいってゐました。‥‥‥」『廿九日のあけ方兵隊さんはいつのまにか引揚げた樣でしたが、うちの者は誰一人知らなかった‥‥‥その朝の八時頃、憲兵と警官がやって來て、眠り込んでゐた私達を叩き起して呉れたので、それからはだしで逃げ出したんです。その後でやって來た兵卒が安藤さん(元大尉)の申付けだからといって、泣きながら新しいシャツ股引、晒布に香水をふりかけて、澤山持って行ったさうですが‥‥」語る聲も靜かに潤んでくる。
 「安藤さんのお父さんは、慶應の英語の先生で、うちの子供は幼稚舎時代から知って居りましたしお氣の毒で‥‥‥」と結んで顔を曇らせた。當時を想ひ起させる唯一の名殘は、別棟になった「アカツキの間」の後小高い丘の板塀の破れ、多分兵卒がこゝから山王ホテルに去って行ったゞらう通路である。

(2)「兵に告ぐ」の一文起草者大久保少佐の感激談

 殘りの淡雪が街々に凍りついてゐる廿九日の朝、市内の交通はピタリと止まり、叛亂軍に對して最後の行動に出でようとして、重苦しい空氣が三宅坂一帶を中心にみなぎってゐる時「兵に告ぐ」の哀調を帶びた名調子が、廣聲機から流れ出た。
 之を聞いた叛亂軍の親達は泣いた。市民も泣いた。併しそれよりも心を打たれた者は。眼の血走った兵達だった。四日間の自分達の行動が、誤ってゐたことをはじめて知ったのだー間もなく陰鬱な空も晴れて、帝都は元の「殷賑」に返って行った。
 一代の名文「今からでも遅くない」の語調は、一ヶ年回り來っていよゝはっきりとわれゝの耳朶に甦って來る。この文の作者こそは誰あらう。陸軍省新聞班「つはもの」編輯主任、陸軍少佐大久保弘一氏(四四)だ。少佐を杉並區松庵北町一一一の自宅に訪ふと「私はあの事件は初めから衝突は起きないといふ豫感がありました」と陸軍省から歸ったばかりで、軍服のまゝ物靜かに語り出した私は廿六日から憲兵司令部に居りましたが、廿八日は夜遅く九段方面の狀況を視察して歸ると、戒厳司令部から直ぐ來て呉れといふので、とんで行くと最後の手段として、
 飛行機から兵に勸告文を撒く事にしたから、書いて呉れとのこと、書き初めたのが廿九日の午前三時ごろで、五時ごろからそれを印刷して、朝の八時ごろ一應飛行機で撒布したのですが、間もなく麻布の聯隊區司令官が來て「兵の親達が聯隊に押しかけて來て、自分達の子供等は何うしてゐるのでせうかと口々にいってゐます。」と話してゐるのを聞いてゐた。當時の根本新聞班長があわてゝ兩手を振りながら
 「いゝ事があるラヂオで放送しよう」と云ひ私に放送を命じました。そこで撒布したビラを讀返へして見ると、わたしは昔から漢文で、育ってゐるので、何うも語調が堅い。直ぐ筆を取って柔かく書變へました。原稿は二枚でしたが、一枚私の直したのを、傍から中村アナウンサーがむしり取るやうに放送しました。放送してゐるのを聞いてゐると、ひとりでに涙がとめどなく出て來ました、當時は自分で自分が何を書いてゐたか判りませんでした。と口を一文字に堅く結んで、緣なし眼鏡の奥にじっと一隅をみつめて、光ってゐる眼は、一年前の「思ひ出」を呼び戻して、感慨にふけってゐるやうだ。
 「私は戦端を開かせないといふ一念からやったのです。午後四時ごろ叛亂軍が全部歸順したと聞いた時は、嬉し涙がこぼれました。これも皆誰のお蔭でもない。只御稜威の賜だと信じてゐます。これは日本の一番有難いところです。私は日頃これといふ特別の宗教は信仰して居りませんが、神を信ずる氣持は人一倍です。當時は無念無想で全く「祈り」の境地でした」
 冴えゞと冷く澄んだ月影が、空邊に忍びよって少佐の心境を照らし出してゐるやうだ。靜まり返った應接間には、ガスストーブの湯のみがしんゝとたぎってゐる。少佐は床の間に掛けてある墨畵を指して、
 「これは吉武元同といふ變り者の畵家が、私のあの文を見て、わざゝ九州の高千穂の峰に登って書いて呉れたものです」と説明したが、その傍には上海で不慮の死を遂げた少佐の恩師、白川義則大將の溫顔が少佐をじっと見下してゐる。
  昨年は大雪であんなに寒かったのに、今年はこんなに暖かいのも何かの因緣でせう。死んだ人々には種々追悼の會が催されるさうですが、全くお氣の毒にたへません。只私達はじっと世の遷り變りを見守ってゐるだけです。」と靜かに眼をふせた。

