蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『東京』 第五十五号 東京社 (1909.12)

2012年09月12日 | 趣味 2 絵葉書、鉄道、料理、関東大震災他

 表紙には、「週刊 東京 毎日曜日発行 第五十五号 明治四十二年 〔一九〇九年〕 十二月十九日 東京新橋 東京社」などとあり、目次も掲載されている。奥付には、「明治四十二年十二月十七日発行」とある。38センチ、16頁。

 目次  〔一部補充〕

 ・日韓合邦問題断案 社長 成田榮信
 ・送年の辞  
  人の目方

   

  其十二 平岡定太郎先生

 樺太は我新領土中の未知数なり従がつて如何に是れを利用すべきか、誘導すべきか、将た開拓すべきか、其責任は懸かつて長官其人の施設如何に在り、平岡先生、前熊谷長官の後を受けて、其任に在り、事業着々其緒に就きつゝあるは、先生の技量を證して余りあり、先生又た大島台湾民政長官と共に少壮為政家中最も将来に望を嘱せらるゝものゝ一人なり、先生努力せよ

 社告 ▲大阪支局設置〉
 ・臆病なる青年 … 大隈重信

 △人材果して過剰乎
 △下宿屋楼上の長嘆
 △学問の消化作用
 △学問と活用

 今の青年は記憶力に富めども活用の能力に乏しき者多し。原因は様々あるべしと雖も、試験制度の積弊亦與つて力あるが如し。卒業試験にせよ文官登用試験形式の立派なる理論も実社会の上に如何に応用すべきかを知るに苦しむが如し、但、機械的に多量の知識を詰め込み試験てふ脅喝を加へて奨励するものなれば記憶力だけにては慥かに発達せるが如し。記憶力は機械的に桝を以て測り得べきも人物の手腕と才能は斯くの如き単純なる試験制度に依て忖度すべからず。学校時代には机上に行政法を攻究し卒業後は人民の上に行政事務を取る。其の理論原則は同じきも、活ける人間は原則に当て嵌まれる行動のみを為さず屡々軌道を逸して行政官を迷はしむ。此の時に当つては通り一遍の学問のみにては切つて抜けられず一種の手腕と気慨に俟たざる可らず。結局は矢張り臆病にては叶ふ可らざるなり。(終)

 ・大阪市営電鉄の腐敗
 ・文久年間 鎖港談判 五十年前欧行記(八) ▲使節彌々マルセーユに着す

   

 上左:「当時の徳川慶喜公」 上右:「塩田三郎氏」

 三月十日

 午後三時仏蘭西国馬塞里へ着船、暫時にして同所コンシュルセ●ラール来る、使節上陸の手続談判あり、引続上陸、祝砲例の通、当港は、地中海の西北にて、アレキサンドリヤより互に対するの地、而して其殷富盛大は遥に超逸す、湾内東北より高二丈厚三丈程の石屏を築き、石屏の上段中段巨礟配列、自他国に入津の船舶都て此堡内に泊す、尚海水を市間より引、大小船に無数繋泊、連檣森立、密林の如く雲梯蛛綱に似たり、陸上は五層楼、六層楼、白屋黄堂、鱗次市衢寛厰、人民輻輳、茶寮酒肆、優伶歌童、工芸技巧一として備らざるはなし、初見の人、此に至つて驚かざる無し通街の中程を、馬車道となし、其左右を徒歩の地上となし、是は老弱往来、馬車の怪我を防ぐが為也、又街道の左右に、ガスランプ燈を置、夜行を便にす、四達の衢には多く花草を植、又は小池を造り、或は吐水の機を設けて、行人の観覧に備ふ、花麗に清涼謂ひ尽すべからず。

 ・銀行会社商店の実務 其十一 東京瓦斯の盛況

 ▲不景気と瓦斯
 ▲発達の由来 〔下の写真は、「東京瓦斯製造所」〕

 

 新吉原廓内に瓦斯燈の建設を試みんとして明治四年、時の東京府権知事由利子爵の計画したるもの、是れ即ち本邦瓦斯事業経営の端緒なり。由利子此の計画を起して間も無く没したるより其儘見合せることゝなりしが、高島嘉右衛門氏が横浜に経験したる成績の良好なるに鑑み、時の「東京会議所」は市の共有金を以て初めて新橋日本橋間に街燈を建設し、明治七年十二月漸く点火するに至れり。此の年十月渋沢栄一氏東京会議所に入り鋭意之が整理に当り自ら会頭として瓦斯事業を経営し、明治九年に至つて瓦斯の行務と原資金とを東京府庁に引渡したり。それより府庁内に瓦斯局を新設して渋沢氏府庁の嘱託により其の事務長となり、西村勝三氏之が副たり。是れ実に本会社の前身なりとす。斯くて渋沢氏等の尽力に依り府経営の瓦斯事業は驚くべき長足の進歩を為し、明治十二年に至りては個人の需要八十八戸に及び、十四年には一躍して二百二十二戸に上れり。然るに此の頃より府会議員中には瓦斯局売却の説盛に起り、明治十八年に至つて断然瓦斯局を公売に附したり。時の府知事芳川顕正氏之を府会の議に付し、二十六万九千円を以て売却する事とし、十八年十月瓦斯局払受人総代渋沢栄一、藤本精一の両人は府庁官吏と会見の上瓦斯局授受の手続を了したり。

