蔵書目録

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「天才楽師久野久子女史」 (1919.4)

2015年12月01日 | ピアニスト 1 久野久子

 

  東京音楽学校の教授にしてピアニストとして、天才のほまれ高き久野久子女史。
 
 天才楽師久野久子女史 
    《自働車で負傷したのが覚醒の動機》 
                      一記者

 ▽天才ピアニストの遭難

 梅日和の陽光 ひのひかり が空一ぱいに漲 みなぎ つて居る正午 ひる 前を、駒込林町ピアニスト久野久子女史を訪ひますと、女史は恰度 ちやうど 音楽学校へ出られる処でした。折角門口 かどぐち へ来た迎ひの腕車 くるま を戻して、態々訪問子を迎へられた女史は、紫紺地に溢 こぼ れ梅の刺繍 ぬひとり のある御羽織を無造作に、大島にかさねた姿で、洋風の応接間へ案内されました。
 応接には黒く輝いたピアノが一台、其上の美しい花籠が注意を牽きました。卓子 テーブル を挟んだ女史は白い足袋を足焙 あしあぶ りに乗せて、静かに訪問子の問ひに答へられるのでした。
 『強 しど い怪我を致しましてから、身体の不自由を感じます度に、自動車で轢かれた遭難当時を想ひ出し、其遭難が余り惨 いた ましかつたと思はぬことはありませんが、併し轢いた運転手を恨んだことはないのです、却つて深いゝ感謝に咽ぶやうなことがあるんですよ。熟 よ く考へると、妾 わたくし が世に出るやうになつたのも、実は当時の惨ましい遭難が動機となつたのですからね。』
 『遭難は一昨年の春でした。傷 きずつ いた身体を白い病床に横 よこた へて居ますと、何の新聞にも、妾の遭難した記事が大きな活字で書いてあるのでせう(天才ピアニストの遭難)と云ふやうな表題 みだし でね。夫 それ に時々思ひ設けもしない処から御見舞状も届くのです。妾は病床で、其新聞や御見舞状を拝見しまして、非常な感激を覚えたものでした。妾は社会から斯んなに注意されて居つたのかと思ひましてね。然 さ う思ひますと、妾の生命 いのち が大事なものになつて来ました。妾の芸術の尊さが自覚されるやうにもなりました。社会の期待に反 そむ いてはならぬと決心したのも其時でした。然 さ う決心すると、社会に対する責任観念が覚醒 めざめ まして、其覚醒が自分の存在価値を保証づけて呉れるやうでした。無な生存から自覚した生の歓びー妾の胸には歓喜がいつぱいに溢れるのでした。斯うした覚醒の歓喜も、不幸な遭難が與へて呉れた結果なんです。妾の生涯に、あの遭難がなかつたら、妾は或ひは一生生の歓びと芸術の尊さを自覚しなかつたかも判りません。然う思ふと、運転手は再生の恩人です。恨むことは出来ません。』
 『傷が漸次 しだい に快 こゝろよ くなつて退院しますと、田中理学博士が来訪されて、今度の遭難で有名になつたのだから此際 このさい 是非、独奏会をやれと勧誘して下さいました。博士は予 かね て妾の芸術を愛して指導、鞭撻して下すつた方です。妾も其時は、無自覚から覚めて居つた時でしたから、決心して演奏台に起 た つ覚悟をしたものです。作曲はベエートーヱ゛ンのものが、自分の心にしつくり共鳴して呉れるやうでもありましたし、卒業式の時にも演奏して時の文部大臣牧野男爵から美讃 さんび された記念もありますので、其作曲を択んだものです。愈 いよい よ演奏台に起つて、自分の芸術を社会へ発表しますと漸次芸術に対する自信を覚えました。世の中も亦歓迎して下さるので、帝都を初舞台に、各地の演奏にも出張したものです。京都の母校竹間小学校では、同窓の閨秀画家村上松園〔上村松園〕女史や日本画家山元春挙先生と一緒に旺 さか んな歓迎会を催されました。妾は身体が纎弱 かよわ くありました為め、此小学校の四年生で退 ひ いて終つたのです。夫 それ から暫時 しばらく 、郷里の大津市の宅でぶらゝ遊び乍 なが ら、生田流の師匠古川良齋先生に就いて琴と三味線の稽古をしたものです。其纎弱い妾が、昔の夢を残した母校で歓迎会を催ほされたり多くの聴衆を前に、独奏をしました時は、いろゝな意味で万感交々 こもごも 到ると云ふ涙ぐましい心になつたものです。』

 

 (演奏中の久野女史)

 女史は熱を帯びた瞳を天井へ凝乎 ぢつ とそゝいで、幼なかつた時の夢を追はれるやうでした 天井には電燈がぽつかり、紅 くれない の花笠を染めて居ました。纎弱かつた女史が、今日の地位を得られる迄には、非凡な努力を続けられたものです。音楽を志す人の為めに、女史の努力された実験を女史の物語の儘 まま に綴つて、参考にしませう。