 〔蔵書目録注〕

 上の文中にあるラヂオ放送やビラについては、『昭和十一年中ニ於ケル社會運動ノ狀況』 内務省警保局 にその内容などの記載がある。下の写真参照。

 


『五月事件ニ關スル件報告(通牒)』  (1932.5.20)

2021年02月07日 | 二・二六事件 1 内務省他

  

極秘

 憲高秘第九〇四號
    五月事件ニ關スル件報告(通牒)
  昭和七年五月二十日 憲兵司令官 秦眞次

 首題ノ件別册報告(通牒)ス
  追而本件ハ豫審ニ属スル事項ナルヲ以テ嚴秘ノ取扱相成度

  發送先
 陸軍大臣、陸軍次官、人事局長
      法務局長 軍事課長 兵務課長
      調査班長
 参謀總長、参謀次長
 教育總監 教育總監部本部長
 侍從武官長、
 朝鮮隊司令官、各隊長(除東京隊長)
        上海憲兵隊長、支那憲兵長、

    五月事件概況    

    概説

 一、関係者
  1、軍関係者
     海軍将校     六(在郷ヲ含ム)
     陸軍士官候補生 一一
     元士官候補生   一
        計    一八
  2、其他
    常人関係ノ別動隊農民決死隊アリ
 二、主謀者
  主謀者ト称スヘキモノナカリシカ如キモ古賀、中村ノ両海軍中尉主トシテ計画セリ
 三、原因動機
  現在ノ行詰レル時局ヲ根本的ニ打開シ國家社會ノ改造ヲ圖ルニハ直接行動ニ依リ其原因ヲ排除スルノ外ナシトスルニ依ル
 四、同志結合ノ狀況
  大川周明、北一輝、権藤成郷、安岡正篤等ノ社會改造思想ニ共鳴セル青年海軍將校及陸軍士官候補生トカ合流セシモノナリ
 五、準備行動
  1、本年二、三月頃ヨリ準備ヲ初メ概ネ四月二十日頃決行スヘキコトニ決定セルカ如シ
  2、五月十五日午後五時集合同五時三十分決行スルコトヽシ 左ノ通リ編成ス一組  
    組   集合場所  目標         人員
  第一組   靖國神社  首相官邸       三上中尉以下九名
  第二組   泉岳寺   牧野内府官邸     古賀中尉以下五名
  第三組   新橋駅   政友會本部      中村中尉以下四名
  第四組         三井三菱銀行中ソノ一 奥田秀夫
  農民決死隊       東京市内変電所
  右終ッテ全部警視廳ヲ襲撃シ共ニ憲兵隊ニ自首ス  
  3、兇器
   手榴弾、拳銃、同實包ハ上海ヨリ取寄セ 短刀ハ 東京市内ニ於テ準備ス、
 六、實行運動
   五月十五日豫定ノ如ク
  1、第一組ハ首相官邸ヲ襲撃シ一部ハ直チニ自首シ
    一部ハ警視廳及日本銀行ヲ襲撃ス
  2、第二組ハ牧野内府邸及警視廳ヲ襲撃ス
  3、第三組ハ政友會本部及警視廳ヲ襲撃ス
  右各組共ニ手榴彈及拳銃ヲ使用シ終テ全部東京憲兵隊ニ自首ス、
 七、處置
  憲兵ハ直ニ取調檢證ニ着手シ陸軍関係ハ五月十七日第一師団軍法會議ニ、海軍関係ハ五月十八日東京軍法會議ニ送致ス、

