蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『採点簿』 東亜高等予備学校 東亜学校 (1934.9-1937.3)

2020年08月24日 | 清国・民国留日学生 1 教育、松本亀次郎

      

採點簿  東亞高等豫備學校

 ・時間割
 ・座席表 專修科第一期第三班(三階十五號教室)
 ・(專科一期三班) 自昭和9年9月 至昭和9年12月 學期  
 ・(專科一期四班)
 ・(專科一期五班) 
 ・(專科二期二班) 書取(月金) 
 ・(專科一期十二班) 自9年10月22- 學期

採點簿  昭和十年一月至三月  東亞高等豫備學校

 ・( 科2期6班) 自昭和10年1月 至昭和 年3月 學期
 ・( 科2期1班) 自昭和10年1月 至昭和 年3月 學期
 ・( 科1期2班)  
 ・( 科1期5班) 自昭和10年1月 至昭和 年3月 學期
 ・(專科一期六班) 自昭和10年1月 至昭和 年3月 學期
 ・(英語高級1班) 
 ・(英語高級2班) 自昭和10年1月 至昭和 年3月 學期

     採點ニ関シテ

 專修科第一期ノ分科ハ讀方・解釋・會話・文法・書取・作文ノ六科ニシテ各科一〇〇點ヲ以テ満點トナス。讀方及解釋ハ日本語のはじめ・日本語讀本第一部・仝第二部担任ノ三先生ニ於テ夫々採點シソノ三ツヲ同一カードニ記入シ班主任ソレヲ平均シテ夫々ノ學科カードニ轉記ス。

 採點ノ要領  採點期間中自分ノ持時間ニ於テ適宜ノ方法ニテ試驗ヲナシ、ソレニ平常點ヲ加味シテ採點ス。

 第一回採點記入済ノ上ハ一先ヅ椎木マデ御廻付ヲ乞ヒ第二回採點ノ時マデ事務所ニテ預ル。

 及落標準  單科五〇點以上平均六〇點以上出席日數授業日數ノ五分ノ三以上。

 完全ナル皆出席者ニハ學期末ニ於テ賞品ヲ授ク。

  

採點簿  昭和十年四月至七月  東亞高等豫備學校

 ・ 第一回試験豫定 5/29水 5/30 5/31
 ・(專科三期二班) 自昭和10年4月 至昭和 年7月 學期
 ・(專科二期二班)  
 ・(專科1期6班) 自昭和10年4月 至昭和 年7月 學期(專科一期三班) 自昭和10年5月 至昭和 年7月 學期
 ・(英語科高級班)
 ・(英語科普通班) 
 ・( 科1期10班)
 ・ 時間割

採點簿  東亞高等豫備學校

 ・(專科一期三班) 自昭和10年9月 至昭和 年12月 學期
 ・( 科一期六班) 
 ・( 科二期四班)  
 ・( 科一期八班) 
 ・ 座席表
 ・(專科一期19班) 自昭和10年10月 至昭和 年12月 學期
 ・ 座席表
 ・(英數科初級)  自昭和10年9月 至昭和 年12月 學期
 ・(英數科高級)  自昭和10年9月 至昭和 年12月 學期 
 ・ 時間割

採點簿  昭和十一年一月ー三月  東亞高等豫備學校

 ・(英數科高級班)
 ・(英數科普通班)
 ・(專修科二期二班)
 ・(專科二期五班)
 ・(專科三期二班)
 ・ 時間割

採點簿  昭和11年4月至昭和 年7月  東亞學校

 ・(專科1期5班) 自昭和11年4月 至昭和 年7月 學期 (主任)高仲
 ・(專科一期二班) 自昭和11年4月 至昭和 年7月 學期 (主任)魚返
 ・(專科3期2班) 自昭和11年4月 至昭和 年7月 學期 書取、週二回 
 ・(英數科普通班) 自昭和11年4月 至昭和 年7月 學期
 ・(英 科高級班) 自昭和11年4月 至昭和 年7月 學期

採點簿  昭和11年9月至昭和 年12月  東亞學校

 ・( 科2期1班) 主任級 自昭和11年9月 至昭和 年12月 學期 
 ・(專科1期7班) 自昭和11年9月 至昭和 年12月 學期 
 ・( 科1期12班)  
 ・(英數科高級班) 
 ・(英數科普通班) 自昭和11年9月 至昭和 年12月 學期

採點簿  昭和12年1月至昭和 〃年3月  東亞學校

 ・ 時間割 1937.1-3月
 ・(專修科3期1班)
 ・(專修科1期4班)
 ・(英語科高級班)
 ・(英語科普通班)
 ・ 時間割

〔蔵書目録注〕

 この採点簿は、東亜高等予備学校後に東亜学校と改称、で教員を勤めた魚返善雄氏のもので、彼の受け持ちクラス分と思われる。
 なお、昭和十年四月から七月の採点簿にある「張鶴、雲」とは、張天虚(雲南省昆明市出身)のことと推測される。
 中華人民共和国国歌「義勇軍進行曲」の作曲で知られる聶耳は、彼の同郷の後輩で親しい友人であり、日本滞在中の聶耳の世話をしたことでも知られる。
 この採点簿には聶耳の名前はないが、同年四月十八日に東京へ来てすぐこの学校の授業を二コマ聴講し、翌日入学手続きをとったと日記に記している。また、友人への手紙では、この学校で一日四時間学習したとある。七月十七日聶耳が鵠沼海岸で溺死後も、張天虚はいろいろ後の面倒を見たという。

 なお、下は、『聶耳全集』中巻・文字編 文化藝術出版社 2011年増訂版 の日記と手紙の一部で、この学校に関係ある記述の個所である。

 一九三五年

  四月十八日

   上午八时半抵东京车站,汽车直达张鹤的住所。“东亚” 听到两个钟头的课。

  四月十九日

   “东亚” 报了名,拉四点钟提琴。

 致友人艾思奇 

  在 “东亚” 上课,每日四小时,因为我是住貸间,练习会话的机会也比较多。

    5月11日

    致友人吴家蓉

  整天忙着赴音乐会和日本语的 “勉强” ,好像每日的时间还是嫌不够,不过,是比较在上海愜意得多了! “东亚” 虽然每天有四小时,但教得实在太慢,我自己看两天,可以够他教一个礼拜,不过多听也是很有用的。相当的喜欢看日本有声电影 ,这对学习日本语的帮助 ,我觉得比什么都大。

    5月18日



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