・丹澤主脈縱走 (地圖 上野原、八王子、秦野、藤澤)
主脈縱走路は丹澤山塊の本町通りであり、山の全貌を知るには好適な徑路である。若し、ヤビツ峠から三ノ塔、烏尾、行者、木ノ俣大日、塔ノ岳の表尾根縱走が、丹澤の第一課とすれば、之は將に第二課の段階である。
此縱走路を歩く時は、早春より初夏にかけてよく、分けても、小鳥の賑やかな六月ともなれば丹澤名物の白八汐の花や紫紅色の三葉つゝじが峯々に咲き誇り、丹澤の美しさが高潮期に達する時である。又、初秋から初冬にかけての佳さは格別で、丹澤獨特の茅戸の褥につゝまれた山々を秋草の徑を踏み分け、行雲を追ふて行く情趣は、此徑路を更に、印象的なものにする。
一般に主脈縱走とは、南面の塔ノ岳から北上し丹澤山を経て、山塊の最高峯蛭ヶ岳を越えて姫次の高原を過ぎ、燒山の山腹を捲いて、山塊を南北に縱断する徑路を言ふのである。
南口の大倉口は、昭和二年四月に東京急行電鐵小田原線(元の小田原線)が開通して大倉尾根南方六粁に澁澤驛が営業を開始されるや、漸次、登山者が増え、更に昭和十四年一月に塔ノ岳山頂に横浜山岳會の尊佛小屋が竣成するや、俄然、利用者が激增し、遂に一般縱走者の表玄關となったのである。
南方登路大倉口は、澁澤驛から大倉迄、坦道がつゞき夜道をかけても途中に指導標があるので實に判りよい。尾根筋に入つても上り一本道で、たゞ水無川と四十八瀨川に挟まれた痩尾根「馬ノ背」さへ注意して通り過ぎれば危險な處はない。そして、塔ノ岳まで頑張れば丹澤山と不動の峯蛭ヶ岳の登りの他は、下り一方で樂ではあるが、餘り龍ヶ馬場や姫次あたりの高原狀の氣持の良さに、のびて居られない事情がある。それは島屋の終發乗合が、十七時三十分(十九年四月調)に乗遅れたら帰京する事が出來ないからである。
此縱走路の佳さは新宿から毎時、小田原行が出て居るので都合のよい時間を選擇する事が出來るのと、前進根據地が豊富な事である。卽ち澁澤驛構内の丹澤山の家、驛前松屋、大倉尾根登山口の大倉山の家、塔ノ岳頂上尊佛小屋等々である。(驛構内の丹沢の家は都合により廢止された)
主脈縱走は徒歩行程約三十六粁、十一時間を要するので相當健脚でなければならない。出發は晴天でない限り中止すべきで、塔ノ岳尊佛小屋の番人は、土曜及祭日の前日の晩しか居ないので平日は宿泊が出來ない。其他は強行であるが、前夜大倉に假泊して早朝發ちがよい。水場が僅少なのと長丁場なので水筒、ランタンは必ず携帶すべきである。
澁澤驛から右へ線路を越えて、此附近の特産煙草畑と野菜畑を抜け、廣い縣道を突き切つて行くと堀西のとなる。こゝで三廻部への徑を左に見送り指導標に從へば、やがて大倉に入る。恰度澁澤驛から一時間の行程である。を出外れると、道は水無川に突當り瀨音が急に高まり響いて來る。此處の畑中左へ一丁許り行くと丹澤党にはお馴染の高橋新一郎君の宅、大倉山の家に着く。川沿ひに左に畑中を通り右側の小祠を見過ぎると大倉尾根の登口である。眼下には水無川の川原が白々と擴がり、仰げば行者山の岩峯が怪奇な姿を見せ、それにつゞく表尾根の山稜が壓する許りに近い。山腹を捲くヂグザクの徑は、間もなく急な登りとなり、軈てゾウジバの平に出て、尾根通しとなる。程なく名物一本松の休憩場に達する。一本松は昔から山路を歩く人達の好目標となり、懐しまれた巨松であつたが、昭和九年の颱風に吹き倒され、今は枯れたまゝ横たへられ憩ふ人達の腰掛となつて居る。