蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「芸術家の苦しみ」  久野久 (1925.6)

2011年04月20日 | ピアニスト 1 久野久子

 

 芸術家の苦しみ ドイツで 久野久

 ・あせり苦しんでゐる私

 なつかしき故郷!に居られる方々、わけて私が外国へ来ることが出来るやうになるために数々のあつき御同情をうけました方々から、又ベルリンに居られる同胞の方々から、私へ「ドイツ音楽界の感想を話せ」といふ御言葉をたびくうけました。しかし自分をかへりみる必要のないほど、このやうなあはれさでどうならう?!と絶えずあせり苦しみ通す私が何とお答へ申してよいかと逡巡しました。けれどその御親切に対して何か申し上げます勇気をヤツト出しましたので御座います。その私が今一度申し訳を致したいので御座います。それはかうで御座います。前にも述べました通り自分のあはれに苦しむ私でありながら私の心に湧き出づる自然の感想をそのまゝに申さぬ訳にも参りませんので、私の行き届きませぬ言葉のために私の本心と違つたやうなことを申すやも知れませんから。そして皆々様に御誤解をうけはせぬか?に就いての心配が御座います。どうかへ私のこの心配の意味を御同情を以て御了解下されまして、申すまでもありませんが、私自身なぞは全然とり除き、たゝへ皆様の御親切なる御言葉に接しお答へ申さぬことは申し訳がないとて廻らぬ筆を無理に走らせたので御座います、随つてせめて御一読を賜はらば誠に有難う存じます。

 ・ヴィーンへ参ります

 皆様も御存じの如く、二百年の昔から今日に至るまでーーその間に十年前に起つた大戦争でメチャくになつたにも拘らずーー尚ほ依然として世界一の音楽国の誉(ほまれ)を保つてゐるのは独墺で御座います。その独都ベルリンに一年間を過ごしました私は、どうやら「音楽のベルリン」の見当もついたやうな気も致しますので近々も一つ奮発して大楽聖ベトーフェンを初め、シユーベルト、モザート、ブラームス……なぞの終焉の地でもあり、現代もその道の第一位者であるザワーやストラウスなぞの老大家が集つてゐられる墺都ウヰンへ移り住み、私の力の続く限り深くく研鑽して見たいと存じて居りますが……
 さていよく私の今日までの感想はほんの思ひついたまゝに述べて見ませう。

 ・日本の国はまだ若い

私は平生から、かういふ風に考へて居ります。-と申すのは一体世界の人種に変りはあつても、-即ち文明国人といはれても、野蛮国人と呼ばれても、また黄色人種と、黒色人種、白色人種もつまるところは同じく人間には相違ないのです。だからその人間のやつたことや、やつてることが人間たる以上はやれぬ筈は絶対にないと断言します。また現代の一等国と称へられた国ー例へばギリシヤの如きーーも現代はウント下つた位置にゐる例もあります。その一等国と呼ばれる国にするのには何の力によるのかと申しますと、国土の豊かなことも少しは関係するでせうが、そんなことは殆んど問題になりません。唯一つの人間の力で国をもち上げるのです。即ち一個人の力が集つてです。むろん各個人の努力ー健康ー才能ーの結晶が集つて段々に立派なものに築き上げられ、さうして一等国になし得たのです。ところが振返つて、「わが日本国はどうか」といふと、いはゆる文明国と称せられる西洋諸国に比べるとまだホンの「赤ん坊」見たやうなものとしか思はれません。何故かといひますと世界的に眼覚めてからまだやつと六十年に足らぬ若さだからです。一体どうしてこんなに日本が遅れたのかと考へてみますと、それは一つは東の隅の小さな島国であつたからでもありませうが、昔から海を距(へだ)てた隣国の朝鮮や支那から知識をとることに汲々としてゐた結果、その反対の隣国米大陸なんかを見るのが遅かつたからではないでせうか。しかしながら私は固く信じます。わが日本人は体こそ小さいが、非常によい頭脳をもつてゐるから、何をやらせても発達が頗る速い。だから生まれてからまだ五六十年にしかならない。いはゞ赤ん坊国なのに、もうそろゝ一等国の仲間へ頭を並べかけて来たとかいふことをきゝました。かうして延びて行く若い幼い日本の国は追々に年が経つに随ひ、他の兄さん国や、姉さん国のよいところばかりを見習つて生長して行くならば、この赤ん坊国には大いに将来の見込みがある。-即ち赤ん坊であることが却つて幸ひであるかも知れません。

