2月29日

日々の思いつき及び読書の感想

読書 信田さよ子著 加害者は変われるか? DVと虐待をみつめながら(ちくま文庫)

2015-03-07 22:45:27 | 読書
本書を読み終わり、何とも言えない気持ちになった。
本書の題名のとおり、家庭内暴力の加害者が登場するだけでなく、被害者の妻や子どもたちにもふれられていて、その状況に言葉を失う。「なぜこんなになってしまったのだろうか。それとも、以前からもそうであったのが、単に隠せなくなり、露呈するようになっただけなのか。」などと考えるが、全く答えは見つからない。

本書から幾つか引用する。

「幼い子どもを親と対等視することがしばしば推奨されるが、同時にそれは子どもの現実を無視して法外な能力を子どもに求めることを意味する。子どもの立場に立てば、それはネグレクト」(49ページから50ページ)

私のコメント
上記であげられている育児論は現在もあるのではないかと思う。その育児論の意図は子どもも親である自分と同等の権利などを持つということではないかと思うが、上記のような落とし穴があることはこれまで考えもしなかった。

「虐待は、多くの研究から必ずしも連鎖するわけではないことが明らかになっている。」(57ページ)

私のコメント
連鎖するわけではないとすれば、救いでもある半面、何らかの理由で虐待が突如として発生するということであろうから、不幸でもある。


「身体的暴力に比べると一見穏やかにみえる無視も、実は暴力である。(略)目の前に妻がいるのに、話を聞かず視線すら向けないことで、夫は妻という人間を否定し、抹殺することができる。無関心は無視よりも自覚がないぶん、もっと残酷である。」(76ページ)

私のコメント
無関心が無視よりも「もっと残酷」であるということは、言われれば確かにそうであるが、今までそれに気が付かなかった。

「DVを目撃させることは虐待である」(86ページ)

私のコメント
子どもに夫婦間の暴力を見せることが子どもに対する虐待であるということである。

「加害者は加害記憶を喪失する」(108ページ)

私のコメント
これは、信田さんのアダルトチルドレンのクライアントが親に謝罪させようと言った時に、信田さんが賛成しなかった理由である。これは、とても衝撃的な言葉であった。このことは、単にDVにとどまらないことに思えてならなかった。それは、過去に犯した日本によるアジアに人々に対する加害の事実があたかも無かったかのような言論が目立つようになってきたからだ。

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