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『越南志士 獄中記』 ファン・ボイ・チャウ記 (1929)

2017年03月07日 | 台湾、朝鮮、ベトナム、フィリピン

 越南志士 獄中記 越南 潘是漢 〔ファン・ボイ・チャウ〕 記 日本 南十字星訳

           

 ・東遊当時の会主彊柢侯
 ・執筆当時の会主彊柢侯
 ・支那杭州に於ける彊柢公(右より三人目)と著者(二人目)
 ・現在の会主彊柢侯
 ・入獄前の著者巣南子

 目次

 ○越南国光復会々主クォンデ皇親殿下 照像 
 一.初めて日本東京渡来当時撮影(越南朝服)(明治三十九年) 
 二.獄中書出版当時撮影(大正三年) 
 三.最近の撮影(昭和三年) 
 ○獄中書著者越南国光復会総理 潘是漢君照像(大正二年) 
 
 ○序 日本南溟生  

 南溟生に国あり越南と云ふ、有史以来四千年、前二千年は世々多く支那に属す。唐代(西暦六七九)安南都護府を置き安南の名此に始り、其名を以て世に知らる。
 第十世紀の中葉以来丁黎季陳黎の五姓交々王朝を建て時に貢を支那に納れて藩属の名あるも実は国人自ら治む。黎氏衰へて後阮氏独盛であったが、後新旧阮の争あり現阮帝朝中興の祖嘉隆 ギヤロン 帝新阮を滅して国内を統一し更に高棉 カオマン、哀牢 アイヨオ (柬蒲塞、老檛 ラオス)の地を併せ帝業を創めて国号を越南(Viet-Nam)と呼んだ。其範図古今の渉って最も広い(十八世紀末)而かも憐むべし恰かも地は西力東漸の衝に当り、時は白人東侵の勢最盛の際、フランスの魔手此に伸びて、連年地を割き勢蹙まり、諒山 ランソン 役の一敗に清国亦宗主権を捨て、国遂に亡びて今や山河独存す。
 〔中略〕
 此序文の筆者は曩に越南国々民党領袖潘君巣南著「天乎帝乎」を訳出上梓して、南溟叢書第一編として江湖に頒つたが、頃者盟友南十字君同じく巣南子著「獄中書」の訳稿を了へて予に示さる。本篇は今日に於ける越南独立運動初期の経緯を語るものとして、頗る有益なるが故に、予の前訳と併せて越南事情報告の一端たるべきを想ひ、乃ち此一文を掲げて其序とす。

 昭和四年三月(越南保大四年) 
           滬上の客南溟生

 ○例言

 一、原著は漢文、越南国(仏領印度支那)国民党の長老巣南子潘是漢君の著、越南国維新甲寅年七月(大正三、西、一九一四)上海にて印刷発行の小冊子。
 二、本書は著者が西暦一九一四年一月(大正三)支那広東省広州府に在った時、仏領印度支那総督の要求に依って、時の広東督軍龍済光の為めに捕へられて広州の獄に投ぜられ、軈 やが てフランス官憲に引き渡さるべしと聞き、運命遂に窮り、刑死の期既に旦夕に迫ったと知って、乃ち獄中孤燈の下に筆を執って、過去四十有七年、故国の独立運動渦中に於ける自己の経歴を叙し、其経過を明にして己が赤心を披歴し、以て後進に後の戒めと為さんとしたのを、同志潘伯玉胡馨山の両氏が其依託を受けて、上海にて印行したるものである。原著巻頭潘胡両氏の序文は今之を省く。
 三、此次巣南子は将に死期に臨んだのであったが、龍督軍が仏人との交渉容易に整はずして、君の引渡を遷延しつゝある間に、偶々兵を率ゐて海南島に赴くことあり、又君を軍中に伴ひ、彼地に在っては大に自由を與へた。君乃ち機を得て密に危地を脱して、浙江に遁れ、纔 わずか にフランス人の手中に陥るを免れ得たのであった。併しながら後十年、即ち西紀一九二五年遂に上海の禍あり、フランス官憲に捕へられて河内 ハノイ に送られたが、獄中に呻吟すること半歳、保護政府は越南人民各界の強請に因って、遂に同君を釈放するの不得已に至り、今潘氏は順化 フエ 城中に安居して居る。

