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おねの内助の功があって秀吉は成功した

2024年05月13日 | 歴史
⑥今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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石松丸が生まれたあとで、南殿(みなみどの:秀吉の側室)に嫉妬をもったおねが、安土の信長のもとへご機嫌うかがいに参向(出向くこと)し、夫の行状について訴えたことがある。のちに、その件について信長からつぎのような手紙がおねに届いた。

「そなたはどの女人を二度とめとれぬのに、あの禿(は)げ鼠(ねずみ)め、実にけしからぬだわ。だが、奥方らしく、けっしてやきもちなど焼いてはならぬだわ」
禿げ鼠と信長からよばれていた秀吉は、禿げ上がった額をなでながら、おねに詫びたにちがいない。

おねは信長に気に入られていたので、夫婦のことまで話せたのだが、のちに信長は天正十年(一五八二)、本能寺の変で急死したので、秀吉の好色癖が、いっそうつのるようになる。彼が食うや食わずの地下人(じげにん)の境涯から成りあがって、大名になれたのは、おねの内助の功があってのことである。

信長は譜代衆のねたみをおさえ、秀吉を抜擢し、破格のとりたてをしてくれたが、諸事に厳格で猜疑心のつよい性格であつたので、おねが信長の気に入られ、巧みに立ちまわってくれなければ、秀吉は立身の中途で讒言(ざんげん:中傷・告げ口)され、出世の階段を踏みはずしたであろう。

長浜城主になって、子伺いの家来たちをとりたてるとき、おねは秀吉に代わって面接し、人物の良否を判断する役をはたし、城下の民政にもたずさわっている。

(小説『秀吉私記』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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