蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「音楽一夕話」「呪いの葉書」  成瀬無極

2013年11月18日 | ピアニスト 1 久野久子

 三 藝檀の人々 〔下は、その一部〕

 音楽一夕話

 〔前略〕
 想へば日清・日露両役の時代から外遊の期間を経て今日に至るまで、随分多く洋楽を聴き多くの洋楽家に接して来たのだが、不思議にも音楽の上で私に深い印象を與へ内面的に影響した人々のうち非業の最期を遂げたものが三人まである。〔中略〕この従兄弟は分教場の出身だが久野久子と同期で卒業演奏会にも出演したが、私はその日初めて久野女史のベートーオヴェンを聴いて感激のあまり即夜「ピヤノ、ソロ」といふ短編小説を書き上げて上田敏・馬場孤蝶両氏監修の同人雑誌「藝苑」へ載せたところ「我れ汝ぢを呪ふ」といふドイツ文の葉書が舞ひ込んだ。(「呪ひの葉書」参照)久野久子の演奏はその後京都の府立第一高女と京大学生集会所で聴いたが、「ワルトシュタイン・ソナタ」では鍵盤が血で染まったやうに記憶する。最後に逢ったのは伯林のフィルハルモニイで、オイゲン・ダルベールの「ベートーオヴェンの夕」が催された時であった。その晩彼女は例の如く日本服で現はれ、近衛秀麿・兼常清佐氏等と賑やかに語り合ってゐたが、これが永遠の別れにならうとは恐らく彼女自身も夢想だにしなかったらう。「呪ひの葉書」の発信者も大学生時代に毒を仰いで死んでしまったのだから、つまり久野女史を中心として三人の男女が自殺したことになる。それから原千惠子は子供のときからの知り合ひだが、これも結局有島武郎に繋がる縁なので西洋音楽と自殺といふことが私の場合不気味な連想を伴ふ。
 〔後略〕

 呪の葉書

 一

 女学校の講堂で東京から入洛した久野久子のピヤノを聴く。女史の揺籃たる京都の某小学校の校長が女史の為めに自作の祝賀の詩を揮毫したのが二葉正面の壁間に掲げられてゐる。聴衆は主に男女の学生でOF会の連中らしい。夫人令嬢達が胸に造花の徽章を附けて斡旋してゐる。才色絶倫と噂されつつ一方にはまたその孤独な寂しい生活のために蔭ながら同情の涙を灑がれてゐる九條武子夫人が自づから主賓となってゐた。貴族らしい気高さと誇りを備へてゐて近づき難いやうに写真などから想像してゐたが案外に謙遜なにこやかな懐かしみのある人で、服装なども寧ろ質素に見受けられた。
 この夫人を見たのはその日が最初であったが、久野女史を演壇で見るのはこれが初めてではない。
 丁度十年前に上野で女史の卒業演奏を聴いたことがある。その時私は金釦のついた制服を着てゐた。女史はオレンジ色の羅衣 うすもの に蝦茶色の袴を穿いてゐた。
 十年振りに女史の姿を見てその演奏を聴くといふことは単なる好奇心以上に私の胸を波立たせた。名古屋から昨夜遅く入洛した女史は非常に疲労して、そのために出演の時間が少し延びた。それがまた聴衆の心を一層緊張させ期待の念を更に深くした。
 待ちに待った女史の姿が演壇に現はれた。十年の歳月は髪の黒い眼の活々した豊頬の少女から、落ち着いた、然し精悍の気が眉宇の間に漂ってゐるやうな三十恰好の小柄な婦人を作った。割れるやうな拍手が一しきり、それから聴衆は水を打ったやうに静まりかへった。女史は徐かに楽器に向ふとしばらく呼吸を整へてゐたが、やがて眠を粧ってゐた猛獣が機を見て電光のやうに獲物に飛びかかる時のやうに微妙な刹那を捉へて力ある指を鍵に触れた。この一呼吸には殆ど崇高に近いものが籠ってゐる。強大な潜勢力が表面の平静を破って迸り出る刹那である。静から動へ移る秒刻の美的過程である。白刃を敵の頭上に閃めかす刹那ばかりでなく、筆端を絹素の上に加へる瞬間にもそれがある。女史の男性的な熱情的な演奏振りは既にこの一弾に現はれてゐた。
 愈々あの恐ろしいベートオヴェンの「熱情曲」が始まるのである。
 聴いてゐる中に私の眼に涙が滲み出た。女史のエキスプレッシーヴな演奏振りと、その暗い半生と不可測な災難と、奇蹟とも言ふ可き快癒とーそれらの事柄に対する感動からでもあったろうが一方にはまた若かった自分を顧る一種の憂愁も交ってゐたに相違ない。
 金釦の制服を着てゐた私は、オレンジ色の羅衣を着た美しい痛ましい少女の心血を灑いだ演奏に熱い涙を流して家に帰って来ると直ぐ筆を執って深更まで書き続けた。感興の一端を作品として現はさうとしたのである。そしてそれを「藝苑」といふ雑誌に発表した。その中にはこんな文句があったー
 「ー実に彼女は自分で自分の楽に酔ってしまった。眼は燃えるようになり、頬は若々しい血汐で彩られ、曲のエキスプレッションにつれて眸動き、眉動き、頭動き、肩動き、腰動く、それに引き入れられて聴衆はまた彼女の動く通りに動くのである。曲が複雑に極め高調に達すると彼女は驚く可き卓抜の技量を示した。その白い手は最も敏捷に最も確実に動き、それにつれてオレンジ色の羅衣の袖長く柔軟 しなやか に飜 ひるがえ り、紅友禅の襦袢の袖口が縺 もつ れれかかる風情は美しい絵を見るやうである。その両袖を颯 さっ と靡 なび かして、身を横に、棄てるが如くに十指を右から左へ鍵盤の上に流せば、丁度河底の小石の上を一個の珠が響を成して弾丸のやうに走り下ルカと思はれて、一瞬の間に無数の音を含め、高音から低音へ移る、その疾さは、専門の大家も覚えず舌を捲き眼を瞠った。音楽の知識のあるものも無いものも一様に幽かな溜息を洩らした。ああ若い、美しい 熱心な 謙遜なーそして痛ましいその姿!満堂の男女は感極まって双眼に涙を浮べた。無骨な書生も不覚 そぞろ に胸の迫るのを感じた。まして年若い女などは竊 そっ と手布で眼を拭ってゐるものもあるーやがて長い曲も弾じ終へると人々は狂せるが如く手に持つ凡ての物を床に抛げ捨てて拍手した。掌の破れるまで、この堂が裂けるまで響けと、男も女も、老いたるも若きも、我先きに讃嘆感謝の念を弾奏者の耳に入れようとしてただその響きの高きを争ったー」
 〔中略〕
 この「ピヤノ、ソロ」と題した作を発表して四五日経つと私は一本の葉書を受け取った。差出人の名は書いていなく、しかも独逸文である。
 「汝は恐ろしい残酷な利用をした。あんまり露骨だ。誰でもすぐ記憶を喚び起こすことが出来る。残酷だ。余は汝を呪ふ。事件は極めて深刻な崇高な発展を持つ可きだった。神のやうな天才を侮辱したことになるではないか。余は汝を呪ふ。」
 〔以下省略〕