    第一、関係者

 一、本件實行者
 二、容疑人物
 三、知人関係

    第二、原因動機

 一、原因動機

  1、現在ノ行詰レル時局ヲ根本的ニ打開スルニハ既成政党財閥官憲ノ壓迫等ヲ排撃スルノ要アリ之カ為ニ直接行動ニ出テ捨石トナラハ之ヲ導火線トシテ何等カノ問題ヲ惹起スルニ至ラント思料セルニ因ル

 二、主張

    第三、準備行動

 一、主義系統

  1、本件関係者ハ何レモ天皇中心主義君民一体主義ヲ奉シ現在ノ國家社會カ君民ノ間ニ介在スル中間分子ノ為ニ蠧毒ヲ受ケ凡ユル方面ニ行詰リヲ生シコノ儘推移センカ國滅亡ノ外ナキヲ以テ之等中間分子ヲ排除シ國家ノ改造昭和維新ヲ期待シアリ
    彼等ノ愛讀書ハ左記ノ如クニシテソノ主義思想系統ヲ窺知セラル可ク大川周明、北一輝、安岡正篤、権藤成郷等トノ往來又ハ彼等ノ圖書ニ依リ感化ヲ受ケシコト多キヲ見ル
       左記
  自治民範(権藤成郷)    國体宗教批判
  日本改造法案       唯物論經濟史
  農村學          レーニン主義十二講
  支那革命外史       マルクスエンゲルス全集 第一巻
  國体認識學        ボルシェヴィキズム研究
  レーニン         純粹國家社會主義
  経濟學          社会ファシズム論
  日本文化史概論      日本的實行(大川周明)
  改造(雑誌)        純正社會主義と國体論
  社會文化史の研究     正義と自由
  マルクス主義経済學    労働と資本(河上肇)
  日本精神の研究      改造法案(北一輝)
  日本國体の研究(田中知学) 國体學概論(里見岸雄)
  國体論の一部(北一輝)

   五月事件發生系統圖

 二、同志結合ノ狀況
   陸海軍々人及在郷將校ノ結合合流スルニ至リシ経緯左ノ如シ

  (一)海軍側
   1、山岸中尉外数名ノ海軍將校ハ昭和三年一月二十日頃横須賀市平坂上ノ浜中尉ノ下宿ニ於テ井上日昭ト會見シ徹夜國家ニ関シ論シタル事アリ
     山岸中尉ハ爾來國家ノ建直ニハ中間権力者ヲ實力ヲ以テ排除スルノ外ナシト決意セリ
     當時ハ井上日昭カ指導者ノ立場ニアリ上海ニテ戰死セシ故藤井少佐カ海軍関係ノ同志ヲ統制シ山岸カ井上ト藤井トノ間ノ連絡ヲ担任シアリ
     當時ノ第一線的人物ハ左ノ七名ナリ
      故藤井少佐     古賀中尉(霞ヶ浦)
      三上中尉(呉、鎭) 村山少尉(横、鎮)
      伊藤少尉(佐、鎮) 大庭少尉(佐、鎮)
      山岸中尉
  
 三、決行ニ至ル経過

  1、本年三月ニ十七日牛込區市ヶ谷仲野町一、六三省舎ニ於テ古賀中尉ハ坂本ト會見シ
     「實行方法トシテハ首相官邸及牧野内府邸、政友會本部、民政党本部、工業クラブ、華族會舘ノ六ヶ所ヲ手榴彈及ヒ拳銃ヲ以テ襲撃シ然ル後憲兵隊ニ自首スル豫定ナルヲ以テ其覺悟ニテアルヘシ」
    ト語リタルヲ以テ坂本ハ皈校後營庭ニ於テ後藤、篠原ニ迄ヲ告ケ他ニ傳達ヲ依頼セリ
  2、三月二十八、九日頃府下大久保百人町新大久保駅附近空家(歩三、安藤中尉名義ニテ借用シ池松ト渋谷某カ引越ス予定ナリシ家)ニ於テ中村中尉、古賀中尉及本件関係候補生全部會合シ協議シタルカ古賀中尉ヨリ
     我々國民ノ前衞トシテ犠牲トナッテ為サネハナラナイ時テアル諸君モ我々ト行動ヲ共ニスルカ
    トノ問アリ候補生一同應諾セリ古賀中尉ハ更ニ
     實行方法ノ目標トシテハ首相、内大臣、政党財閥等ヲ擧ケ武器ハ總テ海軍ニ於テ準備スル詳細後日決定スルコト
    等ニ就キ説明シ散會セリ
  
