⑬今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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「うむ、いまだ急ぐことはなかろうでさ。関白になるは、あと一年ばかり先のことにあらあず。ゆるりと練ってくれい」
秀吉は、日頃金銀をもって懐柔し、彼の従三位権大納言叙任(じょにん)にも、書類のうえでの形式をととのえるのにはたらいてくれた、右大臣の菊亭晴季から、関白近衛前久がまもなく退任するとの内情を知らされていた。
征夷大将軍として、諸大名のうえに君臨する望みの消えた秀吉が、公卿の官職により権力体制を築きあげる、信長とはことなる政治路線を歩みはじめるとき、皇胤(こういん:天皇の血すじ)出自の創作は欠かせない。
大村由己はその日から、秀吉出自の捏造(ねつぞう)をはじめた。
彼は書いては消すことをくりかえしつつ、しだいに記述を進めてゆく。
「その素生をたずぬるに、祖父、祖母は禁囲(きんい:宮中)に侍し、萩中納言と申すや。いまの大政所殿(秀吉の母)三歳のとき、ある人の謹言(きんげん)により遠流(おんる:京都から遠く離れた地に流すこと)に処され、尾州飛保村村雲という所を卜し(ぼくし:うらなって定める)転居し、春秋を送る・・」
秀吉は権大納言に叙任されることがあきらかになると、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の譲位と誠仁親王(さねひとしんのう)の即位の実行を、朝廷に申し出た。
「宇野主水日記(うのもんどにっき)」に、つぎの記載がある。
「また院の御所を東の馬場にたてられ、東宮親王(誠仁)御即位申し沙汰あるべしと云々。築地を(天正十二年)十月五日より、つきはじめらるべき由なり。
御即位に三千貫、御作事方(建築費)に五千貫、院の御人目(経費)に二千貫、都合一万貫請けなり」
秀吉は十月四日に院御所五十間四方の規模の縄打ちをする。
普請は十一月一日に開始された。
秀吉は譲位と即位の費用をすべて負担して、朝廷に勢力を及ぼそうとしていた。
(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)
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