蔵書目録

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「私のカチューシャ」 松井須磨子 (1916.10)

2017年04月09日 | 演劇 貞奴、松井須磨子他

 
 
 私のカチューシャ
                 松井須磨子

 □カチュシャの芝居

 カチューシャのやうに一つ芝居を何百回となく手にかけますと、しまひには機械的になつて、藝に生命がなくなる恐れがあります。理想からいへば、何百回やつても、一回毎に新しいものを演ずるつもりで、うぶな心持ちでやらなければならないのですが、やゝともすると、それがさう行かなくなります、いろゝの人を舞台の上で世話して見ても、下根の人ほど此心がけが少ないやうです。のして行くくらゐの人は一回ごとに緊張した心持で舞台に出るやうですが、見込みのない位の人に限つて、もう十回も同じ芝居をやると、そろゝ舞台を馬鹿にして、だらけた心で登場します。したがつて其藝が不真面目なものになります。私もいつもこの事を考へてはカチューシャの舞台を粗末にしないやうにと思つてはゐますが、何にしてもあんまり度数が多いので、知らずゝたるんだ所が出て来はしないかと恐れてゐます。それを防ぐ一つの方法として、わたしは時々脚本の中をところゝ直して貰つて新しいものゝ稽古にかゝるつもりで、自分と自分の気を引きしめてゐます。

 □十七八のカチューシャ

 カチューシャの序幕、あの別荘の場は、まだ十七か十八の小娘なのですが、俳優の苦心として、殊に女優の苦心としては、年齢 とし を変へることが男優よりも一層骨が折れます。自分とほゞ同年輩の人物に扮するのは楽ですが、自分よりもずつと年下に扮するのはなかゝ困難です。序幕のカチューシャは十七八ですから、今の私としては十年も若くならなければなりません。初めのうちはそれがよほど楽に行つたやうに思ひますが、長くやつてゐるうちにはつひ素にもどり易く、今では此辺 このへん が最も骨が折れます。もつとも之は一つは脚本や人物の性質にもよるのでせう、同じ若い娘でも、前にケテヰーをやりました時は大へん楽に十六七の小娘になれましたが、カチューシャの方は、初 はじめ からケテヰーに比べればむつかしかつたやうです。

 □カチューシャの仕処

 カチューシャの仕処 しどころ は何といつても、あの歌の所と監獄の場とです。最後の幕で公爵と分れるところもいゝには相違ありませんが、深く内部にもぐり込むやうな仕処ですから、極 ごく 小さい劇場で、静に理解して見て貰ふ見物の前でよい背景をつかつてやるのでなければ、しばへがしません。ついでゝすが、此幕 このまく に聖書の馬太伝 またいでん を朗読するところがあります。あれが実に厄介で、意味は重大ですからはつきり見物に通るやうに読まなければなりません。それかと言つてうるほひのない切口上になつてもいけず、牧師が聖書を読むやうな臭味のある調子になつてもいけず、たゞの女が読むので、それでゐてどこかに多少宗教的な荘厳な味もなくてはならず、其辺の加減がむつかしくて困ります。

