蔵書目録

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「滿洲とロシヤの思出」 三浦環 (1943.2)

2020年06月18日 | 声楽家 三浦環、関谷敏子他
  

 滿洲とロシヤの思出
            三浦環

 昨年は滿洲國建國十周年で私は十一月から滿洲の所々を歌の旅行いたしまして皇軍の慰問もいたしまして旅順の戰跡も拝見してまゐりました。明治三十七年の日露戦争で此旅順要塞を見事に占領せられた事は三十九年後の今日の大東亞戰爭に何と云ふ偉大な功蹟を與へられましたかを考へ私は涙を催しました。

 丁度昭和七年私は伊太利ミラノで歌劇お蝶夫人を唱ふて居りました時分滿洲の事變で皇軍が毎日々々進軍して熱河のあたりの戰勝の樣子を伊太利の新聞で讀んで居りまして誠に勇ましい我が軍に對し日本人たる私は外國に於て肩身の廣さ、何とも申されぬ感激で御座いました。丁度其當時東京では日劇が出來上りつゝあつて伊太利の私の處まで日本劇場の寫眞が送られ「此劇場をオペラ劇場として三浦環を總主任とすると云ふ計畫で私の室も劇場の中に作つておくから歸朝していたゞき度い」と云ふ手紙が或る人から送られたので私は大喜び「では伊太利の唄ひ手をひきつれて歸りましょう。私は丁度マダム、カレリがローマのテアトロ、コンスタンチで總主任になつて自分からいろゝのさしづをして居られた樣に私も日本劇場に起き伏して自分の出來る丈け我が國の藝術の爲につくしませう、私は死をも恐れない」と思ふて其後の日本からの手紙を待つて居りました所が更に其後手紙が來ないでつまり右の計畫は劇場の持ち主が變つたのでやめになつた、との事で其かわり音樂會を催す樣にしたとの事で私は狐につまゝれた樣でしたが其のまゝの旅の仕度をして二度目の歸朝をするべく旅につきました。
 東京の音樂會の日取りが定まつて居るので船の旅はあまり日數がかゝるので私は其時ロシヤを通つてシベリア經由滿洲を通つて日本に歸る事にいたしました。
 
 ロシヤに私がつきましたら廣田弘毅樣が其時分ロシヤの大使であられました(此御方樣は私の故三浦政太郎の學友で居られました)ので大使館に參上してお食事をいたゞきました此食事に爲に私は出發を一日のばして翌日モスクワを出發いたしました。(後に考へて見れば此大使館のお食事で一日私の出發をのばしたと云ふ事が私の生命をたすけたのでした)シベリアの鐵道十五日間私はたゞ一人でたゞ雪の廣野ばかりを見て滿洲につきました。
 翌朝は七時にハルピンにつくので私は嬉しく汽車の窓から外を見ますとマンチユリーはシベリアよりも少しは小山の樣なものも見える樣になつて其山の上は灰色の軍服の兵が馬を進めて汽車と併行して居りました、此軍が匪賊であつたとは知らず「私は之はきつと日本に信賴して居るものだらう」と思ふて窓から首を出して私はニコゝして居りました。やがて又夜が來て汽車のコムパートメントに寝につきました。
 「三浦環さんこゝから下車して下さい」と云ふ聲に驚いて飛び起きて時計を見ると夜中の一時なので何事かと思ふて廊下を見ましたら私の室の入口に憲兵と腕に書いてある兵隊二人と一人の支那人一人のロシヤ人が立つて居て、「此次の驛の所で昨日二人の日本人が匪賊に惨殺されたのでチヽハルからわざわざあなたを救けに來ました」と云ふので(實は私は久しく日本に歸らなかつたので此兵隊さんの腕の憲兵といふ字はやはり支那の字なのであゝきつと此人たちは私を殺す爲に此汽車を急に止めたのだと思つて)私は「あなた方は日本人ではない支那人がバケて來て居るのですから私は此汽車から一歩も動きません」と答へたのです。憲兵さんたちは怒つた顔で、
「そんならもう責任は持ちません」と云ふので私はいやいやながら下車する事にして手荷物を車窓からほうり出して暗い支那の荒れ原を夜中の一時と云ふのに此憲兵さんにつれられて支那人が荷物をかついでロシヤ人がついて五人でトボゝと歩き出したのでした。
 私は汽車を降りるときに小さな爪みがきのナイフをそつと手に持つて居ましたのでもし此人たちが私を殺そうとしたらすぐに此ナイフを自らの心臓につき立てゝ死にましようと思つて居たので私は歩きながら「あゝ三浦環も世界を唱ひ歩いたが遂に此滿洲の野つぱらで犬死するのかなあ、中村大尉殿が匪賊に殺されにつれて行かれた時も此位のこわさがあつたでしよう」と思ひながらピウゝ吹く風にオーバーの下に着て居たねまきのうすぎぬのすそもひらゝとつめたく寒く死にゝ行く人の心持ちを味ひながら一里餘も行きましたらやがて一軒の家の前に來て「此中にお入りなさいと云はれたので「私は之は何ですか」と伺ひましたら「之は日本の宿やです」と答へたので「こんな宿やはありません」と云ふていよゝ私は此中で殺されるのだなあと思ひながら其家に入つて見ましたら内からドテラを着た男の人が出て來たのでドテラは支那人は着やしない、やはり此憲兵さんたちは日本の兵隊さんであつたと云ふ事がわかつて私は嬉しくて手に持つたナイフはほうり出して其兵隊さんに思はずすがりついて泣いてお禮を申たのでした、(私の乗りすてた汽車にあとから又匪賊が來て私を一時間もさがしたとの事でした)此宿で私は兵隊さんに地圖を書いてもらつてこゝが昴々渓と云ふ處で此宿で中村大尉が最後の食事をされて出られて支那人に殺されたのだと云ふ事を聞いてかべにかけてある中村大尉の一行のお寫眞を拝見しながら暗いガラス窓から支那人がのぞいては居ないかしらなどうしろさむい思ひで一眠もしないでもうしらゞと朝になつてしまつて、宿で作つてくれたおみをつけを美味にいたゞいて翌朝國際列車でない滿鐵に乗つて兵隊さんにまもられて奉天につきました(此汽車中でも其當時はいつ匪賊が出ないものとも限らぬのでソラッと云ふ時は汽車中に「はらばいになれ」と命令されて居りました)
 奉天ヤマトホテルにつきましたら丁度ジネーブの會議の使節リットン卿の一行と一緒になつたので私は其晩此人たちの爲に獨唱をさせられたのでした。私の歌は日、獨、伊、佛、英、米の顔で大喝采で御座いましたが唱ひ終つて私は「皆様は此奉天まで御無事におつき遊ばして御めで度う御座います。私もすんでの所匪賊に殺されるのを日本の兵隊さんと日本の鐵道と云ふものゝ爲にすくはれて無事にこゝに参りました」と英語でおく面もなく私は話しました、(あとで知りましたが此私の言葉は非常によい事を話したのだそうで其當時此使節を傷つけて日本の落度としようとたくらんだ支那人が多分に居つたので滿鐵の心配は大變なものであつたとか)此時私は心中女ながら米英人をやりこめた心持で嬉しかつたのでした。