・努力-健康-才能

 実際、文明国と威張つてゐる西洋諸国だつて決して何でもかでもよい訳ではありません。日本固有のものゝ方が遥かによいものも沢山あることはあると思ひます。だから取捨選択の自由を持つ赤ん坊国日本は自国にまだない文明国の長処ばかりを適当に選んで自分のものにして行けばよろしい。同時に日本人は頭脳はよいとはいへ、また幸ひに幼いとはいへ、いはゞ「痩せた赤ん坊式」といふ形容を免れないでせうし。それに努力は健康より生れ、才能や天才は努力から生れると申しますから、今日の日本人の体格までを世界的のものにする必要もあるでせう。かうなるとなかゝ困難なことではありませう。即ち一例を挙げて申しますならば、現代の文明国、一等国と威張る人々が日本語を学んだとて、とてもさう容易に覚えた日本語で日本劇ー旧劇のセリフや仕草をやつて見ると、如何にそれがむづかしいかゞ判るでせう。それと同様にその反対に日本人の私達は西洋のものを吸ひ取り、進歩して行かねばならぬ立場にあるのです。日本にもいづれは専門のオペラ役者が出来るでせうが、それがワグナーを初めあらゆる作者のオペラを仕草をやりつゝ、外国語で、しかも音階の細かい西洋音楽を唱ひこなすのは如何に困難なことであるかは思ひやられるでせう。……人間のやつたり、やつてゐるものが、われわれ日本人がやれぬことは絶対にないとは思ひますが、しかし体格まで改良させて行かねばならない我々日本人ーそしてその上に世界的に眼覚めたのが遅い日本人は、その健康と努力とを今後五十年も百年も続けた後でないとまだゝ真の一等国になることは困難であらうと思ひます。

 ・竪琴もない音楽学校

 さて他のことはまづさておいて、私は音楽にたづさはつて居りますから、この方面のことどもについて申しまするならば、日本の官立音楽学校が上野の森の中で呱々(ここ)の声をあげたのは明治二十四年だと承(うけたま)はりますから、まだやつと僅かに三十年にしかならない訳です。けれども追々に生長して近頃は余程進歩したといはれてゐます。しかしまだく遺憾ながら設備といひ、研究といひ、不足したところが沢山あると思ひます。たとへばオーケストラなんかにおいて殊に然りです。その日本にたつた一つしかない堂々たる官立音楽学校にHarfe ハルフエ(竪琴)が無い。その外にも大パイプオルガンが無いなんていふのはなんと情けないでは御座いませんか。尚ほその他にも種々(いろいろ)とありませうが、それは適当な方々からいづれお話が出る事と存じます。又オペラ役者なんかはさう急に出来ないでせうから追々に待つとしませうが、芝居にぜひ使つてほしいのは進歩した電気照明ー假(たと)へば雲が走るとか、星がきらめくとかいふ自然的背景です。

 ・音譜は国際語です

 以上申したのはほんの一二気のついたものですが、これ等はぜひ一日も早く備へつけてその道の専門家も追々に養成して行きたいものだと思ひます。一体わたくし達の学ぶ「音楽」はもちろん外国語を学ぶ必要はあります(殊に声楽や作曲を学ぶ人には)が、他の学問を学ぶ方々に比べて、世界各国が言語と文字をみんな異にしてゐるのに、「音譜」といふものは世界共通のエスペラントのやうなものです。私共はたゞそれによつてやつて行くのですから、最初に正確な歩み方を立派な先生から習び、原理をよく頭へ入れてしまへば、それからあとは個人の頭の力と研究次第で演奏者はもちろん、作曲者といへども進歩発達を世界的に成功させる事が出来る訳です。(他の学問も同じ訳ですが、芸術上のものー即ち音楽、絵画、彫刻なぞはその点だけには困難さは同じでせうが、面倒さが少いといふだけです。)
 かういふ訳ですから日本人だつてこれからウンと勉強して行けば追々に世界の演奏者なり、作曲者なりが生れ出ることはあり得べきこと、否な必ず近き将来にあることゝ信じます。