次々に移植された松も又枯れて現在のは四代目位の筈である。茲から一足登る毎に右は表尾根山稜が、左は鍋割山稜が追つて來る。左上空には富士が美しい姿を見せて居る。五〇九米の堀山の三角點の右を過ぎれば徑は稍平坦となり、草原狀の吉澤ノ平の瘤に到り續いて小草ノ平になつて氣持ちの良い徑が続く。程なく徑が急な登りを見せて岩磐の露出した間をよぢ登つて行く。右側の大きな石の上に前尊佛の像が上半身の姿を岩に凭せて安置されて居る。花立ノ頭は此処から暫く上つた所の草山で、徑の左に石像が立つて居る。仰げば目指す塔ノ岳の頂上は目前に迫り、右に續く表尾根山稜が折柄の風に茅戸の波を打たせて居る樣は仲々壯觀である。此處までは來れば、通稱大倉の馬鹿尾根も漸く峠を越した譯である。此尾根は一般に溪々の溯行や表尾根其他の縱走の歸路に利用される事が多いので、體力消耗しきつた登山者達が此長い尾根筋の歸路に飽々して大倉の馬鹿尾根と名付けて居るのである。併し此尾根は仲々優れた展望と丹澤獨特の佳さを持つて居る事は、塚本さんの寫眞に依つて證明されると思ふので茲では喋々としないのであるが、中でも此花立ノ頭の氣分は、尾根隨一ではないかと思ふ。花立から一旦下つて馬ノ背と言はれる痩尾根を通り一一五七米圏の金冷シノ頭で、左に四十八瀨川の源頭を繞る鍋割山稜徑を見送り樹林地帶に入り樹間のヂグザクの最後の登りを喘登する事暫くして展け茅戸の明るい頂上に辿りつく。塔ノ岳の展望は寔に素晴しく、南に富嶽を盟主として愛鷹、箱根、そして遙かに天城の山々、瞰下すれば、相模野の果遠く霞む相模灘の銀波東すれば、大山の尖頭に續く表尾根の山稜、西に転ずれば、檜洞丸、ドウカクの西丹沢の雄峯が畳々として重なり合つて居る。草原狀の南北に広い山頂は石祠や石碑、石像などが指導標と交つて建つて居る。其北隅には横浜山岳會の尊佛小屋が建つて居る。小屋の名は、此山の北の肩にあつた五丈八尺の黑尊佛(狗留孫佛)といふ自然石の名に因んだものである。昔から此黑尊佛は、雨乞ひ開運の神として靈驗あらたかと言はれ山麓の人々の信仰をあつめて居たが、かの關東大震災にて大金澤の谷底に振落とされ今は跡形もなく徒らに地圖にその名を殘すのみである。古くから例年黑尊佛の祭礼は四月、六月に山北の川村岸の東光院に依つて行はれ御影札など配布されて居たが、明治初年に三廻部の觀音院が乗り込み、紛爭を起したりしたものだが、今は兩院共手を染めて居ないで、秦野町の行者か何かゞ、看板をあげて居る樣である。御本尊の黑尊佛が無くなつても、山麓の人々が何時の間にか變つた五月十五日の祭禮日には塔ノ岳に登拝するとの事である。面白い事にはその當日に頂上を始めとして大倉尾根の要所々々に近郷近在の名うての博徒共が網をはり、登拝に來る善男善女及登山者に對して運試めしの賭博を盛んに奬めたと言ふ習慣があつたさうである。
澁澤(一時間)一大倉(一時間)一一本松(二時間)一 塔ノ岳(三十五分)一龍ヶ馬場(二十分)一丹澤山(三十分)一不動ヶ峰(三十五分)一鬼ヶ岩(二十五分)一蛭ヶ岳(四十分)一原小屋澤分岐(三十分)一姫次岳(四十分)一黍殻(三十分)一燒山分岐(一時間三十分)一平戸(三十分)一鳥屋
上の写真と文は、昭和十九年九月二十五日発行の 『丹沢山塊』 日本山岳寫眞書 塚本閤治 生活社 に掲載されたものの一部である。