 さてそれから私は日本に歸つて三ヶ月間に百回以上の音樂會をして又伊太利に今度は船で行つてナポリで唱ふてすぐ又ロシヤに參りました。前には通りぬけしましたがこんどはモスクワの大劇場でお蝶夫人を唱ふ契約があつたからでした。ロシヤに行くのに私は旅券證明がたりなかつたので途中で又々ワルサワからチェコスラバックまで引き返されたり停車場で身元しらべをされて私は自分を明白にする爲に停車場でいろゝの獨唱をして停車場が急に音樂會場の樣になつて居合せた憲兵や人々をニコゝにしてしまつたりいろゝな苦勞があつた後にやつと又モスクワに着きました。大使館の日の丸の旗のついた自動車がお迎へに來て居てほんとに嬉しく私はすぐ立派なホテルに宿泊しました(今から九年前でしたが其當時ロシヤではいろゝな物に不自由で毛織の服を着て居るロシヤ人は僅かで雪の中を買ひ物の男女が列を長く作つて居たのでした)私丈けは通譯の婦人までつけられて赤いカーテン、金の彫物のしてあるベッドの寝室で私はお伽話の女王様の樣に皆々につかへられてモスクワの滞在の一週間を過ごしました。私のお蝶夫人はモスクワ中の大評判となつて劇場で唱ひ終ると拍手がなりもやまず六十回も幕を出たり引きこんだりしてあまりの嬉しさに私は自分のふりそでをもぎ取つて聽衆になげ出したので之を皆がひき合ふて切れゝとしてしまつて記念に持つて行きました次第でした。
 ロシヤの人が一番日本の劇を研究して居ると見えてコーラスの女に至るまで其立ち居に注意して居たのにはおどろきました。
 私のロシヤに於ける出演は非常な成功でありましたが今だに出演料の取り引きがのこつて居るので之には今だに心持ちがよくないのです。それは露價は國外へ持ちだせないので私は大怒りしてロシヤを出ました。
 ロシヤ語は歌に唄ひますと何となく淋しさを帯びて居ります。
 先き頃私はハルピンに參りました時にロシヤの子守歌をアンコールに唱ひましたら大變な拍手で御座いました。
 私のお蝶夫人は外國で二千回演じまして至る處で大好評を得ましたけれど大東亞戰以來私はパッタリ蝶々さんを唱ふ事をやめました。之は如何に考へてもあのにくらしい米國の士官を戀して死ぬる女には扮する心持になれないからでやがて米國が降伏してしまつたら唱ひませうと存じて居ります。
 私のロシヤについての見識は誠にあさいものでありますけれども考へて見ますればロシヤの人は思ひ切つた事をする人たちだと思はれます。昔ロンドンで私は前歐洲大戰のとき赤十字の大音樂會でアデリナ、パティー夫人と並び立つて時の皇帝の御前で唱ひました後に私にお蝶夫人を唱ふてくれとたのみに私の宿を訪問したのはウラディミルローヂンと云ふロシヤのテナーで御座いました。此テナーはテナーとしての學問は充分にありましたけれども其聲は非常にのどの奥の方から出ますし調子がいつでも少しさがるしオペラの舞臺に立つ事は出來ぬ事を知つて居るので私の相手役にはなりませんでしたが其オペラは露佛オペラとしてロンドン大歌劇場で其時分の一流の歌手をあつめて私のお蝶夫人を特別の出し物として興行をしたのでオペラについては一見識もなかつた日本の女の私を直ちに大オペラカムパニーに引き入れたわけで御座います。ロシヤの人は交際は非常に上手で御座いますけれどあまり気をやすめて交際すれば其親切は交際上の親切で心の底からわき出づるものでない樣な事を感じさせられた事も御座います。執着心の強いのはロシヤの人の特有で其音樂によく現はれて居ります。
 私は今日とりとめもなくいろゝを書きましたがつまり私はロシヤの國民性は我が國の如き愛國心的ではないけれど此執着と忍耐力は我國よりも強いとも弱くない事を感じますので私共は日夜忍耐力をつよくする事につとめて行かねばならないと思ふ事を記して見たので御座います。

 上の文は、昭和十八年二月一日発行の雑誌 『月刊ロシヤ』二月号 第九巻 第二号 に掲載されたものである。


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