 三 〔下は、その一部〕

 「ピヤノ、ソロ」を読むと私の頬は赧らみ、私の心は委縮してしまふ。そこには不具のために恋に破れた少女が自殺の心を翻して芸術に生き、楽壇の勝利者として変心した男を見下ろす話が書いてある。何たる因襲的な構想だらう。それよりも何たる外面的な、型に嵌った、小技巧を弄した浅薄な描写であらう。筆を執った時の感激は何処に認められる。若い血潮の騒ぎは何処に聞かれる。かういふものを書いた私だ。恐らく今もかういふものを書いている私だ。O君の呪ひは深く深く私の額に刻み込まれれてゐる。どんな経験をしても、どんな感興が湧いても、それを描かうとするとき十重二十重に因襲の羇絆が私の腕に搦みつき、筆端を鈍らせ、曲げ、捩じり、掻き回してしまふ。イプセンの所謂「幽霊」がいつも想と紙との間に立つ。私の船はいつも死骸を載せてゐる。私はその臭い重荷に堪へえない。

 上の文は、昭和二十二年 〔一九四七年〕 四月二十五日発行の『面影草』 成瀬無極著 北隆館 の一部である。

 面影草由来 -序に代へて-

 明治大正時代から今日に至るまでおよそ四十年間に親炙した人々やその芸術を通して印象づけられた内外人の風貌を伝へ残したいといふ念願からこの書を編むことになったが、さて題を何と附けたものかと色々考へたすゑ面影草といふのを思ひついた。〔以下省略〕
 本書の内容はその一部を旧著「東山の麓より」「夢作る人」「偶然問答」「文芸百話」「人生戯場」「無極随筆」「南船北馬」「木の実を拾ふ」等から採って整理改訂し他の一部は新らたに書き下ろした。読者幸に之を諒し給へ。
  昭和十八年初夏 京都室町の寓居にて 成瀬無極識 

  流転の相  -再び序に代へて- 〔下は、その一部〕

 なほ、この機会に本書の全体に亘って校訂したことと、〔以下省略〕
  昭和二十年晩秋 遠州日坂村の旧家にて 無極識



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。