 ▲目下の組織
 ▲昨今の営業振り

  
 ・音楽界の大色魔
 ・大阪遊蕩界泰平無事
 ・新狂言(写真版二頁)
   新橋倶楽部花柳徳太郎納浚会演舞(一)
   支那狂言(二十世紀新茶花)及(苦肉計)

     

   上左の写真:左から、「薛瑤卿の傭婦 七盞燈の辛茶花 夏月潤の陳少美」
   上右の写真:左から、「潘少棠の張昭 七盞燈の周瑜  許奎官の黄蓋  夏月珊の諸葛亮 小連生の魯粛」

 ・芸妓水滸伝(九) ▲清香物語の続き
 ・呂之助 あおい 抜駈の奇功
 ・松島屋の濡事 ▲片岡仁左衛門の豪遊
 ・日糖と新橋芸妓の関係を論じて實子のポテレン、金彌のキンサクに及ぶ
 ・間抜な劇評家と作者 … 川上音二郎

  

 ▲憎まれても好い
 ▲識見が無い

 次に西洋の劇評家は
 ▲指導を主にす
るが、我が評家にはそれが無い。即ちわが評家が徒らに穴探しをしてゐる間に、西洋の評家は『彼処は脚本が悪いが役者が演生してるとか、此処は最う一と息だから見物が拍手をしては不可ないとか、言つて一々噛むで含めるやうに指導して呉れる。だから役者も見物も言々句々服膺して大に得る処があるが、我が評家のそれは少しも当にならぬ。次の所謂
 ▲劇作者の欠点
 を挙げて見れば、芸術の為めの芸術でなく金の為めの芸術であることだ。忌憚なく言へば脚本其の物に聊かの興味も無ければ又演劇革新に少しの犠牲心も無く、只々金の為めに間に合せの仕事をする者のみである。

 ▲商売人は真平

  浪花 邦楽界の天才〔中尾都山〕 (下)

 △初めて指南

 これが動機となつて、二十一歳の春、大阪に上り、北区此の花町の友人の宅に寄寓して、初めて指南の竹を把り、三十四歳に至る今日まで、十有四年間、汲々として其の研鑽に怠りなく、赫々として江湖に其の名を成した所以である。

 △レコードを破る

 都山の誇りとする所は、流派を離れて独得の都山流を開創したことである、即ち在来の流派以外に、一新機軸を画し、尺八界のレコードを破つた事である、都山には師がない、強ひて師と云はゞ、自然は都山のそれである、作譜は幾多西洋音譜の書籍に就いて渉猟参考し、是れに多年研究のそれを加へて先づ筝曲とヴァイオリンとの奏演に資すべく「一筝曲千鳥の曲」を編纂した、乃ち楽譜の存せざる当時楽壇にに完全なる譜表を貢献したので、茲に指導開発の道が拓けて、世の好楽家と斯学の研究に熱心なものは、争つて之れを求め、何れも這の楽譜によつて指導され、便益され、忽ちにして十一版を重ぬるに至つた、

 △ハーモニーの嚆矢

 殊に新機軸を出だすことに余念なき都山は去る十一月二十一日の大阪中之島公会堂の秋季尺八大会の檀上に於いて「春の光」と「霜夜」の合奏を演じて、拍手喝采を得た、此の二曲は都山の作曲であつて、殊に前者は「日本にはメロデー斗りでハーモニーがない」と云ふ西洋人の批判に奮激して、初めて三部合奏の端緒を開らき、聴者をして、後へに瞠若たらしめた、紛糾錯雑極りなき奏曲の難を演じたものであつて、邦楽中ハーモニーを遣つた抑々嚆矢である。

 
 △赫々たる名誉

 都山の天才は近頃に至つて知られたものでなく、過ぐる八年前、国木田独歩、小杉未醒、小栗風葉、柳川春葉、川上眉山等に招かれて、麻布龍土軒に奏演し、近く本年三月、岡山後楽園の鶴鳴館にて、閑院宮殿下の御前にて奏演し、御感を蒙つたさうである。

 △門下の麒麟児

 ・芸者賈と女郎買
  宮戸座評判記
 ・流行界 流行の髪飾り

 帝国鉄道発車時間表

 

 広告 〔下は、その一つ「帝国脳病院」〕

 



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