 □カチューシャの唄

 カチューシャの唄は序幕と病院の場と二ヶ所で違つた文句の違つた調子で唄ふのですが、序幕ではたゞ晴やかにあどけなく唄ふのですから割に楽です。それに声もまだあまり使つてゐない内ですからいゝのですが、病院の場で唄ふのは、其すぐ前の幕に監獄の場であらん限りの声をつかつてどなつた後なのですから、喉が非常につかれてゐて困ります。序幕の唄では、例の通り窓の前に月の光を浴びながら公爵と長椅子に並んで腰をかけて唄ふのですが、あの椅子の高さが丁度腰かけた足をぶらゝさせるに都合のいゝ位になつてゐないといけません。あそこでは足をぶらゝさせ、体をすこし斜にして姿勢に媚 こび を持たせ、手を拍 う つて、つまり手拍子、足拍子、体拍子の三拍子でつりあひを取つて、あどけない態度を出し、そしてあの歌を唄ふやうになつてゐるのです。病院の場の唄は悲しく哀れに唄ふのが主で、泣いてゐたものが、其涙をおさへゝ歌ふので、殊にあの所では私いつもほんとうに泣いてやつてゐるものですから、其まゝ歌につゞけるのが骨です。其代り婦人の見物などにはあの悲調の方が却つて評判がいゝやうです。歌としてよりも感情として痛切なからでせう。従つてカチューシャの歌といへば多くはあの方の唄ひ方に近いのが本当のやうに思はれてゐるやうです。けれどカチューシャの唄としてだけから言へば、唄らしいのは前の方でせう。其かはり後のに比べれば陽気です。よく活動写真などに添へて唄つてゐる陰気な単調な讃美歌のやうなのは、本当ではありません。病院の場で唄ふのでも、悲哀の中にやはり此歌本来の節廻しはなくてはなりません。
 この病院の場の唄は前に申した如く、其前の場でどなつた後ですために声がつかれてゐて、舞台裏で生卵を飲んで出る位にしても苦しいのですが、其他あの場合にあの歌を唄ひ出させる手引になるのは相役のフョードシアの唄でフョードシアの声の調子一つでそれに連れて歌ひ出すカチューシャの声の調子が極 き まるのですから、いつもこれには苦心します。先方 さき がうまくこちらの注文通りの調子で引出して呉れゝがいゝのですが、それが中々さう行きません。それと今一つは最後に二人一緒に唄つてゐる中に幕が切れるのですが、其幕がちょうど歌の終ると同時に下に降り切るようにして、音もなく静に、唄につれて、切れると、初めて見物が拍手しますが、ちよつとでも其呼吸がはづれると誰れも拍手する気になれません。

 □監獄の場

 監獄の場は前半ではカチューシャが堕落した身の上を話す所、また後半では公爵に逢つて罵るところと、仕所が二つに別れてゐますが、前半は脚本の筋がまことにおもしろくよく出来てゐますから、あの長い身の上話も自然と見物を飽きさせないやうに、楽に藝が出来ます。一体芝居は目に訴へるのが大部分ですから、すべての事件が舞台の上で、みな現在に行はれるやうに出来てゐなければ面白い芝居にはなりません。過去の事や他所で起つた事を人物の口から物語らせるやうな行方 ゆきかた の芝居は概して面白くないと思ひます。なるたけ斯 こ ういふ物語の部分を減じて現に具体的に起こつた事として舞台の上に見せなければいけません。ですから身の上話などといふものは、芝居の中ではよほど工風をしないとだれて面白くありません。カチューシャのあの場の身の上話などは数ある芝居の中でも最も巧 たくみ に出来て、見物を飽きさせない物語の場面だと思ひます。その中でも「今度はシベリアかサガレンへでも行つてそこの牢番のお神さんにでもなるかハヽヽ」といふ、この「ハヽヽ」の切れの寂しみなどが最も藝のいる所だと思ひます。また後半、公爵を罵るところでは、何といつても、カチューシャが初めて昔の公爵と知つて、写真を叩きつけて、「うぬ」と一言、つゝ立つたまゝしばらく無言で睨みつけて、「うぬ、悪魔、悪魔」と連呼する、あそこのところが一番骨が折れます。すべて此後半の型は、初めは英国の女優がツリー一座でやつたといふ、其話に本づいて形をつけたのですが、段々何百回とやつてゐる内に、自分の型になつて、今では少々なりすぎたかと思ふくらゐです。それから今一つはあの幕切れ、うウヰスキーの瓶を落すのをキッカケに、全く彫刻身になつて、何か尊いものを見とめたやうな表情でぼうとなつて幕をおろすのですが、あれもしどころの一つです。またやけになつてウヰスキーをあほるところがありますが、あのウヰスキーの飲みやうが、ちびゝ飲むのでなく、がぶゝ飲むやうで、強い酒を飲む形でないといふ批評をよく受けます。あれも初めから其辺をいろゝ工風して見たのですが、まさかがぶゝは飲まないまでも、全く写実できついお酒を飲む人のまねをしたのでは、あの場合間を持つための目的に合ひません、どうしても或程度まで口にあてゝ時間を長めてゐる必要があるものですから、あんな風に折衷した飲み方をしてゐるのです。これら藝の上の特権として其嘘 そのうそ を許していたゞくほかはありません。

 上の写真と文は、『婦人公論』 秋季特別号 (第十号)現代女ぞろひ号 第一年 第十号 大正五年十月号 の 説苑 に掲載されたものである。



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