 四、不穏行動ノ計画

  1、今回ノ事件ハ主トシテ古賀中尉中村中尉ノ計画セシモノニシテ最初ノ予定計画別表ノ如クニシテ古賀ハ別表(現物ヨリ整理記載セルモノ)及目標要圖警戒狀況等記載ノ別紙ヲ常ニ携帯シ指揮シ居タルモノナリト
  2、最後ノ計画ハ五月十五日午後五時頃各集合所ニ集合シ同五時三十分目標個所ヲ襲撃シ次テ全部合流シ警視廳ヲ襲撃シ終ッテ東京憲兵隊ニ自首スルコト等ヲ規定シアルカ其ノ組織左ノ如シ
   〔表省略〕
   附記
   一、初メハ二月十一日決行ノ予定ナリシ如ク申立ツルモノアリ
   二、本年二、三月頃ハ共産党一味モ射殺計画ナリシカ如シ
   三、第二次ノ計画ハナカリシカ如シ

 五、資金

   第四 不穏行動實行ノ概要

 一、行動ノ概要
 二、被害ノ狀況

    第五 兇器ニ関スル事項

 一、兇器ノ種類及員数

  1、本件實行ノ為準備セル兇器等ノ種類員数等左ノ如シ
     種類   員数    備考
     拳銃     一四
     手榴彈    二一
     拳銃實包 約二七〇?
     短刀      七  他ニアリシカ如シ  
  2、押収セシ兵器別表ノ如シ

 二、兇器ノ出所

    第六 憲兵ノ處置

 一、取調検證
 ニ、事件送致

    第七 関係事項

 一、西田税狙撃事件

  1、殺害セントスルノ原因
    西田税ヲ殺害スヘキ原因ハ
   一、十月以来西田カブローカー的人物ナルコトヲ認メラレタルニ因ルコト
   二、純情ナル靑年將校カ斯ル人間ニ操縦サレツヽアルコトハ國家ノ為最モ遺憾トスル所ナルヲ認メタルニ因ルコト
   三、大事決行立案當時彼ノ力ニ依リ在京靑年將校ヲ主体トシ事ヲ起サントシ彼ニ遠カラス或事ヲ決行スヘキ旨頼ミタル處彼ハ其後我々ノ行           ヲ邪魔スル如ク判断セラルヽニ因ル、
  2、狙撃狀況
    全日本愛國者共同闘争協議會員川崎長丸ハ後藤ノ手ヲ経テ古賀中尉ヨリ拳銃ヲ受取リ五月十五日午後五時三十分頃、府下代々幡町代々木山谷一四四 西田税ヲ洋間二階應接室ニ於テ双方ヨリ二、三問答ノ後川崎ハ携帯セル拳銃ヲ以テ西田ヲ狙撃シ(六發)西田ノ腹胸数ヶ所ニ命中致命的傷害ヲ與ヘ川崎ハ逃走セリ


『出版物を通じて見たる 五・一五事件』 警保局図書課 (1936.3)

2021年02月01日 | 二・二六事件 1 内務省他

     

  出版警察資料第七輯
  出版物を通じて見たる 五・一五事件
               警保局圖書課

    凡例

 一、本書は所謂五・一五事件に關する論告、判決等の記錄及び各種出版物に現はれたる論調を蒐集輯錄せるものである。
 一、本書に摘錄せる参考資料は大體昭和七年五月より昭和九年九月迄の發行のものに限つた。
 
