蔵書目録

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「久野ひさ子さんの死」・ 『月光の曲』 南部修太郎 (1925-1927)

2012年02月17日 | ピアニスト 1 久野久子

 久野ひさ子さんの死

 最近の婦人界の出来事で何よりも私の胸に鋭く悲しい響きを伝へたのは、墺太利 オオスタリイ のウヰン滞在中のピアニスト久野ひさ子さんの自殺であつた。私はピアノを聴くことはとりわけ好きであり、また久野さんの名を知ることも可成り以前からのことであつたが、不思議なことにその弾奏を聴いたのは僅か一度で、而もそれは今度の留学に出発前、上野の音楽学校の大ホオルで催された告別演奏会の席でであつた。その時久野さんは、今は何と言ふ曲だつたか忘れてしまつたが、とにかくベエトオブエンの難曲を三つ弾いた。が、私にとつては初めてでまだ最後のものとなつたそのたつた一度の弾奏を聴いただけで、外の音楽家の誰よりも深い印象と強い感銘とを久野さんから受けてゐたのであつた。そして、私は久野さんを日本の産んだピアニストとしては最もすぐれた、最も尊敬すべき人だと言ふ風に考へてゐたのであつた。で、新聞で突然知つたその悲惨な自殺は私をぎくりとさせた。日本人の内で惜しむべき人をまた一人喪 うしな つたなと言ふ気持ちが、私の心をすつかり暗くしてしまつた。そして、私は思はず涙ぐんだ。
 〔一段落省略〕
 途中の上野竹の台あたりには、あの大震火災の罹災者達のバラックがまだ生生しく立ち並んでゐた頃だつたから、それは昨年のニ三月時分だつたと思ふ。私は聴衆の充ち満ちた音楽学校の大ホオルの一隅の椅子に腰かけながら、初めてその弾奏を聴く久野ひさ子さんの現れを待つてゐた。グランド・ピアノの沢沢 つやつや と光る舞台の上には沢山の花輪が飾られ、通路と言はず、壁際とは言はず、その舞台の上にまでぎつしりと詰め寄せた聴衆の波、それは音楽の国独逸、墺太利へ旅立つピアニストの告別演奏会としては、如何にも盛 さかん に華やかなものであつた。
 やがて正面左手のドアが開 あ いた。劇 はげ しい拍手が突然海鳴りのやうにどよめいた。思はずはつとして、私は視線を移した。と、私の網膜に初めて映じたその人の姿は? おお、何と言ふ強く印象深い姿であつたらう? 丈 せい の低い、ずんぐりした体に地味な裾 すそ 模様のある黒地の着物を着、沢山の髪を無造作な束髪に結い上げ、如何にも無愛嬌に見える浅黒い顔、それが嘗 かつ て自動車のために傷つけられた不具の左足をびつこ引きながら、静 しづか に立ち出 い でて来て、再びどよめき渡つた聴衆の拍手にこたへるともなく軽く、幾らか無様とも見える恰好 かつかう に頭をさげると、すぐにピアノ向つて腰を降 おろ した。
 (何と言ふ無恰好な姿の持主だらう?)
 そこに芸術家らしい気品のそなはるものがあつたにしても、私は久野さんの姿にぢつと視線を注ぎながら、思はずさう考えずにはゐられなかつた。
 日本の人と云はず外国の人と云はず、私がこれまでに接した音楽家達の舞台登場の姿と云へば、いづれも美しい感じのもので、時には堂堂たるものがあり、時には瀟洒なものがあり、時には気高いものがあつた。然し、不具のピアニスト、さう云つただけでも久野さんの姿は何と云ふ痛ましいものであつたらう?まして久野さんは美しい容貌の持主でもなく、すらりとした撫肩細腰の持主でもなかつた。そして、さう云ふすべては日本の婦人としても寧ろ見苦しいと言へるほどの姿であつた。私はいつも音楽を聴く前に感じる処の何となく朗かな、澄みきつた心の明るさもなく、妙に重苦しく抑へつけられたるやうな気持で久野さんの姿を見守つてゐた。
 充ち満ちた聴衆達は一時の劇 はげ しいどよめきから、急に水底のやうに鎮 しづまりかへつた。
 息をひそめて待つ間もなく、久野さんの指は白い鍵盤 クレフ の上を動いて、最初の高い一音が響いたかと思ふと、ベエトオヴエンの曲の弾奏が始まつた。と、その力強い熱のある弾奏振りは? おお、それは前の姿の印象とくらべると、何と云ふ立派な、素晴らしいものであつたらう?その不具の痛ましくも見苦しい姿は弾奏に際してはもう何物でもなかつた。その弾奏振 ぶり は全く熱である、力である、劇しい練習の結晶である。その体は盛 さかん に揺り動いた。その顔は生き生きと血潮をたたへた。その指先は躍るやうに活躍した。そして、やがてその頬には汗さへ流れ始めた。私はその情熱的な、ほんとの意味に芸術家的な弾奏に強く心を打たれて、まるで体を引き締められるやうな気持で身動きも忘れて耳を傾けてゐたのであつた。
 ゴドウスキイやミユンツなどの外国のすぐれたピアニスト達の弾奏を聴いてゐる私は、久野さんの手腕がそれ以上にすぐれたものだとは思はない。然し、およそ音楽家達の弾奏を聴いて、私は久野ひさ子さんの弾奏ほどに深い印象と強い感銘を與へられたことはない。さう云ふ久野さんが突然異郷の空で不幸悲惨な自殺を遂げたと言ふことは、私を驚かす以上に深く深く悲しみ悼ましめたのであつた。そして、更に二度も三度もその弾奏を聴くことを楽しんでゐたその人が生きて日本に帰る日がもうないのかと思ふと、強い愛惜 あいせき の心とともにたゞ涙を覚えるばかりである。

