ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

回復も感覚が導く?

2017-12-15 06:17:25 | 病状
 偏ったものの見方・考え方のことを “認知のゆがみ” と言い、これをいつまでも引き摺っていることがアル症者の回復を妨げる最大の障碍と言われています。そもそも、認知とは外界の見方・考え方のことで、その見方・考え方が外向けに現われるのが性格だと考えています。また、“認知のゆがみ” による考え方の典型が、何かにつけ “~ねばならない” となる考え方だと言われています。
 
 アル症者がよく口にする言葉に「自分の性格を変えなくてはならないと思っている」があります。無理をしてでも性格を “変えねばならない” と頑張る人が多いのですが、それではうまくいかないと私は考えています。そういう考え方自体が “認知のゆがみ” そのものから出た発想だと思うからです。

 私は「考え方はそのうち自然に変わるのだから、自然に変わるのを待てばよい」と考えています。なぜそういうふうに考えるようになったのか、今回はその経緯を述べてみます。

 このブログを始めた頃の記事『断酒しぃ~てよかったぁ~(その1)』にこんな記述があります。
「日曜・祝日を除き毎日通院が始まり・・・朝8時15分には家を出ることにしました。定年退職前の通勤が戻ってきたようで、すぐに快い生活リズムが蘇ってきました。」

 これは断酒を始めて間もなくの心境を記述した部分です。このように、規則正しい生活リズムを刻み始めて最初に気づいたことは全般的な体調の回復でした。そしてそれは、食欲やお腹の調子、視力、歩き方などに現われてきました。言い換えれば、身体の復調を最初に教えてくれたのが感覚であり、最初に復調したのも感覚だったのです。

 感覚の回復をハッキリ自覚できたのは、“憑きモノ” が落ちた体験後のことでした。そしてその時を境に “ものの見え方” が変わったようなのです。(“憑きモノ” が落ちたという感覚は、単に脳からアルコールが完全に抜け切った感覚だったのだろうと今では理解していますし、こうなれたのは “言語化” をやっていたお陰と考えています。)

 飲酒時代には、道を歩いていて気にも留めなかった、吸い殻のポイ捨てゴミですが、“憑きモノ” が落ちてからは、それがどうにも目障りになり出しました。当たり前のことですが、さらにこれがキッカケで道が他のポイ捨てゴミでも散らかり放題と気づかされました。今振り返ってみれば近親憎悪みたいなものでしょうか、吸い殻ゴミの捨てられている場所に一定のパターンがあり、捨てた人のクセに依存症と共通した行動パターンを読み取ったのだと思います。

 この感覚の変化で、歩いているときにやること(行動の標的)が変わりました。ゴミで散らかった道の酷さに我慢ならなくなり、思い余って最初は素手で、その後はトングを使っての本格的なゴミ拾いが始まったという次第なのです。たとえ道がキレイになったとしてもほんの当座のことなのですが、それが快感となって病みつきになり、ほぼ3年経った今では道のゴミ拾いが日課(趣味?)にまでなっています。

 このように、クセになりやすい行動パターンは飲酒時代とあまり変わっていないのですが、実際にやっていることを見れば、行動の標的が飲酒時代とはほぼ真逆になっています。

 以上の例は、ものの見方が変わったというよりも、“ものの見え方” が変わったとする方が正確な表現だろうと思います。脳からアルコールが抜け切ったことが視覚を回復させ、周りのことがありのまま自然に見えてきたのでしょう。それが行動の標的をも変えたのだと思います。つまり、感覚の回復が行動の標的も変えたのです。恐らくは、視覚ばかりか臭覚など他の知覚の回復も加勢していたのだと思います。

 同様に、素面(しらふ)となった感覚の導きに素直に従っていれば、行動パターンの方も自然に変わり、ひいては考え方も変わってくれるものと思えてなりません。これが「考え方はそのうち自然に変わるのだから、自然に変わるのを待てばよい」と私が考えるに至った経緯です。ひょっとしたら、このことは私個人に限った事象なのかもしれません。もしご自身に当てはまらないようでしたらご容赦ください。



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