 一  はしがき

 鳥の將に死なんとするや其声哀し、人の將死なんとするや其言善しと云ふ詞があります。私の申すことが善いかどうかは兎に角、死に臨んだ人の詞は真実であります。
 癸亥の歳(大正二、西紀一九一三)私は支那広東省広州城に居り、其時仏領東京の全権が広東に来て安南革命党首魁引渡を求めました。時の督軍龍済光は其請に応じて大晦日に先だつこと八日、私を逮捕して獄に下し、且つ早晩フランス人に引渡すと告げたのであります。私は最早自分の首の落ちるのも旦夕の間に迫って居ると知って、今は却って大に楽みと致します。
 〔以下略〕

 二  亡国の渦中に生まる国命回復の志を起す
 三  旧党の跡絶えて、新党未だ出でず、自ら任じて光復の計を樹て、同志を集む
 四  皇親畿外侯を戴いて会主とす 国内同志の結束を漸く成る
 五  日露大戦の報長夜の夢を破る 党を代表して国を脱し日本に使す
 六  初めて日本に至り民間志士を相識る 海外の大勢に悟る所あり一度国に帰へる

 四月上旬、日本船に乗じて上海を発し、中旬横浜に着いた暫く此に憩ふこと十日余、初めて海外に出て、日本語を語らず、又通訳の人も無い、旅中種々の事柄に就て用があれば、街路に出て剣を帯びて来る者を待って之に計れば、其人は私の為めに文字を書いて世話周旋甚だ親切である。私は此に於いて日本警察行政の誠に善く整へるに敬服した。吾国にてフランス人の用ふる警吏の事を回想すれば、其凶暴にして詐術多きに比べて、実に氷炭相反するではないか、あゝ、征服者が被征服者に対するのは、固定より皆此慣手段を用ふるのであります!
 此時支那の文学家梁啓超が横浜で「新民叢報」を主宰して居ましたが、私は梁が日本に居る事久しく、頗る日本の事情に通じて居ると聞いて、先づ梁に会って日本人に紹介を求め様と考へたのですが、私は未だ梁と何の関係も無かったのです。併し思ふに、「彼も新人物である、眼光思想決して俗輩の様ではあるまい」と。そこで自ら手紙を以て会見を申込んだのでありました。其書中には「落地一声哭即己相知、読書十年眼遂成通家、以此為相求之根柢」と云ふ語がありました。梁は私の手紙により私を招いたので行って合ふと、先づ筆談にて来意やら、フランス人の越南に於ける種々の状況を問ひます。併し話が長くて十分意を悉くす事も出来ないので、急にその為に筆を執って「越南亡国史」を述べ、其草稿を梁に渡した所、梁は之を印刷出版しました。即ち是が私の海外に於ける初めての著述であります。
 梁は私に會つて後は大に私を重んじて呉れたので、私は自分が日本人に依頼して武器を得たいと云ふ希望を打ち開けた所が、梁の云ふのに、「君等の熱心は自分の力の及ぶ丈之を助け様が、革命党を援けて政府を倒すことは万国政府の為さぬ所である。若し之を為さば則ち両政府は互に宣戦した時にのみ限る。今、日仏両国宣戦の機会も無きに、如何にして其政府が軍器を以て諸君に援助する筈があらう。此点は他の策を考へねばならない。只在野党が陰かに援助することは無いでもあるまい、日本今日の在野党では進歩党最も有力で、〇〇伯△△氏が其党首であるから、お望みならば此二人への会見は私が紹介の労を執らうと。
 そこで私は共に東京に至つて△△氏に見え、更に又△△氏と共に〇〇伯に謁したのです。凡そ我が党が此後日本民間党との関係は皆此時に始まつたのであります。
 △△氏は私を在野党の重要人物に紹介して呉れました。其時〇〇〇〇が●●●●で、△△△が✕✕✕✕会の幹事であつて、此等の人々が皆私を歓迎して呉れたので、私も亦我党が救援を求むる次第を語つたのでしたが、其人々の云ふのに「凡そ同洲同種の国は皆我日本が之を扶助せんと願ふ所ではあるが、只事、国際に関するからは、政府の黙認が必要である。然るに今、日露戦役漸く了つて我政府は未だ他を顧みるに遑がないから、姑く時機を待たねばならぬ。我等民党が君の為めに尽力しようから、何時か必ず目的を達成する日があらう」と。尚ほ我党の主義が君主に在るや、民主に在るかを問はれたので、私は我党の目的は只フランス人を駆逐するに在り。先づ独立を恢復して後君主か民主かは別の一問題であるが、但し我国古来の歴史と今日の民智よりすれば、君主が宜しきに適ふと思はれる。我党が皇親畿外侯を推戴する所以も、君主に備へるのである」と答へた。日本の国体は最も天皇を尊重するが故に、深く私の詞を是として、且つ私に対して他日貴国の皇親が能く我国に来られるならば、吾等との交情も益々宜しからう、君の意見は如何であらう、との問でありました。私が思ふのに、援助の成否は未だ知り得ないし、私が海外出奔の事も既に洩れたであらうから、万一会主に変事があれば、其党情に影響する所も少くはあるまいと、此に於て会主を扶けて海外に出でしめ様との計を私は決心したのでありました。