        昭和十一年三月     警保局圖書課

 第一章 五・一五事件の發端及び其の全貌

  第一節 概説

 昭和七年五月十五日午後五時三十分頃陸海軍の制服を着用したる數名の少壯軍人が犬養首相官邸にピストルを擬しつゝ侵入し、「話をすればわかる」と言った犬養首相の面上目懸けて轟然一發、遂に首相は暗殺せられた。突如として白晝帝都に起ったこの暗殺を中心とした所謂五・一五事件は其の政治的背景乃至思想の故に、日本の隅にまで波紋を及ぼし、全日本を震駭せしめ、益々非常時日本の姿を強化せしむるに至った。或る者は周章狼狽發するに言葉なく、評するに文字なく、或る者はその必然性を説き、昭和維新間近にありと叫んだ。斯くして政黨たると財閥たるとを問はず、全國民は今更の如く非常時日本の認識を深めると共にそこに反省の機會が惠まれた。憲政常道の名の下に華やかなりし政黨政治は再吟味せられ、經濟機構には鋭い批判のメスが向けられ、政治、經濟、外交、社會等全般にわたり再檢討の刄は向けられるに至った。斯くして五・一五事件の轟然と響き渡った一發のピストルを契機として、非常時日本打開、國難日本突破の努力が全國民の双肩の上に負はされるに至った。五・一五事件こそは實に非常時日本の再認識を求める烽火であり、國難日本の内部爆發であったのである。

  第四節 公判記錄

   第一款 海軍側公判記録

   (二)檢察官の論告と求刑 

     事件發生の原因

      第三、本件に先立ち發生したる某事件の影響ありたること

 凡そ事の成るは成るの日に成るに非ず由って來る處でありであります、本件も亦その由って來る處久しく一朝一夕に起ったものではないのであります、被告人古賀淸志の當公廷における陳述に依りますれば古賀は某事件に参加したる經緯に依りまして、今囘被告人等の企圖しましたる戒嚴にして宣告せらるゝの狀況に立倒れるときは當然之を収拾してくれる相當の大勢力の存するものであることを知り遂に本件實行計圖を策する決心を為したものであると申して居ります、右の認識は素より古賀の獨斷に基くものでありまして所謂大勢力なるものとは何等連絡は無いのでありますが少なくとも古賀をして斯の如き計畫を索せしむるに至りました事に就ては某事件は最大直接原因を為して居ると斷定することが出來るのであります。
 なほこの機會に於て一言して置きたいことは部下指導に關する上司の態度についてゞあります、この點に關し本件發生當時某官憲が上司に提出したる意見書中に所見があります、曰く「上司中往々彼等の所見に對し極て曖昧模糊たる態度を採り彼等をして上司はその行動を認容し居たるものゝ如く誤信せしめたるやの形跡無きに非ず」といふのであります、之本件原因と申す程の事ではありませぬが上司たるもの下級者を指導するに際し明かに是は是とし非は非としその方向を誤らざらしむる如く努むることは極めて必要ではないかと存じます。 

 第二章 五・一五事件の思想的根據

  第一節 概説 

『社会の人心は輕佻浮薄に流れ、富者は黄金を死藏し歌舞淫楽に耽り、私利私慾のためには國家國民をも毒し政黨は黨利黨略を計り眼中殆ど國家なく、政黨財閥の結託は國利民福を犠牲に供し、社會人心は政治に興味を失ひ信賴をなげ捨て、國民精神又頽廢を來し斯かる腐敗せる社會の反面に於いて農民は餓死線上に彷徨し乍らも一大活路を見出さんと焦躁すと雖も、目標を失ひ、歐化的に陷れるこの社會の現狀を以ってしては如何ともそのすべなし』との慨嘆の念を五・一五事件當事者の腦裡深く懐かしめたる時本件の萌芽は既に生じて居った。然も今日の狀勢一日の放置をも許さずと憂國の情、殉國の至誠よりやむにやまれず國法の重きを犠牲とし、國家の一大改造を目論んで、非常手段を採って立ち上った彼等の心臓の中にこそ、實に軍隊生活、軍隊教育等に依って鍛へ上げられた確乎たる國體に對する信念、明治維新烈士に對する崇慕の念等が宿り、更に大西郷遺訓、北一輝、權藤成郷、橘孝三郎、大川周明等の思想的影響が根深くも潜んで居ることを見のがすことは出來ない。
 斯くの如き諸種の思想的背景の下に現下の内外の情勢を認識し、今にして國民の覺醒を促がし、國家の革新を計るにあらざれば遂に日本は、滅亡するに至るべしとの殉國憂國の至情を根據として奮起した處にその是非の評は別として五・一五事件の特色があり、五・一五事件が國民に深い反省の機會を與へた所が存するのである。