 この一文は、『過ぎ行く日』 大正十五年七月二十日発行 作者 南部修太郎 発行所 寶文館 に、「二つの感想 - 一四・六・八 - 」の一つとして収められたもの、原載は、『令女界』 四巻八号 大正十四年 〔一九二五年〕 八月 である。〔引用に際しては一段落省略した。〕
 なお、告別演奏会の年、演奏曲目数など、記憶違いがいくつかある。

 

 月光の曲 

 ・老楽人の死 〔下は、その一部〕

   風薫る若葉の頃であった。
   赤坂氷川町の樹深い高台にあるクライスト教授の家に、嘗てはあれほど妙やかに聞こえてゐた窓漏るピアノの音がぱったり絶えてしまってから、もう二月近かった。

   ヘルマン・クライスト教授が初めて日本の土を踏んだのは、明治二十四五年の頃であった。その頃まだ三十を超えたばかりの若い教授は独逸の或る貴族の子で、既にピアノの優れた弾奏家として知られてゐたが、不幸な破綻を見せた結婚の痛手を忘れようために、また一つにはロマンティックな性格の故に異邦の風物に深い憧憬を抱いて、ただ一人はるばる海を越えわたって来たのであった。   

   藤枝は丈はさほど高い方ではなかったが、面長な顏の感じや、どっちかと云へばやさ型の身体附から、その姿は如何にもすらりとして見えた。そして、形のいい端正な鼻と、黒味勝ちに澄んだ眼と、引きしまった口元の感じそのままに、快活と云ふよりも冷静な、感情的と云ふよりも理智的な性格を持ってゐた。然し、たとへば白いコスモスの花が静けさ寂しさの内にも、どことなく人を惹きつける清楚な優しみを持ってゐるやうにその聡明な、落ち着いた人柄の中にも何となく人の心を惹くやうななつこい感じが籠ってゐた。

   綾子は麹町の番町に住む或る聞えた実業家の娘で、藤枝より一つ年下の十九だったが、同じやうに昨年の春女学校を卒業してゐた。小柄ながら肉附のいい体格、表情に富んだ濃艶な丸顔、魅力の強い大きな眼、やや厚めな鮮紅の唇、綾子はさう云ふ点で藤枝とは殆んど反対の明るく、強く、快活な容姿の持主だった。自然、正確も感情的で、勝気で、我儘で、ともすれば蓮葉 コケット な処も見えたが、一面にはすべての言行の現れ方が子供のやうにむき出しで、飾りがなくて、歓びは踊り上って歓び、悲しみに対してはまた極端に涙もろかった。そして、クライスト教授に師事しはじめたのは五年ほど前からのことであったが、その負けず嫌ひの熱情的な努力は腕前をめきめき上達させて、今は藤枝と共に教授の愛弟子の双璧となってゐた。

 ・墓参
 ・誘ひ

   二十前後の、まして前の年に女学校を卒へてしまった身には、結婚と云ふこと、或は家庭生活と云ふことが可成り差し迫った問題として時時考へられずにはゐなかった。が、藤枝は学校にある時代から、出来ることなら独身で、生涯をピアノのために捧げようと決心してゐた。それは多くのうら若い処女にあり勝ちな、甘い、感傷的な考へから来たのでは決してなかった。藤枝は全く一生を捧げても惜しくないほどにピアノをーピアノを創り出す芸術を愛してゐた。そして、そのためにこそクライスト教授の熱心な指導の前に全身を打ちこみもし、また何かと修業の煩ひになるやうに思はれる結婚や家庭生活を棄ててしまはうとも考へてゐたのであった。で、学校を卒業して間もない或る日、藤枝はその決心を初めて民子に打ち明けた。

  たとへどんなに苦しみに逢うとも、あたしはピアニストとして世の中に立って行こう。そして、この貴い芸術の修業のために一身を捧げよう。) 

 ・静心なく
 ・競争者
 ・心の影
 ・その夜の花
 ・秘めたる心
 ・侵入者
 ・二つの心
 ・哀歌
 ・誤解
 ・弱き心
 ・青葉若菜
 ・危難
 ・夕立
 ・胸病む友
 ・名残の曲

 この小説は、雑誌『令女界』に連載され、のち単行本として発行された。

 - 月光の曲 -

 昭和二年 〔一九二七年〕 七月十五日発行 定価 一円二十銭
 著作者 南部修太郎
 発行所 宝文館

 また、雑誌『令女界』には、その広告が掲載された。

 南部修太郎長編小説集 = 田中良装幀
 月光の曲 (第一編)
 淑女文庫



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