 〔以下省略〕

 七  切に人材培養の急を知る 勧遊学文を草して国に送る
 八  再び国に帰りて国内同志と図る 年少志士陸続国を脱して東渡す
 九  留日学生の最盛期宛たる仮設公使フランスの魔手伸びて、同志悉 ことごと く日本を逐はる
 十  窮余の諸策亦事毎に破る 姑く心身を暹羅の田園に養ふ
 十一 広州に越南光復軍の組織を整ふ広東兵変の余波、計策水泡に帰す
 十二 龍督軍に捕へられて獄に下る 命は旦夕に在り、 従容閲歴を自叙す

 我越南国維新癸丑の年十二月二十五日(大正三年、西暦一九一四年一月)巣南子潘佩珠広東の獄室に手記す。時に入獄後第三日。(昭和四年三月初三 南十字星譯了於上海)

     

 附録 
  越南国民党沙面炒弾案声明書 西暦一九二四年七月 越南国民党全党員声明 南溟生訳

 一九二四年六月十九日(大正十三年)の夜、特派日本使節仏領印度支那総督メルランが其帰任の途、支那広東省広州府沙面英租界のヴィクトリアホテルに於ける、在留仏人の饗宴に列せる時、突如越南国民党に属する青年志士、相謀りて其暗殺を企て、其一人范鴻泰は爆弾を其座中に投じた。同時総督の周囲死傷せる者十人許り、メルランは奇蹟的に微傷を負へるに止まって免れ得た。下手人は警戒の重囲を脱し難くして、遂に海に投じて死し累を同志に及ぼすを免れしめた。其意気の盛なるを窺に知るに足らう。本文は其当時の声明書である。 

 この『獄中記』は、『ヴェトナム亡国史他』(平凡社:東洋文庫)のものと比べると、犬養毅・大隈・福島安正・根津一・東亜同文会などが伏字となっている。
 また、「越南国民党沙面炒弾案声明書」は、省略されている箇所はひとつもなく、伏字は「フランス政府・非人道的」など数カ所のみのようである。
 『日本及日本人』臨時増刊 〔昭和四年:一九二九年〕 六月二十日発行 第一七九号の129-155頁には、この『獄中記』が掲載〔「附録 越南国民党沙面炒弾案声明書 南溟生訳」は除く〕されている。
 
 また、クオンデ公について、のち『日本週報』第395号 昭和32年1月25日号に、「悲運の革命家コンデイ侯 田中正明」という一文が、二枚の写真〔「コンデイ侯」「前列左から安藤千枝、壮烈、壮挙の三氏(追悼式において)〕とともに掲載された。

 

  越南亡命客巣南子述 越南亡国史 附越南小史 新民社社員編 通俗時局鑑第三種

広智書局第一次印行本
 
 ・通俗時局鑑発印縁起
 ・通俗時局鑑目録

 第一種 中国国債史 飲氷室主人著 定価 貮角
 第二種 日俄戦後満州処分案 新民叢報社新民編 定価 三角五分
 第三種 越南亡国史 越南亡命客巣南子述 定価 二角半
 第四種 中国鉄路史 飲氷室主人著 近刊
 第五種 勢力範囲解 披髪生著 近刊
 第六種 朝鮮及西藏 飲氷室主人著 近刊
 第七種 以下題未定

 ・序:乙巳九月、飲氷識

  

 ・例言
 ・越南亡国史前録(記越南亡人之言)

 通俗時局鑑第三種 越南亡国史  広智編輯部纂、越南亡命客巣南子述

 痛莫痛於無国痛莫痛於以無国之人而談国事吾欲草此文吾涙盡血枯幾不能道一字飲氷室主人曰嘻吾與子同病爾且法人在越種種苛状挙世界無知者子為我言之我為子播之或亦可以喚起世界輿論於萬一彼美人放奴之挙著書之力也俄士戦争亦報紙為之推波助瀾也子如無意於越南前途則己苟猶有名意則布之為宜抑吾猶有私請者我国今如抱火厝積薪下而寝其上猶挙国〔以下省略〕

 光緒三十一年 〔一九〇五年:明治三十八年〕 九月十五日 発行 定価二角半 編者 新民叢報社社員 総発行所 広智書局



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