 ・私の聴いた演奏

 ナニ、私が此方へ来てから聴いた音楽会の感想を述べろと仰しやるんですか、X〔一字読めず〕ゝよろしう御座います。さあ、私はもうかれこれ数十回も聴いたでせうね。その季節になると殆ど毎日二つ三つも演奏会がありますのでどれへ行こうかと迷う位です。しかし私はぜひ聴かねばらぬと思ふ大音楽会の外はやはり専門のピアノのよささうなのをのみ撰んで参りました。その重な先生方の名を申してみませうなら。「ザウワー。ダルベーヤ。フリードマン。ランブリノ。ガルストン。ギーゼキング。ケンプ。フヰツシヤ。シユーナーベル。ペトリー。クロイチエル。ブゾニー。ラモンド」‥‥‥なんどゝいふ方々です。

 ・ザウワー先生について

 右の中でザウワーとダルベーヤの両老大家は申すまでもなく共に現代の第一人者ですからさすがに大したものでした。しかしどちらかといへば私はザウワー先生の方が一段秀でゝゐらつしやるやうに感じました。その他の先生方もいづれもさすがは本場の檜舞台に立たれるだかあつて皆それゝの特長があり、全く曲を自分のものにして余裕綽々たるところがあることは何んと形容したらよいでせうか、まづ鞠を手玉にとつてゐられると申しませうか。と申して指先きだけで遊びごとのやうにやつてゐられるのかと申すと、決してさうでなく、寒い寒い、息も凍る位の時候なのに滝のやうな汗をタラヽ流しながら演奏してゐられるのです。しかしどんな名家の演奏を聴きましてもその曲目残らず完全無欠で点のうちどころが無いとは思はれません。そこが芸術の偉大な、深遠なところで、如何に複雑な、むつかしいものであるかの価値が即ちこゝにあるのだと考へられます。それから音楽会毎に特に私の学ぶべきでもあり、感じますことは以上のどの先生方でも左手と右手の調和と、ペダルの使ひ方の上手なことです。例へば申しますなれば、右がメロデーの時は左を伴奏として巧に現はし、左の時は右を非常に上手に現はされます。又ペタルについての一二の例を申せば、P(ピアノ)とフォルテ(強)との差をペタルの使ひ方で巧に現はしたり、自分の欲する音を和声(ハーモニー)学上の規則を完全にしておきながらペタルの力である音をあとへ残して次の方へとダンヽに移つて行かれます。(その残した一音は聴衆に快く目立つて聴(きこ)えながら次のハーモニーに移つて行く)

 ・新人ギーゼキング氏

 ところが前申した方々の中でたつた一人特に異彩を放つた新人があります。それはギーゼキング氏で、この人は古典曲も、近代、現代曲も弾かれますが、非常に新しい弾き方で、私には大へん参考になり、興味深く感じました。と申すのはこんな大家でも、P ピアノ 或はPP ピアニシモ でなければ決して左のペタルを使はないのに、このギ氏はPはもちろんMP メツオピアノ (中位)でもペタルを使はれます。だから左の足を後へひく隙(ひま)がないくらゐにペタルを使ひ、非常に弱い音を弾き現はされます。そのよい悪いはさておき、こんな若い新人を一度日本へ招聘したら、大いにピアノをやる方々の御参考になる事だらうと存じます。私は大へん興味をもちましたのでこの方の演奏会には欠かさず行きましたから前後六七回も聴いた訳になりませう。さうかと思ふとこゝにも一人ペードリー教授のベートフエン・ソナタ、アーベントを聴きました時は一回も左のペタルをお使ひになりませんやうでした。がしかも完全に巧にPとフオルテとの差を弾き現はされました。これに就いては一度同先生に質問して見たいと存じてゐます。とにかくギ氏は左のペタルを沢山使ひペ氏は左をちつとも使はないのに共に強弱を巧にしかも完全にあらはされるのは非常に興味があることだし又研究すべきことだと思ひます。このペタルの使ひ方についての知識は私のかねてから大へん望んでゐることなのですが、私はどうも古典的作曲者の曲よりも、中世から現代にかけての作曲者の曲の方が左ペタルの足を余計に使ふものゝやうに存じます。結局このペタルの踏み方、又は曲の理解の仕方は西洋音楽は和声(ハーモニー)学上にによつて成立つたものですから和声をよく理解した上、それを巧く適切に勉強すべきものだと私は思ひます。このことはなほ十分研究の上又申します。

