糸井ひろしの気まぐれ日記

日本共産党群馬県西毛地区委員会役員の日々のあれこれ

核兵器は廃絶を

2017-08-10 | 雑想

 小学生の頃、夏休みの8月6日は登校日でした。広島への原爆投下の日で、この日は「平和授業」と言ってたっけかな?戦争に関するお話が毎年恒例で行われていました。

 群馬に来て子どもが生まれ、小学生になって夏休みの予定表を見て、8月6日が登校日でないことに驚きました。てっきり、全国でやっているものと思っていたのです。

 群馬出身のカミさんに聞いてみると、カミさんもそのような記憶はないとのこと。ショックでした。

 なぜ福岡で8月6日が登校日だったのか。私の勝手な憶測ですが、当時小倉が標的にされていたことや福岡でも大規模な空襲があったことなども理由だったのかもしれません。

 ある時の登校日では、福岡大空襲の体験談を、学校放送で行い、生徒はその放送を聞いたことが記憶に残っています。

 日本共産党員の両親の元に生まれた私は、おそらく周囲の人よりも核兵器や戦争について考える機会は多かったと思います。「はだしのゲン」は言うに及ばず、絵本も原爆や戦争をテーマにしたものが家にありました。

 小学生の修学旅行で長崎に行き、原爆資料館にも入った覚えがあるし、それ以前にも、原水爆禁止世界大会が長崎で行われた時には、母に連れられて行った記憶もあります。

 

 

 核兵器や戦争に対して、幼少の頃から「絶対悪」である教育を受けた私にとって、核兵器廃絶への道を行くことは当然のように思いますが、なかなかそうは行かない現実も知っています。

 それだけに、国連が核兵器を「絶対悪」と断罪し、禁止条約を採択したことは、歴史的な前進だと受け止めています。

 「核廃絶」や「戦力を持たない平和」を言うと、「平和ボケ」「お花畑」などと揶揄する声も聞かれますが、ここに至るまでの道が平坦でなかったことは、私は知っているつもりです。いや、私の知る以上の努力がされていたことでしょう。高校生の時、クラスの級友に「核兵器廃絶を求める国際アピール署名」への協力をしてもらったことがあります。この時のみなさんの協力も、ここへ至るまでの力になったはずです。

 

 太平洋戦争後も、日本は幾度となく戦争に巻き込まれる危機を乗り越えて来ました。今日の平和は、それを願う人々の、多くの国民のみなさんの不断の努力によって勝ち取られたものであり、その努力は、安易に戦争への道を行こうとする勢力のそれより、はるかに困難で、苦労を伴うものだったはず。ボケることなく、お花畑を夢見て続けられた運動と努力が、今日に至っているのだと確信しています。

 戦争の本質を知らず、核兵器の脅威を真面目に知ろうとしない安倍政権こそ、「平和ボケ」と言うべきだと思います。

 

 毎年この頃になると改めて平和について考え、それに伴う想いも溢れ出てくるため、文章が長くなる上にまとまりませんが、核兵器禁止条約を日本が批准すること、そして、核兵器廃絶に向けて、私は私にやれることをこれからも続けたいと思います。