 ▽幸田女史に囑目され

 ピアニスト久野久子女史が上京されたのは妙齢十八の秋で、都大路の街路樹がうそ寒い風に慄 ふる えて居る頃でした。上京の目的は、音楽学校へ入学される為めであつたのです。併し女史は初めから音楽学校へ入学する準備をして居られたのです。少女時代体質が優れませんでしたから、学校は尋常四年の頃から全く遠ざかつて居られました。然うして、琴や三味線を古川先生に習つて居らしたものです。
 其頃から、琴は先輩の御弟子達に擢 ぬき んでゝ巧みでありました。先生は可愛盛りの乙女を秘蔵弟子として、前途を嘱望されて居ました。『良齋先生の後継 あととり は久子はんやつて』御弟子達も然う言つて幼い久子さんを羨望したものです。処が久子さんの兄さんは、琴や三味線の師匠を妹に有 も つことは喜ばれませんでした。親類やお父さんを説いて、音楽教師にすることに決められたのです。順序として東京音楽学校へ入学せねばならぬのですが、久子さんは漸 ようや く尋常四年の課程を卒 を へられた許 ばか りでした。音楽学校の師範科は女学校卒業程度の学力が要 い りますので女学校四年程度で入学出来る予科から進まれることになりました。尋常四年生の学科より修めて居ない久子さんは、兄さんに督励されて毎日、英語や漢文の勉強を初められたのです。
 『漢文の先生の丁髷 ちよんまげ 姿を未だ忘れません』久子女史は、当時を想ひ起して斯う語られるのでした。夫でも何うにか、予科へ入学は出来ましたが、不自然に勉めた久子さんの学力では、予科の講義も完全に理解出来なかつたものでした。夫 それ で修業の時にも平均五十二点の得点で尾 びり から二番目と云ふ危い瀬戸際から漸 やつ と進級されたのです。修業式が済むと夏休暇 なつやすみ でしたから、久子さんのお父さんは、愛娘の為めに、三百円出してピアノを求めて下さいました。休暇の間にうんと勉強する決心であつた久子さんは、呪はしい病魔の手に酷 さい なまれて、帰省早々病床の人になられたのです。
 病気は肋膜炎で、久子さんの病床生活は七十日余り続きました。幸ひ健康を恢復することが出来たので、帰省後百日目に漸く上京されたのです。学校は勿論始まつて居ました。成績の好くない久子さんは、唯さへ解らない講義を、後から聴く為めに一層難解でした。併し久子さんは夫が為めに落膽するやうな弱い女性ではありませんでした。苦しいゝ努力の日を続けられたが、何うも他の同級生と並行することが出来ないのです。
 唯だ幸田先生だけが特別に久子さんに矚望されて、熱心に指導されたのです。
 『貴女 あなた には強い力が潜んで居ます、其力が自然に発動するまで努力せねばなりません。』
 久子さんは幸田先生の鞭撻に、力を得て蛍雪に苦 くるし まれるのでしたが、『潜んで居る力が何んな力であるか、自分には解らなかつたのです。
 久子さんの努力の効果は着々顕はれました、然うして本科の一学期を卒 を へる時は第三位を占めることが出来たのです。此 この 好成績は幸田先生は勿論、他の先生達も眼を睜 みは つて驚かれたものです。久子さんの成績は夫からぐんゝ進歩して第二期が二番、卒業期には首位の栄誉を荷はれたのです。卒業式の時、臨席の牧野文相は久子さんの独奏を恍惚として聴かれたものです。処が学校を出るとすぐ、久子さんは再び病気に襲はれたのです。それは左の人指 ひとさしゆび が腐蝕する病気でした。蛍雪三年、尾から首位を得る迄、毎日ピアノを弾き疲れた指の痛みが嵩 かう じたからです。

 △再び病院のベツドに

 幸福に満ちた首位の卒業生久野久子女史の前途には又も暗影があらはれて、いたましい病院生活が再び繰返されました。医師も一時は元の儘 まま の指にはなるまいと宣告したこともあつたのです。ピアニストが指を失ふことは蟹が手を挘 も がれるに似た悲惨な事実です、折角苦しい努力を続けて、漸 やつ と学校を出て間もなく、此辛い境地に陥つた久子さんはしみゞ自分の拙い運命を喞 かこ ちました。
 久しい病院生活が続いた或る日の朝『肉が出来た、既 も う大丈夫です。』と白衣を着けた医師が、喜悦に満ちた声を出したのです。久子さんの指は斯うして、漸次 だんだん に肉を着けて来ました。
 『あの時だけは白衣を着た医師 せんせい が、救ひの女神のやうに尊く思はれました』と久子さんは当時を想ひ起して、微笑 ほゝえ まれました。無事に退院した久子さんは、再生した元気で更にゝ今までより以上の努力を続けられたのです。学校を出ても幸田先生の指導で、ロイテル師やケーベル師の薫陶を受け乍 なが ら、学校の大管絃楽 オーケストラ にも加はつて、ピアノの修業をなすつたのです。
 
 △女史の愛読書

 書棚には、音楽史なども見えましたが、その中にはルーソーの『懺悔録』や杜翁 とをう の翻訳物なども見えました。殊にドストエフスキーのものは熟読されたもので『虐げられし人々』は今も尚愛読されるものの1つださうです。
 『黒煙の底に真紅の焔が燃えて居るやうな露西亜の小説が好きです。而もトルストイよりもドストヱフスキーに共鳴されるやうです。杜翁は感情を理性で抑圧したやうな人ですが、ドストヱフスキーは理性を感情の大熔爐に溶 い れて居るやうに思はれます。偉大な感情の尊厳がドストヱフスキーの作には潜んでゐるやうです。妾は感情の尊さをドストヱフスキーから痛切に感ずることを得ました。』
 俯目勝 ふしめがち に語り続けられた女史の瞳は輝やかに再び天井の花笠へ注がれました。
 中庭に接した磨硝子 すりがらす へはもう正午 ひる に近い陽 ひ が静かにゝ這 は つて居ました。

 上の写真と文は、大正八年〔一九一九年〕四月一日発行の『淑女画報』第八巻 第四号 に掲載されたものである。上の写真は、口絵に、下の写真は、文中にあるもの。



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