 ・聴き手としての用意

 一体、私は各演奏会を非常に忠実な研究的な聴き方を致しました。即ち私がききに行くべき演奏会のプログラムがその前週に発表せられると、直ぐその楽譜を見て買ひ求めて自身で前日までに弾奏し、知つてゐる曲は勿論、知らない曲だと尚ほ更覚束ながらも幾度も繰返して弾いて見ます。--丁度学問の講義の下調べのやうにーーそしてさてその当日になりますと必ず楽譜と鉛筆とを携へて会場に臨み、各演奏者の態度、弾き方、音響、ペタルの使ひ方、なんどを仔細に観聴して注意すべき点だの批評なりを一々書き入れたりしました。だから一演奏会毎に頭と耳と眼と手とを一時に働かせねばなりませんので、随分に疲れました。けれど非常によい学問をし、どれだけ利益を得、よい参考になつたか知れません。先生の前で教へを受ける時のやうな「恐れ」と「苦(くるし)さ」はありませんし、殆んど学ぶ上には変はりはないほど得るところがあります。又同じ曲をいろゝの変つた先生方から聴いたり、弾方を研究するのは大へん結構なことだと存じます。一体、芸術といふものー例へば音楽の演奏そのものには秘密が絶対にないものです。即ち決して蔽ひ隠すことの出来ないものです。だからその個人々々に赤裸々にその人格なり、性癖が現はれるものです。かういふ訳ですから、各演奏会毎に私は一一親しくお目にかゝりませんが、大抵どんなお方かといふことをほゞ想像することも出来ました。このやうなことは皆様(音楽を御勉強の方々)は既に御存じとは存じますが、私が切に思ふことですから申し上げます。また無駄でも一言お勧めを致します。それは幸ひ近頃は日本へも追々と世界的の大音楽家が来られるやうですから、どうか私が此方(こちら)で試みてゐるやうな方法で、その大家の演奏をお聴きして戴(いただ)きたいと思ひます。

 ・オーケストラのお話

 次はオーケストラですが、当時こちらでの名指揮者は(ドイツではこの指揮者が大変に人気がありますが又実際に大したものなのです)ブルノワルタ教授でせう。次いではハーゲル教授‥‥‥と沢山ゐられます。今春かの名高いラインハルトの大劇場 グローヒス シヤウスピーレ ハウス (俗称五千人劇場)でヘンデル作曲の「オラトリヲ・サムソン」をやりました時は舞台に登る合唱団が三百余人に上り、立唄手 たてうたひて は五人もありました。そしてその前のオーストラを率ゐて指揮をしたのが、そのブルノワルタ教授でした。御存じでせうが、このサムソンといふのは主人公の名で、ヘンデルの時代にはまだ現代のやうな仕草をやつて唄ふオペラは無かつたのですから、これは宗教的のしぐさのないオペラです。だからそのオーケストラには特にピアノとオルガンが入つてゐました。しかもそのピアノはバツハ時代の小さなのを使ひました。ワ教授の指揮振りといひ、その他のいづれもが立派なもので、私にとつては非常に興味深くまた印象が強く残つてゐます。