  第三節 背後の思想

   第一款 背後の諸思想

 茲に掲げる背後の諸思想といふは、所謂背後の思想であつて、事件當事者の思想ではない、従つて事件當事者の思想とは多少の相異があることは勿論である。事件當事者達の背後にある社會思想、即ち彼等が影響を受けたる社會思想そのものである。
 彼等の豫審調書又は公判廷に於ける陳述等を通じて見る時、彼等の背後の思想として次の五を擧ぐることが出来る。
 一、大西郷遺訓
 二、北一輝の日本改造思想
 三、權藤成郷の自治制度學思想
 四、橘孝三郎の愛郷思想
 五、大川周明の日本思想
 勿論これ等の諸思想は必ずしも悉く一致するものではなく、相衝突する部分も無いではない、乍併、それにも拘らず復古精神である點に於て、國民歴史の上にその思想の根本を見出してゐる點に於て、東洋的精神の復興である點に於て、日本といふ特殊事情の上にものを見んとしてゐる點即ち国民的精神の自覺をもつてゐる點に於て一つの大いなる共通點を見るのである。

 第三章 五・一五事件に関する論調
 第四章 五・一五事件の出版界に及ぼしたる影響
 第五章 五・一五事件に關する出版物取締の要綱

  第二節 新聞記事差止に依る取締要綱

      日本國民に檄す
          昭和七年五月十五日 陸海軍靑年將校 農民同志

  第三節 一般檢閲標準に依る取締要綱

 殊に本事件に關聯して稍々注目に價するものと認められるものは、所謂落首的な流行歌が世上に現れたことであつて、其の内二種のものは蓄音機レコードに吹込まれ、一般に流布され樣としたのであるが、發行地所轄廳の發見が迅速であつた爲め、其の大部分のものは發賣を阻止することが出來たのであつた
 今流行歌詞の主なるもの二、三を示すと次の通りである。

  ●靑年日本の歌 (昭和八年八月三日附禁止處分)
              海軍中尉 三上卓作

 ツルレコード歌詞 (特283-B)  記念盤 (昭和八年十月六日附禁止處分)

  ●五・一五事件・昭和維新行進曲 (陸軍の歌)
                   畑中正澄作歌
   
 ツルレコード歌詞 (特283-A)  記念盤 (昭和八年十月六日附禁止處分)

  ●五・一五事件・昭和維新行進  (海軍の歌)
                   畑中正澄作歌

  ●五・一五音頭 (昭和八年十月二十日附禁止處分)

 をどりをどるなら五・一五のをどり
     をどりや日本の夜が明ける
 花はさくら木 男は三上
     昭和維新のひと柱
 男惚れする山岸中尉
     問答無用の心意氣
 昔ゆかしい葉がくれ武士の
     ながれ汲むかや古賀中尉
 同志十一正義にむすぶ
     花のつぼみの候補生
 死んだ藤井の心を繼いで
     興しませうよ大亞細亞
 仇の平和のロンドン會議
     八重の黒潮血の叫び
 をどりやをどつても非常時日本
     國のまもりは忘れまい
 
附錄

  五・一五事件に關する文献 (自昭和七年七月 至昭和九年九月)  

    單行本

     附、蓄音機レコード解説書

  題名     番號      發行所     處分年月日

 五・一五事件
 昭和維新行進曲 特二八三A   名古屋市    昭和八、一〇、六(禁止)
     (海軍の歌)       株式會社アサヒ商會
 五・一五事件
 昭和維新行進曲 特二八三B   同 右   同
     (陸軍の歌)
 五・一五事件
 血涙の法廷   特二八一A、B 同 右   同
  (海軍公判) 特二八二A,B 同 右   同
 
  二、新聞紙雑誌

   (一)普通新聞紙
   (二)普通雑誌
   (三)右翼新聞紙雑誌
   (四)左翼新聞紙雑誌

  三、宣傳印刷物

   題名 發行地 發行日附 處分年月日 摘要

五・一五事件記念發賣三枚組一圓 東京 不明 十月七日 ツルレコードの廣告 
五・一五事件血涙の法廷昭和維新行進曲到着特價三枚一組一圓 東京 不明 十月七日 ツルレコードの廣告
昭和維新五・一五事件描寫劇血涙の法廷愛國歌昭和維新行進曲 東京 不明 十月七日 ツルレコードの廣告
昭和維新行進曲の血詞 愛知 東京 不明 十月七日 ツルレコードの廣告