 ・可愛い子供の独奏会

 ベルリンでは時々七八歳から十二三歳位までの子供の独奏会が御座います、何ぶん子供の事ですから子供らしい芸当ではありますが、また中にはなかゝ立派な曲を弾いて驚かされる事もあります。それは日本でも例へて申して見ませうなら、役者の子供は小さな時から踊りも習へば三味線も習ひ、二十歳も過ぎるともう一通りの役が出来るやうになりますが、それが果して名人役者になるか、ならないかはそれから後に定るのと同じやうに、これ等の子供もどんな名演奏家になるか否かは、それから以後に定まるわけです。しかし日本の音楽に比べて西洋音楽はウンと複雑な上に数が非常に多くいくらでも尽きぬ程あります。その上に作曲者はドシゝと新曲を創作しますから、名人になる骨折りは又大変なものだと思ひます。一体こちらでは名高いピアニストは老いるに隨ひ何れも作曲に没頭し演奏から遠ざかるやうな傾向があるやうです。これは演奏するには体力が恐ろしく必要ですから老体では大儀なのが原因ではありませうが、又一つは後世へ名を残さうとせられるのではないでせうか。例へば最近亡くなられた老大家ブゾニーの如きはその好例です。又かのリストも非常なピアノ演奏者でしたね。私は過日ワイマールにリストの旧宅を訪れました。又現代の有名な演奏者もやはり自分自身の作曲したものをよく演奏されるやうに思はれます。又曲目で申せば此方(こちら)の音楽会には現代の曲目も沢山やりますが古典的(クラシツク)の曲も随盛んにやります。殊にベートーフエンのものはソロでもオーケストラでも非常に多いやうです。しかもその曲目は日本でよくやりよく聴く曲がこちらでも亦多くやるのはやはり一寸うれしう存じます。

 ・新曲を研究してほしい

 さて私がこちらへ参つてから切に感じ日本の音楽家の方々に是非ともお願ひ致したいことは数々御座いますが、まづ第一にあらゆる音楽家はいつももつと和声(ハーモニー)学を頭において勉強していたゝ〔濁点あり〕きたい。(これは和声学を特に勉強せずとも出来ます)それからまた近代から現代の作曲者の曲譜をどしどし取りよせてそれをウンと勉強していた々〔濁点あり〕きたい。その新しい作曲者の重な方々は『スコツト。デプシイ。ドナニー。スクリヤピン。テレスコ。ストラウス。マーレル。グラナドス‥‥‥』なんかといふ人々ですが、殊に最近亡くなつた「スクリヤピン」の曲はピアノ専門の方にはぜひ勉強していたゝ〔濁点あり〕きたいと思ひます。これ等の現代的新曲はきき馴れない裡(うち)は少少むつかしいかも知れませんが、追々にそれに親しんで来ればそんなに困難なものではないと信じます。たとへば、シヨパンやリストが創作を現はした時代は其の当時の人々の耳には、ベートーフエンやモザートやバツハの古典的の音楽のみを今まで聴いてゐたので、それ等の新曲をはじめて耳にした時にはそれが非常に新しく異様に耳に響いたことゝ思ひます。けれども現代の人々ーわれゝ日本人ーの耳でさへもそれ等の曲はもうちつとも異様に聴えません。つまり耳になれてしまつてます。これと同じく現代の新曲も最初はちとむつかしく少々異つてゐるやうに思はれるかも知れませんが、少し耳に馴れゝば何でもないと思ひます。だから是非一つこれ等現代の新曲を親しみと理解とを以て研究していたゝ〔濁点あり〕きたいと存じます。

 ・留学の責任は辛い

 それからも一つ。近頃は幸ひなるかな、世界的の名家がドシドシ来朝して演奏せられるやうですが、ウンと身を入れて、仔細に研究的に観聴していたゞきたい。これは私がこちらへ来てからヒシくと感じたことで御座います。そりや洋行して本場の実地研究は申すまでもなく無論よいことです。けれど洋行といふものはとても夢のやうな華やかなものではありません。外国まで来て努力の責任をもつてるのは並み大抵のことではありません。私は思ひます。お金持ちの一等国の人々でも全国民の何分の一といつてよいか判らぬ位僅かな人々が外国へ出るのでせうから、日本人でも同様に全国民からいふといくら沢山海外へ出るといつても実に僅かなものでせう。だから出来るだけ洋行をおしなさいとお勧めも致します。しかしながら近頃は幸ひと日本へ頻々と世界的の名家が来朝して演奏をせられますし、書物や楽器なんかはお金次第でいくらでも備へられるし、それに蓄音機もあれば、最近にはラディオなんていふ便利なものが流行して来ました。かうして世界にあるものは何でも必ず日本にあるやうにして行けば追々に別に洋行なんかしなくつても、洋行をしたのと同じ進歩を日本に居ながらにして十分研究し段々に向上することが出来るやうになり得るだらうと考へます。否な是非一日も早くさういふ風になるのを切望いたします。
 
 ・皆さんさようなら

 申しあげたいことはまだへなかへ尽きないので御座いますが、もう随分と沢山くだらないやうなお話を申しあけましたから又の折にーいづれ帰朝致しましてからのお土産話にと残しておき、今度はこの位でもう筆をとゞめませう。この私の愚かな考へが皆様にとつて何かの御参考にでもなりましたならもつけの幸ひで、私の本懐とするところで御座います。(をはり)

 上の一文は、『女性』 大正十四年 〔一九二五年〕 六月号 (第七巻 第六号:大阪 プラトン社)に掲載された。もので、「編輯後記」には、「久野女史の「芸術家の苦しみ」は、此の人の絶後の文稿であり絶筆であつて涙なしでは全く読れない哀篇である」などとある。

 また、巻頭の写真は、大正十三年  〔一九二四年〕 十月廿二日発行 の『アサヒグラフ』 第三巻 第一七号 に掲載されたもので、次の説明がある。

 最近の久野久子女史

 音楽の都ベルリンの久野久子女史

 昨春京阪神で本社主催の告別演奏会を後に渡欧した天才ピアニスト東京音楽学校教授久野久子女史は伯林は滞在一年にして今墺都ウヰンへ移り其道の蘊奥を究めやうとしてゐる(写真は女史が最近本社に送られたもの)

 Above : The latest portrait of Miss Hisako Kuno, a wellknown pianist.

 なお、下の写真は、『写真通信』 第百三十六号 大正十四年 六月号 の「“写真通信” 写真月報」にあるもの。

  

 四月廿二日 自殺した久野女史

 音楽研究の為外遊中過度の勉強からオースタリーウィンナで自殺した久野久子女史

 

 上の写真は、「今は歿 な き久野久子女史」として、『サンデー毎日』 第四年第二十号 大正十四年 〔一九二五年〕 五月三日 に「久野久子さんの自殺」とともに掲載された。下は、同じ頁にあるもうひとつの文である。

 伯林〔ベルリン〕に於ける 久野さんの思出 AN生

 二人の医者に伴はれて数日中にウィーンに立つからと挨拶に来て呉れた時の久野さんの緊張した相貌を今私は思ひ出す。
 ◇
 久野さんはウィーンは立つ前は西部伯林の中心ウッテンベルグプラツツ近くに二階の一間を借りて住んで居た。部屋は大きいがその中にこの間国元へ送られたグランドピアノが厳然と控へ、ベッド、炊事道具、化粧道具等そこには一切の財産が並べられて居た。和服の常用者であるから数足の草履さへ所得顔 こころえがお にスートケースの上に座を占めて居た。 
 ◇ 
 午前中はなるべく面会を避け、朝食にはパンを食べたり御手料理の御飯を食べたりしてお昼は定 きま つたように日本料理屋へ姿を表 あらわ し午後ヒルネをし夕方からベートーヴェンの譜の暗誦が始まる。
 其 その 暗誦こそは私をしてほんとうに涙ぐましたものゝ一つで、久野さんは時によると、夜の二時三時まで譜を頭の中へつめこむのであつた。不自由な身を持ちながら時には炊事までもして譜の暗誦に専心するー暗誦しうるまでは寝 しん につかぬーその熱心さを私は涙なしに見過ごすとは出来なかつた。
 ◇
 或時私は久野さんに伊太利 〔イタリー〕 へ行く気があるなら一度伊太利の新聞記者に会つておいたら好都合だらうと思つて、伊太利記者と会つてはどうかと勧めたところ、よろこんで応じたので一日日本人クラブに久野さんと音楽に深い諒解のある伊太利記者モランデー君夫妻とを招待して食を共にした。
 ◇
 久野さんは喜んで他日モランデー君に音楽修行感想談をし、モランデー君はそれを伊太利新聞で発表することを約した。久野さんはその草稿を物して居られたが発表の機会が得られなくてとうとうそのままとなつてしまつた。
 ◇
 久野さんは自分の旅行中の感想は何かの役に立たぬとも限らぬとの見解で感じたまゝ見たまゝ聞いたまゝを手帳に記しておかれた。ウィーンへ立たれる前に既にその手帳は三冊目位まで重(かさ)なつて居た。その手帳を操乍 くりなが ら久野さんは自分の芸術観を語られた。



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